フレッドアステア
青土社、2006年、446ページ
ISBN=9784791762989
[論考]
序─低い声 四本の柱が立ち、そこに屋根を架けた小屋は住宅の原型なのだろうか? [〈それ〉溝は作動している]あるいは、一本の柱が太古の平野に立てられた瞬間に構築が誕生したという、『二〇〇一年宇宙の旅』のモノリスを想起させる魅力的な思考。[いたるところで〈それ〉は作動している]これらはロージエの起源論、さらにはサマーソンに...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.130-145
[インタヴュー]
戦後の日本建築界 日埜直彦──今回は一九五〇年代を視野としてお話を伺いたいと思っております。当時の建築の世界においてモダニズムに対する信頼は揺るぎないものだったと思いますが、しかしそれにほころびが見え始めるのもまたこの時期でしょう。結局のところモダニズムに対する距離感が醸成されてその果てにポストモダニズムというコンセプ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.169-176
[インタヴュー]
都市をイヴェントとしてとらえる視点 日埜直彦──前回はおおよそ五〇年代を視野として、当時のモダニズム一辺倒の状況のなかで考えておられたことについておうかがいしました。一方にモダニズムの計画的な手法ではフォローしきれない生々しい現実があり、しかしモダニズムの均質空間の限界を感じつつそれを超える論理が見当たらない状況でもあ...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.187-197
[インタヴュー]
「様式の併立」をめぐって 日埜直彦──これまで伺ってきたお話を振り返ってみると、大きくは桂離宮を巡り端的に現われた日本の近代建築と伝統建築の問題ということになるかと思います。そしてそのことをもうすこし視野を広げて見れば、近代建築が日本において成立し、それ相応の具体化を遂げる過程で建築家がいかに考えてきたかということにな...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.187-197
[映像/写真 3]
スタッテン島行きのフェリーの船上で、暮れかかるマンハッタンのスカイラインを背景に、甘いテナーで男が恋人に歌う。「今夜は星は出てるかな?/曇りか晴れかわからない/瞳に映るのはきみだけだから(……)」。山下達郎もア・カペラで歌ったこの楽曲はハル・ウォーレンとアル・デュービンのコンビの作による「瞳は君ゆえに(I Only H...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.30-32
[フィールドワーク]
3つの中心 三次元的に見た時間・空間 Leonardo da vinci"Schema delle proporzionidel corpo umano"(1485-90) ワークショップ作成の背景 ナンシー・フィンレイ 時間/空間/身体 これは、身体、都市、建築を媒体とする個人の認識と意識的行動に関するワーク...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.162-173
[批評]
...督の『殺人狂時代』(一九四七)[図2]とアルフレッド・ヒッチコック監督の『疑惑の影』(一九四三... ...チャップリン監督『殺人狂時代』19473──アルフレッド・ヒッチコック監督『疑惑の影』1943ホームレス...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.180-194
[論考]
この論考を依頼されてまず考えたのは、どのように書くべきかということだった。モダン・ヴァナキュラーの定義から始めるべきだろうか。それとも藤森照信と、建築論における彼の貢献について考察するべきだろうか。 わたしの美意識に藤森照信が与えた影響について、思いついたことを箇条書きで書き出してみることにした。 マテリアルの美につ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.158-160
[論考]
「夢のなかの散歩」チェスター(五年生) ある日ぼくは近所の、こわくて汚くていやなにおいのする、さびれたところを歩いていました。通りでは人がケンカしたり殺されたり、撃ち合ったりしていました。人が撃たれるたびに叫び声や悲鳴が上がりました。子どもが撃たれたのでお父さんお母さんが泣いていました。この危ない場所を離れようとして...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.106-114
[批評]
「クローゼット」という言葉には、別々の、しかし関連しあう二つの意味がある。ひとつには、クローゼットとはものが収納される空間のことである。「あなたの服はクローゼットのなかにあります」と言ったりするのはこの意味においてである。だが「ジョーは何年もクローゼットのなかにいた」という発言は、彼がズボンとネクタイを合わせようとして...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.120-129
[論考]
...の混在によって同業者たちを苛立たせた。マンフレッド・タフーリは『建築の多様性と対立性』を次の... ...た同様の批判は、『オポジションズ』誌三号でフレッド・ケーターによってもなされている。Fred Koetter, ...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.156-175
[批評]
クロス「何を相手にしてるかわかってるつもりらしいが、きみはな、わかってないぞ」 ギテス「チャイナタウンで地方検事も俺にそう言ったもんですよ」 ──『チャイナタウン』一九七四 ポストモダン都市の状況を理論化するにあたり、数人の男性論客がフィルム・ノワールの探偵のペルソナを採用していることについて、少なくともひとりのフェ...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.195-207
[批評]
最近、映画『チャイナタウン』が都市解釈行為の隠喩として用いられているのだが、これらの再読は主体の位置に関し、現代都市批評を刺激する重要な問題を提起している★一。この議論の先鞭を付けたのはマイク・デイヴィスである。彼は『チャイナタウン』の探偵ジェイク・ギテスを、ロサンジェルスを形作り続けている隠された行為と不可視の権力と...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.208-213
[批評]
ル・コルビュジエはその長い経歴をつらぬいて、イスラムの建築と都市形態とに魅了されつづけていた。生涯にわたるこの関心が最初に力強く宣言されるのは、一九一一年、「オリエント」での旅行ノートとスケッチにおいてである。「オリエント」とは一九世紀から二○世紀初頭にかけてのディスクールにあっては曖昧な場で、中東から北アフリカにかけ...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.200-217
[批評]
「空間」についての議論が最近盛んだ。まず、われわれの時代においての空間の意義が、さまざまなところで宣言されている。「結果を隠蔽するのは時間ではなく空間である」(バーガー)、「空間の作り出す差異」(セイヤー)、「ポストモダンという時代に含意されている新しい空間性」(ジェイムソン)、「現代資本主義において明らかに重要な要素...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.121-137
[批評]
個人の人格がこれほど多くに分裂している時代では、おそらく怒りが最大のインスピレーションである。とつぜんにひとつのものが、ひとつの要素のなかでのすべてとなるのだ アイリーン・グレイ、一九四二年 「E1027」。一軒のモダンな白い家が、フランスのカップ・マルタン[マルタン岬]のロクブルンヌという人里離れた場所で、地中海か...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.218-226
[論考]
一九七六年の論文「ガレージの家庭内化」のなかで、J・B・ジャクソンは、アメリカにおける自動車の収容のヴァナキュラーな伝統の概略を描いた。彼はガレージの歴史を独立した三つの時代に区分する。 一、ロマンティック・ガレージ:屋敷と同じくらいこれ見よがしなもので、初期のモータリストたちが遊び用である高価な乗り物を停めていたとこ...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.184-193
[批評]
風景画についてのテーゼ 1 風景画とは、芸術ジャンルではなく媒体である。 2 風景画とは、人間と自然との、自己と他者との交換のための媒体である。したがってそれは貨幣に似ている。それ自体では意味を持たないが、価値の潜在的無限性を表現しているものである。 3 風景画とは、貨幣と同様、その価値の現実的な基盤を隠蔽する社会的ヒ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.149-169
[批評]
建築の参照能力と美的能力はピクチャレスクにおいて切り開かれた部分があり、これらの持つ不確かさを建築はまだ克服していない。建築はわれわれに喜びを与えるものであろうか、それとも教え導くものであろうか。社会形態と生産にまつわる世界からは自由で平行的な位置にあるものであろうか、それともこの社会の秩序(エコノミー)の物質的なあ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.170-181
[日本]
F.O.B.A 1994年、建築家梅林克を中心に設立。主な作品=《ORGAN I》《AURA》(97年度東京建築士会住宅建築賞受賞)、《ORGAN II》《CATALYST(KINOSAKI BEER FACTORY ‘GUBI-GABU’)》(2000 年度グッドデザイン賞受賞)、《STRATA》。2000年ヴェネツ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.146-147
[批評]
一九世紀のあいだ、そして二〇世紀になってからもしばらく、ヨーロッパの有力者たちは、人類は生物学的衰退に向かって(あるいはすでに入って)いるという懸念を表明していた★一。あらゆる種には退化へと向かう独自の傾向があると──現在の状態から以前の状態へと逆行する可能性が、あるいは絶滅する可能性さえもがあると──彼らは信じたので...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.155-160
[批評]
われわれは激変を予見したか? 読者に対しここで提供される四つの短い断章のうち、三つはアーバン・スタディーズの論文に、ひとつは(そのような分野があるのならばだが)政治記号学の論文に分類されるであろう。それらはあわさって、外部の出来事へと神秘的な糸によりつながれた、ひとつの概念的な全体を形成している。その糸をわたしの指でで...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.161-177
[作品構成]
Pamphlet Architecture #27: Tooling by Benjamin Aranda and Chris Lasch Foreword by Cecil Balmond, Afterword by Sanford Kwinter Princeton Architectural Press, 200...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.173-176
[批評]
本稿は、M・クリスティーヌ・ボイヤーのCybercities最終章にあたる“Electronic Disruptions and Black Holes of the City”の中のテキスト「暴力のテクノロジー“Technology of Violence”」と題された末尾部分と、そのあとに続く本書全体の結論部分とを...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.123-136
[批評]
未来について嘘をつかずにいるのは不可能である.これについては白由に嘘が言えるのだ。ナウム・ガボ★一 ダムが決壊するとき…… 二〇世紀も終わりにあたり、長く予期されていたメディア、コンピュータ、テレコミュニケーションのハイパーメディアヘの一極集中化が、ついに起こりつつある★二。人間の労働の創造力を容赦なく多角化と増大化...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.153-166
[翻訳]
一九七〇年代前半に注目されるようになった重要なコンセプチュアル・アーティストのひとり、ヴィト・アコンチは、一九八八年、建築関連プロジェクトは公的な活動への移行を意味するものだということを──彼自身にとってはすでに明らかだったことなのだが──はっきりと提示した。ヴィト・アコンチではなく、アコンチ・スタジオと名乗ったのであ...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.124-131
[批評]
これが人生さ(アシ・エス・ラ・ビーダ) ロドニー・キング事件のテープがスペイン語放送のテレビで放映された。警察について話し合われることはサウスゲート成人学校ではよくあることで、カリフォルニア州南部の他のヒスパニック移民地区と同様、サウスゲート地区ではありふれたことだった。生徒のひとりは「これが人生さ(アシ・エス・ラ・ビ...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.167-179
[批評]
古い世界秩序の死と新しい世界秩序の誕生との間の過渡期にわれわれは生きているという主張は、今やある種のクリシェとなっている。さまざまに異なる理論的シェーマが、この移行の概要を描きチャート化しようと試みている。ある者たちの説によるとわれわれは、産業社会の規範がパラダイムとなっていた文明の第二の波から、規範・価値・ふるまい、...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.200-212
[台湾]
金光裕 Gene K. King:1956年生まれ。84年ヴァージニア工科大学修士課程修了後、アメリカの建築事務所、デザイン事務所などに所属。87年に短編小説『沙堡傳奇』を執筆し作家デビュー。97年に『Dialogue』誌編集長となり、98年に金石建築師を設立する。 石靜慧 Erin C. Shih:1964年生まれ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.130-131
[翻訳]
『The Architectural Review』(二〇〇六年九月号)のこの記事は、第一〇回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展アルセナーレ会場の主要展示で取り上げられた一六都市に焦点を当てるものである。これらの都市は、その規模がある程度揃い──いずれも人口三五〇万人以上──地理的に全世界におおよそまんべんなく分布す...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.138-159
[論考]
西洋の想像力にとって日本は二つある。ひとつは急速かつ濃密、雨に濡れてネオンのまたたく、ぎゅうぎゅう詰めの人工的カオス。もう一方は静かかつ平穏、謎めいて官能的な、自然のサイクルと密接に関連した日本である。 日本の写真についての論は、たいていこれらのテーマのどちらか、あるいはもっと一般的には、両者の並列に注目している。近代...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.157-159
[フィールドワーク]
ランドスケープの形態がどのように都市空間の変容に影響を与えたかを理解するため、 都市の形状(都市ランドスケープ)とその下層(自然と開墾のランドスケープ)の関連性を調査する。 「ランドスケープの変容」というテーマは、オランダのデルフト工科大学ランドスケープ・アーキテクチャー学科の研究プログラム内部では、重要なテーマである...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.193-204
[column]
二〇〇〇年九月に東京へ来たとき、わたしは二つの場所のうちのどちらかに住みたいと思っていた。黒川紀章の設計した《中銀カプセルタワービル》か、渡辺洋治の設計した《第三スカイビル》にである。 そのころわたしはドイツで建築学の学生をしており、一九六〇年代のメタボリズム運動について論文を書いたことがあって、これら二つの建物は、ア...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.130-134
[Urban Tribal Studies 3]
アーバン・トライバル・スタディーズ(UTS)にとって「調査」や事実や現象の記述とは、どのようなものであるのか? また、それはこれまでの社会学や文化研究における様々なエスノグラフィックな試みをどのように引き受けているのだろうか? このことを考えてみたい。 当然のことだが、UTSが相手にする「都市の部族」は社会のアンダーグ...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.254-262
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 3]
...バレリーナ、プラハの《ジンジャー・アンド・フレッド》は男女の歪んだ人物像、ビルバオの美術館は... ...慮することを強調し、《ジンジャー・アンド・フレッド》では古都プラハの複雑な環境を引き受けなが...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.243-253
[CONCEPTUAL 日本建築 3]
13 一堂一室 Plan was the plot: 'ARCHITECTURE' was brought within proselytism 布教を鍵に文明はもたらされる 面積で世界最大といわれる仁徳陵は、おそらく五世紀はじめにできた。九州政権にすぎなかった天孫族勢力(倭(わ))が瀬戸内海を渡って難波(なに...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.194-207
[建築の解體新書 2]
はじめに ……机は、やはり木材、ありふれた感覚的な物である。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。それは、自分の脚で立つばかりでなく、他のあらゆる商品に対しては頭でも立っていて、ひとりで踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を、その木頭からくりひろげる。 ──カー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.226-242
[音 4]
一九二〇年代バリ島に荒唐無稽のパフォーマンスが忽然と現われた。ジャンゲール(あるいはジャゲル)と呼ばれたこの集団パフォーマンスは、踊りと演劇と音楽が一体化した若者たちの爆発するエネルギーの創造物であった。若い男女がお互いに分かれて列をつくって向かい合い、正方形になるような陣形をととのえて太鼓、笛、銅鑼の音とともに踊るの...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.29-31
[音 2]
0 パリを訪れる人は多いが、毎日曜朝に執り行なわれているノートルダム寺院[図1nのミサはほとんど知られていない。この都市で音と時間、そして空間を考えるなら、ポンピドゥー・センターやブーレーズ肝煎りのシテ・ドゥ・ラ・ミュジックよりも、私はノートルダムの側廊で耳を澄ませることを勧めたい。そこでは今日も、グレゴリオ様式による...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.40-41
[論考]
1 時間としての空間 人文地理学に「時間地理学(time geography)」と呼ばれる一分野がある★一。自然地理学と人文地理学を問わず一般に地理学は、土地空間上の事物や出来事の配置や関係を地図平面上の分布や配置として記述し、そこに現われる構造や関係の原理や法則を考察するのだが、時間地理学が採用する記述法は、「時間」...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.211-222
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 2]
二〇世紀最大のトラウマとして記憶される第二次世界大戦では、アメリカも未曾有の国家総力戦を体験したが、その終結後、戦時中に発展した多くのテクノロジーを解放することになった。例えば、人間や物資の運搬技術、身体の規律法、そして量産住宅の工法。マスメディアの普及は戦争で一時的に中断したものの、この期間はコミュニケーション・テク...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.249-260
[非都市の存在論 9]
あのころ、早くも私たちの街は慢性的な薄暮の灰色のなかにますます沈みがちになり、街を取り巻くあたりは、暗黒の湿疹、綿毛の生えた黴、鉄色の苔で覆われていった。 ブルーノ・シュルツ「魔性の訪れ」★一 1 商品フェティシズムの宇宙 クエイ兄弟の人形アニメーション映画『ストリート・オブ・クロコダイル』(一九八六)では、〈木製の...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.12-24
[非都市の存在論 10]
1 夢のなかのシナ インターネットを通じた情報交換の増大を背景として、文字コードの国際的な統一化が進行している。この標準化は国際電気標準会議(IEC)、国際標準化機構(ISO)、および国際電気通信連合(ITU)の三機関の協力によって進められており、一九九三年には〈国際符号化文字集合(UCS)〉の一部として、標準規格IS...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.9-21
[書物 1]
小説家は都市をどのように知覚しているだろうか。とりあえずいま、現代日本で書かれつつある小説を念頭に置くとき、小説家の知覚が都市を把握する方向を意識しているとはとても思えない。ひとつには彼らが描写することを忌避しているようにも見えるからである。小説は、描写を旨として書かれていない。たしかに強度を備えた若い小説家はいる。 ...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.35-36
[映像のトポス 1]
...なのは、完成後まもないその年の一〇月、アルフレッド・スティーグリッツが彼のギャラリー「291」の... ...応じるもの」だということである。 3──アルフレッド・スティーグリッツ ザ・『フラット─アイアン...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.33-44
[東京ディズニーランドの神話学 4]
天国の住人 小島信夫は、昭和三三(一九五五)年に『アメリカン・スクール』で芥川賞を受賞し、「第三の新人」として脚光を浴びた作家のひとりである。『アメリカン・スクール』のみならず、『抱擁家族』といった代表作にあっても、物語の展開に「アメリカ」が重要な役割を果たしている★一。 彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクール...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.201-210
[映像のトポス 3]
〈都市の言説〉としてのコニーアイランド(承前) こうして、『あれ』と『スピーディ』におけるコニーアイランド(ルナ・パーク)は、「俗」のマンハッタンに対する「遊」の世界というきわめて常識的な構図のなかに登場する。しかし、かつてボードリヤールがディズニーランドとアメリカの関係について語った洒落た警句を借りるなら★一、コニー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.27-39
[映像のトポス 2]
つまり、新たに始めること、わずかばかりのもので遣り繰りすること、そのわずかばかりのものから拵えあげること、そしてその際に、右や左をきょろきょろ見ないこと。 (ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」)★一 遊歩者からサンドイッチマンへ 一九世紀後半以降、都市が高速高密度の交通空間として編成されてゆくにつれて遊歩は不可能と...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.22-29
[非都市の存在論 11]
1 二つの扉 一九八八年七月二三日の深夜、オーストリアのザンクト・ペルテンで屋外展示されていたジョン・ホワイトマンの仮設建築作品「二分割可能(Divisible by 2)」が何者かによって爆破された★一。この作品は首都の誕生」展開催に合わせてシカゴから移設されたものであった。ザンクト・ペルテンは一九八六年にウィーンに...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.15-26
[Urban Tribal Studies 1]
文化研究やメディア研究、都市研究の現状に満足できない者として、ここに別の視点からの提案をしてみたいと思う。いま、なぜ文化研究の状況に不満を感じるかについてはここではくわしく言わない。それは、この連載のなかで明らかにされるにちがいない。少なくとも、ディック・ヘブディッジがノッティング・ヒル地区の黒人暴動とレゲエ(およびダ...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.225-234
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 1]
一九四五年、二〇世紀前半のテクノロジーを最大限につぎ込み、全人類の抹殺可能性さえも示すことになる第二次世界大戦が終結した。 同年、歴史上初めて光線兵器(原爆)が使用されたことにより、人類は「個としての死」から「種としての死」(A・ケストラー)を予感するようになった。 当時まだ一〇代の少年だったポール・ヴィリリオは、この...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.213-224
[書物 2]
その本を手に取ると、今もその奔放な情念の輪郭がくっきりと蘇ってくるほどに、「書を捨てよ、町へ出よう」、というフレーズはひどく魅惑的だった。家を下着のように脱ぎ捨て、ホームドラマを唾棄すべき対象として切り捨て、ただただひたすら、速さに憧れる。寺山修司のこの本を、たしか高校生のときに初めて読んだのだが、そのとき、「書」は現...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.50-52
[都市表象分析 5]
1 ゲルハルト・リヒター《アトラス》 ゲルハルト・リヒターの《アトラス》は、現在五千枚を越す写真や図版を収めた六〇〇を越えるパネルからなる作品である。その制作は一九六〇年代初頭から延々と続けられており、規模を拡大するとともに、展示形態も変容している。旧東独に生まれたリヒターは、一九六一年、西独のデュッセルドルフに移住し...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.2-9
[Urban Tribal Studies 11]
きわめて排他的に「われら」に固執する集団や個人でさえも、いくぶんかの「やつら」を内に同居させている。こうして「われら」はしかるべくみずからを欺くことになる。イデオロギーは「われら」の内なる「やつら」である。 ポール・ウィルス ひとつの語を引用するとは、その語を真の名前で呼ぶことなのである。 ヴァルター・ベンヤミン ...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.214-224
[東アジア建築世界の二〇〇年]
二─一 「洋」を馴らす 上海スタイル 約一五〇年前にできた上海租界のバンド沿いの建物は、現在までに三代替わってしまい、いまは凍結保存の対象であるからもはやこれ以...殿がイギリスから来た建築家チャールズ・アルフレッド・シャストル・ド・ボアンビル(一八五〇─九...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.201-213
[論考]
...とともに、ニューヨーク近代美術館館長のアルフレッド・バーらアメリカの文化シーンのキーパーソン... ...ゴへ巡回させた。さらに一九三二年、彼はアルフレッド・バー、ヘンリー・ラッセル・ヒチコックとと...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.205-216
[論考]
熱帯型の建築 今の世の中から植民地主義の時代を顧みるとき、またその枠組みのなかでの建築家の活動をみるとき、植民地主義は、まさに、建築家が本国とは異なった環境と出逢う契機を与えたと言える。 ヨーロッパを出て、植民地の開発のために建築家が出向く先は、アフリカ、アジアの熱帯地域がそのほとんどを占めた。地中海の向こうに広がる、...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.195-204
[都市環境の文化政治学 5]
1「母なる大地」 豊かな土と光と水、それがあれば見事なまでの実をたわわに実らせる植物。その生命力は、光合成のような直接的には把握しにくいメカニズムを知らなければ、まるで何もないところから「存在」が生成してくるとでもいうかのような驚きをわれわれに与えてくれる。季節ごとの循環のなかで、何度も不思議な存在生成を現前させる力強...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.22-23
[連載 3]
8 機械の独裁──テーラー主義 第一次大戦後のフランスは、フランス的な特質を保ちながらもドイツに(そしてすでに世界一の強国であることを誇示したアメリカに)遅れを取らない産業─社会の近代化を成し遂げなければならなかったわけだが、この課題を果たすには、まず効率的な大量生産を可能とする技術革新の導入の必要があった★一。前回に...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.291-305
[CONCEPTUAL 日本建築 5]
25 京間 ZASHIKI in Kyoto way measuring 関西普請は日本を席巻した 昔は、畳や襖をもって引越したものだ、そういう話を聞くことがある。 どうしてそんなことができるのか、真剣に考えこんだ建築家や工人は多いのではないか。内法高さは前章でみたように、全国的な統一があろう。だから襖や障子は可能か...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.306-319
[グローバリズム 5]
1 中国(珠江デルタ):スーパーバブル=一九七八以降 PART 2 前回に引き続いてハーヴァードの「珠江デルタ」のリサーチ・レポート。彼らのパラフレーズ...セル、ノルベルト・ラーデンマッヒャー、アルフレッド・フルドリカ、クリスチャン・ボルタンスキー...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.190-206
[都市表象分析 27]
カメルーンの熱帯雨林に棲息し、トメンテラ属菌類に寄生されて額から釘のような突起物を生やした「異臭蟻」メガロポネラ・フォエテンス、あるいは、イグアスの滝近くの保養地で神経生理学者ジェフリー・ソナベントが着想したという記憶理論のモデル、あるいは、分厚い鉛の仕切り壁という罠に捕らえられた特殊な鼻翼をもつコウモリ、「小さな悪魔...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.2-12
[現代建築思潮]
フォールディング・アーキテクチャー──その実践の系譜 ソフィア・ヴィゾヴィティ 日埜直彦|訳 Sophia Vizoviti, “Folding Architecture, Concise Genealogy of the Practice” 二〇世紀末におけるまったく新しい建築を求める議論からフォールディングは登場...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.47-62
[視覚の身体文化学 3]
「エコロジカル」な視知覚論を組み上げていったジェームズ・J・ギブソン[図1]は、アメリカ合衆国の軍事研究に深く関与していた。この歴史的事実をあらためて思い出すことから、今回は始めてみたい。ギブソンの履歴に関して主に参照するのは、第二次世界大戦時にギブソンが主任(軍の階級では「大尉 Captain」、後に「少佐 Majo...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.21-23
[都市表象分析 17]
1 ポリス成立のディアレクティカ 西洋における「政治」の成立は古代ギリシアにおける都市国家(ポリス)の創建と深く関わっている。文字通り『政治の成立』と題された木庭顕の著作は、紀元前八世紀後半のギリシアで生じ、ポリスと政治を生むこととなった社会変動の論理を緻密に再構成している★一。それによれば、「政治」なるものの概念(厳...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.2-11
[東アジア建築世界の二〇〇年]
一─一 モデル都市シンガポール ラッフルズのユートピア トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(一七八一─一八二六)がシンガポールに足を踏み入れ、海岸沿いの地にユニオン・ジャックの旗を立てたのは一八一九年一月二九日のことだった。東アジア、そして、東南アジアの都市・建築が「近代」へと向かう契機となった小さな小さな都市シンガ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.181-194
[都市音楽ノート 6]
1 マーヴィン・ゲイの畢生の名作とされるアルバム『What’s Going On』は、このアルバムのなかでは音の重なりが少なく、透明で美しいシンプルさをもった曲「Inner City Blues(Make Me Wanna Hollor)」で幕を閉じる。計算し尽くされたユニゾンやハーモニー、かけあいの巧みな配置によって...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.39-40
[都市音楽ノート 1]
昨年、ややハードな合州国の黒人音楽雑誌(『Vibe』一九九八年五月号)に掲載されたトニ・モリスンへのインタビューの一部である。 今、あたかも公共空間は私的であるかのように扱われています。ホームレスではなくストリートレス、こう私はそのような状況を呼んでいます。 ストリートレス──それはモリスンが「今、世界で生じている...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.39-41
[都市表象分析 1]
1 墓地という劇場 インターネット上に建立された墓、「サイバーストーン」と呼ばれるプロジェクトがある。発案者である松島如戒によれば、その発想の原点には、ヒトを除くすべての生命体は、生を終えたのち、生態系に還元されてゆくのに、ヒトだけが死後、墓というスペースを占有しつづけることが許されるのだろうかという疑問があった。発...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.2-11
[都市表象分析 24]
1 都市の通過儀礼──パサージュから無用門へ 境界は異人たちの棲み処だった。橋や坂には遊女や乞食、呪術遣い、卜占師、芸能者といった異類の人々が群れ棲んでいた。橋は「端」、坂は「境」を含意する。そこはひだる神や産女(うぶめ)といった神霊や妖怪が出現する他界との接点であり、この場を守護するために、坂神や橋姫といった神々がそ...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.2-12
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 6]
野蛮ギャルドの住宅 それは大地に「映える」のではなく、大地から「生える」建築だった。数年前、建築史家の藤森照信氏が設計した《神長官守矢史料館》を見に行ったとき、小雨が降りしきる視界のすぐれない天候だったせいか、なんとも幻想的な第一印象を抱いた[図1]。おそらく山村を背景にして建物の正面に並ぶ、原木さながらの四本の柱が想...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.205-216
[Urban Tribal Studies 5]
具体的な事例の記述と分析からはじめたい。はじめて海外でトランスのレイヴ・パーティに参加したある女性(日本人、研究者)は次のように語った。 「みんなが同じ音楽で、しかも大体みんなDJやビデオスクリーンやディスプレイの方を見ながら一心不乱に踊りつづけているのは何だか気味が悪い。ドラッグを摂取している人も多いみたいだけれど、...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.208-218
[ラディカリズム以降の建築 1960s-1990s 7]
情報端末としての建築 電飾、看板、ファーストフード、カラオケ、ゲームセンター、カフェ、居酒屋、ドラッグストア、電化製品の量販店、百貨店、金融ビル、JR線の高架、スクランブル交差点。数々の情報と人々が行き交い、数々のストリートにつながる渋谷のターミナル。そして「二〇〇〇年へのカウントダウンを目指して、渋谷にQFRONTが...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.221-231
[Urban Tribal Studies 7]
どんな都市や街路にも特定のリズムがある。同じように巨大都市であり、せわしなさにおいても似ている東京とロンドンだが、それでも街のもっているリズムは異なっている。 このリズムの違いは、それぞれの都市の空間性の違いであると同時に、その都市がもっている時間性、あるいは時間に対する社会的、集団的な身ぶりや態度の違いを指している。...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.232-241
[都市表象分析 22]
1 無意識都市のダイビング ジョージ・キューブラーは著書『時のかたち』で、通常では単体と見なされる事物の各構成要素がそれぞれ異なる年代に属している場合がありうることに注意をうながしている。長い年月にわたって建造された建築物などがそれにあたる。キューブラーは、あらゆる事物は異なる「系統年代(systematic age)...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.2-12
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 8]
白と灰の融合 一九八九年は東西の冷戦構造が崩壊し、日本では昭和が終わり、時代の変革を象徴づけた年になった。二〇世紀のシステムが終わった年とみることもできよう。この年、アメリカのディズニーワールドでは、マイケル・グレイヴスの設計した《スワン・ホテル》がオープンした★一[図1]。続いて翌年には同じ設計者による《ドルフィン・...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.200-212
[脱芸術脱資本主義をめぐるノート 3]
今回は、今までの懸案であった〈脱芸術/脱資本主義〉という概念そのものを(私が今了解している限りにおいて)説明しよう★一。 前回のソロスの分析にもあったように、世界の金融資本は一九八〇年代から九〇年代にかけて急速に膨張し、グローバル化した。近代の古典的な資本主義は(例えばマルクスが分析したように)産業と金融の間を資本が絶...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.36-38
[都市の傷痕とRe=Publik 7]
今から七〇年前(一九三〇年)、エルンスト・カッシーラーは「形式と技術」という論文のなかでこう書いている。 技術は「責務を果たさんとする思い」の支配下にあり、労働における連帯の理想、とりわけ全体は一人のために、一人は全体のために活動するという理想の支配下にある。真に自由な意志共同体がまだ成立していなくても、技術はその仕...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.35-36
[論考]
1 ミース・ファン・デル・ローエの作品を美術のミニマリズムと関連づけて論じることはしばしば行なわれてきた。ロザリンド・クラウスによると、古典的なミニマリズム理解とは無時間的で不変の幾何学、つまり「プラトニック・ソリッド」をそこに見ようとするものである★一。それに対してクラウスは、自分を含む、むしろ時間とともに変化する要...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.191-200
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 5]
見つめていたい 盗撮・盗聴がメディアをにぎわせている。それは小型の映像・録音機器の普及に起因しているのだろうが、最近、公開された映画はこうした状況を如実に反映している。『トゥルーマン・ショー』(一九九八)は、ある男の日常生活を本人に気づかれないよう全世界に生放映する人気テレビ番組を描いていた[図1]。巨大なドームに包ま...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.196-207
[東京ディズニーランドの神話学 3]
賑わいについて 夏休みやゴールデン・ウィークなどのホリデーシーズンに、休日を過ごす人々の様子が報道される際、ほとんどのニュースは「どこの行楽地も家族連れやカップルで賑わっていました」といった調子で、その賑わいを報道する。事実、どこの行楽地でも家族連れとカップルでいっぱいである。東京ディズニーランドはそんな「行楽地」の代...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.221-230
[知の空間=空間の知 3]
ゲームの上演 大英博物館の円形閲覧室が完成した年の翌年に当たる一八五八年のとある晩、まだ二〇歳を出たばかりの一人のアメリカ人が、パリのオペラ・ハウスの桟敷席でチェス盤の前に座り、「パリの名士連(トウー・パリ)」とも言うべき盛装した紳士淑女たちの好奇のまなざしを浴びていた。前年に開催された第一回アメリカ合衆国チェス・トー...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.2-15
[都市論の系譜学 2]
「アーバニズム」(都市論=都市計画)とは都市が抑圧し、排除し、外部化してしまった何ものかの投射、射影ではないだろうか? 一般に「アーバニズム」は、われわれが都市について考え、あるいは語るさいにその形式として機能する。この言葉が明確な定義なしでも機能しうるのは、それじたいが「都市」の概念を生産し、使用させるフレームでもあ...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.274-285
[都市論の系譜学 3]
1 ここに都市と建築についてのいくつかのテーゼの断片がある。 「SIの最小限綱領は、完全な生の舞台装置(デコール)を実験すること──(…中略…)」。 「統一的都市計画とは、すべての領域で、最も進化した概念にしたがって、意識的に、人間の環境を創造しなおす、複合的で、永続的な活動として定義される」。 「居住、流通、およびリ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.263-274
[論考]
ここに掲載した画像はすべて、一秒あたり三〇フレームの動画を撮影し、フレームごとに一ピクセル幅のみの画像を抽出しつなぎあわせたものである。つまり、カメラを移動させながら撮影したものは移動に沿った「風景」を、カメラを固定したものはある地点の「時間」経過を、一秒あたり三〇ピクセルの速度でスキャンしたものとなる。 「風景スキャ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.143-145
[作品構成]
「建築におけるセクション(断面図)の役割は死んだ」──米国、ペンシルヴァニア大学で教鞭をとる構造家セシル・バルモンドの言葉である。同大学建築学部は、二〇〇二年にミース研究で著名であるデトレフ・マーティンを学長に迎えて以来、その教育方針が大幅に変わることとなった。それまで同大の歴史を形づくってきたルイス・カーン時代の教授...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.177-180
[翻訳]
...・フーコーの『言葉と物』に触発されて、マンフレッド・タフーリは一九七六年のすぐれて有名な論文... ...物理学の探究は、《3Dシティ》によって、アルフレッド・ジャリが「パタフィジック」と呼んだもの、す...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.136-148
[翻訳]
他の諸問題と融合し、より悪化の方向を辿るような連鎖した問題群は、われわれの気力をくじくものであるが、訳のわからないものではない。過ちをおかしたとか、不運であったことの一目瞭然の帰結なのである。北アメリカの都市におけるホームレス問題や手頃価格(アフォーダブル)住宅の不足、そしてそこから波及していくさまざまな問題は、明らか...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.155-166
[非都市の存在論 1]
...なフレーム・ワークとして機能したかは、マンフレッド・タフーリをはじめとする、都市・建築理論に... ...うな ── に似た姿勢にする。バラードはアルフレッド・ジャリの『斜面の自転車競争としてのキリスト...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.16-27
[ビルディング・タイプの解剖学 1]
何も様式や意匠だけが建築史のすべてではない。ビルディング・タイプに絡めて、建物という箱を外側からではなく、内側から論じること。つまり、あるビルディング・タイプに付随する特定の家具、装置、あるいはマニュアル(作法)に注目し、それらがいかに人間の身体を規律化しているのか。そして建築的な操作は他の諸学問といかなる横断的な連結...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.33-35
[非都市の存在論 2]
1 写真都市 ── 起こりえない事件の現場 ユジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、〈都市〉は写真というメディアの特権的な主題であり続けている。いや、むしろこういうべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、〈写真〉へと変容すること...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.16-27
[境界線上のアメリカ 2]
...「『いやよ!』私は叫んだ。『アルフレッド・スティーグリッツに会うなんて絶対にいや! そんなこ... ...んからねっ!」 ナンシー・ニューホール「アルフレッド・スティーグリッツ、伝記のためのノート」(...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.176-183
[知の空間=空間の知 2]
バシュラールの樹木 一九世紀西欧の巨大円形閲覧室の中心点に登場した、二律背反的な「知の主体」としての「人間」。彼の運命は、全能と無力、無限と虚無という両極の間で引き裂かれてあるほかないというその存在様態のゆえに、必然的にある悲劇的な相貌を帯びざるをえない。むろんそれは、ロマン主義的とも形容されえよう勇壮なパトスの昂揚と...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.2-15
[知の空間=空間の知 5]
テスト夫人の手紙 「この種の男の生存は現実界においてはせいぜい四、五〇分を越えることは不可能だろう」とヴァレリーの言うあの「神のない神秘家」テスト氏に、ここでもう一度登場してもらうことにしよう。われわれはすでに、この虚構の人物が耐えている極限的な孤独を、二重の様態の下に描写している。復習してみるなら、一方に、劇場の桟敷...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.2-13
[情報空間の地理学 1]
サイバースペースと都市。この二つの領域は、ここにきてますます交錯しつつある。しかし、このことは、コンピュータ・ネットワークの中に都市的な環境ができつつあるということを意味しているわけではない。むしろ事態は逆で、サイバースペースと都市の関係が論じられれば論じられるほど、サイバースペースの内部に都市的なものが現状のところ存...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.36-38
[境界線上のアメリカ 1]
i 五月のコネティカット・リヴァー渓谷──。 マサチューセッツから北上してきたインターステーツ91号線を途中で降りて、河を渡り、谷に沿った道をさらに北上してゆくと、ゆくては緑したたる栂の林につづいていた。路傍にはとりどりの花をつけた灌木やノブドウの茂みが見え隠れし、頭上の葉枝のあいまからは金色の光が降り注ぐ。行き交う車...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.154-159
[座談]
エリック・エリングソン+アアロン・レヴィ──触媒とはシステムのなかの変化の比率を促進するものです。つまり、あるシステムを強めることです。ノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンは触媒を「自分自身には影響を受けることなく変化比率を修正する」エージェントと説明しました。相互触媒的とは、触媒作用のプロセスにおいてあらゆる個...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.109-117
[論考]
建築的複合体は改変可能になる。その外容は住民の意思に沿って時には部分的に、時には全体的に変貌するだろう。 その住民たちの基本的な活動は連続的な漂流となる。刻一刻と変化していく風景は、完全な異化作用をもたらすだろう。 その後に、回避不可能である身振りの飽和によって、この漂流は生態的な次元から表象の領域へとシフトしていくだ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.129-135
[論考]
シカゴの都市社会学派を代表するロバート・パークは、大都市(メトロポリス)をとある機械(マシーン)に見立てていた節があります。彼はこう述べていました──メトロポリスとは、一見したところ「方向変換と選別の巨大な機構」のようであると。つまり、膨大な数の人びとを惹き寄せて外延・拡大することで成長をつづけてきた都市は、同時に人々...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.124-125
[論考]
モダニズム言語は建築の外からやってきたと言われる デヴィッド・ワトキンはモダニズム建築のコンセプトは建築に外在的な言葉によって語られていると主張した。彼は『モラリティと建築』(一九七七)★一において近代建築が、(1)宗教・社会学・政治的解釈、(2)時代精神、(3)合理性、技術性によって正当化されており、建築に固有の造形...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.148-149
[論考]
都市計画はひとつの工学的な技術体系として(…中略…)物的・実体的な諸施設の配置・構成を手だてとし、個別的・社会的なもろもろの空間や構築物を媒介として、都市社会をコントロールしようとする総合的な制御科学の体系であるといってよいだろう。 浅田孝『環境開発論』 1 爆発するメトロポリス 一九六〇年代に書かれた都市の問題に...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.96-103
[論考]
一〇〇都市めの中間報告 『10+1』No.31「特集=コンパクトシティ・スタディ」のリサーチで、タイの一〇万人都市ナコン・パトム(Nakhon Pathom=最初の街)を訪れてから五年が経った。その間、日本の三八都市、海外の六二都市を見て回り、それぞれの都市における課題と、そこで要請されている建築の役割を調べてきた。費...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.122-123
[論考]
建築にいながら何をやっているんだと或は人から思はれる位、一寸見ると建築とは縁がなさそうに見えるかもしれないような基礎理論を各方面から切り開いて行かなければならない段階に来ているのです。そのような専門的な研究分野を計画技術と呼んでいる。一寸その場で計算尺を使って計算をするようなことはデザインの領域で結構できることだと思う...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.80-95
[論考]
「レム・コールハースは、この先どこへ向かうのか?」この質問の答えを探すのは容易でない。予測不能な彼の内面と、気まぐれな世界経済の動向を計るのは至難の業だからだ。ほとんど不可能といってもよいであろう。しかし、今日彼がどこにいるのか? そして何と格闘しているのか(あるいは何と戯れているのか)?を考察することは、この先の彼...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.90-93
[論考]
世界中にデコン建築の亜流が建ち始めた。日本も例外ではない。近所の工事現場で龍が天にも昇るような完成予想パースを見た。銀座の一画で津波のようなビルに出くわし、原宿に氷山が崩壊したようなガラスのビルを見た。こうしたモンスターのような建物を見ながら、一体これらの意味するものは何か考えみた。 モダニズムは視覚の時代だった モ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.106-107
[論考]
0 メガロポリスとオーガニゼーション・マン 一九四二年、鉄道でアメリカ北東部を旅していたフランスの地理学者ジャン・ゴットマンは、ヨーロッパには見られないような数多くの大都市がそこに列をなして展開されていることに気がついた。彼はその後五一年にアメリカへ活動拠点を移し、北東部の湾岸沿いに広がるその巨大な帯状の都市化地帯の本...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.161-172
[翻訳]
風水:もとの場所に居つづける限り地主の繁栄はつづくという古い中国信仰。 シンガポールのグリーンプラン:われわれはブルドーザを適正な場所に導きたい。 リー・クァンユー:シンガポールは多様で変化に富むものすごく大きな世界のなかのちっぽけな場所だから、機敏でなかったり、調整がすみやかにできなければ、消えるしかないだろうし、人...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.173-197
[インタヴュー]
セシル・バルモンドとのコラボレーション 柄沢祐輔──伊東さんはロンドンの《サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン》などのセシル・バルモンドさんとのコラボレーションを経て以来、構成に独特のルールを与える方法を展開しているようにお見受けするのですが、セシルさんとのコラボレーション以後、創作の方法にどのような変化があったの...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.82-93
[論考]
このところ、地上を垂直に見下ろせる場所がずいぶん減ったと感じる。百貨店の屋上など、一般市民に開かれた建物では、何重ものフェンスに阻まれて、建物の縁にまで到達できないことが多い。身投げ防止のためだろうか。肉眼で街を見下ろす機会が減少する一方で、視線の垂直性をモニタで堪能させてくれるソフトが出現している。Google Ma...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.118-120
[論考]
待て スーパーラット 僕達は敵ではないChim↑Pomだ! 全てが言い訳がましく響く夜の日本のセンターで 僕達は作品を作るべく 夢とねずみを追いかけた (Chim↑Pom『スーパー☆ラット』展の宣言文より) 踊るリアルなピカチュウ Chim↑Pom(チンポム)★一制作によるそれを目にしたのは、今年三月にアサヒ・アー...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.93-101
[インタヴュー]
コンピュータの黎明期における情報都市の提案 柄沢──磯崎さんは六〇年代のコンピュータの黎明期、まだそれらが十分実用的とは言えない時期にさまざまな建築や都市の提案をされていました。そこでまずお伺いしたいのですが、なぜコンピュータに興味をもたれたのでしょうか。 磯崎新──まず六〇年代に僕が一番関心をもっていたのは、生物学か...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.72-81
[対談]
ドバイ的情況 今村創平──まず、話題性のあるドバイから話を始めるのはどうでしょうか。ドバイは、中近東のガルフ(湾岸地域)と呼ばれるエリアのなかにある、UAE(アラブ首長国連邦)でも小さな国です。中近東は、石油産出国として経済的、政策的に日本ともとても関係が深いのですが、これまで一般的にはあまり馴染みがありませんでした。...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.217-227
[リード]
「アルゴリズム的思考と建築」という特集を組むにあたって、まず建築におけるアルゴリズムとは何かを正確に定義しなくてはいけないだろう。アルゴリズムとは言葉の正確な定義において算法、算術のことである。それでは、建築におけるアルゴリズムとは一体何を意味するのか。ここで誤解を恐れずに言うならば、それはかつてルイス・カーンが語った...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.70-71
[住居の視点、住居の死角 1]
水槽に藻やカタツムリ、微生物を閉じ込めた「ミニ地球」を無重量空間にもっていったらどうなるか──こんな実験が日本とアメリカ、ロシアの協力で始まる。今年の七月にスペースシャトルでロシアの宇宙科学ステーション「ミール」に運び、一二月に回収、日本の研究者らが分析するという。ミニ地球は円筒形で手のひらにのる。水温は二三度に保たれ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.40-42
[情報空間の地理学 2]
サイバースペースが不可避に都市の内部に二極化を、すなわち情報にアクセスできる人とアクセスできない人の二つの階層を生み出しているという事実は、特に東京という都市の中では自覚されることが少ない。「ロサンゼルスならともかく、みんながそこそこ豊かな東京では、コンピュータもモデムも買えず通信費も払えないほど貧しい人がいるとは思え...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.38-40
[建築とイマージュ 7]
1 例えば、フランス語のscène(舞台、場面……)という語について情報を得るべく辞書を開いてみるならば、そこに挙げられている様々な用例は、ごく普通に流通している言葉が多種多様の意味を備えていることを改めて確認させるであろう。リトレの辞書はまず第一に、劇場内で、俳優が演技をする場所(日本語の〈舞台〉にあたる)という意味...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.30-32
[ビルディング・タイプの解剖学 7]
私は建物はバラックでも良いから幾何ら金が掛っても良い完全な製作の出来る一通りの機械を買入れる事に努力しました トヨタ自工の祖とも言うべき豊田喜一郎の言葉である。住宅と共に近代建築の黎明期では華々しく取り上げられた工場だが、技術の進歩に伴い、建築家が建築的な手法でその本質にまで食い込むことが難しい時代となった。既にトヨ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.33-36
[論考]
トロブリアンド・クリケット トロブリアンド諸島 1914 ニューギニア北東部の太平洋上に点在する小さな群島に居住するパプア=メラネシア人のあいだで「クラ」と呼ばれている特異な交易の形態に着目し、二〇世紀人類学の曙光を告げる記念碑的著作『西太平洋の遠洋航海者』(一九二二)を書いたブロニスラフ・マリノフスキーが、彼の他の民...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.192-198
[建築の言説、都市の言説 7]
私は常に建築に関心を抱いていた。 D・ジャッド『Art and Architecture』一九八七 建築はそこで人間が様々な活動を展開するフィールドである。人間の身体性から開口の位置や大きさ、壁の高さ、廊下の幅などが決定するという意味で、私達は落ちぶれたとは言え「建築空間の主人(ホスト)」だった。しかしこの安定したポ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.28-30
[非都市の存在論 7]
...象となる。それが無意識にほかならない、マンフレッド・タフーリが次のようにいう主体の〈炸裂〉の... ...m Main 1994, S.202. ★七──Ibid., S.203. ★八──マンフレッド・タフーリ「悪しき建築家──G・B・ピラネー...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.16-27
[情報空間の地理学 6]
サイバースペースの考察は「空間」の概念の再定義を要求する。一度でも実際にインターネットに触れた人ならすぐに気がつくことだが、コンピュータの画面に現われる世界は紙芝居にも似た平面的な世界で、「空間」の本来持つべき特性、深み、距離感、物質感をことごとく欠いている。にもかかわらず、それはサイバースペース(=サイバーな空間)と...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.41-42
[知の空間=空間の知 7]
ファロスとしての「知」 これは必ずしもわれわれがここで論じている一九世紀西欧という特定の歴史的文化圏に限ったことではなかろうが、「知」の主体としての「人間」と言うとき、その「人間」という言葉がインド=ヨーロッパ系の言語ではしばしば自動的に「男」を意味するという事実それ自体によっても示唆されるように、少なくとも共同体の成...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.2-15
[論考]
目次 はじめに 1-1 共同の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」:オザンファンの証言 1-2 「ル・コルビュジエ・ソニエ」を独占しようとしたジャンヌレ:オザンファンへの献辞の登場 1-3 ソニエの削除とその後も続いた共同署名「オザンファンとジャンヌレ」 2 『建築をめざして』書の諸版本 2-1...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.199-220
[現代建築思潮]
報告 今井公太郎 今井──前回、バシュラールの「形式的想像力」と「物質的想像力」について話をしました。建物でいうと「形式的想像力」というのはフォルムやプランといった幾何学的なことに対応し、「物質的想像力」は素材や物質そのものに対応する、という区分をしました。近代建築以降のさまざまな建築理論は、どちらかというと形式的想像...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.37-44
[ビルディング・タイプの解剖学 8]
本連載は再び学校の問題を論じ、近代施設の円環を閉じることにする。初回にとりあげたジョセフ・ランカスターによるモニトリアル・システムとは、教師(マスター)が助教生(モニター)を使って段階的な監督法を実施し、全生徒の行動を透明に把握しようとする試みだった。では、そこは具体的にどのような空間なのか。教室はなるべく大きな未分割...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.36-38
[情報空間の地理学 8]
つい先日、「明治初期の知識人の言説における人種の問題」に関する論文を書き英国の大学で博士号を取得した友人が、ニュージーランドの大学に就職することが決まった。彼女はインターネットを通じて公募を知り、メールで願書と既発表の論文を送付し、電話でインタビューを受け(大学側の電話は複数の人間が同時に参加できるような仕組みだったら...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.39-41
[非都市の存在論 8]
... Cambridge, Mass. 1994, p.146. ★八──次を参照。マンフレッド・タフーリ『建築神話の崩壊 資本主義社会の... ...9の叫び』が書かれていたころ、アメリカでアルフレッド・ヒッチコックは、『北北西に進路を取れ』(...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.18-29
[連載 7]
16 一致することと相違すること 前回では「アテネ憲章」がCIAMの内部での総決算などではなく、ル・コルビュジエ個人のヴィジョンとしての側面が強かったことを見、さらにそれを発展させたものとしてのCIAMの格子を取り上げた。そしてル・コルビュジエの思想のなかに存在する二重性について、それぞれの系譜をトレースしていこうとい...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.177-190
[都市の全域性をめぐって(下)]
1 都市の〈起源〉 ピレンヌがそれを「解放」と呼んだように、ヨーロッパ中世の都市は、当時のヨーロッパを覆っていた封建的な社会関係から解放された「自由」の空間として存在していた。土地を媒介とする保護と臣従を関係の原理とする封建社会において、土地への帰属はそのまま封建的な支配関係への帰属を意味する。そこでは土地とは、臣従と...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.231-242
[知の空間=空間の知 8]
けだものが脱走する 一八五〇年三月二〇日の夜更け、パリ植物園附設の動物園(La Ménagerie)の檻から、一頭の巨大な狼が脱走する。鎖を引きちぎり庭園の暗がりの中に駆けこんだ獰猛な野獣を捕獲すべく、銃で武装した捜索隊がただちに編成される。だが、現在のように至るところ庭園灯で煌々と照明されているわけではない時代のこと...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.2-17
[建築とイマージュ 6]
(パオロ・ウッチェッロは)《大洪水》の図をノアの方舟とともに描いたが、その際、死者、嵐、疾風、稲妻、砕ける木の幹や枝、人々の恐怖などを、非常な苦労と技術と熱心さをもって描いたので、これ以上のものは望めないほどである。彼は遠近法による短縮で死人を一人描いたが、鳥がその目玉を突っついている。また溺死した子供を一人描いたが、...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.33-36
[建築の言説、都市の言説 6]
創造なんて、シェークスピアはなんにもしちゃいない。ただ実に正確に観察して、見事に描き出したってだけだよ。 (『人間とは何か』M・トウェイン★一) 出版と同時に高い声望を獲得し、ポストモダンと呼ばれた包括的な潮流(短命に終わったが)の論拠ともなった ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』★二を、そのトレンドが役割を終...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.30-32
[非都市の存在論 4]
...在しないような想像上の集団的な作品」(マンフレッド・タフーリ)★六としてのタウトのこのヴィジ... ...ノヴァク、前掲論文、二六一頁。 ★六──マンフレッド・タフーリ(八束はじめ訳)『建築のテオリア...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.16-27
[建築の言説、都市の言説 4]
建築を主導した言説に光をあてて、その含意を明らかにするシリーズも四回目を数える。今回は少し違った角度から、つまり「テクスト」を拡大解釈して、建築写真家(二川幸夫氏)が刊行をしている〈GAシリーズ〉をとり上げてみたい。GAシリーズは簡素なテクストが付されているが、それらの比重は相対的に低く、ここでの「本文」はあくまで写真...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.28-31
[知の空間=空間の知 4]
炎に包まれるオルセー パリを燃やしてしまえ。日に日に「現代化」しつつある一八八〇年代末のフランスの首都に、「現在」への屈折した憎悪を抱えこみつつ暮らしていた奇矯な作家が、文化状況を論じた時評的なエッセーの一節に、ふとこんな呪詛を書きつける。「証券取引所も、マドレーヌ寺院も、戦争省も、サン=グザヴィエ教会も、オペラ座も、...
[境界線上のアメリカ 3]
...れた豪華版のポートフォリオ『アメリカ&アルフレッド・スティーグリッツ』を刊行した。そこに寄せ... ...とだ。実際、ナンシー・ニューホールも「アルフレッド・スティーグリッツ──伝記のためのノート」...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.176-183
[翻訳]
〈オーストリアの終焉(Finis Austriae)〉は過密した点を表わす。その結果として、オーストリア文化と二〇世紀のヨーロッパ文化双方においてそれは、マルチメタファーの形でこそ存在する。最も直接的にそれが示すのはハプスブルク帝国終焉の年月と戦争、そしてその余波のうちの社会状況であり、これは騒然とした崩壊過程であって...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.245-262
[住居の視点、住居の死角 2]
一九九二年六月の都市計画法及び建築基準法の改正に基づく東京都の新しい〈用途地域・地区〉が今年になって決定し、最近告示・施行(五月三一日)されたばかりである。このことの意義といえば、二つの法改正とくに都市計画法は高騰地価を煽った「バブル」以降の都市東京の再編を「法制都市」化してみせたということである。 現実的な課題は、次...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.41-44
[情報空間の地理学 4]
昨年の総選挙が示したことは、国民が政治に対してますます無関心になったことだ、と言われる。本当だろうか? 確かに投票率を見る限り、国民の政治に対する関心はかつてないほど低下しているように感じられる。しかし、よく考えてみると、現在ほど日本の歴史上国民が政治に関心を持っている時代がかつてあっただろうか。このことは、テレビ番組...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.38-40
[境界線上のアメリカ 4]
1 夜闇のノース・アメリカン・ハイウェイを走っていると、光の船に出逢うことがある。クルーズコントロールを時速六〇マイルに設定し、ステアリングの微操作だけでぼんやりと時を過ごしている、そんな夜のことだ。 規則的に過ぎ去ってゆく道路灯とコントロール・パネルに泛んだメーター類の灯りを除けば、眼に入ってくる対抗車線の車の光とて...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.232-238
[知の空間=空間の知 6]
選別と階級 周囲三六〇度の全方位から迫(せ)り上がってくる「無限」の脅威と正面から向かい合ったとき、「知の主体」は、「中心」という特権的な一視点から「全体」を一望の下に所有しうるという「パノプティック」な全能感を享受する一方、同時にまた、生の有限性に拘束されている者ゆえの無力感にうちのめされざるをえない。「肉は悲しい、...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.2-17
[非都市の存在論 6]
1 啓蒙都市とグラフ理論 トポロジーの一分野をなすグラフ理論が生み出されたきっかけの一つが、〈ケーニヒスベルクの七つの橋〉の問題である。それは一八世紀、東プロイセンの町ケーニヒスベルク(現在のロシアのカリーニングラード)の中心部、プレーゲル川の川中島とその周辺にあった[図1]のような七つの橋を、いずれも一回だけ通って周...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.18-29
[住居の視点、住居の死角 4]
数年前には『病院で死ぬということ』(山崎章郎)が、そして最近では『患者よ、がんと闘うな』(近藤誠)といったベストセラーが相次いだこともあって、何が何でも延命治療という医療のあり方に対して緩和ケア、看取りやターミナル・ケア(末期医療)への関心が高くなってきた。いわゆるホスピスへの傾斜である。こうした動きは従来の医療倫理の...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.38-40
[情報空間の地理学 5]
サイバーパンクという八〇年代の中期に現われた近未来イメージが、八二年のリドリー・スコットの映画『ブレードランナー』と八四年のウイリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』によって決定づけられたことに異論のある人はいないだろう。そして、この二つの作品が新しい美学を提出したとしたら、それはまさに都市の描写においてであった★...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.35-38
[非都市の存在論 5]
...2]を取り上げ、その主人公ウォルター・ネフ(フレッド・マクマリー)が宿命の女フュリス・ディート... ...青土社、一九九五年)一一六頁。 ★九──アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォー『...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.14-25
[建築の言説、都市の言説 5]
いくぶん道化者で、いくぶん神のようで、いくぶん狂人で……それが透明性なのだ。 (『ニーチェについて』G・バタイユ) コーリン・ロウは多くの顔を持っている。歴史家、アーバン・デザイナー、教育者、現代建築のイデオローグというのがその一部である。戦後のアメリカ建築界は巨匠たち(ライト、ミース、カーン、サーリネンなど)がまだ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.26-28
[論考]
地理学は帰ってきたのではない。やってくるのは新しい地理学だからだ。 地理学は今日、基礎学においても、専門技術の分野においても、エンジニアリングにおいても、よりよく理解され、ますます期待をかけられている。しかも相変わらず学校教育の遺物という重苦しいハンディをかかえながらである。これは地理学が本質的に変わったからである。以...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.178-190
[トーキョー・建築・ライナーノーツ 8]
内側から見る都市 昨年から今年にかけてヨーロッパの都市を訪ねたときに、いくつかおもしろい都市ツアーを経験した。 はじめは昨年七月にミュンヘンを訪れたときのこと。「日本の小さな家」の展覧会をキュレーションした建築家ハンネス・ルスラーに連れられたミュンヘンのツアーである。「ミュンヘンは自転車でまわるのが一番」という彼は、わ...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.29-32
[視覚の身体文化学 2]
1 ジェームズ・J・ギブソン(一九〇四─七九)はけっして〈色の知覚の生態学〉を放棄していなかったこと。それどころか、世界の表面はカラフルであり、色はわれわれが生きていくための情報であると考えていたこと。それにもかかわらず、ギブソンが視覚情報のベースを「光の配列」のみに求めるかぎり、彼の視覚論から〈色の知覚の生態学〉を構...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.33-34
[現代建築思潮]
ヘルツォーク&ド・ムーロン『Natural History』を読む 佐々木一晋+田中陽輔 佐々木──今日は「素材のコンテクスト」と題して、ヘルツォーク&ド・ムーロンの『Herzog & De Meuron: Natural History』(Lars M殕ler, 2002.)という著作と本年度から〈10+1web〉...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.49-56
[CONCEPTUAL 日本建築 2]
07 四帖半 4 1/2 sheets TATAMI ROOM 私性はここで育まれた 『四畳半襖の下張り』という春本(好色文学)が知られている。文豪・永井荷風の作だとまことしやかに信じられているのである。 日本銀行中枢のエコノミストだった吉野俊彦は、荷風の研究家として在職中からも知られていたが、公刊された荷風の日記を...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.208-221
[CONCEPTUAL 日本建築 8]
43 JAPONISME──「近代」に向かってめくられた最後の頁 Last pages towards the MODERN, which western society had to discover 高階秀爾の若き日の著作に『世紀末芸術』(紀伊國屋新書、一九六三)がある。 あたかも東京オリンピックの前年、破竹の勢い...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.222-237
[技術と歴史 5]
素材と技術革新 安田──今日お話しすることは「ものづくり」の経験から得た素材に関連した話です。これまでさまざまな建築に出会って大きな影響を受けてきましたが、影響を受けてきた建築には共通点があります。もちろん建築構成の斬新さや形態そのものにも魅力を感じますが、特に私が惹かれるのは挑戦的な素材の使い方をしているものからであ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.212-221
[『日本の民家』再訪 1]
Walking on a thin line これから約三年にわたって、志を同じくする人々と、日本国内をまわり歩くことにした。すくなくとも現在の日本のさまざまな場所の姿をなるべく網羅的に見ておきたいと思ったからである。そこから何か新しい派生的なことが考えられればと望んでいるのだ。ただ、そのガイドとなる本はあらかじめ決め...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.14-24
[連載 6]
15 分類すること(名付けること)と配置すること 15-3 バベルの塔としてのCIAM 近代都市計画の原点ないし聖典のようにいわれてきた『アテネ憲章』が会議から一〇年を経て出版されたものであることは前回に述べたが、それは本当にアテネ会議あるいはそれ以前のCIAMの議論を要約し、合意された憲章であったかのような印象を事...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.198-211
[Urban Tribal Studies 17]
トライブは重なり合う。ひとりのサブカルチャー的主体(個人)は複数のトライブに帰属することができる。音楽ジャンルをとってみても、ヒップホップを愛する「Bボーイ」である者が同時にテクノやトランスのトライブに属していることは珍しくない。トライブを横断する主体はそれぞれのトライブの空間(なわばり=テリトリー)の文脈に合わせて微...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.202-210
[1990年代以降の建築・都市 21]
アジア的なシドニーの景観 今秋、「rapt!」という日本とオーストラリアの交流年にあわせた美術系のイヴェントの一環で、初めてオーストラリアを訪れた。日本国内ではいつも睡眠が不規則のため、普段から時差ぼけ状態で日々過ごしている身にとっては、長い空の旅にもかかわらず、ほとんど時差がなく現地に到着するのは、なんとも奇妙な感覚...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.39-41
[現代建築思潮]
山の手/下町/サード・ドメイン | 日埜直彦 クーベルタン男爵のコスモポリタニズムに始まったオリンピックが、反転してベルリン・オリンピックに象徴されるネーション・ステートの威信を競う「民族の祭典」となり、しだいにグローバリゼーションのなかで競い合う都市の再開発プロジェクトの色を濃くしていく。これは誇張でもなんでもなく、...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.48-56
[連載 9]
17─4 アパルトヘイト都市? 近代都市計画の最も基本的な構成要素を、面と線、つまりゾーニングの画定とそれらをつなぐ近代的インフラの整備とすれば、それが最も体系的に実践されたのは、ヨーロッパにおいてよりは植民地においてであったのではないか? 少なくともフランスにおいては(あるいは日本においても)これは該当している。近...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.182-199
[音響場試論 3]
録音技術の普及 都市を音の響く場として捉え、さまざまな界隈で響く音の空間的な分布を、社会学的、経済学的、あるいはメディア論的な視点から分析し、パリを定点観測の軸として、都市や文化生産(消費)への理解の新たなとっかかりを見出そうというのがこのコラムの狙いであった。初回では音を囲い込み、より精度よく聴き手に向けて送り出す技...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.38-39
[技術と歴史 7]
グリッド批判 伊藤毅──都市にはインフラストラクチャーや都市計画などいろいろな技術がありますが、超時代的に存在してきた都市のかたちはグリッドです。グリッドは時代や地域を超えて生み出され、いまなおもっとも一般的な都市のかたちということができます。しかし近代以降、グリッドは批判の的にされ続けてきました。カミッロ・ジッテの『...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.213-224
[音響場試論 2]
近代メディアと社会関係の脱埋め込み化 前回はオスマンのパリ改造に象徴される都市空間の近代化が、パリをブルジョワ的な西部と庶民的な東部に分化し、同時にそこで響く音にもトポロジカルな棲み分けを産み出したことを確認した。今回は、都市空間におけるトポロジカルな音の棲み分けが、メディア技術による媒介を受けながら拡大再生産されてい...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.41-43
[連載 8]
17 機能主義という抽象モデル ル・コルビュジエの一連の都市計画のモデルは機能主義的ともいわれるわけだが、もはや自明なものとしてその思想史的な意味を問われることはむしろ少ない。もちろん、機能主義モデルは彼の専売でもオリジナルでもなく、彼は普遍化できるモデルとして構想している。その意味で彼が東方旅行で見出したさまざまの日...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.198-212
[都市表象分析 12]
一、「アメリカのイコン」 二〇〇一年九月の同時多発テロによって崩壊したニューヨーク世界貿易センター(WTC)跡地では、二〇二年五月三〇日に犠牲者の遺体捜索と瓦礫撤去の作業打ち切りが宣言され、その終了式典がおこなわれた。これによってこの土地は、再開発へと向けて動き出すことになった。 WTC跡地利用計画の実施主体となって...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.2-12
[CONCEPTUAL 日本建築 7]
37 犬走り──屋内外を媒介することの実相 INU-BASHIRI (Eaves’ dropper’s lane): To be interflowed between in-side & out-side 縁側は、近世までは動線としても便利に使われたが、主として屋内と屋外とを媒介する役割を負うものだと説いてきた。し...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.186-200
[CONCEPTUAL 日本建築 4]
19 土台 Sill(DODA'I = foot lyer wood): Civilization stage of wooden building 木造建物の「文明」段階 青森の市街南陵に三内丸山遺跡が発掘されたのは一九九四年のことだ。直径一㍍余におよぶ巨大木柱六本の痕跡などもみつかり、C₁₄測定によって縄文...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.220-233
[Urban Tribal Studies 9]
今回も前回に引き続き、TJ(Text Jockey)という位置=立場について考えるために、最近出版、発表されているクラブやレイヴカルチャーについてのいくつかの著作を批判的に検討しながら議論をすすめたい。今回は特に、TJの位置をパーティに参加しているクラウド(群衆、一般にお客としてのクラバーやレイヴァーを指す俗語になって...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.187-198
[技術と歴史 2]
今日は構造家の立場から、主に空間構造の歴史と私が現在考えている構造の方向性について話をしたいと思います。 空間構造にみる構造合理主義の系譜というテーマをもとにして、それがどのように近代から現代に変容していったのか、というようなことをきちっと言うのはなかなか難しい。もう少し緩い感じで空間構造の歴史を通じて、どのように空間...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.208-219
[集中連載 2]
4 人文地理学的空間 前回にル・コルビュジエが「フランスの植民地事業への支持を隠さなかった」というコーエンのことばを引いたが、フランスの地理学も植民地事業と切り離せない形で発展した★一。地域への関心と対外進出は文字通り裏腹の関係にあったのである。パリに地理学会ができたのは古く一八二一年で、これは身分制護持を行なおうとす...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.194-207
[政治の空間学 3]
4 都市的帰属と公共性 物理的環境を整えることにより完全なる積極的自由(自律)を人びとに保障しつつ、自由をめぐるディスクールを消極的自由の周辺を旋回するものにとどめ、自由侵害なき支配を貫徹する環境監視型権力。私たちは、新宿駅西口から都庁へと続くあの「通路」では、眠ることはおろか、「眠ることができない」という自由剥奪感を...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.185-193
[建築の解體新書 7]
論理的徴候 岡崎乾二郎 1 知られているように富永仲基(一七一五─一七四六)は荻生徂徠の思想の圧制をもっともよく批判しえた人物でした。富永仲基のような存在がなければ、本居宣長の出現はありえなかったかもしれない。端的に仲基はそのきわめて論理的な思考によって、思想を、その内実から断ちきって──即物的に書かれたものとして扱...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.12-20
[論考]
0 非生産都市=香港 香港という都市は、如何にして成立しているのか。例えば、香港における農業・漁業のGDP(国内総生産)に占める割合はわずか〇・一パーセントにすぎない★一。基本的なことであるが、食料を都市の外に、それもかなりの割合で依存しているのである。これは香港が元来、香港島という島(シマ)であり、中国に返還された今...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.177-186
[「悪い場所」にて 11]
ICCで一二月二五日まで開催中の展覧会「アート&テクノロジーの過去と未来」を見て、少なからぬ興味を惹かれた。 と、ここでいうのは、日本で「メディア・アート」とよばれる領域について、この展覧会が、従来は見落とされがちであった、ひとつの明確な視点を提供しているからだ。 メディア・アートは、ともすれば、自身の領域の自律性、独...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.9-23
[CONCEPTUAL 日本建築 6]
31 入母屋屋根 IRIMOYA (semi-gabled) ROOF 屋根型の意味作用 日本建築は屋根の建築だとしばしばいわれる。その屋根の代表は入母屋だとも思われてきた。それでは、入母屋は日本に固有の屋根なのだろうか──。 ちがう。仏教とともに朝鮮からもたらされた。その朝鮮には、おそらく仏教以前に中国からもたら...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.188-201
[リアリティについて 3]
つまり、今日のように高速の、しかもきわめて広範囲に伝達可能なその他のメディアが力を得て、一切のコミュニケーションを画一的で同質の外見のもとに平板なものに見せてしまう恐れのある時代においては、文学の機能は書記言語の固有の使命に従って、異なるもの同士の、まさにその差異を薄めたりすることのない、それどころか差異を強調し、差異...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.24-25
[連載 4]
11 建築か革命か 「建築か革命か」、いうまでもなく、『建築をめざして』の最後の文章である。この真ん中の「か」は、フランス語の「ou」つまり英語の「or」であり、そこだけだと「すなわち」という意味にもなりえる。「建築すなわち革命」、ロシア・アヴァンギャルドの文章であったら、そう訳さねばならないが、ル・コルビュジエはそれ...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.159-176
[現代建築思潮]
議論の新しいスタイル? 10+1──「現代建築思潮研究会」はこれから三年目に入りますが、月例で研究会を行なってきたこの二年間を振り返ってどんなことを考えますか。 今村──この会の立ち上げに当たって、僕は「建築を巡る言葉の力を取り戻したい」というモチーフを持っていましたし、日埜さんは「批評の体力みたいなものを鍛えていきた...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.24-28
[ピクトリアリズムの現在 2]
一九一七年のポール・ストランドの言葉を見よう。「写真家の問題とは、己のメディアの限界と同時に潜在的クオリティを、明確に見極めることである。というのも、生き生きとした表現のためには、撮影されたヴィジョンの強度に勝るとも劣らず、誠実さというものがまさにそこで前提となるからだ。つまり、写真家の前にキアロスクーロで表現されてい...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.13-15
[新たなコミュニケーションの座標軸 2]
今回の書評は、芸術とそれに関わる諸主体をテーマとして、二冊と一作品を取り上げる。その一冊目は、ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り──注意、スペクタクル、近代文化』(石谷治寛+大木美智子+橋本梓訳、平凡社、二〇〇五)である。この本の特徴は、副題が議論を導いていくことである。つまり、一八七九年、一八八八年、一九〇〇年の前...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.17-19
[インタヴュー]
ル・コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエ受容をめぐって 磯崎新──いわゆるモダニズムの受容過程が日本の現代建築の始まりとしていま注目されているように見えますが、僕はそれをアメリカ現代建築と一緒に取り出すとその特徴がより明瞭になると思うのです。その手がかりとして、ル・コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエがそれ...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.172-181
[技術と歴史 8]
建築物の大規模化 嘉納成男──今日お話するのは建築物の規模を大きくしようというニーズにどう対応してきたかということです。一九六三年に高さ制限がはずれ、一挙に超高層が建ってきましたが、ものつくりがどう変わってきたか、どのように建築をつくっているか、という話をしたいと思います。 規模を大きくしたいというニーズは意匠系からす...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.200-208
[万博論]
一 二つの系列 前から気になっていたことがある。 ひとつは、一九四〇年の実施が決定していた「幻の万博」が、あの高揚の時代の国家的プロジェクトであったにもかかわらず、建築あるいは空間の創出という面でほとんど何も語るべきものがないように思われること。東京都公文書館蔵内田祥三資料にこの万博の会場計画関係の綴りがあるが、そのな...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.171-186
[東京]
都市の形態の背後にある構造は必ずしもみえていないし、しかし全くみえていなくもない。それは絶えず見えがくれしているのであろう。 槇文彦『見えがくれする都市』 法規? 東京の都心部には無数の木造戸建て住宅がひしめいている。集約が前提となる大都市の居住形態としては、異常だ。その原因に関してはかなりレンジの広い考察が可能であ...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.148-155
[会議4日目「国土改造」]
課題:不要な機能の埋立地を取り壊すことによって海岸線の「復元」を行なう 条件:同一エリア内における廃棄物の再利用 何十年かぶりで助松に行ってみた。白砂青松の海辺も工場地帯に変わり、家も跡形もなくなっているのに涙がでそうになった。 山本富士子「海の思い出」(「私の履歴書」第三回、日本経済新聞、二〇〇二年一二月三日)...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.132-137
[会議3日目「都市基盤」]
1──活断層に支配された地勢 歌劇で知られる宝塚という街は、有馬高槻構造線系の活断層群と六甲山南麓活断層帯がほぼ直角に出会う、いわば活断層の巣のような場所に位置している。活断層同士のぶつかり合いは破砕帯を生じ、六甲山系裏側の盆地を集水域とする武庫川は、正確にその弱点を突くように大阪平野に流入している。急峻な先行性峡谷か...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.124-129
[図版構成3]
この二〇〇年来、グローバルな規模で急速に都市化が進んでいます。一八〇〇年頃は全世界の一〇億人の人口のうち二パーセントが都市に暮らしていましたが、二〇〇〇年には約六五億人にのぼる全人口のうち五〇パーセント近い数字になりました。さらに二〇五〇年には、全人口約八五億人のうち約七五パーセントが都市に暮らしているだろうとされてい...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.164-167
[イントロダクション]
錯乱のロウアー・マンハッタン マンハッタニズムとは、相互に排他的な関係にある立場間の折り合いのつかないくいちがいをそのまま宙吊りにするアーバニズム理論である。その原理から導かれるさまざまな定理を現実のグリッド上に打ち立てるためには、人間の代理人が必要である★一。 レム・コールハースは『錯乱のニューヨーク』において、...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.85-87
[福岡]
福岡リビングコンディション 「福岡リビングコンディション(以下FLC)」は、第二回福岡アジア美術トリエンナーレ二〇〇二に招待されたアトリエ・ワンと九州芸術工科大学石田研究室とのコラボレーションプロジェクトのタイトルである[図1─10]。プロジェクトは「GAO:ゴースト・アーキテクト・オフィスのための展示コレクション」と...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.156-171
[フィールドワーク]
Google Maps やGoogle Earth で、ある1 地点に求心していくとき、先端のとがった錐で地面に突き刺さっていくように感じる。同時にその地点に立っている自分をつい想像してしまい、天空から舞い降りてくる先端の痛さを感じる。わたしたちの起居とは、〈宙の眼〉と〈地の眼〉が混交する地帯に成立しているのではないだ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.121-128
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.186-198
[フィールドワーク]
...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.85-101
[ワークショップ]
スキャンデータあり、未アップ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.173-186
[特別掲載]
福岡オリンピック計画 2005年より、JOC(日本オリンピック委員会)は、名古屋(1988)、大阪(2008)の世界オリンピック大会会場招致の失敗の反省のうえにたって、2016年の第31回オリンピック競技大会には十分に日本への招致の可能性のある都市が立候補するように働きかけを始めた。数都市が名乗りを挙げたが、立候補意思...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.25-48
[宇宙建築年表]
宇宙建築構想史① Stillborn Concept 日の目を見ることなく埋もれてしまっている優れたコンセプトたち 「Good artists copy, Great artists steal.」(優れたアーティストは模倣するだけだが、偉大な芸術家は単に真似をするだけでなく、それを自分のものとして取り入れ、より優れた...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.141-148
[マニュアル]
...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.109-116
[技術と歴史 12]
山名善之──ジャン・プルーヴェは、家具デザイナー、エンジニア、プレファブの始祖という言い方がされてきています。もちろん、彼のデザインは個人の卓越した才能によって生み出されたものであります。しかし、プルーヴェに対する私の興味はそこだけに留まらず、彼の制作態度が二〇世紀という時代においていかに実験的であったかというところま...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.252-262
[ゼロ年代の建築・都市 3]
建売住宅から学ぶこと 家型という視点から眺めていくと、一九八〇年代の建築は基本的に七〇年代の延長にあり、記号的な表現をさらに展開し、思考を深めている。 石井和紘の《児玉邸》(一九七九)は、家型をもちながら、水平のストライプを外壁にはりめぐらせて、斜めの線を消している。彼はこう述べていた。「家型のイメージは大切にしたい。...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.33-34
[都市表象分析 30]
1 音の海 この連載で過去三年間にわたって発表してきた論考は『都市の詩学──場所の記憶と徴候』という書物にまとめられて刊行される予定である(東京大学出版会より近刊)★一。ここでは、この書物の主題のいくつかをあらたな文脈に置き直して変奏することにより、そこで得られた展望について語ってみたい。 わたしは海にいる夢を見てい...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.2-10
[『日本の民家』再訪 6]
山の村の事はやめて、海岸の漁師たちのはなしにうつろう。「漁村の人たちの家」 「田舎の人たちの家」は今和次郎『日本の民家』の冒頭の総論である。ここで今和次郎は、名もなき民家の特徴を水田の村、畠の村、山の村においてとそれぞれに書き進め、その章を終えるにあたって漁村の人たちとその家の姿を活写した。漁村のみならずその章全体...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.11-29
[連載 10]
19 植民地都市の政治学 19-1 他者たち(3)──カスバの魅惑 一九六〇年の東京世界デザイン会議はメタボリズム・グループの旗揚げとなったことでも知られてい...ってのキーシンボルになっていたというウィニフレッド・ウォッドヒルの分析を引きつつ、「彼のプロ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.176-192
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 4]
本連載ではこれまで、P2P(Winny)・SNS(mixi)・動画共有サイト(YouTube)といったソーシャルウェアのケーススタディを通じて、「アーキテクチャ」(Lessig[1999=2001])あるいは「環境管理型権力」(東[2002-2003])が果たしてどのように設計され、社会的に普及・定着し、いかなる社会秩...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.49-51
[都市表象分析 29]
死んでみたまへ、屍蝋の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの青白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。 ひとが猫のやうに見える。 「Omega の瞳」 1 郷愁の玩具 萩原朔太郎は写真撮影を趣味にしていた。ガラス乾板を中心に一〇〇枚近い写真原...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.2-14
[1990年代以降の建築・都市 23]
教会のイメージ 日本人にとって教会とはなにか。これまでにも幾度か結婚式教会について考察してきたが、あえてフェイクに見慣れた目から、もう一度、本物の教会を考えてみたい。 漫画やドラマなど、サブカルチャーのシリーズ物における宗教ネタは、ほとんど例外なく、悪の組織として登場する。キリスト教系と思われるものも少なくない。ドラゴ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.39-41
[ネット公正論──データの逆襲 1]
最終結果だけでなく、そこへの過程も同時に示すような作品。バラバラのカードに記されたノートや、かべにうつされる図や公式とともに上演される。 過程と結果を区別することにどんな意味があるのか? ニューヨーク州バッファロー、一九六八・二・四 集団的創作は、具体的なモデルの上に作曲家・演奏家・聴衆の三つのちがう機能が結合され...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.30-38
[ゼロ年代の建築・都市 1]
家形が増えている 最近、卒業設計やアイディア・コンペを審査する機会が多いのだが、印象深いのは家型のデザインが明らかに増えていることだ。いわゆる三角屋根をもつ建築である。もちろん、九坪ハウスのコンペのように、家型を誘導する規定を含むケースもなくはないのだが、なんの規定がなくても、こうしたアイディアが目立つ。学生の設計は、...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.45-46
[『日本の民家』再訪 8]
黒い戸 見飽きない写真がある。 故篠原一男設計による《白の家》(一九六六)のモノクロームの内観写真だ[図1]。その家の台所わきの裏口側から眺めた居間の様子が記録されている。村井修撮影によるこの写真の緊張感は、立ちつくす面皮柱、精妙に消え入る天井、開口のプロポーションをはじめとして、白い空間に置かれた家具や小物を含む写り...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.11-24
[ネット公正論──データの逆襲 3]
自己とは何であり、石や水たまりのように自己をもたないものからいかにして自己が生まれるのか。「私」とは何なのか。 ダグラス・R・ホフスタッター「GEB二〇周年記念版のために」 (『ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環 二〇周年記念版』 野崎昭弘+はやしはじめ+柳瀬尚紀訳、白揚社、二〇〇五、四頁) この問いに...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.25-32
[オルタナティヴ・ダンシング 2]
ゲーム化した即興演奏 結成一年で、今秋開催されている「六本木クロッシング二〇〇七:未来への脈動」展に招聘されるなど★一、瞬く間に音楽界内外問わず注目を浴びる存在となったd.v.dは、三人組のバンドである。バンドと言っても、演奏者はドラマーが二人のみ。もう一人はヴィジュアルの制作と操作を担当という相当変わった編成。ドラム...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.61-63
[ゼロ年代の建築・都市 2]
篠原一男の家型 この連載は、現代の日本建築における家型の流行というべき現象を位置づけるために、モダニズム以降の歴史をたどりながら、ゼロ年代の意味を考察することが目的である。前回は、二〇世紀前半のせざるをえない家型、すなわち機能が導く形態と、ナショナリズムと連動する家型を確認しつつ、一九五〇年における清家清と白井晟一を分...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.57-58
[都市表象分析 31]
1 「非都市」という戦略 前回の論考は、拙著『都市の詩学』に対する趣向を変えたあとがきのようなものとなった。それが本連載を中心として、ここ数年の都市論やイメージ論に関する考察を集大成した著作だっただけに、このあとがきめいた文章自体が、本誌での連載にひとつの区切りを劃したという印象を自分でも抱いた。 そんな矢先、あたかも...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.2-11
[ネット公正論──データの逆襲 2]
「死は生よりも尊とい」 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。 夏目...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.28-34
[ブック・レヴュー 4]
ルードルフ・オットー(一八六九─一九三七)の『聖なるもの』の新訳によって、この書物が孕むさまざまな可能性が再び新たに見出されることになるだろう。一九一七年の出版以来、『聖なるもの』は宗教学の分野を越えて大きな反響を呼び起こし、多くの読者を獲得することとなった。たとえばヘーゲル全集の編集者として著名な哲学者ヘルマン・グロ...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.43-45
[デジタル・イメージ論 4]
現在の、ネットワークに接続された人間の存在様式はどのようなものであるか。大塚英志は、GPS付き携帯電話の普及が監視社会を肯定することに帰結することを述べつつ、そのようなメディア環境下における人間の行動様式を、人間の「端末化」であると、的確に表現している★一。ある世代以降の人間が、携帯電話の所持と不即不離になって以来、人...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.35-37
[論考]
リゾームは、………地図であって複写ではない。複写ではなく、地図を作ること。………地図が複写に対立するのは、それがすべて、現実とじかにつながった実験の方へ向いているからである。地図は自己に閉じこもった無意識を複製するのではなく、無意識を構築するのだ。地図は諸分野の接続に向かい、器官なき身体の封鎖解除に、それら器官なき身体...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.173-180
[大島哲蔵追悼]
記憶に棲むオブジェ 今日はタイポロジーをめぐって、アルド・ロッシからドナルド・ジャッドまでお話する予定です。まずはオーソドックスな話から始めましょう。 私はかつて、イタリアの建築家、アルド・ロッシの主著である『都市の建築』(福田晴虔+大島哲蔵共訳、大龍堂、一九九一)の翻訳をやりました。七〇年代当時、彼は非常に人気があ...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.181-191
[Urban Tribal Studies 13]
そもそも田舎というのはもうないんですよ。つまり田舎は都市によって完全に植民地化されているのです。重要なのは中心としてのパリと地方の関係です。自由ラジオはパリに集中した政治的・文化的表現の力、いわばパリ帝国主義とたたかうのに大変重要な武器なのです。 フェリックス・ガタリ 先進資本主義諸国では、この十年間に周波数...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.195-206
[大島哲蔵追悼]
インド圏でのルイス・カーン(一九〇一─一九七四)の足跡は、アーマダバードの経営大学(一九六二─七四)とダッカの議会堂(一九六二─八三)である。前者はグジャラードの州都で、この地域はル・コルビュジエのパトロンでもあったサラバイ家に象徴される綿工業によって、資本の蓄積が進行し、ある種の「近代化」を追求する土壌が備わっていた...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.172-180
[写真のシアトリカリティ 4]
1 昨年の九月一一日、ハイジャックされた旅客機がビルに衝突するテレビ画像が雄弁に物語っていたことは、「決定的瞬間」が未だ存在し、それは映像化されうるというメディアの自負である。少なくとも私たちの目が飽きるまでは、徹底的に反復されるシークエンシャルなフッテージに組み込まれたカタストロフィックな瞬間は、依然として使用価値を...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.29-32
[Cinemascape 4]
私はいま某テレビ局のドキュメンタリー番組のため、同時多発テロ事件についての特別番組を制作している。その取材・撮影を通し、ドキュメンタリー制作のある倫理的な問題に突き当たった。 九・一一の被害者を撮影するとき、彼らの悲劇を番組(つまり、資本主義社会で、利潤を上げる企業の活動)のための「食い物」にしているのではないか?とい...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.28-29
[写真のシアトリカリティ 1]
1 スペクタクルは、視線の権力を行使することをわれわれに教育する、政治的かつ時間制約的なイヴェントの謂いにほかならない。しかしスペクタクルには、見る者と見られる者の安定的な視線の構図を突き崩す趣向が絶えず盛り込まれる。写真家が、向こう側から「見つめ返す」視線の持ち主を典型的に擁する、例えば「動物園」のような場に歴史的に...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.33-35
[東アジア建築世界の二〇〇年]
[第五章つづき] 五─三 中国人建築家の覚醒とナショナリズム 東遊と過去からの「分離」 中国で「建築」が意識的に学ばれ、建築の「中国」が自覚されるのはいつからのことだろうか。もちろん、一八六〇年代に始まった洋務運動ではない。そこで用いられたスローガン「中体西用」に端的に現われているように、西洋の技術はこの時、中国にと...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.212-224
[脱芸術/脱資本主義をめぐるノート 5]
七月一七日午後一時半、豊島区立豊成小学校図工室。暑い、とにかく暑い。しかし、その暑さは単に気温だけではない。この狭い、小学校の教室の壁際に、溢れんばかりに犇めき合っている一〇〇人以上もの教師たちの異常な熱気でもあるのだ。 教室の中央には、(この連載の初回で紹介した)音楽家野村誠と赤いコンガ。そこに、生徒たちが入室してく...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.45-47
[都市表象分析 14]
1 都市の雛型 アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートは、二〇世紀末に現われたグローバルな主権形態を〈帝国〉と定義している(『〈帝国〉』)。〈帝国〉は空間的にも時間的にも境界を欠いており、領土上の特定の地域に限定されない、歴史の外部ないし終わりに位置するような体制にほかならない。 このように脱中心的で脱領土的な支配装置こ...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.2-11
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 1]
1 事物の歴史 ここで扱いはじめようとしているのは、事物(=thing)とよばれる、複数の知覚を通じて存在を感じることのできる何かと私たち自身のことである。その性格の検討には主に建造物を用いる。それは建造物が事物の総合性を考えるには都合がいいからである。また扱う対象は、古今東西、さまざまな時代においてであり、特に有名な...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.12-21
[都市の表象分析 13]
1 英雄というプレテクスト ニューヨーク世界貿易センター(WTC)跡地利用をめぐっては、選出された七つの建築家チームによる九つの計画案が二〇〇二年一二月一八日に発表された。展覧会や集会を通し市民の意見を広く集めたうえで、翌年の二月四日にローアーマンハッタン開発公団(LMDC)とニューヨーク・ニュージャージー港湾局は、案...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.2-11
[Urban Tribal Studies 16]
足かけ四年にわたって連載してきた、この「アーバン・トライバル・スタディーズ」にも前回と次回で一応の区切りをつけておこうと思う。今回はトライブ概念をめぐる反省、再考を整理し、最終回の次回は議論を次のステップに向ける準備をしておきたい。 これまでも指摘してきたように、都市のサブカルチャーにおけるトライブは、自分以外のトラ...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.225-234
[都市音楽ノート 5]
歴史家が忘れがちのことがある、こう言うのはマニング・マラブルである。五〇年代・六〇年代の黒人による闘争のうねりを支えたのが黒人の労働運動であったことである。 マーティン・ルーサー・キングの闘いは、周知のように、公民権法や投票法の成立によって一段落をつけたあと、一九六五年のワッツ暴動など北部都市の頻発する黒人の蜂起を背景...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.49-50
[東アジア建築世界の二〇〇年 1]
〈一 アジア近代建築をネットワークする〉 一─一 二〇世紀末、アジアを巡る 二〇世紀最後の年の二〇〇〇年、ぼくはあいかわらず、アジアを中心にあちこちをとびまわっている。三月にハノイ、五月ソウル、六月イランに赴き、後半は七月広州、九月台湾と北京、一〇月ニューヨーク、一一月バンコクへと旅が続いた。たまたま、重なった旅の目的...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.189-200
[音楽批評の解体文法 4]
『AERA』誌の記者(当時)である鳥賀陽弘道と、日本人ロック・ミュージシャンのボニーピンクのあいだに起こった「論争」(というにはあまりにも一方的な、烏賀陽の「言い負かし」に終わったが)から話を始めよう。二〇〇〇年六月、『別冊宝島・音楽誌が書かないJポップ批評』誌(第七号)にて、烏賀陽は「Jポップ英検ランキング」と題し、...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.22-25
[都市環境の文化政治学4]
1 ぶらつき 都市論にジェンダー的視点を導入して独自の切り込みをしようとしたエリザベス・ウィルソンは『The Sphinx in the City』という本のなかで、「ぶらつきまわる人」(flâneur)に着目している★一。ウィルソン自身は、そのぶらつきが多くの場合、男性に代表されていることに不満をもらし、「女性の彷徨...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.21-22
[Urban Tribal Studies 15]
前回、英国のストーンヘンジがパーティやイヴェントの空間になることによって生じる様々な問題についてふれた。かつてニューエイジ・トラヴェラーが古代遺跡を空間占拠(スクウォット)している話を聞いたり、ケヴィン・ヘザーリントンによる分析を読んで最初に思ったことは、早晩、日本にも神社や古墳でパーティをやる輩が出てくるという予感だ...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.182-190
[都市音楽ノート 8]
あのマイルス・デイヴィス『Kind of Blue』(一九五九)には、六〇年代にジャズが歩むことになる対照的な二つの路線の代表者となる二人のアーティストが参加していた。ジョン・コルトレーンとジュリアン・"キャノンボール"・アダレイである。コルトレーンは比類なき協力者たちを得て、マイルスのモード奏法を独自のかたちで展開し...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.25-26
[東アジア建築世界の二〇〇年]
五─一 オリエンタリズムと「簒奪様式」 畏敬の存続★一 ウィーンのバロック建築家フィッシャー・フォン・エルラッハ(一六五六─一七二三、Johann Bernhard Fischer von Erlach)が『歴史的建築の構想』という世界の建築物を比較した書物★二を、ドイツ語とフランス語で刊行したのは一七二一年のことで...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.172-181
[論考]
裏──宅地的都心 ここのところの東京をめぐる情報の流通を見ていると、「裏原宿」や「裏青山」といった「裏」の街に関するものがずいぶん多い。今まで脚光を浴びてきた表のストリートや商業地区に対して、一本奥に入った通りや街。原宿、青山、代官山、恵比寿、中目黒など、おもに明治通りや山手通り周辺のエリアに現われつつある「裏」の街々...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.147-155
[音楽批評の解体文法 3]
ポップ・ミュージックの領域で「ジャンルを越える」という宣言はすでにクリシェとしてしか機能しない。「オレたちの音楽にジャンルは関係ないぜ」と主張することは、その実践の卓越化を彼らが志向している証──誰もがそのように主張するが故に、卓越化の「資格」のようなものとしてしか機能しないのだが──として受け取られる。「ジャンルを越...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.27-30
[都市表象分析 8]
1 テロリストたちの夢と遠隔科学技術(テレ=テクノロジー) 対米同時多発テロの首謀者とされたウサマ・ビンラディンとその組織「アルカイダ」、および彼らをかくまっているタリバンを標的として始まった、アメリカ合衆国軍と反タリバン勢力の攻撃は、二〇〇一年一二月一六日現在、アルカイダをアフガニスタン南東部の山岳地帯に封じ込め、最...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.2-9
[論考]
アンリ・ルフェーヴルとの出会い、 空間の実践と主体の召還 南後──本日は、塚本さんが最近実践されている「ビヘイビオロロジー(ふるまい学)」について、そこに通底する意味を探っていきたいと思います。特にアンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』との関わりについてもお話をお聞きしたいと思います。まずは、ルフェーヴルの空間論を摂取す...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.84-89
[1990年代以降の建築・都市 1]
香港──一九九一年 ちょうど一〇年前、初めて香港を訪れたときのことだ。過度な疲労のために、中国から陸路で行くことを断念し、上海から香港まで三泊四日の船の旅を選んだ。四日目の朝、目覚めると、香港サイドと九龍サイドに挟まれた海の真中に船は漂っていた。朝靄のなかから海に迫る高層ビル群と山が現われる。感動的な風景だった。もとも...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.177-187
[ポスト・ストラクチャリズムの建築 1]
とは言ってみたけれど、ポスト構造主義そのものに関する定義・状況説明などは書店の思想・哲学の書棚にあふれているであろうし、その手のディスクールがしかけてくるレトリカルな戯れの背後に潜むものが、結局のところうさん臭いディシプリンとストラクチャーの反復的戦略でしかないことに〈気づいている〉かどうかは別にして、端から「主体であ...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.24-26
[都市表象分析 19]
1 雪岱の東京 ゆきて還らぬなつかしい面影──。 鏑木清方が『小村雪岱画集』に寄せた言葉である。 雪岱は泉鏡花作品の装幀挿絵で知られている。独特に様式化されたその美人画から「最後の浮世絵師」と呼ばれる一方、邦枝完二の『おせん』、『お伝地獄』といった新聞小説のために描いた単色挿絵には、オーブリー・ビアズレーに通じる感覚も...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.2-12
[都市環境の文化政治学 1]
1 空間から「場所」へ 非常に多くのエコロジー的思想が、グローバルな単一文化の蔓延を嫌った。どこに行っても同じような味付けのものを食べ、同じような衣服を身に纏い、同じようなアクセントで話し、同じような話題に興じる人々。もちろんそれをただ否定的にだけ捉えるのは適当ではない。いままで見たこともないような果物を味わい、どれを...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.22-24
[都市表象分析 11]
一、大虐殺の「イメージ」 「一九世紀の首都」パリを舞台に、近代の原史を回想過程で立ち現われるイメージに結晶化させようとした試みがヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』であったとすれば、都市表象分析が想起すべき「二〇世紀の首都」とはどこだろうか。いや、そもそも都市の記憶を通して歴史のイメージを浮かび上がらせようとするア...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.2-12
[東アジア建築世界の二〇〇年]
三─一 帝国主義とその手先 帝国主義とその発端 一八八七年六月二一日、ほぼ一一五年前のこの日に戻って世界のあちこちを見渡してみたならばその賑やかさには圧倒されたに違いない。とりわけ、その華やかさはイギリス本国、その植民地、そして、イギリス人の多くいる居留地で頂点に達した。ヴィクトリア女王即位五〇周年のゴールデン・ジュビ...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.196-204
[「悪い場所」にて 15]
旅先のホテルで久しぶりにテレビをつけると、日曜だけあって各局趣向を凝らしたセットを組んではいるのだが、それらが一様に卑俗な秋の日本美をなぞっているようで朝から気分が悪くなる。まさか、例の政府筋の「美しい日本」を受けての一斉キャンペーンではないだろうが、疑いたくなるような画一さだ。同じ時間帯に放映されていた公共放送の美術...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.37-39
[1990年代以降の建築・都市 8]
奇跡──怪物の出現 おそるべき怪物と遭遇した。 キリンアートアワード二〇〇三の審査において、衝撃的な映像が出現した。今年、一四回目を迎えるアワードは、写真だけでなく、ビデオに記録することができれば、原則的に何でも応募可能である。それゆえ、絵画、彫刻、映像、音楽、演劇、建築、インスタレーションなど、あらゆるタイプの作品が...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.219-229
[都市表象分析 15]
1 聖別と抹消 ロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』をはじめとするアメリカ新保守主義では、アメリカ合衆国は「万人の万人に対する闘争」の状態にある世界というホッブズ的な現実を意識し、そこに秩序をもたらす武力という要因を重視するのに対し、ヨーロッパはそうした苛酷なパワーポリティクスを忘れて、カント的な永久平和の楽園に暮ら...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.2-11
[写真のシアトリカリティ 2]
1 水戸芸術館で先頃開催された「川俣正──デイリーニュース」は、出色の展観だった。一五〇トンの新聞紙(水戸市で一週間に消費される相当量という)を展示室に持ち込むというプランは、ホワイト・キュービック空間に対する直示的な異化と、日常一般に対する隠喩的な異化とを充分に果たしていた。この二重の衝撃的な異化は、川俣の造形的なメ...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.31-34
[『日本の民家』再訪 2]
前号から「再訪『日本の民家』」の連載が始まった。この連載の基本にして最終の目標は、今和次郎が一九二二年に刊行した『日本の民家』という本を片手に、そこに紹介された民家の現在をすべて見て歩き、記録し、可能な限り紹介し、それによってこの一世紀近くの日本の変容を検討することである。それを建築レヴェルではなく、それが生えている大...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.13-20
[連載 5]
知の宮殿「ムンダネウム」14 14-4 クライアントと建築家:奇妙なチャートあるいは機能主義 ムンダネウム─世界都市のプロジェクトの敷地は、国際連盟本部の敷地にほぼ隣接している。もともとオトレの構想は国際連盟のそれと連動していたし、彼はその方面にも有力な関わりがあったから、敷地の選択がこうであったのは偶然ではない★一...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.158-174
[音楽批評の解体文法 2]
例えば、日名子暁『パクリの戦後史』(ワニのNEW新書、一九九九)という書名に惹かれ読んでみるならば、こんにちのわれわれは肩すかしをくらった感を拭いきれないだろう。「暗躍する裏経済師たち」と副題が付された本書は、M資金詐欺やネズミ講など戦後の経済犯罪の数々を通史的に描いたものである。「パクリ」とはそもそも、法に抵触するす...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.24-26
[Urban Tribal Studies 4]
UTS(Urban Tribal Studies)の構想について、ベンヤミン・ペラソヴィッチとわたしが一緒に準備してきたメモやノート、あるいは各地で交わされた討論のなかでは、すでにたくさんの語や概念があみだされている。例えば、Translocal, Trancecritic, Trancelation, Trance(...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.237-246
[都市環境の文化政治学 2]
1 時間の封入 もう少し「場所」にこだわってみよう。ただし今度は、場所という空間的概念のなかに文脈や履歴、記憶や言い伝えなどという時間的暈囲を封入し、そこからでてくる新たな場所感覚に刮目してみたいと思う。 まずは、いくぶん特殊な例を挙げる。その名も『場所の感覚』という★一、今の主題に関係が深い論集を編纂した文化人類学者...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.19-21
[サウンド+アート+サイエンス 1]
気鋭のアーティスト渋谷慶一郎さんと、第三項音楽という新しいサウンドアートをたちあげたのは去年の一二月である。第三項音楽はコンピュータでつくり出す音の世界である。「現代アート」といわれているものの多くが視覚優位なアートであって、音を使ったアートもあるものの、どちらかというと視覚的なもののオプショナルなものとして添えられて...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.28-29
[1990年代以降の建築・都市 3]
フラット派批判 昨年末、飯島洋一が「反フラット論──『崩壊』の後で 2」という文章を発表した★一。この論は世界貿易センタービルの破壊に触れて、スーパーフラットの世界には外部がないことや、一部の若手の建築家を「フラット派」と呼び、彼らが内向的であることを批判した。ゆえに、スーパーフラット批判の建築論と言えるだろう。このよ...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.142-153
[モノとマチの向こうに見えるもの 4]
はじめに 最近、身の回りで愛好者が増えているポータブルミュージックプレイヤー「iPod mini」の裏面にある「Designed by Apple in California Assembled in China」という刻印に目が留まった。「Designed by Apple」といった場合、内部の微細な部品の設計図を描...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.29-31
[視覚の身体文化学 4]
1 昨今の安全キャンペーンでは、ドライバーに絶えず用心を怠らないようにと強調して、その不安な気持ちにつけこもうとするあまり、ドライバーが適切な習慣を身につけることができない場合がある。こうしたキャンペーン(「And Sudden Death」など)はドライバーの普段の動作を向上させるよりも、臆病な態度を生みだす効果のほ...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.33-35
[都市表象分析 21]
...944)より2──アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958)より 3──アルフレッド・ヒッチコック『... ...めまい』(1958)より4──アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958)より5──ジョン・エバレット...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.2-11
[都市表象分析 3]
1 ナポリ──壊れたもの 一九二〇年代、ナポリ、ポジターノといった南イタリアの町やカプリ島にはドイツの知識人たちが経済的な困窮を逃れて移り住んだ。一九二三年一〇月にレンテンマルクが導入され、経済に安定が回復されたドイツにあっては、むしろ、それ以後にこそ、こうした「知的放浪プロレタリアート」★一の移住が強いられた。そんな...
[密集市街地論 2]
先回、日本の木造密集市街地について問題を投げかけた。何よりもわが国の都市計画の盲点であり、この二〇年ほどの間に繰り返し議論され、さまざまな施策が試みられてきたが、いまなお問題解決の糸口が見えてこないところである。行政や住民協議会が手を変え品を変え何かを動かそうとしても、なぜか動きが芽生えてこないということで、無力感が覆...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.154-161
[Urban Tribal Studies 14]
ここにはドイツ青年運動の奇妙な、独特の体質がある。青春を、やがて成熟へと吸収される人生の一段階と見ることを断固として拒否し、青春に固有の文化的、認識論的権利を、その制度的保証とともに彼らは要求した。今のことばで言えば、独自のヤング・カルチャーがもつ変革のパワーに固執した。他方で、そうしたパワーの根拠を、青春の生命と宇宙...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.176-186
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 4]
二人のチャールズ 一九七二年七月一五日午後三時三二分、アメリカのセントルイスでモダニズム建築は死亡した。 チャールズ・ジェンクスの著書『ポスト・モダニズムの建築言語』(一九七七)は、このように第一部の冒頭でミノル・ヤマサキが設計したプルーイット・アイゴー団地が爆破された事件を劇的に紹介する★一[図1]。この団地は犯罪率...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.226-236
[新・都市の下層民 3]
0 ある日、突然の電話。電話の主の彼女は、数年前に二、三度会ったことしかない、特に親しくもない知り合いの一人であった──「Oさん、どこに居るの?病院の地下室にいると思っていたのに」。彼女は、北海道のとある精神病院の閉鎖病棟から電話を掛けているらしい。実際のところ、本当かどうか分らない。確実なことは、彼女は、何らかの方法...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.38-40
[モノとマチの向こうに見えるもの 1]
はじめに 今回から連載というかたちでモノやマチ、社会が置かれている現在の状況を通して、プロダクトや建築・都市の今後、デザイナーのあり方を探ってみたい。 ジェネレーションY 昨今、各種企業のマーケティング戦略の中で、ジェネレーションY(Generation Y)への注目が集まってきている。ジェネレーションYというのは、...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.30-31
[映画とニューメディアの文法 1]
映画は、一一〇年になろうとするその歴史において、いくたびも危機にさらされてきた。まずは、三〇年代にトーキーの普及によってサイレント期の視覚的洗練を失い、五〇年代にテレビの大衆化によって最初の大きな凋落期を迎える。六〇年代のヌーヴェル・ヴァーグは、映画史に自己反省的な視線を向けることで、映画を再生する試みだったと言えるが...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.31-33
[グローバリズム 4]
1 東京 二〇〇三 vs 東京計画一九六〇 vs ドバイ二〇〇? 東京のど真ん中に誕生したばかりの新しい都市、「六本木ヒルズ」のそのまた中心を占めるタワーは武士の鎧をイメージしたのだという。設計者は日本人ではなくアメリカのKPFである。名古屋にもフランクフルトにも、もちろん本拠のシカゴにもタワーを建てているいわ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.208-220
[都市とモードのフィールドノート 3]
現代日本の建築とファッションは元来西洋から輸入されたものである。 それぞれ経緯は異なるにせよ、長い間かかって人々が生活や歴史の蓄積のなかで醸成した文化を駆逐する形で、近代以降に性急に根づかせてきたという事情はだいたい同じだろう。もちろんそのなかでさまざまな折衷や異種混交が試みられてきたし、そのような雑婚からしか文化とい...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.37-39
[Urban Tribal Studies 10]
物が与えられ、返されるのは、まさしく〈敬意〉──われわれはさらに、〈礼儀〉と呼びうるかもしれない──が相互に取り交わされるからである。 しかし、そればかりでなく、それは物を与える場合に、人は自分自身を与えるからであり、人が自分──自分自身とかれの財産──を他人に〈負っている〉からである。 マルセル・モース 倫理の次元...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.221-230
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 3]
...にすると信じて止まない。 コーリン・ロウ+フレッド・コッター『コラージュ・シティ』★一 1 都市... ...あった建築評論家・美学者のコーリン・ロウ(フレッド・コッターとの共著)にはいささかそぐわない...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.12-25
[視覚の身体文化学 1]
1 視覚とは見慣れることのない、素晴らしい営みである。わたしは五〇年のあいだ、その難問の数々に頭を悩まされてきた★一。 ジェームズ・J・ギブソンの最後の著書『視知覚への生態学的アプローチ』(邦訳=『生態学的視覚論』)は、心を動かされるこの言葉で始まる。そして光の物理学、眼・神経・脳の解剖学・生理学では、視覚の不思議...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.33-35
[デジタル・イメージ論 1]
デジタル・イメージに関する議論が盛んになりつつある★一。それは、ネットワークに接続された監視カメラのような、コントロール型権力(ドゥルーズ)の顕在化、あるいはスマートモブズ(ラインゴールド)の一般化といった事態への対応を迫られていることを示しているのかもしれない。そのような問題を考察する過程で、避けては通ることのできな...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.35-37
[非都市の存在論 12]
1 スフィンクスの都市論 「都市の紋章」と題されたカフカの短篇がある。その物語はこの作家の読者にとってお馴染みの主題であるバベルの塔の建立をめぐって書き起こされている。そこではまるで何世紀かかってもかまわない工事であるかのように、道案内や通訳、労働者の住宅、道路網の配慮がなされる一方で、塔そのものについては定礎式すらで...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.10-19
[映像のトポス 4]
1〈機械の言説〉──英雄的個人主義 機械は、諸言説の外部にあってそれを産出する〈現実的な〉力の源泉ないし集合であると同時に、それ自体が言説の主要な構成契機として機能する。とりわけ二〇年代にあって顕著な現象は、都市=機械という局域的な複合体が社会=機械へと全域化するという過程において、表象としての「人間」と「機械」との関...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.20-29
[ブック・レヴュー 1]
二〇〇一年九月一一日に生じた「米国同時多発テロ」に対する二人のヨーロッパの哲学者の応答、それを引き出した編者ボッラドリによる比較的まとまった注釈──全体への導入、この二人の哲学者の思想とのコンテクストにまで十分に注意が払われたインタヴューの解説──からなる本書は、九月一一日の出来事に対する哲学者たちの注釈と分析に終始す...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.44-46
[Urban Tribal Studies 8]
エクスタシーとテクノは情動=感情に適用されたコミュニズム(共産主義)である。 ニコラス・サンダース 彼らの恍惚に内容はない。恍惚に達すること、音楽が聴かれること、それが内容の代りだ。恍惚の対象は、それ自体の強迫的性格に他ならぬと言ってもよい。それは、打ち鳴らされる戦闘用太鼓に合わせて未開人が踊って見せる恍惚状態を真似...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.213-222
[明治期「近代交通業発達」余話 1]
日本近代を思考の対象とする際、近代の端緒を「黒船来航」の一八五三年(嘉永六)とする時期区分は、東アジア、とりわけ日本にとっての近代が欧米文明との出会いによって特徴づけられているからに違いない。ペリー提督が浦賀沖から江戸湾内に立ち入り、その後久里浜へ上陸して米国大統領の親書を手渡して後、琉球へと向かう。その翌一八五四年(...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.39-40
[Urban Tribal Studies 2]
Ⅰ アムステルダムの熱帯美術館で九七年の終わりから九八年の九月まで開かれている展覧会「シベリアからサイベリアへ」は、様々な地域、民族にわたるシャーマンの文化を網羅的に紹介し、同時にいまやサイバー文化のなかにシャーマン的な実践が成立しうる、という仮説までそなえた興味ぶかい展覧会である。ここではロシアのサンクト=ペテルスブ...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.261-270
[集中連載 1]
なかんづく、近代ヨーロッパ人は、この遊星をとはいえないにせよ、少なくともこの遊星の各地帯を、一様化しようとする仕事にしたがう疲れを知らぬ職人である。 ポ...市的ヴィジョンについて述べた小論文で、マンフレッド・タフーリは、ジョルジュ・テイソーの一九世...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.169-179
[翻訳]
工場も仕事場も仕事もなく、さらに上司もいないプロレタリアートは、雑多な職のごたまぜの只中にいる。彼らは生き残るのに必死で、余燼を通る小道のような生活をいとなんでいる★一。 パトリック・シャモワゾー 一九七八年以来のネオリベラルグローバリゼーションによる構築術の残忍さは、後期ヴィクトリア朝の帝国主義の時代(一八七〇─...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.121-137
[翻訳]
1 戦争というものは今後リアル・タイムのヴィデオ・ゲ─ムになるだろう、というCNNによる喜ばしき通告は、虚偽であることが判明した。カウントダウンもない高精度爆撃シ─ンには、緊迫したものがない。旧ユ─ゴスラヴィアにおける戦争は、食後酒なしに供された大皿料理であり、次から次へと悪化する一連のミニ・アイテムなのだ。クライマ...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.190-201
[対談]
多木…神戸の地震についてはすでに多くの言説が飛び交いました。しかし今日はもう少し違った方向で考察できないだろうか。これまでの言説では語られていないものがありはしないか、そんなところから非常に語りにくいことであるということは重々承知の上なんですが、実際に被災された内田さんと神戸の地震について何事か語ってみたいと思ってきま...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.204-227
[翻訳]
地図は、人間世界の事物、概念、状態、過程、出来事などを空間的に了解するさい助けとなる表象である。表象に用いられる技術はグラフィック・アートや空間モデルから詩、歌、舞踏にまでいたる。地図は地球物理学的現実を再現するばかりではない。それはまた、聖なる空間の形、空想や神話など心の目が探る世界も伝えるのである。 *以上は、J・...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.177-189
[千年王国論(四)]
毎週月曜日に新しいことを考え出す必要はない。 ミース・ファン・デル・ローエ ハリウッドの映画セットと同様、この都市のアイデンティティは、毎週明け、新しく作り直される。 レム・コールハース 前回でも書いたように、メトロポリスは単に大きな都市というにはとどまらない。それは全体像を拒否するという点において都市という古典的な括...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.168-175
[批評]
前史 グレートブリテン島 1300 エドワード一世の王室納戸部会計報告書のなかに、イギリスにおけるはじめてのクリケットにかんする言及が「クリーグ(Creag)」として現われるのが一三◯◯年のことである。行なわれた場所はケントのニューウェンデン。その後約二◯◯年間の史料では、この遊戯=運動にたいしてクリーグ、クロッサー、...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.200-209
[批評]
I Old pirates yes they rob sold I to the merchant ships Minutes after they took I from the Bottom less pit Redemption Song ──Bob Marley ボブ・マ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.210-223
[翻訳]
...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.228-243
[都市論の系譜学 4]
批判の群島 ギィ・ドゥボ─ルは一九六七年にロサンゼルスの黒人暴動について「スペクタクル=商品経済の衰退と失墜」と題するひとつのテクストを書いている(『アンテルナショナル・シチュアシオニスト』第一〇号)。彼はそこで黒人暴動を消費や商品の世界に対する対抗手段としてのポトラッチとして位置づけている。アバンダンス(豊かさ)の...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.244-256
[論考]
0:チップのなかの空間 ((-1 . ) (0 . INSERT) (8 . AME_FRZ) (5 . 36) (2 . AME_NIL) (10 1.0 1.0 1.0) (41 . 1.0) (42 . 1.0) (50 . 0.0) (43 . 1.0) (70 . 0) (71 . 0) (44 . 0.0...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.126-135
[論考]
ジョン・ケージが編集した『ノーテーション』★一やロジャー・ジョンソンが編集した『スコアーズ──ニューミュージックのアンソロジー』★二、あるいはエルハルト・カルコシュカの『現代音楽の記譜』★三などを眺めていると、現代音楽の作曲家達が、記譜法を通して、実に様々な形で一九世紀的な音楽観から抜け出そうと試みていることが伝わって...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.162-171
[論考]
創造活動に携わるいかなる者にもまして、建築家は、未来を予測するよう心せねばならない。たとえ一軒なりと責任を持って家を建てるからには、建築家は差し迫った未来に起こりうる技術的な変化のみならず、生活様式★一に係わる変化を考慮するべきなのだ。まして大規模な住宅計画、さらには一個の街の全部分に係わるプロジェクトに際しては、いっ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.107-125
[論考]
これから語ろうとすることについて、私は何ひとつ知ってはいない──それが存在していないということを除いては。新たなる美学の素描だの要求だの予告だのといった事柄は、一般に芸術家の実践において、自らの作品のオリジナリティを主張するマニフェストにおいてなされることである。もしくは、根本的に新しいものの覚醒や創発を自ら目の当りに...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.74-84
[論考]
0 さしあたっては当然のことを言うなら、建築は目に見える秩序を扱う。特定の地点に特定の存在モードとしてつくられる建築は「見える」からだ。しかし、設計とはそれにつながっていく過程ではあっても、必ずしもこの最終アウトプットと同一のものではない。「ノーテーション」という本特集のテーマは、前号に取り上げた「サバーバン・ステーシ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.16-28
[論考]
放浪生活を、また、ボヘミアニスムとも呼ぶべきものを讃えること。 ──ボードレール、『赤裸の心』☆一 最近出版されたリガとウラジオストックへの旅の記録において、ジョン・ヘイダックはまたもや、あの建築動物の部族を呼び覚ましてみせた──しかもその形態は大きく変化し、高度に進化している。この部族、すなわちこの十年を通じて少し...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.67-73
[対談]
編集部…今号は、特集を〈ダブルバインド・シティ〉というように問題設定しました。これは具体的には現代都市の特徴を二つの側面から、つまり、ひとつは異質な文化や民族・人種が混じり合い、多中心的・多元的に都市が拡散していく方向と、もうひとつは、神戸の震災で露呈したように日常的には見られないかあるいは隠...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.160-176
[翻訳]
序──隠喩としての「OJシンプソン裁判」 「アメリカでマイノリティであるということは、いつも試されているということだ」 ──ラジオ番粗「LAどっちへ(Which Way LA)」の出演者 「OJシンプソン裁判」は、ほとんどのマイノリティや女性がすでに知っていること──現実の知覚のしかたは多様であること──を、衆目に...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.134-149
[フィールドワーク]
東京、一九の生活 本稿は一九九五年現在東京に生きている一九人の都市生活のレポートである。東京大学建築学科高橋研究室では、建築計画と環境行動研究の立場から、人間と建築、人間と都市の関係についての調査・研究を続けてきた。私たちは都市の価値はその街で日々営まれる生活の質そのものにあると考え、物理的な建築・都市空間だけでなく、...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.125-129
[批評]
ウィリアム・ギブスンが、そのディストピア(反ユートピア)的なSF小説『ニューロマンサー』(一九八四)の中で、サイバースペースと呼ばれる新しい情報ネットワーク、あるいはコンピュータ・マトリクスが上空五◯◯◯フィートから見たロサンゼルスのように見える、と言った時以来★一、コンピュータ・ネットワークのヴァーチュアル・スペース...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.92-108
[批評]
1ベルリン──〈零年〉の都市 「場所の諸問題」をテーマとした一九九四年のAnyコンファレンス〈Anyplace〉において、イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは「テラン・ヴァーグ」という発表を行なっている★一。〈テラン・ヴァーグ〉とは都市内部における、空虚で占有されていない、不安定で曖昧な性格をもつ場所をさす。ソラ=...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.46-60
[図版構成]
TODAY'S JAPAN展コンセプト 今日私たちは7つの都市を生きている。この多層な都市において、個人の空間は都市空間であり、都市空間は個室である。 携帯用電話で友人と話しながら街を歩く。 ウォークマンで音楽を聴きながら電車に乗る。 TV座談会を見ながらFaxのコメントを送る。 自宅からパソコンのキーボードを叩いて...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.83-87
[図版構成]
その頃、私は、しばしば、私の部屋の、私の身のまはりを見廻(みまわ)しては、間断なく、溜(た)め息をついたり、舌鼓(したづつみ)をうつたり、無闇(むやみ)に煙草(たばこ)をふかしたり、さうして茶を飲んだり、それを詩人のやうにいへば、誠に静心(しずごころ)なく暮らしてゐたのであつた。 その私の部屋といふのは、鉤(かぎ)の手...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.78-79
[図版構成]
雑誌『anan』1992年11月号は、アダルトな女性としてのひとり暮らしを特集している。私はこの雑誌を買った。ひとり暮らしだからだ。私が住んでいるのは、〈ワンルーム・マンション〉と皮肉な呼びかたをされている小さな部屋だ。この小さな部屋で、私は『anan』誌の、いかにして他人にわずらわされることなく孤独を守るかという特集...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.79-79
[批評]
痙攣を司る僧侶の死 現時代は、長引く没楽、おそらくは終了不能な没楽の時代である。われわれは禁欲的な僧侶と目を見張らせる驚嘆すべき者とを(決して終わらぬかもしれぬ)終わりに見出すだろうと言ったニーチェの予言は的中したが、後者に限っては、結局緊張下で悪性へと転じてファシストになってしまった。禁欲的な僧侶は、しかし決して変わ...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.109-124
[批評]
一九七六年夏、ノッティングヒル・カーニバル。その翌日の新聞は、この年のカーニバルを「この夏一番暑い日」と報じた──。 八月の最終週のバンク・ホリデイを含む二日間、ロンドン市内の北西部のノッティングヒル・エリアではヨーロッパ最大のカリビアンのカーニバルが開催される。ハイドパークの半分にも満たない面積のこの地域に最近では二...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.141-153
[批評]
もしぼくが優秀な学生だったら、 もっとたくさん学んで、結局、愚か者になっていたはずさ。 西インド諸島のカリプソ きみら教養のあるニグロは、迷子の衆だ。きみらはきみら自身の民の根っこの中にしか、きみら自身を見いだすことはできない。帝国的征服をダシに安定した生活を送っている高慢な教養ある白人青年たちを自分のモデルにするこ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.128-134
[翻訳]
主流へと参入するエスニック・ビジネス 新宿区歌舞伎町二丁目と大久保一丁目の境界に位置する職安通りには、一九八○年代後半から姿を現わし、ハングル文字の看板が掲げられたコリアンタウンが広がっている。そこにはレストランや小さな工場があり、食料品店では韓国の食材だけでなく種類豊富な韓国語の新聞や雑誌も販売している。それは戦前...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.119-133
[批評]
アメリカ人は私によくこう尋ねる。なぜキューバ人は、亡命している者も国内にいる者も、キューバのことだとすぐに感情的になってしまい、議論はそんなに分裂してしまうのか、そしてなぜ私たちの感情は三三年もたっているのに当時のままなのか、と。私はそれにはこう答えることにしている。「私たちはいつも、もっとも愛している人々を相手に戦っ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.111-127
[批評]
ぼくの三冊めの自伝の第一章では、語り手──つまりぼく自身──が自伝についての世界最高の権威諸氏をまえに、これからスピーチをはじめようとしている。 それ以前の二つの自伝は偶然の産物だったが、いずれもはじまりに置かれているのは、人の生涯を判定する専門家のまえに立つという事態だった。最初の自伝は『心ならずの天才の生涯とその時...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.102-110
[論考]
今日の都市におけるダブルバインド的な状況は、たとえば以下のような仮説的なモデルでおさえることができる。 グロ─バリゼ─ションとトライバリゼ─ション 同質化と雑 種(ハイブリツド)化 全体化とディアスポラ ナショナリズムの復活とエグザイル化 ジェントリフィケ─ションと窮乏化 情報化と非情報化 それぞれの項目は緊密に...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.33-51
[批評]
一九六九年二月二四日 親愛なるトムへ、 まえにきみは、ぼくが話していた遊牧民の本について手紙をくれるように言っていたね。ぼくは遊牧民の立場から考えなければならないと言ったが、『ある遊牧民の歴史』などという本を書きたいとは思わない。そうした仕事は、ぼくには荷が重すぎる。いずれにしても、研究者よりは普通のひとたちに読んで...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.94-101
[論考]
地図をつくるまなざし 生命とはなにか、という科学的な問いに答えることが問題ではない。ここで問うのは、生命が身体の活動を通してどのように自らの世界を構成してきたかである。ここでの生命とは、社会文化的な活動なのである。人類は気の遠くなるほどの年月、なんらかの表象記号を媒介にして自らの生命を記述する努力をしてきた。洞窟の岩...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.205-244
[批評]
1 英語の「ランドスケープ」という言葉と日本語の「風景」という言葉には、相似とともに相違があるだろう。オギュスタン・ベルクによれば、日本語の「風景」という言葉が中国から導入されたのは平安時代のことで、ひとそろいの美的図式とともに当時の日本の上層階級に「風景」を成立させたのだという★一。ベルクの指摘は興味深いものだが、と...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.68-87
[批評]
まずはスカイスクレーパー、次いで高架高速道路、そしてショッピング・モール、この三つが、アメリカが建築のタイポロジーに対してなしたもっとも適切な貢献だった。さらにそのどれもが、二〇世紀における都市の大々的な分断化と再構造化に対して、相異なったやり方で挑んだのである。超高層は、従来の都市組織の七階程度の垂直次元を打ち破るこ...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.233-244
[論考]
われわれはおそらく、ルフェーヴルによる空間の政治学に対する要求と、つまるところ、まさしくグラムシ的な建築の探求を擁護するためになにかを語らなければならないことになるだろう。 ──フレデリック・ジェイムソン「建築とイデオロギー批判」 I 多摩ニュータウンを移動していると、奇妙な空間感覚に陥いることがしばしばある。駅や...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.124-136
[批評]
街路の歴史は文明と同じくらい古く、ありとあらゆる人の接触、摩擦、寛大さとともに、人間のつくりだしたほかのもの以上に、公的な生活というものを象徴してきた。だから、誰も街路が影響を受け易く、脆いものだと考えはしなかったであろう。だが北アメリカ全土にわたって、ダウンタウンの道路は、今やゆっくりと、静かに、しかしながら効果的に...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.147-169
[批評]
一九五五年のディズニーランドのオープンにともなって出現した、環境に関する支配的なコンセプトは、南カリフォルニアの生態的、文化的、心理的な風景に後々まで影響を与えることになった。ウォルト・ディズニーは、架空の環境に基づくテーマ別のゾーンに遊園地を構成することによって、祭りのごみごみした雰囲気を追い払い、アメリカの神話を三...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.138-146
[批評]
南方熊楠があこがれた男 一八八九年、当時二三歳だった南方熊楠はミシガン州ランシングに滞在し、読書と野外採集に専念していた。すでに四年目にはいった滞米生活であったが、大学での生活にはほとんど興味を失っていた。とにかく、野外に出て植物を観察・採集し、図書館で読書(熊楠の読書というのは、たいていの場合「写本」を意味する)する...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.122-131
[批評]
〈資本〉が越境し、その過剰流動が、各国の固有経済システムに強い影響を与えはじめている。文化としてのディズニーも同様の越境を開始したとはいえないか。既に東京とパリにマジック・キングダムのシミュラークルを完成した。その模像は、ときにアナハイムの実像(それもまた虚像の集合体だ)をはるかにうわまわる吸引力を発揮する。これは明ら...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.132-137
[論考]
I スナップショット 「郊外」を語ることは、ポストモダニティの文化のなかにおかれた「観光」を語ることに似ている。いうまでもなく、すでに観光と呼ばれる行為じたいが過度の大衆化と商品化によってその近代ブルジョワ社会における巡遊(グランド・ツアー)としての旅の内実を失って記号と表象の波間を漂いはじめたのとおなじように、郊外...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.148-156
[論考]
...で知られる碩学、建築史家・理論家であるマンフレッド・タフーリがこの作品を口 実(プレテクスト... ...ヴェネチアにおいて、心不全のため、著者マンフレッド・タフーリが急逝したとのニュースが入った。 ...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.195-202
[都市論の系譜学 1]
1 批判の都市論、あるいは都市論批判の系譜をさかのぼってみたい。それによって都市論の臨界を見きわめることができるはずである。社会科学において「批判理論」や「疎外論」がはたした役割についてはすでに一定の評価ならびにその限界の指摘がなされている。同じような意味において、狭義の「都市論」を超える方向で都市や建築を語る言説のス...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.317-329
[ヴィジュアル]
マイ・トライブ 大地は変わらずとも 空は移ろいゆく 空は変わらずとも 大地は移ろいゆく 湖を渡り歩き 森を渡り歩く どこに私のトライブはあるのか? と私は自問する どこに私の家があるのか、と おそらく私はノ−トライブに 住む人間なのだ あるいは、嫌われ者のトライブの もしかするとそれは、未来からの祖先のトライブ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.147-160
[論考]
砂丘(デューン) 北海の南岸地域に、低い砂丘地帯がある。その地形は途切れることなく四つの国々の海岸線として拡がっているが、これはライン、マース、シェルデ、レクの四河川の合流する北方デルタが生じさせたものだ。このフランスとオランダの砂丘の吹きさらしの空白の間に挟まれた地域に、奇妙な異物が存在している。瞬時にベルギーと識...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.203-216
[風景の修辞学 1]
1 風景が都市を生む すべての都市は見る人からおのれのかたちを受け取る。ひとつの都市のかたちは無数にある、といってもよかろう。そのかたちは表象として想像力にしみとおる力をもつようになる。もしかすると都市など、砂漠をふきわたる風のまきあげる砂塵のように、どこにも存在していなくて、ただ人びとがあたえた表象だけが、人びと自身...
[論考]
第二次世界大戦後の建築と都市の歴史は、テクノクラートが居住する場所、余暇を過ごす場所、労働する場所をめぐって生まれた悪夢というに相応しく、アスファルト砂漠、粗末な街路、原子力廃棄物の墓場といったイメージを漂わせる。戦後の建築や都市は今や、非人間性、荒廃、破滅といったタームの同義語なのである。 しかし過去四○年間の建築の...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.217-223
[論考]
都市と荒野とが鋭く対立する辺境(frontier)の存在は、常にアメリカの社会、経済、文化の根底にあって、それらをつき動かしてきた原動力である。特に一九世紀半ばになって、工業化が進む中で都市が膨脹し、荒野が開拓され尽くした時に、ロマン主義者によって辺境は再発見されていく。ヘンリー・ソーロー(Henry Thoreau,...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.231-242
[対談]
1 三つのプログラム 八束…議論の前提として、いくつかの問題を整理しておきたいと思います。まずプログラムと言われているもののなかに、三つのものが区別できるだろうということです。ひとつは常識的に言われているプログラム、施設としてのビルディング・タイプの根幹をなすハードコアとしてのプログラムと言ってもいいわけですが、建築や...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.103-121
[インタビュー]
建築家、デザイナー、フィレンツェの前衛集団「アーキズーム」の創設者、アンドレア・ブランジは一九七四年以来、「ノンストップ・シティ」のコンセプトを展開し、現代の都市を工業的物体の散種された巨大な空間とみなしている。「都市、それは私たちにとって百メートル四方に区画されたトイレだったのです」。この定義は、脱工業化した「工業化...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.60-63
[批評]
ル・コルビュジエが白い服をたえず褒めたたえたのはもちろん、色彩の過剰を攻撃していたからである。『今日の装飾芸術』で彼は白く塗りつぶすことを実に熱心に宣伝し始めたが、これは色彩をファッショナブルに使うことを批判し始めたのとちょうど同じ箇所においてである。この書は第一○章の「建築の時」が宣言されるまでゆっくりと、しかしだん...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.95-112
[批評]
1 一九四二年、イタリア 一九四二年一一月、ソ連軍は独ソ戦始まって以来のはじめての大がかりで組織的な反撃を展開する。戦史に有名なスターリングラード包囲戦の始まりである。一一月一九日にスターリングラード南方で始まったソ連軍の攻勢は一二月一○日には北方戦線でも開始され、そしてこの地区における枢軸軍の主力が、イタリア遠征軍...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.154-170
[批評]
1:「初めての」絵画 発端となる絵画[図1]では、画面を水平に二分するような明暗の中にいくつかの物が配されている。表面の艶やかな水平面に置かれた一つの白いキュー...メリカでの抽象絵画擁立の布石となった、アルフレッド・バーの『キュビスムと抽象芸術』(一九三六...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.77-94
[東京ディズニーランドの神話学 1]
はじめに これからわれわれは東京ディズニーランドという謎の空間を読み解く作業に着手する。二〇世紀が終わろうとしている今、文明批判や近代批判は、百花繚乱の様相を呈している。環境保護運動やジェンダー論といったフィールドなども、その範疇に入るのかもしれない。メディア・テクノロジーの飛躍的な進化に伴って、「リアリティ」や「身体...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.207-218
[図版構成]
キリストの生誕より2度目のミレニウムがあと数年で終わろうとしている。これは恣意的に決められた数字の節目でしかないのだが、すでに数えきれないほどの世界の終末が語られてきた。数々のカタストロフ、数々のハルマゲドン……、それらは前世紀末の退廃的な雰囲気よりもさらに悲壮感をおびている。が、今世紀の終わりは次なるミレニウムの始ま...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.129-148
[批評]
1『東京─大都会の顔─』 一九五二年に岩波写真文庫の一冊として刊行された『東京─大都会の顔─』の冒頭には、「この本の読みかた」として次の文章が掲げられている。 東京に関して、その歴史的懐古、首都的性格、或いは戦災の報告は、また別の課題になるであろう。ここでは大都会のもつ一般的な容貌を、東京に代表させて説明する。読者は...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.196-206
[批評]
1:図の力 建築に使用される図は二つの側面を持っている。第一の側面は、建築家によって構想された三次元空間のイメージを二次元の図に翻訳し、図の読み手に伝達すること。この場合、読み手の解釈は作家の伝達内容を正確に理解することにある。第二の側面は、その形態イメージを読み手に伝えるだけでなく新たなイメージを提起することである。...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.171-180
[批評]
F・ド・ピエールフウは「五分間に一人の割合で、フランス人は結核のために死亡している」と一九四二年に出版された『人間の家』で報告している。共同執筆者であるル・コルビュジエは、この本の挿絵として、小学生──彼らはおそらく「貧民窟」と名付けられ『輝く都市』に掲載された、絶望的で空虚な視線をカメラに向けている写真の中の子どもの...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.181-190
[インタビュー]
ロンドンとロッテルダムの都市建築事務所(OMA)の創設者、レム・コールハースは、"Delirious New York"の出版の年である一九七八年以来、都市について問いを発し続けている。彼がチーフ・アーキテクトを務めるユーラリールでの実験に、レム・コールハースは、都市の秩序を組織することは今や世界的に困難であるという一...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.51-55
[インタビュー]
「任意の数の中心から成る星雲における」都市の爆発を確認しながら、ジャン・ヌーヴェルはこの現状を受け入れ、建築を世界の修正と延長として定義する。彼は、他の概念的なアプローチに、古典的な構成の原則の代わりをさせる。そうしたアプローチでは、光、ずれの概念、映画的なシークエンスのような基準が介在する。それらは、プラハやベルリン...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.56-59
[都市の全域性をめぐって(上)]
1 空間論的転回 都市をめぐる社会科学的な議論のなかで、今日しばしば、社会理論や都市の社会学における「空間論的転回」と呼ばれる事態が語られてい る★一。アンリ・ルフェーヴルの都市論、マニュエル・カステルの新都市社会学、デヴィッド・ハーヴェイの社会地理学、アンソニー・ギデンスの構造化理論などに典型的に見出されるとされるこ...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.246-254
[批評]
ここで取りあげるのは、シャルロット・ペリアンがル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレと共にデザインをした家具と、二人のインテリア全般のアプローチに与えた彼女の影...人、前川國男と坂倉準三、スイス人建築家アルフレッド・ロス、ル・コルビュジエのいとこでパートナ...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.227-234
[批評]
コーリン・ロウは、『アーキテクチュラル・レビュー』誌一九四七年三月号で、ル・コルビュジエの「スタイン─ド・モンジー邸」(一九二六─二七)の平面とパラディオのヴィラ・マルコンテンタのそれを比較し、世界中の注目を集めた。そのことに刺激され、このル・コルビュジエのヴィラは数多くの研究者の研究対象となったのである★一。しかし、...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.191-197
[批評]
ひとつのアイディアを具体的なかたちで表現すること——私たちはそれを、毎日、話をするたびに行なっている。私たちが話しはじめるときは、すでにアイディアを抱いている。脳はこうしたアイディアを音に変換する——話言葉(スピーチ)という音に。話言葉は単語とセンテンスからなり、この両者もまたデザインされなければならない。私たちが、話...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.120-133
[批評]
本稿では、本質的に異なると思われるような三つのテーマをとりあげる——すなわち、社会的に目覚めつつあるエコロジカルな意識、複 合 性(コンプレクシテイ)に関するニューサイエンスがきりひらいた新空間、そして、コンピュータ・テクノロジーという環境が社会と文化にもたらす影響。本稿は、この三つのテーマを収束させることにより、応用...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.104-119
[論考]
メディアがユニット派を注目する 今年の後半、飯島洋一による「ユニット派批判」の論文が話題になった★一。ユニット派とは何か。アトリエ派の建築家が強いカリスマ的な指導者であるのに対し、ユニット派では複数の若手建築家がゆるやかな組織をつくる。しかも、一九六〇年代生まれがどうやら多い。こうした傾向が建築の雑誌で最初に注目された...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.134-145
[日本]
1960年生まれ。86年、京都市立芸術大学大学院修了。88年、石井修/美建設計事務所を経て、遠藤秀平建築研究所設立。98年より神戸芸術工科大学非常勤講師。主な作品=《Cycle station 米原》(94)、《Transtation 大関》(97)、《Springtecture 播磨》(98)、《R//A》《R//B...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.154-157
[シンガポール]
シンガポール・アイデンティティ 「カオスすらカオスとしてプランされている」とレム・コールハースが観察したように、時として都市テーマパークのようにさえ思えるほど効率的にそして美しく整備されたスーパー管理国家、シンガポールも建国三五年を経て、価値の転換期をむかえている。 二〇〇〇年七月に発表された二つの新しい地下鉄の駅...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.122-123
[メキシコ]
1966年メキシコ生まれ。89年モンテレイ工科大学建築学科卒業。97年ハーヴァード大学大学院デザイン学部卒業。94年以降独自に設計活動を開始している。現在、モンテレイ工科大学建築学科客員講師。 主な作品=《Casa Elizondo》《Pabellón Elizondo》《Discoteca Varshiva》。 メ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.118-119
[イタリア]
1964年シチリア生まれ。89年ローマ大学建築学部卒業後、渡米。アイゼンマン事務所に勤務し、コロンビア大学マスターコースに通う。現在はローマで自分の事務所をかまえ、設計を行なっている。 史跡財産の保存と新しい建築 ファッション雑誌のグラビアでもお馴染みのようにイタリアといえばデザインの宝庫と思われがちである。実際ア...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.108-109
[スペイン]
ルイス・モレノ・マンシーリャ(Luis Moreno Mansilla)は1959年、エミリオ・トゥニョン・アルヴァレス(Emilio Tuñón Alvarez)は58年に、それぞれマドリードで生まれた。二人はともに1982年にマドリード建築大学(ETSAM)を卒業し、1983−93年、ラファエル・モネオの事務所に勤...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.114-115
[素材─構造]
妄想 東京に暮らしていると、隣接するビルとビルのあいだに空いたあの無駄な隙間にまったく違和感を感じなくなる。たしかにそれは普段なら見すごしていてもなんら不都合のない微小な空間であるが、しかし狭小住宅の設計になぞかかわると、いかにも恨めしい隙間へと変わる。窓を穿ったそのすぐ先にある隣家の外壁はいったい何なのか。空気の層を...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.88-91
[素材─構造]
「素材」と「物質」はよく似ているし、普段はあまり区別されずに使用されているが、実はその根本で微妙に違うように思う。その違いはマターとサブスタンスとマテリアルの違...近いということになるからである★三。 アルフレッド・バー ピカソは、コラージュの画面の中に新聞...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.96-99
[建築家的読書術]
当たり前のことかも知れないけれど、本を読んだり、展覧会に行ったり、映画を見たりするときに、建築に役立つかどうかということは特に考えない。自分の素朴な好奇心に任せている。しかし僕の作る建築自体が、その同じ素朴な好奇心から出発しているのだから、どこかで繋がりがあるのは確かなのだろう。 レクチャーのあとの質問の時間に、どうい...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.102-103
[建築を拓くメディア]
マテリアルが建築を誘導する。 ヘルツォーク&ド・ムーロンやピーター・ズントーらの建築を通して、私たちはその事実を目撃した。彼らの作業がもたらした建築におけるマテリアルの可能性とは、ひとつには建築における表層の復権であり、もうひとつは建築の組成を再編成させるマテリアルの可能性である。ヘルツォーク&ド・ムーロンの建築が提示...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.116-117
[自然─環境]
1 今年の三月にバルセロナを訪れた際、低く抑えられた市街東方のスカイラインに二つの建設現場が突出していた。アントニオ・ガウディによる《サグラダファミリア贖罪聖堂》(一八八二—)とジャン・ヌーヴェル設計のハイライズ、《アグワス・デ・バルセロナ本社ビル》(以下《アグワス・タワー》、一九九九—)の現場である。 ガウディの現場...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.156-159
[自然─環境]
春もまだ始ったばかりの頃、東京大学の駒場リサーチキャンパスを訪れる。夕刻少し前、雲ひとつない空は蒼く高く抜けている。北側の正門から、右前方に少し進むと端正な佇まいの新しい建物が目に入る。六階建てのその建物は、ことさらその存在を主張することなく、ましてや大げさなこれ見よがしのパフォーマンスといった振舞いをせずに、しかしだ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.148-151
[制度─都市]
アトリエ・ワンの二人は笑みが絶えない。彼らに論文指導を受けた、とある人曰く「彼らは何にでも笑える人。フツウのできごとでも周りの事柄を取り込んでオモシロク見てしまう人」だそうだ。鉛筆が転がっても笑える女子高校生とはちょっと違う。つまり彼らは、建築環境はもとより、日常生活にいたるまで、ひとつの対象を単独に見るだけではなくそ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.132-135
[制度─都市]
ここで示したい事実はきわめて単純である。最初に結論から書いておこう。建築とは都市空間である。ポルトガルの二人組の建築家ユニット、アイレス・マテウスの試みを、一言で言えばそう集約できるかもしれない。いくつかの彼らのプロジェクトにおいて、敷地の上にはまず都市がつくられ、そこに建築的な表皮が加えられる。だから建築空間のなかに...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.140-143
[スイス]
都市/山の建築 スイスは日本と同様、国土の半分以上が山からなる国である。こうした地理的条件や気候などの違いは、スイスの異なる三つの語圏(独、仏、伊)の独特の文化ということ以上に、ごく限られた地域ごとの建築様式を成立させている要因と考えられている。多くの山岳地方の集落は渓谷に沿った山の斜面に発達し、村落間の交通も谷づた...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.106-107
[オーストリア]
クリストフ・ランマァフーバー Christoph Lammerhuber:1966年リンツ生まれ、ウィーン工科大学で学ぶ。 アクセル・リネマイル Axel Linemayr:1965年リンツ生まれ、ウィーン工科大学で学ぶ。 フロリアン・ヴァルネア Florian Wallnoer:1962年イタリア、メラン生まれ、ウィ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.102-103
[都市史/歴史]
都市史における五つの潮流 一九九〇年代の都市史関係の文献を回顧すると、それには大きく分けて次の五つの潮流があるように思われる。まずひとつめは新たな都市権力論の登場であり、二つめは建築における都市「公共性」論の確立、三つめは八〇年代から培われた場所論の展開、四つめは景観・風景論の萌芽、最後の五つめは学際的研究の深化による...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.120-123
[論考]
いつ見たのか、あるいはどこで見たのか思いだせないし、いったいどのような心理状況で見たのか覚えていないにもかかわらず、ふとしたきっかけから自分の脳裏に写しだされる映像というものがある。同時に、映像の背景に展開する都市風景を思いだそうとしていることに気づく。ここでは、比較的ランダムに九〇年代の映像作品のなかから印象的な都市...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.140-146
[都市/メディア]
ここ数年、いわゆる建築雑誌以外のメディアにおいて建築が取り上げられる機会が多くなってきた。NHKの『ETVカルチャースペシャル』で「建築家バトル」が行なわれたのはつい最近のことだ。また映画やゲーム、写真集といった身近なメディアにも現在の都市の姿は否応なく現われている。いやむしろ、そのようなメディアを通して都市のイメージ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.116-119
[都市/テクスト]
都市記号論を超えて 一九六〇年代にK・リンチやR・バルトが都市記号論を準備し、七〇年代にコンテクスチャリズム論が語られ、八〇年代は学際的な都市テクスト論が興隆した★一。これらは近代の都市計画がもっぱら建設者の論理だったのに対し、受容者の解読を多様化する試みといえよう。しかし、結局、読むための方法は作るための手法になりえ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.112-115
[論考]
90年代に生まれた最も新しい音は、レコードの上に乗る針の音である。 かつてないほど多くの音が90年代を飛び回っていた、ということをまず確認しておこう。 なによりも80年代のはじめに生まれ、80年代後半にはすでにアナログ・レコードの売り上げを追い抜いていたCD(コンパクト・ディスク)というデジタル音響メディアが音楽の主...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.106-107
[都市/テクスト]
しばしば語られるように、八〇年代は記号論やテクスト論、消費社会論的な都市論隆盛の時代であった。それは、八〇年代の日本の経済的好況=バブルの下での都市の消費社会化、記号の操作を媒介とする都市や都市空間それ自体の商品化とほぼ正確に対応していたと言うことができる。やはり八〇年代に流行した、明治・大正・昭和初期の「モダン都市生...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.110-111
[論考]
OMA(Office for Metropolitan Architecture)は、著作・建築・都市などジャンルを超えた創造活動を行なう建築家組織だ。彼らは、一九七八年のデビュー以来、複数の建築家が対等な立場でプロジェクトを計画する都市的な新鮮さを持ち続けてきた。彼らの新しさは、都市的なパラダイムが原動力である。ここ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.165-172
[翻訳]
一九八八年、ニューヨーク現代美術館(MoMA)は、最新の建築潮流としてディコンストラクティヴィスムの展覧会を開催した。一九三二年の「近代建築」展以来、MoMAの建築展はすべて重要なサインとして、そこで扱われた建築運動や潮流の意義を保証し、公認するものと見なされてきた。また「近代建築」展で最初の成功をおさめたフィリップ・...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.181-191
[論考]
二〇〇〇年夏、アメリカ各地のデジタル系建築家、建築や空間にアプローチする情報系研究者の取材を行なった。コンピュータによって作り出される情報空間(この論では広い意味で捉えてサイバースペースと呼ぶ)を形態生成シミュレーションの場とする試みではなく、いかにして現実空間にサイバースペースを組み込み、その相互連動によって新しい機...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.78-83
[イギリス]
OCEAN north:1995年に北欧のさまざまなデザイナーにより設立された非営利のリサーチ・デザイン・チーム。HP=http://www.asplund.arch. kth.se/workshop/ocegr.html。 URBAN-OFFICE:1999年設立。ロンドンをベースにした都市建築設計事務所。HP=ht...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.98-99
[論考]
ヨーロッパにとって、二〇世紀最後の二〇年間は混迷の時代であった。東欧の共産政権の崩壊、東西ドイツの再統合、欧州連合(EU)内部での統一の加速、バルカン諸国の戦争などによって、まったく新しい政治的ランドスケープが形成されたのだ。 時を同じくして経済情勢も変化した。現在でもヨーロッパには、かつての「鉄のカーテン」によく似た...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.74-77
[論考]
ネイション・ステートを懐疑的に見なくてはいけない今日の状況下では、もはや首都という存在すらユートピアになりかねない。幸田露伴が「一国の首都」で説いたモラルたっぷりの「自覚」★一を、昨今の東京で見つけるのは不可能であろう。かつて日本でも「国家的デザイン」が議論されたことはあった。これからもその議論が行なわれる契機はあるだ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.210-220
[翻訳]
高名だが高齢の科学者が、それは可能であると言えば、彼はほとんど確実に正しいことを言っているが、それは不可能であると言えば、間違っているのはまず確かである。 アーサー・C・クラーク★一 イデアは、否定を知らない。 ジル・ドゥルーズ★二 ニュースペースへむけての公 理(アキシオム) <箇条書き>10 アートとは、道...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.192-203
[翻訳]
アパルトヘイトのもとでの都市生活の写真は、たとえ南アフリカの人間ではなくてもおなじみのものだ。かつては「マッチ箱」のかたちをした家が延々と立ち並ぶ単調なイメージが、国家によるタウンシップ(非白人指定地区)の規格化を物語っていた。映画製作者やジャーナリストお気に入りのテクニックのひとつは、オーウェルの小説に出てきそうなこ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.204-209
[建築を拓くメディア]
「磯崎新を軸に日本建築史を読みなおす」。これがこの小論に課せられたテーマである。磯崎新の近年の日本を主題とした著作、『空間の行間』(福田和也との共著、筑摩書房、二〇〇四)、『漢字と建築』(岡崎乾二郎との共同監修、INAX出版、二〇〇三)、『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三)あたりがおおよその視野となるだ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.118-121
[建築を拓くメディア]
筆者は〈情報と建築〉をめぐる書物を、次の四つのカテゴリに分類して本棚に収めてきた。 1. コンピュータ上の立体造形がパラメトリック・デザイン→アルゴリズミック・デザイン→ジェネレイティヴ・デザインといった方法論へ展開し、進化的構造計算手法と結びついた〈形態生成の系〉。 2. 情報時代と環境時代の融合を象徴するイコンと...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.128-129
[インタヴュー]
東工大清家研究室 石崎──今日はご自身の作品を語っていただくというよりは、先生が戦後、どのような時代背景のなかにおられたかということを中心にお話をうかがえればと思います。特に一九五〇年代から六〇年代半ばまでの伝統に取り組まれた頃のこと、また当時の建築を巡る状況を先生がどのように見られていたかということを中心にお話願えれ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.166-180
[批評]
1 新たな空間表現 バウハウスの建築の図的表現を特徴づけるもののひとつとして軸測投象(axonometric projection)★一の使用を挙げることができる。 軸測投象の使用は後述するように二〇世紀初頭のモダニスム建築の台頭と並行関係にあるが、バウハウスもその例外ではなかった。一九二三年のバウハウス展に際して公...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.185-195
[論考]
日本を訪れた者は、現代の日本の都市はカオスであり、中には実にすばらしい建築があるにもかかわらず、全体的に美しくデザインされていないと感じるはずだ。 これは最近の意見ではなく、早くも一九三六年にブルーノ・タウトが述べたものである★一。日本の都市空間を理解せずに西洋の理論を押し付け、日本の都市環境を「改善」しようと試み...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.143-148
[論考]
カルロ・ギンズブルグ 一九七三年にジョセフ・リクワートが『アダムの家』を著わしたとき、イギリス建築史学会の重鎮E・H・ゴンブリッチは、その書のタイトルが「天国の家」であるのにかかわらず実際は「地上の家」を扱うものだったことを揶揄した。そして、その論理が推測によって異なる文脈にあるものを連結することで成り立っており、歴史...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.87-98
[批評]
大晦日の午後五時頃、落陽のなかで、五〇代半ばの女性が遮断機の前にある車両の脇の小さなモミの木の所に立ち、クリスマス・ボールを幾つか取り外している。その前に彼女は、連邦共和国の 西側から来た私たち、女性都市計画家、写真家、そしてそのほかの二人の客人をゲレンデの向こうまで案内してくれたのだ。年齢的な問題で、彼女は、雇用創出...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.90-102
[対談]
1 八束──今回の特集では、作家や作品というよりも広義の意味での言説を中心に明治以降の近代建築史を概観するという趣旨で、ここでは「建築史」という言説タイプを取り上げようと思います。いろいろと「日本近代建築史」に関するテクストを読んでいると、当り前のことですが、それらもまた歴史の一部であるということを改めて感じないではい...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.62-76
[論考]
1都市を浮遊するように生活するーホンコン・スタイル ノーマン・フォスターの新しい空港ができて、啓徳空港にジェットコースターのように降り立つスリリングさは二度と味わえなくなったが・香港ヘランディングする数十分間は、まさに都市の断面図を見る瞬間でもあった。空港は都市の心臓部に位置しており、飛行機の窓からは高密度な建物群を見...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.133-143
[論考]
だからともかくも、私にとってそう見えるのかもしれないが、ミースを通して、ミースの多くを拒絶することを通して、しかしそれでもミースを通して、《イームズ自邸》は生まれた。それはまったくオリジナルで、まったくアメリカ的だ。 ピーター・スミッソン★一 出版された最も古いその住宅の写真には、トラックが一台写っている。トラックは...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.166-181
[論考]
郊外住宅の周辺から 芹沢──僕は現在茨城県の牛久に住んでいますが、今度別のところに住もうと思っているんです。三人の子供のうち二人が家を出たものですから、なるべく自分の生まれた所に近づきたいと漠然と考えて家探しをしています。でもこれがうまくいかないんですね。 引っ越しを考えている理由としては子供が家を出たからという他に、...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.40-55
[批評]
私たちはまず自分の個人的目的のためにサイバースペースをつくりだし、それから他の人びとを招きいれて、その空間を共有する。サイバースペースの本質をどう理解するかについては見解の分かれるところであるし、私のアプローチが特別にすぐれていると主張する気もない。私自身はある目的のための手段としてサイバースペースを利用しだしたが、そ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.100-103
[批評]
私たちは誤ってサイバースペースに落ちた。ロンドンのアーキテクチュラル・アソシエーション・ギャラリーで自著『進化論的建築(An Evolutionary Architecture)』についての展示を準備している最中に。私たちはこの展示と本★一によってアーツ・カウンシルの助成金を与えられていたが、あとになって、これを授与さ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.90-99
[批評]
0エイドスとイデア 「なぜなら、エイドスとは日常の言語では、私たちの感覚的な目に見える物が、提供する容相を意味しているからである。にもかかわらずプラトンは強いてこの語に、感覚的な目には全く且つ決して把えることのできない、そのものを命名するというごとき、全然非日常的なものを、需めているのである。ところがその程度で、その非...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.76-89
[論考]
ゲートで閉ざされるアメリカン・マインド アメリカにおいてハウジングや教育、公共交通機関や宿泊施設など、あらゆる場での差別が法的に禁じられてからすでに三〇年以上が経過している。しかし今日、われわれは差別の新しい形を目の当たりにしている。それはゲート(門)と壁で区切られたプライヴェートなコミュニティだ。アメリカ人は私的領域...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.194-204
[座談会]
多木──今日は「ニュー・ジオグラフィ」ないしは「ヌーヴェル・ジオグラフィ」──いずれ「新しい地理学」と呼ばれているものも、やがて「ニュー」や「ヌーヴェル」という部分が消えてたんに「地理学」として成立するとは思いますが──が探究しうる可能性とは何か、あるいは「新しい地理学」と呼ばれているもののエピステモロジカルな根底につ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.64-84
[批評]
都市社会学者ヴァルター・プリッゲは、ヴァーチュアル・シティが約束する新たな都市性を探究している。ラディカルな変化の可能性は、今やヴァーチュアルな空間に開示され、最早、公共のための文化ではなく、公共による新たな文化が約束されている。しかしこのような未来の可能性は、いまだに古い構造の中に捕われている。果たして、デジタル・ア...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.81-89
[批評]
...lt, Lyotard, Derrida, New York: Methuen, 1987.を参照。マンフレッド・タフーリも数冊の本の中でフーコーのヘテロ...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.188-205
[論考]
GPSのアーキテクチャ 本特集号のキー・デヴァイスである「GPS」。まずはその技術的知識をおさらいしてみよう。 「GPS」は、もともと一九七三年にアメリカが軍事衛星として打ち上げた衛星の名前であった。現在では、ナブスター衛星群を利用して位置を特定する(ポジショニング)システムの総体をGPS(Global Positio...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.66-67
[インタヴュー]
石川初──「Living World」★一の活動や作品には、僕らが「グラウンディング」と呼んでいるような視点に共通するものを感じますし、啓発されています。今回は、あらためてその「テーマ」をお聞きしたいと思いました。去年(二〇〇五)の夏に、「窓」というタイトルで個展をされました★二。 1──LW with 下村義弘(SD...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.98-99
[論考]
われわれがいま立っている場所がなんなのか、知りたい。 その空間や時間を、そこを歩きながら確かめたい。 グラウンディングとは、実践の方法論である。自分で地表を歩いてみることはもちろん、ツ ールひとつにしても、適切なものを選んで手に入れ、実際に使ってみる。それを携えて街に出て少しずつ使いこなしてゆきながら、新しい使い方を思...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.62-65
[建築を拓くメディア]
カタログと建築|田中陽輔建築展覧会という形式 建築展覧会という形式が存在する。そして、世界各地の近現代美術館の重要なコンテンツとして確立されている。ただし、ある性質において、それは美術展やデザイン展と決定的に異なる。通常、建築展はパヴィリオンという形式を除けば「なま」の建築の展示を意味するわけではなく、その表現を模型...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.146-149
[建築を拓くメディア]
お見合い系から出会い系へ 関西の情報誌『L magazine』(京阪神エルマガジン社)は二〇〇三年一一月号に引き続いて二〇〇四年一一月号でも書店特集を組んだ。書店界隈が熱いらしい。京阪神では「柳々堂」(一八九四—)や「大龍堂書店」(一九二五—)などの超老舗書店だけではなく、「メディアショップ」(一九八一—)のように早い...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.130-131
[建築を拓くメディア]
森川嘉一郎は『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ』(幻冬社、二〇〇三)で、未来の都市の景観を予想しようとする時、一九七〇年代までならば、建築家がつくる建築作品の動向を見ていればよかったと述べている。建築家たちの間の流行を組織設計事務所が取り入れ、さらにそれを建設会社の設計部が取り入れるから、都市には一昔前の建築家の作品...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.132-133
[論考]
情報環境の遍在は人間の活動に新たな流動性と多様性をもたらした。それは建築や都市のあり方や記述形式を変化させるだろう。これまで個別の建築の内側に閉じられていたさまざまなプログラムを外在化し、それらを有機的に連携させることが可能になる。建築の変化には二つの方向性が考えられる。ひとつは、情報技術と連動した大きなユニヴァーサル...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.136-139
[資料]
●関連図書 宮脇昭『植物と人間──生物社会のバランス』NHKブックス、1970 貝塚爽平『東京の自然史』紀伊國屋書店、1976 ロラン・バルト『エッフェル塔』(宗左近+諸田和治訳)審美社、1979 槇文彦『見えがくれする都市』鹿島出版会、1980 坂誥秀一『日本の古代遺跡(32)東京23区』保育社、1987 貝塚爽平『...
[批評]
現代建築の歴史は必然的に多様なものであり、雑多ですらあるだろう──建築そのものから離れた、人間的な環境を形成するための構造の歴史。そしてそれらの構造を統制し方向...建築全体の経緯を辿ってみることだろう。 マンフレッド・タフーリ、フランチェスコ・ダル・コー “L...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.129-154
[批評]
建築にとって装飾とは何か? 現在の装飾論ということであれば、まず鶴岡真弓の仕事に触れなければなるまい。ケルト美術研究に始まり、さまざまな装飾・文様の再評価によって美術史に新たな地平を開きつつある鶴岡は、自らの研究の意義について、一般向けに次のように語っている。 装飾という不思議な美術は、存在と存在を分節する(ための)...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.164-171
[批評]
六〇年代以降、ミースはポストモダン建築の保守的なセクトと急進的なセクトのどちらからも批判の標的とされてきた。「より少ないのは退屈である(レス・イズ・ボア)」とい...ズム)的な性格は、はやくも一九三四年、アルフレッド・バーをして躊躇なくその平面をテオ・ファン...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.102-109
[批評]
これまで「細部(ディテール)に神が宿る」という金言は、建築の世界ではミース・ファン・デル・ローエの言葉と考えられてきた★一。しかしミースの参照源であるかもしれないドイツ語「Der liebe Gott stcekt in Detail(細部に神が宿る)」は、アビー・ワールブルクが美術史研究における聖像学(イコノグラフィ...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.90-101
[批評]
細部・ディテール・納まり 塚本由晴──OMA/レム・コールハースのディテールは、安っぽいとか、素人だとか、長持ちしそうもないとか、結構悪い評判を聞くけど、逆にこんなに簡単でいいんだとか、脈絡なしでいいんだという自由をそこに感じることもできる。彼の場合、ディテールというものの捉え方がいままでの建築家と違うのだろう。現代芸...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.80-89
[論考]
1 一九世紀の建築写真 建築は、写真にとって発端からすでに主要なモティーフのひとつであった。二人のジェントルマン・サイエンティスト、ニエプスとタルボットの最初期の写真を想起しよう。ニエプスによる窓から見える納屋と鳩舎の眺め[図1]、タルボットによる格子窓の映像は[図2]、写真の起源として長く記憶されてきた。そのいささ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.83-96
[論考]
建築は基礎(基壇)でしっかり地面にインプラントされて身動きできない存在だから、何らかの手だてで代理的イメージを制作して流通させないことには、より広い世界を獲得するには至らない。大規模な人工物(アーテイフアクト)に直面した感動を人に知らせたいという欲求は、修辞術(レトリツク)や絵画描写を進展させた。既に紀元前五世紀の古代...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.105-116
[論考]
私の目的は、万博の根本原理である国民国家に囚われない、自由な美術展を創造することにある。 万博と国民国家 アメリカの参加が意味するもの クレオール文学者のモーリス・ロッシュは、一九世紀に始まった万博は、西欧の都市国家から国民国家へ、そして市場経済形成へと近代化していく変遷の過程の産物であったとしている★一。一八七〇年...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.116-124
[論考]
戦争と万博の類似に気づいたのは、愛知万博の仕事を引き受けたときだった。 通産省(当時)が日本政府館の基本理念を作成するにあたり、河合隼雄や川勝平太など、二〇人の委員を選定したのだが、多忙な著名人が全員出席する会議を繰り返すのは難しい。そこで筆者がヒヤリングを行ない、意見をもとにテキストを書くというものである。二〇〇〇年...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.155-163
[インタヴューを終えて/昭和残響伝リターンズ]
さよなら万博、三たび 二度あることは三度ある。万博にさよならをするのは、これで三度目になる。まずはじめは「太陽のうらがわ/太郎のはらわた」と題したインスタレーションで、である。これは太陽と爆発の芸術家として知られる岡本太郎の闇の部分に取材したもので、民族学者としての岡本という見立てのもと、南青山の太郎の家の庭から拝借し...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.112-115
[翻訳論文]
ここまで、このコラボレーションに対する期待を概説し、その期待が必然的に遭遇したゆがみや留保を指摘してきた。これによって多くのことが得られているだろうか。あるいは、このイヴェントを通じて最も険しい道をたどることによって、最も楽な道をとったのだろうか。会合の記録とデザインを調べれば、速やかかつ正確に、これまで議論してきた以...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.171-185
[翻訳論文]
建造環境が建造されるのは建造を許可されたからである。建造環境が建造を許可されたのはそれが制度ないしは支配的文化を表象し反映しているからである。建築物の予算がパブリック・アートの予算の一○○倍あるのは、建築物が仕事と生産物とサービスを提供しそれは市の財源を増加させるからである。パブリックアートは二級市民のように、裏口から...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.137-148
[翻訳論文]
スケートボーディングは、都市環境と対立するものだ(「スケートボードは、所持品検査を受けずにストリートで武器として使える唯一のもの」★一)。スケートボーダーたちは、自分たちのために空間を再定義する際に、物的にだけでなく概念的にも空間を取り入れ、そうすることで、街によって誰もが理解するものの核心に一撃をくらわす。スケートボ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.149-158
[論考]
博覧会と観光 一九七〇年の大阪万博は開催期間中に六四〇〇万人を超える入場者を数えたが、その数は国内の観光量にも反映された。七〇年に国民が一泊以上の観光旅行に出かけた量は、一九六〇年代を通じて毎年増加傾向にあったなかでも最も高い値を示し、その内容も会社による慰安旅行が減少し、個人の行楽旅行が増加するという変化を見せていた...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.164-177
[論考]
1 万博──政治経済学の系譜 一八五一年のロンドン以来、万博──万国博(exposition universelle)、国際博(international exhibition)、世界博(world fair)等々──は「進歩の時代」を象徴するイヴェントとして幾度となく開催され続けてきた。この進歩の時代を眺めると、万博...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.178-186
[論考]
一九七九年に王立英国建築家協会で行なわれた「現在の都市の苦境」と題する講演において、〈近代建築の破滅〉について語るコーリン・ロウは、それをひとつの寓話の形として...たロウ後期の代表作『コラージュ・シティ』(フレッド・コッターとの共著)では、古代から同時代ま...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.100-107
[論考]
I-a 世界に一人の予知能力者がいると想定してみよう。彼は未来の出来事すべてを見通すことができ、その点で神のような存在であるが、しかし、ある一点において神から決定的に隔てられている。すなわち、彼は全知の存在ではあるが全能の存在ではない。神において知ることと行なうことが等価であり、いわば神は世界を創造することによって、そ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.108-117
[翻訳]
一九世紀末にヨーロッパの大都市が急成長し、伝統的な都市は 大 都 市 (グロース・シュタット)あるいはメトロポリスとして知られる都市形態に変わった。この変容によって、モダニズムと前衛というきわめて重要な文化が生み出されただけでなく、社会学、心理学、政治地理学、精神分析といった新しい学問分野に基づいた、新しい都市...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.80-99
[論考]
1 身体・イメージ空間の襞 一九六〇年代にマーシャル・マクルーハンが『メディアの理解』で電気メディアを身体外部への中枢神経系の拡張であると述べるのに先だち、二〇世紀初頭のゲオルク・ジンメルやヴァルター・ベンヤミンの都市論は、近代都市の経験が人間の神経に及ぼす作用を通じて、都市における人間身体を一種のサイボーグととらえる...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.70-79
[対談]
「生きられる東京」という問題設定 内田──今回の特集を機に「生きられる東京」ということを考えてみました。都市の社会学的研究や文化の研究が持っている枠組みがあります。また、その枠組みの根底には明示的に意識化されなくてもそれなりの社会概念があります。その社会概念というのは、都市社会学や都市の文化的研究がはっきり言わないとし...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.66-81
[論考]
序 東京にクラブとよばれる空間が、都市に穿たれた穴のように点在している。 一九八九年、現在に直接つながるクラブ、芝浦GOLDが出現した。九〇年代前半、バブル最後の仮象をはなったジュリアナ東京などの大型ディスコと入れ替わるようにして、クラブは増殖していく。その後、ハウス、テクノ、ヒップ・ホップ、トランス、レゲエなどへ細分...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.92-99
[翻訳論文]
各時代の指導精神は、サント・シャペルからリヴォリ街に至る、その時代を記念するような建造物のなかに具象化されている。しかし、この素晴らしい遺産は混乱しきった街中に置かれ、記念碑的な建造物も錯綜した街路に囲繞されて、孤立させられていた。ナポレオン三世のもとでセーヌ県の知事を務めたジョルジュ・ユジェーヌ・オスマン(一八○九—...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.125-136
[プロジェクト・論考]
「軒切り」という言葉を耳にして、どういうイメージを抱かれるだろうか。筆者自身の場合は、近代大阪の都市計画事業を調べているときに初めて知った言葉なのであった。それはどうやら、市電の敷設や道路の拡幅事業に伴う家屋正面の削減や後退のことを意味していたらしい。それら事業の激しかった大正時代に、街中から自然に生まれた言葉であった...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.113-118
[構成]
1 はじめに──いまなぜ環境情報デザインなのか 現在、社会における情報化の普及・浸透、建築業界の市場縮小、地球環境への負荷軽減など、建築デザインを取り巻く環境が大きく変化している。これからは、新しく建築を建設するだけでなく、既存の建築物を利用したリノベーションや、建築後の利用・管理・運営など、人間の活動と環境に関...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.90-102
[論考]
コミュニティウェアへの期待 R・M・マッキーバーが著書『コミュニティ』で、コミュニティの概念規定を社会学において初めて登場させたのは一九一七年で、今から約九〇年前のことである★一。この時期は、経済不況から第一次世界大戦が勃発しており、社会は不安のなかにある。マッキーバーは、当時の一元的で、中央集権的な国家観を批判して、...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.130-134
[コラム]
今、時代は確実に変わりつつある。だが、変わりつつある時代に対し、建築はいまだ足並みをそろえられてはいないようだ。いくつかの建築が新たな時代の建築の誕生を告げてはいるが、大局的な流れはいまだその姿を現わそうとはしていない。もちろん価値観が多様化した現代にあっては、もはや近代ごとくひとつの原則やスタイルが世界を包み込むこと...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.145-149
[翻訳論文]
建築は常に、とりわけその安定性と秩序の供給のために価値づけられた中心的な文化制度である。これらの質は、その形態の構成上の幾何学的純粋性から生じるように思われる。 建築家は常に、純粋形態、そしてすべての不安定と無秩序が除かれたものから物質をつくることを夢見てきた。建築物は、キューブ、シリンダー、球、コーン、ピラミッド等と...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.129-144
[翻訳論文]
基本の仮説 図が示すように、はっきり「公園」と呼べるものを作るにはラ・ヴィレットの敷地は小さすぎ、逆に今回のプログラムは大きすぎる。公園というのは、公園としての楽しみを満たすのに最低限必要な施設を設けた、自然のレプリカになっているのが普通だ。ところがこの「ラ・ヴィレット公園計画」では、さまざまな社会機能が鬱蒼とした森の...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.105-116
[翻訳論文]
ベルナール・チュミが、ピーター・アイゼンマンとジャック・デリダに、パリのヴィレット公園にあるプロムナード・シネマティック沿いの庭園のひとつを一緒にデザインしてみないかと誘いをかけると、二人ともすぐさま同意した。実際、彼らのコラボレーションは大変目立つものだったので、奇妙なことにその遅れも、まるではじめから準備されていな...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.117-128
[翻訳論文]
建築は死んだ。わたしはその死亡記事を読んだのである。ひとりの文化分析者が「建築─彫塑の時代を経て、今やわたしたちは映写的な作為性の時代にいる……これからの建築は単なる映画にすぎない」と書いているのだ★一。あるいは、建築を「見世物の半電子的な視覚標識」と呼ぶ者たちもいる。しっかりと場所に固定されて不活発であるため、エーテ...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.163-171
[翻訳論文]
そこで、私たちの目的にそった二、三の事だけに注目しておこう。まず、デリダの署名のもと、手紙ではアイゼンマンとデリダの会話内部で起きたある出来事が書かれている。一方、別な出来事は、同じく二人の会話の一部なのに、そこから切り離され、まるではじめてであるかのように手紙に現われる。もちろん、署名の場としてのデリダの寄贈の問題に...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.172-184
[論考]
ギィ・ドゥボールは果たして街路(ストリート)を愛していただろうか? 彼は街路で考え、書く人間だったのか否か? 答えやすいようで、実は答えにくい問いである。 この問いを考え直すことは、一九九○年代中盤以降のカーニヴァル的な街路での運動やアクティヴィズム、文化研究や社会理論における「空間論的転回」についてふりかえることにな...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.97-105
[論考]
監視カメラの氾濫 二○○三年二月、ロンドンに渋滞税(コンジェスチョン・チャージ)が導入された。これは、ロンドンの一定区域内を自動車で通行する際に、一日五ポンドの税金を払うというものである。その最大の目的は、慢性的な都心部の渋滞を緩和することにあるらしい。指定区域内のすべての入り口の街路には、渋滞税ゾーンを示す「C」の文...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.106-112
[街路への視座]
「ストリート」の観念は、ある種のポップ・ミュージックにおいてロマンティックなイメージを付与するものとして機能している。路上を彷徨い社会に牙を剥くパンク・ロッカー、不法に路上を占有し、ダンス空間へと塗り替えるヒップホップDJ。そのような「ストリートのイメージ」は、パンク・ロックやヒップホップといった、アウトサイダー性をそ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.94-96
[街路への視座]
人は都市に何を求めるのだろう。賑やかで、華やかで、どこか空虚な、それでいて足を向ければけっして拒まない。そんな開かれた扉が都市の魅力だろうか。扉が開かれているといっても、その扉の向こうに何があるのだろう。われわれはそこから、どこへ向かおうというのか。 都市での経験とは一言で言って、自由への飛翔である。文化人類学の山口昌...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.91-93
[街路への視座]
スコットランドの首都エディンバラの中心部に、オールドタウンとニュータウンと呼ばれるなんだか人を食ったような俗称をもつ地区がある。前者はエディンバラ城下に発達した中世からの歴史をもち、後者は一八世紀末以降の都市計画による★一。言ってみれば、中世都市と一九世紀初頭の計画都市とが極めて狭い区域の中で対峙しているのだ。ここには...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.82-83
[街路への視座]
巷へ 表題は「街路で」を表わす英語の表現である。「路」という日本語からは、平面を含意する「on」という前置詞が想起される。そうではなくて容量を持った空間の内を意味する「in」を用いる理由としては、「ストリートとは、単なる平面としての道を意味するのではなく、道の両側にある建物も含めた三次元を含意しているから」とされるよう...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.89-90
[論考]
1 セクシュアリティが構成する空間 次のようなシチュエーションを想像してみてください。一〇月のある日曜日の午後、あなたはJR新宿駅東口を出て、青い秋空の下で新宿通りを四谷方面にゆっくりと歩き出し、週末の人ごみに巻き込まれながら路上にしばしば繰りひろげられる小さなドラマを観察し、相互にそのドラマの演じ手に眼差される半日を...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.118-129
[翻訳]
われわれには新公園しかない、と想像してはならない。思考して、周りを見渡してみるんだ。どんな場所も、トンチーが集まり、われわれの場所だと主張できる拠点になりえるのだ。 『愛紙(アイ・バオ)』第二号論説(一九九四) 残念ながら、言説に対抗できる唯一の防御策は言説なのだ。そして「エイズ」についてのそれ自体汚染されていない...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.130-143
[座談会]
宇宙建築? 松村秀一──全体をざっと読んでみたのですが、結構面白い特集になったと思います。宇宙建築というものは宇宙開発全体のなかに位置づけられているということもあり、地上建築全部を語るのと同じぐらいさまざまな条件があります。なので、初めて読む人にとってはいろいろなことがありすぎて全体としては捉えにくいものになっているか...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.68-77
[構造・材料]
一九五二年、建築家リチャード・バックミンスター・フラーは、線材による折りたたみ可能な「ジオデシック・ドーム」を完成させた。[図1]は展開されたドームとその構成部材の図である。 アメリカ・コーネルに建てられたこの二〇フィートの構造物は、紛れもなく既存の構造概念を超え、当時のアメリカ人たちの驚嘆の声を誘うに十分であった。彼...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.96-99
[論考]
ローマでの体験 1999年の12月から2000年の1月にかけて、私は仕事の関係でイタリアにおける建築物の保存・修復について調べるためにICCROM(文化財保存修復国際研究センター:ローマにあるユネスコの機関)に行っていたのだが、私はそこで二度、90年代のアーバニズムに特有な状況を体験した。最初は、新東京国際空港から旅客...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.97-105
[論考]
天王寺公園 嘘のやうだ 十年の歳月が流れたとは 路端の風にあふられる新聞屑 ところきらわず吐きちらされた痰唾、吸殻、弁当殻 藤棚のある運動場 雨水の滲みこんだ公会堂の壁 砂を浴びた樹立や芝生 古ぼけた鉄骨の高塔──「通天閣」 そのかなたに浮んでゐる夏雲のみだれ そしてまたこゝを歩いてゐる人々の疲れた顔、鈍い眼眸 み...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.113-120
[事例]
横浜寿町 神奈川県横浜市。日本で第二位の人口を抱えているこの都市は、東京湾に面した西区、中区に主な機能が集中しており、湾岸には、みなとみらい21地区、関内、中華街、元町と、横浜を代表する観光地が連なっている。 現在の湾岸高速線上に、かつて堀と関所が存在しており、その内部という意味で関内と呼ばれたのに対して、堀の外側の部...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.95-101
[事例]
下北沢は、戦時中、破壊と再開発から守られ今日に至った。結果、東京で最も賑わっている界隈のひとつとして村的感覚を保つ狭い路地に沿い、街はますます発達している。下北沢は、低層ビル、歩行空間、賑やかな地上レベルの活気ある商店、そして固い絆の社会ネットワークにより特徴づけられる新しい都市モデルを提示している[図1]。しかしなが...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.102-106
[構造・材料]
はじめに 月や火星表面は地球と似た組成の鉱物で覆われており、これらの鉱物を現地で加工することにより、ガラス、金属、セラミックスなどさまざまな材料が製造可能である。月/火星の材料を利用し、現地で加工して使用するコンセプトは、In-Situ Resource Utilization(ISRU=現地材料利用)と呼ばれており、...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.100-103
[構造・材料]
ジュール・ヴェルヌは、歴史的にサイエンス・フィクションのパイオニアと言える人物である。そして刊行から一世紀以上が経過した後、彼の空想小説は航空宇宙の歴史と驚くほど一致することが明らかになった。有名な作品のひとつである『月世界旅行(De la Terre à la Lune)』と、それに続く『月世界へ行く(Autour ...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.104-108
[設計思想・教育]
建築家ラルフ・アースキンは、北極圏や極地帯などの厳しい環境条件における住宅設計によって、非常に著名な人物である。それらの地域では、厳しい気候から建築物を守る技術が必要であり、そうした気候条件が建築手法に影響を与える。そのための多くのアイディアを、彼は北欧に伝わる知恵から得ることができた。私が彼から学んだこととは、極限環...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.158-160
[論考]
「計画」という呪縛 長い間「都市計画」について疑問を持っていた。なぜ「都市」「計画」であるのだろうか? 例えば建築と同水準で語られるときに、「建築と都市計画」というように、なぜ「都市」にだけ「計画」という語がつくのだろうか。本来「建築と都市」あるいは「建築計画と都市計画」と併置されるべきではないのだろうか。日本の現在...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.160-168
[設計思想・教育]
アメリカ合衆国南部、テキサス州ヒューストンといえば、NASA。そのNASAとも関連深い、笹川国際宇宙建築センター(通称SICSA=Sasakawa International Center for Space Architecture)がヒューストン大学にある。私は、SICSAに二〇〇五年夏までの約一年間、客員研究員と...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.156-157
[設計思想・教育]
はじめに 宇宙における建築デザインを追求していくと、極地環境下における生産・建設・管理の問題やデザイン上の規制の壁にぶつかることとなる。キット・オブ・パーツ・システムは、こうした極地におけるデザインを考える上での手助けとなるだろう。 キット・オブ・パーツ・システムとは、ジョイント構法、パネル構法、モジュール構法、展開構...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.149-151
[身体・心理研究]
太陽系最大の火山、高度二万七千メートル、アリゾナ州の面積に匹敵する裾野面積を有する火星のオリンポス山[図1─3]の頂上に人類が立つことを登山家で医学者の今井通子さんは、登山家の夢として、『ザ・スペース・エイジ』という本で語っている。快適とはまだ言えない長期にわたる火星飛行の後に、太陽系最大の火山登頂があり、その後には、...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.128-131
[身体・心理研究]
The Right Stuff 宇宙飛行士に求められる資質とはなんだろうか? オリジナル・セブン(Original Seven)やマーキュリー・セブン(Mercury Seven)の名で知られる、アメリカ人初の七名の宇宙飛行士候補を選抜した時の採用基準は、三五歳以下であること、テスト飛行士学校を卒業していること、当時...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.132-137
[論考]
都市への想像力 先日、建築学科の学生と話をしていたら、ひとつ驚かされたことがあった。東京でいちばん好きなのは表参道だという話だったので、ホコ天がなくなったから僕にはつまんないねと言ってみたら、そんな話は聞いたことがないという。彼女はどうやら現代建築が並ぶ今の様子が気に入っていたらしく、八〇年代の竹の子族、九〇年代のバン...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.162-172
[翻訳]
今日、東京は経済発展を遂げた世界で最大の都市cittàである。ここで用いる「都市città」という用語はおそらく不適当で時代遅れの感さえあるのだが、より適当な言葉がないという理由で慣例的に使っている。日本語では「市」というひとつの漢字に、異なる二つの概念、すなわち市場と都市という意味をあてるのだが、これはおそらく偶然で...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.152-161
[論考]
一番悪いことは、突然の、おぞましい白日の苛酷さだった。わたしは見ることも見ないこともできなかった。見ることは恐怖であり見るのをやめることは額から喉までわたしをひき裂いた。 モーリス・ブランショ 1 ここに一枚の写真がある[図1]。右手に握り飯をつかんだ少年が、まっすぐにカメラを見つめている。頬や額を汚しているのは、傷...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.252-259
[特別寄稿]
0 はじめに 全体主義はこのようにはじまる。あるグループの人々が社会解体の「しるし」としてターゲットにされ、「憂慮すべき未曾有の事態」がくりかえし指摘される。生まれてからの年数が短い人、所属しない人、交わらない人、国籍や民族や宗教が多数派と異なるとされる人、理解や共感ができずに不安感を与える人は、そういう「しるし」にさ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.260-269
[論考]
一八七〇年代半ばから一八八〇年代前半。本稿では、この時期にパリを舞台に活動した前衛的な画家たちによる、都市を表象した油彩画を主な考察の対象として論を進める。 一八七〇年から七一年にかけて勃発し、第二帝政に終止符を打ったパリ・コミューンと普仏戦争によって破壊された首都、その再建が急ピッチで進行しつつあった一八七四年に、後...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.233-241
[論考]
...「外部」となっているということである。マンフレッド・タフーリは、ユルスナールとは逆向きのヴェ... ...ルスナール、前掲書、一九頁。 ★一六──マンフレッド・タフーリ『球と迷宮──ピラネージからアヴ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.218-224
[論考]
1 背景 日本では、九〇年前後から横浜市中区、旧東急東横線の桜木町駅─高島町駅間約一・四キロメートルに及ぶ高架下の壁面に多くの若者が競い合って「グラフィティ(graffiti)」を描くようになり、桜木町はグラフィティの「聖地」とまで言われるようになった[図1]★一。九〇年代半ば以降は、同所に限らず、鉄道・車道沿線、看板...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.144-155
[論考]
1 ヴァーチュアル・ハウスと襞の形象 インターネット環境がパーソナルなレヴェルで普及していった一九九〇年代に、さまざまな分野で「ヴァーチュアル・リアリティ(VR)」をめぐる議論が交わされていたことは記憶に新しい。もちろん厳密に考えるならば、ウェブの普及と、諸感覚のシミュレーションをめざす狭義のVR技術が直接関係を持つわ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.184-191
[特別寄稿]
0 二〇〇五・夏──大久保・百人町界隈 梅雨明け後のある暑い日。久々に新宿区の大久保・百人町界隈を歩く。一年前に居を静岡に移した後も、週に一度、東京の大学での講義のために上京しているが、ふらっとこの町を訪れる余裕はなくなっていた。しかし学期末を迎え、久しぶりに学生とともにフィールドワークの実践および韓国料理店でのコンパ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.270-283
[論考]
二〇世紀という工業化の時代を生き抜いたジャン・プルーヴェ(一九〇一─一九八四)がコンストラクター(建設家)として、マレ・ステヴァンス、トニー・ガルニエ、ボードワン&ロッズ、ル・コルビュジエなどフランス近現代建築史を代表するさまざまな建築家とコラボレートし、数々の建築や家具の「名作」を遺したことはよく知られている。しかし...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.90-97
[インタヴュー]
一九二〇年代の建築状況 日埜直彦──今回は磯崎さんの建築家としてのキャリアの最初期について伺いたいと思っています。 すでに『建物が残った』で当時のことについて多少書かれていますが、それを読んでいてもなかなか見えてこないのが岸田日出刀の特異な存在です。彼は戦中戦後の近代建築をリードし、その後の展開に大きな影響を与えたわけ...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.149-158
[インタヴュー]
表参道の景観の場合 今村創平──ここ数年のことですが、表参道ヒルズや六本木ヒルズ、あるいは汐サイトなどができたことに代表されるように、東京各所の風景が変わってきているようです。また昨年、景観法が施行されましたが、今日はそうした都市の景観をめぐるさまざまな動きについて、建築家隈研吾さんのお考えを伺いたいと思います。 例え...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.82-93
[論考]
一 まなざしの送り返し 一九六〇年代前半から勃興しはじめたデザイン・サーヴェイが、保存の問題や設計リソースの収集という「有効性=有能性」を保持していたのに対して、六〇年代後半、雑誌『都市住宅』に連載されていたコンペイトウ★一や遺留品研究所★二などの活動は、前期のデザイン・サーヴェイがもつ「有効性=有能性」に対する批判と...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.108-119
[論考]
建築は時間を遅らせる機械である★一 ロラン・ボードゥワン 最近わたしは学部学生のグループがアメリカのある儀式を見学するように手配した。鉄工職人、建築家、クライアントたちは躯体に取り付けられる旗と小さな常緑樹で装飾された最後の鉄骨梁に署名をし、梁はあるべき場所へと持ち上げられていった。...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.142-145
[論考]
│1│ 建物概要 《トヨタ夢の住宅PAPI》(以下《PAPI》)は、トヨタ自動車(株)およびトヨタホーム(株)によって、「愛・地球博」に合わせて愛知県長久手町につくられた実験住宅である。東京大学情報学環、坂村健教授を監修に迎えていることからも、同氏の《TRON電脳住宅》(一九八九─一九九三)の流れを汲む情報技術を中心と...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.105-112
[翻訳論文]
ヴェネツィア・ビエンナーレの建築部門は、「ヴェネツィアと景観的空間」に捧げられた展覧会において劇場部門とともにスタートした後、八〇年代の始まりに第一回国際建築展覧会として独立したイニシアティヴを握っている。二年ごとに、同種の展覧会が、ヴィジュアル・アーツ部門による主要なマニフェストと結びついて開催される。このやり方によ...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.93-104
[資料]
古典 「EKISTICS - Science of Human Settle-ments」を主体とするドクシアディスの都市論をまとめたもの。体系的な科学としてのエキスティックスや、メガロポリスを超える全地球的な世界都市としてのエキュメノポリスの出現を説く彼の言説からは、現在のグローバリゼーション化した世界に対する鋭い先...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.165-168
[批評]
二つのよく知られたイメージが、第二次世界大戦後の初めの一〇年期におけるアメリカ建築を定義すると言ってよいのではないだろうか。ひとつは、インターナショナル・スタイル・モダニズムのイコンであり、アメリカの企業資本主義の顔である、《レヴァー・ハウス》[図1]。もうひとつは郊外の核家族家庭の、社会的には伝統的で美的感覚としては...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.171-179
[批評]
美術館は巨大な鏡である。その中で人は、最後にはあらゆる面から自らを見つめ直し、自分自身が文字通り賞賛に値すると知り、そしてあらゆる芸術雑誌に表現された恍惚感に自らを委ねる。 ──ジョルジュ・バタイユ「美術館(ミュゼ)」 ジェームス・スターリングの建築に関する最近の論文で、コーリン・ロウは、シュトゥットガルトの新しい《...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.180-190
[批評]
1 デルヴィユ嬢の館を読み解くための いくつかの文脈 建築空間をいまはやりのジェンダー論で読みといてゆくのはさほど困難ではなく、いままで蓄積された研究を再活用し、その重心をすこしずらせばよいだけであって、建築の分野でこの種の論考が少ないとすれば、それはひたすら研究者の動機づけの問題であろう。 とはいえ「女性の空間」なる...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.161-170
[批評]
I 公衆用の男子トイレ(メンズ・ルーム)は、建築として言うなら、滅多に眺めのいい部屋(ルーム)であることはないし、そもそも外の眺めと言える代物が少なくとも見える部屋では滅多にない。(ウォーター・クローゼット=WCであるうえ、大声で言うのはタブーな肉体に関わる事柄を行なう場でもあるから)男子トイレはクローゼット[=内密の...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.130-142
[批評]
建築批評の不在と二元論の反復 批評の不在がいわれ、新しい建築評論のあり方がもとめられているという。しかしこうした「建築評論のあり方」「批評の不在」そのものをテーマとした論考は、範囲を日本の戦後建築ジャーナリズムに絞ってもすでに数多く存在する★一。いつの時代も建築批評は不在であった。では実際、戦後建築メディアにおいて活発...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.95-97
[批評]
しかし建築においては錘線器だけでは十分ではありません。例えば水準器等の他の道具も必要です。まあそれでも錘線器であるとしても悪くはありません。それがあれば幾つかの問題の鉛直線を定めることはできますから。 ジャック・ラカン『セミネールI』 「フロイトの技法論」一九五三─五四 《サヴォワ邸》[図1]のエントランス・ホール...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.100-119
[批評]
第二次世界大戦後のこの五〇年の間に、建築に重大な影響を及ぼすパラダイム・シフトが生じた。それは機械─力学(メカニカル)から電子─情報(エレクトロニック)へのパラダイム・シフトである。写真とファクシミリという複 製 様 式 (モード・オブ・リプロダクション)において人間─主体の役割の度合いを比較するならば、この変化...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.191-196
[図版構成+論考]
I had to open the bruise blood come out to show them. 黒人暴動を契機に作曲されたスティーヴ・ライヒ「カム・アウト」(一九六六) Ice cube wishes to acknowledge America's cops for thier systematic a...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.220-229
[批評]
地域なるものはその地域なるものとして、最初のもろもろの道をもたらす。それは運道する(Sie be-wëgt)。われわれはこの運道(Be-wëgung)という言葉を、もろもろの道を与えもたらすという意味において聞き 取る。 ハイデガー 『重力の虹』の終わりに、もうひとつエージェント通信が飛び込んでくる。ロサンゼル...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.128-139
[批評]
第一次大戦に関連して特別な交通形態が構築される際──アウトバーン、それは自己躍動する軌道上の冷静な走行──、血管のような網の目状のものが繰り広げられ、そのなかでは、継続的移動の技術──自然に反して場所を変化させること──と、再生の技術──自然に反する表象──とが、相互に言及し、説明し、あるいは表現し合っている。運動と可...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.128-139
[批評]
わたしは一匹のろばである。しかし目をもったろばだ。感覚を受容することのできるろばの目だ。わたしはプロポーションへの本能をもったろばだ。わたしは頑として視覚主義者なのであり、これからも常にそうあるだろう。美しいものは美しい。しかし、それこそモデュロールなのだ。(…中略…)モデュロールはろばの耳を長くのばす(ここでわたしが...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.104-118
[批評]
1 軸線と権力 一九八〇年から続けられているダニ・カラヴァンのプロジェクト「大都市軸」[図1]は、パリの西北に位置する町セルジ・ポントワーズに設置された一二の滞留地点からなる、大地への全長三キロに及ぶ直線の書き込みである。夜間にはこの滞留地点の端と端がレーザー光線で結ばれ、パリに向けて延びる軸の存在を可視化する。このよ...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.92-103
[批評]
あなたは寝室の天井の色を覚えている? 白、だと思う。グレーかもしれない。ベージュかな。紫がかっていたかも……。 写真的記憶という言葉がある。何かの事物を言葉としては思い出すことができなくとも、場面を思い浮かべ、その映像の一部分を拡大していくことによって、細部を思い出すことができるというようなものだ。しかし多くの場合、...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.230-241
[批評]
...ョンソン邸(ガラス・ハウス)》で知り合ったフレッド・ヒューズもそのひとりだ。矛盾を抱えた「白... ...河畔で開幕したモントリオール万国博覧会に、フレッドらとともに出向いたアンディは、「銀」色に輝...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.242-248
[批評]
以前渋谷駅に近い明治通り沿いのスパゲティ屋の上に、バッティングセンターの篭が乗り上げたような建物があった。脇の坂を上がると二階部分にあるバッティングセンターの入り口で、敷地奥から明治通りめがけて打つようになっており、奥行き一・八メートルぐらいのスパゲティ屋の客席は、間口いっぱいに広がって路上で食べる臨場感があった。スパ...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.92-94
[批評]
自覚的に、というよりは自意識的に、と記述する方が正確なのだが、批評という形式のもつ危うさと困難さを最もきわだった形で素描し続けたのは言うまでもなく小林秀雄である。批評家は作品を前にして怯える他ない、というような突き詰めた彼の認識は、いずれ批評が作品の周囲を旋回し続けてそこにたどり着くことはない、という事実に対する反語的...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.88-89
[論考]
...る。 ここで想起されるのが、コーリン・ロウとフレッド・コッターによる「コラージュ」という概念で... ...─同書、八三頁。 ★二一──コーリン・ロウ、フレッド・コッター『コラージュ・シティ』(渡辺真理...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.73-101
[翻訳]
デザインの意図 テムズ川を横断する歩道橋の主要な目的は、単にA点からB点へと最も効率的に人々を輸送する以上のものであるべきだ。そこでわれわれが提案するのは、社交性が重要かつ実質的な目的となる橋であり、河川両岸及び河川自体の風景とアクティヴィティが複雑なものであるということを慎重に評価することを考慮し、また示唆した構造で...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.119-123
[鼎談]
均質空間の崩壊 鈴木了二──「美術」と「建築」というテーマが設定されているようですが、建築には実は、どこからどこまでが建築っていうような枠組みはないんじゃないか。今度出した『建築零年』でもちょっと書いたけれど、建築は出来事であって、一種の専門的な職能分野とは違うと思ったほうがいい。なぜなら、職能化し分化した建築が建築に...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.54-72
[論考]
「すべてはレトリックである」──ポスト構造主義者の信仰個条であるこの原理はそのルーツをモダニズムの奥深くに有している。これと反対の、モダニストたちが彼らの芸術によって結果に影響を与えようと試みる──実はこれがレトリックの原動力である──のと同時に、彼らがもち続けた歴史的あるいは芸術的真理という原理は、しかし、何が修辞学...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.162-172
[論考]
一九世紀フランスの建築写真からアーカイヴの爆発へ 一八五一年、五人の写真家が重大な使命を抱えて、国内に散らばった。ギュスターヴ・ル・グレイとその弟子メストラルは、トゥーレーヌとアキテーヌへ。アンリ・ル・セックはロレーヌとアルザスへ。エドゥアール・バルデュスは、ブルゴーニュへ。イポリット・バヤールはノルマンディへ。この年...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.117-132
[論考]
ポストモダニズムと後期モダニズムは過ぎ去ってしまった。第二のモダニズム、デコンストラクティヴィズム、ニュー・シンプリシティといったなかで、何にもまして生き長らえているのはヴァーチュアリティにほかならない! ロバート・ヴェンチューリの小屋の装飾★一は、たとえその形態が変容を蒙っているのだとしても、情報建築として終末論的な...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.160-166
[論考]
公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、そして共通世界に係わる活動力と生命力の維持に係わる活動力──これらそれぞれ二つのものの間の決定的な区別は、古代の政治思想がすべて自明の公理としていた区別である。 ハンナ・アレント「公的領域と私的領域」 単なる建築の域にとどまらない超建築的、アート的な都市プロジェクト...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.132-141
[批評]
われわれは自宅でさまざまな形でエネルギーを享受しているが、それに支配されていると考えたことなどない。同じように、将来さらに速く変化し変容するこうしたエネルギーを享受し、それらを知覚し統合するわれわれの感覚器官が、それらからわれわれが知りうるすべてを成し遂げることも当然のことのように考えている。果たしてこれまで哲学者たち...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.78-87
[批評]
要旨 ヨーロッパには、都市に適用されるいくつかの規範的な原則、すなわち「都市の倫理」がある。それによって、ある都市が存在し、そうでない都市が存在しないのはなぜか、という理由を説明できるのである。原則の主なものは次の三つである。都市の近代性としての「脱都市化」。国民国家によって一律に覆われているヨーロッパにおいて、都市が...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.185-199
[鼎談]
建築と身体、ジェンダー 五十嵐── 今回の特集は、もともとは身体、ジェンダーなどの問題からスタートしました。僕は一九九〇年頃から美術史におけるジェンダーの問題に関心をもっていて、それを建築で展開できない かと考えていました。簡単に整理すると、まず六〇年代の異議申し立ての時代には女性運動を含むいろいろな革命が起こり、当然...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.62-81
[批評]
どうして幻影都市(ファントム・シティ)を 再建しなければならないのか? お招きを受け、テロリズムとサイバースペースがヨーロッパの都市に与えているインパクトについてお話することになりました。これは私にとって、ベルリンの都心部計画がめざしているものに対するいくばくかの暗黙の批判ということにもなります。というのも、私の信じる...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.115-122
[批評]
ネット・メディア時代の首都の夢 ドイツの新首都ベルリンは、奇しくも意義深い一千年紀転換の直前にヨーロッパ最大の建築現場となった。単にドイツという国の首都の(再)構築、改造がもくろまれているにとどまらない。現在四〇〇万人を超える人口を擁するベルリンを、来たるべき世紀の最重要メトロポリスのひとつとなし、あまつさえ、新生ヨー...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.105-114
[批評]
Telepolis Journal(以下TPJ)──理論と文化の進歩にとって、インターネットにはなんらかの特別な意義を認めることができるでしょうか? キットラー──私はまずインターネットについて一言述べたいと思います。というのも、私は専門家ではないし、どうしてそれがいまこんなに議論されているのか不思議だからです。郵便シ...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.88-93
[批評]
1:例外状態の建築家たち 一九九七年三月にベルリンでAnyone Corporationの主催により、「ヴァーチュアル・ハウス」をめぐるフォーラムと設計競技が開かれている。参加建築家は伊東豊雄、アレハンドロ・ザエラ=ポロ、ジャン・ヌーヴェル、ピーター・アイゼンマン、ヘルツォーク&ド・ムーロン、そして、ダニエル・リベスキ...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.94-104
[批評]
もっと本物の光をつくれ──ここは教会じゃないぞ、地下鉄の駅なんだ! ──ラザール・M・カガノーヴィチ☆一 『美学』第三巻でヘーゲルは「独立自存の象徴的建築」について記している。このカテゴリーの建物を建てるために、ある特定の時代には一民族すべての力を要した。この建造物は最高のものそれ自体(まだ精神にはなっていない、神、...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.150-163
[Yellow Page1]
精神の再生、ショーという形式の再生 塚本由晴──去年(一九九九)の六月に行なわれた「二一世紀建築会議」にゲストとして招かれた際に、東京でのリサイクルの可能性について討議した成果としてガイドブックをつくったのが、今回の『10+1』の特集の発端です。最初は特集タイトルを「トーキョー・リサイクル・プロジェクト」にしようと考え...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.89-99
[論考]
都市計画者からすれば都市の景観を損なうものでしかないスケートボーダーたち。だがイアン・ボーデンは都市と真っ向から対立する虐げられた者たちによる闘争のシンボルだと考える。 スケートボーダーたちは独特のグラフィックデザイン、言葉遣い、音楽、ジャンクフード、行動規範を完備しているばかりか、仕事、家族、もろもろの規範的社会的...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.115-121
[論考]
二〇〇〇年のボストン市の統計によると一九八九年から一九九九年の一〇年間においてボストン市のホームレスの人数は一九八九人から三八三〇人と、約五〇パーセント増加している。その原因としてはボストン市の高騰し続けるアパートの家賃の高さが挙げられるだろう。平均の家賃は一四六五ドル/月でアメリカで四番目に高い。また家賃は一九九一年...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.122-131
[プロジェクト・スタディ]
1 道路という素材 すべての敷地は道路に接しています★一。道路はその量からして、建築にとって資源足りうるものです。原油はそのままでは燃やされるだけですが、加工されることで衣服にもなります。資源は使い方を見出されることで幅広く運用されるものです。この論考では、道路という資源を建築がどのように扱いうるかをみていきます。建築...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.90-105
[プロジェクト・スタディ]
2001年9月11日 「テロ」の理由はアメリカ合衆国への敵意、もしくはそこを中心としたグローバリゼーションに対するカウンターであると説明されている。テロリストを擁護するつもりは全くない。しかしながら、われわれのすむ社会が姿の見えないグローバルな拡張論理によって覆われつつあるというのは、世界の多くの人々が漠然と抱いている...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.73-89
[批評]
1 「上からの衛生」批判と「身体の規律化」論 一九九〇年代に入って、日本の近代都市空間の形成を、公衆衛生に注目して新しい観点から論ずる論考が見られるようになってきた[柿本、一九九一、成田、一九九三、重信、一九九六、成沢、一九九七]。もちろん従来、日本の近代都市空間の形成が公衆衛生の観点から論じられていなかったわけでは...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.156-167
[批評]
自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いやそもそも故郷という意味がわからぬと深く感じたのだ。思い出のないところに故郷はない。確乎たる環境が齎(もたら)す確乎たる印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ故郷という言葉の孕(はら)む健康な感動はわかないのであろう。そういうものも私の何処を捜してもみ...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.168-177
[論考]
一、 複数文化主義の帰結 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。「リゾームには始まりも終わりもない。リゾームは常に中間に、ものの間に、存在の間にある、つまりインテルメッゾである」のではなかったのか。「あいだ」とは、「と……と……」の論理によって存在論を転覆する流れではなかったのか★一。「と……と……」の論理は、...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.132-141
[論考]
1 境界と領域 よく知られているように、クロード・レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』や『構造人類学』のなかで、南米のボロロ族をはじめとするいくつかの部族社会の村落空間の構造と社会の構造の関係を分析している★一。それらの分析を通じて示される村落空間の構造と社会の構造の関係は、次の言葉にほぼ集約されている。 ところで、社...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.142-150
[対談]
1 コンパクトシティ論の背景 南——最初に、なぜメガロポリスやメトロポリスという大都市ではなく、コンパクトシティやスモール・シティといった中小規模の都市を取り上げるのか、ということから話を始めたいと思います。 僕と太田さんがコンパクトシティについて考え始めたのは、ほぼ三年ぐらい前まで遡ります。その議論も含めて、太...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.58-72
[論考]
1 二つのサステイナビリティ 二〇〇二年の九月、ノルウェーのオスロで開かれた「Sustainable Building 2002」という国際会議★一において、ひとつ、象徴的な場面があった。基調講演を行なった国連人間居住センター(UN-HABITAT、以下HABITATとする)の事務局長、アンナ・カジュムル・ティバ...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.123-128
[論考]
1 都市空間の断片へ おそらくこの百年間、日本の都市は、著しい人口成長と経済発展、そして時には不可抗力的な変化によって編制された諸々の空間的断片のなかに、幾重にもかさなる分厚い層を蓄積してきたにちがいない。ある地理学者が、都市空間の可視的領域を、さまざまな建築形態——さまざまな局面で蓄積された示差的な層——から構成され...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.138-152
[翻訳]
空間の知覚と使用 感覚や知覚、あるいは運動といった次元を通じてであるにしろ、空間の身体的な大きさを考察の中に取り入れている建築家たちもいる。つまり空間の知覚に対する知が根底にはあり、それはこの複合的な問題について次のように書くCh・ド・ポルツァンパルクにおいてのみ明確に示されるようなものである。「建てられたものは、物体...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.128-144
[論考]
スパイストラートを離れて アムステルダムに生まれ育った人は誰しも、環状の運河に閉じ込めようとする動きと、この都市から外に向かう道路を使って中心を離れ去ろうとする動きで緊張した区域のなかに彼自身((ママ))を必ず見出すことになる。この緊張に満ちた区域にあっては、都市の主要な地区さえ知ることはできないであろうし、なおもア...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.151-168
[論考]
ここは何時/普通の街: 日本の住宅地を歩いてみよう。 建て込んだ住宅地を歩く。軒を接して住宅が建ち並んでいる。接していても、くっついてはいない。五〇センチ程度の隙間を空けて、付かず離れず並んでいる。 歩いていると、ふと錯覚に陥る。いまは、いつだったか。 昭和三〇年代? 終戦間もない昭和二〇年代? 破れた下見板張りの壁。...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.66-75
[批評]
1 七〇年代から八〇年代にかけて「東京論」と呼ばれるものが数多く発表された。その中には前田愛の『都市空間のなかの文学』や陣内秀信の『東京の空間人類学』、あるいは松山厳の『乱歩と東京』や初田亨の『東京 都市の明治』など魅力的な書物がたくさん見られた。こうした書物の意義、特に前田の『都市空間のなかの文学』などは流行と関係な...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.144-155
[批評]
東京をもっとも集約的かつ刺激的に経験するのは、電車に乗ったときである。それは巨大な外科手術の跡をたどるように、都市を切り裂いて走る。ある朝車中で、私はある考えに行き当たった。こうした〈運動〉こそがこの都市についての正確なイメージを確立する唯一の方法かもしれない、と。 山の手線より山の手線より1 東京の性質を一言で表わす...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.109-120
[フィールドワーク]
「都市は自然である」と考えるようになった。そして逆説的だが少なくとも日本では「自然は人為による」と実感するようになった。ランドスケープ・デザインというデザイン領域は未成熟なまま21世紀を迎えたかもしれないがむしろ、自称ランドスケープ・デザイナー(時に景観デザイナーともいい、他にも類義語がある)という多様な職能が多様な仕...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.109-121
[論考]
この愉快な国で一般的な見世物を構成するこうした要素のすべてが、少なくとも習慣となっている型どおりの考え方にちょっとした戸惑いを刺激としてあたえ、独自の気風に関係していることを感じさせるのだ。 Henry James, “Experiencing the Netherlands” in Transat...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.146-155
[論考]
一九五七年、シチュアショニスト・インターナショナル創設の前夜、ギー・ドゥボールは二つの異色なパリの地図を制作した。彼の友人でもあったデンマーク人画家のアスガー・ヨルンの助力を得て作られた『恋愛の情熱についてのディスクール』は独特の折り畳み地図であり[図1]、一方の『ネイキッド・シティ』[図2]はヨルンの一九五八年のパン...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.85-92
[フィールドワーク]
1:フィールドワークへ向けて 松原永季 暗闇の中に、何か白いものがぼんやりと浮かんでいた。 地震でなぎ倒された電柱からぶら下がる電線を、道行くに人に気付かせるために引っ掛けられた白いタオルだった。無造作なあしらいだけれど、誰か見知らぬ人の配慮の気持ちを痛切に感じた。そして今和次郎を想い、「これから」をいかに記録すべきな...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.70-84
[Yellow Page2]
建築行為って、一番の環境破壊とイワレテイル。実際、建築解体作業含めて、建設作業現場って沢山のゴミが発生している。そう考えると、使えるものはできるだけ使った方がイイに決まっている。でもそうはいっても、建物として時代遅れの産物を無理して使えということではない。そう、建物のリノベーション、再生。ボク達は、日本のいたるところに...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.100-105
[論考]
01 この小論は、秋本治に関する論考を軸として構成される。 02 秋本治と聞いて何者かパッと浮かんでこない人のために少し説明をしなくてはならないだろう。秋本治は漫画家である。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以後『こち亀』と表記)という漫画を一九七六年から『週刊少年ジャンプ』誌上で連載を続けており、現在までのコミック...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.154-160
[批評]
僕はニュージャージー高速道路を走る車を数える 彼らはみんなアメリカを探しに行った みんなアメリカを探しに行った サイモン&ガーファンクル はじめに 『ポストモダニティの条件』(ハーヴェイ、一九八九、三五五頁)の結論部において、私は歴史的唯物論とマルクス主義に想定されている危機を乗り越えるための四つの方針を提示した。そ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.85-104
[批評]
...予知することができなかったからである。 アルフレッド・ゾーン=レーテル★三一 これこそ街が死ん... ...釈の様式を呼び寄せる言語をもっている。 アルフレッド・ゾーン=レーテルは、ナポリを破局や、差し...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.105-120
[批評]
1 錯乱のプロローグ 一九八×年:おそらく二〇世紀の「東京」。人々は平和を謳歌している。見慣れた渋谷や新宿の風景。どこにでもいそうな公園の男女。ダンサーを志望する少女は、フリーターの不良少年に「何かに自分をぶつけてないと、生きてる気がしないものね。ただ、いまが一番いい時代だって気がするだけ」と語る。まったく社会は満たさ...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.80-90
[批評]
日本のあらゆる街がミニ東京と化したとき、〈東京〉はいかに描出されるのか? 東京のいたるところがマ ン ガ(シミュラークル)と化したとき、マンガは東京をいかに描くのか? 八〇年代にこうしたパラドックスが発生した頃からすでに、東京とマンガの関係は逆転していたと言ってよい。つまり東京は、マンガに魅力的な舞台を提供する側から、...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.91-98
[批評]
1 いま、ここにある現実にたしかな違和を感覚する者が、そこを超え出ようと意志し、おのれの可能性を彼岸に向かって投企しようとするならば、その意志はおしなべて境界の横断へと向かうだろう。境界はいずれ、彼岸の可能性をはばみ、交通を阻害し、意志と自由を脱力させる鉄壁として了解されている。制度の壁、集団の壁、国家の壁、言葉の壁、...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.188-191
[批評]
ラテンアメリカ化するロサンジェルス 今福──「新しい地理学」をテーマに『10+1』が特集を組むときいて、ちょうどいま日本に滞在しているあなたと少しあらたまって対話ができたら、と思って今日は来ていただきました。この秋にアメリカのコーヒーハウス社から刊行されるあなたの新作小説『オレンジ回帰線』は、今日の鋭敏な社会科学者が直...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.158-172
[批評]
1 都市空間と映画空間 映画研究が(少なくとも合衆国では)アカデミズムにおける地歩を確立した八〇年代後半は、知の多様な領域で「空間」や「場所」への関心が急速に高まってきた時期でもある。したがって、それ以後、都市と映画、あるいは都市空間と映画空間との関係を扱う文献がしばしば目につくようになってきたのも、さほど不思議なこと...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.138-150
[フィールドワーク]
...展実行委員会/ワタリウム美術館 [構成]マンフレッド・シュパイデル [実行委員長]磯崎新 [会場... ...ウト展」が開催される予定だ。全体構成はマンフレッド・シュパイデル(アーヘン工科大学教授)で、...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.179-186