天国の住人
小島信夫は、昭和三三(一九五五)年に『アメリカン・スクール』で芥川賞を受賞し、「第三の新人」として脚光を浴びた作家のひとりである。『アメリカン・スクール』のみならず、『抱擁家族』といった代表作にあっても、物語の展開に「アメリカ」が重要な役割を果たしている★一。
彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅の中央に、南にガラス窓を大きくはって立っていた。敷地は畠をつぶしたのだ。アメリカ人にとっては贅沢とは云えないが、疎らに立ちならんだ住宅には、スタンドのついた寝室のありかにまで手にとるようで、日本人のメイドが幼児の世話をしていた。参観者たちにはその日本人の小娘まで、まるで天国の住人のように思われる。
「天国の住人のように思われた」とは、ユーモアをはるかに超えた、凄みのある表現だと言っていい。おそらく当時の日本人が「基地」や「アメリカ人」に感じたであろうことを、ほんの一行の比喩で表現している。もちろん、『アメリカン・スクール』という小説が発表されたのが一九五四年であることを考慮に入れておくことは無駄ではない。一九五四年を少しだけ振り返っておくと、米ソ冷戦が激化し、その世界情勢に日本の国内外が大きく揺さぶられた年である。アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ない、日本の漁船「第五福竜丸」が被災し原水爆禁止運動が大きな盛り上がりを見せた。日米相互防衛援助協定の調印により、日本国内に自衛隊が発足し、アメリカの軍事的なプレゼンスを日本政府が認めざるをえなくなったのもこの年である。とにかく、アメリカという超大国の政治的な存在感を否応なく感じざるをえなかった年だったのである。そうした時期に、アメリカという国を小説の題材として用いることは、ほとんど「賭け」と言ってもよいほどありきたりの仕掛けである。そして、小島はその「賭け」に勝った。結果として『アメリカン・スクール』は間違いなく「戦後」を描くことに成功したのである。
「家庭系」と称される小島の小説は、日常の中にある奇妙な状況や緊張感を独特な筆致で執拗なまでに描き込むという特徴がある。その緊張感は、ユーモアというにはあまりにも厳しく、諷刺というには描き方がきわめて精緻である。小島の小説を戦後日本の「風景」として論じることは簡単である。「風景」であるならば、小島の小説以外にも、「戦後」を感じることのできる資料は多い。ところが、小島の小説には、当時の時代性を超えて、どこか「未来」を感じざるをえない何かがある。発表から四〇年以上も経過した現在にあって、依然として「未来」を感じる緊張感があるのだ。その「未来」とは、もちろんSF冒険小説の描く楽観的な「バラ色の未来」といった絵空事ではないし、来たるべき未来を憂う亡国論でもない。また、当時の時代背景を批判するものでもない。人間が「未来完了」だけを目的として生きている「ひ弱さ」を描いているからこそ、現在でも依然としてわれわれに独特の緊張感を強いているのだ。アメリカ人の子供の世話をする日本人のメイドが「天国の住人に見えた」という戦後の風景を描写しているわけでは決してなく、『アメリカン・スクール』は戦後の人々の気持ちを代弁しているわけでもない。「未来完了」に生きることに緊張する人々、それが小島の『アメリカン・スクール』であり、後年発表される「抱擁家族」なのである。戦後とは、「未来完了」に脅え、それと同時に「未来完了」に期待する時代感覚である。その脅えと期待とが同居する人々の心情が、経済を支え生活を支えてきたのである。
戦後にとって、「未来完了」とは何か。それは、簡単に言ってしまえば、「豊かさ」ということに尽きる。戦後の日本にとって、その「豊かさ」が大きなテーマとなっていた。誰も「豊かさ」とは何かということがわからないからである。「豊かさ」の追究は、「貧しさ」の自覚を動機とする。第二次世界大戦の激烈な戦時体制を経験した日本人のほとんどにとって、「貧しさ」とは「飢え」を意味してしまう強迫観念であった。ところが、高度成長期にさしかかった一九五〇年代に入ると、人々は「貧しさ」に「文化」という側面があることを自覚しはじめた。文化とは、基本的には領土で行なわれる耕作という土地の改造計画に基づいて、支配者の生産様式を強制した痕跡である。そもそも文化が植民地主義の産物であることは言うまでもなく、それはたとえ間接的であるにせよ、そこには暴力が内蔵されている。「まるで天国の住人のように思われる」主体は、アメリカン・スクールを訪問する「参観者たち」である。「参観者」たちは、自分たちが住んでいる所からさほど離れていない場所に、「天国」を感じてしまう場所があることを目撃する。「貧しさ」を自覚することになったという意味で、その「風景」は暴力的とも言える衝撃であった。『アメリカン・スクール』は、そのような暴力的なカルチャーショックを「天国の住人」と表現したのである。
芝生は緑
『抱擁家族』という作品においても、アメリカは物語の展開に大きな役割を果たしている。妻とアメリカ人との情事から、家庭に大きな危機が訪れ、必死に家庭を立て直そうとするコキュ(妻を寝取られた夫)の主人公。その過程でさまざまな悲喜劇に出会い、次第に自分を見失いはじめる主人公。そうした悲喜劇が交錯する『抱擁家族』の中に次のような一節がある。
『芝生は緑』というのは、他人の芝生がよき緑色に見える、つまりよその家のものはよく見える、という意味であろう。それはともかくとして、そういう映画を彼といっしょに見た、ということが、あの夜の出来事を導くことになったのではないか。あの喜劇の軽さがこういう事件をたやすくひきおこしたのではないか★二。
ここでの「彼」とは、妻と肉体関係を結んでしまったアメリカ人男性である。そしてこの、『芝生は緑』という映画は、その妻とアメリカ人男性が一緒に見た喜劇映画であり、この喜劇映画が、微妙になってしまった夫婦の会話を弾ませていることそのものが、おかしみのあるメタファーとなっている。同時に、「芝生は緑」というメタファーが夫婦の亀裂という事実をさらに悲劇的なものにしてしまう予感を与え、読む者を緊張させる。「芝生は緑」という他者との相対的な関係に由来する自意識の過剰さは、それだけで家族という共同体にとって、きわめて悲劇的な事態である。第二次世界大戦の戦時下体制と戦後の復興の過程で経験された貧しさの自覚は、アメリカ文化の急激な侵入によって、さらに自意識が引き裂かれ相対化されている事態である。これは、先にあげた「天国の住人」という認識にも通じる貧しさの自覚である。しかも、ここには急速に進む物質主義への懐疑と憧れが同居している。新築の家に快適な空調を望む妻の希望を後目に、主人公が「ルーム・クーラー」をめぐって、「自然の風がいいのだ、と俊介は心の中でいう。そういうホテルのような家に住むことは、金の都合がつき、誰の迷惑にもならぬとしても、世間に対して、居心地のいいものではない」とつぶやく★三。「ルーム・クーラー」に限らず、『抱擁家族』には、「郊外の新築の家」あるいは「デパート」、紐つきのゴルフ・ボールを新築の家で打つ主人公、妻の入院先の病院にあるテニスに興じる医者や看護婦たちの姿などの、急速に進む物質主義への懐疑と憧れを示唆するメタファーが豊富に用意されている。そうしたメタファーが物語の展開にリズムと緊張感を与えているが、それらは高度成長にさしかかった人々の「身の置きどころ」をめぐる戸惑いを示唆している。とりわけ、ゴルフは典型的である。ゴルフはスポーツであることをはるかに超えて、「身の置きどころ」をめぐる戸惑いのもっとも典型的なメタファーとなっている。日本のゴルフ人口は潜在的には二、二四八万人とも言われ、世界の中でも突出している★四。ところが、その驚異的なゴルフ人口に見合うだけの「愛されているスポーツ」かと言えば、そんなことはない。ここまで膨張したゴルフ人口は、「天国の住人」や「芝生は緑」といった貧しさの自覚が無視できない背景となっている。広々とした開放感を演出する芝生、効果的な採光を演出する樹木、クリーク(小川)、噴水、テラス付きのクラブハウスなど庭園の諸要素を効果的に配置するゴルフ場は、「天国の住人」になることを(一時的にしろ)認める特権的な社交場になった。この特殊な社交場としてのゴルフ場に、戦後の復興経済に導かれた経済成長は敏感に反応した。現在に至るまで、ゴルフ場は、特殊な社交場として機能しつづけている。「接待した時に相手に与えるプレステージ」が、ゴルフ場としての価値を決めている事実は、依然として戸惑いつつ「身の置きどころ」を探しているようでもある。「天国の住人」であることを実感(錯覚)させることが、ゴルフ場という社交場に期待される役割なのである。
そして、現在のゴルフ場で導入されているような造園のテクノロジーにも「アメリカ」が内蔵されている。この造園のテクノロジーに基づく生活様式の開発は、いわゆるアメリカン・ランドスケープというモダニズム運動を背景としている。ガレット・エクボらとともに、一九三〇年代からアメリカにおけるランドスケープ・デザインのモダニズム運動を牽引したダン・カイリーは、ゴルフ場をめぐって次のように述べている。
いつか私はゴルフコースをデザインしたいと思っています。あなたは芝草を刈って積み上げ、管理者も芝草を刈って積み上げることができます。ゴルフコースをこのようにしても、鳥には関係ありませんし、ゴルフボールにはことさら関係ありません。人間だけがロマンティックなシーンを仕上げたがっているだけなのです。私たちランドスケープ・アーキテクトが関わる事柄には、ロマンティックで神経質な質が豊富に内在しています。それらの質を見つけるために自然をコピーすべきではありません。自分の生活の中で見出すのです★五。
カイリーが述べる「ロマンティックで神経質な質」とは何か。それは自然でもゴルフを楽しむ人間でもない。アメリカン・ランドスケープというイデオロギー的地平が一九二九年の大恐慌を発端として大きな広がりを見せたことを考えればわかる。マンハッタンの摩天楼に代表されるように、それまで垂直方向、すなわち建築物に投資されてきた資本が、水平方向への広がりを見せたのである。そして、そのプロセスは、多くの快楽がそうであるように、古い快楽が衰退していく一方で、新しい快楽でその喪失感を埋めようと似て非なる快楽が生み出されていくのである。経済の低迷をきっかけとして、ランドスケープのデザインという水平方向への広がりは、「芝生は緑」という生活感覚をイデオロギー的地平にまでアメリカの二〇世紀を押し広げていった。
このアメリカン・ランドスケープがその後のアメリカの日常を決定的なものにしたのは、一九世紀のフーリエ主義者たちを通じて理想化されていた「森の生活」を断片化し、その断片の適性配分を消費文化の基盤に置いたことにあった★六。つまり、これはある意味で過去との強力な訣別であり、「芝生は緑」という未来完了の生活を理想化するテクノロジーが洗練化されることになった。エクボやカイリーによる、個人の庭園にとどまっていたランドスケープの領域を、大規模な公共事業として発展させようとするモダニズム運動は、ショッピング・モールやリゾート施設などのデザインで実践された★七。そして、その実践は何よりも「豊かさ」を願う人々の「身の置きどころ」をランドスケープという大地の風景が引き受けるという図式を確立させることで完成した。その結果、「芝生は緑」という未来完了の生活を理想化するテクノロジーは、近代産業と市場経済の基礎的な構造に組み込まれることになったのである。いわゆる「リゾート開発」や「都市景観」といった公共政策は、建設技術や都市計画との連携によって、ひとつの大きな「産業構造」となった。風景はあるものではない。見られることを前提として作り出されるものだ。「見られる」という点で、「ロマンティックで神経質な質」なのだ。
「周辺化」をめぐって
「芝生は緑」という未来完了の生活を理想化するテクノロジーは、第二次世界大戦後もさらにアメリカ文化を支え、占領下の日本人たちに「天国の住人」を感じさせるまで洗練された。そして、第二次世界大戦から四〇年近く経過した一九八三年、「大地(ランド)」をテーマとしたテーマパーク(そのことはほとんどの人が忘れている)である東京ディズニーランドが開園した。その形態は、一九六〇年代に開園したカリフォルニア州アナハイムのディズニーランドに海洋型リゾートを融合させ、アメリカン・ランドスケープを直輸入したプロジェクトであったとも言える。東京ディズニーランドが本来テーマとしてきた「大地」に対してわれわれが向ける関心のありかは、言うまでもなく、とりわけツーリズムと密接に関連している。ジョン・アーリーは、人々のツーリズムへの欲望を「まなざし」という観点から論じている★八。アーリーが示した「ロマン主義的まなざし」と「カーニバル的(集合的)まなざし」という二つの「まなざし」は、十分説得力がある分析となっている。「ロマン主義的まなざし」とは、自然の神秘に出会って驚異や興奮を覚えたりすることを重視し、その出会いそのものによって孤高の吟遊詩人や近代的なシステムから無縁な遊牧民になったような感覚を欲する「まなざし」である。一方、「カーニバル的(集合的)まなざし」とは、大都会に集まる世界各地の人々が作り出すお祭りのような雰囲気の中に興奮や魅力を覚える「まなざし」である。ところが、この「まなざし」は東京ディズニーランドでは、ほとんど通用しない。「複合型まなざし」というカテゴリーが必要になってくるのだ。東京ディズニーランドに限らず、ディズニーランドには「ロマン主義的まなざし」と「カーニバル的まなざし」という欲望を同時に、そして合理的に満たすことができるような仕掛けが用意され、しかもどんな場所でも得られない感動や興奮を覚えるように「造園」されているのである。そして、徹底的に人工的である。出会うべき自然の神秘や驚異などどこにもないし、発見すべき世界観などまったくない。ここで、「まなざし」がどんなメタファーとなっているかということを問うことは、たいへん重要である。ディズニーランドには、企業秘密は数多くあるものの、「謎」や「神秘」はどこにも感じられない。「まなざし」のメタファーとなっている「謎」や「神秘」は、ディズニーランドにはまったくない。そして、ゲストたちはそのことを百も承知で、ディズニーランドを訪れる。世界を見てその謎や神秘を認識したいという欲望でもなく、見られるべく作られた世界を合理的に感じる欲望、それこそが、ディズニーランドには効率よくパッケージ化されているのである。「天国」がユートピアを意味するとすれば、ディズニーランドには「複合型のまなざし」が「造園」されているユートピアである。そのユートピアとは、見られるべく作られた世界を合理的に感じる、欲望に忠実な空間なのである。近代的なツーリズムを通じて生じたあらゆる空間、ゴルフ場やリゾート施設あるいは風光明媚な観光地は、消費を喚起するように「造園」されているのである。そもそも、「どこにもない」という意味のユートピアとは、生産や労働を人間の日常に理想化しようとした空間であった。ところが、「造園」されている空間には、生産や労働はない。そこは消費だけが意味をもつユートピアなのである。
「貧しさ」に対する強迫観念が「豊かさ」の想像力を上回るとき、自然の神秘や驚異は「貧しさ」にとって「豊かさ」を阻害する要因に感じられてしまう。自然の神秘や驚異を乗り超えるように見える世界観のほうが、はるかに「豊かさ」を実感させてしまうからだ。自然の神秘や驚異は、人々に感動を与えてきただけではない。それは、飢饉や風水害など、「貧しさ」を直接引き起こす原因となってきた。だからこそ、自然の神秘や驚異を乗り超えるように見える世界観は、力強く見えてしまうのだ。
このような自然の神秘や驚異を乗り超えるように見える世界観にあって、見るという探究心と好奇心あふれる態度を棚上げにして、「どのように見えるか」という他者のまなざしが重視される。その意味で、近代とは見られるように世界を作ってしまう世界観でもある。世界は謎ではない。見えるように作っていくことが、世界観となったわけである。その意味で、先にあげた「複合型まなざし」は、「他者のまなざし」なのである。
そして、その「どのように見えるか」という他者のまなざしに導かれた政治的な仕組みや経済的な合理性が、近代的な社会システムにおける「内部」とされてきた。見られるように世界を作ってしまう能力を「内部」として備えている空間を、近代人は「豊かさ」と呼んできたのである。テクノロジーが近代システムにおいて常に重要な役割を果たしてきたのは、「どのように見えるか」という他者のまなざしに導かれた政治的な仕組みや経済的な合理性にとって、もっとも有力な手段だったからである。力強く疾走する機関車、海を越えて飛ぶ飛行機、世界同時性を可能にする放送や通信。そのどれもが「どのように見えるか」という他者のまなざしに導かれた「世界の創造」であった。
よく指摘されるように、「貧しさ」に対する強迫観念は、文化的には「周辺化」をもたらす。高いところから低いところへ水が流れていくように、文化のモードは「貧しさ」の自覚を動力源として、「貧しさ」に対する強迫観念が強いところへ流れていく。確かに、ディズニーはその「周辺化」を映画というメディアの世界的な広がりと極端に単純化した強い視覚的な表象を用いて、世界中に浸透していった。とりわけ、いわゆる「発展途上国」と呼ばれる国々における影響力は、無視できないほど大きなものになった。そのディズニーの特殊性を「文化帝国主義」として批判することは、簡単である★九。ただ、ヨーロッパのツーリズムがいわゆる「第三国」へ向けられていったことも、「貧しくないわたし」を確認するイデオロギーだったことを考えれば、ディズニーの特殊性だけを批判することは自己矛盾をかかえてしまうことになる。そもそも、「文化帝国主義」という批判自体、何らかの文化を絶対化していることの裏返しなのである。より厄介なのは、例えば東京ディズニーランドのような外国からやってきた強い影響力をもつサブカルチャーを「日本文化」を浸食する存在として排斥しようとすることだ。
ここで、「未開人は自分自身のなかで生きているのに、社会人はいつも自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きることしかできず、いわば、他人の判断のみから、自分自身の存在感情を得ている」というルソーの意見に耳を傾けておきたい★一〇。「豊かなわたし」を自分で判断することは難しい。ただ、「貧しくないわたし」を確認することは何らかの仕掛けがあれば可能となる。ロラン・バルトが批判的に検証した「モードの体系」は、「貧しくないわたし」を確認するための仕組みなのである。「貧しくないわたし」を身元証明したい人々を、ディズニーランドは一手に引き受けることになった。
確かに、東京ディズニーランドは「周辺化」の結果として登場したのかもしれない。世界を見えるように作っていくことが世界観であるとわかりはじめ、「貧しくないわたし」を身元証明したい人々が増えはじめたとき、東京ディズニーランドは絶妙のタイミングでオープンした。東京ディズニーランドが戦後復興や高度成長のなれの果てだとすれば、東京ディズニーランドはもはや「日本文化」であるはずである。ディズニーは、「貧しくないわたし」を身元証明したい人々をターゲットとしている。中国・桂林市に建設予定の中国版ディズニーランドも、「貧しくないわたし」を身元証明したい人々が急速に増えることを見込んだプロジェクトであることは言うまでもない。
「日本文化」としての東京ディズニーランド
一九九二年四月、ユーロ・ディズニーランドがパリ郊外(マリナヴァレ)にオープンした。ディズニーにとっても、受け入れたフランスにとっても、それは大きな実験であった。極端に言えば、ヨーロッパがアメリカの文化的な属国になりうるか、という実験だったとも言える。事前の予想通り、フランスをはじめとするヨーロッパの知識人たちは「文化のチェルノブイリ」と罵倒し、露骨な反発をあらわにした。子どもたちにも決定的な影響を及ぼす広範囲の「汚染」だと攻撃したのである。東京ディズニーランドのような熱狂は、ユーロ・ディズニーランドには起こらなかった。実際に、ディズニーは入場料の値下げなどを余儀なくされ、現在でも東京のようには活況を呈してない。
ディズニーへの反発は、ヨーロッパだけでない。アメリカ国内にも、ディズニーへの反発が存在することを明確に示した事件が、一九九三年から一九九四年にかけて起こった。ワシントン郊外のメリーランド州にアメリカの歴史をテーマとしたテーマパークを設立する構想を発表したことに対して、アメリカの歴史家たちを中心に大きな反対運動が起こった。
「アメリカの歴史までディズニーのキャラクターたちに語らせるなんて、あまりにも独善的過ぎる」という批判が渦巻いたのである。無理もない話である。結果的に、ディズニー社はその計画からの撤退を余儀なくされた。「環境破壊」や「遺跡破壊」のおそれがあるため、というのがその撤退の表向きの理由であった。ディズニーは、これまで映画やテーマパークによって「空間」を占領してきた。そして、最先端のコンピュータ・パワーを駆使した映画や「トゥモローランド」で未来という「時間」を啓蒙しつつ、キャラクター商品などを通じてこの「無窮のシミュレーション」を繰り返してきた。ところが、未来という「時間」のシミュレーションは「夢とファンタジー」の範疇として許せるにしても、歴史という「時間」をシミュレーションの対象とすることには、さすがのアメリカ人も反発したわけである。アメリカ史のテーマパークは、ディズニー独自の歴史観で、アメリカの歴史を歪曲しかねない。ミッキーマウスの顔をしたジョージ・ワシントンやドナルドとデイジーの顔をしたジョン・F・ケネディ夫妻がテーマパークのスペクタクルになるかもしれないわけだから、さすがのアメリカ人もいささか空恐ろしくなったのかもしれない。何せ、『アラジン』や『ヘラクレス』といったディズニー映画をつぶさに分析するまでもなく、ディズニーは歴史や古典を捏造する常習犯である。歴史をめぐる「時間」の支配を独善的なディズニー社に許し、その「貧しくないわたし」を身元証明したい人々の論理で、アメリカ史を歪曲化され歪んだまま普遍化されることをアメリカ人も恐れたのである。世界中の誰よりもディズニーの危うさは、アメリカ人が知っていることを証明してしまった事件でもあった。「アメリカ合衆国、それは現実化したユートピアである」と決めつけたジャン・ボードリヤールは、次のように述べる。
アメリカは無窮のシミュレーションのうちに、記号のもつ無窮の現在性に生きているのである★一一。
「無窮のシミュレーション」とは、何を模擬的に実験しようとしているのか。「芝生は緑」という欲望に基づく「天国の住人」という自意識を模擬的に実験することなのである。もちろん、シミュレータ、すなわち模擬実験のための装置は、市場経済という誰も動作のディテールを把握することのできない巨大な機械である。そして、そのシミュレータは、巨大であるばかりか、停止することはない。その終わることのない模擬実験という意味で、ボードリヤールは、「天国の住人」になりたいという自意識を模擬的に実験することを「無窮のシミュレーション」と呼んだのだ。ただ、ボードリヤールが一応の仮説として提示している「記号のもつ無窮の現在性」が重要なのではない。記号そのものがリアルなのではない。記号そのものは、操作を可能にしたメッセージの最小単位であるにすぎない。記号を人々が交換しうるフローがあることがリアルなのである。
例えば、インターネットは記号化されたメッセージがリアルなのではない。ホームページの公開や電子メールの交換といったリアルさは、人々の欲望にとってリアルなのではない。そのようなコミュニケーションのフローが二四時間間断なく機能し続けている点で、インターネットはリアルなのである。戦争の報道をリアルタイムに目撃することがリアルなのではない。そうしたコミュニケーションのフローが淀みなく続いていることがリアルなのである。
コミュニケーションのフローだけが意味をもつ事態が進行するにつれて、東京も戦後復興という理想的なアメリカのシミュレーションを繰り返す環境を得ながら、しかも独特なシミュレータとして巨大化していく。少なくとも、一九八三年にオープンした東京ディズニーランドは、「基地」でも「ゴルフ場」でもなかった。誰でも「天国の住人」になることを保証された「大地(ランド)」をテーマとしたテーマパークであった。結果として、テレビと映画を通じてディズニーが絶対化する「アメリカ」を消費社会の中で学習した人々を一気に呑み込んでいった。そのボードリヤールが、アメリカとの関係から次のように日本について述べている。
日本はある程度まで、合衆国そのものよりもうまくこうした賭けをかなえ、われわれには理解できないパラドックスのなかで、属領性および封建制のもつ力を脱属領性および無重力状態のもつ力に変えることに成功したのである。日本はすでに、アメリカという惑星の衛星なのだ。しかし、アメリカもかつてはヨーロッパという惑星の衛星であった。望むと望むまいと、未来は人工衛星へと移動したのである★一二。
ボードリヤールが指摘する「現在性」とは、シミュレーションが競争そのものとなって、市場原理となってしまう事態である。消費社会の象徴的な存在として語られることの多い東京ディズニーランドであるが、観光や余暇が「貧しくないわたし」を身元証明したいという「現在性」にリンクしていることだけで東京ディズニーランドの成功を説明することはできない。小島信夫が『アメリカン・スクール』や『抱擁家族』で描写した自意識の脆さのように、あるいは戦後からバブル経済まで右肩上がりで成長し続けたゴルフ場経営のずさんさのように、「行方知らずの拡張主義」は、常に危うさを背負い続けている。この危うさが、そのまま「近代日本」という文明史観の危うさとなっているのである。加藤周一は「近代日本の文明史的位置」というエッセイのなかで、「近代日本」をめぐる論点を次のように整理している。
近代日本という言葉をさしあたって、明治以降の日本という意味に解すると、従来広く行われてきた近代日本史の説明には、およそ次のような共通の見方がある。第一、明治以降の近代化の過程は西洋をお手本としたものである。別の言葉でいえば、近代化即西洋化の過程であったということ。第二、それにもかかわらず近代化は、西洋におけるほど「典型的」には行われなかった、日本の資本主義は非典型的であり、その文化はゆがみ、ひずんでいるということ。この第一の点と、第二の点とは、むろん密接に関連している★一三。
ここで、加藤周一は梅棹忠夫の文明史観に耳を傾けようとする。日本を他の西洋諸国との比較から論ずるのではなく、高度な文明国としての日本を他のアジア諸国との関連から論じようとしている梅棹忠夫を引用しながら、「文明」としての近代日本に接近しようとしている★一四。加藤周一の指摘する「ゆがみ」や「ひずみ」は、近代化や文明という文脈で近代日本を語ろうとするとき、かならず登場するステレオタイプである。「ゆがみ」や「ひずみ」は、近代化のプロセスがきわめて場当たり的であったため、システムとしての近代社会が成熟していないことに原因する。ただ、例えば、東京の生活という日常にあって、都市に中心を内蔵しようとしない「前近代」が依然として日常を支配しているため、人々の関心はさらに「周辺化=外部化された西洋文明」だけに推移する。その結果、生活空間としての東京にとって、「周辺化=外部化された西洋文明」は、戦後復興という経済のメカニズムとその進行によって、土着信仰のようにさらに強固なものになってしまったように思える。ロラン・バルトが『表徴の帝国』で指摘したように、確かに東京には「空虚な中心」しかない。外部化された中心だけが、日常生活の基本となっているからである。そして、かつて富士山という外部化された中心で東京の生活空間が作られていったように、「周辺化=外部化された西洋文明」が東京の日常を支えている。東京ディズニーランドは、意図的にこのような「周辺化=外部化された西洋文明」を計画したわけではない。東京ディズニーランドは、匿名性の高いシミュレーションという消費社会のダイナミズムを、独特のイデオロギーを用いて効率よく導入したにすぎない。それを、西洋諸国との比較で論じても何らかの有力な手がかりは得られそうにもないし、アジア諸国との比較もあまり意味がある分析であるとは思えない。
消費社会を論じる場合に、ボードリヤールがそうであるように、「記号の消費」という観点から論が進められるものが多い。ただ、文化記号論的な分析はパズルを解くようになってしまいがちであるため、記号を対象とする分析の前提条件をいささか整理しておく必要があろう。
イギリスを発端とする産業革命は、まさに革命という名にふさわしく、その後の世界に大きな影響力を残した。こうした影響力の中でも、産業革命による大量生産が「匿名性」を社会関係に及ぼしたことを無視することはできない。同じ質のモノを大量に生産することは、モノや人から固有の名前を急速に消失させてしまう。近代的な社会システムが大規模になればなるほど、人間関係は匿名性を帯びる。そのとき、関係を認知するための仕掛けが必要となる。見せかけ(ディスプレイ)の必要性が増すのである。そのディスプレイが認知されるためには共通の社会的な記号の体系を必要とするようになる。買い手と売り手とが知り合いでもないのに、プラスティックのクレジット・カード一枚で売買が成立していることは、その典型的な例と言えるかもしれない。競争とは、匿名性の高いシミュレーションなのである。東京ディズニーランドは、知らず知らずのうちに匿名性の高いシミュレーションをゲストたちに啓蒙している。東京ディズニーランドで演出されている「アメリカナイズされた」数々の仕掛けは、言うまでもなくアメリカ人に向けられているものではなく、大消費地・東京の「ゲスト」たちに対して、匿名性の高いシミュレーションを提供していると言ってよい。
「家族連れ」や「カップル」を誘導する仕掛けはもちろんのこと、子供たちを巻き込んで完全無欠なまでにゲストを匿名化してしまう仕掛けは、ある種の日常生活のメタファーとなっている。匿名性の高いシミュレーションは、人間の集団が強い匿名性をもっていなければ成立しない。つまり、匿名性の高いシミュレーションに委ねて「匿名性」の高い集団の一員として日常生活を送るためのマニュアルにもなっているのである。東京ディズニーランドのゲストたちは、そのマニュアルを解釈し、その解釈を通じて自己や「家族」や「娯楽」といった欲望に直結する手がかりを得る。つまり、東京ディズニーランドの「楽しさ」は、非日常的な空間に身を委ねることにあるのではなく、「日常のための非日常」を解読し、匿名性の高いシミュレーションを学習することに喜びを感じているのである。
「富士講」は「無事息災のわたし」のために「日常のための非日常」を求めてツーリズムとなっていった。それと同様に、「貧しくないわたし」の自己証明に躍起になっている人々が集中し、匿名性の高いシミュレーションが進行している現在の東京にとって、アメリカという戦後復興のメタファーを満載した東京ディズニーランドは、まぎれもなく「日本文化」なのである。集団の特徴となっている行為や愁眉の関心事がかたちとなっている現象がサブカルチャーだとすれば、東京ディズニーランドは、アメリカ文化として東京に突出しているものではなく、間違いなく東京の典型的なサブカルチャーとして機能しているのである。西洋を感じた瞬間から「貧しくないわたし」を自己証明しようとして、「近代日本」の数多くの知識人たちが「新しい日本人像」を探し「日本の将来」を論じつづけてきた。結果として、それは、「西洋文明」を内面化しそれと徹底的に格闘することをめざしたものではなく、常に「西洋文明」を外部化することによって、「新しさ」を実感することだけにとどまってしまっている。この焦燥感にも似た文明史観は、「西洋文明」を外部化することによってしか、「新しい日本人」を見出すことができない危うさとなっている。ボードリヤールが言う「われわれには理解しがたいパラドックス」とは、その危うさを直感的に見抜いていたのだろうと思う。
そのような危うさをはらんだ東京という都市は、いまや巨大なドンキホーテである。そのドンキホーテとしての性格は、すでに小島信夫の作品において十分に発揮されていたように思える。
作品が出来て、活字になったとき、読者が反応を示します。そして幸運な場合には、それなりの理解も解釈もあたえられます。その場合においても、作品というのは、あとになった方がよく分ることがあります。私はこういうことを、文学の「予言的性格」と呼ぶのです。そうして、そう呼ぶとき、私は心がおどるのです★一五。
東京という都市に文学の「予言的性格」といった詩性(ポエティクス)を回復することを望んでも、もはや「ないものねだり」なのかもしれない。ただ、「心がおどる」ような表現と出会うことにスリルや緊張を感じたりすることを望んでもいいはずである。「日本文化」としての東京ディズニーランドに感じてしまう「夢の世界」を内面化し格闘することを通じて。
註
★一──小島信夫『アメリカン・スクール』(新潮文庫、一九六七)、一一頁。
★二──『抱擁家族』(講談社文芸文庫、一九八八)。
★三──同、九五頁。
★四──余暇開発センター編『レジャー白書95』(余暇開発センター、一九九五)。
★五──都田徹・中瀬勲『アメリカン・ランドスケープの思想』(鹿島出版会、一九九一)、八二頁。
★六——桂英史「東京ディズニーランドの神話学2」『10+1』No.10(INAX出版、一九九七)二三八—二四〇頁。
★七——ガレット・エクボがランドスケープ・デザインを手がけた、埋め立て地に浮かぶ海洋型リゾート施設であるカリフォルニア州サンディエゴの「ミッション・ベイ・パーク」(一九六五)は、その後さまざまな「ウォーターフロント計画」や「リゾート開発」に引用されている。
★八——ジョン・アーリー『観光のまなざし』(加太宏邦訳、法政大学出版局、一九九五)。
ディズニーランドがどのように消費をパッケージ化してきたかという点については、Disney Enterprises, Inc., Since the World Began / Walt Disney World The First 25 Years, Hyperion, 1996. に網羅されている。
★九——例えば、ジョン・トムリンソン『文化帝国主義』(片岡信訳、青土社、一九九七)、あるいはアリエル・ドルフマン・アルマン・マトゥラール『ドナルド・ダックを読む』(山崎カヲル訳、晶文社、一九八四)。
★一〇──ルソー「人間不平等起源論」、『ルソー全集第四巻』(原好男訳、白水社、一九八四)。
★一一──ジャン・ボードリヤール『アメリカ──砂漠より永遠に』(田中正人訳、法政大学出版局、一九八八)、一二七頁。
★一二──同、一二七頁。
★一三──加藤周一「近代日本の文明史的位置」、『日本人とは何か』(講談社学術文庫、一九七六)、七三頁。
★一四──梅棹忠夫「文明の生態史観序説」『中央公論』(中央公論社、一九五七年五月号)。John Clarke, Stuart Hall, Tony Jefferson and Brian Roberts, Subcultures, Cultures and Classes, in Ken Gelderand Sarah Thompson (ed.), The Subcultures Reader, Routledge, 1997, p.100.
★一五──『抱擁家族』、二六九頁。