「様式の併立」をめぐって
日埜直彦──これまで伺ってきたお話を振り返ってみると、大きくは桂離宮を巡り端的に現われた日本の近代建築と伝統建築の問題ということになるかと思います。そしてそのことをもうすこし視野を広げて見れば、近代建築が日本において成立し、それ相応の具体化を遂げる過程で建築家がいかに考えてきたかということになるでしょう。
一九七五年の『新建築』臨時増刊号「新建築五〇年に見る建築昭和史」に掲載された「様式の併立(堀口捨己論)」は、そうした問題を扱う磯崎さんの論文の原型とでも言うべきものではないかと思います。これは基本的には堀口捨己論であって、「建築の非都市的なものについて」(一九二六)や「様式なき様式」(一九三八)といった彼の論文、和風と洋風の併存する堀口の住宅独特の形式などを見ながら堀口の建築をクリティックしていくわけですが、興味深いことにその結びで「一九三〇年の時点において、日本の近代建築が、西欧のそれと接触しながら、数寄屋で代表されるような日本の伝統的な空間概念を積極的にえらびとることによって、大きく旋回していった」(「様式の併立」『見立ての手法』鹿島出版会、一九九〇)と書かれています。その理論的な背景が堀口の「様式なき様式」の論文に見えるというわけですね。またそれに続いて「丹下健三の五〇年代の仕事は、堀口捨己がきっかけを作った『旋回』を逆手にとって、衰弱しつつあった国際的な近代建築の虚をつくことにあった」(同)ともあります。このパースペクティヴは日本の近代建築成立の過程についてとても興味深い視点を与えてくれるものだと思います。三〇年も前の論文ですから現在のお考えは少し違ってきているかもしれませんが、そういったことを含めてあらためてお考えを伺いたいと思っております。
一般に日本における近代建築史のストーリーとして、例えばル・コルビュジエのアトリエに前川國男さんや坂倉準三さんが行って云々というような、直接的な師弟関係を中心とした筋書きがある。それに対して堀口捨己は、例えば分離派建築会やオランダの近代建築黎明期の紹介について言及されることはもちろんあるわけですが、近代建築の需要においてそれ以上の主要な役割を果たしたとは考えられていないように思います。しかし先の論文の見立ては前川や坂倉とは違った意味で、堀口が深くモダニズムを把握したうえで、彼らとは違う方向で近代建築を考えていたことを示唆しています。
磯崎新──この堀口捨己論を書いたのは捨己さんが体を悪くして、引っ込まれた頃だったと思います。それまでわれわれの世代で、ジャーナリズムも含めて、堀口捨己を論じる人はいなかった。知ってはいても、誰も捨己さんのことは書いていない。捨己さんを学者として知っている人はいても、彼のそういう姿勢を批評家として引っ張り出し、取り上げる人はほとんどいなかったし、捨己さんのデザイン、特に近代建築のデザインは、和風は別として洋風になると、なにかぴんとこないという印象を当時みな持っていたと思う。それは捨己さんのもっている限界かもしれないけれど、そういう対応の仕方がありました。
この「様式の併立」前後に「建築の一九三〇年代」という対談をやっていました。そこでの捨己さんについての稲垣栄三さんとの対談★一の際に、稲垣さんから、捨己さんがこの論文は読んだということを聞きました。別に感想は聞いていないですね。先生に勝手な意見を言うと、本人が気に入らないといろいろ意見が返ってくると聞いていましたが、捨己さんの場合は何も返ってこなかった。すでに体がかなり悪かったのではないかと思います。
なぜこの論文を書いたのかというと、『新建築』の編集長だった石堂威さんに捨己論を書けと言われて、それであわてて調べたというのがいきさつです。その論文の最後に捨己さんの論文を引用しました。
私はかつてギリシャのパルテノンの傍に立ったことがあった。(…中略…)ギリシャの古典は、東のはてから来た若男に「柄にあった身についた道を歩め」とささやいてくれる女神ではなかったが、冷たくきびしく寄りつくすべのない美しさの中に、うちのめされて、柄にあう道を探さざるを得なかったのである。そこには近代建築の道が開けて、そこに身についた柄にあう行く手を見いだした。またその立場の上で、新しく身についた古典をも見いだした、妙喜案茶室、桂離宮……等々の日本の数寄屋造りを。
堀口捨己「現代建築と数寄屋について」一九五四
1──堀口捨己
引用出典=『現代日本建築家全集 堀口捨己』(三一書房、1971)
堀口捨己のモダニズム受容
磯崎──「建築の一九三〇年代」の頃の問題意識は、日本の近代建築の始まりにいた建築家たちが近代、さらにはモダニズムをいかに受容したかにありました。吉田五十八さん、村野藤吾さん、堀口捨己さん、それから少し年齢が下がった谷口吉郎さん、前川國男さん、坂倉準三さんたちです。なかでも先行する世代、とりわけ五十八さんと捨己さん(稲垣さんを代理として)に「三〇年代」の対談でいろいろ話を聞きましたが、あの頃は吉田五十八さんはまだ矍鑠とされていました。例えば「おれの建築は日本建築だと言われているけれど、学生の頃は最先端のモダニストだった」と言われるわけです。そしてルネサンス建築を見に行って、これに対抗できるのは日本建築ではないかと考え帰ってきた、と言うわけです。五十八さんは戦前からそういうことを意識していたのです。それに対して、捨己さんは戦後かなり経つまで、自分がいつ西欧と接触して、いつ旋回して、何が起こったのかということについて語っていないと思います。むしろそれを自分の思想として表に出したくないと思っていたのではないでしょうか。戦争中はとりわけそうで、完全に茶室に没頭した。没頭というより屈折してそれ以外やれなかったというのが実情だと思います。つまり、最初からモダニズムでスタートした世代が捨己さんたちだった。村野藤吾さんはそれよりも前の人だと思います。
そのようななかで、モダニズムを一種の流行と見ていた人たちがいます。流行として見ることは様式主義というか、一九世紀建築を様式やスタイルで見てきた人たちとそう意識的に変わっていないわけです。モダニズムも流行のひとつで、その前にアール・デコやアール・ヌーヴォーがあったのと同じです。当時、思潮と言われていましたが、あれはファッションということです。本当のモダニストは、自我の問題にモダニズムを取り込んで、その表現として何ものかを考え、そして初めてモダニストになるわけです。モダニズムが流行としてあっても、それはそれでいい。しかしモダニストになれること、そのこととは違いがあって、それを考えないといけないのではないかと思っています。
お茶室でも、捨己さんの茶室は肌触りが堅くて、雰囲気としてはうまくないデザインです。逆に村野さんのほうがお茶室の作り方としては柔らかい。この違いは何かと言うと、捨己さんは数奇屋やお茶室が生まれくるオーセンティックな原理、建築的な原理を考えたうえで作っている。逆にお茶室の中にそういうものを探していたと思う。つまり捨己さんは西洋的な建築がわかったうえで、もう一度お茶室を見る。だから、どうしても知的判断や知的解釈にこだわるので堅めの茶室になるわけです。
それに対して村野さんはそういうロジックはいらない、感覚だけでいくわけです。これは、京都あたりの伝統的な数寄屋大工が理屈なしで作る手法と似ています。そしていろいろな手法を取り込んでいくから非正統的なものになっていく。もしかするとお茶室が生まれたときはそちらに近かったのかもしれない。書院をやりながらお茶室をやった人、お茶だけをやって書院とは無関係だった人、これはかなり大きな違いがあります。その差が、捨己さんと村野さんにはあったのだと思います。
書院はある意味でオーセンティックな建築で、宮大工の作るものです。一方でお茶室はお茶室大工が作るもので、手法の体系から伝承の仕方まで書院とは全部違う。大げさに言うと、茶室は「立て起こし絵図」です。捨己さんが『茶室の思想的背景とその構成』(一九三二)で分析しているのが一番面白いのだけれども、エレヴェーションを描いて「立て起こし」ているわけで、表面の構成だけで空間を作るシステムです。お茶室大工はそれが普通で、「立て起こし」のパターンをいくつか頭に入れて、その通りにプランを作るのですが、捨己さんはそれを、自分で編集し出版までされているということは、「立て起こし」というシステムを、オーセンティックな建築のメソッドとして見ていたからだと思います。その背後には、西洋的なものやモダニズムに対する接触と受容の仕方や、受容することによって出てくる日本的なものとの関係などいろいろあります。この日本的なものやモダニズムへの対応の仕方が、あの時代の建築家を読み分ける重要な点です。その点から見ると捨己さんの近代建築とのスタンス、対応というのは、近代建築、西洋的建築がわかったうえで、つまりモダニストとしての目でもう一度日本を見ているわけです。だから非常に近代的な解釈をお茶室に加えようとしていたのではないでしょうか。捨己さんのお茶室に対する視線と初期機能主義のデザインとの関係のなかからその問題はどう出てくるのか、そのせめぎ合いがあるという気がします。そのような問題を、初期の時点でプリミティヴに感じていたのが、「様式の併立」という論文だと思います。
2──磯崎新『建築の1930年代──系譜と脈絡』(鹿島出版会、1978)
「日本的なもの」「非都市的なもの」「様式なき様式」
磯崎──捨己さんは『建築様式論叢』(板垣鷹穂と共編、六文館、一九三二)の編集をやったのですが、その最初に「茶室の思想的展開と其構成」、最後に「現代建築に現はれた日本趣味について」という捨己さんの論文があり、「日本趣味」は、捨己さんが最初に書いた文章だと思います。「日本趣味」と「建築における日本的なもの」(一九三四)ではお茶室について語っているのですが、あまり桂離宮についてはふれず、むしろ神道に偏っています。タウトが日本に来て桂を評価したことは、例えば捨己さんが桂に先に連れて行ったらどうだ、と言ったという話が残っているように、すべてが捨己さんの演出だと言われているのですが、「日本趣味」と「日本的なもの」をみると、捨己さんは桂を表立って取り上げていないのです。だから、タウトが桂について言い始め、あらためて捨己さんが桂を論じることになったのだと思います。それまでは東大寺的なものや伊勢的なもののほうが「日本的なもの」だと考えていたと思います。
もうひとつの問題は、モダニズム、近代建築の受容時期に関するものです。一九二〇年に結成された分離派建築会の後の一〇年間に捨己さんはオランダ建築を研究し、またパルテノンにも行っています。そして帰国後、お茶室とオランダ風建築を合体させた最初の住宅《紫烟荘》(一九二六)を作ります。そしてそれ以降、こういう方向にいくわけです。一九二〇年代というのはアール・デコや表現派をごちゃごちゃの状態で受容していた時代です。その中で捨己さんは「非都市的なもの」という概念を、オランダの藁屋根住宅などとの接触やお茶室への関心から取り出します。すごく重要なコンセプトが最初に出てきて、捨己さんのスタンスが都市との対抗関係の中で組み立てられていきます。
話がお茶室に戻るのですが、お茶室の書院造に対する関係を捨己さんは常に意識していたと思います。書院造そのものについてはほとんど触れていないのですが、その後に言われた「書院の数寄屋化した桂」の部分については、お茶室の続きとして扱っています。だけれど書院造そのものには触れない。純正統派とそれに対する非正統派というはっきりとしたけじめがあるわけです。正統派に対して、お茶室は盲腸のようにくっついているものです。正統派としての書院とお茶室がどういう関係があるのかということをかなり意識し、「非都市的なもの」にお茶室をあてて、自分はそちら側から見る、という立場で考える。そしてそのほかは正統派だとして、例えば京都御所は書院造の系統に入ります。伊勢神宮については、その後捨己さんは書いているのですが、一般論しか言われてない。つまり捨己さんのより分け方には微妙なところがかなりあると思います。そのうえで様式を言わない。《岡田邸》(一九三四)の頃の捨己さんの姿勢を反映している「様式なき様式」(一九三八)では、日本はまだ成熟していないから、木造を使えば木造風になるし、コンクリートならコンクリート風になり、それを純粋にやった結果、統一されていなくてもしょうがないという突き放した見方です。「非都市的なもの」から「様式なき様式」へと続く見方が、日本の他の建築家がもてなかった批評性だと思います。
3、4──堀口捨己《紫烟荘》(1926)
引用出典=『現代日本建築家全集 堀口捨己』
建築の一九三〇年代と堀口の抵抗
磯崎──もうひとつ、「日本的なもの」という論を捨己さんはなぜ立てたのか、という問題があります。「建築の一九三〇年代」は、一九三〇年という時点で、デザインがどのようにシフトするのかということを、いろいろな例で示しています。例えばデコラティヴなものから、ものそのものというノイエ・ザッハリヒカイトに移っていく。このような時代のファッション、趣味の変換が起きたのが三〇年代だと思います。またこの時代は世界的大恐慌の真っ最中で、みな何をやってよいかわからなかった。それを理論化する過程で、一九三三年くらいに全世界的にナショナリズムという問題があらためて出てきます。それがヒトラーであり、スターリンであり、ムッソリーニの問題です。ムッソリーニのファシスト建築もその頃から明瞭に変わり、ピアチェンティーニたちが関わっていきます。アメリカもニューディールという一種の社会主義になり、アール・デコからニューディールの建築になってくる。イギリスも同じで、福祉的なものが出てくる。三〇年代にまとめて変わったのですね。これはパラダイムシフトだと思います。モダニストがもっていたさまざまなものを別なパラダイムへと転換するとき、ナショナリズム、あるいは民族様式が議論に入ってくる。つまり政治的要素が建築の議論に介入してくるわけです。それが、三〇年代初め頃だと思います。こういう動きと、捨己さんが取り上げた「日本的なもの」とがダブってくるわけです。つまりそれは日本の全体の情勢でもありました。前回も話したように、タウトの日本での役割は、モダニズムを日本に導入するのではなく、そういう時代状況に言説を当てはめることでした。だからタウトは一種のイデオロギー戦略にはめ込まれたと思うのは、そういう状況があったからです。
そのような流れの中にも、いろいろな人たちがいました。モダニストでそういう戦略を考える人、モダニストになれなくてモダニズムをファッションとして受け止め、流れていく人に大別できます。流れていったのは《第一生命相互館》(一九三八)を設計した渡辺仁や、国会議事堂のデザイナー吉武東里などです。この人たちにはイデオロギーはなく、ファッションとしてのモダニズムに流れるわけです。そのベースは全部アール・デコです。その辺に、それぞれの建築家たちの微妙な屈折があったと思います。その中で、捨己さんが一番敏感にパラダイムシフトしている状況を感じて表現してきたのではないでしょうか。
日埜──時流に対する抵抗の表現として、その頃の堀口捨己の振る舞い、あるいは屈折があるということですね。
磯崎──パラダイムシフトが起こっているときに自分はどう対応するか、という問題です。政治的な立ち回りができる人ならいろいろ言えるわけですが、捨己さんはそういうことは嫌いな人でした。それならマイナーなほうに徹するということでしょう。だから捨己さんは隠者です。神代雄一郎さんを隠者と私は言ったけれど、それは捨己さんをモデルにしていたのだと思います。
一九五六年に建築学会で座談会があって、そのときに捨己さんは西山夘三、高山英華、前川國男という元左翼のマルキストたち──彼らは戦後アカデミーの中核になったわけですが──を前にして、「皆さんはシュペーアを夢みて、その位置になっていらっしゃったが、われわれはそれに縛られる側で、つぶされる側のつらいとこなんですよ」(「日本建築学会創立七〇周年記念座談会」『建築雑誌』一九五六年四月号)と言っています。当時の感覚からすれば、シュペーアはヒトラーの意図を実現する建築総監だったわけだから、反動そのものと思われていました。なにしろ戦犯として二〇年の刑を受けて収監中の身でした。だけれどもこの元マルキストたちの大学教授や建築家としての業界の中核にいた人たちは、捨己さんにとって、権力にすり寄り、権力を行使する側の人たちと見えていたんでしょうね。政治的権力にどうやって接近していくか、という点ではシュペーアと一緒だとはっきり言ったわけです。そして「つぶされる側のつらいとこなんですよ」と、三人を前にして言っている。これは並大抵の言い方ではないし、骨の太かった人だという印象があります。
日埜──そこで名の挙がった人たちは、例えば満州での事業に関わり、あるいは国内から情勢をコントロールする立場にありました。左翼的な計画主義を媒介として植民地経営に携わり、言うなれば転向左翼的な側面があったわけですね。それに対して堀口捨己の場合には、モダニストとしての自我が単にポリティカルな立ち回り方を許さなかったし、その意味で批評的であった、ということになるでしょうか。
磯崎──そう思います。僕が『建築の一九三〇年代』を考えたときに思っていたことはそういうことです。つまり時代はパラダイムシフトの状況で、当時モダニズム──今から見ると圧倒的に正統派だと思われているけれど──は完全なマイナーで、モダニストとしてやっている人も、モダニズムの筋を通すことができるのかはっきりしていないわけです。そのような状況で、政治的なものに引っかかりながらデザインが変わっていく、ということです。一九三〇年代のロシアにおいて、スターリンが非常に明快に建築のデザインに介入していった時代状況と比較すると面白いと思います。日本には、あれほど強力な権力を持ち、デザインに介入するほどの能力を持った人がいなかったから、あいまいなままできたわけです。ヒトラーもスターリンもムッソリーニも建築デザインの好みがあり、だからそれぞれの国でことがクリアーに現われたけれど、日本ではあいまいなままだった。だけれど伝統という枠組みが重圧としてあって、それとのバランスの中でやっていくわけです。
5──堀口捨己《岡田邸》(1934)
引用出典=『現代日本建築家全集 堀口捨己』
6──同、秋草の庭
引用出典=『建築の1930年代』(鹿島出版会、1978)
もうひとつのパラダイムシフト
磯崎──その受容のされ方に関して言うなら、最初に挙げた「様式の併立」で、「丹下健三の五〇年代の仕事は、堀口捨己がきっかけを作った『旋回』を逆手にとって」と書いたのは、こういうことです。五〇年代にまたパラダイムシフトが起こったわけです(五〇年代に起こったことに関しては『建築における「日本的なもの」』で整理していますが)。それは四五年以降かもしれないですけれど、日本の場合には占領下だったこともあって、三五年以降抑圧された時代を過ごしてきた近代建築の人たちが、ばねのように反発して、あるものは表に出て、もう一方は逆に向かうという変換が五〇年代に起こりました。その中で、丹下さんのメソッドが浮かんできた理由は、彼の場合は、ル・コルビュジエを通じてモダニストになったにもかかわらず、戦争中は日本的な計画をかなりやってきた。丹下さんは高校の頃はコミュニストの文献をよく読んでいたらしいのですが、戦争中、学生の最後の頃はコミュニズムに対して距離をとり始め、批判をするようになり、最終的にはハイデガーにいく。そのプロセスが学生時代に始まっています。立原道造の丹下健三への手紙は、丹下さんを「日本浪漫派」的な行動へ誘うアジテーションだったと思うのです。例えば「日本浪漫派」の主導者、保田與重郎も同じ経緯を経ていました。そういう変遷をして、もう一度日本的な、伝統的なものとモダニズムの近代建築を重ねるメソッドを丹下さんは考え始めた。
近代建築を私たちはいきなり学び始めたのですが、五〇年代にはル・コルビュジエやグロピウスはそろそろ引退だと思っていました。だからチームXができたわけです。CIAMも戦後第一回目まではいろいろやったけれども、次をやろうというときにチームXが出てきたので、ル・コルビュジエたちは「おまえら勝手にやれ」という感じです。丹下さんも、最初は前川さんのお供でCIAMに行くけれど、後はCIAM批判をやるジェネレーションに入っていき、チームXと付き合うようになる。そしてチームXはどうやって上のジェネレーションのモダニズムを破壊するかを考えます。ネオブルータリズムが出てきたのは同じような考えがあるわけです。それにしてもル・コルビュジエのデザインから影響を受けているということは当然あるわけですが、もっと徹底して、ネオブルータリズムにはいずれポンピドゥーセンターを作るような思想的な芽が含まれていました。これと同じものが五〇年代に発想されている。このようなチームXの方向と丹下さんのメソッドが一緒になったときに、アメリカのモダニズムが求めていたものをもう一度戦略として捉えたのではないか、と思います。
丹下さんは日本の三つの古典建築をモデルにデビューしたと言いましたが、その売り込み先は日本ではなく、アメリカだったのではないか。そのときにアメリカには何か欠落している部分があったと思います。グロピウス、ギーディオン、ミースなどヨーロッパの建築家がアメリカに行って、アメリカはミース的なものを選択し、そしてギーディオンはミース的な骨組みをシカゴ派につなごうとしたと言われています。それはメソッドとしてはあったかもしれませんが、デザインにおけるイメージが必ずしもはっきりしていなかった。当時アメリカは日本からいろいろな戦利品を持ち帰りました。その戦利品のひとつが「ジャポニカ」だと思います。つまりスーヴェニールとして持ち帰った日本です。そのときの日本的なものとは、イサム・ノグチの《あかり》や石元泰博の桂の写真で、これらがデザインや美意識におけるアメリカの戦利品だと思います。イサムも石元さんもモダニストだから、モダニズムの目で日本を発見し、その発見された日本をアメリカが持ち帰る。こういうメカニズム、動きがあって、この動きの中に丹下さんは、どういう方法で戦略的に組み立てたらよいかと考え、石元さんと組んで桂的なものを分析したり、イサムさんと組んでデザインを展開していくわけです。そういうなかからコンクリートと木造を合体するというメソッドを探します。それは、ある意味逆転かもしれない。どういうことかと言えばアメリカには日本のような伝統がないわけで、あったとしてもパラディアニズム、アール・デコです。モダニズムもミースという機能主義から外れている人が中心で、デザインの決定的根拠にはならなかった。しかし、その根拠をものとして、かつ感覚としては組み立てねばならないという要請があったわけです。そうすると日本的、ジャパネスクは五〇年代のアメリカ・モダンの美学をジャスティファイする手がかり、基準になったと言えるのではないでしょうか。
これはMoMAの五〇年代の動き、とりわけアーサー・ドレクスラーの「ジャポニカ」移植の経緯、さらにはそのスポンサーであるロックフェラー家の東洋趣味なども反映していたでしょう。このあたりで、アメリカがヨーロッパに対抗して、独自の趣味を選びとる過程がうかがえます。個別に評価する人はいますが、大きく見て、アメリカはル・コルビュジエを嫌ったと私はみています。マンハッタンの超高層に対して、攻撃的な言葉をはいたという無礼が気に入らないという伏線があるとしても、元来ル・コルビュジエのデザインを受けつけない、嫌いなのだと思います。ル・コルビュジエが日本に来て、桂にも感動しないし、ごちゃごちゃのデザインはつまらないなどと言ったことを吉坂隆正さんが記録していますが、これはル・コルビュジエが「ジャポニカ」ではなかったためだろうとも思うんですね。そんな時期から半世紀経ってMoMAを本格改造したのも日本的ミニマリスト谷口吉生だったのも、どこかつながりがあるんじゃないですか。
日埜──抽象的なインターナショナル・スタイルが支配的だったアメリカにおいて、逆説的に美学的な空白みたいなものが生じるのはある意味で自然なことかもしれませんが、そういう負圧のかかった状況に自分の仕事を接続していったということでしょうか。
磯崎──丹下さんが戦争中に無意識にやり始めたこと、それをもう少しさかのぼって岸田日出刀さんや捨己さんのモダニストとしての古典解釈を現在のテクノロジーでつなげる、それが戦略として成立したのだと思います。
日埜──とても説得力があり面白い見方だと思います。例えば近代と伝統と言えばいわゆる「伝統論争」の問題設定を連想しますが、しかしそれ自体は基本的に視野がドメスティックな範囲にあったと思います。だけれど丹下健三は少し違う視野で、より国際的な建築の状況の中でそれを考えていたということになりますね。
アカデミックな意味での建築史と建築家にとっての歴史観はしばしばずれることがあります。つまりいわゆる史実の積み重ねとしての歴史と、考えるためのリソースとして、あるいは補助線として歴史を見る場合で、歴史が同じであるとは限らない。それぞれ異なる視点から成立するものであって、各々の歴史観がその建築家を方向づけるということがおそらくある。ポジティヴな部分もネガティヴな部分も含めて、それがどのように作用し、建築家がどのように動機づけられていたかは興味深い問題です。
そしてこと日本の近代建築の成立過程においては、その集約的な焦点として桂離宮がある。堀口捨己は彼の『桂離宮』の最後で、タウトによる訪問以前にはヨーロッパの近代建築はまだ未成熟であって、タウトの頃になってようやく桂を理解することが可能となり、そのような美を追求してきたものこそ日本の茶の湯の世界であったと書いています。タウトその人というよりもむしろ、古典的な建築観から脱皮し、相応の成熟を経た近代建築の目があって初めて発見しうるようなものとしての桂、あるいは茶室というわけです。茶室に向かった堀口捨己の歴史観の片鱗をここにうかがうことができるのではないでしょうか。こういう見方が考証として正確であるかということとは別に、建築家が現にこうした歴史観によって動機づけられて、具体的に茶室の研究におもむいたわけです。
磯崎新氏
日埜直彦氏
オリジナルとコピー
日埜──ただ一般に誰か建築家の研究をする場合と勝手が違うのは、例えば桂なら桂の作者が誰か定かでないということですね。誰が何を考えてこのようになったということが特定し難い。
磯崎──桂離宮の作者は、結局見つからないわけです。文化史家としてお茶を研究している熊倉功夫さんは遠州と八条宮、桂の関係は捨己さんが言うよりももっと深かったはずだと言われています。例えば、遠州の庭を担当していた庭師が加賀藩から呼ばれています。八条宮夫人の富姫は加賀藩から嫁いできたので、そのような関係の中で、八条宮に相談がいくということなど、いろいろあったはずで、かなり深い関係にあったと熊倉さんは言っていました。だけれど、今日的に言う設計者として遠州を考えることは、捨己さんの言う通り、ありえないわけです。僕もぜんぜんありえない構図だ、と思います。逆に、なぜ遠州が八条宮に出入りしていた記録があるのかということに興味があります。八条宮家は徳川家からにらまれていたわけです。遠州は反徳川の八条宮を探りに行かされていた探偵ではないかというのが僕の推測です(笑)。だから建築家として認められているわけではなくて、お茶人として認められていたのでしょう。当時としては、武家も天皇家もお茶に関してはニュートラルに動いている。そういう部分で遠州の特権があるわけです。そういう付き合いは考えられるけれども、それがいったいどういうものかはわからない。「遠州好み」というのは遠州が死んでから起こってきます。死ぬ前にそういうものはあったはずだと思われますが、それはないわけです。そこが面白いところで、それが日本特有の好みの解釈です。「遠州ノ心ノ」という言い方があって、これは「遠州の気分」のような感じです。マスターならこういう好みをもっているだろうと推定し、それを「マスター好み」と言う。こういう解釈の仕方です。
日埜──お茶やお花の世界では、そういったシステムが今でも生きていて、仮に弟子による洗練でも、先代のこころはこのようなことであったと、いわば擬しながらことが進む。万事こうして洗練されていく。
だけれどそれでも、『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三)の桂論の最後では、そのような仕組みの中でキッチュとなることを恐れないという態度と、クリシェ化していく傾向の絶対的なコントラストがあると書かれています。遠州は彼の好みがキッチュとなりかねないところに踏み込んでいきながら圧倒的な緊張感を作りえた。しかし後の洗練はえてしてその好みを単なるクリシェへと弛緩させていってしまうとなれば、そこには遠州という何か具体的な主体の存在がやはり抜きん出たものとして見えてくる。
磯崎──建築学会のシンポジウム「批評と理論」(二〇〇〇─二〇〇一、『批評と理論』[INAX出版、二〇〇五]収録)のとき、遠州好みをどのように定義するか、という問題批評と理論がありました。さまざまな研究者の言説があって、遠州好みというのはこういうパターンだといろいろ議論されました。そういう部分はあるかもしれないけれど、それをそのまま受けとったら、日本的キッチュというのは全部遠州につながってしまう(笑)。この説明は理論的に無理なのではという印象をそのとき受けました。例えば遠州が「筋掛け」をかなりやっているということがあります。僕はこれは斜線として対立する構図をどうやって組み立てるか、と解釈します。パターンとして斜めになっているから、あるいは鍵の字型になっているからこれは遠州だというのではきりがないわけです。そちらの方向に議論を持っていくのは無理だと思いながら、こういうことを印象風に書いたわけです。
日埜──桂についての部分は、過去と現在の部分を往復しながら書かれていて、特に「キッチュ」という言い方は現代に引き寄せておっしゃっているように思います。オリジナル、近代建築で言うならば例えばル・コルビュジエは、彼のフォーム、形式をプロモーションするため単純化された原則をぶち上げる。それを守れば近代建築ができる、というわけがないのは当然だけれど、しかしあえてそれをする。そうして結果として彼以降そのクリシェが陸続と現われた。そんな事情と同じ構図ですね。ル・コルビュジエが言っていることも、個々に見ればオリジナルかと言うとやや疑問の余地はある。しかし重要なことはそれを平明化してしまうことで、例えばボザール的な勢力に対してあえて緊張関係を作り出したということになってくるのでしょう。カツラ論の結びではこう書かれています。「無数の同形のものが反復され増幅されていくメカニズムこそが『好み』と呼ばれ、これがクリシェ化し、JポップあるいはJキッチュと見まごう如くとなる」。このあたりに現在の状況に対する磯崎さんの見方がうかがえるように思います。
磯崎──これを書いた頃は、サンプリングと「J─POP」がすごくはやっていたせいもあります。例えば、《孤篷庵》が遠州作といっても、焼けた後、松平不昧が再建したものなのだから、オリジナルと同じかどうかはわからない。しかし、図面も残っているから、こうだったとは言えるでしょう。それに書院を足して山雲床というお茶室を作ります。これは密庵席の写しで、密庵床があるから密庵席なのですが、山雲床には密庵床はない。そういう若干の変形はあるけれども、それでも一応写しになっています。しかし、密庵席と比べると印象がまったく違うのはなぜか。何か理由がないかと思っているうちに、これは今で言うサンプリングではないかと思ったのです。要するに、完全にコピーをしてそれらしくみせるけれど、本物かコピーかわからない、あるいはコピーでよいではないかと、そういう形で出す、そういうやり方があって、「J─POP」も同じではないかと若干皮肉に言ったわけです。サンプリングの仕方と、サンプリングの相手が抽出したのが日本的なものであれば、今風に見える。
このやり方と、丹下さんたちが考えていた日本的伝統、それから現代という解釈の問題とはかなり違うと思います。丹下さんはそのときに、弁証法的統合ということを言うわけです。僕は、丹下さんとロジックを変えたいと思ったのはその辺が理由です。僕は弁証法に疑問を持っていました。岡本太郎は統合はありえないから「対極」と言っていました。だから僕は太郎の影響を受けたわけです(笑)。そういうことから言うならば、この「斜線」というのは、対極主義を言おうとしていたと思います。
密庵席の中で、書院の裏側には長押がまわっています。ところが、お茶室風に付け足した部分には長押がなくて、鴨居がお茶室風にあるわけです。それからこちらにはお手前をするコーナーがあって、そこには棚がついています。反対側にはフォーマルな、幾何学的構成の棚がついていて、漆が塗ってあるのですが、こちらは白木のままです。比べるとまったく違います。そういうものが小さい密庵席の中にいくつもあるわけです。これは統合しているのではなくて、対立を対立のまま取り出しています。その対立したものの間に起こるテンションが力なのではないか。しかし最初は対立したものがあっても、例えば山雲床がひとつの原型としてあり、それを写すと対立に見えなくなってきて、統一された様式に見えてしまう。こういう矛盾があって、サンプリングには限界があるという印象を持ちました。
日埜──そういう意味では堀口捨己の「様式なき様式」というのも、または今言われた意味でテンションの問題ですね。
磯崎──そのとおりです。とりわけ《岡田邸》は並立したまま一本の線でくっつけたものですね。コンピュータをさかんに使う時代では様相が変わってきていると思います。捨己さんはこんなやり方で洋式と和式を並立させ、対立させたわけです。しかしコンピュータを使うと二つの違うものをノンリニア、非線形という概念でやることができます。それぞれ計算しくっつけ、さらに計算を続けると、相互に影響が出てきて、グジャグジャになって別の形になってくる。それをまとめるのがノンリニアのシステムです。僕が佐々木睦朗さんとやっているストラクチャー・システムもこれに近い。そうして解くと、これまでと違う形が見えてくる。何が出てくるか想像がつかないけれど、それが一番面白くて、関心を持っているところです。しかし捨己さんの時代にはノンリニアを統合するメソッドがないから、対立、並立で見せた。それはひとつの方法だと思います。
日埜──ぶつかり合いというのは事件でしょうから、うまくいくこともあれば、難しいことも当然あるのでしょうが。いずれにしても単なるスタイル、ファッション的なコピーは消費されることに対してなす術がありません。建築家はそれに抵抗するために、どうせめぎ合いを組み立てていくか考えざるをえない。
磯崎──対立は、いくらでもサブジェクトがあるわけで、例えば時間を取り出せば、二種類の時間なのか、過去と未来なのか、あるいはひとつの時間のなかにいくつもの線が入っているように見るかなど、見方はいろいろあるわけです。例えば五人いたら五つの時間があるというのが、僕の時間に対する解釈で、時間は一人ひとりが背負っているもので、共通の時間はない。もしあるとすれば、それは実感できない、観念的な時間です。僕は《チームディズニー》で日時計を作りました。あの日時計を作ったときに、ミッキーマウスの中に時間に対するコメントを寄こせと言われて、『枕草子』で島影を移動する帆船の描写のくだりを日本的時間感覚の詩的表現だと言ってもち出したのだけれど、難しすぎるといって却下された(笑)。このとき古代ギリシアからミッキーマウスまで、いろいろ集まったのですが、そのなかにアインシュタインの「時間とは時計が指したものだ Time is what clock shows」という言葉がありました。アインシュタインははっきり時間は相対的なものだと言っていたわけで、それを進んだり遅れたりする時計の針が指しているようなものだと言っているわけです。これはなかなかしゃれた表現で、清少納言もかなわない(笑)。時間はそのくらいずれている。原美術館の裏に《有時庵》というお茶室を作りましたが、この「有時」というのは道元の言葉です。道元は時間の存在論をここで取り出したと言われています。それまでは、時間を外にあるものとして見るのではなくて、もともと時間と空間は議論の対象ではなく、議論してもしょうがない、ということになっています。ところが道元は存在論としてしまった。それが彼の面白いと思っているところです。
日埜──時間ひとつとっても、そこにあるテンションを発生させるような対立を仕組むことだってできるわけですね。
磯崎──ひとつの視点ではあります。おそらく、これはすごい通俗的な見方になるけれど、パラダイムが変わってくると、それにあわせて研究も進んでいくことはあるわけです。だから、捨己さんの「日本的なもの」という議論も、その時代の世界状況と、日本での問題がナショナルになってきたという状況で出てきた視点だから、その枠組みの中で考えなくてはいけない。それにしても、あの人はそんなことやりながらも、戦争中は逼塞していたわけです。逼塞していることは、それなりに時代に対する批評でしょう。そういうことを意識的にやってきた人だと思う。
[二〇〇六年四月一八日、磯崎新アトリエにて]
註
★一──『都市住宅』別冊第七集、鹿島出版会、一九七四。雑誌掲載時のタイトルは「稲垣栄三 堀口捨己の仕事を話しながら現代建築の状況について考える」。『建築の一九三〇年代──系譜と脈絡』(鹿島出版会、一九七八)所収。