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岸田日出刀/前川國男/丹下健三──日本における建築のモダニズム受容をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
Hideto Kishida, Kunio Maekawa and Kenzo Tange: On Adoption of Modernism-Architecture in Japan | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅, 2005年12月発行) pp.149-158

一九二〇年代の建築状況

日埜直彦──今回は磯崎さんの建築家としてのキャリアの最初期について伺いたいと思っています。
すでに『建物が残った』で当時のことについて多少書かれていますが、それを読んでいてもなかなか見えてこないのが岸田日出刀の特異な存在です。彼は戦中戦後の近代建築をリードし、その後の展開に大きな影響を与えたわけですが、磯崎さんが建築を考え始めた頃の情景として、まずは彼の周辺の状況についてお話いただけませんでしょうか。
磯崎新──岸田さんについては、おおやけにはまだ話していません。僕より少し歳上の宮内嘉久さんの世代は、第二次世界大戦中に大学に入って戦後に卒業しています。丹下健三さんの少し下の世代は戦後左傾化して、みんな左翼になっていきました。戦後の建築運動ではNAU(新日本建築家集団。一九四七年創立)があって、建築運動を組織的にやるべきであると主張します。この運動は戦前のアヴァンギャルドの運動の型を受け継いでいます。、政治と芸術の両方を変革する、それを建築の領域の中で組み立てるというのがNAUの主張と考えられます。戦前地下に潜った日本共産党がひきおこした川崎第百銀行大森支店襲撃事件(一九三二)──銀行をピストルをもって襲撃して、党の活動資金を奪った──という事件がありました。この首謀者は建築家でした。つまり、かなり左傾化した建築家もいたということです。戦争中は左翼の建築家は前川國男事務所のスタッフとして、上海や満州に行って仕事をしていた。戦後の建築運動の始まりは彼らが中心になった。そのようななかで、戦争前からのマルキストである高山英華さんや西山夘三さんたちがアカデミズムのなかから浮かんでくる。このあたりの研究をしたのが宮内嘉久さんや宮内康さん、それに布野修司さんかな。そのあたりの仕事を読めば構図がわかるでしょう。宮内嘉久さんは、アカデミズムはすべて反動であるという視点を貫いている。アカデミズムを打倒することが唯一、建築家の前衛としてやるべきことで、大学にいる連中は叩き潰さないといけない。そしてそのアカデミズムの悪の根源が岸田日出刀さんだという位置づけだったと思われます。
僕は、岸田日出刀さんは戦争中の日本に建築のモダニズムを最初に持ち込んだ人だと思います。もちろんそれ以前に堀口捨己さんたちの分離派運動がありますが、それはモダニズムを建築家が海外情報として学んだということで、岸田さんのようにモダニズムを当時の日本の国内情況のなかで戦略として組み立てるかということはなく、モダニズムを学んだ建築家でも石本喜久治さんや久米権九郎さんのように商業建築家になって、モダニズムを流行のスタイルと受け取ったと思えます。
話は飛びますが、内田祥三さんが若くして関東大震災直後の東京大学の建築学科の元締めをやっていたことがあります。ある日突然、東大の建築学科から長老が全部いなくなった。教授や助教授の平均年齢が三〇歳を割ったという時代です。その理由は例えば歴史家で非常に期待されていた長谷川輝雄さんが突然亡くなったりして、人材不足だなんて言われたみたいですね。だから大学を出た人がすぐに助教授になるというかたちで講座のスタッフになりました。そういうなかで岸田さんはデザイン(当時はこんな用語もなかった)を担当していて、彼の仕事は東大の安田講堂でした。当時岸田さんは一番下っ端だったので図面を引いたと思うのですが、安田講堂は内田祥三さんの名前で発表されています。しかし実際にはほかの内田祥三作品と比べると安田講堂だけ少し違うスタイルで、表現主義が入ったりして、プレファンクショナリズムでしょう。岸田さんはこのとき二〇代で、その後すぐにドイツに留学する。

岸田が持ち帰った二つのもの

磯崎──留学から帰ったときに岸田さんはいろいろ資料を持って帰ってきましたが、そのなかで僕は二つのものに注目しています。ひとつはライカを持ち帰ったことです。それまでは箱形のカメラで、銀板のガラスを使っていた。戦後、僕が東大の建築学科に入った頃には、まだ超大型のカメラなんかが残っていました。いまでは博物館ものだけど、どうなったのかな。彼は一九二九(昭和四)年に『過去の構成』を出版します。これは、岸田さんが建築のディテールをライカで撮った建築写真集です。それまでは建物を遠くから撮った写真しかなかったけれども、岸田さんは瓦や欄干の細かなディテールまでを撮った。このようにして切り取られた日本の古建築を「過去の構成」と呼んでいます。ここで初めて構成という視点が出てきたことに注意して下さい。過去の日本の伝統的なもの、それまで様式や形式で見ていたものを、カメラのフレームで切り取った。その切り取り方がモダニズムを介しての解釈を生みました。日本の伝統建築をモダニズムの目から捉えたほとんど最初の仕事だったと思います。堀口捨己さんがその後書かれた日本建築の見方や、あるいは彼のデザインも視点を共有しているけれども、岸田さんの『過去の構成』は純粋に古い建築だけを扱った。これは非常に重要なことです。同時に、この日本の古建築の取り出し方が、丹下さんをはじめとする、五〇年代の日本の建築デザイン論の始まりだったと思います。
もうひとつはちょうどその頃に出版されたル・コルビュジエの本を持ち帰ったことです。そして『今日の装飾芸術』を前川さんに渡して、卒論の参考にさせたようです。この本の最後にル・コルビュジエは若い頃の建築への思いを日記のように書いてあります。前川さんはこれに感動し、卒論でそれを訳して、卒業日の翌日にシベリア鉄道に乗ってパリへと旅立ったという話になっています。ル・コルビュジエの事務所に行ったのですね。
ここで重要なのは、当時の日本ではヨーロッパのモダニズムの正統はル・コルビュジエだと考えていて、ミースではなかったことです。ル・コルビュジエよりもミースだと言ったのがフィリップ・ジョンソンですね。アメリカによるミースと日本によるル・コルビュジエという違いがその後のモダニズム受容に大きい違いを生みます。ヨーロッパの近代建築、そのモダニズムを受容することは、その当時アメリカも日本も同じ状態だったのですが、それぞれ選択的に受容しているわけです。そしてル・コルビュジエを前川さんに選択させたのが岸田さんでした。
岸田さん自身は、ヨーロッパでウィーンの初期モダニズムを調べ、帰国してオットー・ワグナー論を書きました。岸田さんは自分の好み、そして自分が作るものは、ル・コルビュジエ以前のプレモダニズムだと自覚していたのでしょう。それから後は若い人がやらなくてはいけないと考え、若い人を育てたり、プロデュースする。そこで前川さんが登場してくるわけです。しかし前川さんの帝室博物館のコンペ案のほとんどはル・コルビュジエの丸写しだったりして、岸田さんは前川さんを全面的には評価していなかったのではないかと思えるふしが多々あります。

岸田と丹下のコンビ

磯崎──その後、丹下健三さんは大学を卒業して前川事務所に行きます。前川事務所で丹下さんは木造の《岸記念体育館》(一九四一)と二階建ての住宅を担当します。この住宅はやや民家風ですが、プロポーションが群を抜いていた印象です。僕はこの《岸記念体育館》によって、日本的なものが近代建築の中に初めてものとして誕生したと考えています。《岸記念体育館》は東京オリンピックの少し後までお茶の水にありました。戦後の前川さんの木造建築の原型のような建物です。建物の外側に少し離して丸柱を立てて、柱が表から見えるようなデザインです。岸田さんは《岸記念体育館》のファサードをかなり評価していました。岸田さんが戦後に出した近代建築の啓蒙書の表紙にも《岸記念体育館》が使われました。
岸田さんが日本建築で評価したのは、例えばタウトが評価した桂離宮は当然としても、京都御所や伊勢神宮です。このセレクションに関して堀口捨己さんたちと違っていたのでしょうが、戦略としてこの三つを近代デザインのモデルに使えばいけると理解したのは丹下さんでした。当時丹下さんはコンペを三つやっています。最初の「大東亜建設記念営造計画」は伊勢神宮モデル、その次の「在盤谷日本文化会館計画」は京都御所モデル、そして《広島ピースセンター》は桂離宮モデルです。この三つのコンペは全部岸田さんが審査員になっていましたから、そのモデルを取り出して狙い撃ちをやったんですね。丹下さんが連続当選しているのはこの作戦の成果です。丹下さんの前に岸田さんがいた。ここに注目しておくべきでしょうね。当時、デザインがうまい村野藤吾さんや吉田五十八さんや堀口捨己さんなどたくさんいたけれど、この二人のコンビが新しい問題を取り出すきっかけを作ったのだと思います。岸田さんは前川さんを評価していました。だから《岸記念体育館》は岸田さんに来た仕事だったけれど、それを前川事務所にやってもらい、実際の担当は丹下さんでした。小さいものだったけれど、この仕事の組み立てに、その後の流れの始まりが見えている。岸田さんは実務的建築家として前川國男を、デザイナーとしてコンセプトを展開する建築家を丹下健三にと、こんな評価をしたのではないですか。これは例の三つのコンペの始まる前のことだったわけです。戦後になって市庁舎の中にパブリックのロビーとコートヤードを日本で最初に持ち込んだ市役所である、ガラス張りの清水市庁舎も岸田さんの仕事です。さらには倉吉市庁舎、これは岸田さんが生まれた倉吉市から依頼がきて、それを丹下さんにやらせている。だから丹下研究室は岸田研究室の設計を担当していたとさえ言えますね。
これは藤森照信さんが『丹下健三』のなかに書いていたことですけれども、「在盤谷日本文化会館計画」のコンペの後、一等案の丹下さんが前川さんの二等案の平面図をもとにして、新たに案を描き直していたという話です。丹下さんの一等のプランはあまりにもフォーマルで、当選狙いのスタイルだった。岸田さんは丹下さんの案をあまり認めておらず、二等案の前川さんのプランのほうがよいと思っていた。そこで丹下さんに、前川さんの二等案のプランに描き直せと言ったらしい。これに前川さんはショックを受ける。これらのプランはもちろん全部がつぶれたからなんとも言えないけれども、岸田日出刀という人のポジションがわかるじゃないですか。

岸田日出刀の挫折

磯崎──一九四〇年に東京でオリンピックをやることが決まり、岸田日出刀さんは施設計画委員長を引き受けます。このオリンピックも結局戦争でつぶれました。一九三六年のベルリン・オリンピック施設を岸田さんは予備調査でベルリンに行って、シュペーアをはじめとする新興ナチスの作品を見て帰ります。そして岸田さんは『ナチス独逸の建築』(一九四三)という本を出版します。ここでシュペーアなどをかなり批判しています。戦時下においてナチスの建築へのはっきりした批判は珍しかったのでしょうね。一説によると岸田さんはこれを出版したために総攻撃を受けて、以後日本の国家的建築デザインへの発言がやりにくくなり、ほとんど口封じをされたと言う人もいます。
だからこんな気分もよくわかるのですが、岸田日出刀さんは世間に背を向けて趣味の世界へ入っていく。堀口捨己さんは茶の世界にいったわけでしょう。岸田さんについての一番有名な話は、佐渡の相川音頭に凝って料亭通いを始めたことです。あげくに建築学会に相川音頭の同好会を作ったりした。それで建築学会の宴会の最後の締めは相川音頭ということになっていた(笑)。宴会の末席にいた前川さんと丹下さんが歌えと言われたが、二人とも歌えなくて、岸田さんの前に平伏して「ここで破門をお願い申し上げます」と言ったという話がある(笑)。建築学会大会の最終日に壇上に五〇人くらいが整列し、中央に岸田さんがいて、皆で相川音頭を唄っている写真があります(笑)。
岸田さんはあの時代にまともにナチス批判をやった結果攻撃を受け、アイロニカルな生き方をとり始めたわけでしょう。相川音頭とゴルフと芸者で憂さ晴らししている。僕もこの年齢になると、この気分がよくわかる気がしますが、なにしろ僕が東大で建築学科に行った頃は、岸田さんは昼はゴルフしかやらなくて、夜は酒を飲んで相川音頭、建築とは無関係だと言われていました。宮内嘉久さんは、反動教授の親玉だと決めつけたりしているでしょ。当時は左翼的言動をとらないかぎり人ではないという時代ですから。おそらく岸田さんには心理的な挫折があったと思うんです。丹下さんの世代はそのことをよくわかっていた。僕は「東京計画一九六〇」の手伝いをやったり、ネオ・ダダのつきあいをやったりして、過労でぶっ倒れたことがあります。そのときも岸田さんは親切に僕に相川音頭とゴルフをやって気分転換しろと言われたのですが、どうしても無理で両方とも断ったんです(笑)。戦争が終わってから、岸田さんは建築家として真っ当に建築の議論に入ることを避けていたという印象はあります。エッセイはいろいろ書いていましたが、建築の大きな議論は丹下さんにまかせ、前川さんには実際の建物を作らせるという関係でした。あとは趣味でやっていく。建築家としては安田講堂の陰の担当者で、あとはゆうゆうと好きなことをやった。だけど日本が近代建築を受容し、定着させ、独自の展開をしていくプロデューサーだったと言えるのではないですか。
日埜──岸田さんは学内で権力的な抑えがきいたのですか、それとも考えていたことの水準が要するに頭抜けていたのでしょうか?
磯崎──権力をどのようにもっていたかわかりません。僕は東大の新制の二回生ですが、最初の講義は、岸田さんが「新制というのはアメリカが日本に押し付けた制度で、こんな制度で教育できるとは思っていない」と言って始まる(笑)。だから反動教授として批判されるのは当たり前だった。岸田さんのところに卒論を怖くて持っていく人がいなかったのですが、戦前は立原道造が岸田さんに論文を出していました。五〇年代後半、僕が「八田利也」というペンネームで書き始めたあたりは岸田さんが退官になる頃で、岸田さんのお供で飲みに連れていってもらったりしたので、僕はなんとなくつきあいやすくなっていたのです。
私個人と岸田日出刀先生(ここでは先生と呼んでおきます)との付き合いのなかで、大分市の上田保という市長が出てきます。その経緯を説明しておくと、その頃大分市では野猿の被害が起きていたのですが、餌付けに成功し、市長はそれを観光資源にしました。その敷地はお寺で、入場料をめぐって寺側と市側がもめたんです。お寺は本堂が戦争中に焼けてなくなって、入場料で本堂を再建する案を作っていた。市長は対抗案を作らなければいけないと、東大の建築の大学院に行っていた僕が呼び出されました。上田市長の段取りで、岸田日出刀先生を監修にして、僕が図面と模型を作りました。そうこうするうちに市と寺の和解が成立し、プロジェクトは消滅した(笑)。

木造とコンクリートの統合

日埜──《香川県庁舎》に代表されるようなRCフレームの扱い方の原型を《岸記念体育館》に見ることができるわけですが、それがスタイルとして完成されていく過程では、近代建築のコンクリートと日本的なるものを調和させることが課題であったわけですね。
磯崎──日本が近代建築を受容するとき、RC構造は文句なしに最初に学ぶ必要がありました。とりわけ一九二三年の関東大震災の復興にはこの技術こそが都市を作ると考えられました。だからRC造を汎用化するためにフレームつまりラーメン構造がいち早く導入され、基準になっていました。耐火性能が都市防災上欠かせなかった。それにどんなデザインを与えるのか。フォーム・ギヴァーという用語があるでしょう。これが建築の巨匠の代名詞とされてもいる理由は、RC造のような新しい技法に独自のかたちを与えること、つまりデザインの基本的性格を見出すことだったと言えます。言い換えると、RC造の特性を生かしたデザインをいかに作るか、これがひとつのプロブレマティック(問題構制)をかたち作ったのです。つまりフレーム構造とその比例の系とを考えることが最重要課題になっていたわけです。
日埜──《代々木体育館》のようなかたちが出てくるまでは、丹下さんのRCというのは基本的にそのようにして成り立っていたように見えます。しかし磯崎さんの《医師会館》は、チューブの下に据えられた部分にやや類似した組み立てが見えるにせよ、全体としてはそのようなスタイルを拒否したところで考えられている。そこに岸田日出刀以降のフレームおよびプロポーションに対する磯崎さんの独特のポジションが見えるような気もするのですが。
磯崎──学生の頃、建築の設計課題が出たとき、いろいろと世界情勢をみていて一番面白いと思ったのはオスカー・ニーマイヤーでした。大学では誰も評価してくれないことはわかっていました。アクロバットなんかやるものじゃないと誰もが言っていましたからね。その頃丹下研究室でコンクリート・フレームでデザインを始めたという情報が流れて来ました。最初に丹下さんの研究室でやったのは津田塾大学の図書館だったと思います。これの設計は僕が入る前で、《広島ピースセンター》の本館の設計が進行中の頃です。そのときに僕が理解したのは、木造的なものとコンクリート造的なものの統合です。その頃コンクリート構造では壁に柱がついたラーメン構造が基本でしたから、これはもうないということだけはわかっていました。そうは言っても、先例がないと見通しもきかない。そのうち丹下さんのところでフレームだけを取り出したデザインを始めた。桂離宮をめぐる議論はすでに建築界にありました。それを現代的に解釈して、実際のデザインにつなぐなんて誰も考えていなかった。近代建築だって、新しい様式の一種で流行のデザインがバウハウスやル・コルビュジエだと見られていたのです。丹下さんのユニークさは、無謀にも木造のプロポーションをコンクリートでやれるのかということを実践したことです。日本でなぜコンクリート構造の計算方式が輸入されたときに、柱梁に還元して計算をする方式が採用されたのか。フレーム構造は元来鉄骨構造のシステムです。これを疑うこともなく誰もが使い始めたとしても、柱がどんどん太くなる、壁があると少し細くなるけれど、透明感がなくなる、いろいろ矛盾があったんです。地震力に対してフレーム構造では上方と横方向の両方からの入力を単純に計算すればいい。そこでユニークなひとつの発想が生まれます。垂直加重と横力とのバランスの上で成り立つのだから、壁と柱を分解して、横力と垂直加重に対応させることにする、耐震壁という発想が生まれたのもこの頃です。僕が丹下研に入った頃です。それをもっと押しつめてコア・システムの議論が生まれた。もうひとつはピロティです。これはル・コルビュジエから学んだものです。ピロティが都市のスケールに対応する必要がある。これを明確に意識したのが丹下さんだったと思います。通常の階高より高くする。
ルネサンス以降、どちらかというと一六世紀になって、ラファエルからパラディオにかけて、都市的な建築の型が徐々に開発されていきます。地上階──ピアノノビーレ──アティクという三段重ねの論法です。一階分くらい高くなっていて、間に中二階が入る。都市に対してメザニンをそういう扱いにしていることは、日本では歴史的にありません。丹下さんは都市的スケールと人間的スケールの使い分けと言っています。伝統的にヨーロッパの町にある建築のスケール感を引っ張り込もうとしたのです。丹下さんはそれまで外国に行っていないにもかかわらず、勘で理解していました。僕はまったく忘れていたんだけれど、一九五六年に、丹下研の議論を僕がまとめた原稿が東大新聞(六月四日号)に載りました。当時東大新聞部の編集部にいて、現在森ビルの社長の森稔氏が、僕の原稿が見つかったと送ってくれました。やっとあの頃の議論を思い出しましたが、建築家がそんな観念的で政治的なアプローチをするなんて、邪道だなんて思われていた頃ですよ。

丹下健三のプロポーション

磯崎──ヨーロッパでの建築論の基本はギリシア以来、プロポーションですね。ヴィトルヴィウスのシュンメトリアとかモデュロスなんか。もう戦前から翻訳はあったから、これは常識になっていました。ただし、東大では岸田さんが教える枠なので、あんまり突っ込んで学んだ記憶はありません。それに対して、日本の棟梁たちが手がかりにした木割は知られてはいても現代につながるものとは考えられていなかった。石造と木造の伝統として眼前におかれたとしても、近代の構法とどのように関わるかといった視点は生まれていなかった。桂離宮や数寄屋の評価が近代建築家によって取り上げられたこと、それを単なる構成を超えて、現実に使う手法の系にまで導こうとした、こんな姿勢が当時の丹下研の存在をユニークにしたのではないかと思います。
もちろんル・コルビュジエの「モデュロール」なんかが現われた。プロポーションの系を黄金比に収斂するヒボナッチ級数とつなぐという芸当には感服します。その影響は絶対的でもありました。ル・コルビュジエがモデュロールならこちらは木割だということで、《香川県庁舎》(一九五八)の頃、丹下研ではいろいろなプロポーションの図面を描きましたね。どれだけ微妙に変えるかということでした。丹下さんが、ル・コルビュジエのモデュロールに近いヴァージョンを作ったりしました。巨匠と思われていたル・コルビュジエの方法から方向性を学びながら、日本的なものに読み替える。これは僕がうんと後に和様化などと言い始める遠い契機でもあります。丹下研が五〇年代にやっていただけでなく、日本の歴史を通じて同じ意図が働いていたに違いないと思ったのです。これは様式や形式ではありません。むしろ技法(RC造と木造)と重力(地震も含む)との間に生み出される空間の内部にひそむ比例体系についてです。

丹下健三から抜け出す試み

磯崎──僕は自立するならば、丹下さんのところで作り上げたコア・システムとプロポーションの系などを受け継ぐと同時に超えたい、と思っていました。その最初の目標のひとつはプロポーションの系でした。黄金比=モデュロールが思考の枠を決めてしまう。「木割」についても同様です。その成立をくずせばよい。比例のない空間、比例の成立しない場を作ればよいと考えました。《大分県立中央図書館》では断面をすべて正方形にし、《中山邸》(一九六四)では立方体だけしか使いませんでした。立方体は三辺ともプロポーションが一緒だから、プロポーションの系がないわけです。形式のレベルでは構成要素をいったんバラバラにしていますが、細部は必ずしも応力の流れにしたがっていない。かなり奇妙に見えたと思えます。当然ながら評判は悪い。
あげくに、立方体をそのままにしたのが《群馬県立近代美術館》(一九七四)です。この一〇年間でなんとか丹下さんから抜け出す方法を探し続けていったということでしょうか。それは同時に近代建築を和様化させていった手法の系からも自由になりたいということでした。《群馬県立近代美術館》の設計を始めるときに、それまで気になっていたいくつかの近代建築をヨーロッパに改めて見に行きました。アスプルンドの《森の葬祭場》、テラーニの《カサ・デル・ファッショ》を見ているうちにわかってきたことは、アスプルンドのプロポーションのとり方は、丹下さんが木割から微妙なプロポーションの形態を作り出したメッソドと同じで、クラシックを作り替えたということです。それに対してテラーニはずいぶん荒っぽい。意図的だったのか無意識だったのか、あるいは忙しくて考える暇もなかったのかもしれないけれど、縦横同じ立方体を使っていた。ともかくここまで徹底しないといけないと思いました。あの建物は、前から見ると機能主義の構成のようになっているけれども、中に入ると立方体のフレームで空間が組み立てられているのがよくわかる。スケールを拡張して《群馬県立近代美術館》を立方体フレームだけにしました。考えてみれば《群馬県立近代美術館》を作ったことによって、その後の僕の型ができたと言えます。《大分県立図書館》は、僕が近代建築として学んできたことを自分なりに処理して総まとめにしたディプロマのようですが、僕にとってはこれはスタートだった。岸田さんの設定した日本的なフレームと、丹下さんがさらにそれをプロポーションまで考えて西洋的な要素を入れて統合したことに対して、いかにそこから抜け出ることができたか。
《大分県医師会館》は大きな門構えで、その間に小さいスケールを差し込もうとしました。これは無意識にやったんですが、カンピドリオの丘の両側にあるミケランジェロの建物は、いわゆるパラディアンの開口部のスタイルをすでに先取りしています。パラディオはフレームの中にもう一本添え柱を入れましたが、ミケランジェロの場合はジャイアント・オーダーと普通のオーダーの組み合わせにした。最初に見たときは組み立て方に気がつかなくて、その後ジャイアント・オーダーだとわかった。《大分県医師会館》をジャイアント・オーダーだと言っていたけれども、僕はまだヨーロッパに行ったことがなかったけれど、こんな歴史用語はどこかで聞きかじっていたかもしれません。丹下さんはメザニンを介してヨーロッパで生まれたオーダーの変化を引っ張り込んでいます。僕にとっては歴史のしがらみからどうやって抜けるかということが問題だったのです。設計のときにいかに深く考えていても描き出さねばしょうがない。直感でやる。めくら滅法にやって、できた後にやっとわかってくる。
宮内嘉久さんや神代雄一郎さんの世代は、僕の建築を全然評価してくれない。基本的にわかってくれていないと思っています。彼らは、丹下さんのプロポーションについては理解する。評価するかしないか、それぞれの人の考えがあるでしょうが、どんな建物かという理解はされている。僕がやりたかったのはそれを抜けることです。その抜けたところから《大分県医師会館》などが出てきたのですが、抜けた痕跡は評価されていない。

プロポーションの解除

磯崎──プロポーションをはずしてしまうと純粋幾何学になってしまう。建築は幾何学を変形しながら微妙なプロポーションを作り上げてきたにもかかわらず、その過程を逆流して、元に戻っているだけではないか、ととられてもいたしかたありませんね。元に戻してしまったフレームは、ただの幾何学なのか、建築と呼べるものなのかどうか。おそらく僕の行き当たった最大の問題構制がこれです。自分は建築だと思って作ったけれど、できたものは建築ではなかった。こんな矛盾が起こってしまう。ここに〈建築〉をどのように定義してきたかという長い建築的言説の歴史があります。八〇年代のポストモダンの時代になって、「大きい物語」の消滅というかけ声につられて、言説のすべてが〈建築〉を成立させていた場からの逃走を開始しました。逃走の一端に僕もいたのですが、〈建築〉だけには固執したのは、それが成立した根源にまで遡行して、徹底して問題の所在を突き止めないかぎり、逃走しても未解決の部分を引きずっていると、改めてからめとられてしまう。それくらい手ごわいものだ。分裂と見られても、反時代的と見られても、流行遅れと見られても、まあこれだけは処理しなければ先には進めまい、こんな単純な思いこみでした。それを裸にして、還元したあげくに残っているに違いない何ものかに接近することでした。なぜそれが建築と呼べるのかということは建築論の問題です。具体的な手法論の問題でもあります。僕はそういうプロセスでプロポーションを解除するところにきたわけです。このプロポーションの解除というのは日本の建築的言説の文脈に基づいてみると、岸田さんがモダニズムを戦略的に考えて以来続いてきた問題に繋がっていると考えています。さらに宮内嘉久さんについて言えば、彼とは前川・丹下評価で意見が一致しません。宮内さんは丹下さんの名前が出ただけでそれ以上聞きたくないという感じです。その根源は岸田日出刀さんだから、逆に前川さんを評価していくようになります。だけど僕にとってみたら、前川國男の作ったものは建築ではない。建築からどんどん単純な技術、単純な機能の集積、実用物のほうに流れて、ビルディングになっている。それで世の中の九〇パーセントの需要は満足するし、結構なのかもしれないけれど、残りの一〇パーセントの建築は違うのではないか、前川さんはそれが一生わからなかったのではないか、と言ったことがあるのですが、非常に怒られました(笑)。建築とビルディングとは違う何かです。仮にプロポーションを解除して裸にしても「建築は建築である」、こんなところに僕は行きついたのです。その後建築論まがいの文章をたくさん書いたのは、「建築は建築である」というトートロジーを根拠に据えるための仕事にすぎません。繰り返すと、それが純粋幾何学への還元だった。立方体フレームを、建築だ、そして空間だ、と言い切ることです。僕がそんな場所に入り込んだ最初の契機が岸田さんから丹下さんを通じての日本建築の構成的な読みの系譜だったとも言えます。

建築をめぐる政治、権力、美の言説

日埜──フレームと建築の問題が岸田日出刀の主導のもと展開していたとすれば、そのもうひとつ前には佐野利器的な構造派と建築を芸術と見なす建築家の分裂があるわけですね。いわゆる岸田日出刀の意図はそうした分裂を止揚する意味もあったはずですが、そうした歴史的な意味はあまり顧みられていないような気がします。
磯崎──野田俊彦の「建築非芸術論」(一九二〇)を一番評価したのが佐野利器です。そしてそれが同潤会のプリンシプルになり、佐野は後藤新平のブレーンとして日本の資本主義のイデオロギーと繋がっていくわけです。もともとバウハウスの理念は、装飾を取り付けることによって芸術になる、と考える単純な様式建築に、徹底的にNOを言うことで、建築を芸術的構成から機能的な生活の道具にするという一種のイコノクラスムでありました。一九世紀末に始まる初期近代建築運動は、装飾をデザインとして新しくすることに終始していました。これは形式や方法を変えるものでなく、いたずらに表層の変更だけを考えていた。いうならば、芸術としての建築の枠内での変更にすぎなかった。前期バウハウスは機械的なもののデザインを提案してはいても、やっぱり同様でした。ロシア構成主義コンストラクティヴィズム──この用法は正確ではなく、直訳すればロシア建設主義と言うべきで、ここは最近使われるロシア・アヴァンギャルドのほうがいいと私は考えます──の成果なんかが導入されるけど、バウハウスは最終的にハンネス・マイヤーの学長就任の際のマニフェスト「芸術か生活か!」にみられるように、徹底して物質主義的に傾斜します。芸術を建築が自己否定する。このラディカルな主張で、結局いっさいが解体されて、全世界は三〇年代に政治化します。そのとき、政治性(国民性)まで消去して、物質のレベルにまで還元する。その美学がノイエ・ザッハリッヒカイトだったと考えられます。この二〇年代の動きを横に見ると、野田俊彦の「建築非芸術論」のラディカリズムは先駆性において注目されるのだけど、問題はそれを芸術などという余計な遊びの否定(もちろん一九世紀までの様式建築を拒否する点ではいいのだけど)へと短絡しただけなく、実用主義と商業主義へと直結してしまうような懐の甘さがありました。政治的、経済的に資本主義のイデオロギーに収奪されてしまったとも言えます。このような背後にある文脈をみておかないといけません。
日埜──「建築非芸術論」は芸術vs.工学みたいな単純化された構図で捉えられがちですが、それをノイエ・ザッハリヒカイトとして読み替えれば、たしかにそれ以降のことは少々違った見え方をしてくるはずですね。
しかし例えば丹下再評価、あるいは前川再評価なんて言っても、それがどうかすると好みの問題であるかのように見えてしまう現在の寂しい状況もあります。建築家の人となりや伝記的ストーリーへの共感であったり、あるいは単に「初めて感動した建築」というようなパーソナル・ストーリーに結びついたものが再評価というやつの実体だったりすることもけっして少なくないわけですね。そういう趣味的な建築の見え方に対して、あるいはまた実用主義とか商業主義とかいうものがまさしくもっとも普遍的なものとなった状況において、なにかしらリアリティのある問題設定をしていかないと抵抗できないわけですが。
磯崎──建築に限ってはいろいろ議論できますが、住宅に置き換えると微妙になってくるんです。篠原一男は「住宅は芸術だ」と言っているけれど、今の住宅作家が作る住宅の九九パーセントは住みやすさやアヴェイラビリティが中心で、堅苦しいことを言わなくても住宅として成立する。しかも大部数のポピュラーな建築雑誌が皆それに引っかかっている。残り一パーセントの建築は美術誌に載ればいいという分類になっていくわけです。そうすると住宅のほうが難しい。建築でもそういったことは当然あるんですが、問題は昔は評価基準として国家があったけれど、今はそれが基準にならないから、誰が何を目的にして作っているのかわからなくなっているということです。ナショナリズムと言ったらまた古いということになるし、これがまた難しいところです。
もうひとつは建築は権力とも繋がっている部分があり、繋がらないと具体化しないこともあるし、建つことが権力に繋がる。その問題を整理しないと議論が進まないと思う。このあたりは、戦争中の実証主義、生産力論、アジア主義、それに「近代の超克」論など、建築領域以外の言説やそれに関わる文脈と重ねて議論してほしいのです。前川さん、丹下さんの諸言説は一九六〇年頃でひと区切りしていると僕は考えます。六〇年で主題が変わりました。その前段階で、決定的発言とみえるのは、丹下健三さんの「美しいものこそ機能的だ」です。非マルクス主義的で古い新カント派をもちだしたと思えます。丹下さんに反対していた人たちはこの簡明な一言をついに撃破できなかったのではないですか。一九三〇年代の「権力と美」に関わる政治性を背景にした言説がまだ生き延びていく。そんな議論の場が少なくとも五〇年代はありました。その研究室に所属していたせいもあるけど、僕はやっぱり前川さんより丹下さんを評価しているのです。
[二〇〇五年一一月一日、磯崎新アトリエにて]

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>前川國男(マエカワ・クニオ)

1905年 - 1986年
建築家。前川國男建築設計事務所設立。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>村野藤吾(ムラノ・トウゴ)

1891年 - 1984年
建築家。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。