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音響技術の発達と音響場のメディア化 | 安田昌弘
The Development of Acoustic Technologies and Mediatization of the Sound Field | Yasuda Masahiro
掲載『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?, 2006年12月発行) pp.41-43

近代メディアと社会関係の脱埋め込み化

前回はオスマンのパリ改造に象徴される都市空間の近代化が、パリをブルジョワ的な西部と庶民的な東部に分化し、同時にそこで響く音にもトポロジカルな棲み分けを産み出したことを確認した。今回は、都市空間におけるトポロジカルな音の棲み分けが、メディア技術による媒介を受けながら拡大再生産されていることを、二〇世紀前半のパリに注目して論じてみたい。そのなかでパリのメディア化は、もはやパリの街角を超えてフランス全体を(あるいは世界をも)巻き込んだ象徴闘争へと発展してゆくことになろう。《メディア化》という言葉で示したいのは、都市空間のトポスがその本来の場所から掘り起こされ、一種のファンタスマゴリー(幻影)として流通するようになる状態である。

蓄音起業家と腹話術

そうした都市空間のメディア化の端緒を象徴的に表わしていたのが万国博覧会であろう。万博の原点は一七九八年にパリで開催された内国産業博覧会に遡るが、ベンヤミンが看破したように、それは「商品=物神巡礼の中心地」(Benjamin, 2003: 19)であり、労働者階級を歓ばせなければならないという(サン・シモン主義的)欲望から生まれ、ついには「勤労階級にとって解放の宴となった」(前掲書: 20)。電気や磁気など当時発見・発明された科学技術が、博覧会などを通して社会化するうち、時にいかがわしい意味や価値を獲得していったことは多くが指摘するところだが、蓄音技術も例外ではない。一八七七年に蓄音器を発明したエジソンは翌一八七八年、フランス科学アカデミーでデモンストレーションを行ない、一八八九年のパリ万博では電池駆動となった改良型蓄音器を発表した。科学アカデミーでの発表では、会員がエジソンの発明を腹話術だと決めつけ、アカデミーへの侮辱だと糾弾したという逸話がある(De Candé, 1956: 271)。この逸話から蓄音器のデモンストレーションには音楽ではなく話し声が使われたことが伺われるが、同時にここで蓄音技術のメタファーとして《腹話術》という言葉が使われたことは注目に値しよう。今ここに存在しない音源の音を、あたかもそれが存在するように現前させるいかがわしい技術──万博などでエジソンの蓄音器を見たシャルル・パテはその本質を鋭く見抜いていた。
シャルル・パテをはじめとする初期の蓄音起業家の活動拠点は歓楽街の見世物小屋であった。パリでは一八九〇年代中頃から蓄音器を使った見世物興行が定着し、シャルル・パテは郊外の移動遊園地を巡業し、さらにカフェに蓄音器と音源を供給するという商売を思いついた。一八九六年には弟のエミールとともにエジソンの「イーグル」型蓄音器を基に名前をフランス風に「ル・コック」と改めた蓄音器の製造・販売を開始している。どう見ても行き当たりばったりの商売であるが、大成功を収め、逆にそれが仇となってSACEM(仏音楽著作権団体)に訴えられている。これがきっかけとなりフランスでは一九〇五年に録音物にも著作権が適用されることとなったが、これは同時に音楽出版社、レコード会社、大衆雑誌、興行主などを結ぶスターシステムの生成に繋がった。このシステムは蓄音器やレコードに手の届かない庶民階層のもとにも及んだ。一九〇六年にはパリの街角で流行曲を演奏する街頭音楽家たちが同業者組合を組織し、音楽出版社と提携して路上で歌集の販売を始めたのである。かくしてシャンソンはパリ全体(そしてフランス全体)に響き渡るようになった。そしてそこで歌われるモンマルトルのキャバレーであるとか、アコーデオンの音色であるとかは、それらが本来根付いた場所から切り離された記号としてそれらの神話化に貢献してゆくのだ。一九〇〇年のパリ万博に合わせて地下鉄が開通し、パリの東西を結んだことも当時のパリの音響場の変成に大きく関係していたと考えられる。

ジャズ、そしてメディア空間における路上性の獲得

一九二〇年代になってラジオ放送が開始され、トーキー映画が導入されると、パリの脱埋め込み化はさらに徹底する。ルネ・クレールの「巴里の屋根の下」(一九三〇)が象徴的だ。パリの庶民生活を扱った映画だが、そこに描かれる街頭音楽家は実際には姿を消しつつあった。パリの路上は自動車や建設工事の喧噪が支配し、道行く人は街頭音楽家の演奏に耳を傾けるよりも「蓄音器やラジオから流れる歌声を聴くために家路を急ぐようになった」(Lesueur, 1999: 8)のである。フランスでは欧州でも珍しく民営ラジオ放送が認められたが、民放局にとってシャンソンは聴取者(と広告主)の気を惹く格好の材料であった。世界恐慌のあおりでキャバレー、カフェ・コンセール、ミュージックホールのほとんどが経営破綻に陥り、倒産するか映画館に鞍替えしたこともこうした傾向に拍車をかけたはずだ。こうしてシャンソンはパリの街角を行き交う人を前にしてパリの街角を歌うのではなく、そこにいない不特定多数に対し「失われたそれへのファンタジー」(Rifkin, 1991: 208)を歌うようになるのである。
しかしシャンソンに歌われたパリがその幻影としてメディア空間に絡めとられるのと並行して、パリの街角には、路上を別の音が響く場所として奪還しようとする逆の力も働き始めていた。ジャズがそれである。狂乱の時代(レ・ザネ・フォル)と呼ばれた大戦間のフランスにあってジャズは、顕在化する異国=他者に対する畏怖と憧憬が錯綜するなかで受け入れられ、アフリカの野蛮という退歩的な意味と、アメリカの産業技術という進歩的な意味の両方を獲得してゆく(Archer-Straw, 2000: 14)。ジャズとフランスの熱い蜜月に関する論考は興味深いものが多いが、本稿にとって重要なのはジャズが黒人というエロス化された他者へのまなざしと結びついていたことであり(一九三一年にはパリで植民地博覧会が開催されている)、それゆえなによりもまずパトス的なダンス音楽として響いたことである。また、ジャズは反道徳的とされラジオや映画などの主流メディア空間から排除されたため、カフェやダンスホールを中心とした路上のネットワークを形成していった(ラジオ局およびリスナーのジャズに対する忌避感についてはCanetti, 1986.参照)。これは例えば、観光地化したモンマルトルを嫌った芸術家たちがこの頃セーヌ左岸のモンパルナスに移り住んだことによってさらに先鋭化していった。二〇年代頃から、ル・ドーム、ラ・ロトンド、ラ・クーポール、ブロメ通りの黒人ダンスホールなど、モンパルナス界隈のカフェやダンスホールでジャズにあわせて踊る人々の姿が、時に扇情的に主流メディアを賑わせるようになるのだ。

1──モンパルナスのカフェ。 SEM(George Grousat Sem),  Les Montparnos, 1925.

1──モンパルナスのカフェ。
SEM(George Grousat Sem),
Les Montparnos, 1925.

2──黒人が集うダンスホール。 SEM(George Grousat Sem),  Le Bal de la rue Blomet, Paris, 1923. 引用図版=Archer-Straw, P., Negrophilia: Avant-Garde Paris and Black Culture in the 1920s,  London: Thames & Hudson ltd., 2000.

2──黒人が集うダンスホール。
SEM(George Grousat Sem),
Le Bal de la rue Blomet, Paris, 1923.
引用図版=Archer-Straw, P., Negrophilia: Avant-Garde Paris and Black Culture in the 1920s,
London: Thames & Hudson ltd., 2000.

メディア化による象徴闘争の拡大再生産

二〇─三〇年代のパリの音響場において、路上対主流という対立は実はジャズ対シャンソンというジャンルの対立であり、モンパルナス対モンマルトルというトポロジカルな対立であり、ダンスホール対映画館、レコード対ラジオというメディア空間の諸局面における対立でもあった。ジャズもまたメディア技術による腹話術によって媒介されていたということは見逃されるべきではなかろう。パリにおけるジャズの真正性がアメリカ製のレコードによって規定されていたことからも伺い知れる通り、蓄音技術なしでジャズがパリの音響場に挿入されることはあり得なかった。主流化するシャンソンに対抗し、路上に根ざした享楽的な音としての正当性を賭けた象徴闘争を展開するなかで、ジャズはそれを否定しつつもシャンソンと同じ音響場に参入してゆく。それは、主流メディアがジャズの他者性を忌避し、扇情的に報道することでモラルを維持しようとしたことと、三〇年代になってシャンソン歌手によるジャズの濫用に抗議し、《本物の》ジャズを指南することを目的とした団体がレコードコンサートなどの啓蒙活動を始めたことに、表裏一体として立ち現われている。かくして都市の路上はメディア空間に絡めとられ、路上と主流の対立はメディア技術によって増幅された音響場のなかで拡大再生産されていった。次号では、カセットテープやビデオ、そしてインターネットなどの新しいメディア技術が路上の腹話術をどのように媒介し、音楽の作り手と聴き手の間の関係をどのように変成していったかについて考えてみたい。

参考文献
•Archer-Straw, P., Negrophilia: Avant-Garde Paris and Black Culture in the 1920s. London: Thames & Hudson ltd., 2000.
•Benjamin, W., Paris, Capitale du XIXe siécle, Paris: Editions Allia, 2003.
•De Candeé, R., Ouverture pour une discothéque, Paris: Seuil, 1956.
•Canetti, J. “Du sans-filiste au petit ami de Radio Cité” in Vivration 3: les musiques des Radio, Toulouse: Editions Privat, 1986.
•Lesueur, D., Hit Parades 1950-1998, Paris: Alternatives et Paralleles, 1999.
•Rifkin, A. “French Popular Song: Changing Myths of the People” in B. Rigby and N. Hewitt eds., France and the Mass Media, Hampshire: Macmillan, 1991.

>安田昌弘(ヤスダ・マサヒロ)

1967年生
ポピュラー音楽研究、グローバライゼーションとローカライゼーション、音楽と場所、都市空間とメディア空間の相関。

>『10+1』 No.45

特集=都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?