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過剰露出──アブグレイブの拷問 | 土屋誠一
Overexposure: Torture in Abu Ghraib Prison | Tsuchiya Seiichi
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法, 2004年09月25日発行) pp.35-37

デジタル・イメージに関する議論が盛んになりつつある★一。それは、ネットワークに接続された監視カメラのような、コントロール型権力(ドゥルーズ)の顕在化、あるいはスマートモブズ(ラインゴールド)の一般化といった事態への対応を迫られていることを示しているのかもしれない。そのような問題を考察する過程で、避けては通ることのできない事件が、今年に入って発覚した。昨年のイラク・アブグレイブ刑務所で起こった、アメリカ兵によるイラク人への拷問事件に対して、スーザン・ソンタグはいち早いリアクションを示した。ひとまず、「他者の拷問への眼差し(Regarding the Torture of Others)」★二と題されたそのテクストの概要を紹介しよう。
ソンタグは、この拷問が発覚した後の、アメリカ政府の対応に対して、疑義を述べる。現実に拷問を行なった加害者が、いくら少人数であったとしても、そのような事件が起こりうるアメリカの覇権主義的な政策の本質において、それは「アメリカ」そのものを表象していると言うべきであると語る(「これらの写真は私たちなのだ」)。また、従来、戦争写真はジャーナリストの専有領域だったはずであるが、いまや戦争に関わる当事者たる兵士が、その役割を代行するかのように、自らの戦争を記録している。しかも、自らの残虐行為を記録し、さらにはその撮影されたイメージを、インターネットを介してあちこちへと送る、といったように撮影する主体の役割は変質している。このことは、デジタル・カメラの大衆的普及にともなう、撮影と表象行為の簡便化に端を発する。この撮影者の行動様式は、インターネット上のポルノグラフィにおけるそれとまったく同一である。事実、今回流出したイメージの大半は、プライヴェートな行為を公開するようなアダルト・サイトのイメージと、図像的に見てもほぼ同一である。さらに言えば、一連の行為の記録が、写真というメディアを媒介にして記録されたというよりも、むしろ、写真装置によって記録するために、行為が事後的に発生している。つまり、行為そのものよりも、記録することそれ自体が先行するということである。そして、その無限定な欲望の流出は、倫理的な枠組みを超えて、享楽的でさえある。
ソンタグは、国家的な心性がその残虐性に浸されていることを指摘する。また、この事件に対する、アメリカの反応は、どのように予測されるか。このような写真の多量な流出は、メディアの特性上、もはや組織的に抑止することが不可能であろう。であるならば、国家としてのアメリカは、自国が招いた残虐性の表象に、永続的に晒され続けることになる。そのことは、「正義」の護符の下に戦うアメリカの「正しさ」が、メディアの暴力によって危機に侵されることを意味するだろう。「正しさ」というイデオロギーの下においては、個人の欲望に基づく虐待を許容しつつも、それが白日の下に晒されるやいなや、アメリカの正義に敵対するものとして、被害妄想的ともいえる反応を引き起こすという悪循環に陥る。最後に、このような状況に対して、それがグローバルなメディア環境下で、無限に増殖するものであるが故に、「止めることはできない」というある意味では極めて悲観的(現状追認的?)なコメントを吐いて、このエッセイを締めくくっている。それでは、このソンタグのテクストを出発点に、考察を試みてみよう。
アブグレイブのデジタル・イメージは、確かに陰惨である。しかし、かつて暴力的なイメージが持っていた、隠微なエロティシズムは、そこからはほとんど感じることができない。しかも、奇妙なまでに深みを欠いた、ある種の明るさすら、このイメージから読み取ることができる。ここで、極端に対照的な例として、ジョルジュ・バタイユが終生取り憑かれていたあの一枚の写真、二〇世紀初頭の中国で撮影された切り刻みの刑(凌遅)の写真を、想起してみるのが良いかもしれない★三。この極めて残虐なイメージから、バタイユ特有の至高性あるいはエロティシズムを読み取ることが可能であるのは、この写真がある種の隔たりを露わにしているからではなかろうか。しかし、写真とはそもそも、隔たりを生産する装置である★四。阿片によって感覚を麻痺させられつつ、生きたまま手足が切断され、肉が削ぎ落とされるという恍惚の体験。だが、その写真を見る者は、対象に同一化しようとする欲望を持ったとしても、リアルな体験から時間・空間的に永遠に疎外され続けるであろう。そのような到達しえない欲望は、イメージが定着されるところの、印画紙という物理的な支持体に対して、代補的に差し向られる。印画紙に定着された写真は、このようなプロセスを経て、フェティッシュの対象としての位置を与えられる。以上のようなフェティシズムを媒介にして、バタイユとこの写真が官能的な関係を取り結んでいたように、写真とは印画紙という皮膜の物理的実在において、その鑑賞者との結び付きを確保するのである。
アブグレイブでのイメージには、バタイユの写真にあったような隔たりはほとんど存在しない。ポール・ヴィリリオが述べるように、デジタル・メディア環境下における世界の時間や空間の隔たり、あるいは物理的支持体が持つ抵抗感は限りなくゼロに近似するまで縮減され、イメージは遍在し、過剰に露出され、超・出現(trans-apparence)化する★五。あらゆるイメージが過不足なく供給されうるという意味において、欲望が完全に充足されたこのイメージに、フェティシズムが付随するはずもなく、どれほど残虐な行為が記録されていたとしても、エロティシズムが発動することはない。アブグレイブの写真から見て取れる、薄っぺらい明るさは、上記のような理由に由来する。
アブグレイブでの事件を撮影したのは、拷問行為を行なうアメリカ兵たち自身であることは、注意しておくべき事実である。なぜ、自らの背徳的な行為を、わざわざ自らの手によって留めておこうとしたのであろうか。それを理解するためには、ソンタグが先のテクストで指摘するように、拷問行為が撮影に先立つのではなく、撮影可能性が先行したために拷問が行なわれたと考える必要がある。ヴィリリオにしたがって、現在のデジタル・メディア環境下におけるすべてのイメージが、同一平面上に出現するということが必然であるとするならば、プライヴェートな欲望の噴出もまた、私的な領域に隠匿する必要もない。すべての行為は、薄っぺらい平面上に露わにされるために行なわれる。そうであるならば、イメージの表出それ自体に限って言えば、善悪の判断は無意味である。パース/クラウスによって腑分けされた写真のインデックス性は★六、デジタル・イメージにおいてはむしろ、イコンのほうに、コンピュータのデスクトップ上の「アイコン」のほうに近接する。銀塩写真が対象とのインデキシカルな物理的連続性を示唆するのに対して、デジタル・イメージは現実に生起した痕跡を表象しえないアイコンに過ぎないからである。
にもかかわらず、このイメージから陰惨さを拭うことは困難である。それは、実際に生起したと判断されうる残虐な行為と、撮影時の行為者たちの身振りとの、奇妙な不一致に由来する。多くの場合、屈辱的な拷問を受ける被害者たちの姿に相反して、加害者たちは、記念撮影によくするような笑顔をともなう、親指を立てた勝利のポーズのような、極めてステレオタイプな身振りをともなっている。その表情からは、背徳的な行為にともなう羞恥の感情や、後ろめたさのようなものは、ほとんど感じられない。この拷問という行為を介して取り結ばれる両者のギャップには、許容することが不可能な残虐さに対する否定的な感情が、まったく脈絡のない平穏さを示す身振りにおいて、相対化されてしまうような感覚がつきまとう。つまり、このイメージから読みとれるのは、拷問が陰惨なのではなく、形式的な身振りに由来する相対化によって拷問の陰惨さが失効していることが陰惨である、ということだ。それでは、記念撮影のポーズを取る加害者たちの視線は、一体どこに向けられているのであろうか?  それはもちろん、それらが相互にネットワークを構成するという可能性において、イメージ・データを記録するデジタル・カメラであり、そのデータが流通するインターネット上の空間に対してである。グローバルなネットワークに明滅するイメージは、現実の空間で生起する光景からは切断され、あくまで類推的な指示性しか持たないアイコンとして、サイバースペース上を浮遊する。アブグレイブの加害者たちは、その切断ゆえに自らの拷問行為に対する反省的判断を欠き、いやむしろ、イメージの過剰露出への誘惑に耐えきれず、自らの享楽をサイバースペースに撒き散らしたのだと言うべきであろう。その享楽はソンタグが指摘するところのアメリカの正義に基づいていようといなかろうと、先に述べたポルノグラフィへの欲望と同様に、あくまでプライヴェートな欲望を端緒とすることは、事実である。ただ、この場合のプライヴェートとは、プライヴァシーのような、ある主体を代表して守られるべきものではなく、過剰露出のなかでかりそめに類推されうる程度の確実性しか持たないものであることは、確認しておくべきであろう。
アブグレイブの拷問事件をめぐる、デジタル・イメージの表われは、現在のメディア環境下における倫理的判断が相対化へと向かっていることを示している。暴力もまた、それがごく日常のことであるかのように、続々と提示される。もしこれがデジタル・イメージのメディア的本質ならば、写真のようなメディアにおけるイメージの隔たりがもたらす、反省的距離のようなものを、そこにおいて確保することは可能なのであろうか?  それを、「これらの写真は私たちなのだ」と責任をリアル・ポリティクスのレヴェルで代行しようとしても、ソンタグ自身矛盾を抱えつつも気付いているように、過剰露出されたイメージの奔流はもはや「止めることができない」のかもしれない。しかし、結論を急ぐのは止めよう。行ないうることは、戦略を立てることではなく、可能な限りメディアの本質を測定することである。

1──流出したアブグレイブ刑務所での拷問事件のイメージ 出典=http://www.thememoryhole. org/war/iraqis_tortured/index2.htm

1──流出したアブグレイブ刑務所での拷問事件のイメージ
出典=http://www.thememoryhole.
org/war/iraqis_tortured/index2.htm

2──中国で撮影された切り刻みの刑の写真 出典=ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』

2──中国で撮影された切り刻みの刑の写真
出典=ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』


★一──筆者のデジタル・イメージに対する考えは、二〇〇四年三月一一日付の「試評」(www.pg-web.net/off/tsuchiya/003/01main01.html) と、飯沢耕太郎氏との対談「デジグラフィは写真家を殺すのか」(『美術手帖』二〇〇四年六月号、美術出版社)において、そのおおよそを述べた。
★二──スーザン・ソンタグ「他者の拷問への眼差し」(木幡和枝訳、『論座』二〇〇四年八月号、朝日新聞社)。初出=Susan Sontag, “Regarding the Torture of Others”, The New York Times Magazine, May 23, 2004. このテクストはもちろん、先に出版されたRegarding the Pain of Othersを受けている。邦訳=『他者の苦痛へのまなざし』(北條文緒訳、みすず書房、二〇〇三)。
★三──ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』(森本和夫訳、ちくま学芸文庫、二〇〇一)。
★四──このことは、ロラン・バルトが見出した、母親とその写真に撮られたイメージとを分かつ「歴史」と呼んだものに、徴候的に表われている。ロラン・バルト『明るい部屋──写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、一九八五)。
★五──ポール・ヴィリリオ『瞬間の君臨──リアルタイム世界の構造と人間社会の行方』(土屋進訳、新評論、二〇〇三)。
★六──C・S・パース『パース著作集2  記号学』(内田種臣編訳、勁草書房、一九八六)、ロザリンド・E・クラウス『オリジナリティと反復』(小西信之訳、リブロポート、一九九四)。

>土屋誠一(ツチヤ・セイイチ)

1975年生
美術批評家。沖縄県立美術大学講師。http://stsuchiya.exblog.jp/。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法