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近代建築における素材について──伝統と革新 | 安田幸一
On the Material in Modern Architecture: Tradition and Innovation | Koichi Yasuda
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.212-221

素材と技術革新

安田──今日お話しすることは「ものづくり」の経験から得た素材に関連した話です。これまでさまざまな建築に出会って大きな影響を受けてきましたが、影響を受けてきた建築には共通点があります。もちろん建築構成の斬新さや形態そのものにも魅力を感じますが、特に私が惹かれるのは挑戦的な素材の使い方をしているものからであると思います。またそういうものは昔に建ったものでさえ、現代の視点から見ても新鮮に映るものが多いのです。素材は近代建築初期から現代まで、ひとつの大きなテーマでした。単純化して言えば、常に素材の技術革新をめざして近代建築は発展してきたと思います。私が惹かれた建築のなかには、特に有名な建築でないけれど充分魅力的で、なぜ魅かれるのかわからないということもありました。しかし素材が革新的な使い方がなされている、あるいは前衛的に取り扱われていて、その当時の最新技術が投入されていたことが後からわかったことが何度かありました。つまり新しい技術を駆使して生まれた建築が私にとって魅力があったということです。建築が素材の持つ力をどのように引き出しているのかということが私の興味あるテーマになっていると思います。
最近の建築の特徴として、ディテールのつくり方が少し変わってきていると感じています。素材が切り変わるところ、その変曲点、つまりエッジやコーナーでディテールは発生してきました。それをうまく納めるのが建築家の技であり、役割だったのですが、最近の傾向としては、変曲点でないところ、表面の素材自身に建築家の興味が移行しているのではないかと考えています。これから古い建築からお見せしますが、その中には表面の素材の使い方の新しい潮流が見えてくるものもあり、今の潮流と重なるところもあります。

無垢のガラスブロック/ウィリアム・レスカーズ

では私の好きな建築家五人を紹介します。最初の建築家はウィリアム・レスカーズです。彼は一八九六年にスイスのジュネーブに生まれ、一九一 九年にチューリヒ工科大学を卒業し、翌二〇年アメリカに移住しています。作品としては一九二九年から三二年にかけて建設されたフィラデルフィアの《PSFSビル》という代表作があります。一〇年先輩のジョ ージ・ハウとともに設計し、アメリカ最初の近代建築の三六階建て超高層ビルとして有名な建築です。これは工事中のトランスファガータ ー階を示している写真です[図1]。構造的な特徴として、三階部分にトランスファーガーター階を設け、ファサードも横連窓になっている。このように近代建築の要素を明確に採用した超高層ビルです。
これが竣工した時の写真です[図2]。一〇年前に訪れたのですが、ほぼオリジナルの同じ状態で残っていました。現在はホテルに改装されてだいぶインテリアが変わっていると聞いています。世界で初めて全館空調のシステムを取り入れましたが、このファンコイルのケースが非常に厚い板、五ミリ以上はある真鍮の無垢板で覆われています。現代では通常一・二ミリから一・六ミリの薄い鉄板を曲げ加工してつくるものです。世界初の空調機械はこれだけ貴重品として扱われていたということです。
次にレスカーズの自邸です。ニューヨーク、マンハッタンのアッパーイーストサイド四八丁目に面して建っています[図3]。一九三三年から三四年に工事が行なわれましたが、もともと周辺建物と同じような石のファサードでした。これはブラウンストーンという様式ですが、これを改修してモダンな自邸につくり替え、ニューヨーク、マンハッタンにおける初のインターナショナル・スタイル住宅が誕生しました。
敷地幅が一六・七フィート、敷地奥行が一〇〇フィートという細長い敷地ですが、その狭い空間にレスカーズは光と空気を最大限確保しようとしました。外観では米国初のガラスブロック面の大規模な採用、セントラル方式の全館空調システムを採用しており、これもマンハッタンで使用した初めての建築です。図4でフィックスのところがエアコンディションがなされている部屋、開口部があるところはエアコンディションが入っていない部屋と、ファサードから内部の空調範囲が明確にわかります。
一階はレスカーズ自身の設計事務所スペースで、外壁が無垢のガラスブロック積になっていて、三、四階は現代のガラスブロックと同じ真空ガラスブロックというように二種類のガラスブロックを使いわけています。
一階は地盤よりも多少低い半地下になっていますが、外の騒音や振動等を考慮したことと防犯上の理由によって無垢のガラスブロックを特別に発注しています。三、四階は自分の住居で、そこは熱効率も考えた真空ガラスブロックになっています。彼の説明では、ガラスブロックの厚さが2インチで、レンガに換算すると四フィートの厚さに相当する熱透過率だと説明しています。構想段階ではガラスブロックは表現されておらず、普通のガラス窓だったのですが、設計が進んだ段階でガラスブロックに変更されました。ちなみにピエール・シャロウの《ガラスの家》は一九三二年ですから、レスカーズは、その二年後にガラスブロックを使って自邸をつくっています。当時アメリカ国内にはガラスブロックが存在しなかった時代ですから、設計時にフランスから直接輸入しようと試みました。しかし、途中断念してシカゴで新規にガラスブロックをつくりました。ガラスブロックという新しい材料を使おうという意欲はあったのですが、サッシュには無頓着なのでしょうか、すべて既製品のスチール製サッシュを使用しています。
ブラウンストーンについて少し説明をしておきます。アメリカの東海岸、ニューヨークからボストンにかけて、石が積層した海岸があり、そこで採れた赤茶色の砂岩石がブラウンストーンです。マンハッタンの民家としてこれを使用した建物も石名から通称ブラウンストーンと呼ばれ、一八世紀以降、ニューヨーク周辺にレンガ造のブラウンストーンがほぼ五万棟建てられたと言われています。最初はマンハッタンの南端、バッテリーパーク付近から発生して北上し、その範囲はニューヨーク周辺まで広がりました。移民が多かった時代の一般的なブラウンストーンはこのような意匠でした[図5]。
このブラウンストーンをレスカーズがどのように改装したかを説明します。レスカーズ邸の前面道路に面する部屋には小さな窓があって自然光が入るのですが、大半の部屋は無窓居室でした。中廊下で、細い直階段で上下し、後方に洗濯物を干したりするバックヤードがあるのですが、かなりスラム化した状態でした。地下が彼のオフィスになっていて、階段を西側壁面に移動しています。住宅の入口、ダイニング、ライブラリー、ゲストルーム、マスターベッドルーム、それから最上階がリビングルームという構成になっています。マスターベッドルームの壁が軽いS字風にカーブしています。これはマンハッタンの街区グリッドの軸がずれているため、住居の北側の部屋でも東からの朝日を受け入れやすいような平面形になっています。敷地奥行きは通常と同じく一〇〇フィートなのですが、幅は一六フィートで通常の二五フィートのロットより多少狭くなっています。地下一階から三階建て、後ろにバックヤードがあるという構成です。これは一九九〇年に私が撮った写真ですが、外観はまったく竣工時と変わらずに残存していました[図6]。一階オフィスの階段の段差があるところには手摺りがついていますが、これはオリジナルにはなかったものです。正面が無垢のガラスブロックが入っているところです[図7]。
最上階リビングルームは丸いトップライトと正面のガラスブロックから燦々と光が入ってきます。それから空調の吹き出しグリルがあるほか、セントラル式の空調で、加湿、除湿、当然冷暖房、換気というように、現代の空調システムとほぼ変わらない性能をすでに有していました。三階の窓が少しカーヴしてせり出しています[図8]。
レスカーズが自邸を設計した一〇年後、友人のエドワード・ノーマン夫妻が自宅のブラウンストーン住宅の改修計画を彼に依頼しました。レスカーズの自邸と同じように改修して欲しいというのが発注時の注文でした。自邸の敷地は南側ブロックでしたが、《ノーマン・ハウス》の敷地は北側ブロックに面しています[図9]。レスカーズ自邸と同じ構成で前面道路と反対側にバックヤードがあり、《ノーマン・ハウス》は北側ブロックですので、バックヤードが南側に面しています。さらに南面の立面を西日、夕方の光を多く受け入れようと傾けています。
私は竣工から約五〇年経過した一九九〇年に訪れました。ガンジーについての著作で有名だった夫人のドロシー・ノーマンは、九〇年当時存命で、竣工当時と同じような状態にするため毎年オリジナル色のペンキを塗り替えているということでした。ですから、竣工当時と寸分違わず、ずっと同じスタイルで生活していました。古いものと新しいものの差異がほとんど見られないくらい良好な保存状態でした。

1──W・レスカーズ《PSFSビル》工事風景 安田幸一研究室提供

1──W・レスカーズ《PSFSビル》工事風景
安田幸一研究室提供

2──レスカーズ《PSFSビル》1932(1990年撮影) 安田幸一研究室提供

2──レスカーズ《PSFSビル》1932(1990年撮影)
安田幸一研究室提供

3──レスカーズ自邸、1934(竣工時) 安田幸一研究室提供

3──レスカーズ自邸、1934(竣工時)
安田幸一研究室提供

4──レスカーズ自邸アクソノメトリック 安田幸一研究室提供

4──レスカーズ自邸アクソノメトリック
安田幸一研究室提供


5──レスカーズ邸(工事中)、 ブラウンストーンの街並 安田幸一研究室提供

5──レスカーズ邸(工事中)、
ブラウンストーンの街並
安田幸一研究室提供

6──レスカーズ邸(2005年撮影) 安田幸一研究室提供

6──レスカーズ邸(2005年撮影)
安田幸一研究室提供


7──1階事務室まわり(2005年撮影) 安田幸一研究室提供

7──1階事務室まわり(2005年撮影)
安田幸一研究室提供

8──レスカーズ邸外観 安田幸一研究室提供

8──レスカーズ邸外観
安田幸一研究室提供

9──《ノーマン・ハウス》 安田幸一研究室提供

9──《ノーマン・ハウス》
安田幸一研究室提供

レンガと水/フィリップ・ジョンソン

次に紹介するのはフィリップ・ジョンソンです。
《ロックフェラー・ゲストハウス》は、以前その場所に建っていたブラウンストーンを取り壊して新築するのではなく、躯体を残して改築したものです。リビングから中庭にかけてレンガ壁の荒い地肌が残され、白いペンキが塗装されました。当時のマンハッタンの条例により、立て替えるときには二〇フィートのセットバックが必要で、建て替えると建物を後退させなければいけないので、申請上改築というスタイルをとったとジョンソンは説明していました。一〇〇フィートの敷地奥行いっぱいにまで荒々しいレンガが残っていたので、意匠上でもそのレンガをそのまま使おうと決めたということでした[図10]。
一九五〇年に完成した《ロックフェラー・ゲストハウス》は、後にニューヨーク近代美術館のゲストハウスになったり、ジョンソンのマンハッタンの自邸になったりとオーナーが転々として、内部も随分改装されてしまっていたらしいのですが、一九九〇年にロンドン在住の画商が買い取り、五〇年当時のオリジナルの姿に戻すという工事を行ないました。
九〇年一〇月に改修が終わって、新たに五〇年前の姿に再生された中庭の写真です[図11]。手前がリビングでガラスを通して向こう側に二五フィート正方形の中庭があって、その奥に寝室がある。図12は寝室から見た改修前後の中庭です。ジョンソンは非常によい改修をしてもらい、復元というよりは質が向上したと言っていました。具体的には「もともとの池の底はモルタルに黒ペンキ仕上げだったけれど、新しい池の底は黒御影石を張ってあるので池のミラー効果が増した」と言って、オリジナルよりずっと良いと笑っていました。
リビングから中庭に向かって突き出した庇は、ガラスがうまく使われています。庇上面にガラスが入っており、下面にも乳白のガラスが入っているため、昼は太陽光が透過して明るく、夜間は天井内部の照明によって明るく中庭を照らします。

10──《ロックフェラー・ゲストハウス》 安田幸一研究室提供

10──《ロックフェラー・ゲストハウス》
安田幸一研究室提供

11──《ロックフェラー・ゲストハウス》中庭、改修後 安田幸一研究室提供

11──《ロックフェラー・ゲストハウス》中庭、改修後
安田幸一研究室提供


12──同、改修前 安田幸一研究室提供

12──同、改修前
安田幸一研究室提供

石、アルミ、鉄/ウォーレス・ハリソン

三番目にウォーレス・ハリソンを紹介します。ハリソンは一八九五年生まれで、《リンカーンセンター》やル・コルビュジエやオスカー・ニーマイヤーと共に《国連ビル》などの設計を担当したアメリカ人建築家です。
彼の作品群の中で、ロックフェラー・ユニバーシティという小さな大学の中に建つプレジデントハウスを紹介します。大学は一九〇一年にロックフェラー財団が創立したもので、学生数が一〇〇人、教授陣が四〇〇人という医学系の最先端研究所で、ノーベル賞受賞者数が二〇人を超えるということです。キャンパスはマンハッタンの東側、クイーンズ・ボロー・ブリッジが一望できるイーストリバーに面した閑静な場所にあります。講義棟はすべてウォーレス・ハリソンとパートナーのマックス・アブラモビッツが共同して設計しています。グリーンが豊かでモダンなキャンパスは、ランドスケープアーキテクトのダン・カイリーが設計しています[図13]。
吊り階段は非常にきれいなディテールで、幅員約二メートルの真っ白な大理石製の踏板をワイヤーで吊り上げています。このワイヤーの角度が徐々に変化して、力学的にバランスを取ったものです。
プレジデントハウスは北東、一番奥の端部にあります。エントランスの素材で気になったのが石の使い方です。まずペイヴメントに使用されているのはコブルストーンというイギリス産の石です[図14]。当時荷を積んだ商船が頻繁にマンハッタンからイギリスに渡って、帰りの航海で空っぽでは危険なので、重石としてコブルストーンを積んで帰ってきたのです。そのためマンハッタンの車道はすべてこの石張りでした。それが現在プレジデントハウスの車回しのペイヴメントに残っています。古いストリートを掘り返すとコブルストーンが時折出土するということです。外装に張ってある石材はブラウンストーンとライムストーンです。大きな構成としては、住宅本体部分の四角いボックスと、ゲストを迎えるようにカーヴしたファサードはブラウンストーンで張りわけをしています。住宅平面中央の正方形の中庭と、川に面し、湾曲したルーフラインを持つ中庭の二つあります。
キャノピーは、黒いスレート板の踏板とブラウンストーン壁の取り合いのディテールです。正方形の中庭の床に使われているのはすべて白の大理石で、中庭の奥のホールにS字型の浮遊した階段があります。すべての部屋からイーストリバーが見えるように設計されていて、川側の中庭を通して川が見えるように工夫されています。
プレジデントハウスでさまざまな石の使い方をした正統派モダニストのハリソンは、《アルコア・ビル》も設計しています。《アルコア・ビル》は一九五二年にピッツバーグに建設されましたが、アルミ製金属パネルのカーテンウォールの高層ビルとしては世界初とされています。肉厚が薄いアルミのカーテンウォールですが、凹凸をつけて強度と平滑性を出しています。カーテンウォールのサッシュがすべて回転式で、窓も清掃でき自然換気もできるよう工夫されています。
やはりピッツバーグのUSスチールの本社ビルはコールテン鋼の超高層です。ファサードは鋼材を溶接してつくっていますが、柱の内部は空洞になっていて熱のコントロールと防災のために常に水が循環している特殊な建築です。柱の地上部分は厚さ一〇〇ミリにもなっています。ペイヴメントは、竣工当時はコンクリート製だったのですが、このコールテン鋼の赤錆が雨に打たれて地上のペイヴメントを錆びで真っ赤に染めて、よい色になっていました。このようにハリソンはさまざまな素材を特色ある使い方でデザインしています。

13──《ロックフェラー・ユニバーシティ》 安田幸一研究室提供

13──《ロックフェラー・ユニバーシティ》
安田幸一研究室提供

14──同プレジデントハウス、エントランス車回し 安田幸一研究室提供

14──同プレジデントハウス、エントランス車回し
安田幸一研究室提供

プレキシグラスとサランラップ/ポール・ルドルフ

四人目の建築家はポール・ルドルフです。ルドルフは《イェール大学美術・建築学部棟》の建築家として有名です。
素材としてはコンクリート打ち放しハツリ仕上げです。ルドルフの説明によると、コーデュロイ・テクスチャード・サーフェイスということになっているのですけども、まさにハンマーで叩いてつくった荒々しい仕上げです。
リチャード・ロジャースは学生としてここで勉強していました。ロジャースが後に設計した《ロイズ本社ビル》と類似性が見られます。直方体のマスにシリンダー状の柱がまとわりつく外観は、コンクリートとメタルという素材の違いや、建築構成では異なる理論に基づいているという違いはありますが、プロポーションや塔の高さのバランスなどはやはり何らかの影響を受けているように感じます[図15]。
ルドルフの自邸は、一九八三年から八四年にかけ施工され、八七年にでき上がります。イーストリバー沿いにあり、古い建物の上に三層分増築しています。全体構造は鉄骨造で、古い建物の上に増築しているので、鉄骨を主体とした軽量の建築です[図16]。
当時のスケッチには容積移転をするための面積を計算した根拠が残っていますが、ストリートを挟んだ背後の超高層ビルの容積、それから隣地の低層ビルの余った容積、その容積の余った面積を全部足し合わせた結果、三層分の面積が古いビルの上に増築可能であると結論を出しています。その容積分を土地のオーナーから買い取ってこの建物を設計したという経緯があるとルドルフ自身が説明してくれました。パースは下書きからインキングまで、ルドルフがすべて一人で描き上げたそうです。平面、立面、断面、矩計もすべてです。スタッフはいるのですが、ディテールまで全部自分でやらないと気がすまないと言っていました。
この自邸はプレキシグラスが主体になった建築です。プレキシグラスはアメリカのロームハース社の商品名で、アクリルの一種ですが、戦闘機のコックピットなどに使われる無色透明で強度のある素材です。構造の鉄骨をすべてステンレス薄板で包み上げ、プレキシグラスとの調和を図っています。いたる所にブリッジが架けられ、床はすべてプレキシグラスです。プレキシグラス製のバスタブもあり、透過性の高いバスタブを通して下のキッチンに自然光が落ちるように設計されています。インテリアはほとんどがステンレス磨き仕上げとプレキシグラスのミックスです。
ルドルフの寝室の床材は牛皮で鋲留めしています。天井は五、六メートルという長尺で、ヌメヌメしていて継ぎ目がありません。素材はサランラップでした[図17]。白いボードに白ペンキを塗装して、サランラップを縦方向に六重張りするとこういう感じになるとルドルフは説明してくれ、五重張りにするか六重張りするかで迷ったと言っていました。コンクリートハツリ仕上げの達人がこういうところにこだわっていたのかと驚きました。
それから彼がプラスチックに非常に興味があることが、リビングにあったショーケースを見るとわかりました。陳列されているのは日本製「ガンダム」のプラモデルで、数が半端ではない。ルドルフが自身でガンダム一個一個を組み立て、すべてのガンダムを異なる色に塗装しています。そういった趣味的なところがルドルフにはありました。
これはルドルフがデザインしたサンデータイムズ・チェアというプレキシグラスの家具です[図18]。『ニューヨーク・タイムズ』の日曜版はぶ厚くて、読むのに二、三時間かかるのですが、それを気持ちよく読める椅子が欲しくなり自分でデザインしたということです。

15──右:リチャード・ロジャース《ロイズ本社ビル》 左:ポール・ルドルフ《イェール大学美術・建築学部棟》 安田幸一研究室提供

15──右:リチャード・ロジャース《ロイズ本社ビル》
左:ポール・ルドルフ《イェール大学美術・建築学部棟》
安田幸一研究室提供

16──ルドルフ自邸 安田幸一研究室提供

16──ルドルフ自邸
安田幸一研究室提供

17──ルドルフ自邸寝室 安田幸一研究室提供

17──ルドルフ自邸寝室
安田幸一研究室提供

18──ルドルフ、サンデータイムズ・チェア 安田幸一研究室提供

18──ルドルフ、サンデータイムズ・チェア
安田幸一研究室提供

大型ガラスと屋上庭園/林昌二

最後は林昌二です。林の代表作《パレスサイドビル》について説明します。設計着手が一九六三年八月で、工事着手が翌六四年七月です。ということは一一カ月で設計が終わって着工し、さらに二年後に竣工しています。どうしてこのスケジュールが可能だったのか、現代の技術をもってしても非常に困難なプロジェクトであったと思います。その質の高さもさながら、このタイムスケジュールでつくり上げたこと、また少ないメンバーでつくっていることに驚きました。
建築主は毎日新聞とリーダーズ・ダイジェスト、東洋不動産三社の連合です。一九六三年八月に指名コンペが行なわれ、日建設計、山下設計、大林組設計部、竹中工務店設計部が参加しました。建築主の与件は高速輪転機六〇台を地下の新聞工場にあて、新聞社本社機能を含む一二万平方メートルの巨大複合ビルを三年後の九月に竣工することだったのです。基本設計は八月から三カ月間で行なっています。一九六三年一〇月から確認申請の図面をつくり、翌年一月から実施設計を開始するという、不可能に近い設計スケジュールでした[図19]。林は「段階設計」という言葉を用いていますが、工事発注に必要な図面をまず発注して、仕上げなどは工事段階で後から発注するというように何段階かに工事発注を分割しています。
これが竣工したパレスサイドビルです[図20]。二つの丸いコアと大きな二つの長方形ブロックから構成されています。周辺環境は、高速道路がすぐ横を通り、地下で地下鉄東西線の駅も併設され、皇居側前面には内堀通りが通っています。このような状況の中で輪転機が納まる巨大な地下室を持っている。また輪転機二台分の幅が理由で、まず一八・六メートルという大スパンが決まっているのです。
これが有名なステンレスメッシュの階段です[図21]。それからサイン関係は倉俣史朗のデザインです。これはコアのエレベーターホールの竣工写真です[図22]。天井の欅のルーバーは照明デザイナーの中原浄が設計しています。柱の溝に組紐のデザインのされた装飾が入っていますが、道明新兵衛のデザインです。地下二階の部分から下の輪転機までトラックが入れるようになっていて、本当にビルの中に高速道路があるような建物です。
パレスサイドの特徴として、当時珍しかった屋上庭園をつくっています[図23]。パラペットがまったく出ておらず、塔屋に納めるべきものはすべて丸いコアの中に納めてしまったので、この四角いスペースの上は塔屋がない、そこに最先端のアイディアとして、林は屋上庭園を提案しています。当時村野藤吾さんが《大阪ビル》で屋上庭園をつくり、東西の双璧でした。
建設前にこの土地に建っていた、アントニン・レーモンド設計のリーダーズ・ダイジェスト東京支社にはピロティ形式が使用されていました。しかし、近代建築に特徴的なピロティという形式は日本の建築事情にはそぐわないというのが林の理論です。欧州や米国のように基礎部分が浅い岩盤であれば、こういった形式が構造的にもリーズナブルであるが、パレスサイドビルの場合支持地盤が地下二〇メートル以下のところにあるので、そこに建てる建築はピロティではそぐわない。かつ日本特有の湿気から建築を守るためには空濠形式がよいと提案しています。大きく長い建築の場合、敷地がいかにフラットに見えても、建物の接地レベルは数メートル変化します。空濠にすると接地面とフロアレベルの関係が切り離されて、このへんの煩わしさが解消されるので、パレスサイドはすべて空濠形式になっています。これがコアの空濠です[図24]。
ファサードでは、アルミ・ダイキャストの雨水立て管と日除けのためのルーバーなど、当時初めて使われた素材が集積しています。ファサードで使われているガラスは当時の最大磨きガラスで、厚さが一二ミリ、一五ミリの二種類、高さ二・四メートル幅三・二メートルのガラスをハメ殺しで使っています。それからコストを考え、サッシュレスで設計していますが、結局スチールを中心にサッシュがつくられました。スチールのフラットバーなどの押出材、押縁は下が丸く膨らんでいる造船用の押出材を用い、組み合わせています[図25]。溶接は一切せずにボルト接合するというのが、ファサードのアイディアでした。林の興味はこういった部品化にあったと思いました。部品図の中で不思議な絵を見つけました。八番部品はただ四角い線で表わされていますが、実はガラスです。ガラス板を部品として描いている。現在ガラス板を部品として描く人はほとんどいなくて、サッシュだけを描くのですが、最大級のガラス板ということを認識して図面を描いているわけです。ノーマン・フォスターが描く部品図は林に通じると思いました。部品をバラバラに描く点だけではなく、デザインも香港上海銀行の日除けルーバーや建築を構成する思想も似ていると思います。非常に大きな建物の地面とのすり付け部で、ファサードと地面が取り合うところですが、フォスターのウィリアム・フェイバー&デュマ社ビルでもドレインをつくって縁を切っている。ドレインのレベルが上下するようになっており、たとえ高低が変化してもディテールが変わらない。これは林の空濠形式に類似したものを感じます。

19──パレスサイドビル工事風景 安田幸一研究室提供

19──パレスサイドビル工事風景
安田幸一研究室提供

20──パレスサイドビル竣工当時 安田幸一研究室提供

20──パレスサイドビル竣工当時
安田幸一研究室提供


21──同、ステンレスメッシュの階段 安田幸一研究室提供

21──同、ステンレスメッシュの階段
安田幸一研究室提供

22──同、エレベーターホール 安田幸一研究室提供

22──同、エレベーターホール
安田幸一研究室提供


23──パレスサイドビル屋上 安田幸一研究室提供

23──パレスサイドビル屋上
安田幸一研究室提供

24──空濠式とピロティ式 安田幸一研究室提供

24──空濠式とピロティ式
安田幸一研究室提供


25──パレスサイドビル・ファサード見上げ 安田幸一研究室提供

25──パレスサイドビル・ファサード見上げ
安田幸一研究室提供

素材が統合され風景に溶ける

私は、九三年に桜田門の橋のふもとに小さな交番を設計しました[図26]。写真の奥にパレスサイドビルの丸いコアが見えています。単純なガラスの箱ですが、いかに風景の中に溶け込めるかをテーマとしてミニマル・デザインを追求しました。ガラススキンだけでは中の和室やトイレなどが表出してしまうので、ガラスの裏にアルミの可動ルーバーをつけて中の機能を隠蔽しました。アルミとガラスを足したモスグリーンかかった色は、桜田門城門の破風の色と非常に類似しました。当時、コンピュータが本格的に製作ものに導入され始め、アルミルーバーのパンチングの一枚一枚異なる孔径すべてをつくることが容易にできるようになりました。パレスサイドビルと同じような型鋼で、サッシュもすべてスチールでつくっています。設計しているときはまだパレスサイドのディテールを詳しく勉強しておりませんでしたが、確かにパレスサイドビルに対するオマージュだったと思っています。

26──安田幸一《桜田門の交番》1993 安田幸一研究室提供

26──安田幸一《桜田門の交番》1993
安田幸一研究室提供

質疑応答

鈴木博之──個人的に面白かったのは、ウィリアム・レスカーズの自邸の前をちょうど通りかかって、これは何だと思って、写真を撮って帰ってきたことがありました。レスカーズの作品との出会いはどのようなことだったのですか。
安田──最初にレスカーズの住宅を見かけたのは偶然で、その時は私も歴史的にもどのような住宅かは知りませんでした。マンハッタンは超高層というイメージがありましたが、アッパーイーストには、個人住宅、特に戸建て住宅が多く残っています。ブラウンストーンの時代は比較的階層の高くない人たちが住んでいましたがマンハッタンの地価が高騰して、豊かな人たちは超高層マンションに住むか、レスカーズのようにブラウンストーンを改装して一戸建てに住むようになりました。フィリップ・ジョンソンの住宅は知っていたので、アッパーイーストでブラウンストーンの写真を撮っていたら、偶然レスカーズ邸に出くわして興味を持ちました。
一階のガラスブロックを叩いてみたら無垢でした。無垢であることにも驚きましたが、ファサードのガラスブロックの使い方を見ていろいろ調べたら、大好きなPSFSの設計者だったレスカーズが設計者なので非常に驚きました。
フォスターと林昌二さんの類似性ですが、まったく同じとは思っていません。しかし二人とも機械の部品を組み立てるように建築を設計しているなど近い考え方をしていると思います。林さんのディテールの作法や物事を決めるためのルールづくりなどはたいへん厳格で、非の打ちどころがない。その結果の部品がそのまま即物的に現われた形態とフォスターの優麗な形態の違いは歴然としているのは確かです。
難波和彦──ルドルフの《イェール大学美術・建築学部棟》と《ロイズ本社ビル》が引き延ばすと一緒という比較はなかなかすごい。似てはいないんだけれど似ているよう。そういうことを洗練させたコーリン・ロウの「理想的ビィラ」はそうだと思います。デコラティヴ、ゴシックという近代建築の表現主義的なところも二人はすごく似ています。
阿部仁史──ルドルフ邸にガンダムがいっぱい並んでいるところが印象的でした。ある種のフェティシズムだと思うのですが、それからサランラップを六枚貼るという感覚が意外でよかった。
安田──ルドルフを取り上げたのですが、素材に対して、六〇年代ルドルフはコンクリートのハツリ仕上げで一世を風靡しました。それが一転して、自邸ではサランラップを使ったというギャップに興味を持ちました。素材へのフェティシズムなのでしょうか、不思議な感覚と言えます。ハツリ仕上げも職人の手間がかかっていて、ものをつくる時の手間のかけ方が普通ではない。ガンダムを一色一色塗るくらいの丁寧さとパワーが必要な建築です。彼の断面パースも、全部自分でロットリングで陰影線を何千本も引く。そういう宗教がかったようなパワーがコンクリートハツリ仕上げ、ガンダム、さらにサランラップなどに共通していると思います。素材に対する新しい考え方や扱い方、探求心には敬服します。
鈴木──《イェール大学美術・建築学部棟》は異様です。ただ私らの世代は、ルドルフがイェール大学でディーンをやり、あの建物が建ち、ものすごい断面パースで頑張ったけれど、あれほど急落した建築家はいないというぐらい見向きもされなくなったと記憶しています。
安田──急落した理由は、説明が難しいのですが、かなり自己主張の強い建築家で、クライアントとうまくいかなかったという話は聞いています。自己主張が強いという意味では、自邸の詳細図を見るとよくわかります。一軒の住宅なのに四〇〇枚くらいの設計図がありました。
《ノーマン・ハウス》を訪れた時は、ガラスブロックも劣化しておらず、竣工時のままのインテリアが存在していて、タイムマシンで時代をさかのぼったような不思議な感覚でした。まったく改修もせず、建築家が指定したペンキを毎年毎年塗り、オリジナルをそのままずっと使い続けているところに幸福な建築家とクライアントとの関係が見られました。
[二〇〇四年五月二〇日]

>安田幸一(ヤスダコウイチ)

1958年生
東京工業大学大学院理工学研究科助教授。建築家。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>インターナショナル・スタイル

International Style=国際様式。1920年代、国際的に展開され...

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>リチャード・ロジャース

1933年 -
建築家。リチャード・ロジャース・パートーナーシップ主宰。

>林昌二(ハヤシ・ショウジ)

1928年 -
建築家。日建設計名誉顧問。

>村野藤吾(ムラノ・トウゴ)

1891年 - 1984年
建築家。

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>阿部仁史(アベ・ヒトシ)

1962年 -
建築家。UCLAチェアマン。