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イメージの/による葬儀──コロッソスとしての記念碑 | 田中純
Funus Imaginarium: Memorial as Colossus | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ, 2003年07月01日発行) pp.2-11

1 英雄というプレテクスト

ニューヨーク世界貿易センター(WTC)跡地利用をめぐっては、選出された七つの建築家チームによる九つの計画案が二〇〇二年一二月一八日に発表された。展覧会や集会を通し市民の意見を広く集めたうえで、翌年の二月四日にローアーマンハッタン開発公団(LMDC)とニューヨーク・ニュージャージー港湾局は、案を二つに絞った。そのひとつはダニエル・リベスキンド事務所による案[図1─5]であり、もうひとつは建築家チームTHINK(坂茂、フレデリック・シュヴァルツ、ラファエル・ヴィニオリ、ケン・スミス)の案である★一。
そして、同じ月の二七日、リベスキンド事務所の案「メモリー・ファウンデーションズ」が最終案に選ばれた。この案は崩壊したWTCビルの連続地中壁(slurry wall)をそのまま残すことで、えぐられたように陥没した「バスタブ」と呼ばれる部分をメモリアルや博物館のための敷地としている。その一方、内部に植物園をもつ一七七六フィートのタワーがあらたな「イコン」として屹立し、マンハッタンの新しいスカイラインをかたちづくる。「英雄たちの公園」「光のくさび」と名づけられた二つのパブリック・スペースは、毎年九月一一日の午前八時四六分(最初の飛行機が突入した時刻)から一〇時二八分(二つ目のタワーが倒壊した時刻)まで、周囲のビルの影にならないように配置されているという★二。
二つのタワーの痕跡をプランに巧みに組み込み、計画案それ自体にメモリアルとしての性格を与え、同時に特徴的なスカイラインを提示してみせた点で、リベスキンド案は、再開発に求められる要素をそつなく備えた、相対的には評価できる案だったと言える。もちろん、最終案選出過程ではロビー活動が効果を発揮したであろうし、事実、建築批評家を巻き込んだ中傷合戦めいた争いも起こっている★三。なるほど、ここにいたるまでの計画案決定プロセスでは、市民の意見を反映させるために公聴会をはじめとするさまざまな方策がとられているが、いかにも民主主義的なそうした手続きが、感情に流されやすい世論に迎合したポピュリズムの色合いを帯びないとは限らない。プレゼンテーションのレトリックが判断を大きく左右してしまうのだ。
他の多くの参加チームが複数の建築家からなっているのに対して、リベスキンドはあくまで一人称で語ろうとする。プレゼンテーションの導入部でも、彼は自分がニューヨークに初めてやって来た時の経験から物語り始めている。

わたしは十代の少年として、移民として、わたし以前の数百万の人々と同様に、ニューヨークへ船で到着しました。わたしの眼に最初に入ってきたのは自由の女神とマンハッタンのびっくりするようなスカイラインでした。わたしはその光景ないしそれが代表しているものを忘れたことはありません。これがこのプロジェクトの関わるすべてです★四。


いわば、わたしはひとりのニューヨーカーだ、それも「移民」というかたちでそうなった、典型的にアメリカらしい出自を体現した人物だ、というわけである。事実としてリベスキンドは移民であって、そこに偽りがあるわけではない。しかし、問題なのはこのような語り口がレトリックとしてもつ効果である。それは「わたし」をニューヨーク市民(そして移民国家としてのアメリカ合衆国市民)の「典型」とすることによって、感情移入を誘うのである。
リベスキンドは続けて、この跡地をそのまま空虚なまま保存するか、それとも完全に新しく開発するかという論争に触れたうえで、自分が現地を訪れた経験について語る。
 

わたしは現場を見に行き、そのなかに立ち、そのまわりを歩く人々を目にし、その力を感じ、その声を聞きました。そしてこれがわたしの聞き、感じ、見たことです★五。


「わたし」が身体的に経験したものの産物が「これ」、このプロジェクトである。その真正さは「わたし」の体験が保証している。リベスキンドの場合、こうした語り口は珍しいことではない。ベルリン・ユダヤ博物館をめぐっても、ベルリンのユダヤ人墓地を訪れた経験が「ヴォイド」の着想の源になったことを彼は率直に語っているし、ポーランド生まれのユダヤ人である自分がこの仕事とめぐりあったことに運命的なものを感じていると告白してもいる。繰り返すが、それは事実なのだから、この語り口そのものに非難されるべき謂われはない。しかし、ユダヤ人大虐殺や戦争やテロといった惨事の記憶を扱うのに長けた「ユダヤ人」建築家リベスキンドというイメージがそこで形成されてしまったことは否めない。さらに言えば、リベスキンドはそのイメージを半ば意図的に自分から進んで流布させた嫌いもある。ベルリンにおいてユダヤ博物館を建設するという課題については説得的に響いた「わたし」の経験の特権的な典型性に依拠した言説も、WTC再開発計画の文脈では、他のチームの抑制された語り口と比較するとき、際だって扇情的なものに見えかねない★六。
タワー崩壊に耐えた連続地中壁を合衆国憲法に譬えるようなリベスキンドの語り方や、「英雄」といった言葉を頻繁に用いたプレゼンテーションは、あまりにもナイーヴな態度と言うべきか、さもなければ、あまりに露骨に「世論」に訴えたものではなかろうか。ベルリンやオラーニエンブルクにおいてユダヤ人大虐殺を問題にした時よりもはるかにグローバルに考えるべき同時代的な事件を、彼はローカルな次元で、しかもテロの犠牲者すべてを「英雄」という概念に集約してしまったうえで、処理しているように見えるのだ。ザクセンハウゼン旧ナチ親衛隊施設跡地計画でリベスキンドが、都市の歴史的コンテクストを読むことで可視化しようとしたような「構造的トラウマ」に対するアプローチなど★七、ここにはまったく認められない。建築物や敷地に「ヴォイド」のような空虚な裂け目としてのインデックス的記号を刻み込むことで、そこに歴史的過去の時間を呼び寄せるのがリベスキンドの技法だったとすれば、ローアーマンハッタンでは、「バスタブ」が文字通りにそうした記号であったために、彼には現状をそのまま残すことしか選択肢がなかったかのようなのだ。そこに生じたのは、この場所に与えられた心理的負荷を「英雄」という概念で操作してみせる、批判的距離を欠いた現状追認に近い姿勢ではないか。
しかし、いずれにしても、WTC跡地利用計画案は決定された。ポーランドに生まれイスラエルで育った「ユダヤ人」建築家の案が選択されたこと自体の背景に、政治的な象徴性を読みとるべきであるのかもしれない。あるいはそれは、否定神学的な気味を漂わせてきたリベスキンドの言説と建築が資本主義的な開発の論理にきわめて親和性のあることを証明している、ととらえるべきだろうか。
この再開発計画決定に引き続き、そこから切り離されていたメモリアルの設計競技が開始され、二〇〇三年秋にはその結果が公表されることになっている。メモリアルの果たすべき役割については、一九九三年および二〇〇一年に発生したWTCに対するテロの犠牲となった人々を祈念することといった、ごく概括的な指針が与えられているだけである★八。規模からして、リベスキンドによる計画案(たとえばタワー)を凌駕するものにはなりえず、この跡地の再開発について、大枠はすでに決定したものと言ってよい。
事件後わずか一年半という、記憶も生々しい時期に選ばれたこの再開発案が、今後長期間にわたってこの場にふさわしいものと見なされてゆくかどうかは決して定かではない。そのプレゼンテーションのレトリックが、ニューヨーク市民の感情に強く訴えるものであっただけに、そこにはいっそう大きな危うさが残る。
第二次世界大戦終結から五〇年以上を経た時点で完成したベルリン・ユダヤ博物館は、大虐殺を実際に経験した生存者たちが高齢となり死んでゆくという「証言者の死滅」を背景に、戦後史のなかで構造化されてきたドイツやヨーロッパにおける「戦争の記憶」をめぐる政治的コンテクストに深く根ざし、それが孕むトラウマを主題になしえていた。もちろん、こうした時代背景が、建築を含むユダヤ人大虐殺に関わる表象の諸々を過剰に意味づけ、例えばリベスキンド設計の博物館に過大とも言える形而上学的な解釈を与えてきた傾向もないわけではない。それはリベスキンド自身が誘導した言説であったし、この博物館をドイツの文化的風景のなかに位置づけるうえで時代的に要請されたものでもあった。とくにベルリンにおいては、一九九〇年のドイツ統一をはさんで、ユダヤ博物館竣工にいたるまで、状況の急激な変化に応じて、時にはベルリン市建築局をはじめとする批判的な勢力と対峙し、この建築の理念を擁護する必要があった。逆に言えば、そのような意見対立と闘争のプロセスとして「構造的トラウマ」は顕在化したのである。ユダヤ博物館は、ドイツ国家の権力を代表する者たちの歴史認識を表わすものと言うよりは、あくまで妥協の産物である。それはこの博物館が、妥協できる程度に、ベルリンの自己イメージの表現になっているということであると同時に、その歴史的な自己イメージのなかで、「ユダヤ人」のみを特別な存在として扱うことが許容されている、という事態の表現でもあろう。
そうした意味では、何年にも及ぶWTC跡地の再開発過程でリベスキンド案が経験することになるに違いない批判や意見の衝突こそが、二一世紀初頭のアメリカ合衆国、ニューヨークの歴史的な「地脈」をあぶり出すことだろう。ユダヤ人大虐殺をめぐる建築や都市計画で発揮されたような、都市の歴史的・文化的地層の深層構造に突き刺さる議論を、リベスキンドがそこで展開できるかどうかはわからない。なぜなら、その趨勢は、ドイツにおけるように、社会的変化の影響を受けるにせよ、比較的安定した歴史認識の問題に関わっているのではなく、アメリカ合衆国が中心的なプレイヤーとして介入し変化させ続けている国際情勢に深く関係しているからである。
そのような外的状況の変化に依存する要素とともに、リベスキンドがこのプロジェクトを位置づけている枠組みには、ユダヤ人大虐殺の記憶と歴史をめぐって彼が展開してきた建築的思考を裏切るものがあるように思われる。その顕著な表われが「英雄」という言葉の、ほとんど凡庸と言ってもよい用い方である。リベスキンドは「失われた人々は英雄になった」と言う★九。「英雄」とは顕彰されるべき生を送った人々、とりわけ共同体のために犠牲となった人々を指す言葉だろう。なるほど、リベスキンドがコンセプト・デザインのひとつに「英雄たちのライン」と名づけて、二つのタワーに駆けつける消防士たちの動線を書き留めているように、人命救出のために捧げられた命が「英雄」と称されることはあるだろう。しかし、ビル倒壊に巻き込まれた彼らを含めて、そこで失われていった人々の生は、共同体の政治的な価値判断を担わされた英雄的なものと言うよりも、大量殺戮の暴力に無防備に晒され、なすすべもなく死んでゆくしかなかった生命ではないだろうか。その人々を集団として「英雄」扱いするのは、彼らを媒介として仮構された共同体のために、「犠牲」の論理を通して、ひとつの神話を作り上げることではないか。ユダヤ博物館で、名だけを残して、あるいは名すら残さずにベルリンから消え失せた人々の(もはやない)痕跡を「ヴォイド」としてデザインしたとき、リベスキンドは「英雄」などという口実を使いはしなかった。

1──ダニエル・リベスキンド事務所 「メモリー・ファウンデーションズ」 出典=http://www.renewnyc.com/plan_ des_dev/wtc_site/new_design_plans/ selected_libeskind/indv_3.asp

1──ダニエル・リベスキンド事務所
「メモリー・ファウンデーションズ」
出典=http://www.renewnyc.com/plan_
des_dev/wtc_site/new_design_plans/
selected_libeskind/indv_3.asp

2──ダニエル・リベスキンド事務所 「メモリー・ファウンデーションズ」 出典=http://www.renewnyc.com/plan_ des_dev/wtc_site/new_design_plans/ selected_libeskind/indv_4.asp

2──ダニエル・リベスキンド事務所
「メモリー・ファウンデーションズ」
出典=http://www.renewnyc.com/plan_
des_dev/wtc_site/new_design_plans/
selected_libeskind/indv_4.asp

3──ダニエル・リベスキンド事務所 「メモリー・ファウンデーションズ」 出典=http://www.renewnyc.com/plan_ des_dev/wtc_site/new_design_plans/ selected_libeskind/indv_2.asp

3──ダニエル・リベスキンド事務所
「メモリー・ファウンデーションズ」
出典=http://www.renewnyc.com/plan_
des_dev/wtc_site/new_design_plans/
selected_libeskind/indv_2.asp


4──「英雄の公園」「光のくさび」 出典=http://www.renewnyc.com/plan_ des_dev/wtc_site/new_design_plans/ firm_d/slides/slide5.asp

4──「英雄の公園」「光のくさび」
出典=http://www.renewnyc.com/plan_
des_dev/wtc_site/new_design_plans/
firm_d/slides/slide5.asp

5──「英雄のライン」 出典=http://www.renewnyc.com/plan_ des_dev/wtc_site/new_design_plans/ firm_d/slides/slide4.asp

5──「英雄のライン」
出典=http://www.renewnyc.com/plan_
des_dev/wtc_site/new_design_plans/
firm_d/slides/slide4.asp

2 聖なる/呪われたヒトと霊魂の記号論

絶滅収容所を近代の「生政治的パラダイム」ととらえるジョルジョ・アガンベンは、その収容者たちに「ホモ・サケル(聖なる/呪われたヒト)」としての「剥き出しの生」を見る。ホモ・サケルは、殺しても世俗の法によって殺人罪を問われることはなく、かといって、宗教的な犠牲となるわけでもない。それは世俗的法の圏域からも宗教の圏域からも排除された生命なのだ。しかし、古代ローマ以来、つねに死に直面させられたホモ・サケルこそが、主権の概念と対になって、政治を「例外」の場所から規定する存在であったことをアガンベンは指摘する。
絶滅収容所をひとつの「パラダイム」、つまり「典型」と見なすアガンベンの議論は、リベスキンドが陥っている「典型」、「範例」の論理を呼び寄せてしまいかねない。しかし、無差別テロと国家による対抗テロ(それは生殺与奪の権力としての主権をめぐる争いにほかならない)による死者たちを、「英雄」や「犠牲」といった神話化するイデオロギー的フィクションによらずに考えるためには、彼らを(そして潜在的にはわれわれ自身を)ホモ・サケルととらえることが有益だろう。こうした暴力によって殺された人々を、国家の「英雄」として記念するのではなく、「犠牲」として宗教的に慰霊するのでもないメモリアルの可能性が、そこから出発して模索しうるかもしれないからだ。ユダヤ博物館をはじめとするリベスキンドの建築は、ほかならないホモ・サケルの現代的典型を主題としていたがゆえに、おのずからそのような探求になりえていたと言ってよい。
アガンベンは主権者の身体と聖なる/呪われた身体とを結びつける絆を追って、『王の二つの身体』のエルンスト・カントロヴィッチとその弟子であるラルフ・ギージーが、国王二体論を具現する国王の葬儀に際した「王の肖像」をめぐる儀礼を、古代ローマ帝国の皇帝神格化における似た風習になぜ積極的に関係づけなかったのかについて考察している★一〇。それによれば、そのような関連性は、国王二体論にキリスト教的政治神学を見出そうとするカントロヴィッチ/ギージーの理論的枠組みを内破させてしまうばかりか、王の政治的身体がホモ・サケルの聖なる/呪われた身体と区別がつかなくなる曖昧な領域に足を踏み入れることを意味したからだという。
カントロヴィッチ/ギージーが古代ローマ帝国の皇帝神格化について参照しているのは、一九二九年に発表されたエリアス・ビッカーマンの論文である。そこでは皇帝の死後おこなわれる二度の火葬が分析されている。この儀礼過程では、まずはじめに屍体そのものが火葬されたのち、その数日後に蝋製の像が火葬に付されて(これを「像の葬儀」と呼ぶ)、皇帝の神格化が完成する。そこではいわば、皇帝に二つの身体があると言うよりも、ひとつの身体の内部に二つの異なる生命があるかのようだ、とアガンベンは言う。それは自然的生命と聖なる/呪われた生命である。後者は前者の死ののちにも生き続け、「像の葬儀」によってはじめて天へと送られる。主権者の身体とホモ・サケルの身体に共通するひとつのパラダイムとは、両者がともにわれわれを人間の世界とは相容れない「剥き出しの生」と直面させる点にある。
こうした視点から国王二体論を見直すと、国王の政治的身体とは単に王権の連続性を表象しているのではなく、聖なる/呪われた生命という過剰こそを表象していることになる。この過剰がローマ皇帝の葬儀では蝋製の像に隔離され火葬にされるのであるし、一五─一六世紀英仏の王の葬儀では蝋人形を媒介として後継者に権力を移行させているのだ。「このことがいったん認識されれば、王の政治的身体という隠喩は、もはや権威の永続性の象徴ではなく、主権がもつ絶対的かつ非人間的な性格を表わす暗号として現われる」★一一。
聖なる/呪われた生命を背負う、身代わりの像──それは古代ギリシアでは「コロッソス」と呼ばれた。皇帝や国王の身体とは異なり、葬儀の儀礼における分身への分割を通じて聖なる/呪われた生命を分離することができないホモ・サケルの身体とは、自分自身のコロッソスにして分身、生ける人形である。皇帝・国王・主権者の像が彼らの二つの異なる生命の死の狭間に現われていたように、自己自身のコロッソスにほかならないホモ・サケルの身体は、もはや生者の世界にも死者の世界にも属さず、その中間領域に宙吊りにされている。それは生きながら喪の状態に囚われてしまった身体なのだ。
ロベール・エルツの「死の集合表象研究への寄与」に始まる文化人類学が明らかにしてきたように、二重葬儀を通じて死者を「本当に死なせる」儀礼は、ローマ皇帝や一五─一六世紀英仏の国王の場合に限らず、世界的に広く認められる風習である。死はどんなものでも共同体のトラウマとなる。屍体が腐敗し骸骨となってゆく過程をコントロールしながら、生物学的出来事としての死を社会的過程に変える儀礼が必要とされる。エルツが報告しているインドネシアにおける仮の埋葬や、遺骸のミイラ化あるいは火葬などはいずれも、こうした儀礼の特殊な形態である。
では、ホモ・サケルの死について、そんな儀礼は存在するのだろうか。もちろん個人の死を悼み、その生涯の記憶を追憶し、信じる宗教にのっとって慰霊をおこなうことはできるだろう。しかし、死の集合表象に関して、そこに死者を「本当に死なせる」儀礼はあるだろうか。そうした儀礼を根本的に欠いて、もはや死者を死者として葬ることのできない無能力こそが、絶滅収容所をパラダイムとするような生政治を招き寄せているのではないか。身体が科学・医学的な生政治の管理対象となり、生と死が不分明なものとされてゆく事態は、二重葬儀などの葬送儀礼を通じて確保されていた死者の世界と生者の世界のバランスを蝕んでいる。ホモ・サケルは、特別な身体であるわけではなく、この過程に巻き込まれ、生命自体が政治化されてしまった人間の生存条件そのものであると言ってよい。
権力の関心事が生物学的な意味における生命の管理になればなるほど、死を吸収し無害化する社会的過程のための象徴的儀礼の力はいっそう衰弱してゆかざるを得ない。しかし、それはこうした儀礼が不要になってゆくことを意味するものではない。むしろそこでは、死を死たらしめる儀礼の必要性とその欠乏との間に不均衡が増してゆくばかりだろう。その結果として共同体内部のトラウマは癒やされることなく残されてしまう。
近代の国民国家が戦没兵士たちを国家の英雄として記念し、メモリアルの数々を作り上げてきたのは、こうした機能を失いつつあった宗教儀礼に代わるものとしておこなわれた二重葬儀だったと言えるかもしれない。それは国民国家イデオロギーの教化宣伝を目的としたメディアという性格はあったにせよ、他方では、それを欠いては無意味に見える兵士たちの死をめぐり、残された者が死者たちは「本当に死んだ」と信じるための社会の要請でもあっただろう。
このような形式による集団的二重葬儀がまったく無効になっているわけではない。国民国家的統合が存続するかぎり、程度の違いはあれ、それは残されてゆくだろう。しかし、とくに第二次世界大戦後、戦争という大量死の経験は、こうした類の二重葬儀によってはもはや癒やされることのない生者と死者の世界の均衡破綻として、いまだにあらたな形式におけるメモリアル、新しいかたちの二重葬儀を要求しているように思われる。それはこの半世紀以上にわたってなお、死者を「本当に死なせる」喪が成功していないという事態の表われでもある。
ユダヤ人をはじめとする大虐殺がそうした均衡破綻の最大の焦点であることは間違いない。日本においても、第二次世界大戦の戦没者たちをめぐって、幾重にも錯綜した「喪の失敗」が繰り返されている。そのことの顕著な徴候が例えばいわゆる靖国問題にほかならない。二〇〇二年一二月二四日、福田内閣官房長官の私的諮問機関である「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」は、およそ一年間の検討結果として、報告書を発表した。その「はじめに」の冒頭には、内閣官房長官から示されたここでいう「施設」の目的が「何人もわだかまりなく戦没者等に追悼の誠を捧げ平和を祈念する」ことであると記されている★一二。「わだかまり」という表現が暗示しているように、この懇談会発足の直接の原因は、小泉首相の靖国神社参拝に対する中国、韓国などの反発であった。そこで課題とされたのは、新しい施設と靖国神社など既存の宗教・追悼施設との関係を整理することだった。
報告書は、国を挙げて追悼・祈念をおこなう国立の無宗教の恒久的施設が必要であると提言している。その理由は、他国との共生を前提としつつ、積極的に平和を求める姿勢を国の内外に示すためであり、そのためにも戦争の惨禍に深く思いを致さなければならないという。その場合、国家として歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはせず、国民はこの象徴的施設に赴いて、死没者を悼み、戦争の悲惨を思い、平和構築への思いをあらたにすることが期待されている。そこで追悼される人々については、次のように述べられている。

追悼の対象は、国のために戦死した将兵に限られない。空襲はもちろん、戦争に起因する様々な困難によって沢山の民間人が命を失った。これらの中には既存の慰霊施設による慰霊の対象になっていない人も数多い。
さらに、戦争の惨禍に思いを致すという点では、理由のいかんを問わず過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない。戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない。


既存施設との関係については、「國事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため」「創立せられた神社」(靖国神社の社憲前文)であり、宗教法人の宗教施設である靖国神社と、国立の無宗教施設で、個々の死没者を奉慰(慰霊)・顕彰するための場ではない新施設とはまったく性格を異にすると説明されている。千鳥ヶ淵戦没者墓苑についても、ここは遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるために国が設けたものであるから、同様に趣旨・目的が異なるという。
一方、施設の具体的なイメージは茫漠としており、「施設は大型の建造物ではなく、むしろ住民が気楽に散策できるような明るい公園風のスペースで、かなり大規模な集会ないし式典ができるような広場が在り、その一角に追悼・平和祈念にふさわしい何らかの施設が在ることが望ましい」といったものにとどまっている。
一九五九年に竣工した千鳥ヶ淵墓苑にしてからがすでに、公的な性格をもったアーリントン墓地並みの「無名戦没者の墓」として構想されていながら、日本遺族会や靖国神社の反対に遭って、身元不明遺骨の仮安置施設に過ぎないものとされてしまった経緯がある★一三。靖国神社が戦没者を追悼する中心的施設であり続けようとするかぎり、新施設が実現に向けて動き出したとしても、圧力団体を通じた同じ顛末が繰り返されることは容易に予想される。報告書自体の内部においてさえ、懇談会の委員であったが審議途中に死去した坂本多加雄の参考意見は、靖国神社が追悼のための公的施設として存在している以上、新施設は不要であるという見解を示している。
そもそも一宗教法人に過ぎない靖国神社が「英霊」としての戦没者追悼の中心になっているという事態そのものが、政教分離原則に抵触しかねないことは明らかだ。国家神道の要のひとつをになった靖国神社は、一八八七年以降、一貫して陸・海軍省の管轄下で、他の内務省管轄の神社とは異なり、陸・海軍の宗教的、軍事的施設であった。一種の国家宗教としての「靖国教」は、日露戦争後の学校教育や社会教育を通じた民衆教化によって生まれたとされる。靖国神社の忠魂祭祀は、民衆自身による霊魂の祭祀・管理を否定し、祭祀されるべき土地から霊魂を切り離して国家による管理へと収奪したものとも言える。この過程を川村邦光は次のようにまとめている。

先祖祭祀と忠魂祭祀は、ともにイエ─ムラ─クニ・コスモスを連結する、近代国民国家にふさわしい宗教儀礼─国民儀礼として普及されていった。いわば天皇教─靖国教─祖先教の三位一体の政治的宗教体制が近代日本の国民統合の精神的基軸となる。絶えざる民族的・国家的危機への没入により、この三位一体の政治的宗教体制を洗練させ、国民国家としての凝集性を高めていった。均質化─標準化された国民儀礼が津々浦々上下こぞって一様に執り行なわれた。それは昔ながらの自然な風景として見慣れたものになり、自明なものとなりおおせた。あたかも既視感の慢性化のように。そして、霊魂は多様な差異・多元性を捨象されて、均質な内容をもった記号として全国に充満したのである★一四。


この「霊魂の記号論」において、怨霊や亡霊は表層から排除され抹殺されてしまう。それと反比例して、忠魂と先祖が日本国中に夥しく増殖してゆく。透明で均質な記号となった霊魂は、それが実体化することを求める民衆の欲望に応じて物神へと再呪術化され、忠魂碑や忠魂塔をはじめとするモニュメントが全国に建造されてゆくことになる。
日本の場合、国民国家的統合を支える「祖国のために死ぬこと」のイデオロギーが、前近代的な宗教的信仰に接ぎ木され、天皇を頂点とするこうした霊魂の記号論を生んだ。それはあたかもアルカイックであるかのようにグロテスクに偽装した、きわめてモダンな生政治的管理の体制である。「英霊」とはホモ・サケルなのだ。そして、この体制に主権者として君臨したのが、ひとつの身体の内部に自然な生命と聖なる/呪われた生命の二つの命をもった「天皇」という存在にほかならない。それをモデルとして、聖なる/呪われた生命としての忠魂、先祖霊のヒエラルキーが形成されたのである。
靖国教が国家の歴史認識を左右するかたちでいまだに存続しているという事態は、日本古来の信仰に基づく「国民感情」の問題ではなく、こうした生政治的体制の残存と言うべきであろう。もとより、その大元には二つの身体ないし二つの生命をもつ天皇という「象徴」の存在がある。国民国家イデオロギーが宗教の擬制によって粉飾されているために、靖国神社はあたかも戦没者の「慰霊」行為の特権的な場所であるかのように扱われてきているが、千鳥ヶ淵墓苑や今回の新施設構想が繰り返し問題にならざるをえないのは、単に国際社会における他国との共生の必要性という外交上の事情からだけではなく、記号化された霊魂をめぐるこの生政治的管理体制が、第二次世界大戦後このかた、適切な二重葬儀を何らなしえていないからではないだろうか。忠魂や先祖霊の「慰霊」のために自国や他国の怨霊や亡霊を排除した結果として、死者たちは「本当に死ぬ」ことができずに、生者の世界を脅かし続けているのではないか。日本にとって歴史的なトラウマとなっているのは、この「喪の失敗」なのである。そして、それはあの聖なる/呪われた生命の処遇を曖昧にしてきたことに深く関わっているに違いない。
靖国神社との関係を強く意識した帰結として、新施設をめぐる懇談会の報告書はまったくの無宗教性を特徴としている。それをあまりに抽象的な提案として批判することは容易だろうが、しかし、靖国的なものを徹底して回避したところに生まれたこの抽象性こそが、靖国神社を中心とする生政治的な霊魂管理機構の呪縛を逃れうるメモリアルの、最初の手がかりになるかもしれない。WTC跡地案におけるリベスキンドの振る舞いを見ても、国民国家イデオロギーや宗教的枠組みを回避することは決して容易いことではないのである。

3 喪とイメージ

ジャン=ピエール・ヴェルナンによれば、古代ギリシアでコロッソスは、魂、夢のイメージ、影、超自然的幻影などとともに、「分身」という心理的カテゴリーに包摂されていたという。とりわけ魂とコロッソスは生きた人間を挟んで正反対の対照をなすことで密接に関連しあっていた。「分身」という概念は「類似」や「模倣」とは関係がない。コロッソスは人体の形象をしているわけではなく、むしろ抽象的な形状の石柱で、大地に深く埋め込まれて屹立していた。魂が不可視な霞のような存在で空中を動き回るのに対して、コロッソスは一カ所に不動のままとどまる。コロッソスと魂を結びつける儀礼の存在は、コロッソスが彷徨う魂をある場所に固定する役割をになっていたことを示している。その機能とは、死者の力を可視的な形態に翻訳し、生者の秩序ある世界に統合することだった。こうした事情が忘れ去られた時代にはじめて、墓石は死者の記憶を呼び覚ます記号に過ぎないものとなってしまう★一五。
メモリアルの淵源にあるのは、生者の記憶と関わる以前の、こうしたコロッソスの固定化作用である。インデックス性と呼んでもよい。荒れ果てた大地に突き刺されて屹立する、彫られないままの剥き出しの石塊──コロッソスとはもともとそんな、黄泉の世界の指標だった。古代ギリシア人はそのために、光に輝く貴石ではなく、不透明で鈍い光沢の石を用いた。そんな石で出来たコロッソスは虚ろな眼を持ち、すなわち盲目で、夜の世界を表象していたという。
リベスキンドがユダヤ博物館の「ヴォイド」の着想を得たのが、ベルリン近郊ヴァイセンゼーのユダヤ人墓地を訪れた経験であったことが思い出される。
 

この墓地で私に衝撃を与えたのは、その空虚でした。何メートルにも渡る非常に背の高い御影石の板からなる墓石の群。そしてその墓を訪れることのできる人はもはや誰もいません。そこにはヘブライ語の銘や象徴もほとんど残っていません。この墓地はある意味でこの共同体の未来のために造られたというのに、その共同体にはそもそも未来などもはやまったく存在しなかったのです★一六。


「そこにはヘブライ語の銘や象徴もほとんど残っていません」──つまり、墓石は埋葬された人々に向けた想起の手がかりを欠いて、ただの石板に還元されてしまっていたのである。墓地とは何か。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの言葉を借りれば、墓地とは「不在のまま、存在するための場」にほかならない。

この場ではすべてが埋葬され、土深く埋もれながら、しかし、完全に不可視のものとならない。なぜなら、この場のすべては、消失をしるしづけるものであるにせよ、消失の視覚的表徴をもってはいるからだ★一七。


ユダヤ博物館の「ヴォイド」とはちょうどそんな「消失の視覚的表徴」としての虚ろな墓石である。リベスキンドはベルリンに計画されたいわゆるホロコースト・メモリアル(「虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人慰霊碑」)のために、「石の息」という言葉をモットーに掲げた案を発表している。「石の息」とは、「運河」と呼ばれる溝のなかに立つ、いくつも亀裂の入った高さ二一メートル、幅五メートルのコンクリート壁をさす。リベスキンドによれば、五つの断片からなる長さ一一五メートルの「石の息」は、ユダヤ博物館のヴォイドが実体化したものである。つまり、空洞がここでは現実に墓石に似たヴォリュームに反転しているのだ。
そして、このことはさらに、ユダヤ博物館それ自体においても、ヴォリュームの充実とヴォイドとの対立が反転可能な状態に置かれていることを暗示している。ディディ=ユベルマンは、アルベルト・ジャコメッティの作品《キューブ》[図6]やミニマリズム彫刻を分析して、人体同形的なそのヴォリュームが内部の空虚によってつねに脅かされているという、弁証法的な緊張関係の存在を指摘している★一八。ユダヤ博物館のコンセプトの核にあったものもまた、充実と空虚、内部と外部の安定した関係が揺らぎ、対極が反転しあうかのような「墓石」としてのヴォイドの造形である。それはコンクリート塊にくり抜かれた穴として、空虚なコロッソスをベルリンの一画に建てたのだ。
ディディ=ユベルマンは、闇のように暗く稠密なブロンズのクリスタルである《キューブ》を、コロッソス同様の非模倣的な「分身」の系譜に位置づけ、そこに「人類学的厚み」を見ている。そんな厚みをもった分身は二重化と反復によって無気味さを帯びる。そのオブジェは「現前するここのシーニュとしては明確なものとなるのだが、同時に、不在のあちらの指標としては恐怖と謎に満ちたものとなる」★一九。オブジェが生きているのか、死んでいるのか、われわれにはもはやわからない。言い換えれば、それは聖なる/呪われたcorps(物体/身体)になるのだ。《キューブ》は集団信仰や神話を遠ざける一方で、近代主義的還元や「見えるものしか見えない」とするミニマリズムの同語反復的ヴィジョンも遠ざけている、とディディ=ユベルマンは言う。そこには聖なるものへの信仰も、同語反復もなく、アルカイスムもモダニズムもない。こうした二重の回避を、ジャコメッティは「抽象的オブジェにイメージの力を授けることで結晶化した」★二〇。

この彫刻は生成と埋葬、類似と非類似の間の壊れやすい均衡、崩壊を待つだけの、あるいは自身の崩壊を望みさえするような均衡のなかでのみ「イメージ」となり、顔と場の間で、語られていない関係と亀裂の残滓、傷つき、失墜しながらも、静謐に結晶した残滓であるときにのみ「イメージ」となったのである★二一。


 《キューブ》はジャコメッティの父の喪、ひいては、彼自身の喪と深く関わっていた。充実と空虚、内部と外部といった両極的な関係が揺らぐ場としての「イメージ」──自分自身の分身であるホモ・サケルのためのコロッソスとは、そんなイメージであるしかないのかもしれない。死者たちのための場所を占有するイデオロギーや生政治的管理機構に逆らって、怨霊や亡霊となって彷徨う魂たちのための喪の空間が、壊れ易くも脆い「イメージ」によって切り開かれなければならない。

6──アルベルト・ジャコメッティ 《キューブ》(1934) 出典=ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 『ジャコメッティ──キューブと顔』

6──アルベルト・ジャコメッティ
《キューブ》(1934)
出典=ジョルジュ・ディディ=ユベルマン
『ジャコメッティ──キューブと顔』


★一──次を参照。
http://www.renewnyc.com/plan_des_dev/wtc_site/new_design_plans/default.asp
★二──次を参照。
http://www.renewnyc.com/plan_des_dev/wtc_site/new_design_plans/firm_d/default.asp
★三──例えば雑誌『オブサーバー』における次の批評を参照。Deyan Sudjic: Towering ambition.
URL=http://www.observer.co.uk/comment/story/0,6903,905775,00.html
★四──http://www.renewnyc.com/plan_des_dev/wtc_site/
new_design_plans/firm_d/default.asp
★五──★四に同じ。
★六──この点については、『オブサーバー』における次の批評を参照。Deyan Sudjic: Will he be the hero for Ground Zero?  URL=http://www.observer.co.uk/review/story/0,6903,886857,00.html
★七──『10+1』No.30(INAX出版)における拙論参照。
★八──次を参照。
http://www.renewnyc.com/Memorial/memmission.shtml
★九──http://www.renewnyc.com/plan_des_dev/wtc_site/
new_design_plans/firm_d/default.asp
★一〇──次を参照。Giorgio Agamben:  Homo sacer: Il potere sovrano e la nuda vita. Giulio Einaudi, 1995. 英訳=Giorgio Agamben:  Homo Sacer: Sovereign Power and Bare Life. Trans. by Daniel Heller-Roazen. Stanford, California: Stanford University Press, 1998, pp.91-103.
★一一──Ibid., p.101.
★一二──http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/kettei/
021224houkoku.html以下、報告書からの引用はこのサイトによる。
★一三──こうした経緯については次のサイトにおける中村生雄の記述を参照。
http://bun110.let.osaka-u.ac.jp/member/nakamura/
kokurituboti.htm
★一四──川村邦光『幻視する近代空間──迷信・病気・座敷牢、あるいは歴史の記憶[新装版]』(青弓社、一九九七)一九八頁。
★一五──次を参照。Jean Pierre Vernant: Mythe et pensée chez les Grecs. Études de psychologie historique. Paris,: Maspero, 1966.
★一六──Daniel Libeskind im Gesprcäh mit Doris Erbacher und Peter Paul Kubitz. In: Jüdisches Museum Berlin. Dresden: Verlag der Kunst, 1999, S.37.
★一七──Georges Didi-Huberman: Le cube et le visage. Paris: Editions Macula, 1993. 邦訳=ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ジャコメッティ──キューブと顔』(石井直志訳、PARCO出版、一九九五)、二三二頁。
★一八──同、およびGeorges Didi-Huberman: Ce que nous voyons, ce qui nous regarde. Paris: Minuit, 1992. 参照。
★一九──同、二二三─二二四頁。
★二〇──同、二三六頁。
★二一──同、二三七頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『死者たちの都市へ』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.31

特集=コンパクトシティ・スタディ

>坂茂(バン・シゲル)

1957年 -
建築家。坂茂建築設計主宰、慶応義塾大学環境情報学部教授。

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>ディヤン・スジック

1952年 -
ジャーナリスト、編集者、デザイン・建築評論家 。雑誌「ブループリント」の編集長。