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都会性の夢 | 金森修
Cultural Politics of Urban Environment 4 Dream of Citizenhood | Kanamori Osamu
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために, 2002年09月30日発行) pp.21-22

1 ぶらつき

都市論にジェンダー的視点を導入して独自の切り込みをしようとしたエリザベス・ウィルソンは『The Sphinx in the City』という本のなかで、「ぶらつきまわる人」(flâneur)に着目している★一。ウィルソン自身は、そのぶらつきが多くの場合、男性に代表されていることに不満をもらし、「女性の彷徨」という新たな問題設定ができるのではないか、と問いかける。それはそれなりに面白いが、いまの私の興味とは若干ずれるので、それについての直接的注釈を与えることはやめておこう。
確かに、ぶらつきというのは、定住でもなければ移住でもない、独自の空間的形象を備えている。ぶらつきは、ひとつの場所にじっとしていることではないが、かといって一〇キロメートルも二〇キロメートルも一気に移動することでもない。しかもぶらつきの行程は、単純な幾何学的直感や機能的理解を許さないところがある。どこか目標地点を最初に決めて、それに向けて一直線に足を進めること、それはぶらつきではない。ぶらつきとは、目標地点があることを絶対的に排除するものではなくても、とにかくそれに対して最短の行路を最小限の時間で移動することではない。回り道、道草、移動途中での目標到達の放棄の可能性という一連の要素は、ぶらつきを構成する必須の要素である。どこに行くのでもなく、萎えた手足を伸ばすこと自体が目的とでもいうかのようにして、途中の行路での思いがけない出会いや発見を少しは期待しての行為、それがぶらつきである。
では、ぶらつきがより自然にぶらつきであるための要件を満たすような特権的な場所は存在するのだろうか。そう問われれば、大多数の人は農村よりは都会のことを考えるだろう。都市こそが、ぶらつきに相応しい場所なのだ。例えば一九世紀ヨーロッパで、近代の増殖する大都市のたたずまいを前に、共感と反感をない交ぜにしながら張りつめたような思索を残したボードレールやネルヴァルのことを想起すればよい。彼らが歩き回ったのは、ブルゴーニュの葡萄園ではなく、パリの街路だった。もちろん農村でも、ぶらつき的な行為が絶対的に排除されているわけではない。だが、ぶらつきには、逆説的にもある種の緊張感が必要で、その緊張感がより自然に湧出してくるのは、のどかな田園風景ではなく、都市の薄汚れた一画においてなのである。
都会の彷徨には、思いがけない人や事物との出会いという必須の成分が付き物だが、それは、裏を返せば、思いがけない危険に遭遇する可能性もあるということを意味している。何度もぶらついた路地に厭きて、あまり知らない一画にあえて足を踏み入れる。それは机仕事に疲れて手足を伸ばしにぶらっと出かけるということと同じ気分を表現している。それは普通人が簡単にできる小さな冒険であるわけで、それがたとえ「小さな」冒険に過ぎなくても、冒険らしい危険さはごくわずかながらもついてまわるのだ。見知らぬ路地には、何が待ちかまえているか、誰も前もって予想はできない。
また、ぶらつきは直線を知らないと先程書いたが、非直線だというだけでは十分ではない。ぶらつきは、たとえそれがどれほど複雑な曲線行路でも、同一の曲線行路が何度も繰り返されるということも排除しているというのでなければ、本当のぶらつきにはならない。昔、ドイツの哲学者カントはいつもお決まりの散歩コースを歩き、毎日同じ時刻に彼を見かける人々は、そのうちに彼を見ては時計を直した、という有名な逸話がある。だが、カントがしていたことは机仕事で体力が衰えるのを避けるための一種の体操なのであり、それは実は散歩ではなかったと考えるほうが正確だろう。カントの散歩には、予見可能性の忌避や反復への倦怠という、ぶらつきの成立のためには重要な成分が欠落していたのである。
機能的移動でも、反復的移動でもない、独特の彷徨。それは、絶えず物資や人の移動があり、知悉していた町並みにも突然見知らぬ店舗が出現しては、また知らないうちに消えていく都市の都市空間的な特性と、都市に固有の雑踏の存在という必要条件のうえに、ようやく成立するものだ。だから、田園のボードレールはありえない。娼婦の傍らを通り過ぎ、彼女たちの嫣然とした誘いに退廃と誘惑の近代を体感するボードレールのような思想家は、やはり「都会の都会性」を追いつめようとした者の顔つきをしている。
また、逆にいうなら、仮に一見都会に住んでいるようでも、いつも決まった街路を通って仕事に通い、慣れ親しんだ人々と語らいあい、十分に知り尽くしていることの微妙なニュアンスの違いに巧拙を競うようにして生きている人は、実は都会というよりは、伝統的な地縁的コミュニティに生きているのである。ただ、現代の「地縁性」は、交通機関の発達のおかげで昔のそれよりは規模的に大きく、または情報機関の発達で実在の地理的空間とは重ならなくてもいいというだけだ。別にそれが悪いというのではない。人は誰もが自分の好むように結局は生きるもので、その好みの様式が、これまで私が素描してきたぶらつきとは必ずしも重ならないことが多い、というだけの話である。
「都市に住む」ということを本当に体現している時期は、いわゆる都会人に限っても、ひとりの人間の一生の間でごくわずかな一時期だけ、といったほうがおそらくは正確なのかもしれない。われわれは絶えず本当の意味でぶらつきまわっていられるほど、機能性からかけ離れた自由さも闊達さももちにくいような生活をしている。若い頃のぶらつきをふと懐かしく感じること、それはいつの間にか、それほど自由な時間や自在な気分をもたなくなってしまった壮年期の人間たちの嘆きの表われなのである。嘘だと思うのなら、「都会的雑踏」なるものを、よく観察してみればいい。見知らぬ人々のたゆたいゆくただの群だとはいえない、それ自身雑多な要素に溢れかえっているのがわかるはずだ。雑踏のなかで本当にぶらついているように見える幸福そうな人の数は実はそう多くはない。どこか忙しそうに、回りのものを見やる余裕もないような感じで、たまたま他の多くの人々と一緒にいるだけのような人がたくさん混じっていることがわかるはずだ。彼らはぶらついてなどいない。何人かの幸福な彷徨者の傍らで、ひたすら機能的歩行を遂行しているだけなのである。

2 夢のような都市

なんだか、少し気の滅入るような話になってしまった。いわゆる都会に住んでいる人だけに話を限ってみても、都会に住んでいるようでいて実は大部分の人は都会には住んでいず、ぶらつきの経験があるとしても、それはどちらかというと過去の懐かしい幻のようなもの……。私の話はそんな話に収斂したように思えるからだ。
だが、そうでもない。規範的なことを述べているのではないというのは自明だが、私は、記述的にも「多くの場合、そうだ」という傾向の指摘をしているだけだからだ。人は、壮年期になっても自在さを保つことはできる。どれほど面白い仕事に就いている人でも、その仕事だけに夢中になるというのは、楽しくはあるが機能的すぎることでもある。若い頃のぶらつきを懐かしいなと思いつつ、目の前の仕事に邁進するという人は、実は本当には懐かしんでなどはおらず、やはり仕事のほうが面白いと思ってやっているだけの話なのである。本当に懐かしく、もう一度似た経験に自分を曝したいと思えば、おそらくどんな人でも、ぶらつきまわることくらいは可能なのだ。その久々の経験自体をきわめて機能的に再解釈して、今後の仕事のいっそうの糧になる、と位置づける人もいるだろう。世知辛いともいえるが、それはそれでいいともいえる。どんな意味づけをしようが、とにかく少し仕事を休んで、歩き回ろうよ。それもできれば、普段あまり行かないような所を。思いがけないものに出会えるのはほぼ確実だし、素敵な異性と出会えるという可能性も〇・〇Xパーセントくらいはあるかもしれない。
都会的な空間に接触できるという経験は、実は想像以上に希有なものであるような気もする。青年期という、忙しいようでいて暇そのものでもあるような時期をとにかく通過し、知らないうちにやたらに忙しい日々を過ごしているあなた。都市という不思議な空間を知悉しているようで、実はあまり経験さえしていないあなた。もう一度、自分の生活の連続性から若干距離をとり、広い意味での「地縁」を解体させてみませんか。繰り返すなら、現代の地縁は「知縁」でもある。その地縁も知縁も、あえて束縛のようなものとして感じ取り、少し脱ぎ去ってみるのだ。どこにいるのかもわからず、自分が誰であるのかも忘れたようなふりをして、歩き回ろう。そうすれば、本当に少しの瞬間、自分を忘れて、新しい経験に身を曝している誰かとしての、自分を再発見することができるはずだ。「都市」というのは、結局、その可能性を下支えしてくれる存在論的な条件のようなものなのである。


★一──Elizabeth Wilson, The Sphinx in the City: Urban Life, the Control of Disorder, and Women, Berkeley, Univ. of California Press, 1992, chap.1, chap.4 etc.

>金森修(カナモリ・オサム)

1954年生
東京大学大学院教育学研究科教授。哲学。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために