RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.19>ARTICLE

>
首都空間の変容──中心をどう表現するか──ヴェトナムの事例 | 大田省一
The Transition of Capital Space: How to Express the Center; Vietnam as an Example | Ota Shoichi
掲載『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000, 2000年03月発行) pp.210-220

ネイション・ステートを懐疑的に見なくてはいけない今日の状況下では、もはや首都という存在すらユートピアになりかねない。幸田露伴が「一国の首都」で説いたモラルたっぷりの「自覚」★一を、昨今の東京で見つけるのは不可能であろう。かつて日本でも「国家的デザイン」が議論されたことはあった。これからもその議論が行なわれる契機はあるだろうが、建築に「国家的意志の代理」を求めることは(今日の)われわれには考えにくい★二。
しかし、いまだ国づくりの途上にあれば、国家は建築家にとってリアリティのある存在のままだ。そうして、その表象空間への欲望は首都へと向かう。アジアへ出向いて現地の建築家と話すとき、存外にこのような問いかけを受けて当惑することがある。「国家の中心をどう表現するか」、「首都の空間のデザインとは」。
地域研究で扱う諸問題においても、都市を東南アジアというローカリティのなかで語るとき、従前の表層的な都市現象の考察から、都市を政治的意味空間(もちろんいろいろなレヴェルで「政治的」問題は存在するだろうが)として認識するアプローチへと関心の所在が移っている★三。「首都」がここでも問題になる。この近年の動向を加藤剛は地域研究のなかでの「都市の象徴論」的研究と呼んだが★四、「都市へのまなざし」そのものが、研究対象としてクローズアップされている。
独立前後の首都の変容は、われわれにその恰好の例題を提供してくれる。植民地首都を国民国家の首都として受け継いだ例は、東南アジアでは多数見受けられる★五。それどころか、主だった施設や政治性を帯びた場所までが、更新されて使用され続けた例が多い。
しかし、そこには不可避的に、植民地首都のナショナル化という作業が待ち受けていた。これは外文明としてのヨーロッパ権力がかたちづくった支配のモニュメントを、東南アジアの内なる世界の論理で読み替え、作り替えていく過程でもあった★六。
ここでは、ヴェトナム社会主義共和国の首都ハノイの政治的な中心★七であるバディン広場が、それぞれの時代・政権のなかでどのように変容していったかについて見てみる。伝統王朝、植民地支配、分断国家、統一という歩みを経たこの都市には、それぞれの時代の都市像が投射されている。しかもその間、政治的中心はバディン広場に継続して位置し続けた。東南アジアの一都市ではあるが、帝国主義、世界大戦、革命、独立、冷戦等の二〇世紀のキーワードの多くを体験してきた貴重な事例である。
場所と時間が記録するある国家の歩み、あるいは場所性が刻む時間がそこから見えてくるのではないか。

一八九五年インドシナ

ある広場がハノイに誕生した。城跡にその広場がつくられたのは一八九五年のことである。
ヴェトナムでは、一九世紀末にはフランスによる支配が決定的となり、一八八九年には「仏領インドシナ連邦」が発足した。ハノイはこのとき連邦首都としての地位をあたえられた。都市改造も盛んになる。フランス人地区の拡張とともに在来の都市空間にも手が及び、一八九五年には阮朝のハノイ城砦が取り壊されることとなったのである★八[図1]。跡地の東側は軍の駐屯地とされ、西側は住宅地として分譲されていった。城壁こそなくなったが街路はおおむねその跡を辿るように敷かれ、旧城砦は地図上にはっきりと痕跡を残すこととなった。城壁跡には方形の街路が登場したが、とくに西門跡には広場がつくられた。「ピガニエール広場(ロータ
リー)」と当初呼ばれたこの広場こそ、こののちハノイの政治的な中心地点として、激動の近現代史の舞台となる場所である[図2]。
この広場は、ときの総督ポール・ドゥメールの政策の副産物とも言える。ハノイが、首都という重い役割をふたたび抱えることになるのは、「ハノイのオスマン」★九とも言える彼の意思によるものである。商都サイゴンに対抗する新しい政治の中心地、連邦首都を探していた総督の目にとまったのは、古都ハノイであった。中国奥地の権益を狙うフランスには、紅河の遡航基地としてのハノイは魅力ある立地であった。近代土木技術と政治手腕を武器に、彼は仏領インドシナ連邦とその首都ハノイを創り出したのである。フランス領を飾る建築には、マンサード屋根が載せられ、ビスタ、ロータリーといったフランス的街路空間が導入された。
ドゥメール自身は、この新しい広場にどのような意味をもたせようとしていたか。彼は、ここに隣接して自らの本拠地、新総督官邸を建てたのだ。ハノイ市公共事業局の建築家であったシャルル・リシテンフェルデンの設計になるこの建築は、当時盛んに建てられたマンサード屋根でこそないが、古典様式に寄せ棟屋根を載せたもので竣工当初はハノイ随一の大建築であった。
城砦を消したのは、旧体制の否定であるとともに、都市に新しい構造を持ち込むための布石でもあった。広大な城砦の跡地は、新たな都市施設に充当されていく。新総督官邸は、その呼び水の役割を与えられていた。
総督官邸は、背後には植物園を抱えるように敷地が選定されているが、この植物園はハノイ建都時の都城王宮跡地ではないかと考えられている。それだけ、都市構造に密着した動かしがたい部位である。一方、ロータリーは城砦跡地の幾何学的な理解によりつくられている。つまり、城砦を南北に二分する線を対称軸として北東・南東方向に走る放射状街路をつくり、その焦点にロータリーがつくられたのだ。このように異なった原理で二者の位置決めがなされたため、総督官邸とロータリーの位置には整合性はなく、正対せずにわずかにずれた格好となった。連邦首都ならではの空間、首都空間が、こうして誕生した。
ドゥメールによるハノイの施策には「ハノイ博覧会」の開催(一九〇二)というものもあった。新装なった首都を売り出すための政策である。一〇〇メートルを超えるコロネードを持つ巨大な城館建築をつくらせ、博覧会場としたが、新総督官邸前のロータリーも会場となっている。ドゥメールはこのように、都市空間を政治的プロパガンダに利用し、大きな足跡を残すこととなった。

1──ハノイ城門 絵葉書(筆者蔵)

1──ハノイ城門
絵葉書(筆者蔵)

2──ピガニエール広場と総督官邸 IFA(Institut Fraçais d’Architecture)所蔵

2──ピガニエール広場と総督官邸
IFA(Institut Fraçais d’Architecture)所蔵

一九二四年インドシナ

一九二〇年代、時のインドシナ総督モーリス・ロン(Maurice Long)は、各種産業を振興するためにさまざまな施策を打ち出していた。折からの世界的な好景気のさなかでもあり、インドシナにも大きな経済成長がみられた。政庁は財政的にも余裕ができて、医療、教育等に力を注ぐことができるようになった。植民地インドシナは、漸く経営の地となったのである。そうして、ロンが次に取り組んだのが都市計画であった。
彼に都市計画の必要性を思わせたのは、「中心の危機」であった。すなわち、フランスの威光を代表して建っていたはずの総督官邸の隣りに、それをはるかに上回る規模で一般学校建築(リセ・アルベール・サロー)が建ってしまったのだ。おまけに宅地化の波がすぐそこまで迫ってきていた。これでは、中心の空間がぼやけてしまう。権威の中枢にふわさしい、堂々とした都市空間の演出が必要だ。総督はそう考えていた★一〇。
ハノイを一国の首都に相応しい都市にするために招聘されたのが、エルネスト・エブラールである。新たに設置された都市計画委員会で彼は数々の都市プランをつくり、一九二四年には「ハノイ市整備・拡張計画」が立案された[図3]。そのなかでは、ハノイを仏領インドシナ連邦の首都にふさわしい街にするために、政府の中心地としての中央官衙街が整備されることになった。旧城塞地区の西側部分がそのための用地に充てられた。これは、ロン総督が買い取りをすすめ、この計画のために確保していた用地であった。
地区の中央にはジェネラル・リショー大通りを拡張して、旧城砦を二分するかたちに東西の軸線を通す。この通りを対称軸として南東にピガニエール大通り、北東にも大通りを放射状に走らせることとした。この三本が交わる点にはロータリーを置く。これで街の正面にふさわしい骨組みができあがった。
ロータリーの正面の最も重要な位置には、新総督官邸を既存の三倍の規模で新築し、パースペクティヴの効いた、権威の中枢にふさわしい空間を演出する。
そのまわりには各官庁が配置される予定であった。現総督官邸は「インドシナ総督会議」の建物にあて、財務部、教育部、司法部、農業部が建設される。緑地をたっぷりととった、従来のハノイにはない壮麗な地区がつくりあげられることになっていた★一一。
政権と都市計画の蜜月が見た夢は、ここに初めて大きな像を結ぶこととなった。しかし、その後の世界恐慌の影響下で凍結されることになってしまう。「未完の中心」となったピガニエール広場は、フランス植民地体制下では、もうこれ以上の輝きを見せることはなかった。

3──官衙街計画 Urbanisme, Mers, 1932

3──官衙街計画
Urbanisme, Mers, 1932

一九四三年インドシナ

一九四〇年は、インドシナにとって大きな転機となる年であった。本国はヴィシー政権となり、さらに日本軍の北部仏印進駐が行なわれた。「日仏二重支配」と呼ばれる時期である。このような情勢下でインドシナ総督に着任したのが、ジャン・ドクーである。
本国でのコロニアリズムは、一九三一年の「国際植民地博覧会」開催でピークに達していた。四〇年代になっても「ラ・グラン・フランス(大フランス)」への意志は盛り上がりを見せていた。一方で、世界恐慌以降の民族資本の勃興により、ヴェトナム人をはじめとする現地人はもはや植民地でのマジョリティとして無視できない存在となっていた。フランス側としては、さらに現地人の目を日本軍からそらすために、懐柔政策を出す必要性が生じていた。総督府に「都市計画中央委員会」が復活、主要都市の計画を手掛けていったが、その際にも現地人市民の存在は十分に考慮されていた★一二。ハノイに対しても大規模な市街拡張計画が立案されている。さまざまな新規開発計画が盛り込まれているこのプランでは、しかし、「中心」をどう扱うかということがいまひとつはっきりとしていない。プランをみても、エブラールのプラン上の未完の放射状街路を再登場させて、図像的にピガニエール広場がこの都市の中心であることに変わりがないようであるし、政治の中心たる総督官邸も依然として同位置に留まることになっている。ドクーの名を刻印するための「新都心」は、大学、病院、放送局という民生的な施設で形成されたが、政治的な首都の顔というレヴェルではなく、位置も都市の南辺に偏っている。
すでに大上段にフランスの存在をアピールするような時代ではなかったのだ。都市開発にはあくまでも市民の側の建築を持ってくる必要があった。政権が市民の側を向いている以上、虚構としての中心を拵える必要もなかったわけである。むしろメディアによるプロパガンダ戦略のほうに力が入れられていた★一三。
また、ドクーの個人的な想いも、中心の留保につながった可能性がある。彼は回顧録のなかで自らの開発政策にふれ、アフリカでのリヨーテ★一四の成果にならった、と述懐しているが、同じ土地の先任者の例については言及していない★一五。後塵を拝することは、総督の意には適わなかったのだろうか。彼が欲していたのは、他人の色がついていない、都市のなかの処女地だったのかもしれない。中心に手を付けないこと。これが、ドクーの意思表明でもあった。
「ハノイ計画」は南部の新都心から着手されていたが、いくつかの施設を建設しただけで終わりを迎えることとなり、総督の名を冠したジャン・ドクー大通りも開通することはなかった。
ピガニエール広場は新たに政治的な意味を付与されることこそなかったが、都市のなかの憩いの空間の役割を担うため、公園として整備された。市の植樹局局長ショーコによる改装である★一六。
この頃は広場に隣接してチュア・モット・コット(一柱寺)があることから、「モット・コット広場」と呼ばれていた。これも現地人の民族性への配慮だったのだろうか。

一九四五年ヴェトナム

「独立と自由ほど、尊いものはない」★一七。
ホー・チ・ミンが高らかに独立宣言を読み上げた。一九四五年九月二日。ヴェトナムの独立を表明する、歴史的な瞬間だった。そのとき、彼はバディン広場(ピガニエール広場)にいた。コロネードの前には星をあしらった「独立台」が設けられ★一八、高々とヴェトナム国旗も掲げられた[図4]。解放戦線が蜂起した場所は、ほかにトンキン理事長官官邸前等もあり、これらはすべて革命史蹟として記憶に留められていく。都市のなかに、新たに意味づけされた場所ができたわけだが、バディン広場は、このホー・チ・ミンの独立宣言によって格別に重要な意味を持つ場となったのである。植民地権力の中心施設が彼らの攻撃対象であり、時代の転換を宣言するには最適な場所であった。総督官邸の建築と人民の指導者の対比は、人々に時代の転換を感じさせる恰好の視覚的構図であったろう。
ホー・チ・ミン自身は、戦後政治のなかでこの空間の特性を利用していった。初代主席として国家の長となっても、彼自身はかつての統治者の館に入ることはなかった。そのすぐ傍らに高床式の民家を模した家を建て、そこで生活、執務をしていたのだ。これはヴェトナム人建築家グエン・ヴァン・ニンの設計になるもので、小ぶりながらなかなかの好品である。一階はピロティにして二階に寝室と執務室があった。ピロティには大テーブルが置かれ、会議に使用できるようになっていた★一九。フランス時代の豪奢な洋館には住まず、小さな木造の家に住んで池の鯉に餌をやって過ごした彼の姿は、植民地の桎梏を逃れたばかりの民衆のあいだに美談として語られ、「清廉な指導者」のイメージをつくりだすことに大いに貢献した。バディン広場は、この指導者にとってもプロパガンダの場であったのだ。

4──独立台 Kiên Truc

4──独立台
Kiên Truc

一九五四年北ヴェトナム

ホー・チ・ミン政権はフランス旧植民地勢力の巻き返しに遭い、妥協の道を探るしかなくなり、一九五四年のジュネーヴ条約により国土は南北に分断されることとなる。ハノイは北ヴェトナムの首都となった。
この年、バディン広場には儀礼台が設置された[図5]。その設計はグエン・ヴァン・ニンで、かつての「アンナン様式」★二〇仕込みの、民族建築の表徴たる反り上がった屋根を載せたデザインであった。国家を背負わされた建築家が描いたのは、かつての統治者のオリエンタリズムのフィルターを通した、ヴェトナムの建築の姿だった。
国土が分断されたとはいえ、北ヴェトナムは民族国家として独立国となり、首都ハノイでは国家の顔たる空間が求められていた。そうして広場のまわりには人民会堂がつくられ、かつてのリセは共産党本部となった。ここに「未完の中心」はついに、名実ともに国家の中心となったのである。
人民会堂(バディン会堂)はグエン・カオ・ルエンらによる、歴史様式を纏ったスターリニズムの時代を感じさせるもので、共産圏の建築の正統とも言える作品である[図6]。
共産国家としての意気込みはさらに加熱する。一九六〇年にはバディン広場儀礼台が改築されたが、歴史様式を纏ったその姿は、紛れもなく東側の表徴であった[図7]。これまでのあいだに、ヴェトナム建築界は仏領期の残り香を払拭し、目指す先をソ連へと転換したのである。この設計もグエン・ヴァン・ニンで、まさにバディン広場のプロデューサー的役割を果たした人物だとも言える。彼は植民地体制下で建築教育を受け、阮朝の宮廷建築家として活躍したが、その一方で共産党員でもあったため、革命後の建築界にも大きな位置を占めていた★二一。

5──バディン広場儀礼台、1954 Kiên Truc

5──バディン広場儀礼台、1954
Kiên Truc

6──バディン会堂 筆者撮影

6──バディン会堂
筆者撮影

7──バディン広場儀礼台、1960 Kiên Truc

7──バディン広場儀礼台、1960
Kiên Truc

一九六九年北ヴェトナム

アメリカの本格介入により戦争が激しくなるなか、北ヴェトナムを深い悲しみが覆うようなことが起こった。革命の指導者ホー・チ・ミン国家主席が死去したのだ。一九六九年九月三日のことである。九月九日にはバディン広場において国葬が荘厳にとり行なわれた。副主席グエン・ルオン・バンはただちに、このヴェトナムの英雄のための廟堂をつくることを決定した。しかし、これが完成するのは随分と時間が経ってからとなるのだが。副主席は建築家グエン・ゴック・チャンに設計の準備をするように指示を出した。「私は、幸せでもあり、また悩んでもいた。ホー主席がレーニン同志と同様に廟に奉られるのは幸せなことであったが、設計にあたって何ら資料がないのだ」と、チャンはこのときのことを記している★二二。党中央が廟建設事業の決定をした一一月には、建築省(現建設省)とヴェトナム建築団(現ヴェトナム建築家協会)は、コンペを行ない広く意見を募ることにした。二〇〇以上の案が集まり、場所、構成についてさまざまな提案がなされた[図8・9]。実際の作業では、建築家メゼンツェフを代表とするソ連の顧問団がヴェトナム側と設計を進めることとなった。政府より出された設計に際しての要求は以下のようなものである。

●廟の立地は、フンブオン通りの現儀礼台の近くとする。
●ホー主席の言葉を高く掲げる。
●「ホー・チ・ミン主席」の銘は高い位置に記し最大限の配慮をすること。

廟の場所は歴史的な独立宣言の舞台となったバディン広場地区とすることとなった。広場を含めた竣工の期限は一九七五年九月二日とされた。これは、独立宣言の三〇周年にあたる日である。
廟は、ホー主席の記憶と関連あるもの、純粋で簡潔な表現、さらに人民に近い立場であることが求められた。建築表現にあたっては、現代的でありながらかつ民族色を湛えたものであること、訪れる外国人や人民に好まれるようなもの、記念碑として確固としたものであることが必要であるとされた。一九七〇年六月、ソ連顧問団の二回目のヴェトナム訪問の際に、総合演出のゲルシコフ、設計担当のガロン・イサコビッチが到着した。彼らの提示した原案をもとに、グエン・ゴック・チャンを中心とするヴェトナム側の共同で設計が進められた。政府での意見公聴会で、タイプ別に提示された設計案からコロネードを備えたものが好ましいとの意見が出された。政府は設計案を展覧会場に掲示し、人民の意見も募ることにした。ヴェトナム側は広汎に意見を聴き、人民の総意としての廟建設を目指していたのだ。最終的には四案に絞られることとなった。
ヴェトナムの調査団が同年一一月ソ連を訪問したとき、メゼンツェフはすでに亡くなっていたが、イサコビッチらは引き続き参加していた。その後も二国の意見交換は続き、ヴェトナム側は気候、経済状況等の現地事情の説明に努力していた。
着工は一九七三年九月二日となった。それから二年後の一九七五年八月二九日にいよいよ供用が開始された。同年の四月三〇日にはサイゴンが解放され、故人が夢見たヴェトナムの統一はすでに現実のものとなり、ハノイには統一国家の首都としての役割が与えられた。
廟の両サイドには六六メートルの観覧台が設けられ、八〇〇人から一〇〇〇人を収用できるようになっていた。フンブオン通りをはさんだ前方には三二〇メートル×一〇〇メートルの広場がつくられ、碁盤目状に一六八区画に区切られ、整然と芝が植えられた[図10・11]。
「ホー・チ・ミン廟は今日政治的に、首都さらに国家の最も歴史的に重要なものとなった。バディン広場でホー主席が独立宣言を読み上げた、その言葉を引き継いでいくのだ」と、建築史家ダン・タイ・ホアンは言う★二三。

8、9──ホー・チ・ミン廟設計案 Kiên Truc

8、9──ホー・チ・ミン廟設計案
Kiên Truc

10──ホー・チ・ミン廟、決定案 Kiên Truc

10──ホー・チ・ミン廟、決定案
Kiên Truc

11──現在のホー・チ・ミン廟 筆者撮影

11──現在のホー・チ・ミン廟
筆者撮影

一九九〇年ヴェトナム

社会主義陣営が動きを見せ、冷戦が新たな局面に移った頃、ヴェトナムではソ連からの援助でできた施設が多く出現した。それはまるで社会主義の堅持、東側の結束を促すかのようなものであった。ハノイ市内にも
 《越ソ文化会館》、《タンロン橋》などが建設された。
このなかで、ホー・チ・ミンの生誕一〇〇周年となる一九九〇年に向けて、バディン広場の近く、ホー・チ・ミン廟に隣接したところに《ホー・チ・ミン博物館》を建設することになった[図12・13]。
一九七八年には党中央政治部においてホー・チ・ミンを記念する博物館を建設することが決定された。翌年には国内の建築家にこの計画が諮られ、四六案が出されたが、フイン・タン・ファットを座長とした審議会で七つの案を選定した。「現代、民族、威厳、簡素ということを設計において表現するための大きな前進だった」と、現在ヴェトナム建築家協会会長を務めるグエン・チュック・ルエンは言う★二四。
政府間合意により、一九七九年二月よりソ連が技術、設計において協力することになった。ホー・チ・ミン廟でも協力したイサコビッチが再び参加し、八二年一〇月にはハノイを訪問した。彼の案はヴェトナム側に受け入れられた。
平面は四五度振ったかたちでホー・チ・ミン廟を向いており、四方の入り口は、それぞれ北はホー・チ・ミンの家、東はバディン広場を向き、南と西はハノイの現在と未来に向き合うものとされた(実際には住宅地区に面している)。
すでにホー・チ・ミンの家は史蹟地区になっており、この博物館と併せてバディン広場をホー主席を記念する一大エリアとすることが意図されていた。広場は、もはや政治的な中心としてばかりではなく、永続的な記念すべき場所としての地位を与えられたのだった。

12──ホー・チ・ミン博物館計画案 Kiên Truc

12──ホー・チ・ミン博物館計画案
Kiên Truc

13──現在のホー・チ・ミン博物館 筆者撮影

13──現在のホー・チ・ミン博物館
筆者撮影

一九九九年ヴェトナム

ドイモイで門戸を開放してみたが、近隣諸国ははるか先に行ってしまい、取り残された自国の様子がくっきりと見えてくることになった。
閉じられたカーテンを開けてみれば、まわりには高層ビルが林立する風景が広がっていた。
建築家たちは、新時代にふさわしい容れ物をつくることが自分たちの仕事、といくつものプロジェクトに参画した。窓の外の情報は限りなく流入し、建築表現の多様性に目を剥いている状態である。まわりに追いつけ、これが建築家たちの考えでもあったのだろう。他のアジア諸国の都市の摩天楼を写真で見て、この建築を自国にも欲しいと熱望していた。「伝統と現代の調和とは」、「歴史的都市と高層ビル街区の共存とは」、そういった論文が建築誌を埋めていた。彼らが欲していたのは、国家のシンボルだった。ハノイは首都である。首都は国家を代表する建築で飾られなくてはいけないのだった。
折からのアジアの好景気に支えられ、アセアン諸国からの投資で高層ビルは建ったが、実際目の当たりにしてみると、今度は商業資本のビルは国家の表徴たりえないと思われた。中心への意思がまたぞろ頭をもたげてくる。バディン広場の整備計画がこうして発表された★二五[図14]。
ホー・チ・ミンの家と博物館は、国家の記念空間として絶対のものとなっていたので、この計画ではその周辺の施設の整備に焦点があてられた。バディン会堂を現在の規模をはるかに上回るものに改築することが主な項目である。ここでもお約束のように、民族性の問題がでてくる。現在の四倍の規模の敷地には正方形平面の新国会議事堂が計画され、コロネードを備えた基壇の上に木造伝統建築の屋根のかたちを載せた姿となっている。
その一方で、都市保存の概念も輸入され、ヴェトナムのアイデンティティの拠り所としてのハノイの保存も提案されている。さらに、この動きは伝統的旧市街、伝統建築物のほかに、フランス植民地時代の建築・地区にも及ぶこととなった。各国の建築家の提言、さらに植民地時代の遺産を積極的に評価するシンガポール等の動きにならったものであろう。建設省建築研究所所長グエン・バ・ダンは、「ハノイのフランス植民地地区の保存」という論文を発表した★二六。このなかではバディン広場を採り上げ、「ホー・チ・ミン博物館とホー・チ・ミン廟の現代建築は歴史的遺産の一柱寺、大統領官邸地区のホー・チ・ミンの木造高床の家と近接し、これらすべてがモニュメンタルな空間を構成している。内外の訪問者が盛んに訪れる地区である」と述べられている。国が盛んに振興しようとしている観光産業への目配りも忘れてはいない。

14──新バディン会堂計画案 Kiên truc Viêt nam

14──新バディン会堂計画案
Kiên truc Viêt nam

ドイモイ以降は、世界各国から援助が降ってくるようになったことも大きな変化である。「かつて乳を飲ませてくれた牛が、もう今は乳を飲ませてくれないから」とかつての指導国旧ソ連のことを揶揄する言葉が飛び交うこの国に、今度は低開発国という看板をめがけて援助協力が殺到している。計画省等が窓口になり、各国のODA(政府開発援助)、国際機関の開発プログラムを受け入れている。およそ国内のあらゆる分野に国際協力の手はさしのべられているのだが、都市開発の面でも大変な数のプロジェクトがリストアップされている。首都の開発は重要項目で、工業地区整備を中心としたハノイ大都市圏の整備計画にたくさんの資金がつぎ込まれることになっている。これだけで援助項目をさばききれなかったのか、さらに大規模な首都圏計画も登場し、各国のODAを誘導して都市開発を行なう計画である。
ただ、各国の開発援助担当の事務所に行っても、この首都圏計画の全体像は見えてはこない。それももっともなことで、彼ら担当者にしてもその全体像については知らされてはいないのだ。夷狄を競わせるのは中華の基本的外交姿勢である。この国も「南の中華」を自ら標榜していた国だ。その伝統はこういうところにも生きている。
さて、このような状況下で立案されたハノイの首都計画には、まず建都一〇〇〇年の二〇一〇年を睨んだ「ハノイ二〇一〇計画」がある。さらにほどなくして「ハノイ二〇二〇計画」が提議された★二七。短期間のうちに計画が肥大化するのも、それを後押しする援助の手があるからだろう。
この計画のなかでは、政治中心地区として現市街地の西方に新都心が計画されている。これこそ求められていた国家の表徴となる地区のようである。とにかく面的に広げることばかりに目がいっていて、既存の市街地の再整備にはさほど関心がないかのようである。これらの地区には「保存」という言葉があてがわれているが、保存の実現の方策についてはさらなる具体的な考察が必要であろう★二八。不十分で劣化したインフラの再整備をするくらいなら、新地区をつくったほうが問題が少なく話が早いようだ。「シャツが小さすぎて着ることができない」。チャン・フンは、都市の状況をこう表現している★二九。
この動きのなか、バディン広場は「神」を奉る不可変な教条的空間となる。旧市街の三六通り地区、旧フランス人地区、郊外住区は言うに及ばず、ありとあらゆる都市の断片が動き続けるなかで、バディン広場だけは固定されたままとなる。都市の中心は、偉大なる指導者の記憶とともに存在し続けることとなった。揺れ動くこの国の政治のなかでも、ホー・チ・ミン思想を受け継ぐという中心点だけは決して変えないことと、このことはパラレルになっているのかもしれない。

〇〇〇〇年××××

モデルは、いつもここではないどこかにあり、考えられていたのはイメージを移植することである。植民地国家の時代にしろ国民国家の時代にしろ、このことは同じである。内的なナショナル化に外部からのイメージの移植を行なうこと。さらに、「ヴェトナミゼーション」とでも呼ぶべき力がかかってくる点は興味深い。首都空間が、この国のかたちを暴露しているのかもしれない。
いったい今日、国家を背負うことにどれほどの意味があるのか。しかし世紀末日本にいるわれわれの感傷の行き届かないところで、このことは追求され続けている。

政権の変化があれば、それだけ国家的デザインを召喚する契機もでてくる。激動の現代史をくぐってきた国の建築家ほど、この問いかけは強烈なのかもしれない。表象される対象としての国家がその支配意欲を露にしている限りは、国家の表象としての首都空間は依然求められているのだ。
国家が問われる一方で、都市は置き去りにされていく。国、党のコントロールの及ばないところへ市民生活は飛び去ろうとしており、この「首都空間」のみが都市のなかで遊離した空間になってしまう危険性も孕んでいるのだ。
実際には「この都市」には中心は存在していない。近隣農村との関係で成り立っている前近代的な構造と、個人企業やインターネット取引による個人間ネットワークにより、二重に離散した都市空間が出現している。そこでは、いまだなんらの集約も経験されないままだ。メディアが伝える都市像も虚しいだけである。
いや、正確には行政組織のみはツリー状の見事な構造をつくっている。市人民委員会を頂点に、各区・県から、通りごとの、まるで「隣り組」のような単位にまで、ヒエラルキカルな組織が入り込んでいる。政治都市としてのツリー構造のみが突出して、他の次元でのセミラティス構造とは相容れない様相、あるいは互いに無交通の状態になっている。
首都であるがゆえの、「この都市」の抱える問題は根深い。「この都市」の引き裂かれた身体は、こういうところに起因しているのではないか。
かつての交易時代に国家のコントロールで国際ネットワークから外れてしまった「この都市」は、いま、国際社会に組み込まれるように国家の誘導を受けている。

東南アジアには「ヌガラ」都市という概念がある。海上交易の基地としての都市(港市)が海域ネットワーク上に存在するというもので、ヒンター・ランド(後背地)を持つ都市とは様相を異にしている。ナショナル・キャピタルとしての多くの東南アジア都市も、この論理の延長上に発展してきた。そうして、それは今日のグローバルな都市間ネットワークにも開かれている。ネットワークに乗って、ひと、もの、かねが流れた。しかし、「この都市」にはそのような論理はない。農村建設から始めるのが、「この都市」の発展の最適解なのかもしれない。広域首都圏計画をそう読み替えれば、「この都市」にも発展の契機はあるだろう。
東南アジアでの「新首都計画」といえば、マレーシアの新都「プトラジャヤ」が現在進行中である ★三〇。世界最高の高さの《ペトロナス・タワー》が建つクアラルンプールは経済の中心として機能し、新空港、情報網の中心「サイバージャヤ」とともに次世代ネットワークを見据えた「マルチメディア・スーパーコリドー」で結ばれる。これらの大プロジェクトは、マハティールが標榜する「ワワサン二〇二〇」という計画に組み込まれている。大規模なインフラ整備を行ない、二〇二〇年までに先進国の仲間入りを目指すというものだ。
ハノイ、プトラジャヤ。かたや近隣諸国に追いつくため、かたや先進国へのステップアップ。九〇年代、アジアはまだまだ成長の夢を見つづけてきた。国をまとめあげるための大きな未来を首都が背負わされている。首都が政権のためのプロパガンダ空間であることには変わりがないようである。


★一──幸田露伴は、東京を「一国の首都」たらしむべく、一般市民に対しても「自覚なる哉、自覚なる哉」ととなえた。(幸田露伴『一国の首都』岩波文庫、一九九三)。
★二──南泰裕「国家的デザイン、という欲望の行方」(『20世紀建築研究』、INAX出版、一九九八)。
★三──加藤剛「政治的意味空間の変容過程」(坪内良博編著『〈総合的地域研究〉を求めて──東南アジア像を手がかりに』、京都大学学術出版会、一九九九、一六六頁)。
なお、このジャンルの研究として、加藤は、Peter. J. M. Nas, Jakarta, “City Full of Symbols: An Essay in Symbolic Ecology”, in Peter J. M. Nas, ed., Urban Symbolism, Studies in Human Society, Volume 8, Leiden, E. J. Brill 等の論文を紹介している。
★四──加藤、前掲論文。
★五──独立後の国家が植民地時代の統治用施設を利用したのは、財政的、人的資源の問題上遷都が困難な状況であり、また社会構造上植民地首都の存続が有利だったため、と考えるのは一般的であろう。このことを新都建設が流行した西アフリカの事例と比べると興味深い。
★六──加藤、前掲論文、一六七頁。
★七──国家の統治機関が置かれている場所を、ここではこう呼んだ。植民地期は総督府であり、現在は大統領、国会、共産党である。
★八──AOM Aix(エクサンプロヴァンス・フランス海外文書館)T.P.162-14, Projets des Dépences pour Travaux d’Assainisement, d’Embellissement, 1890.
★九──A. Koperdraat, “Functions of Villas in Hanoi’s French Quarter”, (University of Amsterdam 提出論文)。
★一〇──Ernest Hébrard, l’Urbanisme en Indochine, l’Urbanisme aux Colonies, La Charité-sur-Loire, 1935.
★一一──Ibid.
★一二──低所得者層への公的住宅供給として、ハノイのBanc des Sable、サイゴンのVillage des Paillotes、中間層向けに「廉価住宅局Office d’habitation economique」による小型住宅の分譲が行なわれていた。
★一三──ラジオ・サイゴンの放送や宣伝雑誌の発行、市内での広報館の設置、スローガンの掲示、さらにはジャンヌ・ダルク祭のマスゲームの導入などでフランスへの求心力を高めようとした。
★一四──仏領モロッコ総督のユベール・リヨーテ。都市計画を統治政策のなかで利用した。ザイネップ・セリックの論考を参照。
★一五──Amiral Decoux, A la Barre de l’Indochine, Librairie Plon, 1950, p.461.
★一六──anon, “Aménagement du Quartier du Gouvernement Général à Hanoi”, Indochine, No.131, pp.X-XI.
★一七──実際にこの文句を使ったのは、一九六六年七月一七日の演説。
★一八──Hgô Huy Quynh, “Nhó, và thu,c hiê.n lò,i Bác Hô da.y”, Kiên Trúc, 1990.1, pp.32-33.
★一九──-Doàn -Dú,c Thành, Tu,o,ng Nhó, Kiên Trúc Su, Nguyên Văn Ninh", Kiên Trúc, 1989.2, pp.37-39.
★二〇──E・エブラールが在地木造建築からの取材を通じて創案した「インドシナ様式」は、四〇年代にはヴェトナム木造建築の屋根とモダニズム風の躯体の組み合わせに変化し、「アンナン様式」と呼ばれていた。先述のヴェトナム民族(当時は「アンナン人」と呼ばれた)懐柔政策の一翼を担っており、フランスとインドシナの融合の象徴としてもてはやされた。当時育っていたヴェトナム人建築家にも影響を与えている。
★二一──ibid.
★二二──Nguyên Ngo.c Chân, “Qúa Trình Thêť Kê Lăng Chu Ti.ch Hô Chí Minh”, KiênTrúc, 1990.1 pp.13-23.
★二三──Dă.ng Thái Hoàng, Kiên Trúc Hà Nô.i Thê Ky XIX-Thê Ky XX, pp.108, 109.
★二四──Nguyên Tru,.c  Luyê.n, “Nhà Bao tàng Hô Chí Minh trên quang tru,o,ng Ba -Dình” Kiên Trúc, 1990.1. pp.9-12.
★二五──Nguyên Viê.t Chàu, “Chúng Tôi muôn du,o,.c dong gop phân dê xây du,.bg Thu dô Hà Nô.i”, Kiúc Trúc Viê.t Nam, 1997 Sô3, pp.12-14.
★二六──Nguyên Bá -Dang, “Vân d-ê bao tôn khu phô xây du,.ng tho,i Pháp o, Hà Nô.i”, Kiên Trúc Viê.t Nam, 1994, Sô1, pp.16-20.
★二七──Bô. Xây du,.ng, -Di.nh hu,o,ng Quy hoa.ch Tông thê Phát triên -Dô thi. Viê.t nam d-ên năm 2020, Nhà xuâť ban xây du,.ng, 1999. に政府決定事項が掲載されている。
★二八──既存市街地の保存については、ようやく実行主体がつくられる等の動きがでてきたが(旧市街の「三六通り地区」に対する「三六通り地区管理委員会」)、なおアクション・プラン等の詳細については検討が求められる。
★二九──Trân Hung, “Hà Nôi. trên ngu,õ,ng cua cua thê ky XXI”, Kiên Trúc Viê.t Nam, 1994 Sôl, pp.27-30.
★三〇──プトラジャヤは、マレーシアの初代首相に因んで命名された首都機能移転のための新都市。詳しくは以下を参照。宇高雄志「はるかなるサイバー未来都市へ」(村松伸監修『アジア建築研究──トランスアーキテクチャー/トランスアーバニズム』、INAX出版、一九九九、二二二─二二三頁)。「Putrajaya Holdings」(URL=http://www.pjholds.com.my)

>大田省一(オオタ・ショウイチ)

1966年生
東京大学生産技術研究所助手。建築史、アジア都市研究。

>『10+1』 No.19

特集=都市/建築クロニクル 1990-2000

>南泰裕(ミナミ・ヤスヒロ)

1967年 -
建築家。アトリエ・アンプレックス主宰、国士舘大学理工学部准教授。

>ザイネップ・セリック

建築学専攻。ニュージャージー工科大学助教授。

>村松伸(ムラマツシン)

1954年 -
建築史。東京大学生産技術研究所准教授、modern Asian Architecture Network(mAAN)主宰。