01
この小論は、秋本治に関する論考を軸として構成される。
02
秋本治と聞いて何者かパッと浮かんでこない人のために少し説明をしなくてはならないだろう。秋本治は漫画家である。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以後『こち亀』と表記)という漫画を一九七六年から『週刊少年ジャンプ』誌上で連載を続けており、現在までのコミックス刊行数は一二〇巻(二〇〇〇年七月現在)を数える(ちなみに世界で最も巻数の多い出版物としてギネスブックにも載っている)。『こち亀』は亀有公園前派出所の日常を描いたギャグ漫画であり、基本的には一話完結のショートストーリーが中心となっている。秋本治の漫画家としての特徴は、「リアルな書き込み」という点につきるだろう。秋本治以前にはギャグ漫画といえば、赤塚不二夫などに代表されるデフォルメされたキャラクターが常識的で、劇画的な画でありながらギャグ漫画というのは極めて斬新なスタイルであった。
03
『こち亀』には数多くの車やバイク、拳銃、飛行機、おもちゃ、プラモデル、建築物などのいわゆる「もの」が描かれるが、それは他の漫画のように単にキャラクターの余白に描かれた付属品や飾りではなく、むしろキャラクター以上に丁寧に描き込みがなされていて、『こち亀』における「もの」のリアリティの重要さを物語っている★一。秋本治は絵として描くのに直接関係のないディテールや背景までも調べ上げたうえで、それら「もの」を描き込む(秋本は『こち亀』を連載する前に『平和への弾痕』という九〇頁の作品を描き上げているが、それは拳銃から軍服まで徹底的に調べ尽くされていて、完成までに一年半もかかったという)。徹底した取材に裏付けられた「もの」をリアルな描線で描き込むという手法を何百話も積み重ねることによって、『こち亀』独自の世界が築き上げられてきた。
04
『こち亀』には形式美と言ってもよい、ある「型」ができ上がっている。
まず「もの」がストーリーを動かし出す。大抵は、主人公両津の趣味の一環として「もの」が登場し(例えばプラモデルなど)、その「もの」を知らないメインキャラクター(同僚の警官や上司など)に両津が「もの」の魅力を説明していく(読者に説明をしていることは明らかだろう)。そしてそこに新たな情報や出来事が加わり、「もの」をヴェンチャー的発想で金儲けにつなげられることを両津が発見する。そして、その「ヴェンチャー」は両津の大胆な発想と人間離れした行動力、またメインキャラクターの助力によって大成功を収めるが、最後に欲に目がくらんだ両津がやりすぎてしまい失敗してしまう。
このようなはっきりとした「型」を定めることによって、毎週のストーリーづくり(ネーム作成)を楽にしていくだけでなく、逆に漫画表現の幅を広げている点は見逃せない。例えば、六三巻の「想像力漫画の巻」では、両津が透明になってしまい、画面に一度も描かれることなくストーリーは進行する。そこに描かれるのは、他のキャラクターの透明な両津に対するアクションのみであり、読者は扉絵に描かれた表情パターンで不在の両津を補完しなくてはならない。両津の不在によって、かえって「型」を意識化し、読者に新しい視点で読ませることに成功している。ほかにもさまざまな試みがもたれ興味深いが、本筋からはずれるので本論ではこれ以上は触れない。
05
秋本治および『こち亀』が優れて東京リサイクル的であるとするのは、以下の二点による。
一、「東京」を漫画の舞台としてリサイクルしている。
二、ストーリーのなかで「東京」を建築的にリサイクルしている。
06
『こち亀』に限らず、「東京」を舞台としている漫画・映画・小説・写真は数多くある。それらは「東京」からある主題に基づいて情報を切り取り、それを別の媒体(フィルムなど)において転換・再構築し、新しい物語や価値を生もうとしている点で、全ての作品が「東京」をリサイクルしていると言ってもよい。しかし、その新しくつくられた「東京」がすでに流通しているイメージとしての「東京」の写像にすぎないのであれば、「東京」を新たなサイクルに乗せた(リサイクルした)とは言えないだろう。つまり、小津の『東京物語』は確かに映画としては名作だが、「東京」はあくまで、尾道との対比による「都会」としてのみ描かれており、優れたリサイクル例とは言えない★二。
『こち亀』で描かれる「東京」は、現実の「もの」や「出来事」を取材しているため、根底には「東京」の写像が見え隠れしているが、『こち亀』に一旦取り込まれた「もの」や「出来事」はつねにより極端な姿に転換されていく。その結果、現実の「東京」と『こち亀』の「東京」のあいだには明らかな時空のずれが生じてくるのである。
07
秋本治は東京で流行っているものをいち早く取り入れ、漫画のストーリー上で発明をしてしまう。その発明の多くは04において述べた「型」に沿ったかたちで行なわれる。つまり、秋本治の代理としての主人公両津がベンチャー的に「もの」や「出来事」を次々とリサイクルしていってしまう★三。そのリサイクルの発想は例えばこんな感じである。ポケットピカチュウ(一一〇巻四五頁)は、たまごっちのような小型画面のペット育成ゲームだが、おもしろいのは、万歩計と携帯ゲームをセットにすることによって、健康グッズの側面を併せもつことである。よりゲームを進ませるためには、より多く歩かなくてはならず、『こち亀』ではそれを受けて、一八禁女の子育成ゲームと万歩計をセットにしたものを発明する。スケベな男の性(ある意味不健康)を満足させるためにはより健康にならなくてはならないというナンセンスを生み、そこに笑いを起こす。また、携帯電話(一一〇巻一四五頁)が流行れば、小型化や多機能化していく現実に対して、逆に、巨大携帯電話や、どのような環境でも絶対に壊れず、しかも二〇秒しか会話できない「男」専用携帯電話を発明する。インターネット(一〇〇巻五頁)を学校が取り入れ始めた頃、『こち亀』では、超電脳化された小学校を出現させ、生徒のひとりがゲーム会社を世界中の友達と共に経営し、超過密スケジュールで生活している姿を描いている。普通ギャグ漫画では、キャラクターの過剰なリアクションやナンセンスな行動によって笑いを生むのが常道であるが、『こち亀』においては、キャラクターの表情による笑いもさることながら、現実社会で流行り始めている「出来事」や「もの」をしっかりと分析し、それを過剰に変形させて、笑いを生むことに成功している。
また、『こち亀』では、いま述べたような「もの」を主体としたサブカルチャー的な東京のみならず、ノスタルジー溢れる下町世界(五九巻「おばけ煙突が消えた日」、九七巻「浅草シネマパラダイス」など)をも取り上げ、その東京像に幅をもたせている。
08
「東京」を取材し、それをある物語の構図に落とし込む、という秋本治の一連のリサイクル作業は、建築家が敷地を取材し、そこからおもしろいものを発見し、それを実際の空間として落とし込むという作業とかなりの点で類似性を認めることができる。そのため、『こち亀』のなかにはいくつも建築的な創作として解釈できる提案や発想があり、ここではそのうち何例かを取り上げてみたい。
「電車のリサイクル」[図1]
東京ではすでに電車での通勤に一、二時間をかけるのは当たり前のことになっている。ひどい場合だと、関東近郊から何時間もかけて通勤する。東京に近づけば、満員すし詰め列車となるが、始発付近では空席も多い。その時間的・空間的な余白を利用し、通勤電車をリサイクルしてしまう。しかも最も大量のニーズがあるサラリーマンに的を絞り込み、通勤電車を麻雀教室車両、田んぼに向けてのゴルフ打ちっ放し車両、シネマ車両、屋台車両、銭湯車両、クリーニング車両、バー車両、理容室車両と名店街風に特別車両を連結させてしまう。加えて二四時間運行を実施し、スーパー車両やゲームセンター車両を加えることによって、走る生活都市を実現できる。
「溶岩モトクロス」[図2]
つい最近も三宅島や有珠山での活発な火山活動が起きたばかりで、日本が火山国である現実をあらためて突きつけられる。火山活動が盛んな地域では、危険と引き替えに温泉や豊かな自然を手にし、観光地として生計を立てているケースが多く見られるが、一度噴火が起きてしまうと被害から立ち直るには、多くの時間を要する。そこで秋本治(両津)が提案するのは、噴火によってできた厳しい自然環境をモトクロスのレース会場としてリサイクルしてしまうことである。時にスポーツや遊びでは周辺環境のマイナス要因によって、そのおもしろみを増すことがある。例えば突起物の少ないビル壁面は、フリークライミングの難解なフィールドとしても再評価できる。
「屋上ハウス」[図3]
バブル期に比べれば、半分近くの値段にはなっているが、いまだに東京の地価は高い。東京に一軒家を建てることなど普通に考えれば到底無理なのかもしれない。しかし、実は東京にはまだまだ使えるスペースがたくさんある。例えば、建物には必ず屋上があり東京中の屋上を集めれば、何十ヘクタールもの住宅地が未開発で残っている。しかも展望台の上に建物を設置すれば、三六〇度大パノラマが楽しめるうえに、日当たり良好な住宅を実現できる。
「改札発電」[図4]
最近では、ソーラーパネルも一般化して、家庭で電気を生産することが珍しくなくなっているようだ。風力発電や潮力発電も研究が進み、そのうち自然からクリーンにエネルギーを転換できるようになる日もくるだろう。だが、いま都市をひとつの自然として見てみれば、さまざまな物理現象が無関心のまま放って置かれてしまっている。例えば都心部に集まる人間の運動エネルギーである。毎朝、新宿や渋谷の改札を通り抜ける通勤者のエネルギーを電気エネルギーに転換すれば、莫大なエネルギーを得られるだろう。
「サファリパークビルディング」[図5]
世の中には、変わった動物を飼っている人が実はかなりいる。キリンやライオン、虎、ワニ、イグアナ、鮫、チンパンジー、猿、豚、馬……しかもペットを飼える集合住宅はかなり限られている。もしも、いかなるペットも飼うことができる集合住宅を作ったとするならば、それはそのまま動物園建築と言えるものになるだろう。周囲にはその特殊状況を支えるインフラ施設が整備されて、地域一帯が自立的なサファリパークとして成立する。
「隙間交番」[図6]
日本に建つ建物はすべて建築基準法に基づいて建てられる。すると必然的に隣棟間隔の規制が生じてきて、建物と建物のあいだには必ず隙間ができてしまう(いくつかある特例を認められれば、隣棟間隔をなくすこともできる)。狭い隙間は人の記憶や活動からは抹消され、ゴミ捨て場やネコの通り道としてしか使われていないのが現状である。しかし、壁一枚向こうにあるインフラを活用してしまえば、ウナギの寝床建築が一瞬にして成立してしまう。
ここでは、地価の高い銀座で路地を利用して派出所をつくる。
1──「ゴルフ電車」
出典=秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
54巻(集英社)148頁
2──「溶岩モトクロス」
出典=同、57巻、119頁
3──「屋上ハウス」
出典=同、97巻、186頁
4──「改札発電」 出典=同、72巻、177頁
5──「サファリパークビルディング」 出典=同、90巻、22頁
6──「隙間交番」 出典=同、63巻、138頁
09
これらの建築的リサイクル例は、ストーリー上では、下町の住人などの悩みに対して提案をする両津という前述の形式に従って描かれることが多く、それは建築家とクライアントとの対話と読み替えることも可能である。
実際にいくつかの『こち亀』リサイクル事例は建築フィールドにおいても同様のコンセプトや視点を参照できる。時間と空間の余白を融合していくという発想では、OMAの横浜でのプロジェクト「URBAN RING」[図7]が挙げられるし、災害による都市変化をそのまま利用して作品化していくものとして、宮本佳明の《芦屋川左岸公共堆積体》が参照できる。都市における屋上の意味と住居をつなげたものとしては、山本理顕の《GAZEBO》や《ROTUNDA》[図8]が浮かび上がる。都市の隙間に関する考察としては、アトリエ・ワンの《ミニ・ハウス》[図9]や鈴木了二の空隙の思考も参照可能だ。
また逆にアトリエ・ワンの「メイド・イン・トーキョー」で二九番のナンバーをつけられた、スーパーマーケットと自動車教習所との複合施設「スーパー・カー・スクール」[図10]が『こち亀』(九七巻一八五頁)のなかでも登場してくる点も興味深い[図11]。
7──レム・コールハース「URBAN RING」
出典=レム・コールハース『TN Probe vol.2 レム・コールハースのジェネリック・シティ』(TNプローブ/大林組、1995)
8──山本理顕《ROTUNDA》 筆者撮影
9──アトリエ・ワン《ミニハウス》 写真提供=アトリエ・ワン
10──Team Made in Tokyo「スーパー・カー・スクール」部分
出典=『磯崎新の革命遊戯』
(磯崎新監修、田中純編、TOTO出版、1996)271頁
11──秋本治「スーパー・カー・スクール」
出典=秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
97巻(集英社)185頁
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秋本治の東京をリサイクルしていく過程で興味深いのは、ノスタルジーとの距離の取り方である。秋本治自身亀有の出身であり、下町の暮らしに相当な愛着を感じているはずであるが、秋本が東京をノスタルジックに描くのは、両津の(秋本治自らの)少年時代の話に限っているようだ(五九巻「おばけ煙突が消えた日」、九七巻「浅草シネマパラダイス」など)。現在進行形のかたちで展開される話のなかでは、東京の下町は時代遅れで古くさいものであるという視点を持ち込む。それを、テクノロジーと融合させたり(つまりは下町のハイテク化)、経済的合理性をもたせたかたちで描いていくことで逆に下町の人間や空間が持つおもしろさを引き出そうとしている。老人の雇用問題(一〇五巻「シルバー雇用おまかせ」など)はシリアスな問題なのだが、そこでも秋本治はさまざまな提案をし、そのなかで健康的な笑いを生む。時代や社会の流れに対して前向きで肯定的な姿勢をもって取り組み、そのうえで登場人物が生き生きとするような提案をしていく秋本治の設計姿勢(もはや秋本治が優れた東京リサイクラーであり、優れた建築家たりえるということは誰もが了解するに違いない)には、ただ笑い転げていてはいけない鋭い問題意識がある。
11
秋本治が現代日本のテクノロジーがもつ娯楽性や快適さを好んでいることは、漫画を読めば誰にも明らかである。ノスタルジー、テクノロジーのどちらも愛して止まず、それを積極的に融合させていく前向きな姿勢を評価するにあたって、ここでは、坂口安吾を引用する。以下は、ブルーノ・タウトが論文「日本文化私観」において桂離宮を絶賛し自らの伝統から離れ、堕落していく日本人を批判したことを受けて、坂口が同名の論文「日本文化私観」において反論を行ない、実質の美に関して述べたくだりである。
見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、ほんとうの物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、
詮 ずるところ、あってもなくても構わない代物 である。法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野 の静かな落日はなくなったが、累々 たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃 のために晴れた日も曇り月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。見たまえ、空には飛行機がとび海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々 と駈 けて行く。我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得得としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を羞 ることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである★四。
ここで示されるのは、現実をあるがままに受容し、それを評価するまなざしである。戦後の進歩主義的思想のなかでこれを示した坂口の論調はやや攻撃的であるが、現実から実質の美を発見するその姿勢は、秋本治の基本姿勢と一致する★五。
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駅の売店の前ににうず高く積まれた『週刊少年ジャンプ』は毎週飛ぶように売れ、社会のなかへと流通していく。それは二四年前から休みなく続けられた運動である。もはや都市のいたるところで『こち亀』化が進んでしまっている。
週刊誌をめくっていると『こち亀』のなかでしかありえないような事件に次々と遭遇する。『こち亀』が「東京」を漫画のなかでリサイクルするだけでなく、「東京」もまた『こち亀』をリサイクルし始めている。例えば、ナムコ直営のゲームセンターに一時期巨大「鉄拳」(人気格闘ゲーム)があった。自分の胸まであるレバーを握り、ボタンを足で踏みつける。操るキャラクターとゲームをする本人との運動量の差を埋め、単なるコンピュータ・ゲームからスポーツへと転換させるその豊かな発想とゲームをしている姿の滑稽さが合わさってすごく『こち亀』的だ。また例えば、お経をサンバのリズムで読む和尚が現われたという現実の事件も、本来ならば『こち亀』のなかで起きるべきストーリーのはずである(秋本治はそれを受けて、へヴィ・メタ和尚を創出して、現実と対決していく)。前述の「メイド・イン・トーキョー」で取り上げている建物「パチンコカテドラル」[図12]は、パチンコ屋とサラ金による怖い社会の縮図(パチンコして借金して……の繰り返し)を示していてなおかつその姿が大聖堂のファサードのように見えるという、効率的かつわかりやすすぎるくらい単純なその図式は、まったくもって『こち亀』的である。
もはや連歌のように現実と『こち亀』がリンクし、エスカレートしていく。
『こち亀』が「東京」を挑発し、「東京」が『こち亀』を挑発する。
12──Team Made in Tokyo「パチンコカテドラル」
出典=『磯崎新の革命遊戯』260頁
13
「そもそも、リサイクルされるべきなのは、東京なのか建築なのか?」。
ここで問いたいのは、「東京」と「建築」の力学である。これが「東京」でなく「パリ」であったら答えは簡単である。「パリ」はその始まりから建築家によって「建築」されてきたのである。すなわち「パリ」をひとつの巨大な建築に置き換えることが可能であり、冒頭のようなかたちでの問いかけは矛盾をはらんでいて成り立たない。ところが「東京」はそのようにできていない。かつて「江戸」はそのようにできていた。「江戸」の建築物は大工の棟梁によってつくられ、大工の棟梁は長い歴史的な洗練のなかで、安定した職業哲学を十分もちえていた。そのアイデンティティに従ってつくられた「江戸」はたしかに「建築」の集合と呼べる。しかし現在の「東京」は一体誰がどのようなアイデンティティに従ってつくっているのか。ひょっとしたら資本主義のシステムが半ば自動的に作り上げているのかもしれない。あるいは、ゼネコンの施工技術の合理性によってつくられているとも言える。建築家も微力ながらある程度は参加しているのかもしれない。大工もまた細々とではあるが伝統の技を披露しているだろう。外人建築家もその腕を振るっている……もはや誰がどのようにつくっているかなど分析するのも不可能なくらい混乱した状況にある。
レム・コールハースは『ジェネリック・シティ』のなかで東京について以下のように述べている。
……暫定的な適応と近代化の都市。西洋では、すべてが共時的に近代化される。ところが東京では、まだ消えていないすべてのものが、まさにもとのままに残存していた。切迫した必要性に対し、最低限に、しかし暴力的に適合しつつ。重要な意味で、東京の魅力の根拠は、この都市が間(=あいだ)にあることだった。たっぷりとあるモダニズムの口当たりのよさと、東京の「典型的な」部分にある、生気あふれて親密なほとんど中世的な雰囲気の共存──その雰囲気、真正性(=オーセンティシティ)のその英雄的な剰余こそは、全く不毛な容器にさえ、「命」を吹き込むことができそうに見えた。東京は、多数的で共時的なアイデンティティの、ストップモーションだった……★六。
西洋において都市とは「建築」的意志という単一のアイデンティティで構成されたものにほかならない(「建築」に対する活発な議論が社会全体でなされるのは、「建築」への議論がそのまま「都市」の生活にリアルにフィードバックしてくることがわかっているからである)。しかし、東京では「建築」は「東京」を形成する多数のアイデンティティのなかのひとつにすぎないのである。「東京」は「都市」ではなく、「ある状況」として理解するべきものなのだろう。
「リサイクルされるべきなのは、東京なのか建築なのか?」。
「リサイクルされるべきなのは、あきらかに建築である」。
社会のサイクルからはずれ、不要物として投棄されかねないのは「東京」ではなく「建築」なのである。「東京リサイクル」とは、経済成長が停滞し活力を失っている都市「東京」を再構築する試みではなく、「東京」という「状況」に参加することができない「建築」をリサイクルという手法を用いて「東京」のなかに組み込んでしまうためのプログラムなのである。「東京」はいま、社会的には大きな転換期にある。既存のシステムが破綻し始め、新しい秩序を誰もが模索している。このような状況こそ建築家の出番のはずなのに、議論ばかりを重ねていく。いくら「建築」で議論を繰り広げても、ちっとも「東京」は変わらない。
「東京をリサイクルし続けろ」。
このシンプルな一文は「建築」を社会と関わらせる重要なプログラムである。この文章にはイデオロギーがない。運動しかない。運動とは何か、体で思考することである。運度とは何か。目に見えるものである。停滞した「東京」に実質に基づいたベクトル運動を起こすことができれば、それがデザインでなくて一体何であろうか。
「東京を秋本治のようにリサイクルし続けろ」。
註
★一──「もの」をリアルに描き込むことによって漫画としての魅力を得ている例として、手塚治虫の『ブラックジャック』が挙げられる。医学博士でもある手塚の経験や知識に基づく、リアルな描写と専門的な用語が、『ブラックジャック』の世界にリアリティを与えキャラクターに命を吹き込んでいく。
★二──優れた東京(都市)リサイクル作品として、映画では押井守の一連の作品、写真ではホンマタカシの『TOKYO SUBURBIA』、都築響一の『TOKYO STYLE』、荒木経惟の『東京は秋』、小説では村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、村上龍の『五分後の世界』を挙げておく。
★三──両津は発想の奇抜さと大胆な決断力、圧倒的な行動力を兼ね備えたキャラクターであり、アイディア・決断力・行動力がないとされる最低の政治家を抱える日本においては、『こち亀』をヒーロー漫画の図式で見ることもできる。
★四──坂口安吾「日本文化私観」『堕落論』(角川文庫、一九五七)三六─三七頁。
★五──進歩主義的な思想は、いまも根強く日本に残っており、建築もその例外ではない。モダニズムを超える新しい思想を誰もが知らず知らずのうちに追い求めてしまっている(昨今の「スーパーフラット」などもそのよい例だろう)。歴史が進歩的にすすむという発想自体が大嘘なわけだから、われわれがモダニズムを超える必要など最初から存在しない。私感だが、日本におけるモダニズムとは歴史的カテゴライズを輸入したものにすぎず、社会とリンクしたかたちでの真の様式とはなりえなかった。むしろモダニズムという近代建築様式よりも、近代化(モダニゼーション)を問題視したほうが生産的だろう。日本近代において、モダニゼーションを含んだ建築運動は、メタボリズムや最小限住居研究などに見られるのではないだろうか。
★六──レム・コールハース『TN Probe vol.2 レム・コールハースのジェネリック・シティ』(TNプローブ/大林組、一九九五)二五頁。
参考文献
秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』一─一二〇巻(集英社、一九七七─)。
『磯崎新の革命遊戯』(磯崎新監修、田中純編、TOTO出版、一九九六)。
四方田犬彦『漫画原論』(筑摩書房、一九九四)。