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魚座の建築家、フランク・ゲーリー──路上から転がり続けること | 五十嵐太郎
Pices Architect, Frank Gehry: From the Road, Still Rolling | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール, 1998年12月10日発行) pp.243-253

地震とディコンストラクション

一九九五年一月一七日未明、阪神地方をマグニチュード七・二の直下型地震が襲った。
筆者は当時、エディフィカーレの展覧会の準備に忙しく、その三週間後に神戸の街を歩く機会を得た。大阪を過ぎ神戸に近づくにつれて、雨漏りを防ぐ青いビニールシートをかけた屋根が増えるのが見え、電車の窓からも被害の様子が伝わってきた[図1]。そして数日間、関西に滞在し、神戸のメリケンパークの近くに来たおり、ある建物のことが気になった。一九八八年にMoMAが開催した《ディコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー》展のカタログで、トップバッターを飾った建築家が設計した作品である★一。いびつに傾き、歪んだデザインを特徴とするディコンストラクションに分類されたアメリカの建築家による商業施設は、はたして無事だったのだろうか。そう思って現場に訪れたのである。もちろん、営業をしているわけはないのだが、予想に反してというべきか、建物はちゃんと建っており、倒壊を免れていた。
その建物とは、フランク・ゲーリーの《フィッシュダンス》(一九八七)である[図2]。
ディコンストラクションと称される建築は、すでにその頃、飽きられようとしていたが、現実に破壊された都市の風景を目の前にして、ディコンストラクションの無意味さを批判する言説がいっぱい出てくるだろうと、そこで直観的に思った。後日、ディコンストラクションの息の根をとめようとする言説が、案の定、建築雑誌をにぎわせた。しかし、脱構築的な思想や地震をメタファーにしたディコンストラクションが、震災によって本当に批判されるべきなのか? 震災以前によくあるディコンストラクションへの批判として、それがリテラルに建物を傾けたり、歪めているというのがあった。これの是非は問わないにしても、地震が起きたから倒壊したようなデザインはけしからんというのも、あまりにリテラルな批判ではないか(逆に地震がなければ、許されるのか?)。むろん、ディコンストラクションの社会性の欠如は批判できるだろうが、地震を関係させる必要はないはずだ。そして何よりも問題なのは、ディコンストラクションを悪玉にすることによって、震災そのものについて思考することを回避してしまうことではないか。
さらに震災によるディコンストラクション批判は、まるで「日本」の阪神大震災が「世界」建築の流れを変えるかのような印象をあたえる(議論の対象を日本に限定していることはほとんどない)。ゆえに阪神大震災の重要性を強調することによって、結果的に「日本」を特殊化する言説になっていよう。しかし、言うまでもなく、今でも震災は日本以外の国でも発生しており、被害の規模も阪神大震災のみが突出しているわけではない。例えば、同じ一九九五年の五月二八日にサハリン北部を襲った大地震が、ネフチェゴルスクの町を壊滅させ、二〇〇〇人以上もの死者が出たことはあまり知られていない。よその国の地震は無視されて、日本の震災体験だけが雄弁に語られる社会的な構造は、意識しておくべきだろう。かつて上野俊哉は、大澤真幸によるオウムと震災論が日本しか見ていない閉じた議論であることを批判したが、同じことが建築をめぐる言説にもあてはまるだろう★二。また日本の過去を考えても、こうした議論は関東大震災や戦災のことを忘却している。
ゲーリーはやはり地震の多いロサンゼルスを拠点とする建築家である。それゆえ、ある評者はロサンゼルスのそうした地理的な環境が激しい動きを伴う作風に影響をあたえ、彼の建築は地震をモデルとして採用していると指摘していた★三。しかし、こうした早急な判断は慎むべきだろう。ゲーリー自身、熟考のすえにデザインを進めているのに、単純な思いつきで設計を行なうとしばしば誤解されていることを嘆いているのだから(筆者の知る限り、彼が地震を意識していると述べたことはない)。ロサンゼルスで地震があった翌日、ニューヨークからのレポーターが、彼にLAの街が自分の作品に似てしまって悲しくないかと質問をしたことがあるらしい★四。その時、彼はおそらく質問者への皮肉を込めてだろうが、神がついに私の方法で考えるようになったから嬉しいと答えている(日本では考えられない返答であるが)。
ちなみに、ゲーリーはディコンストラクションの建築家として括られることに違和感を持っている。確かに、他のピーター・アイゼンマン、ダニエル・リベスキンド、ザハ・ハディドらが、魅力的なドローイングを発表しつつ建築理論を語るのに比べれば、ゲーリーは著作らしい著作もなく、建築の実践において威力を発する対照的な存在といえよう。展覧会で紹介されたのは、キュレーションに参加したマーク・ウィグリーの思惑というよりは、芸術家のフランク・ステラとマイケル・ハウザー、そしてゲーリーの作品から着想を得たフィリップ・ジョンソンの覚えが良かったことに起因するのかもしれない。

1──震災風景 1995 筆者撮影

1──震災風景 1995 筆者撮影

2──《フィッシュダンス》1987 筆者撮影

2──《フィッシュダンス》1987 筆者撮影

魚の記憶

前置きが長くなってしまったが、神戸の《フィッシュダンス》とは文字通り、高さ二二メートルにも及ぶはねる鯉の巨大なオブジェと蛇を抽象化したスパイラルの塔をもつ風変わりなレストランである★五。塔やその脇のエントランスは歪んだ形態になっているものの、作品を特徴づける魚はディコンストラクティヴィストが好まない具象的な形態だ。ウォーターフロントの敷地が魚のモチーフをうながしたのだろうか。ただし、一九八〇年代以降、ゲーリーはあたかも作品への署名であるかのように、しばしば魚を用いていた。例えば、レオ・キャステリ画廊に出品したガラスの魚と赤い蛇のオブジェ(一九八三)、レベッカズ・レストランやフォーマイカ社製の魚のランプ[図3]、一九八六年の回顧展で展示された魚の家やガラスの魚の彫刻、チャット・デイ・ハンプトン・ドライヴの仮設オフィスにおける魚のかたちをした会議室(一九八八)、そしてビラ・オリンピカ・ホテルの中庭の魚の彫刻(一九九二)などがそうである。彼は日常的なオブジェを巨大な彫刻に変えるクレス・オルデンバーグと親交があり、チャット・デイのオフィスで双眼鏡のかたちをしたエントランス・ホールをコラボレーションにより実現させたように、魚の使用は芸術家の影響も考えられる[図4]。
でも、なぜ魚なのか? これについてゲーリーは後からやや冗談めいた説明をしている。「魚はすべての過去への参照に対するジョークだった。誰もが昔の古典主義的な建築から引用していたので、僕は人類よりも五億年古いものを引用することにしたんだ。それはまた字義通りに動物の身体に言及することによる、古典主義建築のアンソロポセントリズム(人間中心主義)への批判なのです」、と★六。また「動物のかたちへの憧れや骨格のイメージから、原始の建築のはじまりが来たのである」とも言っている★七。これらの発言を真剣に受けとめる必要はないにしても、彼がマイケル・グレイブスをはじめとする過去への回帰を志向した当時のアメリカのポストモダン建築に怒りさえ覚えたのは本当だろう。つまり、ゲーリーは確かに八〇年代に脚光をあびたとはいえ、ディコンストラクションや歴史主義的なポストモダンとは違う立場にあったのである。
魚にも関連するゲーリーの生い立ちについて触れておこう。一九二九年の二月二八日、カナダのトロントで彼はユダヤ系の家庭に生まれた(本人も奇妙な符合を認めているように、魚座である!)。ゆえにチャールズ・ジェンクスは、魚の建築に絡めて、鯉のすり身をだんご状にしたユダヤ料理を子供の頃の彼がよく食べていたことを指摘している★八。実際、ゲーリー自身も、毎週木曜日に祖母とユダヤ人の市場に行って生きた鯉を買ってくると、翌日に調理してしまうまで、浴槽に入れて一日中遊んでいたと回想している★九。そして愛する祖母との思い出が刷り込まれた鯉については、かたちや動きに魅せられたことを告白しており、彼の造形感覚の原体験がうかがえるだろう。また彼は水泳が得意で、船遊びもやる水に関わりの深い人間だと述べ、魚のイメージは自分を力強くさせる、「完全性のシンボル」だと位置づけている。こうして魚を守護神のようにみなしていることは、以下の発言からも読みとれるはずだ。

何かを描いていて、デザインが終わらないときはいつも、ある記号として魚を描きます。(…中略…)それは気を落ちつかせるというよりも、ただのつまらない建物以上のものをつくりたいという意志表示としてです。それをもっと美しくしたいのです★一〇。


建築と人生について考えごとにふけりたいとき、僕はいつも鯉の絵を眺めます★一一。


いずれにしろ、建築における魚のオブジェの使用は機能的に説明しうるものではないし、批評的な建築論で飾りたてようにも無理があるだろう。やはり個人的な思い出、あるいは図面上の記号として描かれていた魚が現実化したものと考えたほうがいい。むろん、魚をめぐるさまざまなシンボリズム(キリスト教の象徴?)や、精神分析の誘惑(ファルスの象徴?)にもかられようが、ここではやめておこう。
さて、少年時代のゲーリーは、土地柄のせいかアイスホッケーに夢中になり、ギターの練習にも励んでいたらしい。母は彼を美術館によく連れていったという(後に彼が美術に造詣が深い建築家となるのは、こうした教育と関係するのだろうか?)。かつてゲーリーはアナウンサーや技師になりたかったこともあったようだが、父はサイドビジネスとしてヤナギ細工の家具をポーランドから輸入し、トロントに家具工場を持っていたから、まったくデザインと無関係の家庭環境ではなかった。そして一六歳の時、偶然、彼はトロント大学である建築家による曲げ細工の椅子の講義を聴いて、いたく感銘を受けたと言っている(後にその人はアアルトであったことが判明する)。

3──フォーマイカ社製の魚のランプ 1983─86 El Croquis 74/75, El Croquis, 1995

3──フォーマイカ社製の魚のランプ 1983─86
El Croquis 74/75, El Croquis, 1995

4──チャット・デイのオフィス URL=http://www.kulturnet.dk/gldok/calif/buildoth/ graph/chiat1.jpg

4──チャット・デイのオフィス
URL=http://www.kulturnet.dk/gldok/calif/buildoth/
graph/chiat1.jpg

第一期──一九六〇年代/ダーティ・リアリズム

ほぼ七〇歳にもなろうとしている彼の年齢から言えば、六〇年代に活躍したラディカリズムの世代であるロバート・ヴェンチューリ(一九二五年生まれ)、ハンス・ホライン(一九三四年生まれ)、アーキグラムのメンバーたち(一九二七─三七年生まれ)とほぼ同じか、それよりも年上である。にもかかわらず、ゲーリーが一般に認知されるのは明らかに彼らの後であり、日本の建築メディアにおいては、彼の自邸(一九七八)が発表されるまではほとんど注目されておらず、八〇年代になってようやく「西にフランク・ゲーリーあり」と伝えられるようになった★一二。そして彗星のごとく登場した英雄をどう評価したらよいか、日本の若手建築家もとまどっていた様子が当時の雑誌記事からうかがえる★一三。
なるほど、ゲーリーは雄弁な建築論を書いていないし(将来的にも書かないであろう)、インタビューをみても刺激的な言葉を連発するタイプの建築家ではない。そうした意味では、過激な形態を除けば、ジャーナリズムにとって地味な存在である。彼は建築雑誌のために目新しい言説をひねり出したり、雑誌や講演会のためにドローイングを描くことは興味がないという★一四。この発言の前半はアイゼンマン、そして後半はアーキグラムやアルド・ロッシのような建築家への批判として読めるだろう。ゲーリーは奇抜な外観から作家性ばかり注目される傾向にあるが、非常にプラグマティックな側面をもちあわせており、いかに構想を現実化させるかを常に考えている。つまり、実際の建物よりもドローイングのほうが魅力的だったり、実現化を意図していないデザインで有名になる建築家とは違う。彼の場合、緻密に描かれた有名なドローイングがほとんど存在しないことが、なによりの証左だろう。ゆえに、ケネス・フランプトンがゲーリーは出来損ないの芸術であり、建築ではないといって片づけていることは、彼にとって心外であり、こうした評価に不満を抱いている。そして結果的に、ラディカリズムの建築家が実際の建設活動を開始し、八〇年代以降に失速したの対し、ゲーリーは相変わらず精力的な設計活動を続けている。五年くらいで消費されるアメリカ建築界のスターシステムのサイクルからも逃れるかのように、遅咲きのアヴァンギャルドは、ひとりで九〇年代までを駆け抜けているのだ。
しかし、七〇年代の終わりに自邸を建設するまで、ゲーリーは何もしていなかったわけではない。そこで本稿はラディカリズムに隠れて、あまり知られていない若き日のゲーリーの軌跡をまずたどることにしよう。一九四七年に家族がカナダからロサンゼルスに移住し、彼は一九
四九年から五一年まで南カリフォルニア大学で建築と芸術を学び、そこで日本帰りのGIの先生たちから日本建築についての知識を得ている。彼はトラックの運転手をしながら、大学の夜間部に通ったというエピソードが、日本で初めて紹介された頃に散見されたが、逆に最近はそうした記述がない(安藤忠雄のような叩き上げの人物像が強調されたのか?)★一五。卒業後、彼はロサンゼルスの設計事務所で働き、一九五六年から二年間、ハーバード大学で都市計画を専攻した。そしてパリのアンドレ・ルモンデなど、いくつかの事務所勤務を経て、一九六二年にカリフォルニアで建築家として独立する。
ゲーリーがロサンゼルスに来た頃、街はちょうど戦後の急成長を体験しており、非常に活気があった。「何もかもがすばやく起こっており、そこの風潮や発展のエネルギーのために、永続的な材料で建設する必要がなかった。そこは戦後のファースト・フード文化が最もよく表現された場所だった。(…中略…)われわれは敏速に反応することができた。(…中略…)ロサンゼルスは一種の白いキャンバス、すなわち空白だった」と彼は回想している★一六。しかし、カリフォルニアの建築職人はかなり質が悪かったらしく、低予算で仕事を始めたゲーリーは、施工やディテールの仕上がりに大きな不満を抱くことになる。だが、興味深いのは、彼がそれを現実としてあるがままに受け入れたことである。つまり、ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズのように、ジャンクをアートに変える芸術家の姿勢に共感し、精度のいい「美しい」建築を目標にしなくなったのだ★一七。ヴェンチューリが論理によって到達したことを、ゲーリーは肌で感じて実践したのではないか。
都市の汚れた現実を反映する「ダーティ・リアリズム」の建築家、あるいは「都市の輝きがはらむ醜悪な美学を建築のリリシズムに綴ってきた掃除屋─詩人」として、リアンヌ・ルフェーヴルはゲーリーの名をあげているが、こうした環境から彼の態度は形成されていった★一八。例えば、騒々しい交差点に位置する初期の《ダンツィガー・スタジオ》(一九六四)は、外壁の色がうす汚れた土地にあうよう配慮されている[図5]。レイナー・バンハムによれば、この建物は単にミニマルな表現をとったのではなく、メルローズ通り沿いに多い立方体の商業施設を参照しており、木造枠組構造や、車の交通による汚れを吸収する粗いスタッコ仕上げの表面などが同じ方法でつくられている★一九。なお、ゲーリーは形態はカーン、窓はル・コルビュジエ、灰色はラインハル
トから影響を受けたとも語っている。また一九
六九年から制作されたイージー・エッジの家具は、安価な段ボールを材料に選んでいる[図6]。段ボールで作った敷地模型を眺めながら、これを思いついたらしいが、何気なく見過ごしてしまう身のまわりの素材に注目することも、彼ならではの発想である。
一九七〇年代に設計された《サンタモニカ・プレイスのショッピングセンター》では、駐車場側の青い金網のファサードの上に白い金網でグラフィックな文字をとりつけた[図7]。二重の金網越しに背後の駐車場が見え隠れしつつ、店名を宣伝する巨大なスクリーン。ここにポップ・アートの影響を指摘することもできよう。だが、むしろ重要なのはスキャンダルにもなった金網の使用である。《ワグナー邸》(一九七八)や《カブリロ水族館》(一九七九)、そして自邸など、一九七〇年代の後半に彼は金網を好んでよく用い、一時はゲーリーの代名詞にもなっていたほどだ(仕事を依頼された際、ただし金網は使わないという条件を課せられたことがあった)。都市において金網は防犯の意味も込めて日常的に使われるものだが、普通はネガティヴな属性を与えられており、建築家がデザインの要にすることはない。しかし、ゲーリーはこう言う。「金網のフェンスや段ボールのように、人々が拒絶するような素材に興味をそそられるのである。現実には、金網のような素材が、きわめて多量に用いられていても、多くの人々がこれを嫌っている」、と★二〇。だからこそ、彼は無意識下に抑圧された金網を顕在化させる。都市の現実に目ざませるショック療法のように。こうした彼の姿勢は、まさにカリフォルニアの路上から生まれたのだ。

5──《ダンツィガー・スタジオ》1964 R. Banham, Los Angeles, 1990

5──《ダンツィガー・スタジオ》1964
R. Banham, Los Angeles, 1990

6──車を支えるイージー・エッジ、1972 100 Masterpieces, Vitra Design Museum, 1996

6──車を支えるイージー・エッジ、1972
100 Masterpieces, Vitra Design Museum, 1996


7──《サンタモニカ・プレイスのショッピングセンター》1972/781980 El Croquis 74/75.

7──《サンタモニカ・プレイスのショッピングセンター》1972/781980
El Croquis 74/75.

第二期──一九七〇年代/空間の炸裂

初期の活動におけるゲーリーの重要作は、《ロン・デイヴィスのスタジオ》(一九七二)だろう[図8]。
 《オニールの納屋》(一九六八)もパースペクティヴな錯視が起きるよう屋根を傾斜させていたが、今度は内部空間も歪める操作を試みたのである。ともに外観は亜鉛の波形鉄板を用い、チープな印象をあたえる点は、《ダンツィガー・スタジオ》と共通する。だが、平面の構成において、ダンツィガーのスタジオが単純な矩形の組み合わせであり、これに直交または平行して部屋や階段が設置されているのに対し、デイヴィスのそれでは全体が歪んだ台形になっており、建物の外部に置かれた仮想の消失点に向かって部屋や階段の輪郭が決まっている。ただし、彼は自律的な幾何学に閉じこもり、外界との関係性を否定しているのではない。方角によって海や山を望める場所の特性に配慮しつつ窓を不規則に配したり、丘の斜面に平行して屋根を傾けるなどの工夫を行なっているからだ。
ゲーリーは美術界と深い関係をもち、一九六五年以降、ロサンゼルス郡美術館の展示構成を何度も担当したり、MoCAの仮施設としてテンポラリー・コンテンポラリー(一九八三)の空間を設計し、多くの芸術家を友人に持っているが、施主のデイヴィスは画家だった。他にも彼は芸術家のスタジオや映画関係者の住宅を手がけており(ダンツィガーの施主はグラフィック・デザイナー)、建築的な冒険を許すクライアントには恵まれていたと言えるだろう。特にデイヴィスは、パースペクティヴによる物体の表現を意図的に行なう作家であり、それがパースペクティヴを過剰に利用した建築の設計につながっている[図9]。つまり、その建物の壁にかけられたロン・デイヴィスの作品をそのまま三次元化したように見えるのだ。ゲーリーによれば、彼は描くことはできても、実際のモノとして作る術を知らないから住宅を通して教えたという。だが、デイヴィスはこれを自分でなしとげたと考えているようで、役割分担を明確に定義しにくい二人のコラボレーションになっている。
そしてゲーリーを世に知らしめたのが、前述したように、一九七八年に第一段階が完成した自邸である[図10]。しかし、サンタモニカの住宅街において既存の建物を増改築しただけの作品が、なぜそれほどまでに衝撃的だったのか? 建設の経緯と造形はこうだ。ゲーリー夫人が築六〇年のいたって凡庸な二階建ての住宅を購入し、これをバリケードでとり囲むように、ゲーリーは安価な材料で構築物をつぎたしていった。不安定な金網と波形鉄板によって外界を遮断する正面のファサード。エントランスにおいてコンクリートの階段の上に落ちつきが悪くのっかっている木製の踊り場。隅部や側面から斜めにとびだす、荒削りの角材とガラスによるフレーム。統一感のないさまざまな開口部。台所のアスファルトの床。かつての外壁を内壁に変える三方向に包み込む増築。その結果、中産階級の象徴とでもいうべき普通の住宅は、外部に対して攻撃的な容貌に変身し、いまだ建設を終えていない、あるいは解体中であるような印象をあたえた。静かな住宅地のまわりの住人からは、当然、反感を買うことになる。
あるヴィデオはディコンストラクションを箸工場が爆発したようなデザインだと形容していたが、第二段階の増築計画(一九七九)は、散乱した木材の一瞬をとらえた構築物が提案されており、まさにその通りになっている(模型も割箸で作成できるのではないか?)[図11]。あるいは、川俣正のゲリラ的な構築物を想起させよう[図12]。実現しなかった一九七八年の《ファミリアン邸》や《ワグナー邸》は、やはり金網、波形鉄板、木材を使用した同傾向のデザインになっており、ディコンストラクション風とされる表現は、この頃に完成したといってよい[図13]。MoMAの《ディコンストラクション》展のカタログに収録されたのも、自邸とファミリアン邸であるが、新築よりも増改築の自邸において彼の手法が最もダイナミックに表現されたところに、既存の環境を引き受けながら設計を行なうリアリストの態度がうかがえる。余談であるが、自邸の写真を見ると、ファイン・アート系の絵画と同時に(等身大?)ゲーリー人形や『スターウォーズ』のインペリアル・ウォーカーの模型(子供の趣味か?)が置いてあって、その共存も興味深い。
ところで、批評家のフレドリック・ジェイムソンは、一九七三年頃に変質した後期資本主義とポストモダニズムの文化を横断的に分析した書物において、建築の分野ではとりわけゲーリーの自邸に注目している。彼によれば、「建築の領域こそが、最も劇的に美的な生産物の変更を可視化する」のであり、例えば、ディヴェロッパー型建築家のジョン・ポートマンが設計したロサンゼルスの《ボナヴェンチャー・ホテル》をあげて、エリート型のモダニズムに対抗するポピュリズム的な性格や、都市のミニチュアを思わせる総合的な空間をその特徴としている[図14]。他にも、外部を反射しつつ存在感をなくしてしまう巨大なガラスや、新しい運動性を象徴するエスカレーターやエレヴェーターの提示などを指摘しているが、彼はこれらに旧来の空間概念ではとらえきれない「ハイパースペース」の徴候を認めている。そして以下のように、建築を世界システムのアレゴリーとして読む★二一。

ついにポストモダンのハイパースペースは、個人の身体の容量を超越することになった。つまり、自己を位置づけること、知覚によって身近な環境を組織化すること、そして地図化できる外部の世界に場所の認知地図をつくることを困難にしたのである。今や身体と建設環境のあいだの大変な分裂点は、(…中略…)それ自体がより深刻なジレンマの象徴または相似物として存在することが暗示されるだろう。すなわち、少なくとも現時点では、巨大な地球規模の多国籍的かつ脱中心的なコミュニケーションのネットワークを地図化する知能をもたないという窮地である……★二二。


次にこうした彼の基本的な考え方を踏まえた上で、ジェイムソンによる《ゲーリー邸》の興味深い読解をしばらく見ることにしよう。まず既存住宅の側面に付設された開放的な台所の空間に、内部と外部の区別を消失させるポストモダニズムの特徴が指摘される。つまり、外部は内部を表現すべきだという教条的なモダニズムの空間とは違い、それは内部と外部のカテゴリーそのものを揺るがすのだが、さらに彼は両者の対立が無効化された集団的建築空間がダーティ・リアリズムの空間であるという★二三。実際、ジェイムソンは別の著作において、《ゲーリー邸》をダーティ・リアリズムの模範であることを指摘している★二四。また設計者が言う「けちん坊の建築」は、安価な材料の使用によって、近代建築における計画された物質と形態の統合を失効
させ、何が本当に経済的なのかを教示するだ
ろう。
ジェイムソンによれば、増築されたキューブと波形鉄板のスラブは「包むもの」となり、異物として古い構造体を撹乱するが、同時に「包まれるもの」の意味も再定義する。いかに空間を囲い込むかは、ゲーリーの主要な関心事であり、それが建築と彫刻の決定的な差であると彼が認識していることは付記しておこう。そしてジェイムソンは、まなざしの位置が決まらない、歪んだパースペクティヴによる無形の空間をさまよう感覚が、《ボナヴェンチャー・ホテル》と同様、ネットワーク化された後期資本主義の流動的な世界に対応するという。さらに《ゲーリー邸》は、固定されたカメラの視点や正しいアングルを与えないことで、「写真のイメージ帝国主義」から逃れているとの考察もなされている。
一方、既存家屋の部分については、博物館のように二〇世紀初頭のアメリカを保存しており、ドアがタイムマシンのように機能していることが指摘されている(メイドの部屋は子供部屋に変化しているが)。しかし、ジェイムソンが言うように、これは正確な歴史の再現ではなく、むしろシミュラクルなのだろう。ちなみに、ゲーリーの祖父は改築された小さい家屋のようなシナゴーグの長だったことがあり、自邸はそれをしばしば思い出させるらしい。これはきわめて個人的なアレゴリー化であるが、ジェイムソンも理論化のために深読みをしすぎている点がないことはない。事実、自らは体系的な理論化を行なわないゲーリーは、この先鋭的な読解に違和感を抱いているようで、「あなたは私の家のことを理解できなかったのではないか」とジェイムソンに尋ねたことがある★二五。
ゲーリーにとって自邸は、単に居心地の良い空間なのかもしれない。

8──《ロン・デイヴィスのスタジオ》1972 『GA Architect 10』1993

8──《ロン・デイヴィスのスタジオ》1972
『GA Architect 10』1993

9──ロン・ディヴィスの絵画 『Two-Thirds Yellow』1966 URL= http://www.abstract-art.com/ron_davis/ Ron_Davis_Gl/0PaintingFldr/66ptg_2-3Yellow.jpg

9──ロン・ディヴィスの絵画
『Two-Thirds Yellow』1966
URL=
http://www.abstract-art.com/ron_davis/
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10──《ゲーリー邸》1978 El Croquis 74/75.

10──《ゲーリー邸》1978
El Croquis 74/75.

11──《ゲーリー邸》第2期 1979 Deconstructivist Architecture, 1988

11──《ゲーリー邸》第2期 1979
Deconstructivist Architecture, 1988

12──川俣正の作品 URL=http://www.gsquare.or.jp/shopping/ auctionhouse/lot_12/122.jpg

12──川俣正の作品
URL=http://www.gsquare.or.jp/shopping/
auctionhouse/lot_12/122.jpg

13──《ファミリアン邸》1978 Deconstructivist Architecture, 1988

13──《ファミリアン邸》1978
Deconstructivist Architecture, 1988


14──《ボナヴェンチャー・ホテル》 F. Jameson, Postmodernism, 1991

14──《ボナヴェンチャー・ホテル》
F. Jameson, Postmodernism, 1991


第三期──一九八〇年代/飛び散るオブジェ


ゲーリーの自邸における試みは、実施作としては《スピラー邸》(一九七九)でも継承されているが、
 《映画制作者の家》(一九七九)のプロジェクトでは同時に分散したオブジェ型建築への関心を示
し[図15]、一九七〇年代の終わりから開始し
た《ロヨラ大学法学部のキャンパス》の設計(一九八一─八四)では、個性を際立たせた建築の集合体という次なるステージに力点が移行しているようだ[図16]。こうして敷地にばらまかれた各々のオブジェは、素材や鮮やかな色彩をそれぞれにわかりやすく使い分けることによっても、その効果が強調されている。また一九七九年にシカゴ・トリビューン案で鷲のモチーフを導入しようとして以来、動物がデザインに使われるようになり、一九八〇年代は、失われた記憶をとり戻したかのように魚のオブジェを組み込む。冒頭で触れた《フィッシュダンス》のほか、空中に飛びだすF─104戦闘機を外壁にとりつけた《カリフォルニア航空宇宙博物館》(一九八四)や、巨大な双眼鏡が前面に置かれた《チャット・デイのオフィス》も、この時期の作品である★二六。
マーティン・フィラーが指摘するように、こうした傾向は、すでに一九七六年の《ユング研究所》のスケッチにおいて表現されていた★二七[図17]。三角柱や直方体、斜めにカットされた円柱や楕円の柱など、水中から飛びだす独立したオブジェの群れは、充分に八〇年代に顕著となるゲーリーの方法論を予想させる。彼の場合、本人が述べているように、ドローイングや建設されなかった案を不必要にもちあげるべきではないのだが、このラフなスケッチは作風の転機を早期に示しており、例外的に重要性をもつと言えるだろう。
ところで、寄せ集め的な建築の集合体は「小さな都市」としてみなすこともできる。もともと自邸の設計において、ゲーリーはすべての窓を異なる建築家が設計したかのようにやりたかったと述べ(例えば、ひとつはマッキントッシュ、ひとつはロッシ、ひとつはル・コルビュジエというふうに)、住宅を複数の建築家が同時に関わる「ミニ・シティ」にすることに関心があったけれども、うまくいかなかったと言っている★二八。とすれば、そうした望みは、相互に独自性をもつ建築=部屋の「ワン・ルーム・ビルディング」を意図して設計した《ロヨラ大学法学部のキャンパス》でようやく実現したのではないだろうか。
 《ウィンストン・ゲストハウス》(一九八七)は、次の段階への橋渡しにもなる八〇年代の代表作である[図18]。自然の多い敷地には、フィリップ・ジョンソンが設計したウィンストン夫妻の母屋が存在し、そこからの眺めを意識して、子供や孫のためのゲストハウスは野外彫刻のような造形になっている。ここでは各部屋のあいだに「裂け目」を入れ、それぞれが完結した形態をもつことを暗示したという★二九。また各棟の色彩と素材の差異は、この試みを一層際立たせるだろう。しかし、ロヨラ大学のように各棟は明確に切り離されているわけではなく、ぎりぎりまで近接した各棟の「裂け目」はむしろ衝突の効果を生みだしている。そうした意味において、ゲストハウスは九〇年代のゲーリーの作風につながるものだ。続く《サーマイ=ピーターソン邸》(一九八八)でも、ロマネスクの教会をイメージした十字形の中心部に居間や寝室が連結というよりは衝突しそうな勢いである。

15──《映画制作者の家》1979 白い壁が映写スクリーンとして使われる 『GA Architect 10』、1993

15──《映画制作者の家》1979
白い壁が映写スクリーンとして使われる
『GA Architect 10』、1993

16──《ロヨラ大学法学部のキャンパス》1981─84 『GA Architect 10』、1993

16──《ロヨラ大学法学部のキャンパス》1981─84
『GA Architect 10』、1993

17──《ユング研究所》1976 The Vitra Design Museum, 1990

17──《ユング研究所》1976
The Vitra Design Museum, 1990

18──《ウィンストン・ゲストハウス》1987 『GA Architect 10』、1993

18──《ウィンストン・ゲストハウス》1987
『GA Architect 10』、1993

第四期──一九九〇年代/激突するオブジェ

本人の自信作である《ヴィトラ家具博物館》(一九八九)の完成によって、ゲーリーは新しいステージに移行したと言えるだろう[図19]。衝突していた各要素はついに融合し、全体としてひとつの不整形なオブジェとなり、色彩や素材の扱いも断片化ではなく、全体の均質性を表現することを志向し、白いプラスターの壁面とチタン合金の屋根が視覚的な統一感をあたえている。ヴィトラの場合、シュタイナーのゲーテアヌムやル・コルビュジエによるロンシャンの教会が近いために、表現主義的な造形やのっぺりとした連続する表面にその影響が指摘されているが、一九九〇年代のゲーリーは他の作品でも同様の表現を続けている★三〇。例えば、どれも乱舞するオブジェの集合体である、《トレド大学美術学部》(一九九二)では亜鉛引きの銅板が[図20]、《フレデリック・ワイズマン美術館》(一九九三)ではステンレス鋼が、パリの《アメリカン・センター》[図21]や「ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール案」では石灰石が、《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》(一九九七)ではチタンが、その全体を覆う★三一。
こうした作品に連なる運動のイメージは、当然、はねる魚を連想させるが、一九七〇年代にゲーリーが施主の家でみた踊るシヴァ神のダイナミックな彫刻も重要な着想源になっているらしい★三二。個別に言えば、《アメリカン・センター》はスカートをつまんで招き入れるバレリーナ、プラハの《ジンジャー・アンド・フレッド》は男女の歪んだ人物像、ビルバオの美術館はピカソの絵画《アコーディオン奏者》を彼はイメージしているという★三三。ゆえに動的な人体のメタファーは、暗黙のうちに静的な人体をモデルにしていた建築のアンソロポモルフィズムへの揶揄にもなろう。だが、彼は敷地や諸条件をかえりみずに無邪気な設計をしているわけではなく、都市部のプロジェクトは敷地を読みとったうえで彼なりの解釈を施し、ときには現地の建築家や音響技術者らとの共同作業も行なう柔軟性も充分に持っている★三四。例えば、《アメリカン・センター》では一九世紀的なモデルを批判しつつパリの文脈を考慮することを強調し、《ジンジャー・アンド・フレッド》では古都プラハの複雑な環境を引き受けながら、それを微妙にズラして特異性を効果的に演出している★三五。つまり、ダーティ・リアリズム的な戦略がヨーロッパでも使われているのだ。
九〇年代の代表作となる《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》は、間違いなくゲーリーの手法の集大成と位置づけられる★三六[図22・23]。なぜならば、取り柄がないダメ都市という敷地の属性を意識しつつ、均質的な皮膜(鱗?)に炸裂したオブジェ風の造形を包み、全体としては魚の群れ(あるいは、破裂した魚?)のようにも見えるからだ。つまり、これまでに彼が提出してきたさまざまな特徴が一体化した作品なのである。非常にコンテクスチュアルな建築家だと自認している彼は、敷地の状況を説明せずに建築を彫刻的に扱うメディアを批判しており、ビルバオでは工業都市のエネルギーを生かすことを考えたという★三七。事実、彼の最初の仕事は敷地の選択であり、当初の予定地を本人の望みによって河岸の現在の場所に変えている。要するに、バスク地方の伝統を表現するといった旧来のロマン主義的なコンテクスチュアリズムは最初から眼中になく、彼はリアリストとして現実のビルバオをつぶさに観察し、そこが交通の結節点であり、文化地区と産業的な性格が出会う、隠れた中心であることを読みとったのだ。高架と水辺の組合わせは《フィッシュダンス》の立地と似ているが、本体から派生したギャラリーが川沿いに這い、車道橋と絡まる構成によって、ビルバオの美術館はさらに洗練されたものになっている。
ところで、《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》を単にセンセーショナルな造形の問題としてだけ見るのではなく、その施設が誕生した背景にも触れておこう★三八。グッゲンハイムでは、ソーホーにアネックスを設立して以来、深刻な財政危機に陥り、国際的な美術館のフランチャイズ・システムを展開しようと考えていたらしい。これはマクドナルドの美術館版だとして「マック・グッケンハイム」と皮肉られたが、ザルツブルクなどが一時候補に上り、最終的にまちおこしを望むビルバオが建設費を負担して実現に至ったのである。とすれば、やはりゲーリーの建築は、アメリカを起点とする国境を越えた後期資本主義を匂わせるのかもしれない(彼はユーロディズニーの施設も設計している)[図24]。
ゲーリーは設計に際して、模型を重視することでも知られている。二次元の平面図や立面図に還元しにくい性質の造形ゆえに、模型に手を加えながら微妙な形態を決定していくのは当然であろう。彼は上から眺めるのではなく、模型と同じ高さの視線でエスキスを試み、さらに必ず部分の原寸模型を作成し、最終調整を行なう。ドローイングよりも模型の思考が優先されているのだ。九〇年代以降、事務所ではコンピュータによる三次元モデルも積極的に利用するようになり、ディズニー・コンサート・ホールやビルバオにおいてはそれが不可欠のものになっている。特に後者では、模型をスキャンしてコンピュータのデータに変換し、立体モデラーCaitiaが模型や建設素材を削りだす切削機の制御に用いられた★三九。したがって、模型を基盤にして設計を進めていることには変わりがないものの、より複雑な形態をより正確に実現化する新しい手段を得たのである。ちなみに、ゲーリー自身は事務所でコンピュータを使いはじめた頃には扱っていたが、手触りがないディスプレイ画面は苦手なのか、最近は所員まかせのようだ。
ともあれ、こうしてビルバオでは最大の彫刻として建築を展示することが実現した。ゲーリーは、ここで炸裂した形態の探求は極限に達したから、ミニマルな表現に戻ることをほのめかしたことがある★四〇。かなりの高齢になってしまったが、これから表現の新しいステージが再び展開されるかどうかが注目されるところだ。

19──《ヴィトラ家具博物館》1989 The Vitra Design Museum, 1990

19──《ヴィトラ家具博物館》1989
The Vitra Design Museum, 1990

20──《トレド大学美術学部》1992 『a+u』1993年6月号

20──《トレド大学美術学部》1992
『a+u』1993年6月号


21──《アメリカン・センター》 筆者撮影

21──《アメリカン・センター》
筆者撮影

22──《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》1997 URL=http://192.215.161.38/gmb4.jpg

22──《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》1997
URL=http://192.215.161.38/gmb4.jpg

23──同、配置図 『建築文化』1998年3月号

23──同、配置図
『建築文化』1998年3月号

24──《フェスティヴァル・ディズニー》1992 写真左奥 筆者撮影

24──《フェスティヴァル・ディズニー》1992
写真左奥 筆者撮影


★一──Deconstructivist Architecture, MoMA, 1988.
★二──上野俊哉による大澤真幸『虚構の時代の果て』(筑摩書房、一九九六)への批判は、『ユリイカ』一九九六年八月号(青土社)にて掲載された。
★三──G. Celant, "Reflections on Frank Gehry", Frank Gehry: Buildings and Projects, Rizzoli, 1985.
★四──Frank O. Gehry, Academy Editions, 1995.
★五──『新建築』一九八七年七月号(新建築社)や『日経アーキテクチュア』一九九〇年八月二〇日号(日経マグロウヒル社)を参照。
★六──A. Zaera, "Conversation with Frank O. Gehry",  El Croquis: Frank O. Gehry, 1995. ほかにも何度も発言している。
★七──★三の文献のインタビューを参照。
★八──C. Jencks, "Creating Another Way", Frank O. Gehry, Academy Editions, 1995.
★九──ヴィデオ『現代建築家シリーズ──フランク・ゲーリー』や、★三の文献のインタビューを参照。
★一〇──★三の文献のインタビューから引用。
★一一──『SD』一九九二年九月号(鹿島出版会)。ただし、訳文は一部変更してある。
★一二──伊藤公文「西にフランク・ゲーリーあり」、『SD』一九八〇年七月号(鹿島出版会)や『a+u』一九八〇年七月号(エー・アンド・ユー)を参照。
★一三──グルッポ・スペッキオ編「ゲーリーはなぜ英雄か」、『SD』一九八一年九月号(鹿島出版会)。
★一四──★六の文献や「フランク・O・ゲーリィ自作を語る」、『a+u』一九八六年一月号を参照。
★一五──★一二や★一三の文献の他、『a+u』一九八六年一月号を参照。
★一六──★六の文献を参照。
★一七──★六や★一一の文献を参照。
★一八──L・ルフェーヴル「ヨーロッパ現代建築のダーティ・リアリズム」、『10+1』No.1(岡田哲史訳、INAX出版、一九九四)。
★一九──R. Banham, Los Angeles, Penguin Books, 1990.
★二〇──★一四に同じ。
★二一──ただし、アレゴリーといっても、それぞれの要素が照応するわけではない。例えば、両者のギャップこそが照応するという。F・ジェイムソン「Anywhereのさまざまなアレゴリー」、『Anywhere』(末廣幹訳、NTT出版、一九九四)を参照。
★二二──F. Jameson, Postmodernism, or, the Cultural Logic of Late Capitalism, Duke Univ. Press, 1991. なお、上野俊哉「概念のアレゴリー」、『建築文化』一九九六年三月号(彰国社)は、ジェイムソンと建築との交差点をわかりやすく説明している。
★二三──F・ジェイムソン「匿名者たちのデモグラフィ」、『Anyone』(後藤和彦訳、NTT出版、一九九七)。ただし、内容は★二四と一部重複している。
★二四──F. Jameson, The Seeds of Time, Columbia Univ. Press, 1994.
★二五──F・O・ゲーリー「手紙」、『Anyone』(内野儀訳、NTT出版、一九九七)。
★二六──『カリフォルニア航空宇宙博物館』(同朋舎出版、一九九五)。
★二七──M. Filler, "Veni, Vidi, Vitra", The Vitra Design Museum, Rizzoli, 1990.
★二八──★六の文献を参照。
★二九──『GA Architect 10: Frank O. Gehry』(A. D. A. EDITA TOKYO, 1993)。
★三〇──S・V・モース「椅子のための教会」、『a+u』一九九〇年八月号や、The Vitra Design Museum, Rizzoli, 1990. を参照。
★三一──ミネソタ大学の美術館については、『a+u』一九九四年六月号を参照。
★三二──L'architecture d'aujourd'hui, 1993, Avr.
★三三──順に★二九の文献、Architecture, 1997, Feb. V・カステラーノ「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(URL=http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/
nmp_j/review/0301/bilbao.html)を参照。
★三四──ディズニーについては、L'architecture d'aujourd'hui, 1993, Dec. を参照。
★三五──前者はArchitecture Intérieure, 260. 後者はArchitecture, 1997, Feb. や『SD』一九九八年九月号(鹿島出版会)における赤坂喜顕の指摘も参照されたい。
★三六──美術館史におけるビルバオの位置づけについては、A. Schwartzman, "Art vs. Architecture", Architecture, 1997, Dec.  を参照されたい。
★三七──★六の文献を参照。
★三八──F. Chaslin, "Bilbao, en Toute Franchise", L'architecture d'aujourd'hui, 1997, Oct. や、Architecture, 1997, Dec. のJ. Zulaikaの記事に詳しい。
★三九──『建築文化』一九九八年三月号(彰国社)。
★四〇──★六の文献を参照。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.15

特集=交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

>上野俊哉(ウエノ・トシヤ)

1962年 -
社会思想史、メディア研究。和光大学教授。

>大澤真幸(オオサワ・マサチ)

1958年 -
社会学。京都大学大学院人間・環境学研究科。

>ザハ・ハディド

1950年 -
建築家。ザハ・ハディド建築事務所主宰、AAスクール講師。

>マーク・ウィグリー

建築学。プリンストン大学で教鞭を執る。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>フレドリック・ジェイムソン

1934年 -
文芸評論家。デューク大学で教える。

>岡田哲史(オカダ・サトシ)

1962年 -
建築家。岡田哲史建築設計事務所主宰、千葉大学大学院工学研究科准教授。

>末廣幹(スエヒロ・ミキ)

1965年 -
英文学。専修大学文学部教授。