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磯崎新における「日本的なもの」 | 日埜直彦
Peculiarity of Japanese Architecture in Arata Isozaki | Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.118-121

磯崎新を軸に日本建築史を読みなおす」。これがこの小論に課せられたテーマである。磯崎新の近年の日本を主題とした著作、『空間の行間』(福田和也との共著、筑摩書房、二〇〇四)、『漢字と建築』(岡崎乾二郎との共同監修、INAX出版、二〇〇三)、『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三)あたりがおおよその視野となるだろう。これらは九0年代に磯崎が展開してきた和様化に関する一連の著作の発展形であり、とりわけ『建築における「日本的なもの」』はその集大成と見ることができる。これに対して文芸評論家福田和也との対談集である『空間の行間』はそれを文化論に幅を広げたものであり、『漢字と建築』は東アジア文化圏という地政学的水準へ展開させたヴェネツィア・ビエンナーレ展を中心に編まれた記録/論考集である。

1──『空間の行間』

1──『空間の行間』

2──『漢字と建築』

2──『漢字と建築』

まずは、直接建築家としての仕事に関わるわけでもない日本建築史に関する論考に、磯崎がなぜこれほどのエネルギーを注ぎ込むのか、その点を確認しておかなければならないだろう。例えば八束はじめはこの点について〈WebSite 10+1〉における『建築における「日本的なもの」』の書評(「歴史の迷路・迷路の歴史」、二〇〇三年六月号)で★一、同書は一種のメタテクストとして書かれている点でポストモダン的だが、「伝統との距離を計測しながら現在の自分のスタンスを測る」という点でモダンであり、磯崎がナショナル・アイデンティティへの抵抗を意識せざるをえない世代に属することを指摘している。たしかにそうかもしれない。若い世代においては日本の古建築に連続するものとして建築を意識することなどほとんどないだろうし、「日本的なもの」などよりよほど厄介な問題がほかにいくらもある、というぐらいの感覚が正直なところではないか。だがそれでも、著作を通して磯崎における「日本的なもの」のリアリティを垣間見るとき、それは過去の問題として読み流しえない重みを持って迫ってくるだろう。それは柄谷行人の『日本精神分析』(文藝春秋、二〇〇二)がそうであるように、それはいつの間にか繰り込まれてしまう無意識的な構造の存在を示唆している。その意味で正確に言うならば、これらの著作は単に日本建築史の領域を議論の対象としているばかりではなく、現在の建築を規定し、日本建築史もまた規定しているようなディシプリンに対して書かれている。日本建築史は遠い過去の日本の建築を研究する学問であり、現在とは切り離されたものと思われるかもしれない。だが、日本建築史がそもそも明治以降の西洋的な建築を導入する過程で組み立てられた学問であることを考えてみれば、日本建築史がむしろ現在と深く関係していることは当然のことである。

3──『建築における「日本的なもの」』

3──『建築における「日本的なもの」』

筆者は日本建築史に関してまったくの素人である。たまたまここしばらく個人的に日本建築史に近い文脈のいくらか古い本を趣味的に読み進めているのだが、この小文を書くうえで基礎になるのはその程度のもので、学問としての日本建築史に関して何事かを述べる意図はまったくない。ただそれらの本がちょうど背景のようになって磯崎のこれらの著作がかなり立体的に見えてくる、その文脈を記してみようと思う。それらの本の多くは現在絶版その他の理由から接することがなかなか難しいのだが、その言わば失われた文脈から見てみれば、これらの著作がどのような地平において成り立ち、なぜそれが問われているのかは自ずとわかるはずだ。筆者にしても古書店でめぼしいものを見つけては読んでいくというようなはなはだ体系性を欠いた読み方をしているため、確定的なことは言えそうもない。だが少なくともこう言って間違いないだろう。磯崎のこれらの著作は、かつて盛んに議論され、現在はほとんど意識されていないある問題設定に根を生やした大樹なのである。

できるだけ手短にその問題設定の系譜をまとめてみよう。
特異な人物として今和次郎がその系譜の突端にいる。考現学によって彼の名は広く知られるが、建築家とは異なる独特の視点から、建築をその具体において観察し、そこで営まれる生活の有り様に関心を向けた。この視点は唐突に確立されたように見えるが、外来文化として普及が図られつつあった近代建築と、そのすぐ脇に存在していた現実の社会生活のギャップという当時の現実が、センシティヴな今をこうした関心に導いたのだろう。
その直後、一九三〇年代に帝冠様式に関係して外来文化としての建築と日本の伝統的建築文化の統合が議論されている。この議論はいったんは第二次世界大戦の喧噪下で退潮するが、五〇年代にいわゆる伝統論争として再燃した。終戦直後は急務であった社会基盤の再整備のため合理的で近代的な手段を用いることは当然と見なされ、近代建築=機能主義建築を徹底することは疑問の余地のない選択であった。しかし近代建築が具体的な建築物としてしだいにその姿を見せ始めると、近代主義が見落としているもの、つまり「民衆」の生活実態との齟齬が露呈する。帝冠様式にまつわる議論においてはシンボリックな問題であったものが、ここではフィジカルな問題としてより痛切に意識されたと言ってもよいだろう。公式的な近代建築と日本の伝統的な建築文化の調停をいかにすべきかが大きな課題として意識され、ついでそもそも伝統とはなんであるかが議論の焦点となる。これが伝統論争の基本的な構図だが、そこで問われた問題は実に多様である。抽象的な議論と具体的な建築家の作品の展開が並行して進み、深い議論があったとは言えないにしても、百家争鳴とでもいうべき当時の活況は書物を通じても伝わってくる。
この問題は六〇年代に至り、とりわけ長谷川尭と神代雄一郎によって発展的に深められている。伝統論争の構図は、より一般的な近代化と伝統の対立構図の単なるローカライズ版と言えないこともない。しかし彼らはそれを深化し、建築に本来的なアポリアとして捉え直している。
長谷川尭は『神殿か獄舎か』(相模書房、一九七二)において、神殿指向/獄舎づくりといった激しい言い方によって日本の近代主義を信奉する建築家のプロフェッションに対する意識を批判した。少なくとも半面においてその主張が、「建築を作ること」と「建築において生きられること」の疎隔という建築にとってかなり根源的な水準を、日本の具体において考えるという構えを持っていたことは特筆に値する★二。長谷川の議論には、実践において取り組むほかないことを議論において詰め寄る調子があっていささか鼻白むのだが、神代雄一郎はその点で対照的にむしろ率直な教師のような表情で、物議を醸した批判「巨大建築に抗議する」(一九七四)に見られるようにけっして曖昧ではないが、長谷川が持っていたような苦い観念を前提として、建築がいかにあるべきかを問う。歴史家としての自身の仕事においては「伝統」を歴史家の眼で解きほぐしつつ再構築することに取り組んだ。神代の代表的な論文である九間ここのま論は、伊勢・出雲から桂離宮にいたる日本建築の全幅に見られる三間四方の室、九間をさまざまな事例によって確認しつつ、日本の建築空間の展開を九間の伝統的性格とその発展において掘り起こす論考だが、その結びに彼はその関心のありかを示唆する面白い言い方をしている。

「九間論」は、歴史の考証ではなくて、ひとつの意匠論なり造形論にすぎない★三。


この論文は明らかに日本建築史の範疇に入る研究だが、それは史的考証ではなく「意匠論」なのである。神代の著作は日本建築史から近代建築史に及ぶが、これらにおいて積極的に掘り下げられているのは具体的な社会背景を背に具体的な人間が建築を作るということである。「意匠論」はつまり人間と関係するものであって、建物の形態や様式、技術などを対象とする史的考証ではない。しかしまたそれはいわゆる作家論ではなく、むしろ建築が作られ、そこに生活が営まれ、ある種の文化的なものが沈殿する、そういう視野において建築の意匠が考えられているのである。
このような系譜は七〇年代以降いわゆるデザイン・サーヴェイに流れ込んでいく。神代が行なったデザイン・サーヴェイは集落の空間構造を介してつねに共同体における生活に結びついていたが、いわゆるデザイン・サーヴェイの多くは、単に歴史的な街並を採集・記録するばかりではなかったにしても、近代化の波に洗われる以前の日本の都市空間を把握することに主眼を置き、懐旧的ドキュメンタリズムにどこか近い。このあたりで以上記してきたような系譜は希薄化し、あるいは断絶したと言ってよいだろう。

4──神代雄一郎『<a href="/publish/bibliography/v/%E9%96%93%EF%BC%88%E3%81%BE%EF%BC%89%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%8C%A0" id="tagPos_113_8">間(ま)・日本建築の意匠</a>』(SD選書、1999)

4──神代雄一郎『<a href="/publish/bibliography/v/%E9%96%93%EF%BC%88%E3%81%BE%EF%BC%89%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%8C%A0" id="tagPos_113_8">間(ま)・日本建築の意匠</a>』(SD選書、1999)

磯崎もまたデザイン・サーヴェイの先駆的作業とも言うべき『日本の都市空間』(彰国社、一九六八)に伊藤ていじらとともに関わり、その序文と結論を書いている。『日本の都市空間』は日本の古都や寺社空間、あるいは集落の成り立ちをいくつかのタイプによって分析し、客観化しようとしている。例えばそこでは方位、重畳、布石、天地人、真行草、さおび、ま、かいわい、といったような空間の基本要素が分析的に捉えられ、そしてまたそれを構成する手法が類型化され、そこに現われる空間的効果が分類される。こうした記述の原型は伊藤ていじの先行する著作にすでに見られるものだが★四、『日本の都市空間』ではあきらかにその体系的整序に注意が払われている。序論から推察すれば当初は体系化された一種の文法を実践的に応用する可能性が意識されていたのだろう。だがむしろこのアプローチは、後の『見立ての手法──日本的空間の読解』(鹿島出版会、一九九〇)や『始源のもどき──ジャパネスキゼーション』(鹿島出版会、一九九六)のような「日本的なもの」を主題とする著作の形式として、言い換えれば「日本的なもの」を認識するアプローチとしてその後たびたび反復された。それは単に分析的であるだけでないはずだ。むしろ自己の立脚点を客観化するという論理的困難に取り組むための方法の形式として、おそらく意識的に選び取られたはずである★五。あまたある日本論のようにうろうろとエッセイを書き連ねるのはそもそも建築家の体質と合わなかっただろうが、それはむしろ批判的解体への覚悟ゆえのことだったのではないだろうか。
先の系譜と磯崎の論考を結ぶ別の紐帯は次のような発言に窺うことができる。

建築でも一九三〇年から三五年の時期に、モダニズムとしての機能主義が入ってきた。それを批判するときに「作為性」ということが言われ始めた。作為がある建築のデザインでは真なるものが表現できないんで、作為を超越していかないと駄目だというのが、当時の建築界の批評のほとんど唯一の基準です。それをどう見分け、どう言うかだけの話ですね。それで「作為のないもの」が流れていく先が、それこそ自然じねんみたいなものなんです。日本の伝統の中の「なるようになる」という流れに乗せられ得るならば、これはよろしい、日本の外から入ってきた作為的なものは、拒絶されるべきだ、と★六。

5──都市デザイン研究体『日本の都市空間』

5──都市デザイン研究体『日本の都市空間』

これは和様化に関するものとしては早い時期の磯崎の発言だが、帝冠様式に関する議論の構図が問題とされている。丸山眞男が本居宣長から抽出した作為と自然じねんという対概念が導入され、近代建築が作為に、伝統的日本建築が自然に対応されている。そもそも丸山の対概念の眼目は、宣長が古事記を再編成することでいわば捏造しながら、再編成された古事記こそが日本の真の古層であると強弁したように、自然が作為されつつその作為が自然に埋もれ、時とともに不可視になっていくという構造の把握にある。したがってこの対概念の導入によって、伝統論争の構図ははるかに複雑なものとなる。そこで問われていた伝統がそのような自然であるならば、それは作為とも自然ともつかぬなにがしかであり、日本の固有性はそもそも素朴な伝統のイメージが期待する「なりてなるがまま」のルーツなどではない。実際歴史を顧みればそうしたナショナル・アイデンティティは外部からの圧力に抵抗するために形成されたふしもあり、ここに至り伝統論争においてその回復を期待されていたような伝統はそもそも虚像ではなかったかという疑念が生ずる。文法解析にも似た「日本的なもの」の解体作業の末に見えてきたのは、作為=近代主義と自然=伝統の二分法そのものが溶解した情景だったのである。そしてさらに『空間の行間』においては、このような構造を前提として自然を可視化していくこと、「自然をパッシブに受け止めるだけじゃなくて、分析的につかまえること」によって、「その料理の仕方もおのずからみえてくる」と磯崎は言う★七。
和様化の問題のこうした展開と並行して、特定の建築ないし建築家に関する論考が「日本的なもの」に関する論考と有機的な関係を持つようになる。具体的には石元泰博の写真集に併せて書かれた伊勢神宮と桂離宮に関する論考、そして『批評空間』に連載された重源を主題とする論考が『建築における「日本的なもの」』に再掲されている。おおまかに言えば、伊勢に関する論考は自然じねんが捏造される構造をその起源において検討し、重源に関する論考は単独的な様式であった天竺様が和様に取って代わられる和様化のプロセスを具体的に検討している。そして桂に関する論考は、ブルーノ・タウトを起点として近代建築=作為がそもそも「日本的なもの」=自然じねんと調和的であるという認識が誘導されていくプロセスを見ることで、現代における和様化を見定める視点へと読者を差し向ける。真なる「日本的なもの」は幻影であって、むしろ作為と自然という構造の恒常性ばかりが見えてくるだろう。こうした磯崎の議論の行く末は、丸山の対概念が基本的に日本の固有性を解き明かすことを意図していたことを度外視すれば、ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(白石隆+白石さや訳、リブロポート、一九八七)において分析した国民国家のナショナル・アイデンティティの構築過程とほぼ重なる★八。
国民国家がある時代に特有の現象であるとするならば、現在「日本的なもの」の意味はどのように変質するだろうか。『建築における「日本的なもの」』では、こうした問いにも抽象的なイメージではあるが抜かりなく目配りされている。固有性を商品化していくグローバリゼーションのなかで、日本の固有性もまた自立的ではありえず、資本主義の溶媒に沈む「沈殿物」となるだろうと予見される。いわゆる群島アーキペラゴ状の世界。そう、このような状況がおそらくわれわれのリアリティだろう。しかしここで磯崎はぬけぬけとこう言ってのけるのだ。

そのひとつの〈しま〉のつくりだされかたは、“退行”や“擬態”のみならず、もっと多様に開発されねばなるまい★九。


今さら言うまでもないことではあるが、磯崎は徹底して建築家である。



★一──URL=http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2003/06/10175813.html。
ちなみに同氏による『空間の行間』の書評もある。
URL=http://tenplusone.inax.co.jp/archives/2004/04/09142147.html。
★二──例えばプログラムとアクティヴィティなどという言い方で現在言われていることが、長谷川の批判に耐えうるかというのはひとつの問題である。
★三──神代雄一郎『間(ま)・日本建築の意匠』(SD選書、一九九九)一九八頁。本書は神代の著書として例外的に現在も入手可能である。
★四──伊藤ていじ『日本デザイン論』(SD選書、一九六六)。
★五──この点については『10+1』No.37(INAX出版、二〇〇四)掲載の筆者によるインタヴュー「『日本の都市空間』の頃」参照。
★六──共同討議「芸術の理念と〈日本〉」(『批評空間』No.10[福武書店、一九九三、一〇頁])。
★七──『空間の行間』、一七一頁。
★八──ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』(白石さや+白石隆訳、NTT出版、一九九七)。
★九──『建築における「日本的なもの」』、一二三頁。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>空間の行間

2004年1月20日

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年 -
建築家。芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

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