RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.36>ARTICLE

>
ユルゲン・ハーバーマス+ジャック・デリダ+ジョヴァンナ・ボッラドリ『テロルの時代と哲学の使命』 | 森田團
Jurgen Habermas, Jacques Derrida and Giovanna Borradori, "Philosophy in a Time of Terrores" | Dan Morita
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法, 2004年09月25日発行) pp.44-46

二〇〇一年九月一一日に生じた「米国同時多発テロ」に対する二人のヨーロッパの哲学者の応答、それを引き出した編者ボッラドリによる比較的まとまった注釈──全体への導入、この二人の哲学者の思想とのコンテクストにまで十分に注意が払われたインタヴューの解説──からなる本書は、九月一一日の出来事に対する哲学者たちの注釈と分析に終始するばかりではなく、その題名(原題は『テロルの時代における哲学』Philosophy in a time of terror)によく表われているように、時代と哲学(哲学者)、歴史と哲学との関係を極めて多様な局面──テロリズム、戦争、啓蒙、民主主義、寛容、国際法、原理主義など──において問うものである。
この二人の哲学者が選ばれた理由は編者によって明示されているとは言えない。しかしハーバーマスとデリダが、その思想的立場の著しい懸隔にもかかわらず、現代において「哲学者」と呼ばれるに最もふさわしい存在であることは言をまたないし、彼らがそう呼ばれるのはそもそも彼らの哲学がつねに時代に対する真摯な対決であり、分析であることを止めないがゆえであるとも言えよう。本書の題名のもとに、ハーバーマスとデリダが、編者がそれぞれ別個に行なったインタヴューに媒介されたかたちではあるが、両者同意のうえで共同するのは決して唐突なことでない。『近代の哲学的ディスクルス』におけるデリダ批判を知る者にとっては、このような共同作業が奇異にうつるかもしれない。しかしこの二人の哲学者は反目しあってきたわけではない。本書の原書が出版された二〇〇三年には『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に共同アピールを発表しているし(「われわれの戦後復興──ヨーロッパの再生」(瀬尾育生訳、『世界』二〇〇三年八月号所収)それ以前においてフランクフルト大学で両者は共同ゼミナールを開催しているのである。このような両者の連帯は、おそらくは「哲学」の名においてのみ可能となるものである。本書が歴史的出来事に対する著名な哲学者の反応を記した以上のものとなるのは、この哲学の名における連帯が読み取られるときのみであろう。
編者であるボッラドリは、哲学と政治ないし哲学と歴史との関わりにおいて、この二人の哲学者はハンナ・アーレントの系譜に属しているとみなしている。彼らは哲学者による現代社会や政治の分析を不可避かつ不可欠であるとみなす。哲学的諸概念が鍛えられるのは、まさにそのような批判と分析の最中においてなのである。ハーバーマスが『哲学的・政治的プロフィール』において評価する哲学者の多くが、この系譜に属する哲学者であった。また彼が「批判理論」の衣鉢を継ぐ哲学者であることを考慮すれば、ハーバーマスの社会批判は当然であるかのようにみえる。しかしハーバーマスは知識人の現代への性急な診断的介入を称揚するわけではない。彼は事象がいかなる歴史的なコンテクストによって複雑に決定されているかに関してもまなざしを向けることを忘れない。そもそもハーバーマスは、哲学的人間学に多大な貢献をなすと同時に、精神史的な視点も重視したエーリッヒ・ロータッカーや解釈学の泰斗ハンス=ゲオルク・ガダマーなど、「保守系」の哲学者からも多くを吸収するような間口の広い哲学者である。ハーバーマスの時局分析が優れているのは、バランスの取れた視座をつねに維持しているからなのだ。デリダにしても、脱構築の実践はたんに破壊的であるばかりではない。デリダが自らの脱構築をハイデガー的な破壊から区別するとき、焦点になるのは脱構築が負う責任である。来るべき民主主義への約束に対する責任を負うからこそ、その批判は実効性を帯びる。
ここで両者の共通性を一歩踏み込んで探るならば、その仕方が極端に異なるにもかかわらず、言語への信をまず挙げなければならないだろう。編者は正当にも両者は「啓蒙」の擁護において一致すると述べているが、カントにおいて啓蒙が理性の自立的使用によって定義されるとするならば、ハーバーマスとデリダにおいては、啓蒙は「言語」の観点から定義されるだろう。ハーバーマスにおいて言語は反省の媒体ではなく、コミュニケーションの手段として従来の意識哲学を刷新する特権的な役割を付与されることは言うまでもない。コミュニケーションなしに啓蒙の可能性の条件である「公共性」は形成されないし、啓蒙は公共性において言語が正当に運用されるときに、つまり自立的かつ自由に物事が討議される状況が実現されるとき十全なものとなる(このようなコミュニケーションの重要視は「暴力批判論」における「純粋な手段の政治」の概念を想起させる)。デリダにおいて啓蒙は「ヨーロッパ」的なるものの還元不可能な固有性であると同時に、その翻訳可能性を要求するようなアポリアのうちにあるが、このアポリアの構造はある言語の固有性の還元不可能性とその翻訳可能性のアポリアと同じである。脱構築はこのアポリアを突き止め、それに耐えることで、来るべき啓蒙空間と言うべきもの(あるいは「来るべき民主主義」)の可能性を開こうとするのである。
この言語に真っ向から対立する最たるものは暴力である。九月一一日に起きた出来事──その現実的、象徴的次元において──の経験は、言語にとって、したがって哲学にとっての試練である。というのもそこでは語りえない、筆舌に尽くしえぬ何事かが起こったからである。ハーバーマスもデリダも、この「九月一一日」という語によって名指される出来事の内実の捉えがたさを指摘している。ハーバーマスでさえ、経験されうるが、言語化されないような次元を示唆している。暴力が生起するのはこのような次元であり、哲学が批判的機能を放棄しないと欲するならば、この次元と向き合わなければならない。ハーバーマスとデリダが共同するのも、おそらくこの次元への哲学的な対決を、両者がそれぞれの仕方で望んでいたからであるように思える。
ハーバーマスの場合、暴力はコミュニケーション行為の理論の立場からも重大なものであり、自らのコミュニケーション行為の理論への反証を九月一一日の出来事が提示しているのではないか、という疑義に対しても回答を試みている。われわれの社会が構造的な暴力に汚染されていることを認めながらも、ハーバーマスは日常的な局面における言語を媒介にした信が社会の根底にあることを強調している。もちろんあらゆるコミュニケーションは歪曲を蒙る可能性に曝されており、それは最終的かつ最悪のケースではコミュニケーションの崩壊、ひいては暴力へと連鎖していく。いささかもどかしいのは、ハーバーマスが言語を逸する次元への経験へと注意を促しておきながら、自らの理論の擁護においては言語と暴力を連続的に語ってしまっていることである。問題は言語における暴力と非暴力を腑分けすることではなく、むしろ言語と暴力の非連続性なのである。
デリダが執拗に問うのはこの言語と暴力の落差であると言える。事後的にインタヴューに付された註においてデリダは、アーカイヴに登録不可能なものについて語っている。九月一一日に生じたことは映像を含めて次々とアーカイヴに登録されることで、人は事件を終わらせようとする。出来事は十全に言語化されることによって、馴致されるのである。しかしデリダによればアーカイヴに登録不可能なものが存在する。犠牲者の証言である。言語化できないのは遺品も死体さえも失なわれたままの死者の証言である。デリダがアーカイヴ化不可能なものに対して注意をうながすのは、この出来事における言語化不可能なものこそが問題であることを示すためではないだろうか。そして哲学はこの無言の証言に耳を傾けねばならないのではないだろうか。死者たち、あるいは亡霊たちは、この意味で言語化不可能なものへ言語がアクセスするための必要不可欠な形象なのである。
ハーバーマスは、編者の質問に促されるかたちではあるが、九月一一日以後のアメリカにおける「英雄」という語の用法に触れ、批判している。その批判は出来事の神話化を回避するために必要不可欠である。しかし注視すべきは、英雄という語が用いられることそのものが示す徴候である。ギリシア悲劇における「英雄」は自らを犠牲にすることによって新たな共同体の礎となる存在であった。そして公共性の原像と言うべき古代ギリシアのポリス──言うまでもなく民主主義の原郷でもある──は、何よりも死者としての英雄たちを呼び出すことにおいて自らの起源を確認し続けたのではなかったか。さらに言えばポリスのあらゆる儀礼は葬送儀礼に遡るのではないだろうか。言語と公共性の結びつきは根源的には死者たちに媒介されているのかもしれないのである。
コミュニケーション的理性の源である公共世界が、実は死者たちに向けて公に語ることによって出来するものであったとしたらどうだろうか。コミュニケーションそのものが、コミュニケーション不可能な他者たちとのコミュニケーションというアポリアとともに成立していたとしたらどうだろうか。デリダが注意を促すのはこのようなアポリアであるように思える。決して到来することのない「来るべき民主主義」への約束は、現在において不在であるものたちを考慮に入れるときにおいてのみ守られる。ここでデリダの思考はベンヤミンに漸近することになる。ベンヤミンによれば現在は「かすかなメシア的な力」を付与されているが、過去において実現されえなかった希望が聞き取られるときのみに、現在はそのような使命を引き受け、絶対的な開けとしての未来に向き合う。問題となっているのはここでも死滅した者たちの残像である。おそらくハーバーマスはこの観念を批判するだろう。しかしここで必要であるのは批判であるよりも、アポリアに耐える思考の粘り強さではないだろうか。

1──ユルゲン・ハーバーマス+ ジャック・デリダ+ジョヴァンナ・ボッラドリ 『テロルの時代と哲学の使命』 (藤本一勇+ 澤里岳史訳、岩波書店、2004)

1──ユルゲン・ハーバーマス+
ジャック・デリダ+ジョヴァンナ・ボッラドリ
『テロルの時代と哲学の使命』
(藤本一勇+ 澤里岳史訳、岩波書店、2004)

>森田團(モリタダン)

1967年生
東京大学大学院総合文化研究科博士課程。哲学・ドイツ思想史。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...