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描かれた「現代都市」──ル・コルビュジエのドローイングと都市計画 | 加藤道夫
The Painted "Modern City": Le Corbusier's Drawings and City Plans | Kato Michio
掲載『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する, 1997年08月20日発行) pp.171-180

1:図の力

建築に使用される図は二つの側面を持っている。第一の側面は、建築家によって構想された三次元空間のイメージを二次元の図に翻訳し、図の読み手に伝達すること。この場合、読み手の解釈は作家の伝達内容を正確に理解することにある。第二の側面は、その形態イメージを読み手に伝えるだけでなく新たなイメージを提起することである。読み手の解釈は直接的な伝達内容に留まらない。読み手がその計画主体である作家自身の場合には、あらたな解釈がデザインの進展の重要な契機となる。
第一の場合、その伝達内容が三次元の幾何学的形状そのものであるなら、図はその幾何学的形状を表現する手段にすぎない。あくまで三次元形状が主題であり、図はそれを表現するための従属物となる。その表現手段や表現形式に作家の設計思想を反映させる必要はない。近年の機械設計の分野にその極端な例が見られる。設計作業は概念設計と呼ばれる設計内容の確立を基礎として、その幾何学的形状については、モデリングという形ではじめから三次元幾何学情報として計算機に管理される。CAD─CAMシステムであれば、図は必要とされない。
しかし、伝達内容が幾何学的形状に留まらない場合には、図の表現法の差異が重要となる。作家は、構想されたイメージの伝達のために、さまざまな図法を選択し、表現形式を駆使することで自らの空間イメージを再現しようと試みることになる。
第二の場合には図法の選択や表現形式の選択は更に重要な影響を与える。図は、人間の認識システムと深く関連し、さまざまな意味を生成する潜在力を有する対象として積極的に読み手に働きかける。作家自身にとっても、図は自らの建築イメージの生成に重要な影響を与えることになろう。
ところで、誤解を恐れずにいえば、二〇世紀初頭のモダニズム建築は、産業革命後の社会の変化がもたらした新たな機能的要求に応え、その建築形態イメージを提示する試みであったといえよう。しかし、機能的要求は、建築の形態イメージにとって十分条件ではなく必要条件にすぎない。すなわち、形態イメージの生成にあたっては、別の形態生成手段が必要となる。形態生成手段として図の果たした役割は、無視できないものであろう。
ここでの試みは、ル・コルビュジエ(以下「LC」と略記)によって構想された「三〇〇万人の現代都市」を題材として、図に込められたデザイナーの意図をあぶりだし、形態生成手段として図の果たした役割を明らかにしようというものである。
対象とする図面資料としては、透視図と軸測図を中心とした。これは、建築を表現する図として平面図、立面図、断面図の重要性を軽視するからではない。これらの図はその形状を幾何学的に正確に表現するという性格が強いため、その表現法は慣習的図法による制約が強く、作家の自由度が小さい。それに比して軸測図や透視図は作家の自由度が大きい。つまり、透視図や軸測図は、より設計者の意図や図の生成的役割を伝えていると考えられるからである。

2:計画の経緯

「三〇〇万人の現代都市」は、一九二二年一一月に開かれたサロン・ドートンヌ展に出展するために用意された。『ル・コルビュジエ、ピエール・ジャンヌレ全作品集一九一〇─一九二九』(参考文献1、以下『全作品集』と略記)によれば、サロン・ドートンヌ都市計画部門責任者のマルセル・タンポラルから、一九二二年七月、「次の一一月のサロンに何か出さないか」という提案を受けたことがそのきっかけとなっている。タンポラルの提案は「都市の芸術にはブティックあり、鋳造の看板、家の扉、路傍の噴水、道路に見られるすべてのものがある。すばらしい噴水とかその他同種のものをつくってください」★一というものであった。しかし、LCはこれに「三〇〇万人の現代都市」という提案で応えた。『アルバム・ラ・ロッシュ』(参考文献2)に掲載されたスタニスラウス・フォン・モースの論文「機械都市」(参考文献3)によれば、この高層住宅案の基礎にはフランス住宅にアメリカンスタイルを導入しようとする「フランコ・アメリカン住宅グループ(Le Groupe de l'habitation franco-américaine)」のプログラムがあったと記されている★二。一方、LCは「フランコ・アメリカン住宅グループ」との接触以前に、「棟状都市」と「凹凸型街路」の計画案を一九二一年一月刊行の『レスプリ・ヌーヴォー』誌(参考文献4、以下「EN」と略記)第四号の「建築家諸氏への三つの提言、3・プラン」に発表しており、これらの基本的形態イメージはすでに確立していたと考えられる。このうち「棟状都市」については、オーギュスト・ペレの言葉がヒントとなったと記されている。しかし、ペレの「棟状都市」の形態をLCが知るのは、一九二二年八月一二日刊行の『イリュストラシオン』誌であり、これらの計画が構想された一九二〇年当時、LCはペレの計画の具体的内容を知らなかったようである。「三〇〇万人の現代都市」においても、一九二〇年計画の「棟状都市」と「凹凸型街路」が構成の基本要素として導入されたことは疑いのないところである。ところで、先のモースの論文によれば、LCは、タンポラルの申し出の後、少なくとも九月の終わり頃までラウル・ラ・ロッシュとヴェネツィアに旅行していたから、サロン・ドートンヌ展のための直接的な準備作業はこれ以降と考えられる。
「三〇〇万人の現代都市」を構成する建築要素は、都心部の「棟状都市」と都心周辺部に配置される「凹凸型街路」の改良案である「凹凸型住区」と大きな中庭を取り囲む街区型の「ヴィラ型集合住宅」である。「ヴィラ型集合住宅」の詳細は、一九二二年から一九二五年にかけて検討がなされ、この住戸ユニットが一九二五年の装飾芸術展においてレスプリ・ヌーヴォー館という形で建設されるにいたる。「ヴォワザン計画」は装飾芸術展で発表されたものであるが、これは、先の「三〇〇万人の現代都市」をパリに適用したものと考えられる。『全作品集』には、一九二二年にこの計画をパリに適用した一九二二年の最初のスケッチが示されることから、この計画は一九二二年に遡ると見てよかろう。

3:残された図面資料

「三〇〇万人の現代都市」に関する図面資料を概観してみよう。ここでは、計画内容を問うことが目的ではないので、そこに示される透視図や軸測図を中心に見ていくことにする。
『全作品集』には、「スケッチブックの紙片」と称して四枚のページが転載されている。近年までこのスケッチブックの内容は刊行されていなかったが、一九九六年エレクタ社から『アルバム・ラ・ロッシュ』が刊行され、このスケッチの内容を詳細に見ることが可能になった。続いて、一九二二年のサロン・ドートンヌ展に発表されたジオラマの写真が掲載され★三、その後に六ページにわたってその計画内容が示されている。ここには、一九二一年一月刊行のEN第四号「建築家諸氏への三つの提言、3・プラン」に掲載された「棟状都市」の透視図の他、全体の透視図、都心部分を示す二枚の透視図と「凹凸型街区」を示す透視図が掲載されている。更に比較のためニューヨークの航空写真とこの計画の鳥瞰透視図が示される。以上の図のオリジナルに触れておこう。「スケッチブックの紙片」については、先に述べた『アルバム・ラ・ロッシュ』からの転載であるので、一九二二年秋に描かれたものと考えられる。ジオラマ写真については、サロン・ドートンヌで展示されたジオラマのものと考えてよかろう。三枚の透視図については『ル・コルビュジエ・アーカイヴ』(参考文献5)にこれに対応する図を見ることができる。(ル・コルビュジエ財団図面番号(以下「図面番号」と略記)30827、30828)。ニューヨークの航空写真と鳥瞰透視図は後述する一九二五年一月刊行のEN第二八号に掲載された「三〇〇万人の現代都市」にその初出を見ることができる。鳥瞰透視図についてはその原図と考えられる図面が残されている(図面番号30830)★四。
次にオザンファンとジャンヌレが編集したENを見てみよう。前述のように第四号の「建築家諸氏への三つの提言、3・プラン」に「棟状都市」の他、「凹凸型街路」の透視図が掲載され、「凹凸型住区」の前身を見ることができる。しかし、以降は、一九二一年二月刊行の第五号「指標線」と一九二一年一一月刊行の第一一─一二合併号「工学技師の美学、建築」に第四号の図版が再録される以外、第二八号の「三〇〇万人の現代都市」まで関連図面をほとんど見ることができない★五。
一九二三年刊行の『建築をめざして』(参考文献6)には、先に挙げたEN第四号からの転載図面以外に、「ヴィラ型集合住宅」のファサードの部分軸測図や、内観透視図、外観透視図がつけ加えられている。
更に一九二五年刊行の『ユルバニスム』(参考文献7)には、それまでに描かれた各種の図版が掲載されており、「三〇〇万人の現代都市」から「ヴォワザン計画」にいたる全貌が明らかにされている。以上の図面はEN四号掲載のものと『アルバム・ラ・ロッシュ』のものを除いて、『ル・コルビュジエ・アーカイヴ』にその原図をみることができる。

4:棟状都市──LC vs ペレ

一九二〇年に計画されたLCの「棟状都市」の透視図[図1]と一九二二年八月一二日の『イリュストラシオン』誌に掲載されたペレの計画に基づくJ・ランベールの「棟状都市」[図2]には類似性が見られる。共に広い通りを挟んで棟状の高層建物が道路に沿って配置されている。通りには車や人物が描き込まれ、空地には植栽が描き込まれている。
しかし、棟の形状には相違が見られる。LCの棟は十字型平面を持つ角柱の形状をなすのに対して、ペレの棟は、全体が基部、中央部、上部に分節され、全体が先細りの形状をなしている。更に、LCの棟は一貫して同一形態の反復として表現されるのに対して、ペレのそれは棟ごとに微妙に形態が異なっており、複数のバリエーションを示している。その差異は、細部の表現を見ると更に顕著である。ペレの棟は、ファサードに現われる柱型や開口といった具体的な建築構成要素が表現されており、その建物の組立が明確に示されている。一方、LCの棟は、棟の陰の表現と思われるハッチングと水平分割線が暗示されるのみで、ファサードがどのように構成されるのかが不明である。具体的な建築構成要素を指示する表現は見られない。棟は、立体─立体を構成する面─立体の独自性を明らかにする面分割という幾何学的階層構造に基づいたプリスム・ピュールとしてのみ立ち現われる。すなわち、「建築家諸氏への三つの提言、1・立体」(EN第一号)と「2・面」(EN第二号)で表明された幾何学的秩序の投影により、建築形態は解釈され表現されるのである。
このように表現された建築は、「棟状都市」という言葉や、描き込まれた樹木等の具体的な指示物を示す表現がなければ、建築物として理解することすら危ぶまれるほど単純化されている。これに対して、ペレの棟は微妙な形態的差異は認められるにせよ、当時の現代建築、ニューヨークの摩天楼という同時代の建築的対象を想起させる。

1──ル・コルビュジエ「棟状都市」1920

1──ル・コルビュジエ「棟状都市」1920

2──O・ペレ「棟状都市」J・ランベール画、『イリュストラシオン』誌、1922年8月12日

2──O・ペレ「棟状都市」J・ランベール画、『イリュストラシオン』誌、1922年8月12日

5:組み込まれた幾何学的秩序

『全作品集』に掲載された「三〇〇万人の現代都市」の透視図の内、「凹凸型住区(6層)を横断する通り」[図3]と一九二二年のサロン・ドートンヌ展に展示されたジオラマの透視図は、非常に特殊な描き方がなされている。すなわち、透視図を描くにあたって、視点の高さ(視高)を建物の高さに一致させるという手法をとっているのである。
前者においては凹凸型の集合住宅のスカイラインが、後者においては高層棟のスカイラインが、地平線とほぼ一致している。一般に透視図を描くにあたって視高を人間の眼の高さである、一・五メートルないし一・六メートルにとるのが標準とされている。もちろん、場合によって視高は変化するが、視高を対象建物の高さと一致させることは普通ではない。建物のスカイラインは一直線となり、建物上部の外形線は立体形状の奥行き方向距離を示すことが不可能になるからである。立体形状をわかりやすく示すということから適切な方法とはいえない。LCがこのような透視図を描くのは、ごくまれなことである。一般に視高は、建物の高さより低くとられるか、極端に高くとられるか(鳥瞰図とよばれる)のいずれかである。それでは、なぜ形状のわかりやすさを犠牲にしてまでこのような視点が選ばれたのであろうか?
LCは『ユルバニスム』において次のように述べる。「我々は、家々が空につくりだす輪郭に眼をやることはあまり好まない。この光景は、我々をひどく苦しめる。その輪郭は、都市の端から端までほとんどどの街路でも、破れている。(中略)空に都市を描き出す線が、もしも純粋で、秩序だてる力の存在を感じさせるなら、われわれはとりわけ感動するであろう」★六。ここには混沌としたスカイラインを廃して建物のスカイラインに「純粋で、秩序だてる力」を与えるという力強い意志が読みとれる。
「三〇〇万人の現代都市」の透視図を見ると、高層の棟、中庭を取り囲むヴィラ型集合住宅、凹凸型住区という三種のビルディングタイプのそれぞれの高さは一定で、最上階のスラブは水平な面のままとされ、ペントハウス等の突出は見られない。特に「凹凸型住区」の透視図では、背後に見える高層棟の輪郭線は、凹凸型集合住宅のスカイラインと交わることのないよう表現され、スカイラインの水平線が強調されている。ここにも建物のスカイラインが形成する水平線という幾何学的秩序を都市に組み込むという意図を見ることができる。この意図を明瞭に示すために、視高を建物の高さに一致させて透視図が描かれたと考えてよいであろう。
このような組み込まれた幾何学的秩序の図的表現はスカイラインの一致にとどまらない。ディテールを描き込むことなく建築形態を角柱という幾何学的立体として表現するだけでなく、通りの軸線が無限遠まで進展する様子が描かれている。都市に組み込まれた軸線という幾何学的秩序を遮るような構築物は配置されることはない。この結果、軸線上に立った人間の眼は、直接、軸線を捉えることができる。これは「プランの幻覚」(EN第一五号)で強調されることであるが、その様を視点を軸線上に設定した透視図が伝えているといえるだろう。すなわち、軸線はボザールに見られるような平面図に理念的に導入された抽象的産物ではなく、人間の眼が直接捉えるものとして表現されるのである。

3──ル・コルビュジエ「300万人の現代都市」の「凹凸型住区」透視図、1922(FLC30827)

3──ル・コルビュジエ「300万人の現代都市」の「凹凸型住区」透視図、1922(FLC30827)

6:同時存在としての現代都市

前述の「棟状都市」同様、「三〇〇万人の現代都市」の透視図も幾何学的形態以外の具体的な指示物を欠いたものといえよう。
ここで興味深いのは、この「棟状都市」を発表したEN第四号「建築家諸氏への三つの提言、3・プラン」の一年後である一九二二年以降、LCの関心が過去の建築へと向かうことである。立体、面、プランという独自の建築形態解釈のフレームを確立した彼は、ENにおいて、過去の建築へ遡及することで、自らの解釈フレームの正当性を例証しようとする。一九二二年一月刊行のEN第一四号の「ローマの教訓」ではローマへと、同年二月刊行のEN第一五号の「プランの幻覚」ではポンペイへ、五月刊行のEN第一六号の「精神の純粋な創造」ではパルテノンへと。これらの一連の論文は、過去の建築物を題材として彼の建築解釈のフレームが正しいことを例証するものと考えてよいであろう。
その結果、過去の建築形態はその時代性やプログラムを超越して形態的範例として自由に取り出すことが可能になったと考えられる。我々は、その具体例を「三〇〇万人の現代都市」の平面図[図4]に見ることができるのではないか? 都心部の中央広場の形状は、サン・ピエトロ寺院の平面形に非常に類似している★七。更に、見ようによっては、棟の平面形態は、サン・ピエトロ寺院の壁柱に見えないこともない。これは、単なる偶然というより意図されたものと考えるべきであろう。
これを最もよく示す図は『全作品集』一一三頁に掲載された透視図である[図5]。この図は、「ヴォワザン計画」のものとして掲げられているが、中央広場の平面形状は「三〇〇万人の現代都市」を示している。棟の表現を見ると、床スラブを示すと思われる水平な分割線が描かれており、先の「三〇〇万人の現代都市」の透視図とは表現が異なっている(そこでは、格子状の分割線が描かれていた)。ところで、水平な分割線は見ようによっては、目地のようにも見える。こうした見方をとった瞬間、中央広場の平面形状と合わせて、図の読み手は現代都市のイメージをサン・ピエトロ寺院の内部空間へとだぶらせることになる。極度に抽象化された建物の表現は、読み手にさまざまな具体的参照物への連想を可能にするといえよう。先のペレの透視図と比較すれば、その差異は明らかであろう。
つまり、この図は表題である「ヴォワザン計画」以外に「三〇〇万人の現代都市」と「サン・ピエトロ寺院」という二つの対象を同時に表象する。──「三〇〇万人の現代都市」との接続は、「ヴォワザン計画」がこれのパリへの適用であることから当然のことであるが。
ところで、「現代都市」と訳される"Ville Contemporaine"の"contemporaine"の原義は「同一の時間」である。ここで我々は、「同一の時間」という意味に遡及せざるをえない。細部や組立の表現が省略された透視図の幾何学的表現形式は、幾何学的形態として過去を同時代のものとして取り込むことを可能にする。つまり、LCの透視図に示された高層棟の形態イメージは、自由に時間を超越して過去へと接続し、一方で、摩天楼に対する新しい形態の提示という意味で未来への接続を可能にする。いいかえるなら、現在、過去、未来が同時存在として立ち現われるのである。
「サン・ピエトロ寺院」との接続に見られるような現代と過去の接続は、ここに初めて見られるものではない。一九二一年七月刊行のEN第一〇号「もの見ない目、3・自動車」にはパエストゥム神殿とパルテノン神殿が最新型の自動車と併置されることで、現代と過去が接続されている。しかし、そこでの接続は写真の併置にとどまっており、その形態的接続関係は本文で説明されることはない。宙づりにされたまま、判断は読者にゆだねられている。「ヴォワザン計画」あるいは「三〇〇万人の現代都市」においても、サン・ピエトロ寺院との関係はいっさい説明されることはない。説明は、もっぱら現在の都市的問題の解決法に終始する。つまり、図は、文字テクストとは異なる表象媒体として機能するのである。

4──ル・コルビュジエ「300万人の現代都市」平面図(FLC31006)

4──ル・コルビュジエ「300万人の現代都市」平面図(FLC31006)

5──ル・コルビュジエ「ヴォワザン計画」都心部の透視図、1925(FLC30850)中央広場の形態は「300万人の現代都市」を示している。「ヴォワザン計画」より

5──ル・コルビュジエ「ヴォワザン計画」都心部の透視図、1925(FLC30850)中央広場の形態は「300万人の現代都市」を示している。「ヴォワザン計画」より

7:知覚装置としてのジオラマ

「三〇〇万人の現代都市」と「ヴォワザン計画」にはジオラマの使用という共通点がある[図6]。これは、円筒面に描かれた都市の透視図を指定された視点から眺めるという装置である。透視図もあらかじめ指定された視点からの投影であるが、必ずしも想定された距離だけ離れてその図を見るものではない。これに対し、ここで提示されたジオラマは、図の読者に図を見る位置を強制するという点で一般の透視図とは異なっている。
更に、ジオラマの使用は透視図の問題点を補うものでもある。透視図は、遠くのものが小さく見えるという感覚的事象を幾何学的方法により定式化するものであったが、平面に投影するため周辺部が歪むという問題があった。このため、透視図は描かれる対象が歪みの少ない範囲におさまるよう(視野の範囲である五〇度から六〇度以内が推奨される)十分な視距離をとって描かれるのが普通である。それでも、周辺部の歪みを避けることができず、フランク・ロイド・ライトなどは、近景を省略したり、周辺部の形状を修正する等の工夫を行なっている。つまり、透視図は、都市のような広大な景観を描くには不向きであるということができる。
こうした歪みが生じる原因のひとつは、網膜が球面であるのに対して透視図の投影面が平面であることである。球面への投影は同一の立体角の像は同じ大きさに投影されるのに対し、平面への投影では中央部では小さく周辺部では大きく投影される。円筒面への投影では少なくとも左右の歪みは解消され、都市という大きな広がりを持った対象を同時に表現することが可能になる。ちなみに、ジオラマで採用された水平方向の視野角は、ジオラマの平面図から読みとることができる。サロン・ドートンヌでのジオラマの初期案[図7]の視野角は一三〇度、実施案と考えられる図面番号30833の視野角は一〇〇度であり、レスプリ・ヌーヴォー館では八〇度になっている。俯角、仰角については小さい値が採用され、(一九二二年のサロン・ドートンヌ展では一五度、一九二五年のレスプリ・ヌーヴォー館では二〇度)上下方向の歪みはほとんどないと考えてよい。以上のようにジオラマは、透視図の図法的欠陥を補う網膜像の模像を生成する装置として機能するのである。
ところで、円筒面への投影は網膜像の模像以外にもう一つの知覚の特性をシミュレートする。一般の透視図では、注視点は画面中央、正確に言えば視点から画面に下した垂線の足にある。透視図は注視点方向の「見え」を再現するものといえる。これに対し、円筒面への投影では、視点から画面(円筒面)への垂線の足は、眼の高さの水平線となる。言い換えるなら、円筒面への投影では、視線を左右に振って見ても、注視点は常に視野の中央に位置することになる。従って、円筒面への投影は、視線の左右の動きをもシミュレートする投影であるといえる。その結果、注視点を画面中央に据えた平面への透視図では不可能であった視野の範囲を超えた表現が可能になる。
ところで、ジオラマでの知覚体験を平面に再現することは原理的に不可能である。その体験はジオラマという三次元空間でのみ可能であり、一枚の図版で再現することはできない。『全作品集』に掲載されたジオラマの写真と手描きの透視図を比較すれば、この違いを垣間見ることができる。写真では、周辺部の道路の画面上の角度は水平に近い。この写真がどのように作成されたかは不明であるが、おそらく複数の写真の合成である可能性が高い。この場合、複数の写真は、それぞれ注視点を写真中央に有しており、複数の注視点を表現するものといえる。これに対して手描き透視図(図面番号31005)は、円筒面に投影された透視図を平面に平行投影したものと考えられる。おそらく、図面番号31002はその作図プロセスを示すものであろう。この場合、注視点は再び画面中央のみに限定されてしまう★八。
ジオラマの採用から、人間の眼による対象の知覚への接近というLCの意図を読みとることができるのではないか? LCにとって対象は幾何学的認識の枠組みによって表現されるものであるが、それは理念的なものではなく、「人間の眼が見る」という直接的な知覚経験に根ざさねばならない。この意味において、円筒面への投影を採用するという行為は、透視図の周辺部の歪みを克服するだけでなく、より知覚に接近するという重要な意味を持つと考えられるのである。

6──ル・コルビュジエ「300万人の現代都市」ジオラマ写真[部分](FLC L2〈7〉614) 『全作品集』には、全景写真が掲載されている

6──ル・コルビュジエ「300万人の現代都市」ジオラマ写真[部分](FLC L2〈7〉614)
『全作品集』には、全景写真が掲載されている

7──ル・コルビュジエ「サロン・ドートンヌ」のためのジオラマ計画案、1922(FLC30832) 断面図を見ると眼の高さを透視図の棟の高さとほぼ一致させていることがわかる

7──ル・コルビュジエ「サロン・ドートンヌ」のためのジオラマ計画案、1922(FLC30832)
断面図を見ると眼の高さを透視図の棟の高さとほぼ一致させていることがわかる

8:知覚の再現から認識の再現へ──ミリタリ投影の採用

LCは「ヴォワザン計画」の都心部を表現するにあたって、軸測図を使用している[図8]。LCの軸測図の採用の起源はショワジーの『建築史』と一九二三年のデ・スティールの展覧会に遡ることができ、平面方向標準尺度の確立と平行関係にある★九。
しかし、ここで注意を喚起したいのは、軸測図に属するミリタリ投影とアイソメトリックの違いである。アイソメトリックは投影方向に直交する投影面への平行投影の一種であり、透視図のように遠くの物が小さく投影されるという奥行き方向の短縮はなく、平行線は平行に投影される。しかし、眼球の中心窩近傍の網膜面は平面に近似することができ、この付近の網膜像は限りなくアイソメトリックに近い。つまり、アイソメトリックは注視点近傍の網膜像の模像として透視図の延長線上に想定することができる。
これに対して、ミリタリ投影は投影方向に対して斜めにおかれた投影面への平行投影である。平面形(平面図に表現される形状)を実形に見るには、対象を真上から見なければならないが、その網膜像は注視点付近で平面図に近いものとなり、側面が映ることはない。ミリタリ投影は、網膜像の模像とは考えられない表現法なのである。つまり、ミリタリ投影は、網膜像の模像としての「知覚の再現」とは異なる表現形式であるということができる。飛行船の発明により可能になった俯瞰の視点の獲得だけでは説明不可能な別の図法と考えるべきであろう。
一方で、ミリタリ投影を「知覚の再現」に近づけようという立場も存在する。これは、ミリタリ投影において高さ方向の縮率をどのように設定するかに最も明確に現われる。高さ方向の縮率を平面方向の縮率と一致させる作図法と高さ方向の縮率を平面方向の縮率の0・6から0・7倍にする作図法が存在する。前者の作図法で描いた立方体は高く見えるという理由で後者の作図法を推奨する教科書も多い。一般に機械系のミリタリ投影は前者が用いられ、建築系では、両者が並存する。
LCのこの時期の軸測図を見ると、ほとんどがミリタリ投影であり、高さ方向の縮率の短縮も見られない。単独の建物の表現でもほとんどこの方法が採用されている。ここに見る限り、LCの軸測図では幾何学的な認識が優先されていると考えることができる。つまり、LCのミリタリ投影は「知覚の再現」というより「認識の再現」という性格が強いといえる。ミリタリ投影の採用は、単に透視図とは異なる表現法が採用されたということではなく、建築という三次元対象の表現のあり方に対する重要な問題を内包しているということができるであろう★一〇。

8──ル・コルビュジエ「ヴォワザン計画」の都心部ミリタリ投影図、1925(FLC29723)

8──ル・コルビュジエ「ヴォワザン計画」の都心部ミリタリ投影図、1925(FLC29723)

9:「知覚の再現」vs「認識の再現」

LCの透視図や軸測図を見ることで、導入された幾何学的秩序をいかに図に表現するかという意図の反映を見ることができた。一方で、導入された幾何学的秩序が人間の眼にどう見えるのかを再現しようという意図も見られる。つまり、表現の方向は二方向的であるということができよう。ジオラマ透視図の使用に代表される「知覚の再現」という方向とミリタリ投影の採用に代表される「認識の再現」という方向である。この点は、「認識の再現」として軸測図を主たる表現手段とするデ・スティールとは異なっている。
しかし、考えて見れば、ミリタリ投影により表現されるものは、あくまで幾何学的な認識、すなわち、建築を構成する対象の三次元形態の幾何学的距離と位置関係であり、一つの認識のあり方にすぎない。すなわち、ジオラマ透視図に見られるような「知覚の再現」による建築の理解も同時に存在するのである。LCは、感性的認識の契機としての人間の眼を捨て去ることはない。軸線は抽象的な幾何学的秩序としてではなく、人間の視線と関係づけられ、視線によって内部は外部へと連結されるのである。
LCは幾何学的距離の認識と感覚的な距離の認識の違いを意識していたようである。LCは、一九二四年の「ラ・ロッシュ─ジャンヌレ邸」以降、ポリクロミーという手法を採用する。直交グリッドという幾何学的秩序に従う壁体に彩色がほどこされるのである。ここで、使用される色はデ・スティールのような三原色ではない。ピュリスム絵画で使用された色である。絵画という二次元平面に色彩的遠近感をもたらした色彩が建築という三次元空間に導入される。これにより、壁体間の幾何学的距離と感覚的距離が意識的に併置されることになる。一九二五年以降に多用される彩色された軸測図はこの効果を最もよく示すものといえよう。そこでは、ミリタリ投影という幾何学的表現形式によって、直交グリッド上に配置された壁体間の距離が幾何学的に正しく表現されている。しかし、ポリクロミーによる感覚的距離も同時に表現されるのである。

参考文献
1──Le Corbusier und Pierre Jeanneret, Ihr Gesamtes Werk von 1910-1929, Verlag Dr. Girsberger & Cie, Zurich, 1930. 邦訳『ル・コルビュジエ全作品集第1巻』(A.D.A. EDITA Tokyo,
一九七九年)。
2──Le Corbusier, Album La Roche, Electa, 1996. 邦訳『ル・コルビュジエの画帳「ラ・ロッシュのアルバム」』(同朋舎、一九九七年)。
3──Stanislaus von Moos, "La città macchina" , in Album La Roche, Electa, 1996, pp.79-89.(邦訳「機械都市」)。
4──Le Corbusier & A.Ozenfant (ed.), L'Esprit Nouveau, vol.1-28, Éditions de L'Esprit Nouveau, 1920-1925.
5──H. Allen Brooks (ed.), The Le Corbusier Archive, Vol.1-2, Garland Publishing, Inc., Fondation Le Corbusier Paris and Dohosha,1991.
6──Le Corbusier, Vers une architecture, Les Éditions G. Crès et Cie, 1923.(本稿では 2e ed.,1924 を参照した)。邦訳『建築をめざして』(鹿島出版会、一九八一年)。
7──Le Corbusier, Urbanisme, Les Éditions Arthaud, 1980. 邦訳『ユルバニスム』(鹿島出版会、一九七七年)。


★一──参考文献1、三〇頁、邦訳二六頁。
★二──参考文献3、八〇頁、邦訳八〇頁。
★三──「ジオラマの透視図」の写真は、参考文献1のドイツ語版初版には見開きで掲載されるが、以後出版される三カ国語版には掲載されない。手描きの透視図が掲載されるのみである。
★四──残念ながら、一九二二年の「サロン・ドートンヌ展」にこれらの透視図や航空写真と鳥瞰透視図が出展されたかを知ることはできない。
★五──この一つの原因はENが一九二二年六月刊行の一七号から一九二三年一一月刊行の一八号まで刊行されないことにあると考えられる。サロン・ドートンヌ展の直接的な準備期間や展示期間はこの間である。
★六──参考文献7、二二〇頁、邦訳二一四頁。
★七──中央広場の形態とサン・ピエトロ寺院の平面形態の類似は参考文献3でも指摘されている。
★八──円筒面への投影、さらには、円筒面への投影を改めて平面に投影するということは、LCが透視図法を幾何学的に正確に理解していたことを示している。
★九──LCの軸測図採用の起源、軸測図と建築空間との関係については拙論「3次元空間の2次元表現──ル・コルビュジエの軸測図」、日本図学会一九九七年大会講演論文集、四九─五四頁を参照されたい。
★一〇──立体とミリタリ投影の対応を意識的に表現手段として採用したのは、P・アイゼンマンであろう。彼は、「ハウスX」の模型をわざと斜めに作成し、それを写真に撮ることによりミリタリ投影を模型写真として再現した。

>加藤道夫(カトウ・ミチオ)

1954年生
東京大学総合文化研究科教授。建築設計論、建築図学。

>『10+1』 No.10

特集=ル・コルビュジエを発見する

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>建築をめざして

1967年12月1日

>都市のイメージ

2007年5月

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。