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都市空間の史層、花街の近代──ひとつの「場所の系譜学」へ向けて | 加藤政洋
Red Light Districts in the Modern Era, An Urban Historical Layer: Towards a Genealogy of Location | Masahiro Kato
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために, 2002年09月30日発行) pp.138-152

1 都市空間の断片へ

おそらくこの百年間、日本の都市は、著しい人口成長と経済発展、そして時には不可抗力的な変化によって編制された諸々の空間的断片のなかに、幾重にもかさなる分厚い層を蓄積してきたにちがいない。ある地理学者が、都市空間の可視的領域を、さまざまな建築形態——さまざまな局面で蓄積された示差的な層——から構成される複合的な景観であると見立て、都市をパリンプセストに喩えたことがあった。現在目の当たりにしている都市は、過去の建造物の選別的な除去、建造環境の創造的な破壊によってつくりだされた所産であり、つねに現前する新しい景観の背後には、「消えた」あるいは消去・除去された累々と重なる過去の景観の層があるのだ、と。言い方を換えれば、それは都市景観の史層とでも呼ぶことができるだろうか。
都市景観を見ているだけで、建造環境に蓄積される資本を理解することはできないだろうし、景観の深層を読解することも困難ではある。だが、都市を歩き、街路を歩くことで、歩行する身体が景観の表層を細かになぞる時、ふいに空間に穿たれた裂け目、言わば都市景観の史層を垣間見せる穴を見つけることもあるだろう。わたしたちの歴史的想像力を喚起する、建造物などの遺物、地名や町名、そして人びとの場所感覚、あるいはそのイメージ。そのようなちょっとしたコトやモノに対して覚える戸惑いをきっかけとして、景観の表層をめくり返し、都市の史層を、局所的に、注意深く、文字どおり掘り下げるという歴史地理学的な営為を、ここではその局所性を強調するために「場所の系譜学」と呼ぶことにしたい。ミシェル・フーコーの言葉を借りれば、断絶・消滅・忘却・交差・再出現という、非連続的な行程を経てようやく、わたしたちのもとに到達した景観を脱自然化し、都市空間の断片とでもいうべき場所のなかで見定める実践である。
この「場所の系譜学」を念頭におき、わたしはこの数年間、都市の周縁的な場を現場=舞台フ  ィ ー ル  ドとした作業=記述ワ  ー  クを続けている。それは、大阪や東京のように、かつての都市域を大きく踏み越えて、周辺に立地していた別の小都市の市街地と連担して拡大し続ける都市圏のエッジを同定し素描スケッチするといったものではない。むしろ、現在ではインナーシティとして位置づけられる、明治期の既成市街地の周縁、市域拡張の各段階において制度的に周縁化された特定の場——貧民街ス ラ ム、木賃宿街、花街、そして時には食料品市場や「商店街盛り場」(石川栄耀)など——の履歴を探求し、それによって近代期の都市形成に固有な都市統治の思想と実践、都市空間の史層を捉え返そうとする試みである。

2 都市の空間的共通項——「花街」

もちろん、すべての都市にそうした場所が例外なく存在していたというわけではない(また仮にあったとしても、その史層をうまく掘り返せるとは限らない)。しかし、県庁所在地クラスの都市ばかりでなく、その他の小都市や旧在郷町を巡り、主として明治期以降の都市の形成や再編を観察するなかで、ひとつだけ気づいたことがあった。それは、とうに埋没したはずの史層を垣間見せる種別的な場所の存在である。どのマチに行ってもある、都市の空間的共通項とでもいうべきもの——「花街」。
都市規模の大小を問わず、「都市的」なところには必ず存在していたのではないかとさえ思えるほど、「花街」はそこかしこにあった。「かがい」とも読まれる「花街はなまち」は、意味する内容が歴史的に変化しているうえに、地域によっても用法が異なることから、一般化したり定義することは難しい。そこで、とりあえず、「料理屋・芸者屋・遊女屋などが多く軒を並べる町。色町。色里」(『広辞苑』)という辞書的な意味、それに加えて「いろざと。いろまち。くるわ」という共通の意味をもつ「遊郭・遊廓」(同)とイメージしておけばよいだろう★一。
歴史的にみると、江戸では遊女町(「遊廓」)を指す「花街」と芸者町を指す「柳巷」とが区別されていたが(後に両者を合わせた「花柳界」という合成語が生み出された)、この区別が明治期以降に一般化することはなかった。「花街」といえば料理屋—置屋—待合からなる三業地を指し、「貸座敷」(「娼妓」が妓楼に寄寓し座敷を借りるという意味)の営業地となった「遊廓」はそのまま「遊廓」と呼ばれるようになったのである。
永井良和が『風俗営業取締り』で詳述したように★二、明治期に「風俗警察」による「取締」の対象となった遊廓は、江戸時代以来の「集娼方式」を継承して、一定の区画に「囲い込まれた」。そして、一九〇〇年に発布された「娼妓取締規則」(内務省令第四四号)をもって、「売買春が一定の空間の内部において認められ」ると同時に、「それを各地方の警察が取り締まるという枠組みが成立」した。この「囲い込み」方式は、複数の「営業取締規則」によって待合茶屋や芸妓屋にも適用された結果、営業に対する許可は二業地・三業地というように地区を指定する形態をとることとなった。
しかし、永井が強調したように、「風俗」とはそもそも地域の独自性を意味していた。遊廓とは×××であるとか、花街とは……などと定義を与えて次なる都市を探訪すれば、そこには必ず定義からズレた「遊廓」なり「花街」が存在しているのである。ここでは、東京、大阪、その他の都市における「花街」のありようを瞥見しておこう。

——東京

東京において「風俗警察ノ取締」を要する「遊廓」とは、「娼妓貸座敷アル土地」を指した。そして、その「土地」で営業する「妓楼[貸座敷]娼妓引手茶屋ノ三者」をもって「三業ト唱ヘ」るのが東京の風俗である。たとえば、

本組合ハ明治三十三年九月警視庁令第三十七号ニ基キ東京府荏原郡品川町ニ於ケル貸座敷営業者引手茶屋営業者娼妓稼業者ノ三種営業者ヲ以テ組織シ品川三業組合ト称ス★三


という品川遊廓は、「娼妓取締規則」と同年に発布された「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」(警視庁令第参七号)によって営業を許可(地域を指定)されている。新吉原、新宿、洲崎、千住、板橋の「遊廓」もまた、貸座敷・引手茶屋・娼妓という三業の営業が許可された土地であった。
しかし、この「三業(組合)」は、「花街」を考えるうえでは混乱のもととなる。というのも、大正期以降になると、待合茶屋と料理屋で構成される二業、これに置屋(芸妓屋)を加えた三業が一般的、つまり「花街」の本流になり、待合茶屋・料理屋の二業組合が認可されている地を二業地(実際には芸妓屋組合もある)、二業に加えて芸妓屋組合が認可されている三業組合・三業会社の営業地を三業地と呼んでいたからである。しかし、規約のうえでは「三業」である「遊廓」が「三業地」と呼ばれる例はないので、東京で三業といえば待合(茶屋)—料理屋—芸妓屋(置屋)の組み合わせからなる「花街」と考えるのが妥当であろう(以下、「三業」はこの意味で使用する)。

——大阪

当然ながら大阪にも、「貸座敷取締規則」にもとづいて許可された「貸座敷」の営業地である遊廓が複数存在していた。しかし、同じ遊廓であっても、東京とはシステムが異なるうえに、府内遊廓でも相違点が見られる。伝統のある南地五花街(難波新地、宗右衛門町、櫓町、九郎右衛門町、阪町)、堀江、新町(甲部)の貸座敷では、娼妓の寄寓する「小方」、検番に相当する「扱店」、そして「揚店」とも称される「御茶屋」の三業が分立し、娼妓の稼業する御茶屋と娼妓を抱える小方との間に扱店が介在するかたちで、御茶屋から娼妓を呼ぶ際には必ず扱店を経由しなければならない「送り」の制度が採られていた。東京とは三業の呼称や形態そのものも異なっていたのである。さらに、新町の一部、明治初期に設置された松島、大正期に開発された飛田では、三業の区別がなく、娼妓を抱える店が自己の店で娼妓に稼業させ、他店から娼妓を呼んだり、あるいは他店に娼妓を送ることのない「居稼」の制度を採っていた。
一方、大阪の三業地は、一九二〇年代に「料理屋飲食店取締規則」にもとづいて指定された「芸妓居住地」として形成されている。地区内では「特殊料理屋」の営業を認められるが、それはただの料理屋というわけではない。

料理屋というのは、もちろん青楼、待合のことだ。ただこういう名目が許されないためで、割烹という看板を掲げたのが、いわゆる料理屋である。だから、ここでは板場のない料理屋がズラリと軒を並べている★四。


つまり、「待合茶屋」として機能する「特殊」な「料理屋」と「置屋」、そして割烹を合わせて三業地を形成していたのである。したがって、大阪の「お茶屋」とは、遊廓では「貸座敷」を、芸妓居住地では「料理屋」を指した。また、これらが二業地・三業地と呼ばれることはなく、ほとんどが遊廓と区別されることなく「新地」と呼ばれている。

——地方都市

地方都市に目をうつすと、「遊廓」の存在が大きく浮かび上がる。各都市の遊廓は、内務省令にしたがって各府県で制定された「娼妓取締規則」によって地区指定されるが、そのほとんどが江戸時代に成立していた遊廓を追認するという形式的なものであった。とはいえ、

遊廓は町中を縦断せる国道に沿うて普通の商家と交り南北の二箇所に建ち並び居りて風俗取締上好ましからず其の筋に於て疾より移転の必要を認め内内訓諭する所あり
(…中略…)此の地一町七段歩ばかりを遊廓地として移転のことに決定★五。


というように、「風俗取締上〜移転の必要」から、市街地近郊の土地に移転された例も少なくなく、都市の発展に合わせて新設された例も多い。しかし、地方の小都市でよく見られるのは、

世間では一般には遊廓と呼んでいる。しかし形式は私娼窟たるを失はない。何故なら灘町三十有余の遊廓に働らく女性は娼妓としての鑑札でなくて単なる酌婦として許されているだけだ★六。


あるいは、

この街の西方——越殿町には廓があるが、公認でないので、遊興費は僅かで済む★七。


というように、料理屋などが集積して自然とそういった機能を果たすようになった結果、地元で「遊廓」と呼ばれたり、そう認識されている場所であった。(昭和)戦前期発行の各地・各都市のガイドブック(いわゆる案内もの)にある「花街」という項目を参照すると、貸座敷の指定の有無にかかわりなく「遊廓」を紹介することもままみられる(さきの引用も「花街」の項目にある文章からである)。さらに、都市によっては『花街案内』なるものが出版され、遊廓(貸座敷)や検番・料理屋・置屋などが「花街」ないしは「花柳界」(「花柳街」)として紹介された。
こうした点を踏まえると、さまざまな変種を含む遊廓や二業地・三業地のどれかひとつをもって「花街」と定義することはできない。むしろ、取締規則上の区別や許可された営業形態にとらわれず、そして歴史的な形成過程にも留意し、少なくとも地元では自明なものとして認識されていた「遊廓」や三業地、あるいは検番組織が存在し料理屋が集積した一定の街区などを総称して、(あくまで括弧つきではあるが)「花街」と呼ぶのが適切であると思われる。この定義を前提として、これまでの探訪や諸資料から得られた情報を整理してみたところ、全国で六四九件の「花街」がリストアップされた。では、それらは一体、都市のなかでどのように布置されていたのか。

3 都市/地図のなかに

都市における空間的な位置を確認することは、場所の系譜を探究し、その社会的な位置性を問う出発点になると思われる。江戸時代以降、遊廓は制度的な「悪所」として都市の周縁部に囲い込まれ、その多くが明治中期の各府県における「娼妓取締規則」などによって地区指定された一方、近代的な都市空間の再編過程では、散在する「貸座敷」の整理統合を名目とした遊廓の新設が多くの都市の既成市街地近郊で進められた。いずれにしても、「花街」は当初、都市の周縁に位置していたのである。
近代都市におけるその周縁性は、都市地図のなかに確認することができる。「花街」の所在が記載されている地図など、もちろん、現在つくられているわけはないが、戦前にさかのぼると、多くの都市で発行されていた市域・町域の「全図」、「市街全図」、「市街図」、「市街地図」の類には必ずといっていいほど「遊廓」の記載があり、いずれもその位置を明確に読み取ることができる[図1—4]。

1──旭川 都市計画にもとづく市街地の縁辺に配置されている。 道内で都市内に2カ所の「遊廓」があるのは、旭川と小樽だけであった。

1──旭川
都市計画にもとづく市街地の縁辺に配置されている。
道内で都市内に2カ所の「遊廓」があるのは、旭川と小樽だけであった。

2──高田(上越) 旧城下町の外縁に位置する大規模な「栄町遊廓」。 戦後は「赤線」に移行。

2──高田(上越)
旧城下町の外縁に位置する大規模な「栄町遊廓」。
戦後は「赤線」に移行。

3──長野 維新後県庁所在地になった長野。 善光寺の門前町が都市の南北軸となり、東西に監獄・議事院、そして遊廓(鶴田新地)が配置されている。

3──長野
維新後県庁所在地になった長野。
善光寺の門前町が都市の南北軸となり、東西に監獄・議事院、そして遊廓(鶴田新地)が配置されている。

4──鹿児島 鹿児島湾に突き出した市街地の外れに位置する「常盤遊廓」(通称は「沖の村」)。 鹿児島駅の設置に際して、この地に移転された。

4──鹿児島
鹿児島湾に突き出した市街地の外れに位置する「常盤遊廓」(通称は「沖の村」)。
鹿児島駅の設置に際して、この地に移転された。

だが、地図に「遊廓」を含む「花街」の情報がすべて記載されるわけではない。なかでも、置屋—検番—料理屋からなる「花街」の場合、それらが制度的に認められているとはいえ、芸妓の出入りする料理屋は市街地に分散しているのが普通であるので、地区指定された二業地や三業地とは異なり地図に記載されることはまずない。
一例を挙げると、一九三〇年に発行された「佐世保市街地図」には、勝富町の上に「遊廓」という文字が明記されている[図5]。しかし、同年に作成された上水道敷設工事の資料「佐世保市待合貸座敷芸妓置屋分布図」によると、勝富町のほかに花園町と熊野町の一部にも貸座敷の指定地、つまり「遊廓」があること、そして市街地の北部に「芸妓置屋」の密集する街区があったことがわかる[図6]。地図上に「遊廓」という記載のない都市にも、当然ながら「貸座敷」や「花街」は存在していたのである。

5、6──佐世保 「遊郭」の位置が明記された「市街地図」。 「市街地図」には描かれないもうひとつの「遊郭」と「花街」の存在が浮かび上がる。

5、6──佐世保
「遊郭」の位置が明記された「市街地図」。
「市街地図」には描かれないもうひとつの「遊郭」と「花街」の存在が浮かび上がる。

したがって、花街を探訪する、あるいは花街の地史を探究するには、町名や花街名を手がかりに、「地」と「図」を往還する必要がある。「地」と「図」の往還は、都市の全域と局所的な場所との関係(=位置)を認知する運動にほかならない。とはいえ、地図とは地の表象=代表(なんらかの選別を経て描かれた図)であるのだから、そのなかに耽溺していただけでは見ることのできない景観が地(都市)にはあふれているはずである。場所の系譜の探究は、都市に分け入り景観に見出される痕跡を空間に穿たれた裂け目に変えて(景観の脱自然化)、その史層を掘り出すことができるかどうかにかかっている。

4 東京—花街マップ


ひとつの江戸—東京論

東京の「花街」をめぐる現在の語りは、おそらく三つに大別される。まず、[一]吉原や新宿を中心とする遊廓の歴史・文化を対象化する地域史的な語り、[二]吉原、洲崎、新宿、亀戸、新小岩、鳩の町、玉の井などの旧赤線地区を「消えゆく夢の街」としてとらえるノスタルジックな語り、そして[三]東京七花街——新橋、赤坂、葭町、柳橋、浅草、神楽坂、向島——をめぐる「江戸の文化が生きつづける」、あるいは「歴史と格式を誇る」といった文化史的な語り、である★八。

表1──遊廓の貸座敷・芸妓屋数 1922年調査。千住の「芸妓屋」は南千住の分を除く

表1──遊廓の貸座敷・芸妓屋数 1922年調査。千住の「芸妓屋」は南千住の分を除く

ところで、知られるように、東京の旧三五区内には、四宿と呼ばれる品川、板橋、新宿、千住、そして江戸時代に人形町界隈から転地された新吉原、明治期に根津から転地された洲崎の六カ所に貸座敷の指定地が存在していた[表1]。このような遊廓の規則的な配置に対して、二業・三業の「花街」はどのような立地形態をとっていたのか。著名な七花街以外にも数多く存在した「花街」の立地に関する次のような説明には、一と三の語り(特に後者)において色濃く見られる江戸—東京論的なひとつの様式が内包されている。

元来、東京花柳界の成立は、神社・仏閣、あるいは盛り場風光明媚の地などに、隠し砦の形態をとって自然に発生し集団化して行ったもので、これを慣例地と称している。例えば、講武所は神田明神、湯島は湯島天神、深川は八幡、芝は神明、下谷は池の端弁天、牛込は神楽坂毘沙門、四谷は津の守蓮池、葭町は人形町・蠣殻町、新橋は文明開化の音を立てた盛り場の地であり、日本橋は通信機関の伝馬と魚市場、新橋南地は烏森神社、新富町は守田座(のち新富座と改め)と新島原遊廓と、総て神社・仏閣・盛り場を中心として発達したものであった★九。


東京の「花街」は、たしかに「神社・仏閣・風光明媚の地」の周辺に立地している★一〇。引用文中の事例としてあげられている、神田の神田明神、湯島の湯島天神、深川仲町の富岡八幡、芝神明の神明、下谷の不忍池、牛込(神楽坂)の毘沙門、四谷の「津の守蓮池」、新橋南地の烏森神社に、目黒不動尊の門前に形成された目黒[図7]、亀戸天満宮に隣接する亀戸(後に城東と改称)[図8]、そして穴守稲荷鳥居前の穴守などを加えることもできるだろう。

7──目黒不動の二業地

7──目黒不動の二業地

8──亀戸の三業地

8──亀戸の三業地

また、「自然に発生し集団化して行った」という花街の形成に関する語りも興味ぶかい。というのも、それは遊山する客を相手にしていた「水茶屋から、後に料理旅館となって、……何時か芸妓も生れ、花街らしい環境を作ってしまった」(目黒の事例)という歴史的な変化をも示唆しているからである。
この立地の特性と歴史に関する地史的な説明で暗黙裡に前提されているのは、近世都市江戸に規定された東京の都市構造、あるいは江戸—東京の歴史的連続性である。この都市は、明治維新以後、昭和戦前期にいたるまで、あまりに多くの花街を創り出し布置してきたのであるが、はたしてそれらの花街は、こうした都市史においてどのような位置を占めるのだろうか。先の引用で語られていたように、それらもまた、「自然に発生」し形成されたという江戸—東京の連続性を担保するものとなっているのか。
まず、東京の「花街」をその所在地も含めて確定しておきたい[図9]。東京の場合、地方都市のように曖昧な「遊廓」は存在せず、貸座敷の指定地は明確に定められているので、ここでは「花街」を二業地・三業地に限定する[表2]★一一。

9──東京—花街マップ

9──東京—花街マップ

表2──花街の三業構成(大正11年)

表2──花街の三業構成(大正11年)

「花街」の有無および所在地を確定する作業において、すでにみたような都市地図の他に、『町案内』や『商工案内』の本編にある「遊廓」、「貸座敷」、「花柳界」の項目、組合や代表的な料亭が住所を明記して打った広告[図10]、都市圏別に編纂された業種別の電話帳、さらに鳥瞰図、文学作品、絵葉書、遊廓史、新聞記事などをこれまで参考にしてきた。しかし、東京の場合は、他の都市よりも多数になると予測されたため、全体が把握できる電話帳と料亭組合の名簿などを参照した。さらに、戦後の動向も含めた場所の系譜の記述を視野に入れ、一九三〇年代以降の旧三五区内に確実に存在した「花街」だけを選択した。その結果を新旧区別に一覧化したのが表3である。都市規模に圧倒的な差があるとはいえ、同時期の大阪市内の遊廓・新地が一三カ所であったことを考えれば、この四五カ所はあまりに多いと言わざるをえない。連続性を切断、あるいは再接続するかはともかく、明治期以降に創出された花街の地史的位相をマッピングしてみよう。

10──五反田三業組合広告

10──五反田三業組合広告

表3──東京の花街(昭和期) 1943年は待合組合、それ以降は料亭組合の加入者数

表3──東京の花街(昭和期) 1943年は待合組合、それ以降は料亭組合の加入者数

維新後の花街形成

東京では、江戸時代に起源をもつ花街も多い。そのなかには、江戸の中心に位置した日本橋、「江戸第一の芸妓本位の花街」と称された柳橋、(旧)吉原遊廓の移転後に発生した葭町、江戸の代表的な「狭斜の巷」深川仲町(天保期に廃止され、幕末に再許可)、霊岸島という俗称のある新川、山の手随一の賑わいを見せてきた牛込(許可は明治二五年とされる)、明治期に合併して下谷花街となる数寄屋町と同朋町、男娼から発生したとされる芝神明と湯島天神などが含まれる。明治期を通じてこれらの花街が「慣例地」として(再)形成された一方★一二、維新後の動乱とそれに続く都市空間の再編過程でぽっかりとできた空地に、新たな「花街」が創出されていった。
まず、維新後の混乱のさなか、明治政府によって明治元年に初めて設置された《新島原遊廓》の跡地に形成されたといういわくつきの花街が 《新富町》である。新島原の廃止(明治四年)後に居残った芸妓と、劇場に付随してこの地に移転してきた芝居茶屋の抱える芸妓とによって誕生したという。
江戸時代に起源を持つとされる新橋は、近代的な都市計画の胎動期に、ひとつの組合のなかに二つの検番を抱える花街として形成された特異な例である。そのきっかけをつくったのが、銀座における煉瓦街の建設であった。建設工事に合わせて、元来の花街は当時空地となっていた芝区の烏森神社付近に移転する。そして、建設工事の終了後、新天地たる「煉瓦地」へ再び移転する者と、すでに充分な基盤を築いていた烏森にとどまる者とに分かれ、汐留川を挟んだ京橋区側に《煉瓦地》の検番、芝区側に《南地》の検番が両立することとなった(後に両者は《新橋》と 《新橋南地》とに分裂)。その後、帝都の都心にあって双方ともに発展した結果、柳橋をも凌ぐ花街を形成する。
「慣例地」のなかには、実のところ、江戸—東京という都市の構造的な連続性を前提しない新興の花街も含まれた。維新後の都市再編の過程で、時代の転換を景観のなかに映し出すかのように、都心周辺に複数の花街が形成されていた。そのひとつが、新橋に次ぐと称されるほどに発展する《赤坂》である。この地には幕末まで「留守居茶屋」と呼ばれる料理店が数軒あったといい、花街形成の基盤になったと思われる。明治二年には早くも最初の芸妓屋が店開きし、明治中期に急速に発展した。
靖国神社近傍という立地形態は、ある意味で意外に思われるが、《九段》もまた維新後すぐに形成された花街である。明治二年、武家屋敷地であった富士見町に招魂社が建設された際、花街の新設を思い立った人物が境内に出した茶店が花街の端緒になったという。茶屋は早々に取り払われたものの、付近には料理屋が集積した。当初は牛込から派遣される芸妓に頼っていたが、明治二九年に検番を設置し、花街の形態を整えている。
 《四谷》は、その所在地から荒木町、あるいは「津の守」とも呼ばれた花街である。「津の守」とは、江戸時代、この地域にあった松平摂津守の屋敷にちなんだもので、同地は明治五年に町地として開放され、飛滝を造営して市民の納涼地としたことが発端となり、料理屋などが集積していったという。《神田》もまた、明治初年に形成された花街である。もともと加賀藩の屋敷で幕末には空地となっていたところに、明治三年、浅草にあった人形浄瑠璃の薩摩座が移転してきた。その際、追随した芝居茶屋には芸妓が抱えられていたという。明治五年に起こった火災で薩摩座は転出するが、芸妓がそのまま残った結果、小規模な花街に発展したのであった。

大正期以降の開発

大正期から昭和戦前期にかけて、花街は、市街地近郊の開発を含めた、二業地・三業地の指定によって形成されてゆく。大阪都市圏においても遊廓設置の出願があいついでいたが、結果的に認可されたのは電鉄会社および資本力のある土地建物会社の開発に対してだけであった。同じ時期の神戸市では、認可されない「花街」が公然と成立している。単純に比較することはできないにしても、東京における大正期以降の花街の形成は、数の上ではもちろんのこと、それらがいずれも正式に認可されているという点で、この都市の特異性を際立たせている。
「慣例地」以外で最初の指定を受けたのは、白山であった。明治の半ばからたびたび指定地の請願を出していた白山には、花街創建を見越した料理店などがすでに一定程度集積していたという。大正元年の指定後、すぐさま三業組合を設立し、花街に移行した。つづいて許可されたのが麻布である(大正二年)。元来、個人の所有する住宅地が大正元年に分譲されたのを受け、町内の有志者が発起人となって指定を受けたものであった。
大正一〇年、鉄道線と目黒川とに挟まれた一画に二業地の許可がおりる。五反田の花街である。当初は田んぼの一隅で四軒の芸妓屋から出発し、都市化・工業化の進展に合わせて段階的に花街の拡張が認められた。まず、大正一四年に二業地から三業地への変更が許可、さらに昭和二年と三年の二度にわたり区域の拡張が許可される。一九三〇年代には「城南の花街中、近時異常の殷盛を極めてゐる」と評された。
同じく大正一〇年に「江戸時代城北唯一の別荘地帯」と称された根岸に三業地が許可、翌年には駒込と新井にもおりている。駒込の認可は「将来の発展を見越して地価の吊るし上げを
謀る」地元の大地主の出願を受けてのことであった。大正期に創設された花街の風景——。

「市電駒込神明町で下車して右に折れると、芸妓屋、待合が軒を並べて緑酒を酌む客の影がおぼろに見越の末を越へて、円窓に映り、褄をとる仇な姿が右往左往する艶めかしい雰囲気をつくる。ここは駒込の花街、新興の花柳町である」。


もうひとつのウォーターフロント

城下町の掘割、隅田川や神田川に面して形成された花街がある一方、旧芝区から旧蒲田区にかけての京浜電車・京浜国道に沿って、東京湾を眺望する「風光絶佳」と謳われた各土地に花街が形成されたのもこの時期である。
早くは明治二九年、海浜に大きな料理店が建ち並んだ芝浦では、芝神明の芸妓を招くのでは不便であるとし、三業の許可を受けた(昭和初年に芝浦三業株式会社を創立)。東海道の最初の宿場町として「繁昌を誇っていた」ものの、「全く昔の面影を止め」なくなった品川遊廓内の芸妓屋(昭和五年の段階で二七軒)もまた、昭和七年に東品川三丁目の埋立地に三業地の許可を得て集団移転、品川海岸三業株式会社を組織し新たな花街を形成している。
さらに、品川区から大森区の沿岸に古くから存在していた大井と大森海岸に加えて、大正一〇年には鉱泉でにぎわっていた森ヶ崎で芸妓屋組合が組織され、大正一三年にはそれまでまったく「海岸砂地」であったという大森新地においても、芸妓屋・待合二業の営業が開始される。一方、蒲田区においても、羽田を沖に眺める穴守神社周辺に料理屋が集積して花街を形成し、市街の中心部にも蒲田新地が新設された。

5 景観の史層と断層

戦後、旧遊廓を中心とする「花街」の一部は、貸座敷や料理旅館などが「特殊飲食店」に衣替えすることで「赤線地帯」に移行、さらに一九五八年に完全施行された売春防止法によってその歴史に幕を閉じる★一三。その後、四〇年以上がたつ。「花街」はすでに過去の層になったのだ、と言えるくらいの時間は十分に経過したし、現在の景観がそれを如実に物語るところも多い。
まったく市街地化していない近郊の土地を開発して計画的に創り出された「花街」は、その開設期に市街地から隔離された市域の縁辺に配置されていたとはいえ、現在ではすっかり市街地に取り込まれ、かつての景観は急速に消えつつあり、貸座敷や料理屋の建築の痕跡を見つけることさえ困難なこともある[図11—23]。

11——[大阪府]住宅に転用された待合。角を切った玄関をしつらえるつくりは貸座敷にもよく見られる。

11——[大阪府]住宅に転用された待合。角を切った玄関をしつらえるつくりは貸座敷にもよく見られる。

12——[兵庫県]マンションが建ち並ぶ一角に残る貸座敷を転用した例。

12——[兵庫県]マンションが建ち並ぶ一角に残る貸座敷を転用した例。

13——[富山県]色鮮やかな壁面と松の飾りを残した住宅。

13——[富山県]色鮮やかな壁面と松の飾りを残した住宅。

14——[富山県]タイルの色調が美しいカフェー調の建物。

14——[富山県]タイルの色調が美しいカフェー調の建物。

15——[岐阜県]2階に電燈と飾り窓を残す建物。

15——[岐阜県]2階に電燈と飾り窓を残す建物。

16——[大阪府]壁面に円柱をしつらえたカフェー調の貸座敷。建物の一部は八百屋として使用されている。

16——[大阪府]壁面に円柱をしつらえたカフェー調の貸座敷。建物の一部は八百屋として使用されている。

17——[福井県]表の通りに面した電気屋であるが、側面を見ると廓建築の転用であることがわかる。

17——[福井県]表の通りに面した電気屋であるが、側面を見ると廓建築の転用であることがわかる。

18——[兵庫県]貸座敷を工場に転用した珍しい事例。

18——[兵庫県]貸座敷を工場に転用した珍しい事例。

19——[富山県]木造建築(旧貸座敷)の1階部分を増築してスナックに転用したもの。遊廓の象徴であった灯籠が手前に見える。

19——[富山県]木造建築(旧貸座敷)の1階部分を増築してスナックに転用したもの。遊廓の象徴であった灯籠が手前に見える。

20——[大阪府]現在でも営業を続けている待合茶屋。

20——[大阪府]現在でも営業を続けている待合茶屋。

21——[京都府]水上勉の小説で有名な京都五番町。最近まで残っていたカフェー調の建物。

21——[京都府]水上勉の小説で有名な京都五番町。最近まで残っていたカフェー調の建物。

22——[大阪府]貸座敷の特徴である部屋数の多さを利用して、現在では下宿になっている。

22——[大阪府]貸座敷の特徴である部屋数の多さを利用して、現在では下宿になっている。

23——[石川県]旧貸座敷の裏路地に残る「竜宮風呂・家族の湯」の看板。一時は旅館に転用されていた。 いずれも筆者撮影

23——[石川県]旧貸座敷の裏路地に残る「竜宮風呂・家族の湯」の看板。一時は旅館に転用されていた。
いずれも筆者撮影

ためしに、湾岸を歩いてみる。羽田空港から芝浦埠頭につらなる人口の島と埠頭。南北に並行して走る第一京浜、京急、モノレール、首都高。これら交通にまつわる巨大な構造物がまるで景観の断層であるかのように、かつてのウォーターフロント花街を切断し孤立させている。いずれの花街も、わずかに小料理屋などを残している以外、ほとんどが高層マンションや住宅、オフィスビル、ラブホテルなどに建て替えられているのだが、なかには料理屋をそのまま転用した住宅もみられた。
競艇場・運河と第一京浜とに挟み込まれた南北に細長く伸びる街区。マンション、コンピュータ会社のオフィスビル、自動車のショールームによってほとんど埋め尽くされている。そのなかに残る、もはや東京湾を眺望できるはずもない三階建ての住宅が印象的であった。海浜型の花街であった大井の残照である。これもまた、特定の機能を担ってきた場所がその固有性を失い、都市空間の断片に埋もれてゆく過程の一端なのだろう。
それにしても、この都市で創出された花街はあまりに多いのだが、今一度花街マップに立ち返ってみると、いくつかの地史的特徴が明らかになる。まず、明治初期に形成された「花街」は、ある意味、ガタガタになった都市空間の隙間に潜り込むようにして成立したこと。中心—周縁なるものは、ここにはない。社会が動き、空間が綻び、その間隙にいともたやすく場を得たかに見える。それに対する反動なのか、「慣例地」以外には認めないという引き締めが明治末期までつづき、その原則が緩められた大正期以降、堰を切ったように、郊外では次々に地元地主などの開発計画にもとづく「花街」が開設されていった(結局、荒川を越えることはなかったのだが)。すでに、江戸—東京を切断する線も見え隠れしているが、マッピングはあくまで出発点にすぎない。景観の史層を掘り起こし、「花街」を標準点にした都市空間の三角測量が、次なる段階である。


★一——この「いろ」が、性に関わる(可能性のある)「営業」を意味していることは言うまでもない。
★二——永井良和『風俗営業取締り』(講談社メチエ、二〇〇二)。
★三——『大正四年十一月改正 品川貸座敷引手茶屋娼妓組合規約』。
★四——小松一郎「近代色を加へた遊境今里新地」(『大大阪』第八巻第八号、一九三二)。
★五——『大阪朝日新聞』大正二年一月二六日。
★六——田山停雲編『鳥取県乃歓楽境』(新鳥取社、一九三六)。
★七——同書。
★八——九〇年代以降に進められた地域史を女性史として語る試みのなかで、[一]と[二]に関わる成果があいついで出版された。また、[三]の語りの特徴は、「体を売る娼妓」と「芸を売る芸妓」とが明確に区別されることを強調する点にあり、「遊廓」における芸妓の存在を語ることは少ない。
★九——浪江洋二編『白山三業沿革史』(雄山閣、一九六一)。
★一〇——成立過程に関しては、福西隆『東都芸妓名鑑』(南桜社、一九三〇)および加藤藤吉『日本花街志 第一巻』(四季社、一九五六)を参照した。
★一一——したがって、新宿以外の各遊郭には「芸妓屋」も存在し、まさしく「花街」と「柳巷」とをあわせ持つ花柳界を形成していたのであるが、ここでは含めない。
★一二——たとえば、ともに江戸時代に起源をもつ亀戸と浅草は、前者が亀戸天神付近の沼地を埋め立てた地で明治三八年に正式に三業地として認可された一方、後者は明治期を通じて浅草公園から千束・象潟方面へと置屋・待合の中心を移していく。
★一三——この経緯についても、前掲の永井『風俗営業取締り』に詳しい。旧遊廓でも赤線に指定されなかったところや、旧三業地でも指定されたところがあり、実質的な業態に応じて適用されていたと考えられる。しかし、戦後自然発生した特殊飲食店街を赤線/青線に指定した基準は明確ではない。またこれによって、料亭—置屋—検番の「花柳界」が「花街」として特権化されることにもなった。

>加藤政洋(カトウ マサヒロ)

1972年生
流通科学大学商学部講師。歴史地理学。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために

>ミシェル・フーコー

1926年 - 1984年
フランスの哲学者。