一九四五年、二〇世紀前半のテクノロジーを最大限につぎ込み、全人類の抹殺可能性さえも示すことになる第二次世界大戦が終結した。
同年、歴史上初めて光線兵器(原爆)が使用されたことにより、人類は「個としての死」から「種としての死」(A・ケストラー)を予感するようになった。
当時まだ一〇代の少年だったポール・ヴィリリオは、この夏にそれまで近づくことの禁じられた海岸線を自由に探索できるようになり、トーチカの点在する破棄された前線を不思議な風景として眺めていたという★一。
そしてこの年、ジャン・ヌーヴェルはフランスで生まれた。
パリは燃えていた
一九六八年、パリのカルチェ・ラタンでは学生と労働者が連携しつつ警官隊と衝突し、市街戦を繰りひろげる[図2]。このパリ五月革命をはじめとして、ソ連軍の戦車に踏みにじられたプラハの春、アメリカのキャンパスでもりあがった学生運動、安田講堂にたてこもった東大紛争など、同時代には世界の各地で若い反動のあらしがふきあれていた。
そして現在、今から三〇年前にあたるこの年が、多くの論者によって建築の転回点として語られるようになった。A・ツォニスとL・ルフェーヴルは『一九六八年以降のヨーロッパ建築』を著し、一九九二年のEC統合までのデザインの潮流を、ポピュリズム、秩序への回帰、ネオリゴリズム、スキンリゴリズム、批判的地域主義、無秩序への回帰、ダーティリアリズムなど、八つの傾向に整理している★二。またJ・オックマンによる建築論のアンソロジー『建築文化 一九四三─一九六八』が一九六八年までを収録したのに呼応するかのように、M・ヘイズによる同傾向の本は一九六八年以降のテクストを対象としている★三。イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、「一九六八年という年は、近代運動の終わりとポストモダン文化の爆発を象徴的に指し示している」と言い★四、日本でも磯崎新が、この年の出来事を神話的に語っている★五。
だが、実際のところ、この年、建築では何が起きたのか?
例えば、「誰もが建築家である。すべてが建築である」というよく知られたハンス・ホラインの宣言が、クリストやオルデンバーグなどの図像とともに『バウ』誌に掲載されたのは、この年だった。この言葉とイメージは建築の想像力を解き放つだろう。ホラインはこう語った。メディア・テクノロジーの発達により、「建物という観点だけで建築を考えることはやめねばならない」。いまだ古い城塞をつくるのではなく、その先を求めて「建築家は軍事戦略の発達に学ばないといけない」、と。
では、革命の象徴的な震源地とされるパリにおいて何が起きたのか?
パリの革命熱は、一八一九年の開校以来、一九世紀のヨーロッパ建築界をリードし、ル・コルビュジエが目の敵にしたように、二〇世紀もなおモダニズムと関わりなく延命していたエコール・デ・ボザールをも巻き込んだのである。そのときボザールはすでに教育の限界点に達しようとしていた。六〇年代には学生数が一・五倍に増加したにもかかわらず、教師も予算も設備も何ら改善されることがなく、旧来の教育制度は続き、教育環境は著しく悪化していた。
加えて、巷ではH・ルフェーヴルの『都市への権利』(一九六八、邦訳=森本和夫訳、筑摩書房、一九六九)やG・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(一九六七)が読まれ、建築家の社会的な役割が問われていたときに、相変わらずボザールでは社会の現実と関係ない教育をしていたことが、学生たちの不満を高める。事実、この頃のフランスは大量の移民を含む労働者に、老朽化したり、設備の整っていない居住環境しか提供できないことや、老人・子供の施設が不足していることが社会問題化していた。例えば、六〇年代以前にフランスで建設された一四〇〇万戸のうち約半数には浴室がなく、全人口の約三分の一にあたる一五〇〇万人は二部屋に五人以上で住み、約三万人の外国人労働者は個室に九人以上で住んでいたのである。
ゆえにルフェーヴルは、「建築家と建築は、社会的行為としての住むことや、実践としての建設と直接的な関係を持って」おり、「空間を切り取り、細分化し」人々を隔離するのではなく、空間─時間の単位を寄せ集めて再構成する都市への権利に参与すべきだと語った★六。ドゥボールは「資本主義的生産様式が空間を統一し、(…中略…)土地に備わった自律性と質を解体」させること、新しい居住が悲惨なものであるにもかかわらず大量性を備えているがゆえに拡大していること、「国土を抽象化のための領域へと抽象的に整備する独断的決定が、明らかに現代の建設条件の中心にある」ことを糾弾する。そして「都市開発に関する最も偉大な革命思想は、(…中略…)国土を完全に構築し直すという決定である」と語った。もっとも理論だけで行動の少ない知識人ルフェーヴルと、実際に闘争を呼びかけるシチュアシオニストのドゥボールらは、互いに批判しあったらしい★七。しかし、空間の矛盾を指摘する彼らの著作が革命の火をつけることに貢献したことは間違いない。たとえ、五月革命が平和な国の予想されざる突発的な事件に見えようとも、思想的なレヴェルで環境は整っていたのである。次に、ボザールが関わっていく経過を記そう★八。
五月六日 ソルボンヌに向かう六万人のデモが警官隊に攻撃され、一九四四年以来、初めてのバリケードがカルチェ・ラタンにつくられた[図3]。
五月八日 エコール・デ・ボザールがストライキを行なう。
五月一三日 ストライキは民衆の支持を得て、六〇万人がパリの街を行進。
五月一四日 ほとんどの大学がそうなったように、ボザールの構内も学生に占拠される。
五月一五日 ボザールのストライキ委員会がその目的と要求を発表する。
「……建築教育は、学生がカーボンコピーになってしまうまで、ただマスターのすることを反復するだけのものであってはならない。
われわれは建築生産の現状に対して闘いたい。(…中略…)フランスの建設産業では毎日三人の労働者が死んでいるのだ。
われわれはカリキュラムの内容に異議を唱えたい。それはとりわけ保守的であり、非合理的かつ非科学的であり、客観的な知識よりも印象と個人的な慣習がはびこっている。
ローマ賞のイデオロギーはいまだ健在なのだ。
要するにわれわれは学校と社会の真の関係を見直したいのであり、その階級的な性格に対して闘いたい……」
水曜日正午付けの「五月一五日動議」は、こうして建築家の社会参与を唱え、学生たちは五週間以上にわたって占拠し続けたが、六月二七日の早朝四時に警官隊が突入し、建築の五月革命は終わる。革命によって社会はけっして変わったわけではない。しかし、これを契機にボザールでは教育改革が行なわれ、一元的な教育システムの解体により五つの分校が設立されることになった(が、これに従わない第六分校が発生し、さらに複数の分校が増設された)。
この年、ジャン・ヌーヴェルはボザールの若き学生であり、二三歳になっていた。
彼は後にこう語っている。
「一九六八年は積極的に活動した。(…中略…)二カ月の間、路上を駆けまわり、大学の集会に参加した。われわれは直接民主制について討議し、政治的議論も行なった。(…中略…)いつもそのことははかなさと皮肉とともに記憶によみがえる。けど、とても楽しかったんだ。(…中略…)重要なことは、その時われわれがある種のユートピアが実現可能であると考えていたことだ。それは現実がユートピア思想に直面する大きな機会だった」★九。
1──照明弾、沖縄、1945年4月(ユージン・スミス撮影)
引用出典=『ユージン・スミスの見た日本』(東京都写真美術館、1996)
2──路上の五月革命
引用出典=Architectural Design, Sep, 1971.
3──カルチェ・ラタンのバリケード配置
引用出典=Architectural Design, Sep, 1971.
斜めの機能
この五月革命を契機に袂を分かつ、二人の男がいた。一九六三年にコラボレーションを始めた建築家のクロード・パランと理論家のポール・ヴィリリオである。二人が出会った頃、ヴィリリオは建築の専門教育を受けていないステンドグラスの絵描きだったらしいが、彼がもつセンスとアイデアに惹かれて、パランは対等のパートナーシップを結ぶ★一〇。パランは彫刻家とのつきあいやアンドレ・ブロックの影響を受けて、ブルータリズムにも連なる彫刻的な建築の造型に傾倒していた。一方、ヴィリリオは戦争論に興味を持っており、すでに第二次世界大戦中に建設されたトーチカの研究を始めていた。こうした背景のもとにトーチカにも似たブルータルなサンテ・ベルナデッテ教会が生まれたのである(もっともトーチカはすでに大戦時、時代遅れの施設だった)[図4・5]。二つの斜めに立ちあがるコンクリート・シェルが相互貫入する異形の教会。宗教熱心なヴィリリオのコネクションから得た仕事だった。彼らはこの設計を通して得られた概念を言語化すべく、一九六六年に『建築原理』誌を発刊し、「斜めの機能」に関するマニフェストを次々に発表する。
──われわれは今や変容の寸前にいるのだ。すなわち意識の変容、共通する知覚の中断、次元の概念についてのラディカルな変化。
──いったん垂直性の考えが放棄されれば、ついに空間─時間の真の具体化が可能となるだろう。
──実際、静的な垂直性と水平性はもはや人間の生活のダイナミクスに対応しない。将来、人間の意識の新しい段階に一致するよう、建築は斜めにつくられねばならない。それに失敗するどんな建築のプログラムもすぐに役立たずになるだろう。
(P・ヴィリリオ「警告」一九六六年二月)
ヴィリリオは水平が田舎の農業、垂直が都会の工業に対する秩序だとすれば、来るべき脱工業社会においては斜めの秩序が必要なのだという。そして建築的にいえば、垂直や水平ではなく、空間─時間を巻き込む運動に対応する「第三の建築空間の可能性」として「斜めの機能」が主張されていたのだ。確かに彼らが同時に描いたドローイングは、大胆にはねあがる斜めの線が同じく運動を意識した未来派のそれを想起させるし、あるいは同時代の思想が静的なものを嫌い、置換や移転などの動的な概念に注目していたことを知っていた彼らは、ディコンストラクションのように思想との連携を計ろうとした節もある[図6]。さらに今日から見れば、この斜め線を不安定な時代の象徴とみなせるかもしれない。だが、むしろ近代建築を含む、古い制度への抵抗として「斜めの機能」は読まれるべきなのだ。直交する三次元の座標系に支配された空間を書き直すための斜線。ともあれ、後にヴィリリオが地政学から時政学への転換をうたい、時間への関心を深めていったことを考えれば、「斜めの機能」にその萌芽が認められるのは興味深い。
しかし、二人は五月革命に対して対照的な行動をとった。簡単に言えば、約一〇歳年上のパランは少し前にボザール左派に冷やかされたこともあって運動に距離をとったのだが、フランス革命の再来を夢見ていたヴィリリオは積極的に参加したのである。『建築原理』八号から「想像力は権力をつかむ」のスローガンをとったポスターをソルボンヌの礼拝堂に貼りながら。一方、暴徒を嫌うパランはこのヴィリリオの態度を非難し、政治的な立場の違いは明白なものとなる。そして一九七〇年頃にパランが「斜めの機能」は政治的なものではないとする文章を書いたことにヴィリリオは激怒し、二人は完全に決裂した。そのために一九七〇年のヴェネチア・ビエンナーレにおける「斜めの空間」の展示に、ヴィリリオは参加していない。一九六八年以降、解体されたボザールの先生になったヴィリリオは理論家の道を歩み、パランは建築の実践を追求することになる。
この二人に学んだのが、他ならないヌーヴェルだった。
4──トーチカ
引用出典=Architecture of Aggression, 1973.
5──パラン&ヴィリリオ「サンテ・ベルナデッテ教会」
引用出典=6th International Architecture Exhibition, 1996.
6──「斜めの機能」のドローイング
引用出典=Architecture Culture 1943-1968, 1993.
若き日のヌーヴェル
一度は試験に落ちるものの、ヌーヴェルは国が主催するコンペでボザールに入学できる一等を獲得し、学校に在籍はしていた★一一。しかし、彼によれば「すべてを直感に頼って結局は戯画化してしまう」ボザール、「一生同じプロジェクトをやり続ける」狭い視野のボザールには、あまり魅力を感じていなかったようだ★一二。また彼は伝統的なドローイングの代わりに論文を書いた最初の学生だと述べている。若くして結婚したヌーヴェルは生活費を稼ぐために働いていたのだが、その事務所のパランとヴィリリオこそが「自分の本当の学校」だったことを強調している。当時、アカデミズムとも、歴史主義やモダニズムとも決別したかったヌーヴェルは、彼が最も意欲的な建築家とみなしていた二人とよく語りあい、議論する機会を度々もった。
パランはヌーヴェルが建築家として独り立ちするのに多くの手助けをしている。まずヌーヴェルが二一歳のとき、本人の弁によれば、泳ぎ方も知らない子供を水の中に投げ入れるように、プロジェクトのリーダーを任されて、設計を現場で覚えることになった。二五歳で独立するときにも、数年間は食っていけるよう、パランは幾つかのプロジェクトをまわしている。そして顔の広かったパランを通して、彼は美術関係のコネクションを得たという。
では、具体的にどのような影響を作品にあたえたのか? 八〇年代以降の活動によってすぐに透明性だけで語られてしまうヌーヴェルだが、彼の思想形成に大きな役割をはたしたと思われるパランとヴィリリオの痕跡を求めながら、作品を再検討することにしよう。
七〇年代の前半まで、彼は同じくパランの事務所にいたフランソワ・セニュールと共同で仕事を行なう。主にヌーヴェルがコンセプトを、セニュールがドローイングを担当していたらしいが、この頃、彼らは「斜めの機能」に強い影響を受けていた★一三。一九六九年から一九七二年までの実現されていない最初期のプロジェクト六点をみると、程度の差こそあれ、どれもが傾いた面と直交しないグリッド・システムの斜線が認められる★一四。例えば、パランが審査員をつとめた文部省主催の新しい学校のコンペ(一九六九)では、斜めに立ち上がる造型のモデュール式スクール・ユニット案を提出した。大地に突き刺さるような「自然の敷地、建築的創造」(一九七〇)のコンペ案は、大きな片持ち梁に支えられ、床面も傾斜し、エスカレーターなどの垂直動線が排除されているし[図7]、「国立芸術文化センター」(一九七一)は斜めに交わる空中ギャラリーが積層している。
また、この頃のコンペ案から後の実施作にも引き継がれる学校や集合住宅のデザインには、未完に終わった五月革命への建築的な回答が含まれていると思われるが、それは戸外に公共空間を置くことや、バルコニーがつく両側採光などの配慮にうかがわれるのではないだろうか。
7──J・ヌーヴェル「自然の敷地、建築的創造」(1970)
引用出典=『建築文化』一九九六年一二月号
パラン─ヌーヴェルの系
一九七二年の二つのコンペ案以降、影響は薄くなるが、初期の実施作品にもやはり斜めの造形ははっきりとあらわれていた。最初に実現したデルビゴ邸(一九七三)は、ブルータルなコンクリートによるもので、全体のヴォリュームがおだやかに傾斜している[図8]。
これがパラン自身の作品に類似していることは疑う余地もないが、一九九六年のヴェネチア・ビエンナーレのカタログでは、彫刻的建築としてアンドレ・ブロック─パラン─ヌーヴェルの系譜を位置づけながら、この住宅作品を高く評価している★一五[図9]。つまり、構造体を露骨にみせようとするハイテックとも、過去の様式を引用する歴史主義とも、違ったアプローチをこの時期彼は展開していたのだ。ただ、こうしたデザインは、今日ヌーヴェル的と考えられているものとは、やや異なって見えるかもしれない。しかし、塊としての建築や大胆な片持ち梁の使用は、決してなくなったわけではない。
ジャック・リュカンが指摘するように、ヌーヴェルは一面においてオブジェ風に閉じた実体として建築を考えることをパランから継承したといえるだろう★一六。例えば、彼がフィリップ・スタルクと共同した東京国立歌劇場のコンペ案(一九九六)は、内部に何が隠されているかわからない、ぬめっとした黒い皮膜に包まれており、質感は全然違うが、サンテ・ベルナデッテ教会の造形を想起させる[図10]。一瞬、スケール感を喪失する模型的な建築だ。ゴキブリのように黒光りするメタリックな表面をもつ、テレビゲーム・アーケード案(一九八五)も、おそらくこの系譜に含まれるだろう。もちろんヌーヴェルはプロジェクトごとにそこで課せられた条件をよく読みとり、実に多様なアイデアを展開する現代建築家の一人であるが、こうした彫刻的な性格をもつ、もこもことした形態も時々使う。光と透明性の顔だけを持っているわけではない。
また「斜めの機能」でよく使われた片持ち梁も、文脈を変えて使用されているのではないだろうか。次にこれを例証する作品を幾つか見ていきたい。
トゥール・コングレスセンター(一九九三)は、広場、公園、古い駅、通りといった複数の文脈が混在する敷地を引き受けて設計されたきわめて都市的な建物である。大きなガラス面が建物を取り囲むものの、全体としては巨大なオブジェという印象をあたえるだろう。そのボディは側面から見ると、後方に向かって屋根が斜めに下がっており、だんだんと建物が地面に沈み込むように思わせる。そして三つのホールを内包した断面の構成は、うまく客席の傾斜を三つ分連続させることで、「斜めの機能」が理想とした形状に近いものになっている[図11・12]。実際、建物の前面は片持ち梁で飛び出しているし、その上に帽子のつばのように張り出したという屋根も、「斜めの機能」の建築でよく見られた形態だ。なお、ルツェルン文化センターの計画案でも、微少ではあるが斜めにのびる屋根のラインと建物の張り出しという特徴が二棟に分けて使われている[図13]。
ネモジュスの集合住宅(一九八七)では、張り出したバルコニーと傾斜した手すりに、パランの影響を受
けた初期の集合住宅案と類似した構成が認められる[図14・15]。さらにマルヌ・ラ・ヴァレの体育館(一九八六)やデュオダ工業高校の増築における斜めの庇、ホテル・サン・ジェームス(一九八九)やホテル・レ・テルム(一九九二)の張り出すグレーチング、CLM/BBDO広告会社本社ビル(一九九三)の片持ち梁の外部ギャラリーや斜め上方に開く屋根などに、そうした傾向を見出すことができるだろう[図16]。
8──J・ヌーヴェル「デルビゴ邸」(1973)
引用出典=L'Architecture d'Aujourd'hui, Feb, 1984.
9──C・パラン「Drush House」
引用出典=6th International Architecture Exhibition, 1996.
10──J・ヌーヴェル「東京国立歌劇場案」(1986)
引用出典=『建築文化』一九九六年九月号
11──J・ヌーヴェル「トゥール・コングレスセンター」(1993)断面図
引用出典=『GA Document Extra07 ジャン・ヌーヴェル』(一九九六)
12──パラン&ヴィリリオ「シャルルヴィル文化センター」斜めの機能による断面図
引用出典=The Function of the Oblique, 1996.
13──J・ヌーヴェル「ルツェルン文化センター」
引用出典=『GA Document Extra07 ジャン・ヌーヴェル』(一九九六)
14──J・ヌーヴェル「ネモジュス集合住宅」(1987)
筆者撮影
15──J・ヌーヴェル「PAN住宅コンペ最優秀案」(1972)
引用出典=『建築文化』一九九六年一二月号
16──J・ヌーヴェル「デュオダ工業高校増築」
引用出典=『a+u』一九八八年七月号
ヴィリリオ─ヌーヴェルの系
本稿の目的はヌーヴェルに対するいわば二人のマスターの影響を仮説的に論じることであるが、次にヴィリリオとの接点を探ってみたい。両者を媒介するのは戦争だ。
ヴィリリオは第二次世界大戦後、さまざまな移動手段によって地理学は空間─時間の分析が必要なものに変わり、もはや戦争と平和を区別できない「純粋戦争」の状態に移行しつつあると考える★一七。純粋戦争とは科学とテクノロジーが究極的に実現された状態であり、最終兵器や秒速三〇万キロメートルのレーザー兵器が登場したために、人間の行為は意味を喪失し、実際に攻撃するかしないかにかかわらず、すでに戦争が始まっているのだという(戦争の兵站学を継承したコンビニの普及も純粋戦争を意味するかもしれない)。また彼によれば、社会的にも、イスラエルのパラシュート部隊がベイルート空港を攻撃した一九六九年以来、国家がテロリズムを行なう「戦争なき戦争」が勃発するようになった。すなわち「宣戦布告のない純粋戦争」。こうしたヴィリリオの時代認識をふまえたうえで、ヌーヴェルによる次の発言をみてみよう。
建築の問いかけは、われわれをとりまく世界を理解し楽しむことから来るものであり、その内部から起こるのではない。コルビュジエは、穀物サイロや飛行機など、他の生産過程を観察することでもたらされる可能性を最初に示した人物でした。(…中略…)ヴィリリオもまた軍備が形式化における研究領域であるという驚くべき根本事実をはっきりとさせた。実際、そうなのです。兵器ほど美しいものはない。(…中略…)軍事の世界は予告的な世界です。なぜならそれは最も強い技術と財力を存分に使うからであり、あらゆる発明は軍事を経由しているのです。(…中略…)近代的であることはコルビュジエ的であることではない。すべての立ちあらわれる現象に対して鋭敏な態度をもつことなのです。そしてこの事態は横断的であり、外部性を通して操作するのです★一八。
ヌーヴェルがヴィリリオとのつきあいから戦争にある程度の知識や関心を抱いたのは間違いないが、かつてアレハンドロ・ザエラ=ポロはドゥルーズとガタリから戦争機械の概念を借用し、ヌーヴェルの手法を説明していた★一九。状況に応じて建築的操作を使い分けるヌーヴェルは、ゲリラの
ただし、ヌーヴェル自身は、外部性、転倒、特殊性など、現実の世界を分析したり、各プロジェクトの規則を定める際の重要な概念を、特にフーコーの『知の考古学』(一九六九)から学んだと発言している★二〇。たぶんボザール批判ともつながる、今世紀の建築が自律的ではなくなったという歴史的な断絶の認識。その非連続性にこそ本質が見出されるという考え。概念をずらし、統合するという方法。こうしたものをフーコーに負っているのだ、と。それゆえ、彼は「建築の考古学者」になりたいという。一九六〇年代に起きた知の地殻変動である構造主義の洗礼も受けているのだ。ただ、ディコンストラクションの建築がしばしばそう見えてしまったように、非連続、切断、閾、限界、系、変形など、フーコーの言葉を形態に対してリテラルに試みるわけではない。あくまでも彼は概念上の操作を行なう。
ヌーヴェルはいつも建築のことを考え、建築家として休む間がないと告白したことがある★二一。建築以外のことをつねに建築に置き換えて思考するからだ。すなわち、建築を思考するのではなく、建築的に思考すること。そして好きな仕事場はベッドだという。なぜなら、収集したごちゃまぜのイメージが整理されるからである。その彼がとりわけよく言及するのが、今世紀の重要な表現形式である映画だ。例えば、組織論のレヴェルで、彼は建築と映画の制作をよく比較したりするが、両者の関係はこれにとどまるものではない。
ところで、ヴィリリオも映画に注目した理論家ではなかったか。彼の主著のひとつ『戦争と映画』(一九八四)は、戦争を題材にした映画の本ではなく、映画それ自体がすでに戦争であること、あるいはその逆をさまざまな事例から論じるものだった★二二。戦争─映画の両者ともに知覚の兵站学を総動員する洗練された様式であり、いかに両者の知覚形式が類似してしまったかは、本書の出版された後に発生した湾岸戦争の視覚体験によって多くの人が実感することになる。ここでようやく戦争─映画─建築の三つが関係をとり結ぶことが認識されるだろう。
シネマ・アーキテクチャー
ヌーヴェルは軍事(=映画)の世界が先取り的なものであると考えていたのだから、ル・コルビュジエがサイロや飛行機を参照したように、映画に関心を示したとしてもおかしくない。それゆえ彼は光や時間性に興味をもつ建築家なのだ。映画とは時間の介在した空間の体験であり、動く光のイメージにほかならないのだから。彼は空間における「旅の概念は建築を構成する新しい方法である」と述べており、単なるヴォリュームの組み合わせよりも空間のシークエンスとして建築をみているのだ。
先のヴィリリオの著作から、ヌーヴェルの建築を連想させる言葉を引用してみよう。「映画館は物質非在化をめぐる取引、つまり物質ではなく光を生産する新しい産業マーケットの特権的空間と化したのであり、かつての大建築物が誇ったあの巨大ガラス屋根を通過する光が突如、スクリーンの上に集光されることになった」。そもそも「巨大映画館が大聖堂に比較されたのも、大聖堂そのものが太陽光の照射される映写室」だからである。とすれば、ル・コルビュジエがいまだ明るい地中海の光を愛していたのに対し、夜のネオンを愛するヌーヴェルは、まさに闇の光を操る建築家とはいえまいか(彼は谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に言及したことがある)。強い太陽の光は対象物の明暗をはっきりさせることで物質性を強調するけれども、弱い電光は対象の輪郭を曖昧なままにして非物質性を演出するだろう★二三。例えば、リヨンのオペラ座(一九九三)やトゥール・コングレスセンターは、いかに闇のなかで各部分が魅力的に発光するかを試みている[図17]。映画の光学効果を建築に引き寄せているのだ。そして彼はこう述べる。「わたしは七〇年代に非物質化について語り続けた最初の建築家の一人です。だが、それは今もっとも関心を抱く美的特質のイリュージョンというより広い問題に対処する、ひとつの方法だと思います」★二四。
またヴィリリオは多彩な点のすべてが動いているテレビゲームのディスプレイ画面は、大聖堂を飾るステンドグラスに似ているとも指摘した。ゴシック建築の大きな特徴は非物質的な光る壁の存在であるが、言うまでもなく、電気光を積極的に使ったり、文字や図像の重ねあわせるスクリーンは、一九九〇年頃よりヌーヴェルがよく用いる手法である(なかなか実現しないから多いのかもしれないが)。巨大な画面としての建築。ウィーン世界博計画(一九九〇)は、各パヴィリオンを写すモザイク状モニターとしてのファサードをもつ。ヴェネチア映画祭パレス案(一九九〇)は、上下する大スクリーンにより、街を見下ろしたり映画を鑑賞できる。ほかにユーラリール・センターや、デュモント・シャウベルク本社(一九九〇)、サンドニのスタジアム(一九九五)、埼玉アリーナ(一九九五)のコンペ案がそうした系譜に含まれるだろう[図18・19・20]。かくして戦争の司令部やコックピット、または映画館やコンピュータの画面のように、「壁面はイメージの壁」となる。だが、逆説的にヌーヴェルのスクリーンでもっとも美しいのは、意図的には何も写さない自然の布、すなわち滝のカーテンではないだろうか。これには浮き橋試案(一九八八)とショワンヴィル橋の増築案(一九九二)の二つがあり、もし実現していれば、夜にはライトアップすることで、自然そのものよりも美しい人工的な自然の風景が現出するだろう[図21]。
実際、ヌーヴェルと映画の関係には根深いものがある★二五。彼は少年の頃から夜中に家を抜け出しては映画をこっそり見に行き、若い頃にはオーソン・ウェルズと会ったこともあったらしい(O・フィリヨンは両者ともが黒い帽子に葉巻のイメージだと指摘する)[図22]。例えば、ロックコンサートホール案(一九八三)では『2001年宇宙の旅』のモノリス、「明日のベルリン案」(一九九〇)では『ブレードランナー』の風景に想を得ているが、とりわけ彼はダイナミックに移動する視線の持ち主ヴィム・ヴェンダースに影響を受けていた[図23]。とすればヌーヴェルをダーティリアリズムの建築家にあげたリアンヌ・ルフェーヴルが、その概念を説明する際、ヴィム・ヴェンダースにも言及したことはまったく正しい。ダーティリズムの作家は都市の汚れた現実に向かいあうものだから。ともあれ、ヌーヴェルはベルフォール劇場のバー(一九八三)においてヴェンダースの映画のシーンを建築的に再現しようと試みたり、ヴェンダースへのオマージュとして映画の題名からとった「ことの次第」(一九八六)というナイトクラブのプロジェクトも提案している[図24]。いずれも決して美しいとは言えない敷地や空間の魅力を引きだそうと試み、映画のセットのように建築をつくるものだ。そして一九八九年ヌーヴェルはついにヴェンダースと個人的に会うことを実現し、それ以来親交を深めている。ヌーヴェルは無限の塔(一九八九)の建設過程をヴェンダースによって撮影してもらう考えをもっていたが、建設は中止となった。とはいえ、ヴェンダースの映画『夢の涯てまでも』(一九九一)の未来風景に一瞬ではあるが無限の塔が登場したのも、そうした経緯があってのことだろう。
さて、われわれは近作のカルティエ財団や、ヌーヴェルのみならず二〇世紀末の建築においても最高傑作であるアラブ世界研究所について一言も触れることなく、ここまで彼のことを論じてきた。いや逆に最もよく知られた彼の作品に触れずに、彼のことを記述することが本稿の試みであったのだ。が、いずれまたこれらの作品については連載のなかで詳しく検討することになる。今回はヌーヴェルの認識をよく示す、断章形式の予言的なテクスト「来るべきもの」の一部を最後に紹介することとしよう★二六。
二一世紀には三次元の建築が終焉するだろう。アルベルティの終わり。もはやパースぺクティヴは表象しない。空間、ヴォリューム、そして形態の強度はもはや建築を支配しない。建築はもっと深く、もっと神秘的に、もっと特殊化しており、制限するのがさらに困難になっているだろうから。
(…中略…)
新しい建築の様相は相互作用的である。すなわち時間(速度)、光(強度)、物質(触覚)、サイン(イメージ)。
(…中略…)
二一世紀において建築家であることは現実を操作することを意味するだろう。
(…中略…)
建築は美術を博物館の外にだせるような状況をつくらねばならない。
今日において現代美術を都市と建築に統合させる状況は、概して不適合でも時代錯誤的なことでもない。
建築家は芸術を無視するという態度を改めねばならない。
(…中略…)
都市計画は今世紀とともに死んでいく。
われわれは同じ単純な管理規則を領土に適応するという愚行をやめねばならない。そして政府の無責任もとめねばならない。
都市計画は領土戦略の統合になりつつある。
要求の多い政治的かつ民主的な統合は、定立─反定立─統合という古いモデルにもとづく強力な分析によってもたらされる。
(…中略…)
もはやエコロジーは近代性の批判ではない。
もはやテクノロジーは自然の敵ではない。
17──引用出典=『ジャン・ヌーヴェル リュミエール─光─』(一九九五)
18──筆者撮影
19──引用出典=『建築文化』一九九六年七月号
20──引用出典=『GA Document Extra07 ジャン・ヌーヴェル』(一九九六)
21──引用出典=『建築文化』一九九六年七月号
22──引用出典=『建築文化』一九九六年七月号
23──引用出典=『建築文化』一九九六年七月号
24──引用出典=『建築文化』一九九六年九月号
註
★一──P・ヴィリリオ「トーチカの考古学」(松畑強訳、『建築文化』一九九六年三月号)。
★二──A. Zonis & L. Lefaivre, Architecture in Europe since 1968, Thames and Hudson, 1992. なお『エディフィカーレ』(五号、一九九三)に該当論文の拙訳を収録している。
★三──K. Michael Hays, ed., Architecture Theory since 1968,(MIT Pressより刊行予定).
★四──Ignasi de Sol Morales Rubi et al., Differences: Topographies of Contemporary Architecture, MIT Press, 1996.
★五──磯崎新『建築の解体──一九六八年の建築情況』(鹿島出版会、一九九七)。
★六──H・ルフェーヴル『空間と政治』(今井成美訳、晶文社、
一九七五)。
★七──G・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳、平凡社、一九九三)の解説を参照。
★八──五月革命については ARCHITECTURAL DESIGN, Sep, 1971. のB・チュミらによる詳細なレポートや、M. Denes, ed., Form Follows Fiction: Écrits d'Architecture Fin de Siécle, Les éitions de la Villette, 1996. を参照。
★九──El Croquis: Jean Nouvel, 1994. のインタビューを参照。なお、『ジャン・ヌーヴェル リュミエール─光─』(TOTO出版、一九九五)にも、この一部が抜き書きされている。
★一〇──パランとヴィリリオについてはThe Function of the Oblique, Architectural Association, 1996. や、J. Ockman, Architecture Culture 1943-1968, Rizzoli, 1993. を参照。
★一一──『GA Document Extra07 ジャン・ヌーヴェル』(A・D・A・EDITA・TOKYO、一九九六)のインタビューを参照。
★一二──L'Architecture d'Aujourd'hui, Feb, 1984. のインタビューを参照。
★一三──L'Architecture d'Aujourd'hui, Dec,1994.
★一四──『建築文化』(一九九六年一二月号)。
★一五──6th International Architecture Exhibition, Electa, 1996.
★一六──The Function of the Oblique, 1996.
★一七──P・ヴィリリオ+S・ロトランジェ『純粋戦争』(細川周平訳、UPU、一九八七)。
★一八── ★八の文献を参照。
★一九──A. Zaera "Jean Nouvel: Intensifying the Real", in El Croquis: Jean Nouvel, 1994. なお『千のプラトー』の脱領土化や戦争機械などいくつかの概念が、ヴィリリオの影響を受けていることは興味深い。
★二〇──★一一や『建築文化』(一九九六年七月号)のインタビューを参照。
★二一──★一一の文献を参照。
★二二──P・ヴィリリオ『戦争と映画』(石井直志他訳、UPU、一九八八)
★二三──拙稿「MODERN TRANSPARENCY KILLED THE BIRDS!」(『エディフィカーレ』六号、一九九四)や、同号にて槻橋修と石崎順一の提唱した概念「ルミネッセント・ボディとしての建築」を参照されたい。
★二四──★八の文献を参照。
★二五──ヌーヴェルと映画の関係はO. Fillion "Life into Art, Art into Life: Fusions in Film, Video and Architecture", in Cinema & Architecture, British Film Institute, 1997. に詳しい。
★二六──J. Nouvel "`A Venir", in L'Architecture d'Aujourd'hui, Dec,1994.