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「日本近代建築史」の中の「日本建築史」 | 八束はじめ+五十嵐太郎
mail Dialogue: A "History of Japanese Architecture" in the "History of Modern Japanese Architecture" | Yatsuka Hajime, Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.62-76

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八束──今回の特集では、作家や作品というよりも広義の意味での言説を中心に明治以降の近代建築史を概観するという趣旨で、ここでは「建築史」という言説タイプを取り上げようと思います。いろいろと「日本近代建築史」に関するテクストを読んでいると、当り前のことですが、それらもまた歴史の一部であるということを改めて感じないではいられない。そこでこの企画を考えたわけですが、「近代」プロパーでは別に倉方俊輔さんが論考を寄せることもあって、もっと広い「日本建築史」一般にまで拡げてみたい。これまた当然至極のこととして、「日本建築史」も明治以降の「発明」として「日本近代建築史」の一部でもあるわけですから。
ところで、「日本建築史」のとりわけ発端あたりの時期について、この一〇年くらいで五十嵐さん前後の世代の研究者による色々な論考が出てきています。通常「日本建築史」は伊東忠太/関野貞以来のものということになっているのに対して、これらの諸研究はそれ以前の言説を見直そうとしていますね。
五十嵐──日本の近代建築を言説のレヴェルで読み直すことは興味があって、大学院の頃、論文のテーマにしようと考えていました。ただ、井上章一さんの一連の研究や、中谷礼仁さんの『明治・国学・建築家』が刊行されて、どうしても後追いになると思い、控えていました。それで『10+1』三号で天理教の空間を論じたことがきっかけになって、逆にまったく言説化されなかった新宗教の建築を調べてみたわけです。しかし、この論文もひと段落がついたので、久しぶりに『建築雑誌』を創刊当時から読み返しています。一番驚いたのは、明治二五年に木子清敬が「宇治平等院ノ沿革」を講演したのですが、その質疑応答で、河合浩蔵が当時の日本人には出来そうにない建築だから、朝鮮人が作ったのかと質問していることです。これに対し、木子はよくわからないが、日本人ではなかろうと答えており、今では日本の建築美を代表するとされる平等院に対する認識がまるで違う。ただ当時の保存状態は悪かったようです。木子は図面を作成したり、構造や細部の記述をしていますが、文献調査はあまりしてないようで、住職に尋ねたりするぐらいです。『建築雑誌』をみると、創刊二年目の明治二二年から、「東大寺南大門之沿革」、「日本宮殿建築ノ沿革」、「大日本古代建築沿革」など、古建築の論文が登場していますが、パースペクティヴをもった「歴史」というよりは、文字通りに「沿革」的なものですね。二五年には石井敬吉が文献資料を用いて、「日本佛寺建築沿革略」の連載を開始し、「未来ノ方針ヲ指示スル」ことを述べているものの、デザイン的な細部には立ち入っていない。これでは未来の建築様式を考える材料として不十分です。やはり二六年に伊東忠太が発表した「法隆寺建築論」は、外国の文献や美術の動向に影響を受けたのでしょうが、いかにも「論」らしく構成されている。「プロポーション」や「空間の形状」など、西洋的な分析装置の導入は、日本建築史の言説にとって、まったく目新しい。辰野金吾は伊東の研究を「誠に有益なるもの」と絶賛し、今後もこうした研究を継続するよう希望している。おそらく木子の技術解説では古建築が「芸術」にならない。伊東のような言説でなければ、芸術的な価値を付与できなかった。
八束──関野の学生時代の「鳳凰堂建築説」もそうだけれど、「建築」と銘打っているところがミソでしょう。伊東は卒論も「建築哲学」だし。当時は諸ジャンルでまず美学議論があります。それは「美術」や「文学」や「建築」のような枠組みを、そのサブジャンルの位置づけを含めて構築しようとしたわけで、「建築哲学」も、坪内逍遥の『小説神髄』みたいなものにあたると思う。例の「造家」か「建築」かという問題もここで起きてきた。
五十嵐──「造家」か「建築」かの議論では、最近、建築改名一〇〇年に合わせた『建築雑誌』一九九七年八月号が詳細な調査をやっていました。中谷礼仁さんらは、工学色の強い「造家」から芸術色の強い「建築」への移行という従来の説明を疑問視し、「造家」の方がアカデミーの選択したメタ概念だったと指摘しています。今にして思えば、「建築等」学会を打ちだす前哨戦として見れなくもないですが。
八束──単に工学的(=非美学的)なのは「造家」だったのか「建築」だったのかの問題ではないと思うんですよ。中谷さんたちの議論は、ここの二分法は確立済みとして割り振りを換えている感が強いけど、本当は工学も美学も新しい「発明」で、伝統的な「技芸」とか「術」と同じものじゃない。伊東に関しても、「歴史」以前に「建築」という括りを新たに必要としたわけですね。前からの語の用法との整合性の問題ではなくて、自分の概念的枠組みとして「建築」を選んだ。仕切り直しだと思う。それは「建築史」という概念につながるけれど、現場の人間であった木子の場合は、帝大での講義も「日本建築学」ではあっても「日本建築史」ではない。「史」とつながりうる「建築」とそうでない「建築」というか……。前者はモダニズムへの道を用意しているわけです。モダニズムの反歴史主義を思うと面白いことではあるけど。
五十嵐──モダニズムは歴史主義を否定するわけだけど、無関心というよりは断絶しつつも歴史の先端に立っているという意識に支えられている。ペヴスナーやギーディオンなんかの西洋建築史も、正しい現在にたどりつくまでの勝利史観であることがワトキンによって批判されました。モダニズムは血統を保証する出生証明書として歴史を欲する。

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五十嵐──今回の特集で書いた岸田日出刀論では、曲線か直線かというデザインの問題を取り上げました。彼は、伊東の設計した朝鮮神宮などを取り上げて、直線=国際的モダニズム=日本的神社建築=機能的=称賛すべきものに対し、曲線=中国的仏教建築=非合理=排除すべきものという構図をつくっています。神社とモダニズムが互いに補強しあうわけですね。
八束──岸田から見た忠太の直線路線が神社建築だというのは意味深ですね。磯崎新さんが、忠太は神社を南方建築のプリミティヴな建物として軽視したと書いていますが、それは伊東の初期の言説でしょう、むしろ?
五十嵐──ええ、大正の初め、明治神宮の設計過程で神社観が変わっている。周囲の圧力があったのかどうか、本当の理由はよくわからないんですけど。最初は進化論の枠組みに入れて、単純な神社から複雑な寺院とそれに影響を受けた神社という図式だったのが、転向後、神社だけは近代になっても変化すべきではない超歴史的な存在とされますね。彼は伊勢の遷宮の式に列席して感激したというようなことを書いていますが、造替のあった一九〇九年頃からそういう気持ちを抱き始めたのかもしれない。
伊東の趣向からいって、神社を美術的に評価できたというよりは、寺院からギリシアへの補助線を引いて日本建築の地位を高めなくとも、神社がずっと変わらないと信じてみせることで、世界的にも貴重な例だと言える可能性に気がついたということなのでしょう。ギリシアの石造神殿は廃墟化し、キリスト教の建築様式には一貫性がないのに対し、日本の木造神社は「精神」によって太古から現在まで一貫したかたちで残っていると主張し始めるわけだから。
もともと伊東の興味は曲線が豊かな仏教建築のほうにあった。「法隆寺建築論」は、「柱は『エンタシス』の曲線より成る」ことを東西交渉の結果として高く評価していますし、その翌年に伊東は「日本建築術に於ける曲線の性質を論す」(一八九四)を三回に分けて書いている。一八九〇年代に彼が書いた他の論文では、曲線を仏教と結びつけ、仏教建築以後に建築芸術ができたと言ってますし、神社に関しては流造と春日造が登場したのを曲線応用時代と整理しています。
八束──仏教建築にハイライトをあてたというのは、皇室の御物を含めた文化財の保存とも関わる政治的選択でもあるけれども、もうひとつには、当時の伝統建築派が木子を含めてほとんど住宅派だったということへの、アンチではないまでも、オルタナティヴだったのではないかな? つまり歴史=美学の対象である「建築」というのは、彼が二重の外部(西欧美学の枠組み+仏教芸術)に依拠することで伝統との切断をはかったということだと。
五十嵐──確かにそうですね。まず、最初に導入した西洋美術史的な分析手法は、仏教建築の装飾的な細部に使いやすかった。「プラン」や「エレヴェーション」の構成も「プロポーション」や「諧調」(ハーモニー)で解釈しようとした。伊東は日本の古建築を他者の眼差しで見ている。むろん、中谷の博士論文によれば、当時も規矩術の本が多く出版され、それが洋式建築に適用されたというような逆のアプローチもあった。ここで二つの眼差しが交差したと言えるかもしれない。
八束──けれど伊東のは、後者のより意識的な眼差しですよ。そこに彼の近代性がある。
五十嵐──それと、住宅は南方のプリミティヴな建築につながってしまうのに対し、仏教の建築ならば、すでにオーソライズされた中国、インド、そしてギリシアにまで接続できる。
八束──フレッチャーの裏返しができるというわけね。江戸時代までの建築書といったら木割や規矩術関係の技術書は別にすると、内裏を含めての上流住宅系の有職故実じゃない? それは「美術」的な枠組みとは明らかに異質なものだし、国学者の沢田名垂の書いた有名な「家屋雑考」なんかでも詳しいといえば詳しいし、寝殿造と書院造という今でも踏襲されている時代的な括りをしているとはいえ、歴史的なパースペクティヴはないし、逆にいえば近代史学としてはこの分類を踏襲すること自体に問題があるのかもしれない。いずれにせよ、国学的な言説には仏教も含めた外部の文化を排除する志向性があることからも、「日本建築史」の西欧的な性格に対して伝統を持ち出す時に、十把ひとからげにするのではまずい。伝統もひとつじゃなかったはずだから。逆に伊東の神社再評価も、単なる伝統への回帰じゃなくて、歴史主義としての同時代的な意味があるはずでしょう? 神社を進化論の枠組みから外したことで、ひとつの起源への回帰というマイナスの進化点が設定されたのだと思う。つまりビルディング・タイプとデザイン(スタイル? 趣味?)の問題がナショナリティの問題とマトリックスをつくっている。
五十嵐──伊東の建築進化論では、単純なものから複雑なものへの発展は決して悪く捉えられていない。少なくとも、初期の伊東は百鬼夜行的な建築様式のカオス状況を否定しておらず、それらの生存競争から適者が残るという進化論的な見通しをもっていた。神社の標準設計に反対していたのもそのためです。しかし、より複雑に進歩した寺院モデルから、起源に遡行する神社モデルへの転換は、伊東の手を離れ、やがて合理主義的なモダニズムを日本で肯定するための方策に合致していく。さらに構造と素材に対し、素直/自然にやるだけで、即日本的になるという論も登場します。一〇〇年前の話に戻りますが、明治末の一九〇〇年から一九一〇年にかけて、議事堂の問題、博覧会における日本の提示、古建築写真集の登場などにより、将来の日本建築を考えるためには古建築を参照すべきという雰囲気が強くなる。日清・日露戦争の連勝もナショナリズムに拍車をかけた。面白いのは、外国でのアール・ヌーヴォーの曲線的な意匠の流行は、日本が海外に与えた影響だとして喜ぶ発言が見られる。この時点では空間よりも装飾です。伊東や塚本靖はあまり建築的ではない、模様や装飾の分析も延々とやっている。後に伊東は、法隆寺の建築的な装飾がすべて機能的に説明できるというヴィオレ=ル=デュク的な解釈もやってますね。
八束──関野克も瓦とかの文様研究をやりますね。でもリーグルみたいなことは考えないんだね。リーグルの「後期ローマの芸術工芸」は関野の論考とほぼ同じ時期ですけれども。
五十嵐──その後、曲線から直線へのシフトが起こるわけですけども、太田博太郎を含む多くの日本建築史は直裁簡明であることを強調し、中国建築との違いを示そうとする。西洋の目から見れば、中国も日本も同じ木造建築の文化圏として括られる可能性があるから、日本建築を中国から切り離そうとしたのでしょう。日本が大陸にも進出し、研究も蓄積されると、アジアとの接続から切断に転換する。この議論は建築史だけではなく、同時代のデザイン論も共有していた。一九三〇年代以降、岸田やブルーノ・タウトは、直線こそが日本的という通俗的な二項対立の構図を流布させます。戦後すぐに刊行された星野昌一の『建築意匠』(一九四九)にも継承される。しかし、もとは日本=微妙な曲線/中国=はっきりした曲線だったのが、日本=直線/中国=曲線という単純な二元論にすり変わったことで、曲線の多様性は一元化される。ただ、例外がないわけでもなく、藤島亥治郎は同じ曲線でも高次の代数式で示されるほど美しい線だと論じています。円や楕円どまりのローマ建築はダメで、双曲線や放物線のギリシアや法隆寺はいいと。
八束──山口文象さんにインタビューした際に、石本喜久治の下で手伝った朝日新聞社社屋のアーチ型の窓のデザインは五ポイント(五つの円弧の組み合わせ)だかで、イージーに半円(一ポイント)なんかじゃないと威張っていた。藤島さんの議論と同時代かな? でもこの手の議論って今でも流行っているんですか?
五十嵐──最近の日本建築史は、直線的か曲線的か、あるいは何が日本的なのかといった大雑把な議論をしないように思います。そもそも、現代の建築家が読んで面白いデザイン的なことをあまり言わなくなった。
八束──避けて通っているのかな? 全部様式史の範疇だからって。
五十嵐──終戦直後、一部では建築史滅亡論まであったようですが、今年、山岸常人は「歴史は現代建築に必要か」という文を『GA JAPAN』に書いています。そこで彼は、「この答えは『必要だ』しかない。しかしその必要性を誰もが納得するように明快に答えるのは容易ではない」と述べています。ここでは現代建築の暴走にブレーキをかけるために、コンテクストへの理解をうながすものとしての歴史学の意義に触れていました。つまり、かつて歴史は目的的な進化論のために要請された時代もあったが、それが反転している。

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八束──最初に「建築史元年」における切断面を強調したけれど、まったく隔絶したかといったら、政治史の編年みたいな時代区分の枠組みは中国の正史以来のスタイルですよね。帝大に国史科ができるときに漢学派がイニシアティヴをとったこととも関わるかもしれないけど、この構図は最近の『新建築学大系』に至るまで変わっていない。天沼俊一も彼の『日本建築史』(一九三三)で本当は具合悪いと書いていますけれどね。明治以降の「日本建築史」は西欧的な枠組みだという批判を耳にするわりには、西欧との比較をまともにやっている例を寡聞にしてあまり知らないんだけれど、日本のはもともと保存・修復を含めて年代確定という部分が大きくて、空間の基本構成よりも組物とかの細部にいく傾向が強いけど、それだと政治や社会と重ねるのは必然性ないよね。
五十嵐──建築史でない人からは、日本建築史に出てくる組物など、細かい部材の話は辛いけど、井上充夫の『日本建築の空間』(一九六九)なら、美学的な空間論として興味深いという感想を聞いたことがあります。彼がこれを発表しなければ、先に賢い外国人が書いたかもしれないと思わせるような西洋的な視点の本ですね。法隆寺の細部におけるバロック的特徴といった論を西洋の建築史家協会の雑誌『JSAH』に寄稿したこともありました。『建築史学』でのインタヴューによれば、井上は谷口吉郎さんの建築意匠論に影響を受けたと言っています。そう言えば、同じ東工大の系譜では、篠原一男も日本建築の空間論をやっていましたね。ただ、こうした美学の性格が強いものは、現在、まっとうな日本建築史としては見られない。先のインタヴューにおいて、井上は芸術家的なセンスから伊東への共感も表明していました。
八束──建築平面の間面法というのがありますね。平面構成としたらものすごくベーシックな事柄ですが、最初関野や伊東も何を意味するのか分からなくて、昭和になってようやく足立康が解明したことを、太田博太郎さんが書かれていますけれど、あれは驚いた。昭和になるまで文法の基本がわかっていなかったというんですから。LDKシステムを無視して戦後の住宅計画の話しをしているようなものでしょう。さっき言った天沼の通史は、足立の「発見」とほとんど同時期ですけれども、「面」を堂々と側面のスパン数として書いている。一方足立は自分の『日本建築史』(一九四〇)では、混乱するといって、それを用いていないんですね。鎌倉の終わり頃から構造の自由度が増すのと、平面計画が複雑になるので型が崩れてくるから、通史の記法としては使いづらいということでしょうけど、それも含めて、細部先行で様式史がつくられていったような印象がある。古美術鑑定と美術史とは違うと思うんだけれど。『いま、日本建築を劇的に』というサブタイトルの中川武さんの本(『建築様式の歴史と表現』、一九八七)がありますね。あれの特に中世以降の部分は、結構システム的に考えられている。一種のメタ議論です。僕に日本建築の素養が不足しているせいで具体的にはよくわからないところも結構あるんですが、それでも中川さんはこういうことを言いたいんだろうという推量ができてしまう。当時の磯崎さんの西欧のマニエリズム建築の見方なんかに近いところがあるからかもしれない。さっき名前が挙がった井上さんは、岡崎乾二郎さんの本誌連載の議論でも意識されていますね。あれもメタ議論。
五十嵐──古い『建築雑誌』を読んでいたら、岡崎さんの方が精緻に「テニヲハ」論を展開していますけど、戦前にも似たような問題提起があったのを見つけました。瀧沢真弓が一九三五年に講演した「日本建築の文法」では、日本語の構造との類推をやっている。彼は「日本語はあたかも日本家の如き構造方式をもつていまして、たとへば部屋同士が互に加添式であるし、又部屋といふ体言に対して出入口は宛かも『テニヲハ』の如く、廊下や縁側は宛かも助動詞の如き作用をしている」と指摘しています。空間の機能性が問題になるわけですね。そして瀧沢は中国に比べて、日本が渡殿を重視しているのは、漢文に返り点をつけて日本語のように読むことに似ていると示唆しています。神社や寺院ではなく、住宅において日本的なものに注目すれば、こうした空間への着眼点が出てくるのではないか。
八束──ただ、井上さんみたいにいきなり空間論にいくのも問題なしとはしないと思う。一般に「空間」という概念を自明の前提にして形態分析してしまいがちだけど、「空間」という概念はそれ自体歴史的なものだし、ヨーロッパだって主にドイツとかオランダやフランスなんかではespaceというよりvideという方が少なくとも今世紀前半くらいまでは主流でしょう? 僕は岡崎さんの議論ではこのことが引っかかる。新手の「日本」美学論になりかねないんじゃないかと。つまり、常に歴史化してみる視点は必要だということだけど。

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八束──さっきの問題に戻って、年代確定ということで言うと、法隆寺の再建論争もあって、様式的細部のような遺構に即した実証では足りなくて、文献に基づいた実証主義的な方向にいきますよね。足立康は京都の福山敏男と並んでその方向の旗手でもあったわけだけど、『磯崎新の革命遊戯』(一九九六)に入っている対談で、磯崎さんが福山の実証主義の非政治性みたいなことを言っていますね。福山に関してではないけど、村松貞次郎さんも実証主義に関して同じようなこと言っていたような記憶がある。
五十嵐──実証主義は確かに無色透明のイメージを持ちうるが、ある史料が作成され、残っていること自体の政治性はつきまとう。研究者が史料を選ぶのではなく、史料が潜在的な研究者を待っている。そして今風に言えば、そうしたアーカイヴにアクセスできるかどうかにも、さまざまな権力が刻印される。
八束──宮内庁にいたから福山が一般に読めない文献にアクセスできたというのもそのひとつの例になるわけですね?
五十嵐──新宗教と建築について研究した経験から例を挙げれば、戦前に全施設を破壊された大本教は存在したことすらも抹消されようとしたから、関連する史料もすべて焼却された。だから、遺構も文書もない。かろうじて地方の支部で警察の眼を逃れたものや、皮肉なことに警察が証拠として記録したものが、貴重な資料になる。また天理教では、礼拝の対象である甘露台の図像が掲載された史料は聖なるものだから、そして戦前の史料はおそらく現在とは違う姿が知られてしまうために、複写禁止になっています。ところで、鈴木博之さんを中心とした研究会が契機になって一年ほど前から『住宅建築』で「復元思想の社会史」という大変に面白い連載をやっています。これは建築史が復元という究極の目標を追求しても、必ず不透明な部分が残ることに意識的であり、真正さを装いながら嘘をついてしまう復元行為に対しては、むしろ批判的です。選ばれた過去は他の過去の可能性を抑圧する。つまり、ひとつしかない過去の事実に邁進する素朴な「事実主義」ではなく、さまざまな解釈に開かれた歴史像をイメージしているようです。これは必ずしも実証主義への批判ではありませんが、実証しきれない歴史の揺らぎを豊かに残そうとしている。
八束──保存の問題は建築史学の成立の最初から歩みを共有していますね。むしろそちらから史学が立ち上がったみたいな。でもその最初から、復原という意識、つまり後世の変更を排して原点に立ち返るべきだという考えが明確なのは面白いと思う。西欧でもその辺りは一八世紀の中頃になってからでしょう。それまでは結構イマジナリーで実証とは無縁な復原が横行していたし、遺構の実体を知らなくてギリシアがいいみたいな議論すらしていた。ただ、あの明治の保存論のファンダメンタリズムには、西欧実証主義というだけじゃなくて、国学の原典主義みたいな匂いが感じられるんだけど。宣長の文献学だって「すべて後世の説にもかかはらず、何事も古書によりてその本を考へ、上代の事をつまびらかに明らむる学問なり」っていうわけだしね。ヴィンケルマンとかスチュアートとレヴェットは宣長と同時代だけど、これはあなたの言われた「ひとつの過去」の議論のタイプでしょう? 
五十嵐──漢意、すなわち不純物を排除した後に古代の真実が立ち現われる。近代の建築史もそうした熱意によって発達していますね。そして保存という現場のあるなしで、日本における日本建築史と西洋建築史の性格も分かれていく。先の連載における青木祐介の指摘によれば、伊東忠太が平安神宮を手がけたとき(一八九五)、平安遷都一〇〇〇年の祝祭に酔う民衆は、近世から続く「うつし」の娯楽的な文化にのっとって、「模造」や「模倣」と呼んでいた。しかし、歴史家としての伊東は学術的な再現を求めたのであり、やがて学者の「復元」という語が「模造」に否定的なニュアンスを与えていく。最近の文化財用語では、修理による過去の再現を「復原」、遺跡に新築するものを「復元」と使い分けますが、これは前者の正当化を狙ったものと言われています。「復元」よりも「復原」の方が部材の同一性や建築の連続性を信じられるからでしょう。
八束──確かに薬師寺ではオリジナルである東塔の方が「古色」があって、「復元」である西塔とか金堂より「有難く」見えるわけだけど、その東塔もまた明治の「復原」というか修理ですものね。結局そうした「目」もコード化されている。ただし、だからといって明治以前には多くの仏寺建築は軒が垂れてつっかい棒(束)立てていたみたいだから、それがいいかっていうとね……。「うつし」の娯楽的な文化っていうのは、今風に言うとシミュラークルっていうことだよね。でも伊東はテーマパークつくるつもりはなかった?
五十嵐──学問の厳密化と権威化のために、悪しきシミュラークルを排除しなければならない。また明治二〇年代の終わりに古社寺も「美術」として認識されるようになり、古社寺保存法が成立しますが、建築が「美術」であるならば、その贋作となる「うつし」は危険な存在になってしまう。ある程度は日本の木造建築ゆえの特性なのでしょうが、「写し」や「移し」を含めた「うつし」の文化は、通常は動かない芸術作品としての建築に対し、その存在の根底を揺るがすラディカルな問題提起になりうる。だから、近代において抑圧された。後世の改変を取り除いて、オリジナルに「復原」するといえば、先日展覧会でみたル・コルビュジエのペサックとレージュの住宅群も徹底してましたね。住民が陸屋根に切妻をつけてとても近代建築には見えなくなったものも、ちゃんと撤去する。フランスの文化財局の「文化財指定」を受けた建築だからこそ、オリジナルに戻すわけですよね。
八束──面白い問題ですね。ただ、全部元に戻すっていうのも、「うつし」を一〇〇パーセント許容してオリジナル主義を否定するっていうのも、結局はひとつの選択であって、他の可能性を抑圧するということに変わりない。相対主義がより抑圧の度が少ないっていうのはウソだと思う。前者にある歴史的真実なり、原型としての建築のあり方というかエートスみたいなものを前提とする信念、これは確かに完全には叶うことのないプラトニックな思考で、木造部材なら常に腐食していくし、もともと一〇〇年単位で建てられたヨーロッパ中世のカテドラルなんかでは、シャルトル大聖堂の左右の塔がそうであるように、オリジナルからすでに様式的な一貫性がない、つまり復原すべき起源がもともと分裂している場合もある。けれども、復原を無用だと否定してみても、明治以前にだって修復は行なわれてきたわけだし、今になってそれを止めるということも近代の作為でしょう? どっちもアポリアを抱えていることには変わりない。ぺサックにせよ、建築を「生活」の器として歴史的過程の中で見るという視点で見れば、復原はそれを博物館化するだけという言い方も成り立つ。けれど、その論理はヴァンダリズムの無制限の許容にもつながる。テーマパークもそのパラダイムに属すと思うんだけれど。

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八束──先ほどの磯崎さんの福山評価に戻るんだけれど、足立の「日本建築史」は国粋主義的なトーンで知られているわけですが、この問題はどうなのか。僕は磯崎さんの発言にひっかかるのはこの辺なんですよ。別に福山もファシストだなんて言たいのじゃないけど、足立はファシストだけど、福山は違うっていうので済むとも思えない。足立は、通史は時期尚早と言いながら死期を予感したので書いたということになっていますが、福山はあれだけたくさん書いていながら結局通史はやっていないよね。
五十嵐──明治政府は陵墓調査を行ない、根拠の不確かなまま次々と天皇陵を「発見」し、各地に聖蹟をばらまきましたが、足立は天皇の聖蹟の保存運動を熱心にやっていたみたいですね。聖蹟は過去のものだけれど、きわめて現代的な課題だった。とすれば、過去を現在にまでつなごうとする通史を足立が書いたことも、わかるような気もする。ともあれ、通史を書くときには、実証だけではどうにもならない余剰が出てきますね。例えば、何を選択するか。個々の記述は事実であったとしても、その背後には選択されない無数の対象があり、結果的に都合のいい物件をつないでいくとフィクショナルな物語性がどうしても発生してしまう。
八束──それは重要なことですよ。太田さんは足立はあれを書いてから変わったと言っている。具体的にどういう風にとは書いていないけど。太田さん自身が足立の推薦で『日本建築史序説』(一九四七)を書き始めたわけだけど、彼は「通史書くべし」と言っていますよね。歴史家としての義務だと。あれ偉いと思うな。最近『序説』もいろいろ批判され出したけど、あの本がなかったら、日本の近代建築史自体成り立たないところがあるでしょ。陳腐な形容だけど『序説』が旧約で、稲垣栄三さんの『日本の近代建築』(一九五九)が新約というか。僕みたいな素人には、通史を読むのが面白いのに対して、文献主義が徹底されると、ちょっと辛い。批判にはならないけれど。例えば福山が宮内庁に行ってまとめた『神宮建築に関する史的調査』なんか読んでも、結局記述対象の建築そのものは全然見えない。もちろんあの前後から一般史の研究レヴェルに建築史がフィロロジカルにも追いつくというのはわかるし、それ自体大したものとは思うけれど。でも津田左右吉なんかが今でも面白いのは、仮説が豊かにあって実証に終わっていないからで、建築史でそうなっていくと、研究としての専門的な価値とは別に、それなら一般史にしてしまったらという気もするんだけどな、乱暴に言うと。ところで去年出たばかりの『日本建築様式史』は、やっぱり集団で分担して書いた通史だけど、どう思いました?
五十嵐──まず太田博太郎さんの「はじめに」が日本建築史の歴史を概観しているのだけど、伊東に始まって、自著の『日本建築史序説』でやや唐突に終わっている。ただ、これではその後の五〇年間は成果がないみたいで……。
八束──伊東、関野、天沼からいきなり自分にいっておしまいということで? 確かに、他に人はいなかったみたいな書きぶりだけど、実際、それ以降一人で通史を書いた人はいないんだからね。一人の史家が通史を書いたのってすごく限定された時代ですよ。パリ万博(一九〇〇)でつくられた最初の活字の美術史である『稿本日本帝國美術略史』(一九〇一)で伊東が書いた建築の部門は、万博よりずっと後(一九〇八)の追加だから、明治の終わりから戦前に着手されていた太田さんの本まで。これは威張るだけのことはあるのじゃない? 本編はどうですか?
五十嵐──大きな物語としての通史が必要とされた時代精神があるのかもしれませんね。圧倒的に流布したペヴスナーやギーディオンのような西洋建築史も、一九四〇年代に刊行されたものだし。『日本建築様式史』で興味深かったのは、二〇世紀前半の多くの日本建築史が最初に日本の風土・気候・民族性を説明してから、日本建築の特性を論じたのに対し、それがまったくないことです。旧石器時代から順番に記述が進んでいますが、特に神社建築が寺院建築の後に登場しているのは目新しかった。
八束──日本の特殊性を論じて始まるというスタイルは、『稿本日本帝國美術略史』の冒頭からしてそうですよ。九鬼隆三が書いたことになっているけど、例の「東洋の博物館としての日本」という位置づけも出てくるし、岡倉天心が書いたんじゃないかと僕なんか考えているテクスト。それに伊東も関野も天沼も足立も皆右へ倣えした。それに関連して関野は日本の国体のありがたさを度々持ち出している。中国とか韓国みたいに戦災とか革命で遺構が破壊されないで済んだということですけど。これは戦前だけじゃなくて、太田さんに至っては「序説」の後の版に別の機会に書かれた「日本建築の特質」を足しているくらいで、「日本的なるもの」への信頼は戦後も揺らいでいない。
五十嵐──『日本建築様式史』の最初に総論がないのは、著者が複数であることや、『西洋建築様式史』の姉妹編であることに起因するかもしれませんから、戦前の通史を批判するための意図的な構成とは言い切れない。ちなみに、神社建築に対する丸山茂さんの書き方はとても冷めていて、神社建築にまつわるファンタジーが排除されている。自然発生的な神社説や、古代の代表とされる大社造・住吉造の失われた起源も疑う。これが通常の日本建築史の流れと違うことを知っている人には刺激的だけど、初心者には物語としての面白さが少ないかもしれない。
八束──丸山さんのは詳細な文献探査でその本家の福山に対抗しているけど、これも「建築」自体の姿は見えないにもかかわらず、すごく面白かった。神社建築の起源を自然発生的なものから官社へ発展したという福山説をひっくり返したこの議論に、僕は柳田國男の国家神道と氏神信仰の関係への意識が重ねられるような気がする。つまり、丸山真男が国家神道と氏神信仰をつなげて、後者が前者の温床になったという考え方をしていたのに対して、柳田は平田派の民間信仰軽視を批判しながら、祖先の霊=名をもたぬ神への眼差しを強調したわけですから。結局福山にもストーリーはあったということになるよね。
五十嵐──そう言えば、建築の本ではないですが、やはり去年に刊行された『国民の歴史』は巻頭に仏教彫刻のカラー写真を収録し、冒頭で日本住宅の特殊性も強調しつつ日本論をやっている。美術をナショナリティの根拠として機能させていますが、さすがに神社は触れていません。
八束──ただ僕は上のようには言ったにせよ、最近多いタイプの、足立や福山はナショナリズムを強化した、太田さんだってそうだという類の議論は、そこだけで終わってしまうならば揚げ足取りにすぎないと思う。じゃあ、それで自分はどうなんだということもあるしね。それを通史書かないで回避しているということはないのかな? これは一国建築史を書くという問題機制自体につきまとってくるわけだけど。例えば、太田さんの本には琉球建築が抜けているという批判があったけれど、それが入ればいいというものでもないでしょう? あともうひとつは、最近の流行であるアジア建築史だと、日本以外のアジアの史家たちはどうなのか? 彼らが自国のナショナル・アイデンティティを称揚したとしたら、それも批判するのかそうでないのか?
五十嵐──アジア建築史の状況は戦前の反復に近い部分も否定できませんが、戦前が相対的に日本建築の特殊性や優位性を導いた傾向があったのに対し、むしろ最近のものは文化の混淆に関心をもっているような気がします。これも今風に言えば、ハイブリッドなアイデンティティに注目するカルチュラル・スタディーズの問題意識と似てなくもない。ただ、それは主に日本人からの眼差しであって、アジアに住む自国の建築史家や建築家が、一国建築史という枠組みでやる以上、ナショナル・アイデンティティを語らざるをえないでしょう。とはいえ、島国で地理的な境界線がある程度はっきりしていた日本に比べると、陸続きのアジア諸国は政治的な境界線も揺れ動いているし、近代以前から西洋との強い接触をもつ場合があり、異なる語り方が生まれるかもしない。先日、磯崎新さんとお話ししていたら、ボンベイには立派なイギリスの建築がいっぱい建っており、現地の人はそれをコロニアリズムだというが、日本の様式建築もコロニアリズムではないかと言われました。確かに、出来上がった建築のレヴェルで見れば、明治時代の建築は大体コロニアリズムになってしまう。おそらく、日本のそれをコロニアリズムと言わないのは、背景にある政治的な枠組みが違うからだし、インドはイギリス人建築家がやったのに対し、日本は「お雇い」外国人──この表現も面白いですが──の後、日本人の建築家が中心になって設計したということなんでしょう。ただ、西洋から見れば、どちらもコロニアリズム的な建築なのかもしれない。そうなると、擬洋風の建築はクレオールだということにして、積極的な意味を与える必要が出てくるのでしょう。
八束──でも、明治の洋式建築はコロニアリズムで駄目だけど、擬洋風はクレオールだから面白いというのだとちょっとね。村松さんの官の系譜と民の系譜の議論のうちでうまくない部分もそうだけど、ベタなPCに終わったらつまらない。要はそこからどんな議論が引き出せるかということでしょう。

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八束──ひとまず括弧に入れてしまった住宅系の話に戻したいんだけれど、大正の最後くらいから住宅建築史が書かれだすわけで、これは当時の住宅改良と連動していると思うけれども、方法としてはそんなに熟していない。後の太田さんに沢田名垂からいくらも出ていないと言われる所以ですね。結局戦後の太田さんになって機能主義的な方法がもちこまれる。伊東・関野以来の寺社中心の様式主義からの決定的な転換だと思う。太田さんの住宅史関係のものは抜群に面白い。とくに昔の『大系』に入っていて学会賞をもらったテクスト。太田さんは堀口捨己の「茶室の思想的背景と其構成」を読んで、様式史でない、「空き家建築史」──これは西山夘三の形容だと思いますけど──でないテクストを読んだとえらく感動したことを一度ならず文章にしていますが、分析の軸がきわめてはっきりと見えていますよね。要するにプランニングの問題として変遷を捉えている。伊東忠太以前のまったく非近代的なアプローチをされてきた住宅というジャンルが、ここではひっくり返って登場してきている。本当は、明治以前のも有職故実、つまり生活機能を典礼機能として記述しているわけだし、今和次郎だって接客法の変遷を中心として民家の間取りの歴史を考えているから、まったく太田さんの発明ではないとしても、あんなに明快に体系的に追っている例は少ない。ヨーロッパだってないんじゃないかな。美学的なもの以上に、この機能的なアプローチこそはっきりとモダニズム的だと思います。浜口ミホが床の間とか伝統的な日本住宅のあり方を封建的だと批判しているのを評価している点をみてもそうだし。
五十嵐──面白いのは、戦後の炭坑の労働者住宅のための対策委員会で、機能的には不要な床の間のある住宅が要求されたことに太田さんは驚いています。でも、床の間が予想以上に格式化し、象徴的な存在になったことを認め、そうした目でまた過去の床の間も振り返る。現代的な問題意識は忘れていない。
八束──太田さんの『図説日本住宅史』(一九四八)には第三部として「近代」が取り上げられているけど、長さからいっても戦前の通史にちょっと近代を付けたというのとは訳が違う。『日本建築史序説』には明治以降はほとんど入っていないけど、『住宅史』では、方法的にも平面計画の重視、接客機能や椅子式と坐式とか、明治以前の住宅建築の分析のキー概念がそのまま延長されているなど、本当は明治─大正期の住宅の動向への関心が先にあって、逆にそれが歴史的な住宅にまで応用されたという感さえある。
五十嵐──太田さんの住宅に対する機能的なアプローチ、そして内部の生活像を意識した記述は『床の間』(一九七八)にも継続していますが、ここに近代はあまり出てこない。主に「貴族住宅」を述べながら、「庶民住宅」との相互影響に触れているのだけど、近代の庶民住宅を対象とした運動では、二系統の住宅史の構図がうまく効かなかったのではないか。
八束──ただ、それまでの記述と比べて、この近代住宅に関する部分は、変な言い方だけど、突然に建築のイメージがしぼんですかすかになったという印象がある。太田さんはこの「近代」を何故か堀口を含むモダニズムの住宅の前、つまり大正の住宅改良のところまでで止めてしまっているんですね。イメージが立体的に膨らまないのはそのためもあると思う。書院造なんかの例と違って、空間として像を補正するデータがないというか。その点では関野克さんの『日本住宅小史』(一九四二)は、「国民住居」の問題として住宅改良以降の堀口さんの住宅なんかまで取り上げている。
五十嵐──堀口さんは、おそらく美的なレヴェルにおいて、新建築と伝統を融合した日本の住宅の「最高水準」とみなされている。だから『日本住宅小史』は、まさに国民住宅が必要とされた時代に書かれたとはいえ、「原始住宅」から「国民住宅」まで独特な展開図を示しながら、串刺しにして現代までのパースペクティヴを示していた。
八束──関野さんは、お父さんも例の様式論争なんかで、国民様式としてのコンクリート造の可能性を肯定しているよね。この父子連続性は面白い。
五十嵐──「国民住宅」では、とりあえず美は合目的であることによって保証され、合理主義の遂行が「日本住宅」の課題になっています。そして藤井厚二などを挙げつつ、「日本住宅建築のもつ伝統的意義が科学的に一層明らかに把握された」ことを評価しますが、エコロジカルなリージョナリズムの萌芽に期待している。
八束──今っぽい議論かもしれないね。あとひとつ太田さんの本で僕が面白いと思ったのは、堀口の「書院造について」(一九四八)における書院造と寝殿造の書き方との対比。書院造は太田さんの住宅建築研究の核心をなす部分で、『日本住宅史』より後に『書院造』(一九六六)を書くわけですけど、そこで、日本住宅を寝殿造、書院造、数寄屋造と分ける堀口のやり方は意匠的な観点であって、自分は平面機能の重視、間取り優先であるから、三でなく二系列に分けるのだと書いている。つまり数寄屋は平面上から見れば書院のヴァリエーションにすぎないと言うんですね。これは確かに大変明快な立論です。しかし、堀口の「意匠的な観点」もまたその限りにおいては数寄屋と書院を分けるに十二分な理由を有しているわけで、何といっても建ち上がった建物としては、草庵茶室という極例を言わないまでも、両者に違いが感じられることは事実だから。

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八束──それと太田さんの住宅研究でもうひとつだけ、それ自体は目覚しい実績でもあると同時にアキレス腱というか疑問点でもあることがあって、これは今回の特集で原稿を書いている黒石いずみさんと意見交換したので、彼女が詳しく書くと思うけど、太田さんの民家研究では、今和次郎以来の研究について、民俗史であるというような批判がありますよね。建築史的ではないと。年代を確定する──これはさっきも言ったように文化財として登録するために必要な手続きですが──のに、建築史家だと寺社で培った復原のノウハウがあるが、民俗学ではそれは無理だというわけです。でも、そうして民家を建築史的なディスクールに繰り入れてしまうことがどうなのか。これは研究者の間でも最近反省があるみたいだし、本当は民家だけではなくて、寺社を中心とした山岸さんの復原無用論も、起源相対化論としてここに接続してくるので、問題は厄介だけどね。
五十嵐──日本建築史を立ちあげた関野貞は様式史的な視点から奈良周辺の古建築の年代判定を短期間でほぼ正確にやってのけたと言われますが、今和次郎はリュックを背に北海道から九州の全国を歩いてサンプルを「採集」し、『日本の民家』(一九二二)を刊行している。つまり、限定した地域における時代の差異ではなく、地理的な広がりにおいて差異を見出すしかなかった。ちなみに、民家園や野外博物館といったものは、ナショナルロマンティスムの影響も受けて、北欧が先駆けた近代的な制度ですね。しかし、今和次郎には歴史的な復元という発想があまりない。民家の現在を観察している。これは関東大震災を契機に過ぎ去っていく現在に注目する考現学につながります。
八束──白茅会で今和次郎は柳田にあなた方の研究には生活がないと批判されたと言っていますね。もっとも今和次郎がそうふれ廻っている一方、柳田の方は、どこにもそういったと書いていないけれど。
五十嵐──今和次郎は『日本の民家』で東京の郊外住宅地にも言及しているし、新しい時代には間取も変更するだろうと述べ、むしろ計画学的ですね。そもそも学問というのは、抽象的な方法論として存在するわけではなく、逆に具体的な素材がある学問体系を生成させるのだとすれば、旧来の建築史が民家を組み込むことはねじれを生じさせるかもしれない。だから、建築史の拡張がなされる。
八束──そういう観点からすると、太田さんのは、折角住宅史で非様式というか機能論的な観点をもちこんだのに、民家になるとややもすると空き家研究に戻してしまいかねないところがある。ただ方法としては遺構の工法とかから出てきているから、『図解古建築入門』(一九九〇)なんかで勉強させてもらった身としては、スリリングでもあるけどね。この問題は、太田門下の大河直躬が江戸時代の中、下流武士の住宅の研究で、「様式の面で完備している上流階級の住まいは、研究対象としてはむしろ不完全なものである」と書いていることとも対応している。中、下流武士のはそれまで住宅史としては周辺的な扱いであったわけで、その本が『住まいの人類学』(一九八六)と題されているのは意味深ですけど。
五十嵐──建築史は、どこかで対象を死んだ標本にして、時間を止めてしまおう、あるいは時間を遡行させようという欲望を持っている。これは人が居住しない空間ならばともかく、人が住んでいる場合、住宅に対し、勝手に手を加えてはいけなくなる、文化財残酷物語の状況がありうる。そして皮肉なことに、観光の眼差しと近接してしまう。モダニズムの建築も竣工写真が一番美しい場合が多いですが。
八束──僕は原典読んでいないんだけど、『建築文化』に載った矢代真己さんの石原憲治についての論文を見る限り、民家を建築史学の対象と考えるか否かという点で、石原のような人は決定的にそうではない方の翼に属していたのじゃないか。その民家がいつごろ建てられたのかというようなことは関係ない。だから農民建築としか言わなかったのかもしれない。
五十嵐──レヴィ=ストロースじゃないけど、「熱い社会」と「冷たい社会」に分かれるとすれば、建築史的なモデルは前者で変化や進化から現代のモデルを考察するのに対し、後者はある種の普遍性をもった構造原理を探索する。インターナショナル・ヴァナキュラーなんて言い方があるように、地域的な民家が反転して国際性をもつとされます。ただ、石原の「農民建築」は、歴史が捏造した天地根元宮造とは違う、もうひとつの失われた起源の小屋的な感じもしますね。
八束──起源の小屋っていうのは伊東忠太以前、二〇年代前半の言説にも登場しますね。黒川真頼の「穴居考」とか久留政道(シカゴ博で鳳凰殿を建てた)の「大日本古代建築沿革」とか。後者ではリクワートみたいにアダムのパラダイスの小屋みたいな話が出てきてちょっと驚いた。面白いことに、対極的なところにいたはずの伊東も法隆寺の再建論争なんかで様式の順番と実際の年代は別、みたいに年代の確定ということには冷淡です。この中間に「日本建築史」という問題領域が横たわっている。
五十嵐──もともと伊東の立論では、再建であろうと非再建であろうと、あまり影響がなかった。実物の年代判定よりも、美しき様式のイデアがどう伝達し、変遷したのかが問題だったのでしょう。
八束──再建であったことが分かって以降、いわゆる飛鳥様式の遺構っていうのは全部、といっても三寺だけど、飛鳥じゃなくて大化の改新より後ということになっちゃったでしょ。伊東は賢かったということにもなるけど。後、太田さんの住宅建築関係のテクストと並んですごいと思ったのは、伊藤ていじさんの『中世住居史』(一九五八)ですね。太田さんのと違って、今これを簡単に読めないのは絶対に出版社側の怠慢ですよ。生産史的ないし技術主義的なアプローチで、おそらく関野克さんの「登呂遺跡と建築史の反省」(『建築雑誌』、一九四七)とか『日本住宅小史』につながるとは思うけど、内容的には飛躍的な進歩がある。とくに一品生産の比例関係に基づいた木割が寺社や上流の邸宅に用いられた技術で、もっと規格的な、つまり絶対寸法に基づいた民家の技術体系はそれと違うと言いきるところは圧巻ですね。「登呂」以来の封建技術批判のピークですね。学会ではどう受け取られているのかは知らないけれど。
五十嵐──関野さんは「登呂遺跡と建築史の反省」で、装飾性の分析になってしまう「様式史は建築の墓場になるだろう」として、合理性に関わる技術史による、建築史の書き換えというか、存続の道を示した。一方、翌年に井上さんはあくまでも芸術としての建築を見る立場から、反論していますが、この論争は敗戦直後の建築史の危機的な状況を反映していますね。おそらく、精神史と同調しがちな様式史がナショナリズムに加担してしまったという意識があり、技術に立脚した科学的な研究であることによって、中立性をもとうとしたのではないか。渡辺保忠さんは、原始と古代の外見的な様式の断層をとり除けば、その内側で過去の生産技術が継承されていると指摘していますが、この視点はそのまま江戸と明治の関係に置き換えられる。ここに現代につながる歴史の意味が見出せる。また当時、建築史家とみなされていませんが、マルキシズムに影響を受けた原沢東吾は、「唯物史観的方法」を採用することで、進化論的なモデルに頼らずに、建築史学が将来への指針を明示すると述べています。彼は建築史学が年代考証や復元に終始していたことを批判し、生産の現場や人間の生活に注目しますね。
八束──史学が指針を明示するという意識はモダニズム史観の特徴でしょう。ヘーゲル以来と言ってしまえば近代史学は皆そうだとも言える。逆に言うと生産史はそういうバックボーンがないと退屈な検証作業になってしまう。この線では渡辺保忠さん──本が少ないせいもあって、あまり読んでいないけど──のも面白いと思うけど、中谷さんとの対談で、磯崎さんはこの方面からの仕掛けには乗らなかったな。ちょっと残念というか、極く初期の磯崎さんなんかも農村調査とかそういう所の近くにいたはずなんだけど、今ではその辺ほとんど語らないし、ていじさんも、少し後の世界デザイン会議のオフィシャルパンフレットになる「び」は、もっと美学的なアプローチになってしまう。
五十嵐──非常にプラグマティクな技術主義的な話は、技術の体系も大きく異なるし、外国に理解されにくかったのではないか。磯崎さんも海外の眼を意識し、それを内在させることによって、だんだん触れなくなったのでは。一方、僕らも美学的な西洋建築史の方が読みやすい。しかし、このへんは中谷さんが今後、状況を変えるかもしれない。

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八束──明治以降の近代建築史に入って、さっき言った新約である稲垣栄三さんの『日本の近代建築』は昭和三四年に出ていますが──これは倉方さんが論じると思うのでパスします──太田さんを継ぐかのように非様式史観ですね。日本モダニズム史学の金字塔でしょう。あれも外国にないと思う。
五十嵐──逆に技術や生産よりも様式史の色合いが強いのが、桐敷真次郎さんの『明治の建築』(一九六六)ですね。イギリスに留学し、西洋建築史を学んだという眼で記述している。稲垣さんも『日本近代建築史』を書いたときに、ヨーロッパ的な基準から日本の様式建築について桐敷さんの意見をきいたという。ところで、マカオから始まる『明治の建築』の出だしは物語の構成として面白い。世界的に流布したベランダ・コロニアルの問題もとりあげている。ただ、この時点での記述には限界があって、アジアのフィールドワークが蓄積された一九九〇年代に再び藤森照信さんの『日本の近代建築』(一九九三)が、冒頭の「地球を東に回って日本へ」でベランダ・コロニアルの壮大なパースペクティヴを導入した。
八束──その藤森さんの師である村松貞次郎さんの『日本建築技術史』も稲垣さんの『日本の近代建築』と同じ年の出版ですね。後で「近代」がついて再刊されている本。『技術史』と言っているけど、村松さんのも結局通史に近いし、稲垣さんのも技術とか生産とかの問題を主軸にしている。要するに似ている。当然同世代でもあるし、僕は相互に影響があったと思っていたんですよ。けれども、この間うかがったら、村松さんは第二工学部で千葉にいたので、お互い何やっているか知らなかったということでした。この時点の村松さんには後年みたいな反モダニズムは少ないけれども、「官」と「民」の二元論はもう出ている。後に長谷川堯さんが「神殿」と「獄舎」とか、「雄」と「雌」みたいに変奏するテーマですが。内藤昌さんが『近代日本建築学発達史』(一九七二)でこの二冊の視点の違いを指摘しているのは随分と早いし、慧眼だけど、それでも当時の村松さんの評価軸は明治建築の価値はスタイルよりも技術的内容にあるというものですね。モダニズムはむしろこの面での内容に乏しかったと。それ自体は正しい評価だと思う。でもこの評価は技術主義であることには変わりない。
五十嵐──初田亮さんの仕事は「民」の系譜を引き継いでいますね。こうした論法は「官」を外部的なもの、「民」を内部的なものに分けて、後者に土着性や伝統の連続性を見出します。考えてみると、ヴェンチューリの発見した路上のヴァナキュラー建築も、いわばヨーロッパという外部に対するアメリカ内部のオリジナルでしたね。ただ、彼は技術への関心は薄かったようだけど。
八束──だから二元論は必ずイデオロジカルになるし、村松さんの場合は、それが後年には手仕事や「精神」、「魂」みたいな話になっていく。技術だけでは掬い取れない様式もそこで評価されるようになる。これは、戦前の政治思想における転向のパターンに近いんですよね。つまり、まず近代主義的な把握があって、次にそれが日本の文脈とずれていることの発見があって、最後に前近代への回帰がある。これは、佐野・鍋山の転向と同じです。まずマルクス主義があって、次にコミンテルンによる指導が日本の現状を見ていないことへの「覚醒」があって、最後に、条件付きにせよ、日本の現状の底流にある前近代的な体制(天皇制を含む)への回帰がある。この点では、『日本建築家山脈』(一九六五)の序文にある恩師の関野克のテクストの批判が典型的だと思います。関野さんのは『明治・大正・昭和の建築』と題された昭和二六年の平凡社の世界美術全集のために書かれたもので、明治以降を通史として書いた多分最初のものです。イントロ的な全般の記述が向坂逸郎の労働史であるという本ですけど、関野さんのは、一人の筆者による明治以前の通史が太田さん以降ないというのと対照的に出てきた、といっても十数ページの短いものですが、村松さんは「古事記」と呼んでいる。稲垣さんの『日本の近代建築』を先触れする感のある文章です。ところがそれを村松さんは誇張でなくて本当にむきになって批判している。「東京大学史観」批判となっていますが、モダニスト史観批判です。「戦前においてはむしろごく少数の特殊事実が主体にされている」とか「歴史が評論に屈折した現象」という総括もある。
五十嵐──今見ても、『明治・大正・昭和の建築』はわりとオーソドックスな感じがしますね。二〇枚ほどの挿絵のうち、二枚も東大の建物があるのは多すぎるように思いますが、短い文章では本流の記述が中心になるのは仕方ないとも言える。確かに村松さんはモダニズム中心になる関野さんのテクストの後半を批判し、もっと広い山脈群を見ないといけないと言う。ただ、村松さんもモダニズム批判の評論が始まっていた一九六〇年代に書いており、その歴史観は時流にのっている。一方的に関野に対し、「歴史が評論に屈折した現象」と言えるのかどうか。
八束──何かワトキンのペヴスナー批判のようでもありますね。僕はワトキンのは基本的には反動と思っていますが。村松さんのはようするに伊東忠太以来の史学への批判でもあり、多分に混乱というか錯綜していますが、最近のずるずるとした「日本回帰」(近世と近代の連続性の強調とか)などにもつながっているのではないか?
五十嵐──日本回帰的な傾向やモダニスト英雄視史観へのアンチは、戦後五〇年を経て、研究者の意識もだいぶ変わったことや、すでにいろいろな研究が蓄積されてしまったことに起因しているように思います。井上章一を含めて、建築史のポストモダンでもありますね。例えば、戦後の近代建築史は(戦前に持ちあげすぎたことへの反省からか?)神社建築をほとんど無視し、住宅や公共施設などの近代的なビルディング・タイプを中心に取り上げたわけですが、最近、近代神社の研究に着手する動きが出てきました。おそらく、僕がやった新宗教の建築史もこうした流れに含まれるでしょう。正統な神社建築よりは、もう少し軸がズレて、錯乱していると思っているのですが。ただ、宗教建築への着目は、一方で連続性を強調し、もう一方で近代ゆえの断絶をつかもうとする、危ういバランスにありますね。江戸東京学を含めて、近世と近代の連続性への注目が増えているとすれば、あえてモダニズムのハードコアをやる石崎順一のような若い研究者は、貴重な存在になっているかもしれない。ところで、『日本建築家山脈』は、「東京大学史観」を批判しつつ、「東大山脈」と「京大山脈」から始まっており、他大学の山脈には軽く触れているだけです。これに対しては、例えば、早稲田建築の系譜を立ち上げようとする動きもあります。
八束──あの本は、オーソドキシーだけじゃなくていろんな人を追いかけていて、それ自体は業績だと思うけど、こんなにも頑張った人々をモダニストが無視するのはけしからんみたいなところがあるじゃない。でもそれは歴史の宿命でしょう? 村松さんだって別の切り捨て方をしているわけだし。早稲田を無視するなっていうのは、それへのレスとしたら、滑稽だけど皮肉でもあるかもしれない。
五十嵐──人物像のネットワークにより歴史を構築する試みは面白い。でも、異端の川喜田煉七郎を英雄視するなど、別の固有名をオルタナティヴとして持ちあげている。アナール学派的にやれば、もっとアノニマスな人間を通して、歴史を描くことも可能ではないか。
八束──例えば僕らがフランス近代で知っているのはガルニエ、ペレー、ル・コルビュジエ、マレ・ステヴァン、後はソヴァージュとかルー・スピッツとか傍系もいるけど、基本的にモダニストばかりでしょう? この間フランスに留学している人に、そうじゃなくて国際連盟本部コンペでコルともめたアカデミーの大家のネノみたいな人も均等に扱ったフランス近代建築史の本というのはあるのかって質問したら、どうもないらしいね。アカデミストを取り上げた研究書なんかは出始めたみたいだけど。やっぱり出やすいのはイギリスで、ワトキンがとなる……。
五十嵐──イギリスは──ペヴスナーの図式によれば──、近代建築を胎動させたが、実際は大陸に比べて、華々しく活躍したモダニストが少なかった。ワトキンが反動的な史観を示すのも、こうした背景があるのかもしれない。ところで彼は、フィッシャー・フォン・エルラッハの『歴史的建築の構想』(一七二一)を西欧の建築史の始まりだと位置づけていましたが、この本は時間軸よりも空間軸によって整理されていて、B・フレッチャーの『学生・職人・芸術愛好家のための比較法による建築史』(一八九六)、特に進化論的な系統樹と「歴史的建築」を導入した一九〇一年の四版以降なんかは、はっきりと時間軸を優先した記述になっています。ちょうど歴史から切り離そうとする意志をもったアール・ヌーヴォーが出ており、やがて近代建築が生成するわけですが、こうした歴史観の先頭に位置づけられる。という意味では、日本における近代的な建築史の登場の仕方は、西洋に比べて、さほど遅かったわけではないとも言えます。八束さんはこれまで西洋の近代をいろいろと分析の対象にしてきたわけですが、近代における日本と西洋の建築史の状況を比較したとき、どのような点が興味深く思われるでしょうか。
八束──『建築文化』での岡崎さんとの対談でも言ったけれども、以前は、日本近代建築といった時にそれが様式建築中心の明治から始まることに違和感があったわけです。西欧ではない括りですから。西欧だとギーディオンみたいに水晶宮から始めた場合、年代的には幕末に西欧の技術が入り始めた時期で重なっている。でもギーディオンはヴィクトリア建築なんて取り上げない。村松さんなんかはギーディオン的な技術史観から始めながらも、結局そこに違和感をもった人だし、稲垣さんは様式の問題にはあまり踏み込まないで全体を記述することでこの二重底状態をつなげようとしたと思うんですけどね。僕の最初の違和感というのは、それだとモダニズムのもった根源的な断絶性がごく矮小化されてしまうからですが、最初のところで触れた今の若い歴史家には、近世と近代をつなげるとか、つまり明治における断絶性すら相対化してならしてしまう傾向があるでしょう? 逆方向のヴェクトルですね。僕の今の考え方は、西欧モダニズムに追いつくには明治とモダニズムで二回跳躍が必要だったということなんで、特に最初のは大きかったと思うから明治から「近代建築史」を始めるのは妥当だと思うようになったけれども、ならしてしまうことには反対なんだな。最近では『建築の二〇世紀』のカタログのテクストに書いたように、僕もモダニズムを相対化しようとは思っているけど、ただならしてしまうというのは、結局相対主義ニヒリズムにつながるんじゃないかという気がしています。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年生
芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。建築家。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.20

特集=言説としての日本近代建築

>倉方俊輔(クラカタ・シュンスケ)

1971年 -
建築史家。西日本工業大学准教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>岡崎乾二郎(オカザキ・ケンジロウ)

1955年 -
造形作家、批評家。近畿大学国際人文科学研究所教授、副所長。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>黒石いずみ(クロイシ・イズミ)

1953年 -
都市建築理論、生活デザイン論、建築設計。青山学院大学総合文化政策学部教授・ペンシルヴェニア大学Ph.D.。

>矢代真己(ヤシロ・マサキ)

1961年 -
建築史建築論。日本大学短期大学部建築学科准教授。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>石崎順一(イシザキ・ジュンイチ)

1968年 -
近代建築史・都市計画史。東京大学研究員、ペンシルヴェニア大学客員研究員。