とは言ってみたけれど、ポスト構造主義そのものに関する定義・状況説明などは書店の思想・哲学の書棚にあふれているであろうし、その手のディスクールがしかけてくるレトリカルな戯れの背後に潜むものが、結局のところうさん臭いディシプリンとストラクチャーの反復的戦略でしかないことに〈気づいている〉かどうかは別にして、端から「主体であることに目覚める」ことなどをあざ笑うかのようにスペクタクル化した一般雑誌の書棚へと向かう知覚戦術──メディアを通して自己観察する──を身につけた昨今の若者(別に若者でなくてもよい、私自身もそうだ)に向かって「ポスト構造主義の建築とは、建築言語における、時間の空間化に向かうレトリカルな実践である」的な謂わば建築ディスクールにおける内輪の話をしたところでほとんど無益であろう。
ところが、私自身ほとんど「建築ディスクールにおける内輪の話」しかできない人間であり、言ってみるならば、近代建築の確立された「言語」を拡張していくことに何らかの意義があった時代にどっぷり浸かりながら建築家を志してきたゆえに、その夢にしがみつくことによって職分を全うしようとしている、ほとんど時代遅れの建築家である。だから、「一九─二〇世紀型スペクタクル建築の飽和」した、あるいは「わかりやすさと非作家性」が蔓延している今日の建築状況とりわけ日本の建築状況に対してまったく疎い。それでも、ときたま各建築家の作品を見学にいくと、「一九─二〇世紀型スペクタクル建築」とはあきらかに異なるスペクタクル空間が進行していたり、「わかりやすく非作家的な」建築が実際のところ「大衆的な侮蔑」(ペーター・スロータダイク)の充満する場であったりしてけっこう刺激的である。もちろん、このような「スペクタクル社会」や「大衆の侮蔑」がどういうことかを知るにはそれなりの解説書を読めば済むことであろうが、建築としてどのように作動しているかは別であろう。そのような現象が建築的言説の内部において弁証法的に解明でき得るものかどうかは別にして、何よりもこれまでのストラクチャーとディシプリンの限界を露呈させているに相違ない。そんな軽い意味で、ポスト構造主義の建築という言葉を使ってしまったのである。
そして、身近な話題へ……
近代建築の確立された「言語」をマニエリスティックに拡張していくことで一九六〇年代末から八〇代末まで建築界をリードしてきた張本人がピーター・アイゼンマンであろう。その彼が、一九九九年に開かれたANY会議で、スペクタクル社会における建築の有り様を、よりによってギィ・ドゥボールに言及しながら展開したことを私は人づてに聞くこととなった。論議の素材となった建築が、アイゼンマンの最近のデザイン(グニャグニャ形態)志向から推察するに、フランク・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイムであることは間違いないにしても、私はゲーリー的建築=スペクタクル(ここでは「見せ物」の意が妥当)といったごく安易な図式でアイゼンマンの論議をあれこれ想像するだけであった。だから、「今や生産のみならず知覚の全体まで捏造するあらゆる手段を手にしたスペクタクル」(ドゥボール『スペクタクルの社会についての注釈』)の社会が建築の身近にあることなどつゆにも知らず、それゆえに、アイゼンマンの議論の内容を確かめてみようといった研究心などまったく起こらなかった。ところが、そんな経緯のすぐ後で、私は「スペクタクル社会がここまで浸透しているのか」という実感と共に、それに抵抗する術がないものかひとつの住宅を設計しながら真剣に悩むはめに陥ることになるのである。今回はその顛末を述べてみたい。
一九九九年の末から、私は幾分変わった状況下で住宅を設計してきた。それは、三人の姉弟(それぞれ別々に家庭をもっている)がひとつの敷地に個別に建築家を指名し、独立住居を設計するという試みである(詳細は省くが、土地の分配、手持ち予算等の関係で、共同住宅化は困難であった)。この計画──「町屋プロジェクト」──に携わった建築家が入江経一氏、米田明氏そして私であった。デザイン的な方向での共同化、共有化は困難であることから、せめてもの抵抗として、さらに言うならば昨今の建築的傾向=斬新なる構造(コンピュータの発展は、日本の建築界では今のところデザインの革新よりも構造の革新に寄与している)への対応という意味からも、三人の建築家がひとりの優秀な構造設計家と共働することによって、何らかの共通するテーマを見出そうということになった。私たちが依頼した構造設計家は、伊東豊雄氏の《せんだいメディアテーク》の構造を担当した佐々木睦朗氏の門下生で、最近若手建築家の「駆け込み寺」的存在──構造的アイディアをもって「作品」の体をなそうとする──となっている池田昌弘氏である。
この「町屋プロジェクト」に加わったこの優秀な構造設計家に、意識的にアクロバティックな構造──片持ち梁なり吊り構造──を求めたのは米田明氏と私である。空間ディスクールの拡張と近代建築への批評性を構築するために、何らかの本質的な差異性を設計者として手に入れたい。そのためには建築構造がいちばん手っ取り早い、と考えたことは明白である──その意味で、昨今の若手建築家を非難する資格などない。だが、米田氏も私も建築構造の革新によって建築のあり方が一新できるといった安易な考えをもっていたわけではなく、むしろその建築構造的な差異を建築理念に回収することによって何らかの建築ディスクールにおける批判的弁証法を構築していこうといった、近代主義に対する愚鈍な信奉がそうさせたと言ってよいであろう。近代建築あるいはポスト近代建築のおさらいを兼ねてあえて自己分析を続けるが、このような所作は次のように敷衍できるはずだ。まず第一に、二人の建築家(米田氏と私)にとって、たとえ設計しているものが住宅であろうと、建築とは「全体」に対する自我の間隔制御システム、すなわち「自己であること」に向かうべき孤独で過酷な緊張に支配された時間・空間を包含するものであるといった考え方である──アクロバティックな構造と差異を渇望する建築的「自我」が結びつくと、こうならざるをえない。第二に、このことを受けて、例えばここで要求される住宅プログラムが、厳密なる機能プログラムというよりも、空間・時間的初目的を遂行していくためのレトリックにおいて処理されるべきものと見なされることである──プログラムはいかなる合法性を纏おうとも、「大衆」の指導原理であって、「自己であること」に相反する。もちろん、私はここで近代建築そのものを敷衍しているわけではない。近代的主体=大衆の図式に基づく「自我」の解放と「プログラム主義」といった逆転した定式を承知したうえで、あえて二人の立場を述べているだけである。
これに対して、入江経一氏のアプローチは根本的に異なっている。彼は最初から建築ディスクールの拡張なり「自己であること」への拘泥を拒否し、空間的転義の枠組みとして池田氏が示唆した構造を巧みに利用していったのである。一言で言うならば、玄関からLDKにいたるひと続きの空間が表通りからまる見え、すなわち建築内部に生じるはずの現実の生活がモニター・スクリーン上の出来事であるかのような変換を、建築構造的な枠組みを使って企てた。要求されている個室や水回り等は、丸見えの大空間に付属するクローゼットのように、空間的・時間的レトリックが介入する余地がないほどまでに切り詰められている──念のため言っておくが、この家の住まい手は、竣工後もこの丸見え状態の日常生活を実践している。
私は入江氏の所作が、建築的に革命的なことであると言いたいわけでもない。ある意味でいくと、このスペクタクルな仕組みは、昨今のブティック、美容室などにおいてとっくに実現されていることである。「自己であること」が外部からの反射で美化されるどころか、反対に、外部からの反射で美化されることが唯一「自己である」ことの証しとなるようなスペクタクル性。ギィ・ドゥボールは、「スペクタクルとはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された、諸個人の社会的関係である」と指摘している。すなわち、われわれ個々の現実的生がイメージを生産するのではなく、現われ出るイメージを現実的に消費するだけが個々の生である、といった逆転した世界への契機をスペクタクルは孕んでいるのである。入江氏はそんな「スペクタクル」を意図的に、さらには極度に進行する「端末化社会」(港千尋)を見定めたうえで、この住宅にもち込んできたのだ。
「町屋プロジェクト」における入江氏の住宅は、スペクタクルへの肯定・促進を意図したものか、あるいはそれへの批判的状況を構築していくための指標モデルなのか。それは、ひとえにこの住宅への批評をどのように構築していくかで定まるであろう。私は計画段階においてそのことに気づき、何らかの(スペクタクルに対する)批評を自ら設計する住宅において表明しようと思ったのである。実際、この手のスペクタクルな商店建築の場合、そこでの外部と内部の同一性を保証するものは外部の見物人の意思でもなければ、率先してさらし者になる自己の能力でもない。それゆえに、イメージ化されていく各個人、その商品的価値の共通分母となるおよそカリスマならざる「こけおどし店員」「こけおどし美容師」という媒介が要請されることになる。ここで「商品」を「人民(Volk)」と置き換えると、このスペクタクルの構造こそ一九三〇年代のドイツにおける大衆民主主義=ヒットラー現象と同相であることが理解される。果たして「住宅」の場合は?
私は考えたあげくに結論がだせず、ニュルンベルクのナチス党大会を模した投光器をいくつか共通外路に埋込み(ベタな批評行為)、後は隠語的なデザイン(私が担当した住宅)のなかに逃げ込むだけであった。もっとも、それはギィ・ドゥボールたちのシチュアシオニスト的な実践としての隠語というよりも、擦り切れた「個人主義の隠語」にすぎなかった、というのが正直なところである。ある意味で、昨今の「わかりやすく非作家的」な建築家たちが忌み嫌う所作だ。そこで次回は、この「スペクタクルな住宅」の問題を深化させるために、彼らの建築に充満している「大衆の侮蔑」を問題にしてみたい。
蛇足ながら、私は「町屋プロジェクト」の完成と同時に、上述したアイゼンマン論稿の翻訳を依頼され、実際に読むことになる。それについては日本版『Anymore』(NTT出版より二〇〇二年刊行)で確認していただくとして、あらためて自分の浅学を思い知った。
1──「町屋プロジェクト」
手前:nkm米田明設計 奥:C House入江経一設計
撮影=平井広行
2──「町屋プロジェクト」共通外路
撮影=平井広行