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オリンピック/都心の郊外──まだ見ぬ郊外論に向けて | 日埜直彦+今井公太郎+吉村靖孝+今村創平
Olympic Game/Suburbs in City Core: Toward Different Suburb Studies | Hino Naohiko, Imai Kotaro, Yoshimura Yasutaka, Imamura Sohei
掲載『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える, 2007年03月発行) pp.48-56

山の手/下町/サード・ドメイン | 日埜直彦

クーベルタン男爵のコスモポリタニズムに始まったオリンピックが、反転してベルリン・オリンピックに象徴されるネーション・ステートの威信を競う「民族の祭典」となり、しだいにグローバリゼーションのなかで競い合う都市の再開発プロジェクトの色を濃くしていく。これは誇張でもなんでもなく、近代オリンピックの歴史の一側面である。
よく知られた一九九二年のバルセロナ大会を見れば現在のオリンピックが都市に与えるインパクトの大きさは明らかだが、それは近年のオリンピックが都市との関わりを強めるトレンドのひとつの通過点に過ぎない。少なくとも過去のオリンピックがなしえたことがそのまま東京という具体的な都市において妥当するということは考えにくいし、より野心的な意図を持つこともできるだろう。東京と国内候補の座を争った福岡市の計画がネーション・ステートの枠を飛び出すことを目論んでいたように、さまざまな可能性が考えられうる。

ところでオリンピックが都市改造の一助になるということは事実だとしても、われわれにはその前に直面すべきもっと基本的な問題が存在する。東京という都市は一体どういう都市なのだろうか。われわれは東京を捉える有効な枠組みをはたして持っているだろうか。
例えば「江戸・東京論」というフレームで東京を見る一群の言説がある。言うまでもなく歴史的文脈から東京を捉えることはそれなりに意味のある試みに違いない。だが東京で生活しているわれわれの実感とそこで扱われる事跡は必ずしも深く結びついているとは言い難いだろう。むしろそれを読んで感じることはせいぜい、東京のどこかにそういう歴史の片鱗が隠れているんだな、という距離感ではないだろうか。
あるいはもっと一般的な枠組みとして「山の手/下町」という図式がある。江戸・東京論よりは常識的で、それゆえある種のリアリティもあるのだが、しかし下町とはどこで山の手とはどこのことだとはっきり区別することができる人がどれほどいるだろう。あえて言うなら今や「山の手」とは不動産広告のためのキャッチフレーズで、「下町」とはツーリズムのフィクションなのではないか。それが言い過ぎだとしても、東京の現在の状況を「山の手/下町」という枠組みで捉えても実体はなかなか見えてこない。
東京の都市構造は「同心円的」であるという言い方も目にする。幕府が定めた朱引き内の江戸が、明治時代に大東京市に拡張され、さらに周辺を吸収して現在の二三区が成立する。今となっては隣接県を含めた首都圏全体を視野に入れなければ東京を考えることは難しい。こうした拡大の歴史から東京を同心円のイメージで捉えることはできなくはないだろう。だが同心円という抽象的な図式によって東京の各地域の具象性は消し去られてしまう。東京ばかりではなく多くの都市が同心円的に成長したのであって、図式はものごとを覆い隠しはしても可視化することはない。
そうしたいくつかの図式がものの役に立たないとなると、東京をどう捉えたらいいのか、いまさらながら持ち合わせたヴォキャブラリーの貧しさを思い知らされる。どういう形容がほかにあるだろうか。まさか「カオス」?

前回のオリンピックに目を転じてみよう。一 九六四年の東京大会は高度成長期の東京に多くのポジティヴな遺産を残した。羽田空港から日本橋上空を経由して千駄ヶ谷の国立競技場に至る高速道路は首都高速整備の第一歩であり、三宅坂から神宮外苑を経て駒沢公園に至る国道二四六号の拡幅、板橋から高円寺、駒沢を越えて馬込に至る環状七号線の整備は山手線西側の急速な宅地化に最低限の交通インフラを確保した。
このところ議論を呼んでいる日本橋の景観問題に象徴されるように、その拙速さが見える面もあるかもしれない。しかし大部分の道路整備は関東大震災による帝都復興計画に併せて定められたもので、予算面で膠着状態に陥った計画がオリンピックを契機として一気に実現した。これらの道路整備なくして現在の東京はそのカタチを保つことはできないだろう。こうした成果を過小評価することはできない。バルセロナ・オリンピックをオリンピックの助けを借りて都市改造に成功した先駆的な例だと言うならば、一九六四年の東京オリンピックもそれなりのポジティヴさで都市改造を行なったのである。
バルセロナは長い都市計画の積み重ねの果てに、都市の各部分が抱える問題を直視し、そこで可能なことを見出して着実な成果を挙げた。学ぶべき点があるとすれば実態に即した着眼点を持ったことだろう。幸いにしてバルセロナは都市構造が明確な都市であった。ローマ以来の歴史を持つ旧市街はきわめて高密度な市街地で、街路はいくらか迷路的な感じさえある。新市街はセルダの計画を下敷きにしたゆったりとした直交街路によって、基本的に良好な都市環境を実現している。海岸沿いは工業地域となってスケールもほかの場所とは異なり荒っぽい。こうした地域的特性に応じて個性を生かし伸ばすための措置がとられたのだ。
ここで再び問題は、東京という都市は一体どういう都市なのかという問いに帰ってくる。東京を単に図式的に捉えるだけでなく、具体的な場所性を実態に即して捉え、そこにあるキャラクターを読み取ることが必要なのではないだろうか。

前回議論の俎上にのった赤羽台団地と高島平団地を訪れて気になったことがある。老朽化した団地においては建て替えのスキームも曲がりなりに存在し、現に新陳代謝も進んでいるのだが、同時代に建設された郊外住宅地は一体どうなるのかということだ。例えば農家が畑地を切り売りして戸建て住宅を建てたような、高度成長期の宅地開発のごくありふれたケースのことである。パブリック・セクターの責任が及ばないこうした場所では、細分化された土地と狭隘な道路に阻まれて、住環境改善どころか建て替えすらおぼつかない状況にある。
そんなことが気になったのもそのころ「郊外の成熟」という言葉が頭にちらついていたからかもしれない。つまり、郊外はもはやかつて言われたような無味乾燥な新興住宅地ではなく、時を経て住民の間にある種のコミュニティも成立し、それどころかうっすらとした風土的雰囲気さえ漂わせる場として成熟しつつあるのではないかということだ。そういうことを考えながら住宅地を歩いてみると、ところにより成熟にもさまざまな色合いがあることに気が付く。最初はそれぞれに個性があるというぼんやりとした印象だけで、それがなにかわからなかった。古い宅地がより熟れた風情を醸し出しているというだけでもないようだ。あちこちを歩き回っているうちに、ごく単純に東京の北と南が面白い、とふと気が付く。
つまり「下町/山の手」という東西の軸に対して、それに分断されるように南北にある地域である。仮にそれをサード・ドメインと呼んでみよう。北は駒込、滝野川、王子近辺、南は戸越、荏原、碑文谷あたり。南北に分かれたまったく別の地域なのだが、意識して調べてみると共通点が少なくない。例えば北には石神井川、南には目黒川と立会川が流れ、川が台地を浸食したちょっとした谷がある。起伏に富んだ地形に沿った道が、歩くにつれて展開する街路の景観を形成している。川沿いには精密工業・軍需工業が明治以来立地し、このあたりの住宅地にはそこで働く賃労働者が多かったろう。もっぱら集約的で近代化された工業に従事する労働者たちが住んだ街がサード・ドメインである。そう言えばプロレタリア文学の舞台としてこうした場所がしばしば登場することに思い当たるかもしれない★一。
明治の東京市に「下町/山の手」という図式はまずまず妥当だったが、関東大震災は東京市の四三パーセントを焦土と化し、焼け出された人々を受け入れるために郊外の宅地化が一気に進んだ。そこに生まれた「下町/山の手」という図式の余白がサード・ドメインである。震災復興と言えば同潤会が思い起こされるが、集合住宅と同時に仮設住宅がこれらの地域に建設されている。なぜここでは集合住宅ではなく仮設住宅だったのか事情はよくわからないが、おそらく単に高密度の住宅をつくるほど宅地化されていなかったからだろう。復興住宅建設を一段落させると同潤会の活動は住環境に関する啓蒙活動と生活実態調査に重心を移していく。悪化しがちな労働者の住環境に手本を示すため、例えば小住宅の集まった街区の提案を募る設計コンペが行なわれている。
その一例として『五室以内の新住宅設計』の設計要件には次のようにある★二。

敷地ハ東京都心ヨリ約一時間ニシテ達シ得ル市街地建築法ノ適用ヲ受クル住居地域内トシ……


建坪二〇坪程度の住宅が建ち並ぶ一ブロックの設計が課題で、各戸の一般図までが求められている。ごく詳細な図面で大工にこれを見せればこのとおりつくってもらえただろう。ブロック単位の設計であることからすると上記の図案集のターゲットは農地を手放し戸建て建て売り住宅を作るケースが想像される。近郊農業を営む畑が急速に宅地化されていったサード・ドメインはまさにその現場だろう。

山の手の後背地である世田谷区や杉並区の住宅地の場合、宅地化はいわゆる沿線開発によって進められた。多くの場合は広大な農地を区画整理したうえで整然とした宅地を形成し、そのスタイルは本来の山の手のお屋敷町をスケールダウンしたような体裁のものであった。おそらく田園都市計画を念頭に置いたであろうこうした沿線開発に、個人的な印象ではよい成熟の仕方をしていると感じるケースはほとんど存在しない。生きられたフィクションとでも言うほかないおしきせの街区が、今ではあちこちで敷地の再分割によって蚕食され、日本の近代化のある種の貧しさを見せつけられる。有無を言わせぬ情景である。アンリ・ルフェーヴル流に言うならば、そうした場は空間的実践の密度が著しく低い。住むことに向けられた構想力が消沈し、少しずつ悪化する状況に手を打ちあぐねているように見える。
こうした情景と、サード・ドメインの俗っぽい生気はかなり対照的に見える。サード・ドメインの宅地は狭小敷地に高密度に建て込んで、お世辞にもリッチな生活環境とは言い難いだろう。だがそこにはある種の創意と自由が許容される鷹揚さがある。なにやら着古したような親しみがあちらこちらに滲み出し、商店街もしっかりと生活に根付いている。西欧的なそれとは異なるが、都市生活のある種のタイプをそこに見ることができるだろう。おそらく高密度居住の経験と言えば長屋ぐらいしかない東京において、そこにどう住むかということ自体がそもそも試行錯誤をともなう実験だったのであり、東京の建築家の多くが現在直面している高密度戸建て住宅という状況に最初に向き合ったのはもしかしたら彼らだったのではないだろうか。ここでの実験はおそらく郊外というひとつの状況の原型として意外に広い範囲に波及したのではないだろうか。
サード・ドメインは真正面から扱われることがほとんどなかった地域である。興味をもって以来いろいろと当たってはみたが、これらの地域を対象化した視点は皆無である。都市計画から見れば多かれ少なかれコントロールし損ねた地域であり、面白いことに見事なまでに建築家の作品がごく少ない地域でもある。ある意味でここは東京のGeneric Cityといってもよいのかもしれない。

抽象的な図式に基づく抽象的な構想は、東京とは何の関わりもない。都市になにがしかの構想を投げかける時、その成り立ちに接近しつつ、とりわけ近代東京が生み出した生活環境を直視することが必要だろう。景観論や都市社会学もよいのだが、それを実りあるものとするためにもわれわれは都市の基層に関する了解の貧困を反省する必要があるのではないだろうか。都市における記号やイメージの比重はますます大きくなっているとはいえ、都市はまずもって場所なのである。

駒込/西ヶ原 筆者撮影

駒込/西ヶ原
筆者撮影

駒込/西ヶ原 筆者撮影

駒込/西ヶ原
筆者撮影


★一──佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫、一九八九)は、震災後から大戦中までの東京の姿をよく伝えてくる。とりわけ駒込、大塚、王子近辺の記述は当時のこの地域の空気を教えてくれる。
★二──『五室以内の新住宅設計  同潤會懸賞圖案集』(朝日新聞社、一九三二)。

東京の谷間のリヴァース・ネットワーク | 今井公太郎
街歩きを通して、東京の未来を考える

「街歩き」と題して、東京の知らない場所に足を踏み入れると、カオスの裂け目に飛び込んでしまって戻れなくなるのではないかという身の心配と同時に、今まで見たこともないような風景に出会えるのではないかという期待も沸いてくる。ガイドブックやGoogle Earthという最新のメディアの武器をもってしても、実際にそこを訪れてみることの価値、あるいは発見の喜びを薄めるわけではない。実体験としての東京の延長線上にブループリントを描くために、街歩きという行為を通して未来の東京計画のスタディをしてみるのもなかなか楽しい体験であった。
今回の企画で歩いた、滝野川や雑司ヶ谷といったところは、山の手線内の都心にありながら、渋谷や銀座といった経済的繁栄を遂げたメジャーな場所とはずいぶん様子が異なっている。都心というよりも、いわば郊外のどこかの街のようであり、どちらかといえば衰退が感じられる大変地味なところである。でもそれは、いわゆるシャッター通りのような悲壮感が漂う衰退とは違った質であり、安定的にゆっくりと時間が流れ、熟成されたリアルな生活臭に満たされ、商業の近代化によって壊れてしまったコミュニティのかけらがいまだ残っているのかもしれないと思わせる場所であったのだ。そこでは、住居や商店のアクティヴィティがきめ細かな路地空間を媒介に、ヒューマンなスケールの生活空間をなんとか維持していた。どうして東京の真ん中にそんな何かの気体で満たされたエアポケットのような場所が成立するのであろうか。
 

地形依存の都市、東京

一概に都心といっても、同じ「空気」で充填されているわけではない。陣内秀信『東京の空間人類学』や中沢新一『アースダイバー』、『10+1』No.42「特集=グラウンディング」など数多くの東京本で指摘されているように、東京の独特の地形と江戸の城下町の開発は複雑で多様な空間を生みだした。東京の西高東低の地形は、東の沖積低地に対して西の洪積台地が人間の手の形のように覆いかぶさってできた入り組んだフィヨルド状の地形である。大規模敷地は武家屋敷や寺地が出自となっていることが多く、それらはいわゆる「山の手」として、地形の良好な台地の突端を選んでつくられた。そして、谷には町人町をはじめ、有象無象のものが谷道に付随してでき「下町」となったとされている。フィヨルド状の地形によって「山の手」と「下町」が交互に繰り返され、パッチワーク的に空間が構成されているわけだ。そして、この隠れた地形の秩序が、簡単には見出せないことが東京のひとつの魅力になっている。
実際にそこを歩いてみると、今自分が尾根道や谷道を歩いていることは認識できても、古地図や標高図などの力を借りなければ、地形の全体的構造を把握することは複雑でなかなか難しい。滝野川は城北台地の小石川や目白の台地と谷筋が入り組んだ非常に複雑な地形の場所にあり、中山道の発展の裏側に広がった豊かな路地空間をそなえた住宅街となっている。二項道路と呼ばれる幅員の狭い道路が毛細血管のように張り巡らされ、歩行者しか入れないところもたくさん残っている。尾根道と谷道が幾重にも現われる東京の都心部には、明らかに空間にムラがあり、そのムラに対応して、いろいろな用途が次々に現われることで、街歩きもエキサイティングなものとなってくるわけだ。

洪積大地と沖積低地からなる東京 引用出典=中沢新一『アースダイバー』

洪積大地と沖積低地からなる東京
引用出典=中沢新一『アースダイバー』

「島」をつくること

ところで東京の大規模敷地は、前田家上屋敷が東京大学だったり、尾張家屋敷が防衛省となっていたりして、武家屋敷が元となっている台地は、大きな領域のまま境界線が維持されている。こういった敷地が近代的な機能に入れ替わることによって東京は大きな構造変化をしなくても、近代化を果たすことができたのである。これに対して、武家屋敷を出自としない場合でも、戦後の大規模ディヴェロップによってできた丸の内地区や品川、新たにつくられた六本木ヒルズのように周りを地として描かれたポジティヴな図としての異質な領域がその後もつくられることによって、東京は新陳代謝を繰り返してきている。
つまり、東京はその成り立ちからいって、全体から部分を構想した都市ではなく、マーブル状に「島」が多く寄せ集まってできた都市である。それは多中心の都市で、皆が中心になろうとして、しかし誰も中心でない。あえて言えば皇居が中心だが、そこはヴォイド・スペースであるといった都市、それが東京なのだ。
新たに、お台場にオリンピックの中心をつくる話が進行しているようだが、それは、開発の手馴れた流儀に従えば確かな方法であろうし、たぶんありえる選択肢なのだろう。オリンピックのための再開発は東京にそのような「島」を新しく見出すことになるわけだ。そして大型の島状の開発が繰り返されても、それによって東京の仕組みが変わったと嘆く必要はまったくなく、むしろ強化されたと考えるべきであろう。どうやら、「島」をつくるという突発的で継続性のない都市形成の方法は、日本人の得意分野なのかもしれない。

ヒューマン・スケールの都市と、都市システムのスケールの葛藤

それに比べると滝野川や雑司ヶ谷といった「谷」の地形の場所は、東京全体で見れば大変なことになっている。そこでは、谷の形状によって境界線がゆがみ、敷地は小さく、平らではなく、「島」に規則的に敷かれたグリッド状の道路網が辻褄を合わせるために交錯し、首都高や鉄道は高架となり、諸事情が現われている。私には矛盾を谷側が一方的に負わされているようにしか見えない。
なかでも交通システムの谷側への影響ははかりしれない。首都高の姿は、地形とシステムのズレをそのまま表現している。東京に無理やり被せられたシステムは、それ自体は必要なものだし、たぶん間違っていないのだが、地形との関係においては一種の混乱があることがわかる。
さらにめったに通らない緊急車両のために網の目状の二項道路がすべて車道の幅員へ拡張されてしまったところでは、過多な車道化が路地空間を消失させてしまった。それは現象としては槇文彦『見えがくれする都市──江戸から東京へ』で指摘された「奥」の消失かもしれない。路地は消えてしまったとしても、モータリゼーションの影響を排除できている場所が魅力的であることは間違いない。特に下北沢は、鉄道の利便性の良さと渋谷や新宿との地理的連携が加わり、しかし、バスバースなどの駅前広場がないことによって、人通りの多いヴァイタリティのある場所となっている。
大きな交通網、つまり都市レヴェルで東京のシステムのあり方を考えるスケールと、地域や建築レヴェルでわれわれが東京を体験するスケールが、大きくかけ離れていること。そして、そのことが地形的に谷の部分に集中してしまうことが問題なのではないだろうか。

東京の歩行者交通ではどういうことが課題となりえるか

そもそも山手線や首都高の環状放射状システムと、西高東低の地形の方向性はスキームとして相容れないものであり、それがずれていることが、現在のような東京のわかりにくさをつくってしまっているのだ。東京には地形によってできた襞の多い裏表が入り組んだ構造がある。それを表現し、歴史の重層を意識した古くて新しい歩行者を中心とする交通ネットワークシステムを構築することができないだろうか。
モータリゼーションによる破壊を免れた路地空間や、地形的に道路のネットワークから外れた場所を使って、ヒューマンスペースを延長して谷の地形を豊かにする歩行者交通のネットワークを、谷間の「リヴァース・ネットワーク」と呼んでみよう。そして、マーブル状の「島」と「島」の間の媒介する隙間のような場所に、それを縫うようにできる谷の不連続な統一体を構想することは考えてみる価値のあるプロジェクトかもしれない。
クリスターラーのモデルのように、近代的なツリー状の階層構造は、シームレスに交通が繋がっていきシステムとしては間違っていないが、人間からみると、むしろ退屈で面白くはない。リヴァース・ネットワークは解像度の高い都市の把握を可能にし、基本的には修景やリノベーションという考えに基づき、地形の変化にフィットしながら都市システムとヒューマン・スケールのズレに折り合いをつける。谷間をそのようなネットワークで重点的に満たすことができれば、東京を体験することをもっと豊かにすることができるかもしれない。

なつかしくもあたらしい敷地 | 吉村靖孝
箱と土

幼い頃、国分寺の祖父母を訪ねるためしばしば豊橋から新幹線にのった。車中ではきまって寝てしまうのだが、東京駅に近づき速度が落ちるとなぜかいつも目が覚め、傍らに立つ建物に目を奪われた。《中銀カプセルタワー》(黒川紀章、一九七二)である。もちろん当時はメタボリズムも黒川も、いやそれどころか建築家という職能の存在すら知る由はないのだが、積み木細工のようなそのシルエットは眠い目蓋に強く焼きついた。それは幼い私にとって東京の玄関を飾る華々しいビルボードであった。その後私は東京駅で中央線に乗り換えまた眠りに落ちる。ふたたび目が覚めるとそこは祖父母の家である。五〇年代に建てられたその家は木造平屋で南側に庭を持つ。ソテツが高くそびえ、足下には茗荷が自生していた。屋根は角度の浅い切り妻で縁側につづく和室が二間あるが、ほかはみな洋室でダイニングや応接間などもある。著名な建築家の手になるものではないものの、簡素で上品な佇まいの住宅であったと思う。ただ私はそこが東京であることになかなか納得できなかった。やたら土が目についたからである。庭だけではなく、玄関周りも、隣の家も、近所の畑も、みな剥き出しの土が覆っていた。それは関東ローム特有の湿っていてもさらさらした褐色の土で、冬にはよく霜柱を見た。土との接触を拒否するようなカプセルの群れを見た後では、武蔵野の面影を残す国分寺はあまりにも長閑であった。ともあれ、上京を繰り返すうちにいつしか私の東京という都市のイメージは、すっかり褐色に塗られていた。
のちに私は長い大学生時代の大半をそこで過ごし、一時期事務所も構えたのだが、その頃になってようやくこの幼き旅路で東京の断面をなぞっていたことに気がついた。その断面には東京での住まい方の二つの特徴、すなわち洗濯機すら置かない都心居住の極北と、思いの外自然に恵まれた郊外生活がはっきりと表われている。そして両者は、電車で寝入るのに十分な距離によって完全に隔てられていることを確認し、東京を俯瞰したつもりになっていた。

《森山邸》

一二月のある晴れた日、大田区の《森山邸》(西沢立衛、二〇〇六)を訪ねた。友人や事務所のスタッフたちとともに駅から歩いて小振りな住宅が密集する雑多な通りを抜けると、真っ白な箱の集合体が視界に飛び込んでくる。一見すると無造作に投げ出されたように見える大小さまざまな箱の隙間には褐色の土が充填されている。その様子を見た途端、幼い時分の記憶がすっと息を吹き返した。箱と土である。私はその光景をカプセルタワーの宙に浮かぶ「未来的な箱」と国分寺の「原始的な土」に直接結びつけたに違いない。まるで建築の自立的な形式そのものであるかのように振る舞う白く平滑なヴォリュームの戯れを観察すると、たしかに土地との結びつきを否定するディテールが見て取れる。もっとも明快なのは、文字通り箱が地面から浮かんで見えるよう基礎の立ち上がりを壁面からかなり奥へ後退させた「縁側リビング」だろう。森山氏によれば、予算など諸処の条件から実現に至らなかったものの、はじめはすべてその納まりを踏襲する予定だったという。それ以外の箱にもスカートの裾を折り返したような簡易な水切り(西沢氏のかつてのエッセイから「オバケのQ太郎」を連想したことは書き加えておいてもいいかもしれない)が付いており、地面とははっきり縁が切られている。《森山邸》の箱に「地面から生えたような」という比喩は似つかわしくなく、「どこからか飛来したような」と喩えるのがおそらく正しいのである。

西沢立衛《森山邸》 撮影=日埜直彦

西沢立衛《森山邸》
撮影=日埜直彦

ミッテルとしての土

褐色の土は白い箱と強烈なコントラストをなし箱の自立性を強調すると同時に、それら同士を媒介する。初代国立国会図書館長をつとめた中井正一の「メディウム」×「ミッテル」という媒介の分類に照らすならば、《森山邸》の土はより「ミッテル」に近い媒介物と言えるのではないだろうか。「メディウム」とはマス・コミュニケーションを含む送り手優位の媒介のことであり、対する「ミッテル」は対等で双方向的な媒介のことである。階段、廊下、壁、建具や開口部といった一般的な建築の要素は単位空間にヒエラルキーを与える装置であり、その意味で「メディウム」に近い働きを持つのだが、土の平面性はそのまったく逆である。《森山邸》では、風呂や縁側や隣人が序列なく等価に結ばれていると言っていいが、つまり土が、方向や距離といった情報を括弧に入れる「ミッテル」的な無媒介の媒介、いわば「透明な媒介」となっているのではないか。西沢本人は、雑誌の誌面などで薄く開口部の大きい「箱」の透明性について繰り返し述べているが、現場で私が戦慄を覚えたのはむしろ「土」の透明性についてだったのである。もちろん、序列なくとは言ったものの、箱に割り当てられた諸機能の大きさや配置は厳密にコントロールされている。通路と庭の別、視線の止めと抜けは思いのほか明瞭で、よく整理されていると言ったほうがよい。しかし土は、箱の白色を埃まみれに変え、散らばる屋外用の家具や鉢を汚していき、そういった繊細な手続きを見えにくくすると同時に、野蛮に感じるほどの圧倒的な力で浮遊する白いボックスを地面に括り付けている。ひどく人工的で白昼夢とでも言えそうな光景がなぜか生活の匂いを感じさせるのは、この土によるところが大きいのだろう。ただ、ありふれているがゆえの異化は強烈で、結果的にはその生活感がこの住宅の現実離れした風体をかえって補強しているようにも見える。縁側に座って庭を眺めているとき、私は多木浩二が《谷川さんの住宅》(篠原一男、一九七四)を写した一枚の写真のことを思い出さずにはおれなかった。それは家のなかで静かに煮える土から蒸気が立ち上っているような写真である。《谷川さんの住宅》と同様、《森山邸》の土は建物の残余であることをはっきり超えている。そういう印象を持った。

都心の郊外

《森山邸》がいかにして可能になったのかを考えるうえで、建主であり住民でもある森山氏の存在と、氏を育んできた敷地周辺の環境を外すことはできないように思う。少なくとも設計者である西沢本人がそのように考えているであろうことは、法規上共同住宅であるこの建物を《森山邸》と呼んでいることに端的に表われているし、周辺環境について書き記した以下の文章にも明らかである。

周辺の町並みは、庭や私道に生活がでてくる屋外空間と建物が反復していくような構造を持っており、僕は森山邸のあり方がどこかこの周辺環境の構造パターンというものを引き継げないかと考えた★一。


周囲の街並みのなかで箱と土はどちらも明らかに異質であるが、しかしだからと言ってそこに街並みと無関係な、自立的な形式を無理矢理挿入したと考えるわけにはいかないのである。では、《森山邸》の建つその場所はいったいどんなところであろうか。一言で言い表わすならばそこは「都心の郊外」である。位置的には都心に極めて近い住宅街であるが、しかし、いわゆる下町のように歴史的な背景のあるインナーシティではない。今後無秩序な開発に蹂躙される危険度の高い地域ではあるが、今の街並みは意外なほどあっけらかんとしており、都市内集落や都心近接低所得地域が抱える問題と根を共有しているふうでもない。大規模な緑地が控えているわけではないものの、路地に染み出すようにして鉢や生け垣でつくられるミクロな緑は多く、郊外的な豊かさもある。散在する商店にもなぜか活気がある。かつての郊外と言ってもよいのかもしれないが、急速な都市拡大の過程で瞬く間にエッジではなくなり、一度も議論の俎上にのることなく日常化した場所、いつのまにかできていたような場所である。そこが「都心の郊外」としかいいようのない東京の第三の断面ならば、《森山邸》の箱と土が、都市と郊外をそれぞれ代表するというお粗末な解釈すら強ち間違いではないと思えてくるのである。

あたらしい敷地

《森山邸》は狭小住宅ではないし、郊外の邸宅でもない。高層ビルの建ち並ぶ都心部から緑に覆われた国定公園のなかまで日本の戸建て住宅が敷地とする場所はさまざまであるが、《森山邸》は今のところ名伏し難いエリアに建っている。東京にまだあたらしい建築を生み出す敷地が残っているとしたら、案外こんなところなのではないだろうか。ミッテル的と言ってもいいし、インターネット的と言ってもよいのかもしれないが、そういった街が育まれてきたプロセスはボトムアップ式で、ある種の風通しのよさがある。その土地の持つ質がそこに建つ建築によい風をもたらすことも当然あるだろう。《森山邸》はその先駆的な事例として原型たらんとしているように私の目には映る。

現代建築思潮研究会が、二〇一六年の東京オリンピックを契機にして東京という都市にコミットしようと目論むならば、そんな地域について集中的に考えるのも悪くないのではないか。そういった地域の多くは、一九六四年の東京のオリンピックと時を前後して急速に解像度を上げた地域であり、当然建物の老朽化は進んでいるが、土地の多くが狭隘道路にしか接していないせいで建て替えは進まず、何らかの外科的な処置が待たれる場所になっている。実際はすでに、都心に近接する好立地から中規模マンション建設による乱暴な開発が起こりつつあって、今無視を決め込めば「われわれの敷地」はあっという間に消えてしまうだろう。首都高速道路や巨大な競技施設群が前回のオリンピックの主産物だとすれば、こちらは泡沫的な副産物に違いないものの、図らずも獲得した質が良好な住環境に結びついているのは事実である。その質を東京にしっかり定着させるために今回のオリンピック招致運動を利用するという選択肢がきっとあるのだと思う。


★一──『新建築』二〇〇六年二月号(新建築社)。

都心にあってオリンピックと縁がないということ | 今村創平

このところ、この研究会のメンバーといっしょに、時にはひとりで、いくつかの都心の住宅街を歩いてみた。前回の報告では、大規模団地の現状を考えたが、それらにくらべると、今回の住宅街、滝野川や雑司ヶ谷などはもっと目立たない存在である。
そもそも、これらの住宅街は僕にとってみなはじめて足を踏み入れたエリアであって、その存在すらほとんど知らない場所ばかりであった。建築を生業とすることから、人よりは東京の地理についてよく知っているし、さまざまな場所に足を運んでいることは、客観的に言っても間違いないだろうが、それでも東京にはまだまだ入ったことのないエリア、そもそも存在も意識していないエリアがいくつもあることに、あらためて気づかされる。しかし、こうした機会に東京の地図を広げてそれぞれのエリアが自分にとって、どれほど馴染みがあるのかをチェックしてみると、今回訪れたエリアというのは、自分にとってもっとも意識に上らないエリアであることがはっきりとする。それは、普段の僕の生活圏とは重ならないということでもあるし、また僕にはほとんど魅力が感じられないともいえる。つまり、こうした機会を設けてあえて足を運ばないかぎり、ずっと縁のないエリアだということだろう。
一方では東京の都心に限っても、その各部にまで渡って把握しようと試みることは可能だろうか。例えば、山手線内のすべての道を歩いてみるということを計画したとして、それは可能かと日埜さんに問いかけてみたところ、まったく不可能との即答が返ってきた。自分としては東京のかなりのところは行ったことがあるという意識があるが、確かに、地図の上でシミュレーションしてみると、文字通りすべての道を歩くなどは不可能なことがすぐに理解できる。もちろん、歩ききることを目的にするのではないのだが、それでもこうした大都会は、ひとりの人間の物理的なキャパシティを超えているのであって、それはすなわち東京を語るときに、一部は具体性を持ちながらも、ある程度は抽象的な議論にならざるをえないと言い換えることができる。
話を住宅街に戻すと、住宅街というのは基本的に、そのエリアの住民以外には縁のないところである。商業施設や公共施設のように不特定多数を受け入れることなく、そこに住む人たちの生活の場である。住居と店舗が混在していたり、また商業エリアに隣接していればその住宅街に行くこともあるかもしれない。またもちろん、そこに友人が住んでいれば行くだろう。またわれわれのような建築の仕事をしていると、住宅の見学会という機会に、今までに訪れたことのない住宅街に足を踏み入れることもある。そうは言っても、友人というのには一定の幅と傾向があるのであって、おのずとその友人たちが住むエリアというのも限定される。結果、足を運ぶ住宅街は限定される。
また住宅の見学会では、結構いろいろなところに出かけている気がしているが、今回まわった住宅街は、どこもいわゆる建築家による住宅というものが見かけられないエリアであった。昨今、とりわけ高級なものではなくとも、建築家に住宅を依頼するというのはかなり広まっていると言って差し支えないだろうし、建築家がローコストの住宅を手がけることも珍しくない。それでも、建築家が住宅を手がけそうなエリアとそうでないエリアというのがあって、言い換えれば、建築家に自宅を頼むような人が住むエリアとそうでないエリアとがあることが何となくわかってくる。例えば、石山修武の《世田谷村》や、西沢立衛の《森山邸》は、周辺の環境のなかで異彩を放っている。それでも、それらの住宅街には、一風変わった住宅を望む人がある確率で住んでいることは、そうだろうなと思わせるものがある。しかし、住宅街には、建築家の住宅を頼むような人の存在が皆無というエリアもあるのだ。
こうした住宅街は、特にぱっとするものがあるわけではない。強い魅力があるわけではないし、特に情報の発信などもしていない。しかし、そこには日々の生活が確かにあることは、余分な装いがない分伝わってくる。郊外の住宅街ほど広い庭があるわけではなく、庭というよりも、家と家との隙間とか余白のようなものである。といっても、京島に代表されるような、極端に厳しい生活環境ではなく、何となくまったりとしたというか、緊張感のない並び方をしている。外壁に特別な材料が使われていることもなく、どちらかというと、通常の設計であれば安物と忌み嫌われる類の用材で覆われていて、それが古い場合はそれなりの表情を生んでいるが、味わいがあるというほど美的感覚に訴えることもない。つぎはぎの造形もよく見られる。極端に部材の細い鉄製の物干し台が建物に取り付き、全面錆びていて、いつ壊れてもおかしくない。ごくまれに、見事なインスタレーションのようなものもあるが、それは意匠的に意図されてできたものではない。道路から細い路地を通って、その奥に建っている古い木造の家屋は、明らかに既存不適格だが、接道していないから建て直すことも法規的に不可能だ。地震、火災などの災害時には、とても不利な状態にあるのだが、建て直すこともままならないのである。
こうした、少なくとも富裕層が住むわけではない住宅街は、災害に弱いなどの弱点はあるとしても、それなりに充足して住まわれていることも確かなようだ。長く続く住宅街というと、根津や月島などに代表される下町といったイメージもあるが、それらほど外の人に対しても魅力があるわけではないが、それでもその地域の生活の基盤となっている。それぞれの住宅街を支えるように、かなりの規模の商店街があり、それらの店のなかには、とても売り場面積が狭く、商品の数も極端に少ないものもあり、コンビニを見慣れている目からすると、これでなぜ商売が成り立っているのか不思議なほどである。
こうした住宅街は、今はそれなりに問題もなく、特に空家が目立つわけでもないが、かといって今後も同じように存在し続けることができるかどうかはよくわからない。基本的には、少しずつ建て替えが行なわれ、景気がよいときにはそのスピードが増し、また仕上げも上等になるのだろう。古い住宅が、そのまま新しい住宅に置き換えられるだけであれば、エリアとしての環境は更新されないかもしれない。建て直す機会により大きな家をと望めば、庭は減り、日射は減り、環境は悪化するかもしれない。それでも、六本木ヒルズのような最近そこここで行なわれている大規模開発より優れているのは、このような小単位の集積によって成り立っていれば、不都合な箇所を少しずつ更新することが可能であって、それは、広い範囲で完成されている街区では不可能なことだ。メタボリストはメガストラクチャーを夢想したが、このような住宅街こそが新陳代謝可能ということだ。
オリンピックのような機会にあっても、もちろんこうした住宅街とスポーツ施設や選手村とが関係することはない。また、オリンピックの機会に東京の機能を更新しようということが行なわれても、こうした住宅街とは縁がないだろう。例えば、立候補している二〇一六年のオリンピックに機を合わせて、東京都は昨年一二月に「一〇年後の東京──東京が変わる」(http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/ 10years_after/index.htm)を発表した。しかし〈東京の魅力を発信するエリア〉(九五頁)とされているのは、丸の内、六本木、秋葉原、上野、臨海部などであり、また〈重点的に整備を進める一〇のエリア〉(一〇一頁)に挙げられているのも、東京・銀座・新橋、臨海、品川、六本木・赤坂、渋谷・原宿、新宿・神宮、池袋、上野・浅草、秋葉原、御茶ノ水・飯田橋である。これら二つのマッピングは、その大半が重なっているのだが、もちろんそれらと今回話題にしているエリアとはまったく重ならない。「重点的に」との言葉が示すように、裏返せば、それ以外のエリアは相対的には軽視されるということだ。積極的に扱われることはなくても、電線の地中化や、景観の整備なども提案されているが、おそらく住宅街の光景には何も影響しないだろう。東京全域に緑を増やそうということで、近くに公園ができるくらいのメリットは生じるかもしれない。

さてさて、長々とこうした(何回も「こうした」という曖昧なくくりの表現をしてきたこと自体歯切れの悪さをもたらしているだろうが)住宅街について、歯切れの悪い考察を続けたが、以上見てきたようにこうした住宅街とオリンピックとは一見無関係である。しかし、だから無視していい存在なのか、話題の対象にならないことに問題があるのか、もしくはオリンピックを機に東京改造をすることのデメリットを、こうした地域が補完的に救ってくれるのか。さまざまに考察できる可能性がありそうである。団地の考察のときも同様であったが、オリンピックを機に交通インフラや立派なスタジアムがつくられそれらが注目を浴びるが、と同時にそれを成立させるために同時期に多くの団地や住宅地が開発された。それらの現状を観察し未来を想像することは、二〇一六年にと予想されているオリンピックの時期に東京はどうあるべきかということに、いくぶんかの示唆をしてくれるであろう。

10年後の東京──東京が変わる」より 〈東京の魅力を発信するエリア〉 引用出典=http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/10years _after/index.htm

10年後の東京──東京が変わる」より
〈東京の魅力を発信するエリア〉
引用出典=http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/10years
_after/index.htm

「10年後の東京──東京が変わる」より 〈重点的に整備を進める10のエリア〉 引用出典=http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/10years _after/index.htm

「10年後の東京──東京が変わる」より
〈重点的に整備を進める10のエリア〉
引用出典=http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/10years
_after/index.htm

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.46

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>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。

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>西沢立衛(ニシザワ・リュウエ)

1966年 -
建築家。西沢立衛建築設計事務所主宰。SANAA共同主宰。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA准教授。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

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>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。