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さよなら万博、三たび/にっぽん万博七〇ニュース | 小田マサノリ
"Good-bye EXPO",for the Third Time/Expo'70 Japanese News | ODAMASANORI
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法, 2004年09月25日発行) pp.112-115

さよなら万博、三たび

二度あることは三度ある。万博にさよならをするのは、これで三度目になる。まずはじめは「太陽のうらがわ/太郎のはらわた」と題したインスタレーションで、である。これは太陽と爆発の芸術家として知られる岡本太郎の闇の部分に取材したもので、民族学者としての岡本という見立てのもと、南青山の太郎の家の庭から拝借した石の上に、大阪万博当時の様々な廃物をバロック式に積みあげ、ちょうどその頃、芸術家としての名誉回復を果たしていた太郎の精神/魂を弔うための祭壇を設らえるというものだった。もともとこの展示は、大阪万博三〇周年を祝って、二〇〇〇年の春に限定公開された太陽の塔の内部を探訪した時の体験がもとになっている。かつて万博の輝ける象徴であったはずのその塔の内部が、今では完全に朽ち果て、文字通りの廃墟と化しているのを目のあたりにした時の観想、すなわち「人類の進歩と調和」というモダンな理想の廃墟化=空虚化ということがモチーフになっている。つまりその祭壇は人類の明るい未来像とそれを掲げた万博を追悼するための喪の装置だった、さよなら万博。
二度目は「夢の彼方で死産した未来と日本万国博覧会非公式記録資料」と題したアーカイヴ展示で、である。これは磯崎新が六八年のミラノ・ビエンナーレに出品するも、五月革命のあおりをうけ、反対派によって会場が占拠されたために幻の作品となってしまった《エレクトリック・ラビリンス》が三四年ぶりに復活したのを機に、それを日本に呼び戻すような格好で開かれた万博回顧展のため、先の祭壇を再び設え直したものだった。そこでは、地下壕に見立てた、いかにも安普請の祠の隅に祭壇を据え、そこに連絡する迷路のような回廊の壁に大阪万博当時に大量に出まわった昭和の日付のある週刊誌や雑誌などの文字資料を掲示し、万博の非公式資料として公開した。この地下のクリプトのモデルになったのは、同じく二〇〇〇年の春に三〇年ぶりにひきあげられた万博のタイムカプセルの発掘現場である(左図参照)。その穴の壁には工夫が書き残した昭和の日付けと「太平洋戦争予科練従軍」の文字が読まれ、それを日章旗のような紅白の幕がとりまき、そして、この日の午刻の空は快晴であった。それは磯崎新の廃墟の原風景である終戦の日の青空を彷彿させたが、しかし、それも展示では、平成の時代にふさわしい深みのないペラペラのブルーシートに置き換り、六八年の占拠の記憶は太陽の塔を占拠した目玉男をキャラクター化したポップなポスターでメモリーされた。さよなら万博、さよなら死産した未来。一度目は悲劇的に、二度目は喜劇的に……と、こんな具合に、もともと作家ではない、もどきの私は、そのつど美術や展示の名を借りて、連想と引用とモノをからみあわせながら、さよなら万博のテクストを編んできたのだが、それにしても、なぜ、万博がからむと、いつもこんな風に、その薄暗い方にばかり目がむいて仕舞うのか。なぜ、こんなに陰気なものばかりこしらえて仕舞うのか。無論、それには理由がないわけではなく、それは私の子供時代の万博体験と関わっている。それは家庭の事情や私の生いたちに由来する、どちらかといえば、あまり人好きのする話ではないので、これまでどこにも書いたことがないのだが、三度目のさよなら万博として、寸劇的に書いてみたい。まず、日本人の約半分が行ったという万博に、私は連れて行ってもらえなかった。我が家で万博に行くことができたのは父親だけで、私たちは家で留守番だった。もっともその時、私はまだ四歳で、万博のことは父が持ち帰ってきた万博土産で知らされた。その時、父が私にくれたのは、夜の万博会場の写真ばかりを集めた絵葉書セットで、それはこどもの私には何かひどく怖ろしいものに見えた。臆病な私はそれを見て「ここはこどもが行く場所ではない」とそう思った。いや、そう考えて、連れて行ってもらえなかったことを合理化したのだと思う。万博に行きそびれたということ、もちろんそれも理由だが、むしろそれは発端にすぎず、私の万博体験はその後、もっぱらその絵葉書の上で展開していった。その頃(というのはつまり七〇年代前半のことだが)私の家は貧しかった。実情は定かでないが、ともかく「うちは貧乏なのだから」と、しつこくそう言い聞かせられて育った。その当時の遊びで記憶に残っているものといえば、庭での穴掘りと万博の絵葉書を眺めることの二つで、穴と万博のあいだを行きつ戻りつしていた(正確には、その中間に白黒テレビがあって、よど号も浅間山荘もよく憶えている)。そして私はやがて、万博が未来の世界なのだということを知るのだが、そこでにわかに私が得心したのは、その未来は僕にはやってこないだろう、ということだった。より正確にいえば、万博のような未来の世界がやってきても、貧乏な家の子の僕はそこに入れてもらえないだろうということだった。というのも、私は万博の絵葉書をくりかえしくりかえし何度も眺めるなかで、ある不幸な物語をその絵葉書の上に創作してしまっていたからだ。私が父から貰った絵葉書の多くは、夜の万博会場を写したもので、一般に云われる万博の喧騒とはうらはらに、人気の途絶えた夜の会場の写真は、ひどく寂しい印象を与えるものだった。派手にライトアップされた巨大パヴィリオンの、そのはるかずうっと下の方に、ほんとに小さく人々の影が見えていて、私はその小さな人影に自分の身を重ね合わせ、それを万博に入れてもらえなかった不幸な人々の群れだと勝手にそう想っていた。もうその頃には最初の怖れは消えていて、この明るい建物の中では何かとても素敵なことが行なわれているのに、そこに入れてもらえないかわいそうな人々のことを、我が身になぞらえつつ憐れんでいた。それこそフロイトのハンス坊や(だっけ)のように、かなしい気分を味わいたくなると、万博の絵葉書をとりだして眺めるという悪いクセを身につけ、かなしい気分でいっぱいになると庭に穴を掘りはじめ、その中に身をうずめるということをしていた。いつそれをやめたかはもう憶えてないが、これは後になってもずっと尾をひき、やがて漫画や本を読む年齢になった時も、例えば、真鍋博が描いてみせてくれた平坦で明るい未来図より、どこか険しさと影のある小松崎茂の未来図の方を好んだし、また、明るい未来に対する疎外感と不公平な未来観を持ってしまったこどもにとっては、その後にやってきたノストラダムスの予言はむしろ救いですらあった。当時、誰もがそうしたように私も自分の寿命を計算し、三四歳ならそんなに悪くないと思った。なにより、「その時はみんなもいっしょだ」というのがよかった。バカみたいな話だが、ノストラダムスの予言のおかげで、私は少し明るくなった。そして考えてみれば、この時が私にとっての最初のさよなら万博だったわけで、万博の絵葉書に代わってカタストロフの未来に対するメランコリックな情動にかたちを与えてくれたのは、子供向けの図鑑に「世界のおもしろい建物」として紹介されていたグループSITEが設計したBEST社の壊れたショールームの写真だった(下図参照)。もちろん、その当時は「建築」という言葉すらろくに知らなかったと思うが、ともかくもこれが、その後の私の想像の棲家となった。ここが、万博の明るい未来の世界に入れてもらえないという不幸な物語から私を解放してくれた場所であり、あのサティアンのような庭の穴のなかから脱け出して地上に見つけた自分の居場所だった。後はもう推して知るべしで、音楽であれ映画であれ何であれ、主流からはずれたもの、その他に属するものこそ我と我が身の上なりというあんばいで、今に至っているわけだが、ここで、ふと思うのは、私と同世代のオウムたちは、どうだったのだろう、ということである。大阪万博とノストラダムスの予言は、六〇年代生まれの私たちの世代の共通体験としてあり、いみじくも椹木野衣が万博回顧展のタイトルに選んだように、多かれ少なかれ私たちの世代は、大阪万博にexposeされたのと同じくらい、ノストラダムスの予言にもまたexposeされた世代である。この二つは、二一世紀という、いま私たちが生きてしまっている未来について、それこそまるきり正反対の矛盾した世界観を投げてよこし、そして、いずれも実現することなく死産した物語である。だからそんなもの、さっさと忘れてしまって、それこそ、さよならしてしまえばいいはずのものなのだが、どうもそういう風にはいかないのだ。というよりも、どうも居心地が悪くて仕方がないのだ。
何が?
いま私たちが生きてしまっているこの二一世紀という世界が、である。「人類の進歩と調和」という夢の続きの世界でもなく、また「ハルマゲドン」という悪夢の後の世界でもない、そのいずれの大きな物語も共に死産した果ての、そのどちらでもないが、しかし、どちらかといえば、万博のぬけがらの中で生きているような、今のぼんやりと薄ら明るい世界、万博の残響がまだ低く鳴り響いているようなこの世界が、である。そういう、もうすでに様々なかたちで語りつくされてきたような世界で、これまた今さらながら、遅れてきた告白をすれば、もしかすると私もまたオウムになっていたかもしれないということである。あのバブルの時代の終わり、オウムがサティアンを建設し、首都圏でのテロの準備工作を進めていた頃、私はアフリカにいて、その土地のシャーマニズム・カルトの研究にうちこんでいた。いや、というより、はまっていたというべきだろう。八五年頃からはじまったバブル景気のあのひたすら能天気な日常、二四時間三六五日、万博が続いているような、あのお祭り騒ぎの時代、私もその騒ぎのなかにあって、それなりに愉快なこともあったが、と同時に、そうした明るさや豊かさへのなじめなさにつきまとわれてもいた。ここは自分が入れてもらってもよい場所ではないという思いがどうしてもぬぐいきれず、あの庭の穴や壊れたショールームのようなものを求めていた。そこにアフリカへ行く話がころがりこんできて、ほとんど一九世紀の悪しきロマン主義を反復するような格好でアフリカに行き、現地のカルトの研究に没頭しながら、日本とアフリカを行きつ戻りつする生活を続けた。もしも、あの時、そうせずにいたら、何か別のものを見つけ出さなければならなかっただろう。しかしそれは必ずしもオウムではなかっただろう。というのも、九○年代のはじめ、たまたまオウムの演劇や書物にふれる機会があって、その時にここもまた自分がいる場所ではないと思ったからなのだが、と同時に、同世代として共有しているものがそこにあるのを強く感じ、なおかつ彼らはもう先にはじめているという印象を持った。だからこそ、それとは違うやり方をアフリカのカルトから学ぼうとしたのを憶えているし、そしてそれが後にテロというかたちをとった時は、事件そのものよりも、目の前にある現実とは別の世界を求め、現実にそれをつくりだそうとする時にはまりこんでしまう危険な帰結を目のあたりしてうろたえた。研究の視点を半ば強引に、異なる現実世界実現のその「表現」の側面にきりかえたのもおそらくそれと関係している。いわゆる精神の暗みや裏面に関わることを避けるようになったのだが、三たび万博にさよならをするなかで、私が知らず知らずのうちにこしらえていたのは、サティアンではなかったのかという気がしている。子供のころ、あの絵葉書に見た光輝くパヴィリオンに自分は入れてもらえない存在だというかなしみの情動が庭の穴へと接続していたように、万博を呼び戻そうとすると、必ずやサティアンのようなイルな場所をこしらえてしまうのである。どうも私にとって万博はサティアン的な場所へと連絡してゆく回路であるかのようだ。二度あることは三度ある。さらにもし四度目があるなら、その時、私が話を聞くべき相手は万博とノストラダムスの予言にexposeされ、その後遺症を抱えながら、死産した物語の後を生きてしまっている者たちではないだろうか。そしてその時は、パヴィリオンについての思い出などではなく、それぞれが抱え持っているサティアンの話からはじめるべきなのかもしれない。

1──EXPOSE2002展「夢の彼方で死産した未来と日本万国博覧会非公式記録資料」より。作図=筆者

1──EXPOSE2002展「夢の彼方で死産した未来と日本万国博覧会非公式記録資料」より。作図=筆者

2──グループSITE「BEST社ショールーム」

2──グループSITE「BEST社ショールーム」

3──EXPOSE2002展「夢の彼方で死産した未来と日本万国博覧会非公式記録資料」より。作図=筆者

3──EXPOSE2002展「夢の彼方で死産した未来と日本万国博覧会非公式記録資料」より。作図=筆者

にっぽん万博七〇ニュース

大阪万博の映像資料には、谷口千吉が監督した『日本万国博』(一九七一)がある。これは万博の開会式から閉会式までを記録した、約三時間ほどの長編大作で、これが大阪万博のいわゆる「公式記録映画」として残されている。この映画の冒頭部分に登場する、太陽の塔の黄金の顔を塔本体にとりつける大工事のシーンは、さながら昭和の大仏殿の建立を思わせる圧巻の映像である。この作品は二〇〇〇年にNHKの衛星放送で放映されたほか、万博記念日などに万博公園内の施設で上映されることもあり、比較的よく知られている。この公式映画とは別に、六七年の春から七〇年にかけて、万博開幕までの一〇〇〇日間の準備過程を、時々刻々と記録し、報道したものとして『EXPO'70ニュース』(一九六七─七〇)がある。これは各一〇分、全一一巻からなる、いわゆる「ニュース映画」で、万博に先だって日本全国の映画館や公民館などで上映されたという。このニュース映画の制作に携わったのは、太平洋戦争時に「日本ニュース」などの国策映画を制作してきた「日本ニュース映画社」(現・日本映画新社)ほか七社からなる「ニュース映画製作者連盟」である。先の公式映画も同連盟の制作によるものだが、公式映画にはリーフェンシュタールの『民族の祭典』を思わせるスペクタル映画の手法が見られるのに対し、こちらのニュース映画には戦中のプロパガンダ映画的な編集が見られる。「さあ、日本の番だ」といった右あがりの題字のほか、「たくましい前進」や「決戦の年」といったナレーションには、大本営発表の戦局報道の遠い残響を聞きとることができる。公式映画と違って、今ではほとんど目にする機会のないこの作品を見ていると、軍事力でもって国威を示すことを封じられてしまった敗戦国・日本にとっての万博とは、クラウゼヴィッツ風にいうなら、「別の手段をもってする戦争の代理物」であったことが分かってくる。また、政財界の要人らを招き、古式にのっとって執り行なわれる会場起工式(地鎮祭)や、各パヴィリオンの工事に先立ってそのつど行なわれる鍬入れの儀式、また、皇太子(現天皇)をはじめとする皇族らによる視察のニュースなどを見るにつけ、モダンな「未来建築のオリンピック」といわれた万博も、国家にとっては、昭和の国民国家大造営のための、プレモダンな国の祭であり、それは同時に、皇紀二六〇〇年(一九四〇)のまぼろしの日本萬國博の遅れてきた反復であった、ということなどもまた分かってきて、はたしてそれが計算されたものかどうかはいざ知らず、先に述べたプロパガンダ映画的な編集がすぐれて批評的な機能を果たしているように思われる(例えば日本ニュース映画社は万博開催中に「万博は「進歩と調和」ならぬ「辛抱と長蛇の列」の残酷博だ」というニュース映画を単独で制作している)。さらにそれ以外にも「万国博に原子の火を」のふれこみで、万博会場の電力が美浜原発の原子力発電によって供給されていることをPRするニュース(第五巻)や、太陽の塔と同時期に制作され、太陽の塔と対をなす作品として原爆を主題に描かれた「明日の神話」の下絵にとりくむ岡本太郎の姿(第一巻)など、興味深いカットが多い。一方、この『EXPO'70ニュース』と同時期の日本の裏側をドキュメントした映画に中島貞夫の『にっぽん69〜セックス猟奇地帯』(一九七〇)がある。ヤコペッティの「世界残酷物語」シリーズに影響を受けたというこの作品には、当時、過激な反博運動を展開して逮捕された「ゼロ次元」の加藤好弘や、万博内部からの万博批判を試みた横尾忠則などが関わっていて、返還前の沖縄の旧繁華街やストリップ劇場の楽屋に坂本九の歌う「世界の国からこんにちは」が流れてくるシーンは特に必見である。ともあれ、大阪万博をいわゆる「レトロ・フューチャー」や「モダン・デザイン」の見本市としてノスタルジックに語るだけだけでなく、こうした埋もれた映像作品などを参照しながら、昭和から平成の現在に至る同時代史のなかに大阪万博を位置づける批評的な文化研究が待たれるところである。とりわけ「さあ、日本の番だ」と、この国の政府が、国際協調の名のもとに、別の手段をもってする戦争の代理物であったはずの万博にかわって、自ら進んで戦争ができる口実と手段を準備しようとしている、そういう時局だからこそ、あえてここでもう一度、こんにちは万博、さよなら戦争、と、そう云うためにも、本誌のインタヴューのなかで磯崎新が提示してみせてくれたような、あの国家なき千のパヴィリオンのアレンジメントにむけて、こんにちは、と、そう云ってみたい。

4──ニュース映画製作者連盟製作『EXPO'70ニュース』より提供=ニュース映画製作者連盟

4──ニュース映画製作者連盟製作『EXPO'70ニュース』より提供=ニュース映画製作者連盟

※『EXPO'70ニュース』の上映その他についての問い合わせは下記のURLへ。http://www.news-eiga.jp/

>小田マサノリ(オダマサノリ)

1966年生
東京外語大学AA研特任研究員。アナーキスト人類学。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>椹木野衣(サワラギ・ノイ)

1962年 -
美術評論。多摩美術大学美術学部准教授。