1955年生まれ。社会学・映像社会論。立教大学現代心理学部教授。
(最終更新:2009年9月28日)
[映像のトポス 1]
...機械接合系としての映画という点については、中村秀之「飛び散った瓦礫のなかを──『複製技術時代... ...書、二三五頁。 ★一六──この点については、中村秀之「ヴァルター・ベンヤミンの知覚の政治学──...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.33-44
[批評]
..., Symphony of a City", Aitken & Zonn, 1994, 211. ★一二──中村秀之「ヴァルター・ベンヤミンの知覚の政治学:ア...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.138-150
[映像のトポス 2]
つまり、新たに始めること、わずかばかりのもので遣り繰りすること、そのわずかばかりのものから拵えあげること、そしてその際に、右や左をきょろきょろ見ないこと。 (ヴ...くま学芸文庫、一九九六)三七六頁。 ★二──中村秀之「逃げ去る都市──遊歩の凋落と映画の出現」...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.22-29
[映像のトポス 4]
1〈機械の言説〉──英雄的個人主義 機械は、諸言説の外部にあってそれを産出する〈現実的な〉力の源泉ないし集合であると同時に、それ自体が言説の主要な構成契機として機能する。とりわけ二〇年代にあって顕著な現象は、都市=機械という局域的な複合体が社会=機械へと全域化するという過程において、表象としての「人間」と「機械」との関...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.20-29
[映像のトポス 3]
〈都市の言説〉としてのコニーアイランド(承前) こうして、『あれ』と『スピーディ』におけるコニーアイランド(ルナ・パーク)は、「俗」のマンハッタンに対する「遊」の世界というきわめて常識的な構図のなかに登場する。しかし、かつてボードリヤールがディズニーランドとアメリカの関係について語った洒落た警句を借りるなら★一、コニー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.27-39
[翻訳]
序──隠喩としての「OJシンプソン裁判」 「アメリカでマイノリティであるということは、いつも試されているということだ」 ──ラジオ番粗「LAどっちへ(Which Way LA)」の出演者 「OJシンプソン裁判」は、ほとんどのマイノリティや女性がすでに知っていること──現実の知覚のしかたは多様であること──を、衆目に...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.134-149
[映像/写真 3]
スタッテン島行きのフェリーの船上で、暮れかかるマンハッタンのスカイラインを背景に、甘いテナーで男が恋人に歌う。「今夜は星は出てるかな?/曇りか晴れかわからない/...)との類似性を指摘される箇所のひとつ(前号中村秀之氏の論考を参照されたい)でもあるのだが、そ...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.30-32
[建築を拓くメディア]
森川嘉一郎は『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ』(幻冬社、二〇〇三)で、未来の都市の景観を予想しようとする時、一九七〇年代までならば、建築家がつくる建築作品の...セクシュアリティ論の赤川学や映像・映画論の中村秀之、建築論の森川や五十嵐太郎、国文学の石原千...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.132-133