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1:アトリエ・ワン《ガエ・ハウス》──《ガエ・ハウス》のオフサイドトラップ | 坂牛卓
Atelier Bow-Wow, "Gae-House": Offside Trap for Gae-House | Sakaushi Taku
掲載『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険, 2004年06月発行) pp.132-135

アトリエ・ワンの二人は笑みが絶えない。彼らに論文指導を受けた、とある人曰く「彼らは何にでも笑える人。フツウのできごとでも周りの事柄を取り込んでオモシロク見てしまう人」だそうだ。鉛筆が転がっても笑える女子高校生とはちょっと違う。つまり彼らは、建築環境はもとより、日常生活にいたるまで、ひとつの対象を単独に見るだけではなくその周囲を含め風景が一番楽しくなるところへフレーミングしてしまう人たちなのである。

1 受容の選球眼──フォアボールとルールの場

フレーミングは、アトリエ・ワンの都市観察眼であると同時に彼等の制作論の骨子でもある。つまり自らの設計対象を環境の中でフレーミングしてオモシロク見るのである。例えば《アニ・ハウス》、《ミニ・ハウス》の隙間とか、《ミニ・ハウス》のミニクーパーなどである。当然の話だがこうした周辺環境から取り入れたものでその建物の質は変化する。だからこの周辺環境から飛んでくるボールを選び取る選球眼が問われることになる[図1]。

1──アトリエ・ワン《ミニ・ハウス》(1999)、東京 提供=アトリエ・ワン

1──アトリエ・ワン《ミニ・ハウス》(1999)、東京
提供=アトリエ・ワン

ところで選球するためにはそれなりの基準あるいはルールが必要で、こうしたルールの発生メカニズムを知るうえでピエール・ブルデューの『芸術の規則』で提示された「場」という概念は興味深い★一。「場」とは、建築で言えば、クライアント、建築家、そしてそれを見る人々、評価する批評家などの一連のグループの上にできあがっているひとつの世界のことである。この世界は当然そこで通用する(あるいはそこでしか通用しない)ルールを持つということである。そしてルールは建築家が単独で作るというよりは場を作る社会全体の作用としてできあがる。
それに基づいて類似例を見るなら、ダーティー・リアリズムと分類され、「make stone stony」★二と形容された初期フランク・O・ゲーリージャン・ヌーヴェルの工業材料の使用も周辺環境から飛んでくるボールの選球眼だった。そこでの工業材料の取り込みはそうした敷地でのカメレオン的な馴染みとして建築家の主体的デザインであると同時に、社会の受容を計算したものだったに違いない。そして、それは都市の辺境から取り出してきた、もともとダーティーと思われている材料を使いこむことでそれらの価値を倒立させようという目論見があっただろう。つまり「make stone shiny」を狙う選択というルールができあがっていたのである[図2]。

2──フランク・O・ゲーリー《Cabrillo Marine Museum San Pedro California》(1979) 筆者撮影

2──フランク・O・ゲーリー《Cabrillo Marine Museum San Pedro California》(1979)
筆者撮影

アトリエ・ワンの視線も少なからずこれにパラレルである。隙間から、隣家の塀から、柿ノ木から、車から、今まで「潜在」していたものを「顕在」化させるその狙いは価値倒立であり、使用前、使用後の差が重要なのである。となれば、使用前は極力凡庸なほうがよい、そしてある時変身する。それはあたかも将棋の「歩」が「金」になるようなものであり、「ボール四つ」で「出塁」できるフォアボールのようなものである。
さて少し本筋からはずれるのだが、アトリエ・ワンの「場」やルールにもう少し接近すべくブルデューの作った社会のライフスタイルマップ(この座標軸は縦軸に資本総量★三 、横軸は経済資本と文化資本が交差構造を成している)★四[図3]にアトリエ・ワンをプロットしてみよう。もちろん二〇年以上も前の異国の社会縮図に、現代日本の建築家をプロットすることは厳密には意味を成さないが、先進国のある種の類似性を基盤にしたラフな実験をしてみよう。そうすると彼等プロフェッサー・アーキテクトは「高等教育教授」あたり、つまり左上に位置している。そしてその周辺を概観していくと気付くことがある。それは彼らが自らのポジション周辺だけではなく、左下方を包含する広範なエリアを自らの建築場としているだろうことである。例えば、彼等の建築はクセナキスを聞きながらチェスをして、骨董屋で手に入れた一〇〇年前のクリストフルの銀製のスプーンで食事をしながら政治評論をするというような場というよりは、ジーンズを履いてビールを飲みながら、テレビでサッカーを見ていたかと思えば、オペラを聞きながら哲学書を読むなんていう場としてイメージできるのである(もちろんこれは彼らのキャラクターを通して推測したイメージに過ぎないが、建築家とクライアントには「類は友を呼ぶ関係」があり、マクロかつ長期的にみれば近似するであろう)。

3──生活的位置空間、生活様式空間図 出典=ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンI』

3──生活的位置空間、生活様式空間図
出典=ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンI』

2 場への応答──法規をめぐるハビトゥス

さてこれらの建築場では上述のとおり、その「場」ごとに差異のある文化構造が想定されることになる。そしてその文化構造のなかには人々の慣習行動とその慣習行動を方向づけるシステムが存在する。このシステムは科学で言うパラダイムに近いものであり、時代に共通な思考、行動の枠組と言ってよいだろう。ブルデューはこの枠組を「ハビトゥス」と呼んだ★五。そしてそれは暗黙裡に人の行動を抑制するものであると同時に、逆にそこへの応答をしてやることでそれ自身を更新していくことができるものとして定義した★六。
さてこうしたハビトゥスのもとで建築が行なわれるとき、その行為は本性上、ハビトゥスを拒み、ハビトゥスを更新することを目論むものだ。しかし、では建築家は一体そこで何を更新できる、あるいはすべきなのだろうか?
やや遠回りであるがブルデューに依拠しつつハビトゥスと新しい様式の創出の関係に言及した小田部胤久の指摘を瞥見しておこう。

所与のハビトゥス(即ち構造化された構造としてのハビトゥス)にとどまることなく、芸術場のはらむ問題状況との出会いを通して自らのハビトゥスを変革しうる芸術家こそ、様式の変化を引き起こし、新たな様式を、すなわちその芸術家に固有の個人様式を造りだすであろう。そして、この新様式はなるほどその芸術家固有のもの(=独創的なもの)であるとはいえ、同時にある一定の問題状況への応答として成立している限りにおいて、規範的意義を担うことになる★七。



芸術家が作り上げたものが、新しい様式であるかどうかはここでは問わない。重要なのは、状況へ応答するなかでハビトゥスを刷新した時に、そこに単なる独創性だけではなく規範性が現われるであろうという氏の指摘である。建築が独創性だけでは成立しにくい現在、この言葉から得るものは大きい。そこでこの視点に立脚しアトリエ・ワンのハビトゥス更新のプロセスを観察してみたい。そのために先ず、彼等の建築場のはらむ問題状況を概観する必要があるのだが、いくつか指摘しうることのなかから、ここでは彼等の建築が頻繁に遭遇している狭小敷地という条件に絞って考えてみたい。もちろん建築であるから、こうした与条件が恒常的であるとはいえないし、彼等のこれまでの仕事がすべてその条件下にあるわけではない。しかし例えば既述社会マップにおける彼等の建築場(左側半分)が比較的経済資本の小さいところであることは、都会の住宅建築における予算の大半を占める土地代の圧迫を招き、ひいては敷地の狭小化に帰結するであろう。また、その昔の原広司の指摘──敷地が狭いと「外的因子」の影響が大きく建物に場所性が表われてしまう★八──を逆読みすれば、外的因子を取り込むには敷地は狭いほど都合がよいということになる。つまり、彼等の建築場が保持する経済的条件と、彼等が建築的に志向する方向性はどちらも狭小敷地を呼び込んでいるのである。
狭小敷地が保持するさまざまな問題系のひとつは法規である。なぜなら法規は敷地境界線からドライに建物形状を決定していくものであるからだ。そしてこの法規に対してもハビトゥスが慣習行動(プラティーク)を生産してきた★九。そのプラティークとは「法規の形状規定で建物の形が決定されたように見えないようにデザインする」というようなものである。このプラティークを生産しているのは「法規はアプリオリに必要悪であり、デザインとはあくまで建築家の主体的行為でなければならない」というハビトゥスなのである。しかし、狭小敷地において、建築の形が法を露呈することになるのは避けられないだろうし、そもそも前述のハビトゥスにどれだけの意義があるのか?

さて遅くなったが、斜線制限内に可能な容積を即物的に入れ込んだアトリエ・ワン設計の《ガエ・ハウス》[図4]のひとつの重要な意義はこの「建築家○、法規×」というハビトゥスに対して、「そんなことないんじゃないの」というスタンスを示し建築場にこびりついた無根拠な垢を一掃してくれたことにある。そしてこの一掃は、冒頭述べたアトリエ・ワンの選球眼に内在する価値倒立にも支えられている。ただここでの価値倒立は単に凡庸を光り輝かせることではなく、忌避すべきものを呼び込み輝かせる行為であり、フォアボールを選ぶというよりは、内角ぎりぎりの危ないボールに自ら当たりにいってデッドボールをとって出塁するという感じである。また、同時にこのことは小田部が主張するように法規という建築場全体にわたる問題系への改変としてある規範性(一般性)を持っていることを忘れてはいけない。

4──アトリエ・ワン《ガエ・ハウス》(2003)、東京 提供=アトリエ・ワン

4──アトリエ・ワン《ガエ・ハウス》(2003)、東京
提供=アトリエ・ワン

3 オフサイドトラップ──理解の二重性

アンソニー・ヴィドラーは『不気味な建築』★一〇のなかで抑圧されているものが顕在化したときにそれがuncanny(理解の範囲を超えた状態)★一一な様相を呈すると指摘した。もちろんヴィドラーの言及はフロイトの「不気味なもの」を参照し人間が根源的に秘めているものへ向けられているのでやや次元は異なるのだが、ハビトゥスから受けている抑圧から解放された建築にはある明るいuncanninessが見えてくる。僕がこの建物を最初に見た時受けた印象がそうだった、「屋根がやたら大きい、どうして?」という理解不能状態である。大屋根をテーマにした家はほかにもいくつかあろう。例えば篠原一男の《大屋根の家》というのがある。しかしああいう大きさとは違う。《ガエ・ハウス》の場合は、屋根と屋根ではないところとの比率が普通と違うのである。つまり「きのこ」みたいなのである。「きのこの家」は童話の家であり、現実には存在しない。しかしそのないはずのものがあることの謎にしばし混乱させられるのである。けれどもその混乱は設計プロセスのロジックを理解するなかで、理性的に了解し、その了解が時間経過のなかで、場所(法規を含めた)の妥当性という理解へ姿を変える、つまり童話のなかから抜け出して現実に定着する。一方で、法規を知らない人にとって「きのこの家」はいつまでも童話のなかに謎めいて浮遊しているのかもしれない。が、状況(法、環境)は一見uncannyなこの建物の理解のヒントを具備しており、何らかのきっかけで現実に定着する可能性も持っている。つまりこの建物は理解の可否の二重性の上に跨っている。
別な言い方をしてみよう。建築場をサッカーフィールドになぞらえるなら。建築にもサッカーにも規則がある。そして建築は文化資本の増大を賭け、サッカーは勝利を賭けて、戦いが行なわれる。さて一般に「規則」とは「抵触」してはならない対象として存在しているのだが、《ガエ・ハウス》のように「利用」する対象として「規則」を考えるという戦術もありえたのである。それはサッカーで言えばルールを最大限利用し、相手を反則に誘い込むオフサイドトラップにあたる★一二。そしてオフサイドトラップにかけられた時の混乱は、起こりえないはず(と思い込んでいる)のものが起こることへの意外性から生じ、一瞬理解不能な宙吊り状態となる。そして審判の説明を聞き、オフサイドを犯した選手が特定され、やっとこの事態を頭で納得するのである。さて、この場合もサッカーのルールに詳しくない人にとって、オフサイドはついには謎のまま浮遊しているのかもしれない。ここでも、この作戦はルールを境にして理解の可能性上を横断している。
このように、《ガエ・ハウス》を通して仕掛けられたアトリエ・ワンのオフサイドトラップは理解の二重性を保持している。そしてこの二重性はすでに述べた建築家の固有性と状況への応答が生む規範性の別の形での現われでもあり、その二つの性格の共存こそがこの建物の価値を生みだしているのであり、さらに一般的に言うならば使う対象としての規則を考えていくうえでの支えともなっているのであろう。


★一──ピエール・ブルデュー『芸術の規則I』『同II』(石井洋二郎訳、藤原書店、一九九五)。
★二──A. Tzonis, L. Lefaivre, “Introduction between Utopia and Reality: Eight Tendencies in Architecture Since 1968”, Architecture in Europe Memory and Invention since 1968, Thames and Hudson, 1992.
★三──資本の総量とは経済資本、文化資本(広い意味での文化に関わる有形無形の所有物の総体)、社会関係資本(人間関係)の合計値。
★四──ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン──社会的判断力批判I』『同II』(石井洋二郎訳、藤原書店、一九九〇)。
★五──ピエール・ブルデュー『芸術の規則II』(一三頁)。ブルデューはパノフスキーの『ゴシック建築とスコラ学』を仏訳した際にパノフスキーの精神的習慣(mental habit)という概念から自らのハビトゥス(habitus)概念に至ったことを述懐している。
★六──ブルデューのこうした構造主義的論理構成への批判は多々あるが、われわれが設計の現場でさまざまなクライアントに出会い感ずるシンパシーや違和感は、ハビトゥスの差異あるいは同一性を感知しているからにほかならない。
★七──小田部胤久「様式とハビトゥス」(山田忠彰+小田部胤久編『スタイルの詩学──倫理学と美学の交叉(キアスム)』[ナカニシヤ出版、二〇〇〇]二二七頁)。
★八──原広司『空間「機能から様相へ」』(岩波書店、一九八七)三三頁。
★九──慣習行動=プラティーク(pratique):人が日常生活のあらゆる領域において普段行なっているさまざまな行動。(ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンI』vi頁)による。
★一〇──アンソニー・ヴィドラー『不気味な建築』(大島哲蔵+道家洋訳、鹿島出版会、一九九八)。
★一一──同書、二六頁。フロイトを援用しつつもヴィドラーは英語のuncannyの語義「理解の範囲を超えて」が有効であると述べている。
★一二──オフサイドは、サッカーのルールでありハンドボールには適用されない。あるいはオフサイドトラップを多用するチームにはそれなりの攻め方も現われる。そうした想定でのまた違った攻撃のしかたを考えていくのもこうしたアナロジーの楽しみ方である。

>坂牛卓(サカウシ・タク)

1959年生
信州大学工学部建築学科教授、O.F.D.A.associates共同主宰。建築家。

>『10+1』 No.35

特集=建築の技法──19の建築的冒険

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。

>アニ・ハウス

神奈川県茅ケ崎市 住宅 1998年

>ミニ・ハウス

東京都練馬区 住宅 1999年

>フランク・O・ゲーリー(フランク・オーウェン・ゲーリー)

1929年 -
建築家。コロンビア大学教授。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>ガエ・ハウス

東京都世田谷区 住宅 2003年

>不気味な建築

1998年11月1日

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年 - 2002年
批評家。スクウォッター(建築情報)主宰。