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バウハウスの図的表現──その建築における軸測投象の使用について | 加藤道夫
Bauhaus and Graphic Representation: Architectural Applications of Axonometry | Kato Michio
掲載『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999, 1999年06月発行) pp.185-195

1  新たな空間表現

バウハウスの建築の図的表現を特徴づけるもののひとつとして軸測投象(axonometric projection)★一の使用を挙げることができる。
軸測投象の使用は後述するように二〇世紀初頭のモダニスム建築の台頭と並行関係にあるが、バウハウスもその例外ではなかった。一九二三年のバウハウス展に際して公刊された『国立バウハウス・ワイマール1919-1923』★二の冒頭に収録されたグロピウス★三の論文「国立バウハウスの理念と形成(Idee und Aufbau des Staatlichen Bauhauses)」には次のような記述がある。「製図教程では、意識的に、旧来のアカデミー的な消失点遠近法(Fluchtpunkt-Perspektive)を回避している。というのは、これは視覚的に歪ませ、純粋な表象を損なうからである。幾何学的製図法と並んで、バウハウスでは新たな空間表現(neue raumliche Darstellung)が開発された。それは、ひとつのおなじ製図で、空間の描写的効果と測定可能な幾何学的図法とを統一させるものである。それによって、無意味な効果という欠点は避けられ、また大きさを直接測ることができるという長所を失うこともない」★四。その参照図版は、ムッヘ★五設計、オッテ★六作画の「国立バウハウス展1923の一家族住宅(アムホルンの住宅)」[図1]とグロピウス設計、バイヤー★七作画の「学長室(Arbeitsraum)」[図2]の等測投象の図(isometric drawing)である。この著述と参照図版から、バウハウスにより開発された「新たな空間表現」とは軸測投象の図であることが理解できる。
しかし、この書の他の図版を見ると、いくつかの透視図があり、記述のように「消失点遠近法」と呼ばれる透視図法がすべて回避されているわけではない。したがって、この記述は透視図法の回避というより、製図教程において軸測投象が「新しい空間表現」の手段として導入されたと理解すべきであろう。
これに先行するブロムフィールドの『建築図面とドラフトマン』(一九一二)には、次のような記述がある。「私は学生の注意を幾何学的な図(geometrical drawings)と透視図の中間に位置する有用な図法に向けたい。それは、等測投象(isometrical projection)である。この図の目的は平面図と立面図を一枚の図に示すことである」★八。彼は、この書で、「幾何学的図(平面図や立面図のように対象を遠近法的な歪みなく伝達する計測可能な図)と透視図(対象の姿を立体的に表現する図)の中間に位置する有用な図」として、ショワジーによる一八七三年刊行の『ローマ時代の建造術(L’Art de Bâtir chez les Romains)』に掲載された図版を挙げる。
このように軸測投象は対象の姿を立体的に表現する手段であって、しかも、透視図法とは異なり、対象の量表現が可能な手段として着目されたのであった。しかし、ブロムフィールドがショワジーの軸測投象を先行して取り上げるように、決してバウハウスによって開発された新たな空間表現手段ではなかった。平行線が平行に投象される厳密な意味での軸測投象に限っても、その起源は少なくとも一八世紀に遡ることができる★九。
したがって、バウハウスが軸測投象を新たな空間表現手段として開発したという記述の意味を真に理解するには、その前段階として軸測投象の成立過程、及び、同時代における軸測投象の利用状況を理解する必要がある。ここでは、軸測投象の歴史を振り返りつつ、バウハウスの軸測投象採用の意味を再考したい。

1──オッテによる「アムホルン住宅」の軸測図(1923)

1──オッテによる「アムホルン住宅」の軸測図(1923)

2──バイヤーによる「学長室」軸測図(1923)

2──バイヤーによる「学長室」軸測図(1923)

2 一九世紀以前の軸測図

前述の著述から軸測投象の特性として(一)対象の姿を立体的に表現する、(二)遠近法的歪みがなく対象の量表現が可能である、の二点を挙げることができる。この観点からヨーロッパにおける建築の軸測投象の発展過程を振り返ってみよう。
軸測投象の起源についての最も古い資料のひとつと考えられるものに、紀元一世紀に書かれたウィトルウィウスの『建築書(De Architectura)』がある。そこでは、建築の構成要素のひとつであるディスポシティオの姿として、ichnographia, orthographia, scaenographiaの三つを挙げる。ichnographiaは現在の平面図、orthographiaは立面図にほぼ相当する。scaenographiaについては、「正面と遠ざかってゆく側面の略図」★一〇と記されている。現存する写本には「図」がなく、はじめから図がなかった可能性もあり、scaenographiaが具体的にどのようなものであったかについては不明である。しかし、建築の正面と側面を同時に表現するという意味で軸測投象の起源に関する重要な記述と考えられる。同時代のポンペイの壁画には、こうした正面と側面を同時に描いた図[図3]が残されている。ただし、この図は、わずかな遠近法的短縮はあるものの、平行線が同一の消点に収斂せず、厳密な意味で透視図ではないし、平行線が平行に表現されないという点で軸測図ともいえない。
中世における資料としては、『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』がある。そこに描かれた「ランス大聖堂」の図[図4](曲面を表わすために平行な円弧を基準線として利用して描かれている)や「車輪図」を見ると、ここでも、正面と側面を同時に表現する独自の表現法が考案されたことがわ
かる★一一。
ルネサンス期には、ブルネレスキの試みにはじまり、アルベルティの『絵画論』で初めてその方法が具体的に記述され、その後公刊される現代的意味での透視図法が考案された。その後、ピエロ・デラ・フランチェスカやヴィアトール、デューラー等により透視図法に関する各種の書が著され、建築分野でも透視図法が多用されるようになる。しかし、軸測投象的表現も完全に捨てられたわけではなかった[図5]。一方で、透視図法は遠近法的短縮を持つため、立体の形状の「見えがかり」は表現できるもののその大きさ(量)が表現できないという問題が提起された。アルベルティはこの点を『建築論』(一四五二)で指摘する★一二。同様の指摘がラファエロの教皇レオ一〇世への書簡やドゥ・ロルムの『建築』(一五六七)に認められる。
他方で、ルネサンス期にはいくつかの新しい表現法の試みがなされた。その一例としてペルッツィによるサン・ピエトロ大聖堂のスケッチ[図6]がある。この図は、平面図、立面図、断面図を同時に表現することで、建物の構成要素間の関係を分析的に図示するものである。投象法としては、透視図法、いわゆる平行透視が用いられているが、建物は切断され、建物の側面が表現できるように消点(視心)が建物中心から横に移動され、やぶにらみの図となっている。この図は、網膜に映る像の模像として対象の見え方を表現するというより、認識された構成要素間の関係を図示しようとするもので、透視図法の採用は本質的なものではないと考えられる。この意味で新たな試みといえる。
一七世紀には、ペルッツィ等による新たな表現の試みを受け、また透視図法における「量表現」の問題の解決に向け、斜軸測投象の図法的確立が模索された。その中で特筆すべきものとして、フランスの宰相コルベールの指示の下に集められたコルベール集成[図7]がある。ボワによれば、コルベールは科学アカデミーに透視図法に代わる図法の考案を求めた。その結果、今日のカバリエ投象やミリタリ投象に近い図が集められた。また、これと並行してデシャールに代表されるイエズス会系の理論家により斜軸測投象が提示され、軍事、土木分野では軸測投象の利点としてその簡便性と経済性が主張されるが、建築分野には拡がらなかったといわれる★一三。
一八世紀にはいると一七五六年にリーガーの『ミリタリ透視図』が出版され、ミリタリ投象の理論的説明が行なわれた[図8]。また、ディドロ、ダランベール編の『百科全書』第一二巻に「ミリタリ透視図」という項目が設けられるほか★一四、『百科全書補遺』第四巻に「カバリエ透視図、ミリタリ透視図」という項目が設けられ、平行線が平行に投象される図として説明される★一五。つまり、この時期にカバリエ投象、ミリタリ投象が図法として一般に認知されるに至るのである。ただし、それは透視図の一種という扱いであって、独立した図法として認知されるものではなかった。
一八世紀末にはモンジュがエコール・ノルマールの教材として『画法幾何学』を著し(一七九五、出版一七九八)、その後継者による軸測投象の理論的確立の基礎を築いた。モンジュの信奉者であったファリッシュは、「等測図について」を著し[図9]、直交三軸の直投象の一形態として等測図の投象法を確立した。以降、ソプウィズは等測投象を地学や鉱山学に応用し(一八三八)、ジョプリングは農業建築へと応用する論文(一八四二)を発表する[図10]★一六。このような軸測投象の理論的確立と並行して、軸に沿って対象の長さを測るという描き方から、「軸測(axonometry)」という言葉が誕生するのは一八六五年といわれる★一七。こうした経緯の中で、一九世紀にはエンジニアの基礎教育として軸測投象が導入されるが、建築のデザイン分野での普及は進まなかった。
一方、軸測投象は透視図法に比して奥行き知覚の手がかりが少ない分、視覚的多義性を持つことが問題とされた。グルヌリーは、多義性を回避するため、陰影を付けることを主張する★一八。
建築分野で軸測投象を主たる表現手段として使用したのはショワジーであろう。彼は一八七三年刊行の『ローマ時代の建造術』において、グルヌリーに倣って陰影をほどこした見上げのミリタリ投象を用い、下部から上部へと至る構築概念の図示に成功する[図11]。また、一八九九年刊行の『建築史(Histoire de l’Architecture)』では、古代から一九世紀に至るあらゆる建築を構築という概念で整理し、その図示に見上げ、見下ろしのカバリエ投象、ミリタリ投象、等測投象というあらゆる種類の軸測投象を駆使する★一九。この段階で、軸測投象のあらゆる手法が確立されたといえる。

3──ポンペイの壁画に見る軸測図的表現

3──ポンペイの壁画に見る軸測図的表現

4──『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』におけるランス大聖堂内観図

4──『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖』におけるランス大聖堂内観図

5──パッラディオによるオーダーの軸測投象的表現

5──パッラディオによるオーダーの軸測投象的表現

6──ペルッツィによるサン・ピエトロ大聖堂の内部構造説明図

6──ペルッツィによるサン・ピエトロ大聖堂の内部構造説明図

7──コルベール集成における軸測図的表現

7──コルベール集成における軸測図的表現

8──リーガーによるミリタリ投象説明図

8──リーガーによるミリタリ投象説明図

9──ファリッシュによる等測図の説明図

9──ファリッシュによる等測図の説明図

10──ジョプリングによる等測図

10──ジョプリングによる等測図

11──ショワジー『ローマ時代の建造術』における軸測図

11──ショワジー『ローマ時代の建造術』における軸測図

3  二〇世紀初頭の軸測図

二〇世紀にはいると、軸測投象は透視図法に変わる表現手段として積極的に使用されるようになる。中でも一九一七年にドゥースブルグを中心に結成されたデ・ステイルはその表現手段として軸測投象を意識的に採用し[図12]、一九二三年にパリで開かれた「デ・ステイル展」はル・コルビュジエ等に大きな影響を与えた[図13]★二〇。一方、ロシアでは、マレーヴィチによるシュプレマティスムの影響を受けたエル・リシツキーが、一九一九年から二四年にかけて「プロウン」と名付けられた連作[図14]において、軸測投象を用いて幾何学的立体構成を表現した。彼は、「芸術と汎幾何学」(一九二五)において、「シュプレマティスムは、有限な視角のピラミッドの頂点を無限へと移し替えた。(…中略…)このようにして、シュプレマティスムは、三次元のイリュージョンを画面から一掃し、それにかえて、前方へも後方へも無限に延長しうる非合理的な空間の最高のイリュージョンをつくりだしたのである」★二一と、透視図法に代わる手段としての軸測投象の有用性に言及している。ただし、彼は軸測投象の多義性を回避すべきものと考えず、多義的な解釈をもたらす表現手段として積極的に採用した点が異なっている。
このようにヨーロッパの軸測投象の歴史を振り返るなら、軸測投象は透視図法の確立以前からその前身が模索され、ルネサンス期の透視図法確立以降、透視図法に簡便性と量表現を付与する手法として開発されてきたことが理解できる。しかし、一九世紀以前においては、建築のデザイン分野では普及せず、透視図法がその中心であった。その意味で、透視図法は、二〇世紀において乗り超えるべき対象としての古いアカデミズムを象徴するものであり、その代替手段として軸測投象が取り上げられたと理解される。しかし、一九世紀以前の軸測投象は、グルヌリーの「多義性の回避」に代表されるように、建築という三次元対象を一義的に表現する手段にすぎず、その意味では透視図法から固定した有限の視点を取り除き、無限視点へ置き換えたものにすぎなかった。
真の意味で軸測投象が建築の「新たな空間表現」となるには、バウハウスを初めとする二〇世紀のモダニストによる展開が求められるのである。

12──デ・スティル、ドゥースブルグとエーステレンによる「芸術家の家」(1923)

12──デ・スティル、ドゥースブルグとエーステレンによる「芸術家の家」(1923)

13──ル・コルビュジエ「クック邸」軸測図(1926)

13──ル・コルビュジエ「クック邸」軸測図(1926)

14──エル・リシツキーの「プロウン」(1924)

14──エル・リシツキーの「プロウン」(1924)

4 『国立バウハウス・ワイマール1919-1923』
における立体構成としての軸測図

以上の整理のうえで改めて『国立バウハウス・ワイマール1919-1923』に掲載された軸測図について見てみよう。この書には四つの建築軸測図が掲載されている。
グロピウスの軸測図[図15]は量産住宅の空間単位の組み合わせの可能性を図示するものとして描かれた。すなわち、Gと記された基本単位に1から7までの単位を付加する可能性を図示している。しかし、この図は他の軸測図とは異なり、カヴァリエ投象で描かれており、正面形は実形であるが、奥行きの寸法は二分の一に圧縮されている。この意味でその縮率が示されない限り奥行き方向の量を表わすとはいえない。また、そこで表現される立体は壁の厚みを含んだ実体であり、実体が消去された内法うちのりの空間単位を表わすものではない。
次に、バイヤー作画による学長室の軸測図[前掲図2]を見てみよう。この作品は一室が描かれているという事情もあって、空間単位の組み合わせという表現にはなっていない。しかし、部屋全体は透明な立体として表現され、壁体の厚みが表現されておらず、その内部に実体としての家具や照明が描き込まれている。それらの外形線は互いに重なり合い、立体の陰影がほとんど表現されない。そのため、軸測投象の持つ多義性も相まって立体の凹凸が時に反転し、家具が空中に浮遊しているようにさえ見える。つまり、実体としては静的に安定して配置された家具や照明群が軸測図上では、空間内に宙づりにされ、多様な関係が読みとれるものとなっている。こうした多義的な解釈をもたらす図はエル・リシツキーの「プロウン」に相通じるものがあるといえよう。しかし、空間内に配置される家具はそれぞれ同一に彩色され、立体が面に解体されることはない。
これと比較すると、ブロイヤー作画の軸測図[図16]では、部屋全体は透明な立体として描かれるものの、家具を構成する面に明暗がほどこされ、立体としてのまとまりがより明瞭に表現され、その位置関係も安定したものとなっている。
オッテ作画の軸測図[前掲図1]は、ムッヘ設計のアムホルンの住宅を描いている。この住宅はグロピウスを中心に構想された集合住宅の一棟が展覧会の際にモデル住宅として実現されたものである。それは、平面図を見るとわかるように、中央の高いホールを中心としてその周囲に小室を配置し、全体を矩形にまとめたもので、それ自体、特に斬新なものとはいえないだろう。しかし、その軸測図を見ると印象は大きく変わる。そこでは、建物内部の各室の空間単位(raum)がそれぞれ色分けされた内法の立体として表現され、それらが建物全体に組み込まれたような表現となっている。しかも、その室空間はそれぞれ背後の空間単位が見えるように透明に表現され、その結果、間仕切り壁の実体感が消失している。デ・ステイルのような空間単位間の相互貫入をみることはできないけれども、空間単位が透明に描かれることで、それらの位置関係が見事に図示されている。オッテの図は、規格化された空間単位を組み合わせて住宅を構成するというグロピウスの考えを図化しているといえよう。
オッテの軸測図がどれほど意図的なものであったかは不明である。しかし、床、壁、天井という実体から構成される建築を反転させ、その内部空間(raum)を実体化し、それらの相互の組み合わせとする表現は、グロピウスが図示した規格された立体単位の組み合わせという手法を超えて、空間そのものを単位とするモダニスムの建築観を示していると読みとることができるのではないだろうか? また、壁体の非実体化という点で、以降のバウハウスに見られる壁体を耐力壁から解放し、外壁を皮膜化し重力から解放するという考えを予見するものともいえる。なお、この書には透視図ではあるが、バイヤーによる「バウハウス(本館)における階段と廊下の機能的構成(Funktionelle Darstellung der Treppen und Fluren des Bauhauses, Hauptgebäude)」という作品[図17]も掲載されており、そこでも空間は透明に描かれ、壁体の厚みは消去されている。
このように立体を透明に表現することで、立体の位置関係を表わすものとしてドゥースブルグの「芸術家の家」(一九二三)[前掲図12]、「カウンター・コンストラクション」(一九二三)[図18]がある。しかし、そこでは表現される立体は壁や床面といった実体であり、空間単位ではない。この違いはデ・ステイルとバウハウスの建築観の違いを示しているといえる。さらに、透明な立体の重ね合わせという点では、キュビスムの絵画やル・コルビュジエに代表される当時のピュリスムの絵画にも通じるものがあるといえよう。
以上の分析から、一九二三年当時のバウハウスでは、作画者それぞれの立場で軸測投象の建築における応用の可能性を追求していたと理解される。とはいえ、空間や実体をそれぞれ立体として捉え、積み木細工のような構成として建築を理解するという一貫性を軸測図から読みとることができる。すなわち、そこでの立体は部屋に対応する空間単位や家具であって、デ・ステイルのような壁体や床面ではない。立体は、その構成要素である面に解体されることなく、その形態的まとまりを保存したうえで建築が構成されるのである。

15──グロピウスによる「量産住宅の空間単位の組み合わせの可能性」

15──グロピウスによる「量産住宅の空間単位の組み合わせの可能性」

16──ブロイヤーによる「展示住宅婦人寝室」(1923)

16──ブロイヤーによる「展示住宅婦人寝室」(1923)


17──バイヤーによる「バウハウス(本館)における階段と廊下の機能的構成」

17──バイヤーによる「バウハウス(本館)における階段と廊下の機能的構成」

18──ドゥースブルグによる「カウンター・コンストラクション」(1923)

18──ドゥースブルグによる「カウンター・コンストラクション」(1923)

5 ワイマール期における軸測図に見る
表現の可能性の模索

ワイマール期のバウハウスは一九一九年の宣言文に記された方針とは異なり、建築の教育プログラムを自身の内に含んでいなかった。建築教育はグロピウス&アドルフ・マイヤー事務所にバウハウスの学生が参加するという形でしか行なわれなかった。前述のオッテやバイヤー、ブロイヤーもこうした形で建築の図を描いたのである。
こうした学生の内にモルナール★二二がいる。彼は一九二三年の国立バウハウス展で「赤い立方体(Der rote Würfel)」という作品を発表する。『国立バウハウス・ワイマール1919-1923』には、透視図と平面図が掲載されるのみであるが、その軸測図(ミリタリ投象)が残されている[図19]。この図では、住宅本体は立体として表現されるものの、その周囲に配されるパーゴラ(pergola)と記された庇はその上面のみが黒く彩色され、面としての特性が強調される。こうした特徴は、「高層ビル」(一九二三)[図20]ではより顕著で、建物内に挿入された床スラブは厚みのない面として表現されている。また、この図は軸測投象として一貫した投象法をとらず、見上げ、見下ろしの軸測投象に立面図が合成され、キュビスムの絵画のように複数の方向からの見えを合成した表現となっていることも特筆に値する。このような立体の面への解体、複数の図法の混用は、より控えめな表現ながらバイヤーの「展示パヴィリオン案」の軸測図(一九二四)[図21]にも見ることができる。そこでは、円環の厚みは表現されず、また、上部の円筒部は等測投象、下部の直方体はミリタリ投象という二つの図法が混用されている。
以上から、ワイマール期のバウハウスでは、軸測投象を手段としてさまざまな表現法が模索されたことが理解できる。
一方、この時期に描かれた建築の軸測図を見ると、その構成単位である立体の構成要素である稜線が、円を除いてすべて直交三軸に平行であること、また、その立体が直交三軸に沿って配置されるという特徴がある。軸測投象と直交三軸の密接な関係はその描き方からして自明であり、直交三軸を基準としてデザインされた構成の表現として軸測投象の使用は最も自然なものといえよう。逆にいえば、軸測投象を手段とするデザインでは、斜線や斜面などの斜めの部分を含まない構成となることが、暗黙の内に前提とされていると考えることができる。この関係はいわば鶏と卵の関係であり、その因果関係を順序だてることはできないが、軸測投象の使用とデザインの間の密接な関係を指摘することができよう。

19──モルナールによる「赤い立方体」(1923)

19──モルナールによる「赤い立方体」(1923)

20──モルナールによる「高層ビル」(1923)

20──モルナールによる「高層ビル」(1923)

21──バイヤーによる「展示パヴィリオン案」(1924)

21──バイヤーによる「展示パヴィリオン案」(1924)

6  デッサウ期における軸測図の展開

ワイマールのバウハウスは政治情勢の変化により一九二四年に閉鎖され、翌年、デッサウで再開校する。ここでは、デッサウ移転後の軸測図を見る。
この時期の軸測図の特徴として、これまで描かれることのなかった見上げの軸測投象の導入がある。一九二六年のアルント★二三による軸測図[図22]では、下面が赤、青、黒に彩色され、立体の構成面を強調した結果、ワイマール期の特徴であった立体の一体性が面に解体する傾向が示されている★二四。さらに、この図の特徴として三枚のミリタリ投象を一枚の図に同時に描くことで、建築の正面、背面、両側面のすべてを表現しているという点が挙げられる。このような表現法はこれまでの単一方向からの軸測投象には見られなかった表現である。しかも、これらの図は、平面の二軸が高さ方向に対してそれぞれ三〇度と六〇度に傾けて描かれている。その結果、立面は、一方は歪みが少なく、他方は歪みが大きく描かれ、その表現に強弱が生じている。これは、直交三軸を均等に表現する等測投象やデ・ステイルの多用する四五度に傾けたミリタリ投象にはない特徴である。ル・コルビュジエもこの時期に二つのミリタリ投象を一枚の図にレイアウトして発表する[図23]が、それは正面と背面を強調するものであり、三つの面を強調したミリタリ投象は描かれることはない。ここに建築から正面性を排除するバウハウスの意図を読みとることができる。
複数の軸測図を一枚の図に表現する手法は、シェパー★二五の壁画工房での作品「デッサウ・バウハウスの案内平面図」(一九二六)[図24]にも見られる。そこでは、カヴァリエ投象の採用により各階平面図が歪んで表現され、これを上下に並べて配置することで、床面の位置関係を表示し、その機能配置を立体的に示している。こうした表現法は現代ではよく見られるものであるが、その先駆としてシェパーの貢献は大である。
さらに、誤解を恐れずにいえば、この図は積層された床面による構成というデッサウ・バウハウスの建築的特性を表現するとも解釈できる。つまり、各室を単位とする立体構成というワイマール期の建築観とは異なり、床スラブの積層とそれを支える躯体、全体を覆う被膜としての立面という建築観に対応する表現といえよう。このような建築観は、シェーパーによる「デッサウ・バウハウスの立面図」[図25]においてより明瞭に見られる。この図では、模型制作のための展開図のように各立面の背後の面が描かれず、しかも、グランドラインも描かれていないため、建物が宙に浮いたような表現になっている。基部を後退させたり、暗く彩色することで上部の白い立体を大地から切り離し、また躯体を建物内部に収め立面を皮膜のように扱うことで重力を感じさせないようにするというデッサウ・バウハウスの設計コンセプトを明瞭に表現するものといえよう。
この期には、透視図に替えて写真を採用し、写真と軸測図を同一の図にレイアウトすることも試みられた[図26]。この図はムッヘによる一九二五年の作で、透視図を写真に代替する一方で、軸測図がその代替手段にはならないことを示している。
また、軸測図に複数の視点を導入する表現法としてこの時期の学生ローデによる一九二六年制作の「室内空間の習作」[図27]がある。この図はミリタリ投象で描かれてはいるが、その壁面の立ち上げ角度を三方向にとり、結果として三枚の図の合成となっている。この表現がローデの創意によるものか、マイスターの指導によるものかは不明であるが、バウハウスでの教育の現場から各種の新表現が考案されるということはバウハウスの開かれた教育を示すものとして興味深い。
一九二七年、ハンネス・マイヤー★二六が招聘され、バウハウスにおいて初めて本格的な建築教育が始まる。マイヤーの軸測図[図28]の特徴として、徹底した線による表現を挙げることができる。そこでは面表現としての彩色が抑制され、初期の自動製図器プロッターで描いたような、描き手の個性を極力排除したものとなっている。機能的プログラムや経済的なプログラムに依拠し、合理的に説明可能な根拠に基づいて建築を計画するという考え方は、合理的な説明の外にある描き手の個性や芸術性とは相容れないものであったと理解される。一方で、ドローイングのさまざまな可能性についての探求は壁画工房や予備課程においてなされた。ピュシェル★二七によるアルバース★二八の予備過程での一九二七年の作品[図29]はそのことを示している。
マイヤーがバウハウスを去ったあと、ミース★二九が校長に赴任し、建築科を担当する。しかし、ミースは、建築において透視図を多用し、軸測図をほとんど用いることはなかった。再び、透視図による空間表現が主役の座を獲得したのである。

22──アルントによる「バウハウスマイスター住宅」の見上げのミリタリ投象(1926)

22──アルントによる「バウハウスマイスター住宅」の見上げのミリタリ投象(1926)

23──ル・コルビュジエ「ガルシェの住宅」の軸測図(1927)

23──ル・コルビュジエ「ガルシェの住宅」の軸測図(1927)


24──シェパーによる「デッサウ・バウハウスの案内平面図」(1926)

24──シェパーによる「デッサウ・バウハウスの案内平面図」(1926)

25──シェパーによる「デッサウ・バウハウスの立面図」(1926)

25──シェパーによる「デッサウ・バウハウスの立面図」(1926)


26──ムッヘによる「メタルタイプ住宅」(1925)

26──ムッヘによる「メタルタイプ住宅」(1925)

27──ローデによる「室内空間の習作」(1926)

27──ローデによる「室内空間の習作」(1926)

28──マイヤーによる「国際連盟ビル設計案」軸測図(1927)

28──マイヤーによる「国際連盟ビル設計案」軸測図(1927)

29──ピュシェルによる「習作(立体的球の構成)」(1927)

29──ピュシェルによる「習作(立体的球の構成)」(1927)

7  立体の投象手段から空間表現手段へ

バウハウスにおける軸測投象の使用は、ワイマール期においては、空間単位の構成という建築観に対応するものであったし、デッサウ期初期には床スラブの積層とその皮膜としての立面という建築観に対応するものであった。また、軸測図から、建築の正面性の排除を読みとることができる。こうした建築観の反映は、同時代のデ・ステイルやル・コルビュジエ、エル・リシツキー等の軸測図と比較すれば、さらにはっきりする。
確かに、軸測図は、投象手段の開発としてはバウハウス以前の産物であり、また、二〇世紀初頭の他のモダニスト達にも使用されたという点では、新たな空間表現でもなければ、バウハウスによって開発されたものでもない。しかし、ここで見たようにバウハウスの建築理念とその表現手段としての軸測投象が密接に関わり合うことで、結果として独自の空間表現がもたらされる、すなわち、軸測投象という手段の応用の内に過去の軸測図とも同時代の他の軸測図とも異なる展開が読みとれるのである。この意味で『国立バウハウス・ワイマール1919-1923』における「新たな空間表現が開発された」という言説は偽りではないだろう。
また、バウハウスの軸測図は、その多様性という点で他のモダニストとの相違が認められる。そこには、バウハウスに招聘された建築分野以外の指導者達の影響も無視できない。その多様性は、おそらくバウハウスが自己の内にさまざまな個性を内包することで、他のモダニストの考えを吸収、展開する集団としての潜在力を有していたことにあると考える。


★一──対象を平行な投象線で投象する平行投象の一種。この点では、平面図、立面図、断面図と呼ばれる建築の一般図もこの一種であるが、投象面に対して対象を傾けたり、投象方向を斜めにとることによって、直交三軸が重なり合うことなく、投象されるものをいう。その結果、対象を構成する複数の面(例えば、上面と正面と側面)を一枚の図に同時に表現することができる。軸測投象はその投象方向によって大きく二種に分類される。投象方向が投象面に直交するものを直軸測投象、斜めのものを斜軸測投象という。等測投象は、直軸測投象の一種で、直交三軸方向の長さの縮率が等しいものをいう。斜軸測投象には立面図を実形に表現するカヴァリエ投象と平面図を実形に表現するミリタリ投象がある。
★二──Staatliches Bauhaus Weimar 1919-1923, Staatliches Bauhaus in Weimar und Karl Nierendorf, 1923, reprint, Kraus Reprint, 1980.
★三──一九一九年から二八年までバウハウスの校長、二一年から二五年まで家具工房マイスター(『Bauhaus 1919-1933』セゾン美術館編、セゾン美術館、一九九五、四〇三頁)。
★四──ヴァルター・グロピウス「国立バウハウスの理念と形成」深川雅文訳(『バウハウス──芸術教育の革命と実験』深川雅文編訳、川崎市市民ミュージアム、一九九四、二八頁)。この段落は、H. Bayer, W. Gropius, I. Gropius, eds., Bauhaus 1919-1928, The Musium of Modern Art, 1938. では割愛されている。
★五──一九二〇年から二七年まで、バウハウスの織物工房のマイスター、二一年から主任(セゾン美術館編、前掲カタログ、四〇九頁)。
★六──一九二〇年から二五年までバウハウスに在籍(セゾン美術館編、同カタログ、四〇九─四一〇頁)。
★七──一九二一年から二五年までバウハウスに在籍。二五年、職人資格取得(セゾン美術館編、同カタログ、四〇〇頁)。
★八──R. Blomfield, Architectural Drawings and Draughtsmen, Cassel & Company Limited, 1912, p.10. ただし、彼がここでいう「等測投象」とは、厳密には等測投象とは異なり、斜軸測投象の一種であるミリタリ投象である。このような用語が用いられるのは、ショワジーの図に目盛りが等しく付けられた直交三軸のスケールが描かれているためであろう。このような等測投象と斜軸測投象の混同は建築の分野では珍しいことではない。
★九──G. Lever & M. Richardson, The Architect as Artist, Rizzoli, 1984, p.20.
★一〇──『ウィトルーウィウス建築書』(森田慶一訳註、東海大学出版会、一九六九)二五頁。
★一一──藤本康雄によれば、「(R・ベックマンは)、図面表現に際して、今日のような図法を持たなかったヴィラールたちは、独自の論理に従って表現の手段を考え出さねばならなかったとし、車輪図における斜投象図法、ランス大聖堂図面での俯瞰的あるいは透視図法を挙げている」。藤本康雄『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖に関する研究』(中央公論美術出版、一九九一)二二九頁。
★一二──『アルベルティ建築論』(相川浩訳、中央公論美術出版、一九九一)三八頁。
★一三──Y. A. Bois, “Metamorphosis of Axonometry”, DAIDALOS, 1, 1981, pp.41-58.
★一四──Diderot et d’Alembert, L’encyclopéie, vol.12, 1765, p.439.
★一五──Diderot et d’Alembert, Supplement à l’encyclopéie, vol.4, 1777, p.304.
★一六──Y. A. Bois, “Metamorphosis of Axonometry”, op. cit.
★一七──G. Lever & M. Richardson, op. cit., p.19. 「axonometry」は、直軸測投象と斜軸測投象の双方を表わす用語として使用され、以降、透視図法とは区別される。
★一八──Y. A. Bois, “Metamorphosis of Axonometry”, op. cit.
★一九──拙論「建築における三次元空間の二次元表現
──ショワジー『建築史』における軸測図の使用について」(『図学研究』八一、一九九八)四五─五二頁。
★二〇──拙論「建築における三次元空間の二次元表現
──ル・コルビュジエの軸測図の使用について」(『図学研究』七七、一九九七)三─八頁。ボワ(前掲書、四二頁)によれば、ドゥースブルグに軸測投象を伝えたのはエーステレンと言われる。一方、宮島久雄は『レスプリ・ヌーヴォー』のル・コルビュジエの記事に転載されたショワジーの図あるいはショワジーの『建築史』を挙げる(「モダンの空間を創ったデ・ステイル」、『De stijl』セゾン美術館編、セゾン美術館、一九九七、二六頁)。
★二一──エル・リシツキー『革命と建築』(阿部公正訳、彰国社、一九八三)一四九─一六〇頁。
★二二──一九二一年から二五年までバウハウスに在籍(『Bauhaus 1919-1933』セゾン美術館編、セゾン美術館、
一九九五、四〇九頁)。
★二三──バウハウスに一九二一年に入学し、二四年、その職人試験に合格、その後建築家として活動し、一九二九年から三二年まで「建築内装」マイスター(セゾン美術館編、同カタログ、三九九頁)。
★二四──見上げの軸測投象は前述のようにショワジーによって考案されたものと考えられ、デ・ステイルが多用した手法である。また、面彩色による立体の構成面への解体もデ・ステイルが先行する。
★二五──一九一九年から二二年までバウハウスに在籍、一九二五年から三三年まで「壁画工房」マイスター(『Bauhaus 1919-1933』セゾン美術館編、セゾン美術館、
一九九五、四一一頁)。
★二六──一九二七年から二八年までバウハウス建築科講師。二八年から校長と建築科主任を兼任(セゾン美術館編、同カタログ、四〇八頁)。
★二七──一九二六年から三〇年までバウハウスに在籍(セゾン美術館編、同カタログ、四一〇頁)。
★二八──一九二〇年から二二年までバウハウスに在学、二三年から予備課程担当(セゾン美術館編、同カタログ、三九九頁)。
★二九──一九三〇年から三三年までバウハウスの校長(セゾン美術館編、同カタログ、四〇八頁)。

図版出典
[図1・2・15・16・17]Staatliches Bauhaus Weimar 1919-1923, Staatliches Bauhaus in Weimar und Karl Nierendorf, 1923, reprint, Kraus Reprint, 1980.
[図3]神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館、一九九九)。
[図4]藤本康雄『ヴィラール・ド・オヌクールの画帖に関する研究』(中央公論美術出版、一九九一)。
[図5]G. Lever & M. Richardson,The Architect as Artist, Rizzoli, 1984.
[図6]B. Jestaz,  Architecture of the Renaissance, Abrams, 1996.
[図7・8・9・10・11・12・14・18]Y. A. Bois, “Metamorphosis of Axnometry”, DAIDALOS, 1, 1981.
[図13・23]J. Badvici, ed., L’Architecture Vivante, Automne et Hiver 1927,  Editions Arbert Morance.
[図19・20]H. Klotz, Architektur des 20. Jahrhunderts, Ernst Klett Verlag, 19897.
[図21・27・28]『バウハウス芸術教育の革命と実験』(川崎市市民ミュージアム、一九九四)。
[図22・24]Bauhaus-Heft der Zeitschrift, Der-Offset-Verlag G.M.B.H., 1926, repint, Kraus Reprint, 1980.
[図25]Bauhaus Dessau foundation & M. K. Craig, eds., The Dessau Bauhaus Building 1926-1999, Birkhäuser, 1998.
[図26]W. Herzogenrath & M. S. Kraus, eds., Bauhaus uopien, Edition Cantz, 1988.
[図29]セゾン美術館編『BAUHAUS 1919-1933』(セゾン美術館、一九九五)。

>加藤道夫(カトウ・ミチオ)

1954年生
東京大学総合文化研究科教授。建築設計論、建築図学。

>『10+1』 No.17

特集=バウハウス 1919-1999

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ヴァルター・グロピウス

1883年 - 1969年
建築家。バウハウス校長。