バシュラールの樹木
一九世紀西欧の巨大円形閲覧室の中心点に登場した、二律背反的な「知の主体」としての「人間」。彼の運命は、全能と無力、無限と虚無という両極の間で引き裂かれてあるほかないというその存在様態のゆえに、必然的にある悲劇的な相貌を帯びざるをえない。むろんそれは、ロマン主義的とも形容されえよう勇壮なパトスの昂揚とは無縁の索漠とした悲劇性、自分自身の存在がいつなんどき砂のようにさらさらと崩壊してゆくかもしれないという冷酷な無関心の脅威にさらされているものが、避けがたくまとわざるをえない非人間的な悲劇性であるが、とにかくそこには、豊かな「知」を所有しえたことの余裕ある満足感などが介入するゆとりなどありはしない。情理の均衡のとれた人文主義的な「知」の幸福な自足は、この「人間」の手からも視線からもはるかに遠い。その場合、中心であることが絶対的な外部であることと矛盾しないこの奇妙なトポスに身を置いた「人間」に禁じられている属性のひとつとして、たとえばバシュラール的な至福を挙げることができるだろう。閲覧室の中心で開いた書物を前に座っている「人間」にとって、「読む人」バシュラールのあの多形倒錯的な幸福を体験する途は閉ざされているのだ。
なぜここでガストン・バシュラールの名前が出るのか。地水火風の四元素をめぐる大いなる「夢想」の連作の書き手バシュラールは、その広大で多岐にわたる教養からして、あの円形閲覧室に身を置く「読者」のイメージにきわめて近い存在と見えないでもないからである。なるほど彼の場合も、途方もない博識の持ち主ではありながら、実のところその「知」のありようは、凡庸な人文主義的伝統からの絶えざる逸脱を誇示する底のものではあった。彼は、単に科学的理性と文学的感性との架橋を試みた碩学であったわけではない。学問領域といった制度的な棲み分けなどをいささかも顧慮することなく、無垢な読み手に徹して書物から書物へと踏破しつづけたバシュラールは、その読み取った言葉とイメージを、全身を挙げての肉体的な共鳴作用によって増幅し、哲学とも文芸批評とも散文詩ともつかぬ独創的なテクストへと織り直していったのだ。だが、そうした狭義の人文主義への反抗にもかかわらず、『水と夢』や『夢想の詩学』の著者が、「知」のコスモスの中心に位置する極めつきの「読む人」として、無限を喚起する円の形象にふさわしい存在と見えることは否定しがたいだろう。実際、彼は、『空間の詩学』の終章「丸いものの現象学」の最後のページにおいて、円形のコスモスの中央に一人ぽつんと立ち尽くす樹木にみずからを託しつつ実存の詩を謳うリルケの言葉への、大いなる共感を語っている★一。
樹木、それを取り囲むものすべての
中央につねにあり、
蒼穹のまるまる全体を
享楽している、樹木。
(リルケ「フランス詩集」)
孤立した存在がみずから円となり、自分を内向的に閉ざしてゆくのだが、と同時にまた、世界の地平に向かって伸び広がり、コスモスの波長に同調していきたいと欲望する。そのとき、彼の頭上に広がる天空の丸天井もまた完璧な円環性へといよいよ接近し、存在を慰撫し保護するように包みこむ。存在と世界との間のこうした「丸さ」の調和を見事に表現しえた作品として、バシュラールはこのリルケの詩篇を『空間の詩学』の結論の位置に据えているのだ。では、この孤独な「樹木」は、大英博物館閲覧室の丸屋根の下、ぐるりいちめんを無数の書物の背表紙に取り囲まれておののいている「読者」の譬喩たりうるだろうか。否、と答えねばなるまい。というのも、リルケがこの詩篇を次のように書き継ぐとき、彼の「樹木」はあくまで神のまなざしの庇護の下にあり、そのかぎりにおいて、長らく待たれていた挙げ句の果てにようやく到来し、不在の鏡像の位置を占めるに至ったあのフーコー的な「人間」とは、似て非なるものであるからだ。
その樹木の前に、神が現われるだろう
樹木はその出現を確かなものとするために
みずからの存在を丸く広げてゆき
成熟した両腕を神に向かって差し伸べる。
恐らくは内に籠もって
思考している樹木。
みずからを統禦し、
みずからにゆっくりと
風の偶然を排除するかたちを
与えてゆく樹木。
リルケ=バシュラールの孤独な「樹木」が世界との間に円環的調和を達成できるのは、超越者の遍在がそれを包摂しているがゆえのことなのだ。万能の超越者による庇護。この一点で、バシュラール的な夢想の中で育まれた「丸さ」の至福は、大英博物館やパリ国立図書館の円形閲覧室の体験から決定的に離反する。バシュラールにとって、「読むこと」の幸福は、超越者の支えを得て揺るぎなく安定した完璧な円のイメージに至り着いてそこで停止する。それは、個の内面の心理的充足と、事物世界の形而上的完成とが、同心円状の調和を示す地点にほかならない。バシュラールの読書の時空は、なるほど古臭い人文主義的な「知」を色褪せさせる新鮮なダイナミズムを胚胎していることはたしかだとしても、結局はこの同心円状の調和を至上の価値とする世界なのである。他方、このリルケ=バシュラールの樹木の「夢想」といかにも似通った空間配置を示しているとはいえ、一九世紀的な「知の装置」としてのあの巨大閲覧室の「丸さ」は、こうしたミクロコスモスとマクロコスモスとの幸福な調和にむしろ積極的な亀裂を入れずにおかないある過剰を漲らせている。他の誰にも模倣しがたい深く豊かな関係を書物の世界との間に取り結んでいた「読む人」バシュラールは、にもかかわらず、図書館の人ではなかった。たぶん彼は、図書館で本を読むことを嫌っていたのではないか。古くからの馴染み深い家具に取り巻かれた自分の家の書斎という小さな親密な個的空間で、蝋燭やランプの炎がぺージの上に落とす柔らかな光の明るみを頼りに文字を辿ってゆくというのが、バシュラールの愛した読書のかたちだったに違いない。
ベンヤミンと図書館
では、それと対照的な「図書館の人」がもしいるとしたら、それはいったいいかなる存在であるのか。ここでわれわれは、一九世紀的な円形閲覧室の内部に、驚異的な博学という点ではバシュラールと甲乙つけがたいもう一人の「読む人」を召喚しよう。
パリのパサージュを扱ったこの著作は、丸天井に広がる雲ひとつない青い空の下の戸外で始められた。だが何百万枚という木の葉に、何世紀もの埃に埋もれてしまった。これらの木の葉には、勤勉の爽やかな微風がそよめくこともあれば、研究者の重い溜め息が当たり、若々しい情熱の嵐が吹き荒れ、好奇心のちょっとした空気の動きがたゆたうこともあった。というのも、パリの国立図書館の閲覧室のアーケードの上に懸かる描かれた夏空が、閲覧室の上に光のない、夢見心地の円蓋を広げているからである[N1, 5]★二 。
ヴァルター・ベンヤミンの手になるこの断章は、円形空間と樹木のイメージとの結合という点で、先に引いたリルケの詩篇をきっかけとして発酵したバシュラール的「夢想」との間に、無視しがたい符合を示している。だが、両者の間の相違もまた、ただちに明らかとなるだろう。マルクス主義者ベンヤミンはもちろん神など信じていないし、そもそも彼の構想したイメージ論の歴史的文脈に従うならば、彼の生きている「複製技術時代」とは、「礼拝的価値」によって保証されるべき「アウラ」の輝きを喪失した時代にほかならなかったからである。ガラスの嵌まった天窓越しに彼が見上げる青空は、もはや神のしろしめす慰藉と平安に満ちた蒼穹ではない。たしかにここでもまた、ある「夢見心地の」魂の状態が語られていることはいる。だがその「夢想」は、リルケ=バシュラールのものと異なり、超越性の契機を欠き、徹底して「地上的」なものなのである。ベンヤミンがこの「夢想」を紡ぎ上げていた場所が、ほかでもないパリ国立図書館の閲覧室であったという点は、文章中で触れられている通りだ。では、この円形の空間で、いったい何が彼を「夢見心地」に誘ったのだろうか。
両大戦間期のパリにおけるベンヤミンの運命をここで逐一辿り直すには及ぶまい。ベルリンでは一九三三年一月三〇日にヒトラー内閣が成立し、二月二七日には国会議事堂放火事件が起こっているが、ベンヤミンが決定的にドイツを離脱し、亡命者の生活に入るのはこの年の三月中旬のことである。ベンヤミンは半年ほどイビサにとどまった後、十月にパリに帰ってそこに居を定め、以後、一九四〇年まで、彼が「一九世紀の首都」と呼んだこの都市で外国人として暮らすことになる。当時、離婚した前妻ドーラ・ケルナーはサン・レモで下宿屋を開いていて、そこに身を寄せて数カ月滞在するということも何度か繰り返すものの、これ以降約七年間に及ぶベンヤミンの晩年の亡命生活は基本的にはパリで過ごされるのであり、その間の彼のもっとも大きな関心事が、ついに未完成のままに終った『パサージュ論』と呼ばれる著作であったことは周知の通りである。とくに一九三五年以後、ベンヤミンは集中的に『パサージュ論』に没頭し、国立図書館に籠もって読書に耽る。現在残されているのは、『パサージュ論』全体の梗概として執筆された「パリ──一九世紀の首都」(ドイツ語版とフランス語版とがある)を除けば、この読書の過程で書きつけられていった着想のメモや引用資料の膨大な集積だけなのだ。
まず、ベンヤミンの興味が一九世紀フランスの第二帝政期にあったわけだが、その主題を考究すべく彼が仕事場として選んだパリ国立図書館の〈
パリ国立図書館の閲覧室──「……アーケードの上に懸かる描かれた夏空が、閲覧室の上に光のない、夢見心地の円蓋を広げている……」
木の葉、そよ風、夏空
だが、その安らぎが、ファシズムの跳梁という苛酷な現実を百パーセント外に締め出して、内部の安寧に身をとっぷりと浸すことができると信じている者の退行幻想とはいささか異なるものであるという点は、先に引用した断章に見られる通りだ。そこでベンヤミンが語っているのは、まさしく内部と外部との通底現象そのものにほかならないからである。「丸天井に広がる雲ひとつない青い空の下の戸外」と彼が言うのは、もちろん図書館閲覧室のことだ。実際、この閲覧室の中には丸天井のガラスからじかに陽光が差しこんでおり読書に必要な明かりもこの自然光に頼っている部分が大きく、人工的な「知」の空間のうちに閉塞しているという印象はむしろ稀薄なのである。ベンヤミンは、内部に閉じ籠もりながら、あたかもそれが仕切り壁なしにそのまま外へ延長されうる無限定の空間であるかのごとくに感じている。そして、この透過光の効果こそ、まさに第二帝政期に多く作られたガラス屋根のパサージュが、この図書館閲覧室と共有する特質であることは言うまでもない。『パサージュ論』のベンヤミンは、このパサージュという都市装置におけるガラスという素材の意義を繰り返し強調しているが、彼がその思考を書きつけていたのが、パサージュのそれと同様のガラス天井から差しこんでくる自然光の下でのことであったという点は、注目に値しよう ★三 。
ただし、内部と外部の通底がここで、単に光学的な側面においてだけではなく、皮膚をじかに刺激する空気の質感の問題としてもまた語られていることは、さらにいっそうわれわれの興味を惹く。『パサージュ論』を埋もれさせてしまったという「何百万枚という木の葉」というのはさしあたりベンヤミンが参照した、そして参照しきれずに残った無数の文献資料の山のことであろうが、彼はこの「木の葉」を、それを震わせる空気の動きによって描出しているのだ。そこに「勤勉の爽やかな微風がそよめくこともあれば、研究者の重い溜め息が当たり、若々しい情熱の嵐が吹き荒れ、好奇心のちょっとした空気の動きがたゆたうこともあった」と彼が書きつけるとき、種々の大気の流れのニュアンスを描き分けているこの筆遣いに、われわれはバシュラールのそれとはまた異なる種類の繊細さを備えた身体感覚のなまなましい表現を感知し、或る感動を覚えずにはいられない。ベンヤミンにとって、読書とは、彼が実際に身を置いている物理的環境と切り離すことのできない身体的な体験だったのであり、彼の『パサージュ論』の構想は、この触覚的な身体性を前世紀の一時代に遡行的に投射し、それによって立ち上がってくる記号の戯れをあたうるかぎり細やかに掬い上げようとする試みだったと言ってよい。
「蒼穹」といった言葉の示すニュアンスそのままに、ホールの丸天井はここで戸外の青空そのものと重なり合う ★四 。この「閲覧室のアーケードの上に懸かる描かれた夏空」から吹き渡ってくる微風が「読む人」の感じやすい肌をなぶり、書物のぺージを震わせるだろう。その大気の流れは、何百万にものぼるそれらのぺージを同じ数の木の葉へと変えてしまい、まぜこぜにして吹き散らかし、準備しつつある大著を埋もれさせ、その完成をどこまでも遅れさせてゆく。あたかもベンヤミンは、そよめき渡ってゆくこの微風に皮膚をさらすことの愉楽と引き換えに、結局は永遠に未完のままとどまるほかないという自著の運命を、快く受け入れようと心に決めているかのようだ。実際、われわれの手元に残された『パサージュ論』それ自体が、風に舞う無数の木の葉のような断章の集積そのものなのであり、多くの人がすでに述べているように、始まりと終わりを持つ一貫した論述の姿をそれがとるところを想像することはいかにも難しい。著作の完成を断念するというよりはむしろその未完成を積極的に祈念し、それが風に吹き散らかされる無数のメモのままにとどまって、閾を越えて外界から吹きこんでくる官能的な空気の流れが皮膚をなぶって過ぎてゆく快楽がいつまでも続くことを望んでいるかのようだ。ベンヤミンにとっての読書とはこうしたものだったのであり、それは自宅の書斎においては決して可能とはならない種類の体験だった。つまり、ここにいるのは極めつきの「図書館の人」なのである。
内と外とを隔てる境界が稀薄化し、その間を空気が自由に通い合うといった身体感覚は、まさしく彼がパサージュに読み取ったものにほかならなかった。「パサージュは外側のない家か廊下である──夢のように」[L1a, 1]。本来ならば堅固な外壁や屋根があるべき場所に素通しのガラスが張られていることで、親密な屋内空間が公共の街路と不意に通底し合ってしまう。そして、その通底のさまをベンヤミンは「夢のよう」だと感じているのである。だがこの「夢」とは、ベンヤミンという個人が見たものというよりはむしろ、「集団の夢」であり、顔も名前も溶け合って見分けがつかなくなった群衆がかたちづくるひとつの時代そのものによって見られた「夢」であろう。その一時代をひとことで「一九世紀」と呼んでしまってもよかろうが、われわれの言いかたでそれを改めて定義し直せば、「近代」と「前近代」とのはざまに位置する両義的な過渡期としての一九世紀西欧ということになる。ベンヤミンによれば、この「一九世紀の夢」のまじりけのない結晶とも言うべき一群の特権的な空間形象が存在する。「集団の夢の家」と呼ばれるものがそれである。
オペラ座のパサージュ(1870年)
水族館の微光
集団の夢の家とは、パサージュ、冬園(室内庭園)、パノラマ、工場、蝋人形館、カジノ、駅などのことである。[L1, 3]
『パサージュ論』におけるベンヤミンの究極の関心は、恐らく、パサージュそれ自体ではなく、また冬園やパノラマ等々、パサージュに限らぬこれらの他の空間の一つひとつが内包する文化的意味や都市論的機能の分析でもなく、むしろこれら「夢の家」数々を貫通して立ち現われてくる大いなる「集団の夢」の、不透明な、そしてそれゆえに蠱惑的な厚みそのものにある。そして、ここで注意すべきは、この「集団の夢」を前にしたベンヤミンの姿勢が、『夢判断』におけるフロイトのそれと異なり、それを解釈しようという欲望に裏打ちされたものではないという点だろう。ベンヤミンは、無意識の暗がりに沈みこんでいる「意味」を白日の下に引きずり出し、それによって「夢の作業」によって歪曲される以前にあった真の現実の、ありのままの姿を復原しようとするのではない。むしろ彼は、淀んだ水のようなこの「夢」の底をめざしてますます深く潜りこんでいこうとする。
パサージュを根本から理解するために、われわれは、このパサージュを夢のもっとも深い層へと沈めるのだ。[初期の草稿、F⁰, 34]
これは、『パサージュ論』の方法論的定立をひとことで要約する決定的なマニフェストとでも言うべき言葉だろう。知的に標定したり解読を施したりするのではなく、むしろそこでは分析家の澄明な視線が無効になってしまうような「夢」の水の淀みの中に、いよいよ深く対象を沈めつつ、それとともに彼自身もまた、想像力というアクアラングを用いてこの息苦しい深みへ潜ってゆく。
先ほどからわれわれが「夢」を水に譬えているのは、必ずしも無償の修辞ではない。べンヤミンがパリのパサージュに興味を持つようになったのが、アラゴンの『パリの農夫』の中で、オスマン大通りの伸長工事のために間もなく取り壊される運命にある「オペラ座のパサージュ」についての記述を読んだことが直接のきっかけであったという事実はよく知られているが、初期シュルレアリスムを代表するテクストのひとつであるこの作品で、アラゴンは、パリをめぐる「現代の神話」の特権的な構成要素としてこのパサージュに言及しつつ、それを「人間の水族館」と呼んでいるからだ。そこには「何か深海のような感じのする青緑色の微光(le lueur glauque )」★五 が漲っているとアラゴンは言うのだが、ベンヤミンはこの表現にいたくうたれたようで繰り返し引いている。「青緑色の微光」に浸された深海を、色とりどりの魚のかわりに、着飾ったブルジョワたち、無為の遊民たち、あてどない「遊歩者」たちが、夢見るように游泳しているというのが、アラゴン=ベンヤミンによるパサージュのイメージなのだ。
しかし、これと同質の微光は、実はわれわれの図書館にも漲っているのである。一九九〇年代の今日、夜八時まで開館している ★六 パリ国立図書館の閲覧室に身を置いて、微妙な光が揺曳する黄昏あたりから徐々に夜の闇が深くなってゆくゆるやかな推移に躯を浸していると、それが「青緑色」かどうかはともかくとして、何かたゆたう水のような触覚的な手応えのある光があたりいちめんに漲るのを感じて、ふとアラゴンの描写した「オペラ座のパサージュ」へと思いを誘われないわけにはいかない。同時に、戦雲急を告げる半世紀以上昔のパリでこの同じ閲覧室に通っていた亡命者ベンヤミンの裡にもまた、恐らくこれと同じ連想が働いたに違いないという直観が心をよぎり、パリという街の執拗な記憶の滞留ぶりに何か頭がくらくらせずにはいられない。実際、建築家ドミニック・ペローの設計による「フランス図書館」の建設工事はすでに一九九〇年十二月から始まっており、ベルシー橋とトルビアック橋との間のセーヌ左岸の広大な敷地にそそり立つことになるはずのその超近代的な巨大施設の完成が待たれているが、この新図書館が竣工してそこに現在の国立図書館の機能のかなりの部分が移設される日が訪れても、このリシュリュー通りの旧図書館は何らかのかたちで利用されつづけることとなろう。従って、恐らく二一世紀になってもなおわれわれは、ベンヤミンが見た「一九世紀の夢」のヴィジョンを、この閲覧室の空間的特質を介して追体験しつづけることになるに違いない。
天井の高いこの閲覧室は、前述の通り上からの天井照明に関しては天窓からの自然光があるだけなので、外の闇が濃くなってゆくにつれて、上の方から徐々に藍色の闇が下りてくることになり、やがて閲覧席の卓上にある
ドミニック・ペロー設計による「フランス図書館」の完成模型
遊歩者と性的都市
そのとき、微光の照り映えにきらめきながらこの閲覧室を満たしている水は、一九世紀の「集団の夢」それ自体の不透明な厚みを体現するものとなろう。ほどなく完成するはずの「フランス図書館」が、こうした体験を可能ならしめてくれる場たりえないことは確実だ。これは、「近代直前」の過渡期に成立し、またその過渡期性そのものの特権的表現として機能しつづけてきた図書館空間にしか漲ることのできない微光だからである。
ところで、図書館の内部にいてあたかもそこを「戸外」であるかのごとく感じているベンヤミンは、同時に、都市の街路のただなかに身をおきながらあたかもそこを図書館の内部であるかのごとく感受する人でもあった。「あらゆる都市のうち、パリほど書物と密接に結びついている都市はない。……パリは、セーヌ河が貫流する巨大な図書館ホールである」★七 と彼が書きつけるとき、内と外との通底現象は都市そのものの大きさにまで膨張し、彼の幻視の中でパリの全体が一個の巨大閲覧室と化すこととなろう。
たとえば、これはパリではなくベルリンについて語られている言葉であるが、「室内空間が外に歩み出る。……前世紀の中葉に建てられたベルリンの家のファサードはこうしたもので、出窓は張り出しているのではなく、(外部空間の)
内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない[P2, 2]。
世紀初頭のリルケなどと比べてもはるかに切実に追いつめられ、退路が絶たれた亡命ユダヤ人としてパリに身を潜めたベンヤミンの前に、「他者」としてのパリは、「図書館ホール」でもあり「娼婦の股ぐら」でもあるという奇妙な二重性の徴の下に立ち現われてきたことになる。『パリの農夫』のあの「青緑色の微光」に触れた箇所で、アラゴンがすぐに続けて、それは「スカートが捲くられて露わになった脚の唐突な明るさにも通じるような」光だと書いていたことが思い起こされる。だが、ここでわれわれの連想が向かうのは、同じシュルレアリストであるならアラゴンよりもむしろアンドレ・ブルトンの方だろう。ベンヤミンはもちろん一九二八年初版刊行の『ナジャ』は読んでいて、この一種の「都市論小説」から多くの示唆を受けていた。だから、「謎をかける女」ナジャに「私」が連れられてきたシテ島のドーフィーヌ広場という場所に触れつつ、ブルトンが括弧の中に入れて添えている次のような数行は、当然彼の目に留まっていたはずだ。
このドーフィーヌ広場というのは、私の知るかぎりもっともうらぶれた場所のひとつであり、かつパリでも最悪の空き地のひとつである。私はそこへやって来るたびに、どこか他処へ行きたいと思う気持が徐々に遠のいてゆくのを感じた。いとも優しく、快すぎるほどしつこく絡みついてきて、結局は私を砕いてしまおうとする一種の圧迫感から逃れるために、自分自身と闘わねばならないほどだった ★八 。
だが、はるか後年の一九五〇年三月になって、ブルトンは巨大な女体の隠喩によってパリを描写する美しい文章を発表する。ベンヤミンが読みえたはずはないこの「ポン=ヌフ」と題するエッセーの中で、ブルトンは、かつての自分が何気なく書きつけたこの数行を改めて取り上げ、そこに次のような解釈を施しているのだが、ここに至って先に引いたべンヤミンの断片は、このブルトンの「パリ=エロス」論との間に著しい類似を示すことになるのだ。
今日、私には、私以前に誰かがポン=ヌフを渡ってドーフィーヌ広場へ出るという冒険を試みた場合、三角形で少し曲線を帯びたその形状や、それを木の植わった二つの空間に分ける裂け目などを眺めて、咽喉元を掴まれるような思いをしなかったと認めることは困難である。これはどうにも間違えようのないことだが、これらの茂みの蔭に描き出されているのは、パリの性器にほかならないのだ★九。
ギャルリー・ヴィヴィエンヌ(1904年)
レ・アル(パリ中央市場)の内部(設計ヴィクトール・バルタール)
「私たちは居酒屋の張出しで食事にする……」(写真J.=A.ボワファール)『ナジャ』に挿入されたドーフィーヌ広場の写真
「円」と「廃墟」の間で
「図書館ホール」と「娼婦の股ぐら」というこの二重の形象に、さらにもうひとつの「アレゴリー」を重ね合わせうるとしたならば、それは恐らく「廃墟」のそれということになろう。「パリのパサージュを扱ったこの著作は、丸天井に広がる雲ひとつない青い空の下の戸外で始められた。だが何百万枚という木の葉に、何世紀もの埃に埋もれてしまった」というあの断章をもう一度読み直してみよう。この文章中でわれわれがまだ十分な注意を注いでいないのは、「だが──」という接続詞に籠められている時間の経過の契機であろう。ここで語られているのは、恒常的な状態ではなくある変容の出来事であり、それも、挫折とも崩壊とも呼ばれて然るべき陰鬱な「廃墟化」の過程だからである。しかし、それにしては、これらの木の葉をそよがせる「勤勉の爽やかな微風」や「若々しい情熱の嵐」について語るベンヤミンのこの奇妙に溌剌とした語調は、いったいどこから来るのか。
ベンヤミンはここで、晴天の野外で開始された『パサージュ論』の作業が、いつの間にか降り積もった木の葉や塵埃に埋もれ、ついに行き詰まってしまったと告白し、そのことに対して軽い苦渋の溜め息を洩らしている。だが、かくして今や廃墟と化してしまった国立図書館閲覧室★一〇で、それら無数の木の葉を震わせている空気の動きは、内部と外部との間の自由な交通を証し立てつつ、ベンヤミンの言葉と思考に何とも知れず爽快な運動感をまとわせているのだ。たぶんそれは、『パサージュ論』というこの「来たるべき書物」それ自体が、書物の廃墟ないし廃墟の書物としてしか存在しえないという事実を、ベンヤミン自身よくよく知悉していたがゆえのことではないのか。あのリルケの詩行において、円形の地平を統べるようにして屹立していた孤独な樹木の信仰の栄光は、もはや『パサージュ論』の時空から奪われている。それは、マルクス主義の歴史家としてのベンヤミンの冷徹な認識だ。書物は無数の木の葉ヘ、すなわち紙片へ、断片へと解体し、調和ある綜合の契機はどこにも見出されようがない。枯れ葉と埃にまみれた図書閲覧室は、今や紛れもない廃墟なのだが、にもかかわらず、この廃墟の床面にじかに蹲り、外から内へ、内から外へと自由に吹き抜ける微風の流れに素肌をなぶらせているベンヤミンを包みこんでいるのは、むしろ爽やかな快楽の余韻であるかのようだ。『パサージュ論』の栄光がもしありうるとしたらそれは、むしろ書物の廃墟化に、無数の断片への崩壊に存していると言わねばなるまい。
読むこと。それはいったい何なのか。バシュラールの場合、読書の営みは彼の内面に多種多様なイメージの渦と波動を作り出し、その渦と波動の数々が多形倒錯的な「夢想」の運動を培ってゆく。だが、ベンヤミンの場合、読むことによって惹起されるのは、そうしたイマジネールな戯れではなく、ごく即物的・物理的な筆写の身振りである。読みながら、ベンヤミンはただひたすら書き写すのであり、そのようにして蓄積されてゆくメモの束は、一冊の美しくも完璧な書物へと構築されることなく、無数の枯れ葉のように散乱し、その上には埃が積もっていって、すべては書物の廃墟へ、廃墟としての書物へとゆるやかに解体してゆく。この解体の過程が必然的であるのは、ベンヤミンにとってはこうした廃墟のヴィジョンこそ、『パサージュ論』の唯一にして究極の主題たるべき「一九世紀の夢」がまとうべき空間的形象のひとつにほかならなかったからである。
ここでもまた、シュルレアリスムが果たした役割は無視しがたいものだったと言うべきだろうか。「ブルジョワジーの廃墟について初めて語ったのはバルザックであった。しかし、シュルレアリスムこそがこの廃墟への目を開いてくれた」★一一 とも彼は書いている。アンドレ・ブルトンのあの小さな、しかし魅惑に満ちたテクスト「現実僅少論序説」(『黎明』所収)などを思い出してもよかろうが、都市の迷路のあなたこなたの結節点にエロスの暗がりを見出し、息苦しい官能のエネルギーでパリの街路を磁化したシュルレアリストたちは、パリそのものを覆い尽くすまでに膨張した図書館の円形閲覧室を、あらかじめ廃墟たらしめてしまうことにもまた貢献したのだろうか。
たとえば『ドイツ悲劇の根源』に登場する、「物の世界における廃墟に相当するものが、観念の世界では寓意である」★一二 というあの有名な命題をはじめとして、「廃墟」が固有にベンヤミン的語彙のひとつとしてあることは明らかだ。一七世紀ドイツのバロック文学においてのみならず、ピラネージの牢獄画からロマン主義の詩人や画家へと受け継がれていった廃墟幻想は、ベンヤミンの想像力を確実に刺激し、乱雑をきわめた図書館閲覧室でもあり艶めかしい襞の折り重なった売春婦の女陰でもあるようなパリの街路風景を見る彼のまなざしにもまた、間違いなく影響を及ぼしているはずだ。ある風景を、それが避けがたく「廃墟化」してゆく後戻りの効かない時間軸において透視し、その崩壊と解体の過程においてのみ歴史の真実が露呈するのだと考えてみること。たとえばここで、一八世紀末から一九世紀初頭にかけて廃墟の絵を多く描き、官展に出品して好評を博した画家ユベール・ロベールの画面などを思い起こしてみてもよい。廃墟と化したルーヴル宮のグランド・ギャラリーという想像上の光景を描いて、それをまさにそのルーヴル宮に陳列して人々の感興をかき立てるといった趣向が、発生期のブルジョワジーの嗜好に投じたのだが、こうしたヴィジョンは、「何百万枚という木の葉に、何世紀もの埃に埋もれてしまった」図書閲覧室の光景を、まさにその同じ図書閲覧室に身を置きつつ想像しているベンヤミンの身体感覚に通じ合うものと言えはしまいか。
パリ国立図書館の円形閲覧室は、ベンヤミンのまなざしと身体を媒介として捉え直すとき、たとえばデューイの十進法分類などによって整序された、清潔で合理的な「近代」的空間からはるかに遠い、何物ともつかぬかけらが散らばった埃まみれの廃墟として立ち現われてくる。「円」と「廃墟」──一九世紀西欧の「知」の空間は、恐らくこの二つの形象を両極としてかたちづくられていたのではないだろうか。『伝奇集』に収められたボルへスの短篇で言えば、ここでわれわれにとって示唆的なのは「バベルの図書館」でも「記憶の人フネス」でもなく、むしろ「円環の廃墟」であるだろう。一九世紀中葉の西欧に出現した「知の装置」としての巨大な円形閲覧室は、ひとことで言えば「円環の廃墟」なのである。だがそれならばいっそ、「円」と「廃墟」という二つのオブセッションを両極とし、その間で震動しつつ生成を続けた一九世紀の「知の空間」それ自体に、「円環の廃墟」の名を与えるべきではないだろうか。
『パサージュ論』のベンヤミンは、この「円環の廃墟」を、「集団の夢」の深みにゆっくりと沈めてゆく。とはいえ、最終的に彼がめざしたものは、やはりこの「夢」からの覚醒でなければならなかった。
プルーストがその生涯の物語を目覚めのシーンから始めたのと同様に、あらゆる歴史記述は目覚めによって始められねばならない。歴史記述は本来、この目覚め以外のものを扱ってはならないのだ。こうしてこの『パサージュ論』は一九世紀からの目覚めを扱うのである。[N4, 3]
むろんそれは、単なる夢解釈でもなくその内容の合理化でもない。むしろそうした蒼ざめた「知」の操作的な回路をうち壊してしまうような暴力的な出来事として、「夢」の水の深みから一挙に浮上する瞬間を生きること。いかにして「廃墟」から目覚めるか、と彼は自問する。しかし、そうした批判的綱領を見据えながらも、ベンヤミンの身体それ自体の深層には、このプロジェクトの学知の論理に逆らって、「夢」の深層にいつまでも滞留しつづけていたいとする頽嬰的な欲望がたゆたっていはしなかったか。覚醒へと彼を導く決定的契機をついに見出しえなかったからこそ、『パサージュ論』は未完に終るほかなかったのではないか。彼にとって、何物ともつかぬかけらが
(まつうら ひさき/表象文化論)
パリ・コミューンによって破壊され廃墟と化したパリ支庁舎の大広間の写真(パリ国立図書館蔵)
廃墟と化したルーブル宮のグランド・ギャラリーの想像図(ユベール・ロベール作)──1796年官展に出品されたタブローのための習作
註
★一──Gaston Bachelard, La Poetique de l'espace, P.U.F., 1957, p.214.
★二──以下『パサージュ論』からの引用は、基本的に一九九三年から九五年にかけて五巻構成で刊行された岩波書店版の邦訳による。
★三──パサージュとパリ国立図書館閲覧室とのアナロジーに関しては、鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社、一九九六年)、二七─二八頁参照。
★四──『パサージュ論』の他の場所にベンヤミンが書きつけている、「『空の陰鬱な丸天井』とはシャルル・ボードレールが言っていることである」[J2a, 6]という小さなメモにも注目しておこう。『パリの憂鬱』収載の散文詩「各人キマイラを背に」中に見出されるこの表現《sous le coupole spleenétique du ciel》は、英語起源の《spleen》を強引に形容詞化した新語法のゆえにベンヤミンの目を惹いたのだろうか。
★五──Louis Aragon, Le Paysan de Paris, 1926, Gallimard, coll. 《Folio》, p.21.
★六──筆者の個人的記憶によれば、少なくとも一九七〇年代後半の時期には夜九時まで開館していたように思う。
★七──Walter Benjamin, Denkbilder, in Gesammelte Schriften, Band IV-1, Suhrkamp, 1991, S.356.
★八──巌谷國士訳『アンドレ・ブルトン集成』第一巻(人文書院)、八〇頁。
★九──同右、第七巻、粟津則雄訳、三五九頁。なお、一九世紀の鉄骨ガラス構造の建築をめぐって内と外との通底を強調するベンヤミンの意識の中に、『ナジャ』で語られているあの透明な「ガラスの家」のイメージが去来していなかったとは考えにくい。
★一〇──パリ国立図書館での作業をめぐる心象風景を「廃墟のイメージ」として捉えているのは今村仁司の卓見である(多木浩二・蓮實重彦との座談会「光の人ベンヤミン」での発言、及びそれを受けた蓮實の展開を参照、『現代思想』一九八五年三月号、一七六頁以下)。
★一一──「パリ──一九世紀の首都」、『パサージュ論I』(岩波書店)、二七頁。
★一二──川村二郎・三城満禧訳『ドイツ悲劇の根源』(法政大学出版局)、二一四頁。