1966年生まれ。表象文化論、美術史。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
(最終更新:2009年3月31日)
[批評]
わたしは一匹のろばである。しかし目をもったろばだ。感覚を受容することのできるろばの目だ。わたしはプロポーションへの本能をもったろばだ。わたしは頑として視覚主義者なのであり、これからも常にそうあるだろう。美しいものは美しい。しかし、それこそモデュロールなのだ。(…中略…)モデュロールはろばの耳を長くのばす(ここでわたしが...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.104-118
[批評]
しかし建築においては錘線器だけでは十分ではありません。例えば水準器等の他の道具も必要です。まあそれでも錘線器であるとしても悪くはありません。それがあれば幾つかの問題の鉛直線を定めることはできますから。 ジャック・ラカン『セミネールI』 「フロイトの技法論」一九五三─五四 《サヴォワ邸》[図1]のエントランス・ホール...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.100-119
[批評]
I 「直線を引き、穴を埋め、平らにならし、そしてニヒリズムにいたる……」(拡張計画委員会の議長を務めるえらいお役人の猛々しい怒号)。 わたしは答えた。 「失礼ながら、実を申せば、それこそ人間の仕事なのです」(本当にあった出来事)。 ──資料〈耳障りな音声〉からの抜粋★一 現代の都市計画における基本原理の定式化を試みた...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.119-127
[翻訳]
空間の知覚と使用 感覚や知覚、あるいは運動といった次元を通じてであるにしろ、空間の身体的な大きさを考察の中に取り入れている建築家たちもいる。つまり空間の知覚に対する知が根底にはあり、それはこの複合的な問題について次のように書くCh・ド・ポルツァンパルクにおいてのみ明確に示されるようなものである。「建てられたものは、物体...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.128-144
[論考]
一九七九年に王立英国建築家協会で行なわれた「現在の都市の苦境」と題する講演において、〈近代建築の破滅〉について語るコーリン・ロウは、それをひとつの寓話の形として提示している。 彼女の死(近代建築が女性であるのは間違いないところだ)の原因は、その気質の純真さに帰せられよう。タワーとまったく手つかずの空間への常軌を逸した...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.100-107
[column]
注目に値する数少ない例外を別とすれば、東京を対象とする研究は、物質的な組織編成としての都市よりも文化的な表徴としての都市に集中している。それらはしばしば個人的な逸 話(アネクドート)に基づき、現代のストリート・シーンの描写や古き江戸文学への参照において日常生活のディテールに力点を置く傾向にある。そのようなファクターが...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.127-129
[批評]
どうして幻影都市(ファントム・シティ)を 再建しなければならないのか? お招きを受け、テロリズムとサイバースペースがヨーロッパの都市に与えているインパクトについてお話することになりました。これは私にとって、ベルリンの都心部計画がめざしているものに対するいくばくかの暗黙の批判ということにもなります。というのも、私の信じる...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.115-122
[批評]
六〇年代以降、ミースはポストモダン建築の保守的なセクトと急進的なセクトのどちらからも批判の標的とされてきた。「より少ないのは退屈である(レス・イズ・ボア)」というロバート・ヴェンチューリのモットー、ミシガン湖に沈みゆくクラウン・ホールを描いたスタンリー・タイガーマンのフォトモンタージユ、それらによって示されるのは、ミー...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.102-109
[非都市の存在論 11]
1 二つの扉 一九八八年七月二三日の深夜、オーストリアのザンクト・ペルテンで屋外展示されていたジョン・ホワイトマンの仮設建築作品「二分割可能(Divisible...─アブジェクシオンの建築」、『10+1』No.14(五十嵐光二訳)一〇五頁。 ★一九──本誌一四号にはこ...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.15-26
[1990年代以降の建築・都市 2]
世界貿易センタービルの崩壊──二〇世紀建築の終わり 僕たちは下に降りて、外に出たんだ。それはアポカリプスの風景だった。原爆がどんなものかは知らないけれど、きっ...幻影都市を再建しなければならないのか?」(五十嵐光二訳『10+1』No.13、INAX出版、一九九八)。 ★二...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.181-194
[建築の還元 1]
1 〈交通問題〉としての近代、および建築 ひとつの表現をなすことの、恐らくはきわめて現在的で共同了解的な認識であるに違いないのだが、長い間、私は自らを建築につい... ここでの思考は、瀧本雅志氏、暮沢剛巳氏、五十嵐光二氏との、連夜にわたるトークセッションからい...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.2-12
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 5]
見つめていたい 盗撮・盗聴がメディアをにぎわせている。それは小型の映像・録音機器の普及に起因しているのだろうが、最近、公開された映画はこうした状況を如実に反映し...シティ)を再建しなければならないのか?」(五十嵐光二訳)も参照。 ★一五──M・グレニー『ユーゴ...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.196-207
[生産─技術]
わたしたちが望むのはモノを吟味し、モノにそれ自体が持つ形態を見つけ出させることである。モノにその外側から形態を授けること、モノを外部から決定すること、モノにどんな種類のであれ法則を押し付けること、モノを意のままにすること──これらはわたしたちの本意ではない。 フーゴ・ヘリング「形態への道程」(一九二五) アレハン...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.124-127
[日本]
1960年生まれ。86年、京都市立芸術大学大学院修了。88年、石井修/美建設計事務所を経て、遠藤秀平建築研究所設立。98年より神戸芸術工科大学非常勤講師。主な作品=《Cycle station 米原》(94)、《Transtation 大関》(97)、《Springtecture 播磨》(98)、《R//A》《R//B...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.154-157
[論考]
焦土の幾何学 「あーきれいだ、絵画的だなー」★一。 疎開先の山梨から東京に戻り、強い夕日を受けた褐色の焼跡を見て、甚だけしからないことだと思いつつ、東京帝国大学...ラハム「直線性の重荷──ろばの都市計画」(五十嵐光二訳、『10+1』No.15、INAX出版、一九九八)。 ★...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.119-129