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ゲシュタルトのユートピア──コーリン・ロウ──透明性の翳り | 大島哲蔵
Gestalt Utopia: Colin Rowe's --Blurring of Transparency | Oshima Tetsuzo
掲載『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ, 1997年05月10日発行) pp.26-28

いくぶん道化者で、いくぶん神のようで、いくぶん狂人で……それが透明性なのだ。
(『ニーチェについて』G・バタイユ)


コーリン・ロウは多くの顔を持っている。歴史家、アーバン・デザイナー、教育者、現代建築のイデオローグというのがその一部である。戦後のアメリカ建築界は巨匠たち(ライト、ミース、カーン、サーリネンなど)がまだ健在で、希望に満ちた新天地にロウは着任──テキサス大学(一九五四─五六年)──をはたした。そこでの教育は一般的なカリキュラム──ボザール、バウハウスの折衷──で充分間に合ったはずだが、ロウはあえて独自の視点を導入することを決断した。というよりヴァールブルク研究所で修得した「正統的な」建築観を背景に、その小出しの切り売りだけはしまいという考えをおし通したところにユニークな面目が認められる。その裏には歴史の浅い国(それも僻地)に着任したヒストリアンというアンビヴァレンツが伏在した。そこでの歴史は折衷様式のそれで、同じ「新古典主義」でも古典が身辺で親しく微笑んでいるヨーロッパとはわけが違う。そうした枠内で「よくできたまがいものかどうか」を論じたところで、たいして意味はなかったはずで、歴史という仮面をつけて「歴史なき建築」という不条理劇を演じる運命が彼をまちうけていた。
ヴァールブルクで師のR・ウィットカウアー★一からへーゲル的な歴史発展の公式化と徹底抗戦するすべを叩き込まれたロウは、いわゆる共時的な歴史観を展開した最初の建築史家だった。そんな彼がますます露骨な進歩史観を顕在化させていたモダニズムに批判の矛先を向けたのは当然だろう。過去の因襲を全否定して特権的な現在を未来に重ね焼きしようとする彼らの足元をすくうためには、「革新的な」スペースがその実クラシックなシェーマに依存している事実を明らかにして「去勢操作」すればこと足りた。「理想的なヴィラの数学的解析」(一九四七年)★二を始めとする論考での、古典作品と近代のサンプルとの「深層の並列構造」を白日のもとにさらす方法はこうして定式化された。垂直分節か水平分節かのチェックに始まり、アーティキュレーションの比較分析にいたるマキャベリ的な推断は、まわりくどい「建築史」に飽き飽きしていた若い世代の心をひきつける撒き餌となった。こうしてパラディオとコルブ、シンケルとミースは連続性を「回復」され、モダニズムの超歴史という神話は悪魔ばらいされた。しかし「モダニズムをたたく」という動機が正当性を持つとしても、歴史をファサードや平面プランの比例分節法だけで切りさばくやり方は、牽強付会なレトリックでモダニズムを擁護したイデオローグ(ギーディオンやペヴスナー)と反─比例構造を持つといっても過言ではない。作品とそれを産み出した観念を二分化して、どちらか一方だけを論じるやり方は、それがどちらへの着目であれ平板な結論しか導かない。結果として建築史での突然変異説はくつがえされ、どんな画期的な作品も遺伝子の呪縛からはのがれられないことが証明された。ともあれロウの奮闘の結果、アメリカは世界で最も「歴史ゆたかな」国柄となった。
そんな彼にとって願ってもない援軍となったのが、ゲシュタルト心理学を応用したゲシュタルト形態学とでもいうべき方法で、それはJ・アルバースの愛弟子で『透明性について──実と虚』(一九五五─五六年)の共同執筆者、R・スラツキー(ロウらの要請によってアルバースのもとから同大学に遣わされた)によってもたらされた。こうした着目は特別のものではなく、すでにこの新流派の成果に基づいてルドルフ・アルンハイムは『Art and Visual Perception』(一九五四年)を著し、人々が絵画面の広がりからいかなるメカニズムで認識を引き出すかを分析した。この立場のメリットは形象(記号)の知覚での「眼球と頭脳の対位法」に着目することで、概念化(意味形成)の際の文化的背景(差異)をとりあえず凍結できることだった。従って何人にとっても均質な開かれた認識──というロウにとっては格好のスタンスを標榜していた。しかし後にみるように知覚プロセスも普遍的ではあり得ず、とくに二次元の図形を三次元に見立てたり、隠れた部位をイメージするような手さばきは教化されたものである。
アルンハイムは先述した著書のなかで、ポスト遠近法における「浅いデプスを持つ画面での形態認知」のパターンを提示し、フロンタリティ──正面性と訳されてきたが、むしろ前面性つまり層化した画面の複合構成のこと──や図と地(figure-ground)の反転関係(E. Rubinによって一九二一年に「発見された」)が論じられ、ここから「虚の透明性」はおろかコラージュ・シティえも目と鼻の距離にある。しかしこの一歩がなかなか踏み出せるものではなく、ロウの理論が及ぼした圧倒的な伝染力を思えば、このささやかなステップの持つ意味ははかり知れない。

テキサス大学の教授スタッフ。ロウ(右から5人目)の極端な上目づかいに注意。その左がスラツキー、一人おいて学科長のハーウェル・ハミルトン・ハリス(温厚な彼は伏目である)。その左は長身のJ・ヘイダック。

テキサス大学の教授スタッフ。ロウ(右から5人目)の極端な上目づかいに注意。その左がスラツキー、一人おいて学科長のハーウェル・ハミルトン・ハリス(温厚な彼は伏目である)。その左は長身のJ・ヘイダック。

かくしてアメリカの建築世界は、没歴史の代償措置として重層的な形象の解読操作という戦略を入手したのだが、この「新手法」は知覚心理学の手順に沿って近代絵画の「浅い奥行での形象の戯れ」に親しみ、しかる後に建築空間にその成果を投げ返す──というかなり手の込んだ知的操作(コンセプチュアル・アーキテクチュア)を先行させるもので、主にエリート層によって共有されることになった。ここで疎外された一般大衆をターゲットにロバート・ヴェンチューリが『建築の多様性と対立性』(原書・一九六七年、邦訳書・鹿島出版会、一九八二年)を説き、キッチュを容認してデコレーテッド・シェッドとしての建築を前面に押し出し、瞬時的なオブジェの把握(ポップ・アーキテクチュア)という対照的なコミュニケーションによる「救済」を果たした。一見対立関係にある両者の立論も「プレイフルなフォルム」や「飽きのこない多重コード」を強調する限りにおいて相補的である。
この点で独自の建築的伝統を持ちながらも、すでにそれを実感としてたどる条件をなくしているわが国でも、こうした混成的(操作主義的)な建築観を受け入れる一定の素地が存在した。私達はさしずめ「伝統に満ちあふれた」歴史なき国に起居しているのだ。マニエリスティックな手法やラジカルな折衷──いずれも表層的なものだったが──という、日本の空間的伝統では非主流の立場が、少なくとも作り手の意識にすんなりと定着した背景にはそんな相対化が横たわっていた。また基本的に分厚い壁が内部での空間関係を封印していたヨーロッパの主流とは違い、外部と内部を透過的な部材で幾重にも包んできた日本の空間では、透明性の原理は応用の余地が考慮できる戦略だった。ところがここで問題が生じる。つまりゲシュタルト理論はアプリオリに適用可能ではなく、基本的には習得される「認知の技法」という側面を持つ。つまりサンプル(実作)が集積し、それによる解読のルールが敷設されて初めて、社会─文化的な意義を担いうる。ヨーロッパ圏では伝統的な深い奥行デプスをもつ遠近法が破壊され、近代絵画が始まると共にそうしたフレキシブルな視座が成立した。日本でもだまし絵のように二重視のきく図形や隠された図形発見のパターンをもつが、それらは平面での図形のとり合いから生じ、唐絵でも大和絵にしても自然遠近法は存在したが、ヴォリュームの生成的なからみ合いに意を用いる余地はなかった。つまり理論化された空間を獲得しないまま近代洋画を移入したために、画面内空間の発見と探究は自覚的になりようがなかった。一方で日本の伝統建築では配置や連結に格別の意が用いられる反面、空間の相互貫入や二重性には(ディテールのとり合いを除けば)それほど熱心ではなかった。屋根などの処理でスペースの相互干渉がダイナミックに表現されたとしても、バロック建築に見られるようなコンセプチュアルな(多重的)緊張関係──要するに他者的な空間関係の発生する余地
──が、ただちに建築のテーマになるようなことは起きなかった。つまり開け放ちによる「実の透明性」はともかく、視覚と心理の「立体的な相互関係」で「虚の透明性」が活躍するポテンシャルは限りなく小さかった──と結論づけてもそれほど不当ではないだろう。現にコルビュジエにおけるように、複数の自律的な意思を持ったマトリックスが葛藤劇をくり広げ、平面と立面を活性化するようなパターンは認められず、もし現代のサンプルでロウの影響圏から部分的な応用例が出現したとしても、解読への参与はささやかな範囲に限定されざるを得なかった。
また都市の「コラージュ論」は図と地の理論を都市の解読評価に適用したものだが、それをすぐさまアーバン・デザインに応用したのは彼らしくないと言うべきか、はたまた彼ならではの離れ業だったのか。アメリカ特有の視点──飛行機から見た都市パターンの図像上の価値(ハイ・ポイントから意味を持つヴォリュームの流れ)が実際に建ち上がった時、たしかに都市内からの視線にも微妙な要素を付加するのだが、現実にロウの指導のもとにコーネリアンたちが作図したプロジェクトはレオン・クリエ的な都市シーンでしかなく、自称するような「ラジカルな中庸」には達していない。ここで機能性/経済性から離陸した「都市」は人間が集合的に描いた「地上絵またはバス─レリーフ」と見立てられるのだが、それがアーバニズムに応用された途端に、モダニズムのゾーニングやボザールの巨匠たちのデミウルゴス的な身振りの変種に転化することは避けられない。個人レベルの認知技法を都市スケールのプランニングに振り替える戦略は、カーンのダッカ計画でのコネクション繋累法──「チェス・ゲーム」よろしく各棟を配置した──と並んでなかなか諧謔的で、つまり全体計画という大惨禍を回避するために、ある種のインプロヴィゼーションを採用したわけだが、その「装われた非計画」や「計画と非計画の狭間」という戦略もはかばかしい成果には結びつかなかった。地上に降り立った鳥人の都市空間は、今度はただちにロウ・アングルの空疎なピクチュアレスクに転化してしまう。
ロウはデザイナーではなく歴史批評家であり、彼の描いた「ポジティヴな認識の王国」に触発された作家たちが往年の「ニューヨーク・ファイヴ」のような動向を産みだした「触媒作用」を評価すべきだろう。ジョンソン─ヴェンチューリ流のエンタテインメント──F・ゲーリーのフォルム・色彩・マテリアルの饗宴もそれに分類される──とは区別された地平で、建築に対して「果敢なリーディング」を加えようとする「知性主義」はアメリカ的現実に対する(もちろん日本でもそうだが)一種の侵犯に相当する。芸術におけるミニマリズムと同様、そこには「歴史の重圧」や「大衆の嗜好」から一線を画そうとする超越主義が介在している。ロウの言う虚の透明性とは、建築における知的透明性と言い換えることができる。その透明度が昨今ますます低下しているとしても、隠喩としてのシースルーを見出した意義には変わりがない。
歴史という迷宮の門衛を辞し、敢えて神出鬼没のトリックスターの道を選んだ彼は、ジョンソンがアメリカ・モダニズムの福音予言者だとすると、大ぶりの水晶玉を透視してモダニズム神話の凶相を占筮せんぜいしたイコノクラストと言える。


★一──R・ウィトカウアー『アレゴリーとシンボル──図像の東西交渉史』(大野芳材、西野嘉章訳、平凡社、 一九九一年)〈ヴァールブルク・コレクション〉が唯一邦訳で入手できるが、主著は言わずと知れた『Architectural Principles in the Age of Humanism』(London: Academy ed., New York: St. Martins Press)である。
★二──コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄+松永安光訳、彰国社、一九八一年)に所収。

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年生
スクウォッター(建築情報)主宰。批評家。

>『10+1』 No.09

特集=風景/ランドスケープ

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>コラージュ・シティ

1992年4月1日

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...