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アポカリプスの都市──ロサンゼルス/ロンドン/サラエボ | 五十嵐太郎
Apocalyptic Cities: Los Angeles/London/Sarajevo | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999, 1999年06月発行) pp.196-207

見つめていたい

盗撮・盗聴がメディアをにぎわせている。それは小型の映像・録音機器の普及に起因しているのだろうが、最近、公開された映画はこうした状況を如実に反映している。『トゥルーマン・ショー』(一九九八)は、ある男の日常生活を本人に気づかれないよう全世界に生放映する人気テレビ番組を描いていた[図1]。巨大なドームに包まれた街全体がスタジオのセットになっており、いたるところに主人公を撮影する隠しカメラが仕掛けられている。いわば、自分は絶えず誰かに見られているのではないかというありがちな妄想が現実化した物語だ。また『エネミー・オブ・アメリカ』(一九九九)は、偶然、重大な殺人事件の証拠を手にした男が国家安全保障局から徹底的に監視される(二五年前の『カンバセーション』で盗聴屋を演じたジーン・ハックマンが、老いた情報ブローカーとして登場するのは興味深い)。小さな発信器、盗聴器、監視衛星、電子情報への侵入など、政府機関が最新のテクノロジーを駆使して、逃げまわる主人公を追いつめ、抹殺しようと試みる。かつてジョージ・オーウェルが『1984』(一九四九)で想像したような、受信と発信を行なうテレスクリーンと隠しマイクにより思想警察が住民を監視する管理社会の悪夢はもはや現実にありうることなのだ。もっとも独裁権力を批判したオーウェルのディストピア小説の世界は、皮肉なことに自由の国アメリカで実現しようとしているのだが。
一九九〇年代の映画では、『硝子の塔』(一九九三)も思い出される。主人公は望遠鏡によるのぞきに魅せられるのだが、彼女が暮らすマンハッタンのマンションは住人の部屋の中に無数のカメラが仕掛けられ、オーナーの隠し部屋にすべての映像が写しだされる(六〇〇万ドルをかけて大阪で開発したシステムだという)。ヒッチコックの『裏窓』(一九五四)がカメラマンの目によるアパートののぞきにとどまっていたとすれば、『硝子の塔』の高層ビルは電子時代のパノプティコンだ。本連載の二回目で取り上げたディラー+スコフィディオの「パラ・サイト」展(一九八九)は、新しい盗撮の社会と正確に対応している。彼/彼女らは会場となるMoMAに隠しカメラやオブジェに偽装したカメラを配しながら、各空間の映像をギャラリーで再構成し、美術館における古典的な視覚のメカニズムを寄生体の映像装置によって撹乱させたのだから。視覚レベルではないが、『メリーに首ったけ』(一九九八)では盗聴器、『スネーク・アイズ』(一九九八)では追跡装置が使われ、SF映画『ガタカ』(一九九七)の舞台は毛髪や皮膚の一部からでも瞬時に人間を特定してしまう遺伝子レベルの近未来管理都市である。

1──『トゥルーマン・ショー』1998 映画パンフレット

1──『トゥルーマン・ショー』1998
映画パンフレット

気分はもう戦争

ところで、ポール・ヴィリリオは戦争の抑止に関わる三種類の兵器システムを指摘している★一。第一に要塞やヘルメットなどの防御装置である。第二に城壁を吹き飛ばす攻撃兵器であり、その潜在的な破壊力ゆえに使用しなくとも抑止力をもつ。クラウゼヴィッツの『戦争論』(一八三二─三四)は、主に防御と攻撃を分析していたが、破壊力の限界に達すると、レーダー、スパイ衛星、これらの情報システムを管理するC³Iなど、第三のコミュニケーション兵器が重要になる。ヴィリリオは言う。「この場合見られたものはすでに敗北したことになります。勝つためには視線を失わないこと。そこにこそ優位性が生じるのです。ここに到りこれまでの抑止の戦略は抑制の戦略に移ったと言えます。それは敵に対してよこしまな考えを持つことを禁止します。(…中略…)ビデオカメラ、レーダーは絶対的管理によって絶対的兵器となったのです。私たちは大量破壊兵器の時代から大量情報兵器とでも呼ばれる時代へと突入したのです」、と。こうした技術のお下がりが汎用化されたのは冒頭で論じたとおりだが、やがてそれは都市のあり方も変えていく。
ヴィリリオの論にパラフレーズしながら、戦争と都市の関係を概観しておこう★二。まず古代・中世の兵器は攻撃力が弱かったために、都市を囲む高い城壁と塔などの防御施設が洗練された。しかし、ルネサンス期に火薬を使う大砲が登場すると攻撃力が増大し、壊される高い壁の代わりに標的を小さくする低い城壁が使われ、高い塔の代わりに迎撃施設を備えた大きな稜堡がつくられる。こうして中世の防衛都市からルネサンスの迎撃都市への移行が起こり、弾道の軌跡や大砲の移動を考慮して美しい多角形の平面が理想とみなされた[図2]。けれども二〇世紀前半の第二次世界大戦で飛行機が本格的に使われるようになり、真上からの攻撃が可能となることで、水平方向の攻防を想定していた都市の空間概念は失効する。例えば、当時、軍事工場の屋上に手を加え、民間施設にカモフラージュしたのは、垂直の視線が意識されたからだ。そして一九四五年に投下された原爆は、わずか一撃で都市全体を破壊できることを示し、都市戦争の臨界点となる。もはや地下に核シェルター都市をつくるか、徹底的に分散し、都市自体を解体するぐらいしか、都市レヴェルで対抗できる手段はないだろう。これ以降、核の抑止力論とともに国家間の相互監視が発達し、ヴィリリオのいう第三のコミュニケーション兵器の時代を迎える。
では現在、国家間の戦争なき状態で都市はいかなる変容をきたしているのか?

2──戦争都市シャルルロワの模型ヴォーバンによるデザイン Le Musée des Plans-Reliefs, 1997

2──戦争都市シャルルロワの模型ヴォーバンによるデザイン
Le Musée des Plans-Reliefs, 1997

暴力の終わり──天使の街ロサンゼルス

一九九八年の末、筆者は約一〇年ぶりにロサンゼルスを訪れた。コリアンタウンにほど近いウィルシャー通り沿いのホテルに泊まりながら、ユニオン駅の向こうのチャイナタウンに出向き、南下してリトル・トーキョーを散策し、ヒスパニックの多いブロードウェイを歩く。おそらく、こうした互いに交わらない複数の世界を表層的であれ駆け足でまわるのは、住人にはあまりないことであり、旅行者ならではの越境行為なのだろう[図3]。とはいえ、治安が悪いとされるダウンタウンの南部の黒人地区は、時間が足りなかったことに加え、自動車に乗せてくれた現地に住む友人が渋ったせいもあり、結局は行かずじまいになった。そして改めて空間による人間の隔離が行き届いていることを確認したのは、いわゆる観光地を訪れたときである。ディズニーランドでは、ラフな恰好をした肥満気味の白人の割合が驚くほど多くなっていたが、日本のディズニーランドに入っても、これほど明白に入場者の外観は差異化されない。ロサンゼルスでは、緊張感を強いられる都市の現実に対して、安全さと清潔さを売り物にするディズニーランドの特性が最大に引き出されたのかもしれない。新しくオープンしたゲッティ・センターの立地も、街を見下ろす高い場所であり、危険な地域とは隔離され、自動車がないとアクセスが面倒なために、結果的に安全な空間になっていた。一方、ダウンタウンでもMoCAの本館・別館は、細身でいかにも知的な感じの鑑賞者ばかり集う異空間である。
ロサンゼルスについては、六〇年代にケヴィン・リンチが明白な「都市のイメージ」をもたないと批判する一方で、磯崎新は「見えない都市」の可能性を探り、七〇年代にレイナー・バンハムが自動車のオートピアを含む独特な建築を作る生態系を称えるなど、得体の知れない空間は多くの論者を魅了し、都市論のジェネレーターとして機能していた★三。そして九〇年代には、マイク・デイヴィスによるロサンゼルス論三部作の最初を飾る『シティ・オブ・クォーツ』(一九九〇)が一〇万部以上を売り上げたが、本稿の文脈では特に「要塞都市LA」の章を検討せねばならない★四。彼はセキュリティへの強迫観念が一九九〇年代における都市開発の時代精神になっていると指摘しつつ、現代の建築・都市論が路上で進行する空間の軍国主義化にあまり言及していないという。一九六〇年代の「第二の南北戦争」である黒人革命を経て、われわれは裕福な社会の「防備された諸単位」と警官が貧しい犯罪者と闘う「恐怖の場所」に分割された「要塞都市」に住むと、一九六九年にニクソン大統領が語った予言は実現したのである。それでは具体的に建築・都市の空間はどのように変容したのか。以下にやや長くなるが、デイヴィスの描く、ポスト・リベラルのロサンゼルス像を紹介しよう★五。
まずダウンタウンの再開発は、空間のアパルトヘイト化を促進し、防弾の鉄の扉を使う裕福なバンカーヒルと移民が遊歩するブロードウェイはヒル通りを境に分断された。バス停に表面積が少ない、座りにくいベンチが設置されたのは、浮浪者が寝ないようにするためだ[図4](新宿西口にも段ボール居住者を排除する醜いオブジェがある)。公園には野宿できないよう不定期に放水するスプリンクラーが設置され、同じシステムは道路のホームレスを追放するためにも利用されている。飲食店もゴミあさりを禁ずるために装飾的な囲いを建物に付けたり、忍び返しのある特別なごみ箱を導入する。そして公衆トイレの数はなるべく減らし、コミュニティ再開発局(CRA)は好ましい訪問者のみを受け入れる店内やオフィスに設けた準公衆トイレを推奨している。さらにCRAはロサンゼルス警察に二四時間防備の駐車場のデザインを依頼したが、その建物はホワイトカラーが公共の道路をあまり通らなくてもすむようオフィスと接続するシステムをもつ。
こうした文脈に沿って、デイヴィスはロサンゼルスの代表的な建築家フランク・ゲーリーの作品を独自に解釈した。例えば、初期の《ダンツィガー・スタジオ》(一九六四)は、汚れたファサードで贅沢な性格を隠そうとする「ステルス住宅」であり、次に展開する壁に囲われたオブジェ群のデザインは閉ざされたコミュニティのメタファーであるというふうに。《ロヨラ大学法学部》(一九
八一─八四)は、半ば外部に開きながらも、施設の背中を道路に向けたり、人を寄せつけないフェンスや壁を用い、完全には開いていないという(ゲーリーによれば、施主がフェンスを要求したらしい)。また 《ゴールドウィン図書館》(一九八四)は、要塞ふうの派手な相貌をもち、ダーティハリーの44マグナムが男らしさを誇示するようなものだという[図5]。実際、前に建っていた図書館は放火により焼失しており、施主はセキュリティにこだわっていた。しかし、デイヴィスによれば、多くの建築家がハイテクの防犯システムを導入して背の低い建物を設計するのに対し、ゲーリーはセキュリティの機能をデザイン・モチーフにして侵入者を威嚇する壮観な建物をつくったのである。
次に住宅地はどうか。現在、壁に囲まれたゲーティッド・コミュニティが増えている。存在が知られてしまうのでメディアの取材を受けたがらず、容易に外部の人間を入れず、内部の公共施設も他者を排除し、住人が使う。むろん、公共施設の独占には反対があり、公園の管理費用を負担するというコミュニティもある。当然、住宅は最新のセキュリティ・システムを装備するが、忍者屋敷のごとく秘密の通路から入る対テロリスト用の隠し部屋への需要が多く、建築家は大使館や軍のデザインを参考にしている。かくしてロサンゼルス郡では、八〇年代にセキュリティ関連の会社が業績を三倍に伸ばしたという(警備員は二万四〇〇〇人から七万五〇〇〇人に増加)。ディズニーランド近郊のある新興住宅地の例を見てみよう★六。九〇〇世帯三六〇〇人が住む二二ヘクタールの敷地を土手とフェンスが囲み、五カ所の入口には電動式の門があって、住民と許可を受けた部外者のみが出入りできる。門を破ろうとする車には、地面に設置された鉄のツメがタイヤに刺さる。安全なゲーティッド・コミュニティの内部には、テニスコート、プール、アスレチックジムなどが用意され、外へ出かける必要がない。住宅の平均価格は一戸四〇万ドル。アメリカの平均的な家庭の四倍の年収がないと購入は難しく、住民の多くは白人らしい。ホワイト・フライトと呼ばれる増加する有色人種への白人の恐怖が引き金になっているだろう。全米で六五〇万人以上がこうしたコミュニティに住み、南カリフォルニアの新興住宅地の三分の一が該当する。一九六一年から八九年まで存在したベルリンの壁に対し、ロサンゼルスの壁は住民たちが望んで建設したのだ。
一方、貧困の地域はどうか。ここではディヴェロッパーのアレクサンダー・ハーゲンが監視システムを導入した商業施設を建設している。ショッピングセンターは高い鉄のフェンスに囲まれ、ヴィデオカメラがあちこちに仕掛けられ、ときには中央の監視塔にロサンゼルス警察(LAPD)の派出所も入っている[図6]。空間のパノプティコン化は警察によって遂行されよう。LAPDはヘリコプターによる空からの監視体制を最初に導入した警察であり、一九六五年のワッツ暴動以来、それが犯罪地域を管理する重要な手段になっている。パトカーと連動しつつ毎日徹夜で平均一九時間稼働し、イギリス軍によるベルファストの空からの監視を凌ぐという。巡回するヘリコプターは、煙草の火も逃さない赤外線カメラと強力なスポットライトを搭載すると同時に、監視しやすいよう住宅の屋上には街路の番号が塗られ、空から見たロサンゼルスは「警察のグリッド」都市に変わるのだ。続いてLAPDは新しいコミュニケーション・システムや衛星からの監視のために、軍やNASAの技術を積極的に導入している。ヴィム・ヴェンダースの映画『エンド・オブ・バイオレンス』(一九九八)は、完全な監視システムによりロサンゼルスから暴力を根絶させる計画を描いていたが、まったくのフィクションとはいえないのだ。
ロサンゼルスは犯罪者の街である。市庁舎の半径三マイル以内に二万五〇〇〇人の囚人が収容されており、全米一の密度だという。そして増加する囚人の問題を解決するために、高層の監獄が都市部に建設される。例えば、ダウンタウンのある監獄ビルは、ポストモダン風の外観と心理的なコントロールを考慮したインテリアをもつ。ゆえにデイヴィスは、居住空間がますます監獄化しているのに、皮肉なことに監獄の方が先端的な公共建築デザインの対象になりつつあると指摘する。なお、移民局も過密の問題を抱え、都市の内部にそれとわからないような小さな拘置所をつくったり、外国人抑留者のためにモーテルやアパートを補助的な収容施設にすることが提案された。まさに監獄都市である[図7]。

3──ロサンゼルスのチャイナタウン 筆者撮影

3──ロサンゼルスのチャイナタウン 筆者撮影

4──浮浪者を排除するバス停のベンチ City of Quartz, 1992

4──浮浪者を排除するバス停のベンチ
City of Quartz, 1992

5──フランク・ゲーリー《ゴールドウィン図書館》1984 筆者撮影

5──フランク・ゲーリー《ゴールドウィン図書館》1984
筆者撮影

6──上部で警察が監視する ハーゲン・ショッピング・モールの図書館 City of Quartz, 1992

6──上部で警察が監視する
ハーゲン・ショッピング・モールの図書館
City of Quartz, 1992

7──街の中の小監獄 移民拘置所 City of Quartz, 1992

7──街の中の小監獄 移民拘置所
City of Quartz, 1992

ディズニーランドへ

暴力の臨界都市ロサンゼルスは、『エスケイプ・フロム・LA』(一九九六)や『ボルケーノ』(一九九七)などのハリウッド映画によって、幾度となく破壊されてきた。デイヴィスの近著『エコロジー・オブ・フィアー』(一九九八)は、終わりなき日常を終わらせる想像力に長けている★七[図8]。彼によれば、一九〇九年以降、少なくとも一三八の小説や映画でロサンゼルスは破壊されており(七〇年代に二九回、八〇年代に三一回、九〇年代前半に一九回)、具体的には四九回の核攻撃を受け、二八回の地震が発生し、一〇回怪物に攻撃され、六回の洪水が起こり、五回彗星や津波に襲われるなど、あらゆる種類の災害を経験した。実際の惨事をみても九〇年代だけで、一九九二年に五四人の死者を出した暴動、一九九三年に大火事や洪水、一九九四年に被害額二億ドルの地震などが起きている。そして一九九三年以降、第四帝国を掲げるネオ・ナチのスキンヘッズにより人種間戦争は活発化し、黒人への襲撃が一九九五年から翌年にかけて五〇パーセントも急増したという。一九九五年のロサンゼルス郡では、人種間暴力五三九、性的暴力三三八、宗教絡みの暴力一一八件が報告されている。それゆえ、彼はロサンゼルスを「黙示録のテーマパーク」、あるいは「災害の世界首都」と呼ぶ。
デイヴィスのロサンゼルス像は、いささかフィクションめいて聞こえるかもしれないが、その手法は現場を歩くジャーナリズムによって支えられている(厳密な意味での研究書ではないので、一部では記述の不正確さも指摘されているが)。彼はさまざまな経歴をもち、高校卒業後、家業の肉屋を継ぎ、トラックの運転手を経て、大学でベルファストの都市・社会史を学位論文にまとめ、左翼系雑誌の編集者となり、現在、南カリフォルニア建築学校で都市論を教えている★八。そしてマルクス主義者かつアクティヴィストである。ゆえに、ロサンゼルスの危機的な状況を指摘しながら、最終的には草の根のアクティヴィズムによる解決を望み、労働・社会闘争の役割を今後、論じていくという。
現在、アメリカでは二億丁の銃が出回っているらしいが(ほぼひとりに一丁ずつ)、これは徹底した個人主義による自己防衛への意識が生みだしたものであろう。しかし、都市の要塞化は公共空間を破壊する。もはや都市は人々の出会い交流する場所ではない。見えない戦争による分断の場所なのだ。住民は見知らぬ他者を拒否し、アメリカの開放性は終わり、閉じた空間になりつつある。かつて近代都市を形成した互いにわからない群衆は嫌われるのだ。ところでマイケル・ソーキンは、特にアメリカで進行する新しい都市像がテーマパークをモデルにしていると考えている★九。だが、これは日本の公共建築が大衆に媚びた具象的なデザインを導入する、お気楽なディズニーランダゼイションとは違う。ソーキンは、都市がテレビのようになり、場所性を喪失していることを指摘しつつ、新しい都市のもうひとつの特徴としてセキュリティへの異常な関心を挙げている。当事者がディズニーランドが犯罪率ゼロの都市だと誇ったのが想起されよう。しかし、これはまさに住民の不在と他者の排除という潜在的な暴力の存在を逆説的に証明している。次に彼が編集したアンソロジー『テーマパーク変奏曲』で紹介された幾つかの事例を見よう。
「フロリダのリヴィエラ」と宣伝されるウィリアムス・アイランドのコミュニティは、テーマ環境やゴルフカートの移動システムをもつが、橋によって本土と隔てられ、通行のための電子パスによって出入りが記録される(訪問者はさらに精密検査が必要)。つまり「ディズニー・ヴィル」なのだ。またシリコンバレーは、高学歴・高収入の技術者コミュニティと有色人種の労働者が住むつつましい住まいに二分されると同時に、急成長したことや住民の関心の無さから、公共施設が圧倒的に不足している。労働者の管理にはモニターとコンピュータを利用し、秒単位どころか一〇〇万分の一秒の単位で運動を監視できるという。人間の視線が直接に届くのではない。もはや不透明なパノプティコンである。そしてマーガレット・クロフォードによれば、ショッピング・モールは郊外住宅のように公共の道路に対して背を向け、要塞化し、頻繁なパトロールを行なうモールが安全な都市空間を提供する。モールは商業空間の隔離を進め、白人の郊外居住者が集う場所になっていく。
八〇年代のニューヨーク南部の再開発はジェントリフィケーションに直結した。例えば、ユニオン・スクエア公園の改造は、ホームレス、犯罪者、麻薬常用者らを立ち退かせ、見通しのいいよう木々を刈り込み、道を広くし、ワシントン・スクエア公園ではフェンスをつくり、夜間の出入りを禁止し、警官のパトロールを強化している。だが、都市の前線は一進一退であり、ついに一九八八年のトンプキン・スクエア公園ではアクティヴィスト、芸術家、住民らによって暴動が発生してしまう。最近では「市の浄化」を掲げるジュリアーニ市長が、路上の屋台、風俗店、マナーの悪いタクシーなど、ダーティなイメージのものを取り締まり、他者の排除に取り組んでいることが知られていよう★一〇。むろん厳しくなる警察の管理に批判の声も少なくない。しかし現在、キレイで安全なニューヨークに空前の観光ブームが起きているのは、街のディズニーランド化が進行しているからにほかならない。ほかにもボルティモアでは、公共空間に監視カメラを多く設置することは警官を増員したようなもので、おかげで大いに犯罪が減少したと市長が豪語している★一一。
エドワード・ソジャの場合は「エクソポリス」の概念を考察しながら、核や都市をまるごと抹消可能なアルファ・レーザー兵器を有する、軍の施設と近接した都市を例に挙げていた。そして驚くべきことに本物の核ミサイル発射基地に住む人々がいる★一二[図9]。というのは、旧式の基地が払い下げられ、個人に転売されているからだ。現在、全米で一二〇カ所の閉鎖されたミサイル基地が存在し、半分が個人所有になっているという。軽飛行機の製造・販売を営むある家族は、一九八〇年代に廃品回収業者からカンザス州の基地ごと一三ヘクタールを四万ドルで購入し、一〇年かけて泥水をポンプで吸い出して司令スペースをマイホームに、格納スペースを作業場にリニューアルした。鉄の扉を開け、六〇メートルのトンネルを抜けると、奥に心地よい空間が広がっている。さすがに基地だけあって、地震や竜巻にびくともしない構造をもち、非常時には本来の威力を発揮するのだろう。

8──都市の危険地域ダイアグラム Ecology of Fear, 1998

8──都市の危険地域ダイアグラム
Ecology of Fear, 1998

9──居間に続く基地のトンネル 『朝日新聞』1998年4月7日

9──居間に続く基地のトンネル
『朝日新聞』1998年4月7日

ロンドンは燃えている

都市の軍事化はアメリカに限ったことではない。多くの先進国で防犯カメラは増える傾向にあるが、特にイギリスではここ数年で急増している★一三。これは一九九四年から政府が自治体や地域団体のカメラの導入に助成を始めたことに加え、ブレア労働党政権が犯罪撲滅を政策に掲げているからだ。六七一カ所が助成を受け、イギリス全体では三〇万台が存在するという[図10]。平均的な英国人は週五〇〇回被写体になるらしいが、多くの国民が抱く犯罪への不安が政策を支持し、こうした監視社会を実現させているのだ。内務省の調査によれば、カメラのおかげなのか犯罪の総件数は減少しているのにもかかわらず、聞き取りの回答では犯罪が増えたと思う人間が八四パーセントもいて、実態以上に見えない他者への恐怖心が大きいことがうかがえる。スコットランドではほとんどの自治体が設置し、これまで民間の自衛用が中心だったカメラの売上げは、九〇年代後半に公共市場の拡大で倍になった。一九九八年の暮れにロンドンのニューハム区警備センターでは、カメラの映像を警察の前歴者データベースと照合するシステムが試験的に導入されている。モニター画面の顔の輪郭が緑に点滅すると認識され、数秒で輪郭が赤色に変わりブザーが鳴ると、注意人物としてカメラが追跡するというものだ。八〇パーセントの識別精度をもち、両目間の距離や鼻の位置など、顔の輪郭で識別するために変装ではごまかされないという。むろん、プライバシーの問題も発生し、家屋の中を撮影できる位置のカメラの撤去を求める住民が増えている(こうした問題は日本の首都高速のナンバー読み取り装置でも起こっているが)。
強盗だけが問題ではない。一九九〇年代初頭、ロンドンの金融地区に大きな爆発があり、例えば、一九九三年と九四年にIRAがロンドンに仕掛けた爆弾は一五億ポンドの被害を出した。そのために武装した警官がすべての主要な出入口に配備されるようになったが、さらにマーティン・ポーリーは、建築の終わりと始まりを考察した『ターミナル・アーキテクチャー』において、テロリズムへの恐怖から建築が変容したことを論じている★一四。テロリズムという悪しき他者がポストモダンや建築の様式を殺すのだ、と[図11]。何故か。テロとは低密度の戦争であり、鉄のシャッターやカメラの設置ではもの足りず、建物の材料や構成そのものを再考する抜本的な対策を必要とするからだ。まずシティ地区は、怪しい自動車や歩行者が侵入できないよう交通計画が練られ、首相官邸のあるダウニング街への自由なアクセスは閉鎖され、セキュリティ・ゲートや監視カメラが置かれた。続いてトラファルガー広場から国会議事堂の一帯は歩行者用道路に変わり、政府機関の二〇〇メートル以内に(爆弾を搭載した自動車を置けないよう)駐車場をなくそうとしている。さらに不慮の事態にそなえて、銀行は郊外にデータの貯蔵庫を設置するだろう。
ベルファストのテロ対策はさらに徹底している[図12]。当然、都市部では監視カメラがいたるところに設置され、ショッピング・センターの回転ドアは乗り物が突っ込むのを困難にするだろう。新しい住宅団地は簡単に車で近づけず、どんな建物も一二メートル以内に駐車場やアクセス道路はない。またどんなビルもセキュリティ・チェックの入口が建物の入口から一二メートル以上離れた場所に位置している。ポーリーによれば、一九六九年の北アイルランド紛争以来、軍の協力を得て、計画家はどのようにしたらテロの攻撃を最小限にするかの訓練を受けているという。爆弾による建物の破壊も研究され、そこに美的な要素が介入する余地はない。そして一九七〇年代の半ば以降、すべての主要な開発はイギリス軍の承認を得なければならないことになった。こうして建築家よりも軍のセキュリティ・アドバイザーが重要になった設計では、普通のやり方が通用しなくなる。まず、格好の標的にならないよう目立つ外観は御法度とされる。建物のまわりの木々、植え込み、つたの類いは除去される一方で、爆風で飛び散るガラス窓の透明性は嫌われ、代わって中庭採光が好まれるだろう。カメラの邪魔になるような装飾は取り除かれ、爆弾の隠し場所になりそうなくぼみや階段などのデザイン要素は抹消される。かくしてビルは各出口やアトリウムを封鎖し、特徴のない要塞建築に変貌するのだ。
ところでポーリーは、戦闘機の歴史をたどりながら、デイヴィスと同様に「ステルス建築」という言葉を用いている。つまり飛行性能よりもレーダーに探査されないことを重視したF─117戦闘機やB─2爆弾になぞらえて、機能が外形に表現されないタイプの建築を規定しているのだ[図13]。そしてステルス型の建築と戦闘機は、同じく一九七〇年代終わりになって現われたと指摘している。これは歴史的な外部とハイテクな内部をあわせもつ建物に代表されるが、チャールズ皇太子の「王室の爆弾」によるモダニズム攻撃などにより増えたステルス建築は、歴史性を重んじる感情的な世論や批判を逃れるのではないかという。おそらくポーリーの指摘は、テロリストの眼から逃れようとして地味なデザインを行なう建築にもあてはまるはずだ。

10──景観に配慮し、街灯を模した防犯カメラ 先端のランプから監視する 『朝日新聞』1999年2月5日

10──景観に配慮し、街灯を模した防犯カメラ 先端のランプから監視する 『朝日新聞』1999年2月5日

11──1992年4月にロンドンを襲った爆発事件  Terminal Architecture, 1998

11──1992年4月にロンドンを襲った爆発事件  Terminal Architecture, 1998


12──10mの高い壁に囲まれたテロ対策の建物、ベルファスト、1980年代半ば  Terminal Architecture, 1998

12──10mの高い壁に囲まれたテロ対策の建物、ベルファスト、1980年代半ば  Terminal Architecture, 1998

13──ステルス性を特徴とするJSF空軍型戦闘機 『軍事研究』1997年3月号

13──ステルス性を特徴とするJSF空軍型戦闘機 『軍事研究』1997年3月号

サラエボにようこそ

一九九〇年代最大の悲劇はボスニア・ヘルツェゴビナの分割戦争であろう。一九九二年から翌年にかけて、死者二〇万以上、負傷者一〇〇万人、家を失った者が二〇〇万人以上と推定されている。この第三次ボスニア戦争は、美しい古都サラエボを二〇世紀末にもなって、恐ろしくローテクな手段で凌辱し、「都市の儀式的殺害」(B・ボクダノヴィッチ)が遂行された。メディアの自己正当化の匂いがしないでもない映画『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(一九九七)では、サラエボが世界で一四番目の危険地域にすぎないという国連の代弁者の発言を踏まえ、最もひどい都市はロサンゼルスだというジョークを挿入していたが、潜在的な危険を抱えたロサンゼルスに対し、サラエボは実際に起きてしまったのである。ユーゴスラビアの紛争はさまざまな局面をもつが、第三次ボスニア戦争はセルビア人、クロアチア人、ムスリム人の衝突であり、とりわけセルビア人による「民族浄化」の凄惨さが際立っていた。むろん、ムスリムは人種によって規定されるわけではなく、宗教が規定するのだから、互いの外観はほとんど変わらない。チトーがユーゴスラビアを統治していた時代は、共産主義のイデオロギーと暴力的な民族への団結強要により、虐殺の過去を封印し、不条理ながらも秩序が維持されていた(例えば、セルビア人の政治犯が投獄されると、政治活動を行なっているかどうかに拘わらず、どこかのクロアチア人やムスリム人が捕まえられた)★一五。しかし、チトー亡き後のユーゴスラビアは、憎しみの記憶が解凍し、デマゴーグにより崩壊への道を歩み、今なおコソボから多数の難民を生みだしている。
第三次ボスニア戦争では、主に農民から形成されるセルビア人不正規兵が、サラエボなどの都市住人を攻撃した。彼らはわざわざナイフで喉を切るといった残忍な方法を用いてときには顔見知りの住民を大量虐殺し(さらに蛮行を伝えるために一部を生きたまま逃す)、家屋を焼き払う。そして男性は強制収容所に送られ、女性は(セルビア人の子供を生ませるために)組織的な性的暴行を受けたが、集団レイプ作戦は戦争の武器であり、被害者は推定で一万数千人とも五万人とも言われている。千田善は、「犠牲者や難民を増やすこと自体を目的とした、異常な戦争だ」と言う★一六。国内では「ここより戦場」という奇妙な標識が各地に立ち、モスクは破壊され(教会予定地になる)、畑に地雷が埋められ、公共施設は難民の収容所に変貌した。サラエボは大きなコンクリート板のバリケードで包囲され、電話も通じず、中央郵便局は一九九二年五月に燃え、世界から孤立した。高いビルから狙撃手が狙うスナイパー通りでは撃たれないよう人々は走る。さらに頻繁に停電が起こり、冬の寒さをしのぐために住民はすべての木々を切り倒し、やがて書斎の本を燃やし始めた。人々は銃撃の音を子守歌とする戦争を日常とし、食料不足から痩せ細り、電気や暖房の節約のために一〇時には寝て朝の五時に目覚める。住民のサヴァイヴァルとしては、爆風で破壊された窓にビニールやボール紙を貼ったり、内部が暗くなるが、屋根の材木やクローゼットのドアを使ったり、さらに安全のために食器棚や本棚で塞ぐ方法が紹介されている★一七。そして壊れた建物の煉瓦を拾って壁の穴を埋め、階段や地下室を避難所としつつ、安全な場所に貴重品を移動し、出口に緊急持ち出し用のバッグを置く。
サラエボの住民は直前まであまり危険を感じていなかったというが、一九九二年四月五日、二六〇台の戦車、一二〇の迫撃砲、無数の対空射砲と狙撃手が都市の周辺に現われて、悲劇は始まった[図14]。その後の都市破壊について、サラエボの建築家イワン・ストラウスは日記にこう書いている★一八。

四月二二日
まる一日、道路に砕け散ったガラスの掃除をした。自尊心を回復しようと望みながら。……テレビでセビリア万博の開催を見たのはわずか数日前のことだ。
六月八日
ああ! 今夜、野蛮人どもはビジネス街のビルのひとつを燃やすことに決めたのだ……わたしの心は痛むが、それを隠そうと努める。ボスニアとヘルツェゴビナ全土をおおう悲しみに比べれば、たいしたことではないのだ。しかし、とても辛い。わたしのビルを見ながら、設計したときや建設したときの様子が走馬燈のようによみがえる。……朝にはUNISビルが真っ黒焦げになって、焼き網のような姿が空に映えている[図15]。
七月二日
今日、二カ月ぶりにスーツを着て街を歩く。破壊された主要な建物に関して建築家の集いがあるのだ。行き帰りの道でわたしはゆっくりと歩き、近くから都市の悲劇を観察した。まるで大異変の後の廃墟のようだ。
七月二七日
わたしはスイスのビザを待ちながら、ザグレブの暑い気候のなかにいる。子供と孫に会うためなのだが、ひとりなのは、妻がムスリムで通行許可が下りず、サラエボにいなければならないからだ。……途中、わたしがスラノやドゥブロヴクニ付近で設計した建物の悲しい運命を知った。
八月二六日
今夜起きたことは蛮行の極みであり、地獄絵図だ。五カ月にわたるサラエボの非情な殺戮の結果、丘からやってくる野蛮な愚か者テロリストは国立大学図書館を焼いてしまった。ほぼ一世紀間、近代都市のシンボルであったのに。五カ月間に公共施設、住棟、学校、体育館、宗教的・文化的モニュメントなど、ほとんどの建物は焼かれてしまったが、今度のは最悪である。……図書館が燃えるにつれて、救いだせるものを拾おうとする人々をスナイパーは撃ち、焼けた本のページがゆるやかな風に舞う。
八月二七日
サラエボの雑誌に建築家ボグダン・ボクダノヴィッチの記事が紹介されていた。彼はセビリア人の良心である。ドレフュス事件におけるフランス人のゾラのように。
九月二〇日
壊されもせず、被害を受けていない重要な建物は、もはやサラエボには存在しない[図16]。……交通機関とインフラストラクチャーは寸断され、ここ数カ月、電気と水がほとんど使えない。十分な財源を得たとしても、住宅地、病院や学校の再建のために少なくとも一〇年間はかかるだろう。……明らかにサラエボが必要とするものは、職業的な英知のみならず、政治的な英知なのである。それは今や単に都市ではない。それ以上のもの、すなわちシンボルである。

14──損傷を受けたサラエボのビル Survival Guide, 1993

14──損傷を受けたサラエボのビル Survival Guide, 1993

15──UNISビルの炎上 Survival Guide, 1993

15──UNISビルの炎上
Survival Guide, 1993

16──エレクトロプリヴレダ・ビルの炎上 Survival Guide, 1993

16──エレクトロプリヴレダ・ビルの炎上 Survival Guide, 1993

戦争の後に

アメリカの建築家レベウス・ウッズは、サラエボを幾度か訪れ、一九九三年に前述の体験を綴ったイワン・ストラウスの要請を受けて、彼のビルの再建計画を共同で行なっている★一九。ひどく損傷を受けたが、構造までは崩れていないUNISビルとエレクトロプリヴレダ・ビルにおいて、ストラウスの大胆な骨格に乱雑な構築物が寄生体のようにへばりつくプロジェクトをウッズは提案した[図17・18]。これは武装した構造体が地層と融合する朝鮮のDMZプロジェクト(一九八八─八九)や異物が既存の建物に侵入するベルリン・フリー・ゾーン(一九九〇)など、従来のウッズの手法を展開させたものである★二〇[図19]。彼がユーゴスラビアと関わりをもつようになったのは、一九九一年の六月にザグレブの美術工芸博物館から仕事を依頼されてからだろう★二一。アメリカ人ということで好奇心をもたれたらしいが、ザグレブ・フリー・ゾーン(一九九一)の計画では、強力な電子コミュニケーション・システムをもつ可動式の住居ユニットによる自由空間を街の中にちりばめた[図20・21]。フリー・ゾーンは権威的なヒエラルキーではなく、ダイナミックに流動し、重なりあうドゥルーズ的なヘテラルキーのネットワークを構成するという。
ウッズのデザインは、通常の建築とはかけ離れており、むしろSF的なドローイングである。実際に建設された作品も知られていない。だが、楽観的なテクノロジー信仰に基づく、アーキグラムのようなユートピアとも違う。黙示録的なヴィジョンに取り憑かれている。彼は地震と建築の関係も考察している★二二。ウッズは編集者の中村敏男から阪神大震災の様子を聞いて、いったんは自然の災害だから戦争と同じではないと思ったものの、やはり人為的な要素が破壊に貢献したとみなし、サンフランシスコに一連のプロジェクトを提案した。つまり地震が発生すると、建築は殺人機械に変貌し、多くの人々は瓦礫に埋もれて死んでしまう。そこで地震を受け入れ、地震のエネルギーを利用する建築を思考実験した。摩擦のないシリコンの上に建ち、慣性力によって動かないスリップ・ハウス、しなやかな金属とボールジョイントのフレームで揺れを吸収するウェーブ・ハウス、回転するホライゾン・ハウスなど、いささかナイーブなものではあるが[図22・23]。
ところでウッズは、サラエボに触発されて、次のような宣言文を出している★二三。

建築と戦争には共通の側面がある。建築は戦争である。戦争は建築である。私は私のいる時代、歴史、固定し萎縮した形式に安じているすべての権威ある者と戦争をしている。
サラエボの燃える塔は、理性の時代の終焉を告げる。(…中略…)サラエボはバルカン半島の文化的寛容精神と希望を象徴していたが、今や絶望を予告し、世界に警告を発している。世界中の武力闘争は様々な様相を呈している。アゼルバイジャン、モルドバとゴルギア、アフガニスタン、カシミールとスリランカ、イスラエルとレバノン、アンゴラそして他のアフリカの六つの国々、北アイルランド、ペルーとコロンビア等多くの国々で起こっている。ロサンゼルス市中央南部では、突然で敵意にあふれた嵐のような市民暴動が発生した。(…中略…)なぜなら冷戦の後の雪解けの中で、新しい、あるいは期待もしなかった方向へ向かって、大きな一枚板が割れるように、人間社会は分裂を続けるからである。それは憂鬱で恐ろしい光景である。(…中略…しかし)唯一それを正視することで、悲劇的な現実をいくらかでも変える希望が芽生えてくる。意図的な破壊行為のもつ狂気に直面することによってのみ、理性は再び自らを取り戻し始めるのだ。


ウッズは、戦争で破壊されたものを純粋に復元することには反対する。なぜなら、それは旅行者を喜ばせるだけのパロディになるからだ。そして戦争のモニュメント化にあらがう。一方、彼は暴力の痕跡を消し去ってしまうことにも異議を唱え、「破壊された形そのものを完結したものとして、否定できない歴史をはらむものとして、尊重しなければならない」とし、古い秩序の残骸の上に現状が生む新しい秩序が全体を再活性化させることを願う。すでに汚染された自己を引き受けるナウシカ的なパラダイムといえよう。彼は「傷跡」や「かさぶた」という興味深い語をプロジェクト名に用いている[図24]。最初につくられる表層部分は、醜悪な現実に直面しつつ、内部の空白が変容する間、それを覆い、保護しなければならないからだ。ほかにも一九九四年には、自由空間を盛り込んだ議事堂やアパートの再建計画、破壊された煙草工場の上に建設するハイ・ハウスなどをサラエボのために設計している。いずれのプロジェクトも、圧倒的な暴力が存在したという過去の事実を隠さないものだ。最後に、ウッズがその著『ラディカル・リコンストラクション』において引用した、ハリス・パソヴィックの興味深い言葉を紹介しよう。

サラエボは二一世紀最初の都市である。我々があなたたちに送りもどしたメッセージは幸福なものではない。だが、我々はまだ生きている。

17──レベウス・ウッズ+イワン・ストラウス、UNISビル再建計画 L. Woods, Radical Reconstruction, 1997

17──レベウス・ウッズ+イワン・ストラウス、UNISビル再建計画
L. Woods, Radical Reconstruction, 1997

18──レベウス・ウッズ+イワン・ストラウス、 エレクトロプリヴレダ・ビル再建計画 Radical Reconstruction, 1997

18──レベウス・ウッズ+イワン・ストラウス、
エレクトロプリヴレダ・ビル再建計画
Radical Reconstruction, 1997


19──レベウス・ウッズ、DMZ 『レベウス・ウッズ:テラ・ノヴァ:1988−1991』、1991

19──レベウス・ウッズ、DMZ
『レベウス・ウッズ:テラ・ノヴァ:1988−1991』、1991

20──レベウス・ウッズ、 ザグレブ・フリー・ゾーン

20──レベウス・ウッズ、
ザグレブ・フリー・ゾーン

21──同上、内部 2点とも『レベウス・ウッズ:テラ・ノヴァ:1988−1991』1991

21──同上、内部
2点とも『レベウス・ウッズ:テラ・ノヴァ:1988−1991』1991

22──レベウス・ウッズ、スリップ・ハウス Radical Reconstruction, 1997

22──レベウス・ウッズ、スリップ・ハウス
Radical Reconstruction, 1997

23──レベウス・ウッズ、ホライゾン・ハウス Radical Reconstruction, 1997

23──レベウス・ウッズ、ホライゾン・ハウス
Radical Reconstruction, 1997

24──レベウス・ウッズ、かさぶた  Radical Reconstruction, 1997

24──レベウス・ウッズ、かさぶた  Radical Reconstruction, 1997


★一──P・ヴィリリオ「現代戦争論序説」(『現代思想』一九九三年六月号、青土社)。
★二──拙稿「前線都市」(『建築文化』一九九六年一一月号、彰国社)。
★三──拙稿「都市=テクスト論から都市テクスト=論へ」(『建築文化』一九九六年二月号、彰国社)。
★四──Architecture d’aujourdhui, 1998, Juin. の書評を参照。
★五──M. Davis, City of Quartz, Vintage Books, 1992.
★六──「とがった時代 ユ96アメリカ」(『朝日新聞』一九九六年七月二日、朝日新聞社)。
★七──M. Davis, Ecology of Fear, Metoropolitan Books, 1998.
★八──Blue Print, 1998, Dec. のインタヴューを参照。
★九──Variations on a Theme Park, ed., M. Sorkin, Hill and Wang, 1992.
★一〇──「NY浄化大作戦」(『朝日新聞』一九九八年八月一五日、朝日新聞社)。
★一一──『ドキュメントUSA』(TBS放送、一九九九年三月一〇日放映)。
★一二──「我が家は『核ミサイル基地』」(『朝日新聞』一九九八年四月七日、朝日新聞社)。
★一三──「英に急増 防犯カメラ」(『朝日新聞』一九九九年二月五日、朝日新聞社)。
★一四──M. Pawley, Terminal Architecture, Reaktion Books, 1998.『10+1』No.13(INAX出版、一九九八)に訳出されたポーリーの講演「どうして幻影都市ファントム・シティを再建しなければならないのか?」(五十嵐光二訳)も参照。
★一五──M・グレニー『ユーゴスラヴィアの崩壊』(白水社、一九九四)。
★一六──千田善『ユーゴ紛争』(講談社、一九九三)。
★一七──Survival Guide: Sarajevo, Workman Publishing, 1993.邦訳=『サラエボ旅行案内──史上初の戦場都市ガイド』(Fama編、P3 Art and Environment 訳、三修社、一九九四)。
★一八──I. Straus, ”Architecture and Barbarians: Diary of a Sarajevo Architect”, in AD, Academy Editions, 1996.
★一九──L. Woods, メWallsモ, in AD, Academy Editions, 1996.
★二〇──レベウス・ウッズ『レベウス・ウッズ:テラ・ノヴァ:1988─1991』(『a+u』臨時増刊号、エー・アンド・ユー、一九九一)。
★二一──L. Woods, ”Anarchitecture”, in Lebbeus Woods, Academy Editions, 1992.
★二二──L. Woods Radical Reconstruction, Princeton Architectural Press, 1997.
★二三──レベウス・ウッズ「戦争と建築」(黒石いずみ訳、『a+u』一九九三年一〇月号、エー・アンド・ユー)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.17

特集=バウハウス 1919-1999

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>都市のイメージ

2007年5月

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>マイク・デイヴィス

1946年 -
社会批評家。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>マーガレット・クロフォード

SCIAの建築史及び建築理論プログラムの長をつとめる。

>エドワード・ソジャ

1940年 -
社会学者、地理学者。UCLA都市計画学部教授。

>マーティン・ポーリー

建築批評家。

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>五十嵐光二(イガラシ・コウジ)

1966年 -
表象文化論、美術史。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。。

>戦争と建築

2003年8月20日

>黒石いずみ(クロイシ・イズミ)

1953年 -
都市建築理論、生活デザイン論、建築設計。青山学院大学総合文化政策学部教授・ペンシルヴェニア大学Ph.D.。