仕事とは、隠喩や類推思考や多義性の大量注入によって都市を(しかして民主政治を)安全なものにしていくことにある。科学主義が標榜し自由放任主義が顕著な当世ではあるが、このような活動こそ真の《デザインによるサバイバル》を可能にすると信じて止まない。
コーリン・ロウ+フレッド・コッター『コラージュ・シティ』★一
1 都市の人間
『コラージュ・シティ(Collage City)』刊行後、一四年を経て出版された日本語版(一九九二)の序文は、当時ロンドンの中心部で展開されていた大規模なスクラップ・アンド・ビルド──「都市殺戮行為」──への直截な糾弾で始まりそして終わる。それに象徴的なように、同書には著者であった建築評論家・美学者のコーリン・ロウ(フレッド・コッターとの共著)にはいささかそぐわない高揚がある。それは刊行後もなお持続していたといえる。いったい、何が同書での彼らを突き動かしていたのか。もちろんそれは同書の主人公であるところの「都市」と呼ばれるものではある。しかし彼らのいう都市とはそもそもどのようなものであり、それの何が、彼を沸き立たせていたというのだろうか。
同書ではロウのいつもの冷徹な批評性が、何か別のものに取って代わってしまっている箇所にいくつか遭遇する。その最たるものが中盤に登場する、ローマ中心部の都市模型の写真群である。誰が撮影したのか原書でも判明しない。しかしこれらは著者ら自身によるものと思う外はない。同書ではその同じ対象が角度を変え、光線を変え延々と撮影され、必要数以上に掲載されている。まるで初めてカメラを手にした子供のような所作ともいわれかねないものだ[図1]。ロウは確かに、冷静な編集者の目では一括されてしまうであろう、各々の写真に刻み込まれた都市の細部の差異にこそこだわっている。明らかに彼はこの模型と自らの視線との結びつき──劇──に熱中し、それが個人的な経験であるにもかかわらず、なにやらそれぞれがとてつもない意味を持った出来事として感じ入り、それらの写真を逐一提出せざるをえないのだ。