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ニューメディア時代の映画 | 堀潤之
The Cinema of the New Media Age | Junji Hori
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法, 2004年09月25日発行) pp.31-33

映画は、一一〇年になろうとするその歴史において、いくたびも危機にさらされてきた。まずは、三〇年代にトーキーの普及によってサイレント期の視覚的洗練を失い、五〇年代にテレビの大衆化によって最初の大きな凋落期を迎える。六〇年代のヌーヴェル・ヴァーグは、映画史に自己反省的な視線を向けることで、映画を再生する試みだったと言えるが、八〇年代以降、単純化を懼れずに言えばそれに比肩しうる根源的な変革のないまま、映画は、地域的な焦点の移行(ラテンアメリカ、中国、イスラム圏……)、および知られざる歴史の(再)発掘(各種のレトロスペクティヴやサイレント映画の修復)によって、かろうじてその活力を維持してきたと言える。
九〇年代に映画の製作・受容面に顕著に押し寄せたデジタル・テクノロジーの波は、瀕死の状態にある映画をどのように変容させうるのだろうか?  もちろん、現在の映画の様式や観念は、テクノロジーの変容によってのみ規定されているわけではなく、そこには他の経済・産業的、文化的、地政学的な要因がつねに絡まり合っている。しかし、「デジタル革命」は少なくとも、製作面においては映像の質を大きく転換させ、受容面においては映画視聴体験の質的変容を促している。それらの転換はいずれも、古典的な意味での「映画の死」をさらに推し進めるものだが、そこから単なるノスタルジアに陥ることなく、私たちは果たして始まったばかりの二一世紀に向けた新しい映画文化につながる何かをつかみ取ることができるのだろうか。

「デジタル革命」がもたらした帰結のひとつは、映像のシミュレーションが可能になったことである。つまり、現実世界において対応する指向対象を持たない映像を作り出すことが、ニューメディアの時代にきわめて容易になったのである。もちろん、映画の領域に限っても、現実に存在しない映像の生成は、ジョルジュ・メリエスの特殊効果以来、ひとつの潮流を構成してきた。しかし、映画は、リュミエール兄弟以来、むしろあるがままの現実を写し取るメディアであると考えられてきた。パースによる記号の三分法を借りれば、イコン(類似)でもシンボル(記号)でもなく、映像のインデックス性(痕跡)こそが、映画のアイデンティティとみなされてきたのだ。とりわけ第二次世界大戦以降、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグ、およびそれらの運動の精神を継承した映画作家たちは、現実の痕跡としての映像、真実の顕現する場としての映画という考えに忠実であり続けてきたと言える。
ニューメディアの理論家・アーティストであるレフ・マノヴィッチによれば、デジタル時代の映画(彼はとりわけ、特殊効果をふんだんに用いたハリウッド大作を念頭に置いている)は、「多くの要素の中の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケース」として捉えることができるという★一。つまり、デジタル技術の導入によって、映像をコンピュータ上で自由自在に変化させたり、無から作り出せたりするようになると、現実にすでに存在するものをキャメラで写した映像は、映画の決定的な要素であるどころか、あとでいくらでも変更可能な、単にひとつの素材にすぎなくなる。したがって、「デジタル映画」の製作過程は、現実の映像とCGによるシミュレーション映像を、手直しし、合成し、変形させるという、アニメーション的、あるいは絵画的なプロセスとなる(ジョージ・ルーカスも、デジタル技術によって映画製作は絵画や彫刻に近いものになったと述べている)。
このテーゼから、いくつかのことが帰結する。まず、伝統的な映画製作とは対極的に、「デジタル映画」においては、映像の撮影過程よりも、映像を加工するポストプロダクションの過程に重点が置かれることになる。特殊効果をめぐる苦労話が、DVDの特典映像などでうんざりするほど繰り返されているのは周知の通りだ。また、映画史の初期からすでに周縁部に追いやられていたアニメーション的な手法、あるいはアヴァンギャルド的な手法(ハンドペインティング、スクラッチ、コラージュなど)が、「デジタル映画」とともに標準的なやり方として復活したことも興味深い。そもそも映画以前に動く映像を作り出そうとした一九世紀初頭からのさまざまな光学玩具(ソーマトロープ、ゾートロープ、フェナキストスコープなど)は、手で描かれた映像を手動で動かすことから始まったので、再びマノヴィッチの言葉を借りれば、「アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周縁に追いやったが、しまいにはアニメーションのある特殊なケースになった」のである。
デジタル・テクノロジーの一般化にともなう以上のような製作過程の変化は、当然、インデックス的な芸術としての映画の地位をも変化させざるをえないだろう。「トリノの聖骸布」の譬喩を持ち出して、イマージュへの現実の無媒介的な刻印を称揚した「写真的イマージュの存在論」(一九四五)のアンドレ・バザン、あるいは「それはかつてあった」( ça a été)という現前=不在の絡まりあった時制に写真の本質を見出した『明るい部屋』(一九八〇)のロラン・バルトの映像概念は、いまや逆に周縁的なものになってしまっている。同時に、キャメラの前で一回的に生起する出来事をフィルムに収めることに賭けるという緊迫感を持った映画作家も、「デジタル映画」のデフォルト化を前にしてますます稀な存在となりつつある。「デジタル革命」は、見た目の派手さとは裏腹に、映像の強度を著しく減じさせてしまったことは否めないのである。

映画の製作面で「デジタル革命」が進行した一九九〇年代には、受容面でも大容量のデジタル・ストレージ・メディアであるDVDが登場した。一九九五年九月に仕様が定められ、一九九七年に市場に登場したDVDは、ほんの数年間のあいだに、以前のあらゆるメディア(ヴィデオ、CD、レーザーディスクなど)を凌駕するスピードで普及した。DVDの一般化による視聴環境の変化は、映画をめぐる言説のあり方、ひいてはシネフィル文化一般をどのように変貌させているのだろうか?
まず、DVDはヴィデオによる視聴環境の変化を決定的なものにした。すでにヴィデオによってもたらされていた反復的な視聴可能性は、劣化しないDVDというメディアによってさらに完全なものとなった。また映画配給網が必然的に抱え込まざるをえない地理的・時代的制約の乗り越えは、ヨーロッパ、アメリカ、日本などにおける驚くほど多種多様な映画のDVD化によってヴィデオ時代より目に見えて進んでいる。いまや、DVDは、マルローをもじれば「想像の映画館」とでも呼ぶべき事態を現実のものとし、極端に言えばあらゆる地域、あらゆる時代の映画作品の網羅的な踏破への夢想をかつてなく呼び寄せているのだ。
このような環境の変化は、映画館の暗闇における作品との一回的な遭遇(のフィクション)による不自由さ──上映プログラムによる視聴機会の制限、記憶の遺漏の可能性など──が逆説的にもたらしていた見る行為の強度を著しく減じさせたことも事実である。多くのソフトに付属している特典映像は、それがいかに興味深いものであろうと、フィルムとの純粋な出会いを困難なものにする。そもそもいわゆる「シネコン」の増加は、映画館を、神殿にも似た堅信の場であるどころか、そこで上映されている作品も含めてどこかテーマパークのアトラクションに近い白々しいものに変容させている。映画を受容する環境のこうした経済的・技術的・文化的な変化は、かつての映画批評がつねに意識せざるをえなかったフィルムとの「距離」を、のっぺりと無化してしまったように思う。「事件」としての映画体験から出発する旧来のシネフィル文化は、今や終わりを告げようとしている。
では、DVDはどのような新たな作品視聴を可能にしているのだろうか?  依然としてクロノロジカルな視聴を前提としていたヴィデオに対して、DVDは単線的な時間の流れから映画作品を解放し、ランダムアクセス的な見方を技術的に可能にしている。映画全体を見るか、バルトのようにそれを拒否して不動のフォトグラムを偏愛するかというかつての両極のあいだに、いまや、DVDが著しく容易にした、作品横断的にさまざまな断片・抜粋をつなぎ合わせるモンタージュ的・発見的な見方があるのだ。さらに、「一時停止」のみならず「ズーム」機能によって、これまでなかったような仕方で、いわば絵画を分析するかのように映像の細部に注目することも容易になった。往々にして映画館での体験の縮小再生産にとどまっていたヴィデオとは異なり、DVDというメディアの潜在性は、映画批評のあり方のさらなる変質を要請している★二。

以上のように、「デジタル革命」は映画の産業的・経済的・文化的構造の変容と相俟って、製作・受容の両面で、映画をとりまく美学的・文化的・言説的な環境の転換をさらに推し進めた。デジタル化の進行は、古典的なシネフィル文化を終焉させた一方で、新たな製作・受容のあり方を潜在的に孕んでもいる。次回は、「ニューメディア」によって、何が本当に新しくなりうるのかを吟味してみたい。


★一──Lev Manovich, The Language of New Media, MIT Press, 2001, p.302.
★二──DVDに関しては、Anne Friedberg, "CD and DVD", in Dan Harries, ed., The New Media Book, BFI, 2002, pp.30-39.Collectif, "Spécial DVD", Cahiers du cinéma, n。 585, décembre 2003, pp.61-121.などを参照。

>堀潤之(ホリジュンジ)

1976年生
関西大学文学部准教授。映画研究・表象文化論。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法