1:例外状態の建築家たち
一九九七年三月にベルリンでAnyone Corporationの主催により、「ヴァーチュアル・ハウス」をめぐるフォーラムと設計競技が開かれている。参加建築家は伊東豊雄、アレハンドロ・ザエラ=ポロ、ジャン・ヌーヴェル、ピーター・アイゼンマン、ヘルツォーク&ド・ムーロン、そして、ダニエル・リベスキンドであり、カート・フォースター、浅田彰、レベッカ・ホーンが審査にあたった。五十嵐太郎がレヴューで触れているように★一、多くの提案は各建築家のいままでのキャリアの延長上にあり、自己引用に終始している傾向が強い。これはおそらく、〈ヴァーチュアル〉という概念のはなはだしい曖昧さによるのであり、設計競技にあたって書かれたジョン・ライクマンの、定石通りドゥルーズに依拠した解説文も、なるほどドゥルーズ哲学の啓蒙的な要約ではあっても、そこでことさらに反復される〈ヴァーチュアル〉なものの〈新しさ〉の強調は、それが結局きわめて素朴なモードの言説でしかないのではないか、という疑いを抱かせずにはおかない。例えば冒頭ではこう述べられている。
問題はこのように立てられる。ヴァーチュアル・ハウスは、そのプラン、空間、構造、および知性によって、きわめて新しい結合を発生させる。それは予期せざる関係に向かう力を最大のかたちで実現すべく、アレンジされ配置される★二。
あるいはまた、ヴァーチュアル・ハウスは「われわれの不意を最もつく」ものであり、「ヴァーチュアルなものは、われわれがすでに知っていたり見ていたりするもののどれにも似ていない」★三のだという。ライクマン自身、モダニズムの最も優れた作品はそれぞれのやり方で、ヴァーチュアル・ハウスであったのだろう、と認めているが、このような記述の背後に見えかくれするのは、ディスカッションでリベスキンドが疑問を呈している、「ヴァーチュアルなものがアヴァンギャルドの側にある」★四という前提了解ではないか。
ドゥルーズの思考が、とくにコンピュータによる建築デザインの可能性拡大と、コンピュータを介したサイバースペースのデザインという課題の出現によって、同時代の建築に刺激的な問いを与えるものとなっていることは確かであろう。そして、このような現状が、ヴァーチュアルなものをアヴァンギャルドなものとして語る傾向を助長しているのかもしれない。例えばディスカッションで浅田が指摘するコンピュータ・グラフィックスの流行に伴う「可能世界のイデオロギー」★五のような、この現状そのものに蔓延しているサイバースペース・イデオロギーを批判的に分析するには、ドゥルーズが『差異と反復』で行なった〈ポッシブル/リアル〉と〈ヴァーチュアル/アクチュアル〉の二対の区別が貴重な手がかりともなるだろう。しかし逆に、ドゥルーズに依拠したとしても、この区別が厳密に維持されないならば、ヴァーチュアルなものに関する議論は似たようなイデオロギー性を帯び始める。ライクマンはそのことに十分自覚的であったようには思われない★六。
この設計競技でとりわけ奇妙なのは、ライクマンの解説とともに提示されている次のような設計条件だ。
ヴァーチュアル・ハウスの敷地は平地とする。
ヴァーチュアル・ハウスの大きさは、最大で二〇〇平方メートルとする。
ヴァーチュアル・ハウスは、閉じたものであり、おおわれたものであり、接地しており、そして建てられるものでなければならない。
ヴァーチュアル・ハウスは、一人から四人までの人間、おそらくは大人二人と子供二人、そして一匹のペットが住まうことになる。
ヴァーチュアル・ハウスは、コンペに寄せられたジョン・ライクマンの説明に答えるものとする★七。
現実の敷地も施主も予定されていない以上、このような漠然とした設計条件しか与えられないことは理解できる。ヴァーチュアル・ハウスは、核家族(もちろん、大人二人と子供二人という要素は核家族という概念に収まらない多様な解釈を許すものであるが)のための最小限住宅の普遍解として構想されることを求められているのであろう。そしてそのことは、〈普遍解〉がありうると考える時代にこのプロジェクトが属していることを示しているのではないのか。ライクマンのテクストがあらかじめ予想されるこのような理解に対して防衛線を張り、ヴァーチュアルなものの多様性へと向けて問いを開こうとしていることは読み取れるにせよ、にもかかわらず、この問いの抽象性のほとんど滑稽なまでの空虚さは、ライクマンの文章が喚起しようとつとめているヴァーチュアルなものの肯定的なイメージとは裏腹に、何か無気味なものすら感じさせる。一見したところ常識的なこれらの前提条件が、リアリティをまったくもち得ないように(あるいは住まいとはまったく異なるものの条件であるかのように)感じられてくるのだ。
予想されるとおり、多くの建築家たちの提案は、多様な解を生成させるシステムの構築へと向かった。アイゼンマンとリベスキンドの案に見られる、さまざまな形態を生成させる建築機械がその代表である。インターネットを用いて「ユーザーに自分自身のヴァーチュアル・ハウスを開始させる」というヘルツォーク&ド・ムーロンや、〈用地〉そのものとして家を建設するという発想から、「アリゾナ」モデル、「シュヴァルツヴァルト」モデルなど、多様な用地モデルを増殖させる方法論を示すザエラ=ポロもまた、同じ意図を抱いている。そして、ここで回避できなくなるのが、多様でありうる解のどれを実現するかを、誰が決定するのかという問題にほかならない。
ディスカッションにおいてもこの点が議論となっている。アイゼンマンの機械は「システム内の差異があまりに微細なものになったのでもはや知覚できなくなったとき、この機械は自身を停止させる」★八といわれている。それに対して浅田はこう反問する。
どうしてこの機械がある一点で止まることができるのか? アイゼンマンさんは、それ以上のインタラクションがもはや不可能になるような点のことを話されました。じつのところ、カオスのような場合は、必ずしもそういう飽和点に達するとは限らないのですが、もし飽和点に達したとして、その結果としてのねじれた形態は視覚的にあまり(少なくとも彼の理論ほどには)説得力をもたなくなるのです★九。
問題は二点ある。まず浅田が指摘するように、飽和点は存在するのか。第二に、なぜ結果としての形態は説得力をもたないのか。第一点についてアイゼンマンは、「『この機械はどうして止まるの?』などと建築家に聞いてはいけない。止まらなかったら建築じゃない」★一〇と答える。「究極的には建築とはいつ停止するかを知ることです」★一一と考える彼は、建築家が〈正しい瞬間〉に停止したかどうか、それが問題なのだという。しかし、では、それが正しいか否かを誰が決定するのか。アイゼンマンは、飽和点の存在するものが建築であると定義し、さらに本質からして正しい解が存在すると仮定することによって、浅田の問いに正面から答えることを回避するとともに、自らが建築機械によって提示したヴァーチュアルなものの位相を裏切っているように見える。第二の点に関して、浅田は次のようにいう。
今日のコンピュータ志向の建築において最も問題なのは、それらはコンピュータのディスプレイで美しい形態を限りなく変容させているけれど、どう停止し、いつフリーズし、いつイメージを具体化するかがわかっていないということです。その点でピーターはまったく正しい。いつ停止しなければならないかを知らなければいけない。けれども、そこでの判断基準はかなり恣意的に見えます★一二。
恣意的に見えるがゆえに、それは説得力をもたない。これに対してアイゼンマンが「それがなぜいけないのかね?」と答えているのはある意味でもっともなことだ。なぜなら彼は実のところ(健全にも)、最終的な恣意的決定権をあくまで建築家という存在にゆだねているからだ。建築家の行なう決定こそが絶対的に正しい。その正しさは根拠をもたない。建築家によって決定がなされたというそのこと、その事実の効果として決定の正しさが保証されるのである。しかしながら問題なのは、アイゼンマンの建築機械そのものが、飽和点の自然生成とその結果の正当性を強固な前提条件とすることによって、このような建築家の機能を放棄するかのような身ぶりで、ヴァーチュアルなものをめぐるある種のイデオロギー的布置を受け入れてしまっている点である。
ではなぜ、建築機械が停止した結果としての形態は説得力をもたなかったのか。ヴァーチュアルなものは多様性の生産と関連づけられており、絶え間ない変化を要請する。この場合、停止の問題は無限の選択可能性のなかからの選択という問題に置き換えられる。この膨大な選択可能性に直面した主体は、無数の他の選択肢ではなく、なぜ他でもない〈これ〉を選ばなければならないのか、という理由を見出すことができない。その結果として、どれを選んだとしても、もっと別のよりよい選択があったのではないかと思われてしまう。ここで主体が陥るのは、無限の選択肢の存在による欲望の閉塞状況なのだ★一三。どのような選択もそこでは原理的に失敗するべく定められている。コンピュータ・ディスプレイ内で形態を限りなく変容させ続けるプロセスは、こうした意味において、どれかひとつの形態の選択を遅延させることによって、無限の選択可能性のなかにたゆたっていたいという、想像的なものに固着したナルシシズム的な逡巡であるともいえる。ヴァーチュアルなものをめぐる社会的幻想が、このようなナルシシズム的な経済のもとにあるのだとすれば、どのような決定も恣意的に見えるしかない。
リベスキンドの建築機械もまた、始まりもなく終わりもない形態生成の機械的表象として、もっとも開かれているように見えながら、実はナルシシズム的に閉じたものだ。「このモデルが表わしているのは、特定の瞬間における仮定的可能性である。だが特定の瞬間は存在しないのだ」★一四とリベスキンドはいう。なるほどヴァーチュアル・ハウスの寓意的表現として、それは実に見事なものには違いない。しかし、浅田が指摘するように★一五、この機械の中心を占める空(リベスキンドはそれを「不在の中心、ヴァーチュアルなものについての実在しないリアリティ。ヴァーチュアルでありつづける」★一六という)は、機械の同心円的構造を自らの周りに吸引し、それらを決して離散させない。そこに否定神学的なものを認めないわけにはいかないだろう。リベスキンドの次のようなテクストも同じ印象を抱かせる。
a. このテクストは、イメージをもたないものとは別のものである──すなわちヴァーチュアルなもの
b. このイメージは、テクストをもたないものとは別のものである──すなわちヴァーチュアルなもの
c. ヴァーチュアル・イメージ以外に名前はない
d. ヴァーチュアル・テクスト以外に名前はない
e. ヴァーチュアルな実体は余すところなく書かれている
f. その名前は真実のものとして想定されてい
る★一七
このうち一種の二重否定表現をとっているa〜dをそれぞれ、「このテクストはイメージをもつものである──すなわちヴァーチュアルなもの」「このイメージは、テクストをもつものである──すなわちヴァーチュアルなもの」「ヴァーチュアル・イメージが名前である」「ヴァーチュアル・テクストが名前である」などと書き直してしまっては、リベスキンドにとってのヴァーチュアルなものの含意は失われてしまう。テクストやイメージの同一性そのものがここでは、「〜をもたないものとは別のもの(〜other than no〜)」という否定表現による、ある種の外部的領域への迂回を経なければ定義されないのである。なぜなら、この迂回こそが〈ヴァーチュアルなもの〉だからだ。これもまた、ヴァーチュアルという概念に関する優れた洞察ではあるが、否定辞によって指示される〈不在の中心〉がここでも仮定されているように思われてならない。
飽和点の存在とその正当性をめぐる議論においては、停止点決定の審級が建築機械の次元に、具体的にはコンピュータに求められている。無限の選択可能性という実際上の選択不可能性を避けるために、そこでは最適解を決定する機構のプログラミングが夢見られている。とするならば、ヴァーチュアル・ハウスの設計競技が、図らずも明らかにしているのは、決定の審級に位置することを回避しようとする建築家の隠された欲望ではないのだろうか。あるいはそれは、アイゼンマンにおけるように、決定を独占する主権者としての建築家という存在を隠蔽する偽装工作なのだろうか。
これは政治的な問題とならざるをえない。ヘルツォーク&ド・ムーロンによるインターネット上にサイトを開設する提案は、それ自体としては興味を引くものではまったくないが、この設計競技のこうした問題点にはある程度自覚的であったようだ。彼らは「われわれのヴァーチュアル・ハウスとは、政治的声明なのである」と述べている。その政治性とは、「オープンエンドなコミュニケーション・システムを通じ、誰もがプロジェクトに書き込むことができる」★一八という、不特定多数の参加に基づく直接民主制的な決定プロセスの政治性である。この類の政治的な幻想は、インターネットをめぐって容易に蔓延する紋切り型ではある。いずれにせよ、彼らの場合も建築家自身の決定は相対化され、民主主義的な合意の自然生成がそこで期待されている。ヘルツォーク&ド・ムーロンの提案に限らず、この設計競技を支配しているものは、決定の審級を建築家をはじめとする単独の人格から切り離そうとする政治的プログラムへの志向なのである。
ヴァーチュアルなものをめぐる提案の多くが、このような幻想の構築へと向かうのは、先述したように、それが無限の選択可能性による欲望の閉塞化という、後期資本主義社会に特徴的な状況が顕著に表われるトピックであるからかもしれない。したがってそれは建築デザインに固有の問題ではなく、この社会の表象=代表制そのものの危機と関連していると考えるべきだろう。そして、これは〈政治的なもの〉それ自体の存否に関わる事柄である。
カール・シュミットによれば、主権者とは例外状態において決定を下す者である。この定義を解釈して落合仁司はそれを次のように言い換える。
決定とは何か。決定とは、可能なこと、出来ることからある出来事を選択すること、すなわち、可能なことをある出来事に限定することに他ならない。例外状況とは何か。例外状況とは、あらゆることが可能である状況、すなわち、可能なことが無限定である状況に他ならない。したがって、主権者とは、可能なことが無限である状況においてそれをある出来事に限定する者であることになる。言い換えれば、主権者とは、無限の権能を持って選択肢を限定する者なのである★一九。
無限の選択可能性が与えられた状態とはまさしくこうした例外状況である以上、ヴァーチュアル・ハウスが提起しているのは、シュミットがいうような意味での〈主権者〉は誰かという問いにほかならない。この「誰が決定するのか」という問いが、既存の規範の支配や非人格的な機械的プロセスに還元されることにシュミットは反対し、人格的な力という契機を強調する。つまり、決定が問題となる場合、その決定はつねに誰かが行なわなければならないのである。〈政治的なもの〉はこの人格的な決断という次元にしかない。議論による合意形成を優先して「誰が決定するのか」という問いから目を逸らさせ、法の支配の下に具体的な主権者が誰であるかを無視する市民的でリベラルな思考は、シュミットにとって、人間を非政治化するものであった。
シュミットの決断主義と政治神学にきわめて近いところに、一九二〇─三〇年代のミース・ファン・デル・ローエの〈建築神学〉が位置していたことは別の場所で論じた★二〇。ミースがそこで敵としたのは、機能主義という名の下に展開されていた、建築における決定の審級の非人格化である。シュミットやミースの決断主義の背後にあったのは、ワイマール民主主義という、それ自体が表象=代表制の機能障害と危機以外の何ものでもない政治体制であった。
主権者としての建築家が有する象徴的権威への信頼は、アイゼンマンの世代の建築家にはいまだ失われてはいない。ただし、リベスキンドの戦略はそこでも独特なものであって、シュミットに対する『ドイツ哀悼劇の根源』のベンヤミンのように、〈例外状態〉を破局の連鎖にほかならない歴史の〈常態〉としてとらえることにより、彼はそこで「決定それ自体に異議を申し立てている(決定に対する例外を手にしている)」(サミュエル・ウェーバー)★二一というべきであるのかもしれない。一方、ヘルツォーク&ド・ムーロン、あるいはザエラ=ポロといった建築家は、ナイーヴなポピュリスト、ないしは中立的なテクノクラートとして、もはや決定の審級を担うことを放棄しているように見える。
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1-3──ジャン・ヌーヴェル「ヴァーチュアル・ハウス」コンペ案
ANY, No.20, Anyone Corporation, 1997. より
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4-6──FOA/アレハンドロ・ザエラ=ポロ「ヴァーチュアル・ハウス」コンペ案
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7・8──アイゼンマン・アーキテクツ
「ヴァーチュアル・ハウス」コンペ案
ANY, No.20. より
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9-14──ダニエル・リベスキンド「ヴァーチュアル・ハウス」コンペ案
ANY, No.20. より
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15-18──ヘルツォーク&ド・ムーロン「ヴァーチュアル・ハウス」コンペ案
http://virtualhouse.ch/ より
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2:喪の建築/建築の喪
ヴァーチュアル・ハウスの設計競技はこうした点から、建築だけにとどまらない、ある種の社会的幻想を症候的に表わしているといえるのだが、さらに興味深いのは、浅田が伊東豊雄の提案について指摘している、アクチュアルな建築のヴァーチュアル化への衝迫である。伊東案は「アクチュアルに建てられいま壊されようとしている家を、なんとかしてヴァーチュアル化しスペクトル化=亡霊化しようとしている」★二二と浅田はいう。この言葉を受けてフォースターは次のように述べる。
そのことからまた別の側面について考えさせられます。非常に重大な意味で働いており、論点のいくつかにもっと因習的な外見をもたらすようなものです。何かに取り憑かれているという、昔から確立された、あきらかにアヴァンギャルドではない観念です。奇妙な考え方ですが、わたしはヴァーチュアル・ハウスとは、それ自身の他者に取り憑かれている家だと思うのです。それは
亡霊 的なものかもしれないし、過去の出来事の牢獄かもしれない。まだ起こっていない、現実化されていない、おそらく現実化されえないのできわめて長いこと取り憑くことになる何ものかに取り憑かれているのかもしれない★二三。
浅田やフォースターの発言のもととなった伊東のプレゼンテーションは、一九七六年に完成した《中野本町の家(ホワイトU)》が一九九七年に解体されるまでの記録であった。この住宅は、伊東の姉の後藤暢子とその二人の娘のために設計されており、その建設計画直前に、後藤は夫を癌で失っていた。こうした事情を背景に、伊東は次のように書いている。
家に戻った彼女たちは、空虚さを感じないではいられなかった。家族の一員の死に直面し、その空虚さを共有することで彼女たちは〈家族〉を強く意識するようになった。この意識を強化するため、彼女たちは新しい家を求めた。これを念頭に置くがゆえに、《ホワイトU》は強烈な場でなければならず、悲しみに沈む家族の精神的な錨でなければならなかった。言い換えると、隔絶したユートピアであらねばならなかったのだ★二四。
伊東はこの家が解体されたのちの三人にとって〈家〉とは何であろうか、と自問する。二四時間営業のコンビニの存在などによって家の役割そのものが変化した現在、ばらばらに離れて暮らすようになり、「生活が断片化されればされるほど、家族意識の共有を彼女たちはますます欲するようになる」と伊東はいう。そして、ヴァーチュアル・ハウスとは「三人がこの意識のなかで分かち合う場なのだろう」と想像し、この意味で中野本町の家は、すでに当初から家であると同時にヴァーチュアル・ハウスでもあるという矛盾を抱えていたのだ、と述べる。だからこそ、「この家が解体されたいまようやく、ヴァーチュアル・ハウスは純粋で自由な空間として存在することができる」★二五と伊東は主張する。
浅田が注目しているのは、ここで最後に示されているような認識である。壊されつつあるアクチュアルな家からリング状のヴァーチュアル・ハウスが解放され飛び立つという伊東のイメージをとらえて、浅田は伊東の認識とは逆に、「彼がアクチュアルに建てた最初の家のほうがヴァーチュアル・ハウスだ」★二六と指摘する。
言い換えればそれは、伊東がいう〈矛盾〉にこそヴァーチュアルなものがあったということではないだろうか。そして、その矛盾は必ずしもリアルな家とヴァーチュアルな〈家族意識〉の対立なのではない。矛盾、あるいは二重性のほかに、ヴァーチュアルなものはない。こうした意味において、フォースターがいうように、「ヴァーチュアル・ハウスとは、それ自身の他者に取り憑かれている家」なのである。
フォースターは、伊東の家は偶然にヴァーチュアル・ハウスとなったものであり、他の建築家がさまざまなプロジェクトによって現実化しようとしたこの次元を、それは実際に存在する建築のなかに、事後的に生じたものとして発見したのだという。この性質は「運命に属すものであって、この運命は家の特質にとって本質的なものではなく、住人の運命と結びついている。あたかも、家がその住人と同じ影響をこうむるのみであるかのようです」★二七。
しかし、それは家にとってもまたひとつの〈運命〉だったのではないだろうか。この運命と切り離された〈家の特質〉が、それ自体として存在するものだろうか。中野本町の家が示しているのは、家そのものが「他者に取り憑かれた」二重性と矛盾においてしか存在しないという、この逃れがたい運命ではないだろうか。伊東は姉たちへのインタヴューをまとめた書物『中野本町の家』に「住宅の死をめぐって」という文章を収めている。家もまた死ぬのだ。そしてこの家の場合、その死は、住人たちの「もはやここに住むことはできない」という決断の結果としてもたらされている。後藤は回顧してこう述べている。
二〇年前、設計者とあれほど親密なコミュニケーションを交わしながら、自分の精神状況までさらけ出し、それを受けとめて、一個の家を建てて欲しいと働きかけ、そうしてあの家が実現しました。そしていま、ひとつの時代が〈住む〉人間の側において終わって、誰もいなくなって、住宅が、住宅としての生命を終わろうとしている……★二八。
ここで彼女がいう〈ひとつの時代〉がある意味で長い〈喪の仕事〉の時間であったのだとすれば、その仕事のために必要とされた家は、この時代が終わったのち、もはや住み得ない場所となった。では、この喪の時間に、中野本町の家というヴァーチュアル・ハウスに取り憑いていた〈他者〉とは何だったのか。伊東は家におけるヴァーチュアルなものを「現実の社会で多くの住まい手が求める家の象徴的働き」★二九とするが、このようにとらえてしまうとき、〈他者〉は建築が担うべき機能の問題へと回収されてしまう。家がそのように同化したり、宥和的な関係を結べない対象こそが〈他者〉ではないか。とすれば、この家にとってのそんな非調和的〈他者〉とは何か。答えは実はインタヴューのなかに示されている。それは〈墓石〉である、と。長女の後藤幸子はこう語っている。
これはとてもリアルな表現かもしれませんが、なんというか、〈墓石〉みたいな感じがするのです。未亡人になった女性がその時点で個人に戻り、ひとりの女として人生を新しくはじめたいと思うのはごく自然なことではないでしょうか。わたしでもきっとそう思うとおもいます。ところが小さい子供がいるとなると、そのような気持ちも抑えなければなりません。母であり家庭の人であるということに自分の人生を統合した、というふうに理解しました。そのときわたしにはこれが〈墓石〉みたいに思えたのです★三〇。
それは彼女にとって必ずしも父の死と結びついたイメージではなかった。ひとりの女性が女としての生き方をここに〈埋葬した〉という意識が、それを〈墓石〉と思わせている。後藤幸子にとってこの墓石は「心のずっと深いところにあって、ふだんの暮らしのなかでは意識に昇らないような部分」★三一の表現であるという。「このようにして、わたしのなかではこれがひとつの死……この場合はあり得たかもしれないもうひとりの自分の死ということですが、とにかく非常にマイナスのイメージとして定着し始めたのです」★三二。それが墓石であるのは、「あり得たかもしれないもうひとりの自分の死」を告げる存在としてである。あり得たかもしれない自分、しかし、それは現実には実現できなかった自分の、死んだ可能性にほかならない。この家の〈他者〉とは、「あり得たかもしれない」という形において、過去における未来として現われる〈もうひとりの自分〉の墓なのである。
中野本町の家の〈矛盾〉は、家と墓との二面性にあった。家にとっては墓が他者であり、墓にとっては家が他者である。墓石にして家という衝撃的な二重像。この両極的な建築形式の共存のなかに、この家における幽霊的でヴァーチュアルなものがある。そして、異常な強度をもつそのような共存状態をもたらしたのは、この家が喪の仕事の場であったという偶然的な運命であり、伊東は〈住宅の死〉に対するもうひとつの喪の仕事を行なうことによって、第一の喪の終わりを記録しつつ、それをヴァーチュアル・ハウスのプレゼンテーションとしたのである。ここではいわば喪が二重化している。「アクチュアルに建てられいま壊されようとしている家を、なんとかしてヴァーチュアル化しスペクトル化=亡霊化しようとしている」伊東のふるまいは、そんな喪の所作であろうが、ヴァーチュアルなもの、あるいは亡霊的なものは、伊東が願うような、破壊された家から解放されて飛び立つリング状の〈家族意識〉のイメージや〈家の象徴的働き〉にはない。それがあるとしたら、この家が喪の仕事との関係のなかに置かれることで帯びてしまった、墓石という性格との矛盾のなかにしかない。
そして、もしそうだとすれば、この場合に限られることなく、ヴァーチュアル・ハウスが取り憑かれている他者とは、何ものかの墓なのではないか。住むことが同時に埋葬されることであるというこの二重性ゆえに、ヴァーチュアル・ハウスの設計条件は、あたかも無名の家族を埋葬する墓のそれであるかのように見え、無気味なものに思われたのかもしれない。ヴァーチュアルなものは、何ものかの喪においてのみ、家の運命として立ち現われる。この設計競技はそんな喪のあり方を問うものであったのだといえはしないか。
しかし、そこでは誰が、あるいは何が喪の対象となっているのか、何が喪われたのか。伊東案が二重の喪であったように、家はそれ自身の喪失(解体と破壊)においてはじめて、遡行的に、かつてすでにヴァーチュアル・ハウスであったものへと変貌している。だからそれはいわば、それ自身の墓石であったということもできるのではないか。アクチュアルな建築をヴァーチュアル化しようとする強い衝迫は、建築の死というこの外傷的な出来事に対する反応ではないだろうか。伊東の提案が他のどの提案よりもはるかに深い強度をもち得たのは、建築が共通に経験している自らの喪失を、二重の喪という寓意的な形で提示していたからではなかっただろうか。
伊東は、中野本町の家が明け渡し後、廃屋として数カ月の間は存続するという見込みとは異なり、半月も経たないうちに跡形をとどめない姿となった事実に、ひどい衝撃を受けたという。自ら設計した建築が眼前で解体され、瓦礫と化していく過程を茫然と見つめながら、そこに「淋しいとか無念とか、空虚なといった感情」はほとんど起こらなかった、と伊東は書いている。この事態を引き起こしているのは、「そうした個人的な感情を超えたもっと大きな何か」であると思われたからである。しかしそれは決して草木が枯れて自然に還っていくような流転のプロセスに働いている力ではない。この抗い難い力を伊東は「水気を喪った都市空間の内でのみ起こりうる乾き切った破壊力」と呼んでいる。
恐らくこの破壊の後には、一年もしないうちにまたコンクリートの建造物が数倍のヴォリュームで土地を埋め尽くすことになるでしょう。雑草が蔓るような凄まじい勢いで醜悪なコンクリートの塊が立ち上がってゆくに違いありません。土を奪い緑を奪いながら繰り返される破壊と増殖、その醜悪化の過程こそがこの都市に内包されたエネルギーと呼びうるものなのか、そんなことを想いながら白い粉塵を見つめていました★三三。
そこには東京という都市に典型的な形で表われている〈醜悪化〉の力の支配がある。しかしこのような破壊は多くの建築にとっても避けることのできないものであり、墓石の永遠性は実はどこにも保証されていない。そして、自らの建築の死を決定できる建築家はほとんど存在しない。恒久的なこの〈乾き切った破壊力〉に直面して、設計行為における建築家の〈決定〉は醜悪でもある〈増殖〉のために必要とされると同時に、何ら効力をもたないものと化してしまう。まさしくいわば例外状態が常態であるために、決定は避けられないにもかかわらず、それは何ものも変えはしない。決定は実質的に無力化される。ヴァーチュアル・ハウスの設計競技にたれこめているナルシシズム的な幻想が呈する逡巡としての決定不能性とは、抗し難い醜悪化の力に対する建築のこの無力な決定不能性の陰画のようにも見える。
ヴァーチュアル・ハウスのさまざまなプロジェクトが、コンピュータ・グラッフィクスのような「想像的な錯覚の遊戯」に陥ることなく、「ヴァーチュアルなものとリアルなものを交錯させるという困難な課題」★三四に取り組んだ稀有な業績であることは、浅田が指摘している通りである。しかし、そのプレゼンテーションは、ライクマンのテクストの語調とは大きく異なり、家の喪失あるいは建築の喪失に対する喪の儀式の上演にも似たものになってしまっている。建築機械から生成する多様な形象は生まれでることをためらっている胎児の夢であるのかもしれないが、それはここで突如として建築の死後の幽霊たちの世界へと反転している。「水気を喪った都市空間の内でのみ起こりうる乾き切った破壊力」が廃墟を、というよりも廃墟にすらなりえなかったものの粉塵を堆積させていくかたわらで、そんな建築の死は喪の仕事(Trauerarbeit)を通じて弔われることのないまま、ヴァーチュアルなものをめぐる喪の演劇=哀悼劇(Trauerspiel)が上演されている。家にして墓石、生まれでることを夢見る胎児にして死霊というこの両義性において、ヴァーチュアル・ハウスは、建築の〈新しい〉可能性であるどころか、没落過程にある建築の、干涸らびて謎めいた寓意として読み解かれるべきものであるのかもしれない。
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19-21──伊東豊雄《中野本町の家(ホワイトU)》
ANY, No.20. より
22──伊東豊雄
《中野本町の家(ホワイトU)》内部
ANY, No.20. より
23──同内部 写真=大橋富夫
伊東豊雄『中野本町の家』
(住まいの図書館出版局、1998)より
24──解体中の《中野本町の家》
写真=伊東豊雄建築設計事務所 『中野本町の家』より
25──ヴィクトル・ユゴー《幻影の家》(1866)
★一──五十嵐太郎「軽くないヴァーチュアル・ハウス」、『InterCommunication』二四号(NTT出版、一九九八)所収、五一頁。
★二──ジョン・ライクマン「ヴァーチュアル・ハウス──ある説明文」篠儀直子訳、同、一八頁。
★三──同。
★四──「ディスカッション」より、同、四九頁。
★五──同、四一頁。
★六──建築に対するライクマンのアプローチそれ自体が実りのないものであるとは考えない。Anyコンファレンスなどにおける哲学と建築とのすれ違いは、その幸福な出会いよりもはるかに、ドゥルーズ的な意味でヴァーチュアルな拷問的問いとなっているように思われる。これに対して、建築論、都市論の〈言説〉を対象に、それを例えば〈病理的ゲーム〉などと呼んでみせるメタ批評(一例として、大島哲蔵「隠喩としてのテクスト──多木浩二の病理的ゲーム」、『10+1』No.12所収)は、事情通めいた婉曲表現とともに、そのシニカルな身ぶりを含めて、きわめてナルシシズム的かつイデオロギー的であるといわざるを得ない。カタログ的なメタ批評は所詮、共同体(建築〈批評〉業界)内のゲームにすぎない。そのシニカルなゲームが仮定している対象との距離は実際には無であり、メタ批評は対象とする言説との不毛な想像的同一化を、それこそ〈病理的〉に反復するばかりだ。
★七──ライクマン、前掲論文、同、一八頁。
★八──アイゼンマン・アーキテクツ「ヴァーチュアルなもの──建築における
★九──「ディスカッション」四五頁。
★一〇──同、四七頁。
★一一──同、四八頁。
★一二──同。
★一三──この閉塞状況に関してジジェクは、「〈主人〉の機能が現代の西洋社会において低下しているために、その社会に生きる主体は、自分の欲望に関する
「われわれが本当に欲しているのは何であるのかを教えてくれる者が誰もいないとき、何を選ぶかはすべてわれわれしだいであるというときにこそ、大文字の〈他者〉がわれわれを完全に支配し、自由に選べるかのような見かけとは裏腹に、選択の余地が事実上なくなってしまうのである。ドストエフスキーの言葉を逆転させた、ラカンの有名な格言(「もしも神が存在しないなら、許されるものは何もなくなる」)をここで言い換えると次のようになる。もしも、強制的な選択が自由な選択の幅を制限していないなら、選択の自由そのものが消えてなくなる、と」(スラヴォイ・ジジェク「サイバースペース、あるいは存在の耐えられない閉塞」鈴木英明訳、『批評空間』第II期一六号、太田出版、一九九七、八九頁)。
ジジェクはまた、コンピュータの文書が〈草稿〉と〈最終決定稿〉との違いをなくしてしまいかねないゆえに、テクストは無限に修正可能となり、どの段階においても「〈
★一四──ダニエル・リベスキンド「ヴァーチュアル・インフィニティ」篠儀直子訳、『InterCommunication』二四号、三八頁。
★一五──「ディスカッション」四六─四七頁。
★一六──リベスキンド、前掲論文、三九頁。
★一七──同。
★一八──ヘルツォーク&ド・ムーロン「http://virtualhouse.ch」篠儀直子訳、同、三六頁。
★一九──落合仁司「カール・シュミットとヨーロッパ共同体」、『現代思想』(青土社、一九九二年一二月号)所収、七八頁。
★二〇──次を参照。拙論「腐敗と決断──ミース・ファン・デル・ローエの戦場四」、『建築文化』(彰国社、一九九七年、六一三号)所収、一四五─一五二頁。
★二一──サミュエル・ウェーバー(大久保譲訳)「決定に異議を申し立てる──ヴァルター・ベンヤミンとカール・シュミットの演劇」、『批評空間』第II期二号(一九九四)所収、一一七頁。ウェーバーがここで指摘しているように、シュミットにとって美的形象は、決定を知らないがゆえに、法や政治の対極に位置するものだった。しかし一面でその主権の理論は、カントの『判断力批判』における美的判断(反省的判断)のアポリア(規則も規範も法もないところで下される決定のアポリア)とほぼ同形的である。アイゼンマンが「美学的判断基準をわれわれはみんな逃れようとしている」(「ディスカッション」四八頁)というとき、そこで回避され、ないし隠蔽されるのはこのアポリアにほかならない。
★二二──「ディスカッション」四九頁。
★二三──同。このような意味でヴァーチュアル・ハウスは、アンソニー・ヴィドラーがたどっている〈無気味な家(Unhomely Houses)〉の系譜に属する。次を参照。
Anthony Vidler: The Architectural Uncanny. Essays in the Modern Unhomely. The MIT Press, Cambridge, Mass. 1992, pp.17-44.
★二四──伊東豊雄「ホワイトU」篠儀直子訳、『Inter Communication』二四号、二三頁。
★二五──同、二四頁。
★二六──「ディスカッション」四二頁。
★二七──同。
★二八──インタヴューより。後藤暢子・後藤幸子・後藤文子・伊東豊雄『中野本町の家』(住まいの図書館出版局、一九九八)四五─四六頁。
★二九──伊東豊雄「住宅の死をめぐって」、『中野本町の家』、Appendix 四一頁。
★三〇──インタヴューより。同、六二頁。
★三一──同、六四頁。
★三二──同、六六頁。
★三三──伊東、「住宅の死をめぐって」、Appendix 三─四頁。
★三四──「ディスカッション」四二頁。