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「場所」の変幻 | 金森修
Metamorphosis of "place" | Kanamori Osamu
掲載『10+1』 No.26 (都市集住スタディ, 2002年01月発行) pp.22-24

1 空間から「場所」へ

非常に多くのエコロジー的思想が、グローバルな単一文化の蔓延を嫌った。どこに行っても同じような味付けのものを食べ、同じような衣服を身に纏い、同じようなアクセントで話し、同じような話題に興じる人々。もちろんそれをただ否定的にだけ捉えるのは適当ではない。いままで見たこともないような果物を味わい、どれを選んでいいかわからないほど大量の商品の前でしばしたたずむというのも、なかなか楽しい経験だ。グローバリゼーションの世界のなかで、人はこれまでにないくらいに大規模で頻繁な旅行をし、違う施設に身を置き、多くの組織と出会う。インターネットのチャットは、この流動的で匿名的な人間関係を端的に象徴するものだ。そこでは、多様な世界に見合うような多様なペルソナが形成される。人は、自分のなかで増殖するペルソナの群にためらいながらも、自ら新鮮な驚きを味わう。
だが、エコロジー的な感性は、その増殖するペルソナのなかに、統合よりは分断を見てとり、収斂よりは分裂を感じ取った。実は中年男性なのに、チャットで若い女を演じる人は、確かに自己の技巧的な複層化を楽しむことができる。だが続ければ続けるほど、それはやがて苦痛になり、自分でも事態を収拾することがおぼつかなくなる。人は、しょせん、誰にでもなりうるような匿名の存在ではない。それと同様に、人はどこにでも汎在するような仕方でこの世界のなかに存在するのではない。人はやはり、どこかに住み着き、その近隣環境を通して自己を磨き上げていく。グローバリゼーションの世界のなかでも、それは根元的な事実であり続ける。
その文脈のなかで、何人かのエコロジストたちは抽象的な空間(space)ではなく、子供の頃から馴染みをもち、実際の生活を繰り広げる周囲環境のことを「場所」(place)★一と呼んで、ある特定の「場所の感覚」を磨くことのなかに、エコロジカルな感性の発現を見て取ろうとした。均質なニュートン物理的空間でも、ベクトル空間や位相空間のような数学的空間でもない、具象的生活の空間だ。どこから見たのでもない、眼差しをもたない空間ではなく、あくまでもどこか特定の場所から見たパースペクティヴ。その根元的な感覚に根ざして初めて大地との繋がりを保つことができる。そのように考える一群の人々は多様な思想を展開したが、そのなかのかなりの人々は自分たちの思想をバイオレジョナリズム(bioregionalism)という名前で呼んだ★二。
元を辿れば六〇年代のカウンターカルチャーとも関係をもつバイオレジョナリズムは、事柄の本質として脱中心的で、単一の学説に収斂するような構造をもたないので、その包括的定義を与えることは不可能である。機械文明の邁進と、それに並行して否定しがたく進行していた大規模環境破壊とに焦燥感を募らせ、なにか別の文化や社会のあり方はないかと真剣に模索した多くの人々のなかから、その思想は徐々に姿を現わした。その史的軌跡を辿るには、何人かの人物に焦点をあてるのが適当だ。
まず、ゲリー・スナイダーに言及しよう★三。彼はピュリッツァー賞を受賞した高名な詩人で、詩的薫りに溢れる散文のなかで音楽、瞑想、数学、山登りなどの内在的な価値を説いた。彼自身、カリフォルニア州のシエラネヴァダ山脈で長く過ごし、「場所」感覚の錬磨に意を注いだ。その後、カリフォルニア州はバイオレジョナリズムにとって特権的な地域になる。次にピーター・バーグが忘れがたい存在だ★四。実験演劇や大道芸人などの経験を経て、六五年から一年半ほど、いまや伝説的になった一群の小文をサンフランシスコ近隣のブロードサイド印刷物に書き散らす★五。そして七〇年代にはプラネット・ドラム財団を作り、バイオレジョナリズムの普及に多大の貢献をする。
彼らの努力のおかげで、この思想は七〇年代終盤にはかなり有名なものになり、八四年以降、北米バイオレジョナリズム会議が何度も開かれるなどして、活動全体の規模も大きくなった。また八五年に有名な文化史家セールが『土地に住む人』★六を公刊するに及び、この運動は大衆的な名声も勝ちえることができた。そのなかでセールは、自分が住んでいる「場所」の感覚を磨くということは、自分の足下の土や岩の性質を知り、飲料水の起源を知り、風の意味を探り、普段見かける昆虫や、鳥、植物のことを知るということだ、と述べた。同時にそれは一種の反近代主義として、民間伝承、薬草医学、伝統知などの重視となっても発現する。地域のことを知るということ、それは飛行機のような俯瞰的な視線で自分が触れるものの傍らを通過するだけではなく、実際に歩き回り自分の足でその土地の風土的特性を確かめ、人々の生活と土地との結びつきを見極めることだ。それは抽象的なコスモポリタンを遠ざけ、まさに「土地に住む人」たらんと欲する。その場合、自己充足的で脱中心的なコミュニティが重視される。もちろん、そのコミュニティの大きさは区切り方によって変わってくる。ある場合には広大な川の流域全体、ある場合には近接した森林の周辺というように、面積は切り取りの水準によって変わる。ただ確かに言えることは、それは行政上の郡や市、町といった区切り方には汚染されていないということだ。水の多い場所ではこのように、風の強い場所ではあのように、という風に、それぞれの地域に見合ったかたちで生きること。それこそが「場所」の特性を最大限に引き出すことであり、それは同時に自分のなかに眠る潜在的な長所を最大限に発揮することでもある。バイオレジョナリズムを奉じる人々は、そう考えた。バイオレジョナリズムは、環境破壊への危機感や大都市中心的な文明への反発として、一種の地域回帰主義、神秘的宗教感の覚醒などを重視する思想だった。それは、代表的なエコロジー思想、ディープエコロジーとも連携し、一部融合しながら、現在に至っている。
バイオレジョナリズムの本質は、それが人間にとって有意味でありうる空間を積極的に限定するというところにある。正しく行為できるのは、ある対象と自分とがある程度直接的な関係をもてるような範囲に限られる。だが、ここで直ちに疑問がわき起こる。いったい、その「直接性」はどの程度の広がりにまで適用される形容なのか。「場所」がひとつの「場所」として有意味なまとまりをもちうるのは、それがどの程度の広さにまで留まるときなのか。これは当然の問いだが、この問題系にとっておそらくあまり生産的な問いではない。例えば景観や風景という概念がある。地帯や地方という概念がある。山の多い景観というとき、いったいどの程度の山岳が続けばそれを「山が多い」と形容できるのか、と問う問いかけは、山が多い、山が少ない、山の多少という形容とは無関係という、異なるカテゴリー間の境界を問うものだ。だが、仮にその境界を何らかの「客観的指標」で確定しようとしたとしても、その結果は平凡または惨憺たるものになるだろう。この種の概念の外延は本性的に曖昧で流動的なのだ。そして「場所」も、本性的な曖昧さを抱え込む。
にもかかわらず、人は「場所」のなかで生き、「場所」に住み着くと語ることが無意味になることはない。われわれは、どこかある特徴をもった「場所」のなかで息をしている。
ここで、次の問いがたてられる。「場所」もバイオレジョナリズムも、基本的には強い風土性を背景にした田園的文脈のなかで作動してきた概念だ。それがコスモポリタニズムを嫌うということに端的に象徴されるように、この種の発想を都市と連接させることは可能なのか、と。

2 都市の「場所」

都市に「場所」はあるのか。いや、この問いでは駄目だ。「場所」一般の特性を語るという発想は、そもそも「場所」にはそぐわない。だからこう言い換えねばならない。ある個別の都会のなかで幾つかの「場所」が成立しているとき、それはどんな時なのか。
まず、俯瞰や鳥瞰によって自分の居所を定位する、という習慣から離れよう。そのとき、例えばいま現在、府中市の北西部にいる、といった類の言表が頭から抜け落ちていく。そして目の前でくねる道路、途中で行き止まりになる路地、広く騒音でうるさい大通りなどの筋目のなかに自分を投げ込んでみる。その場合、「場所」への覚醒にとって、非歴史的で人工的な都市計画をもつ、例えば札幌のような街は不利に働く。道路は碁盤の目であまりに合理的であり、俯瞰的視座を避けようと思っても、目的地に至るまでに、つい目を空中に投げ出してしまいがちだ。だから、古くからある町、至るところが路地や小道で一杯の町こそが、より「場所」的な都市空間であることは間違いない。
目的地の方向を俯瞰的に見るのを放擲したとき、くねくね曲がり、至るところが袋小路になっている一画は、道を見失うのには最適なところだ。そのとき、目的地は現時点から見て例えば南西方向に、直線にして二キロ、というような意味づけではなく、あの道を通って次の路地を避け、次にあの小道を道沿いに……という意味づけの彼方にようやく姿を現わすどこか、になる。慣れていない場合、ひとつか二つ小道を読み間違って、また一〇〇メートルほど戻るなどということは日常茶飯事だ。そして、その時に初めて、その錯綜した道と路地の顔がはっきりと自己主張を始める。やたらににぎやかな商店街、少し暗い果樹園の傍、舗装もないような泥臭い小道、汚いシミだらけの壁がある路地、などというように。目的地をかろうじて頭の隅に入れたまま、それに向かって進んでいるはずのこの身体は、途中の「場所」が見せる微細な肌理に目を奪われ、目的地の合目的性を失いかける。立ち止まり、入らなくてもいい店に入り、店前で退屈そうな顔をしている店の主人をちらりと見やる。直線にすれば二キロほどの距離が、こうして三キロ以上もの道程になって、私を翻弄する。だが、そのなかで私はまさに「場所の感覚」を味わっている。
バイオレジョナリズムは、グローバリゼーションの「場所」喪失を嫌って、どこかに根づく「場所」を欲した。だが、奇妙なことに、都会のなかでの「場所」的な空間は、明確な土着感、安定的な定位感覚を一時失いかけるような錯綜した一帯として姿を現わすように見える。ごちゃごちゃとした路地や道のくねり。都会の「場所」は、反都会としての田園がもつそれのような安定性をもたず、自己喪失の疑似体験を絶えず潜ませる不可思議な脱自性を帯びている。だが、都市に生きる者はまさにその脱自的な感覚を求めて、「場所」のなかに飛び込んでいく。車で通過するだけの人間には決して体験できない浮遊体験をあからさまに提示する「場所」的な一画。それは、エコロジーの文法を逆手にとって迷いと離散の住処を都市の内部に顕現せしめる現代人の風土性だ。その意味では、バイオレジョナリズムの「場所」論は、神秘主義やロマン主義の伝統への寄りかかりが強すぎて、今ひとつ斬新さがない。都会の緊張に疲れ「場所」を求めて故郷に帰る、などという絵柄が、どこか決定的な陳腐さを帯びてしまうような都会。そんな都会を、実は都会に住む多くの人間が求めている。
君よ。「場所」を探したいのなら、むしろ、どこか都会の片隅で探せ。それは都会のなかに潜む風土性の変装でも、過去の残滓でもない。むしろ、浮遊感覚という非「場所」的な感覚を抱え込むほどに変貌し、変幻していった特定の一画であり、そのなかでは、エコロジーにも、機能的な都市空間にも、そのいずれにも覆い尽くせない新しい経験が生成している。別にバイオレジョナリズムを蔑視するつもりはない。非都会の空間で依然として本質的な魅力を発揮するその思想が、今後も展開していってくれることを私は望んでいる。だが、それが「非対象」として周辺化してしまう都会のなかで長らく育ってきた私のような人間は、「場所」をそのまま都会に移動させるのではなく、その「場所」でさえ分節し直してしまうようなパワーをもつ都会を夢想したいのだ。それは、コンクリートのなかに土の隠喩を探し回ることではない。都会、という空間のなかで、土ほどに魅惑的なイメージを放つ何か別個の価値を探し回ること。私が先に触れた事例からは、どこかヨーロッパの旧市街風の、雑多な空間をイメージしたかもしれない。だがそれはほんの一例、わかりやすい代表例であるにすぎない。都市のなかで「場所の感覚」を磨くこと。この課題に向けて、また町に出よう。機能的な人工空間の亀裂、それも実に意味ある亀裂を目指して、心と体を張りつめ、息を凝らしながら。


★一──ここでは一貫して、ある特殊なニュアンスをもつ言葉として場所という言葉を使うとき、それを「場所」と表記することにする。
★二──cf. Michael Vincent McGinnis, Bioregionalism, Routledge, 1999.
★三──例えば次の文献を参照されたい。Gary Snyder, Turtle Island, New Directions Books, 1974. The Old Ways, City Lights Books, 1977. Axe Handles, North Point Press, 1983. The Practice of the Wild, North Point Press, 1990.
★四──次の文献を参照せよ。Peter Berg ed., Reinhabiting a Separate Country, Planet Drum Books, 1978. Discovering Your Life-Place, Planet Drum Books, 1995.
★五──いわゆるDigger Papersである。それは当時のヒッピー文化の心象を代表するものだった。
★六──Kirkpatrick Sale, Dwellers in the Land, Sierra Club Books, 1985.

>金森修(カナモリ・オサム)

1954年生
東京大学大学院教育学研究科教授。哲学。

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特集=都市集住スタディ

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