カルロ・ギンズブルグ
一九七三年にジョセフ・リクワートが『アダムの家』を著わしたとき、イギリス建築史学会の重鎮E・H・ゴンブリッチは、その書のタイトルが「天国の家」であるのにかかわらず実際は「地上の家」を扱うものだったことを揶揄した。そして、その論理が推測によって異なる文脈にあるものを連結することで成り立っており、歴史を「客観的」体系として語っていないこと、「人類学」に偏っていることを指摘して、建築史とは認めがたいうえに「論争的」で「学術的」ではないと批判したそうである。しかし、史実を記述する行為・記述する人間の認識自体が、時代と地域とに枠付けられているのは明らかである。だとしたら、過去の文献を推測や解釈なしに理解することは、そもそも不可能なのではないだろうか。さらに、フッサールの現象学に見るように、〈明らかな事象〉とされるものの自明性が問われるべきだということを認めるならば、その〈事象〉の意味や背後の文脈・連携の理解そのものが、まさにアナロジカルな想像による行為だということになる。人間の生活する空間を主体として建築を考える立場に、人類学的な視点は必須なはずである。歴史は客観的・体系的な記述のみが目的で、それが指し示すものについての多様な解釈が導く「論争」は、否定的なものでしかないのだろうか。今となってみれば、ゴンブリッチの批判は歴史的論考の新たな可能性を閉ざすものだったとしか思えないのである。
しかし、上記のゴンブリッチの批判は、建築史の外では、六〇年代にはフランスの社会科学の方法や理論を用いたアナール派によって、史料実証主義に対する〈新しい歴史学〉のあり方としてすでに乗り超えられていた。アナール派の特徴は第一に総合的視点を求める全体史、第二に学際性、第三に史料革命として非記述史料も利用し数量化の手法や心性領域も対象にすること、第四に複数の時間系列によって対象の立体的構造把握を可能にした構造史、第五に問題史として現在の問題関心によって歴史を再構成することで成り立つとされている。そしてさらに七〇年代からは、イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグによって、アナール派の社会科学的アプローチ特に構造・機能主義的な数量史に対する批判として、ミクロヒストリアの理念が展開されている。
ミクロヒストリアの特徴は、ギンズブルグの『チーズとうじ虫』に見られるような〈徴候解読的〉な微視的テクスト読解による歴史記述の方法である★一。彼は、異端裁判の記録の微細なずれに注目し、メノッキオという一六世紀末の粉挽屋の精神世界を通して、キリスト教的世界観の底にある異質な民衆文化の世界を明らかにしようとする。ギンズブルグはその序文でヴィトゲンシュタインによる「フレイザーの『金枝篇』についての所見」を引用する。「歴史的説明、発展という仮説を用いた説明にしたところで、それはあくまでデータをまとめるひとつのしかた──それらのシノプシス(あらすじ)であるにすぎない。もろもろのデータをそれらの相互関係において観察し、それらを時間的発展についての仮説に仕立て上げることなしにひとつの普遍的な像にまとめてみることも、同様に可能である。(…中略…)理解の本質はまさにわたしたちが〈連関を見て取る〉ということにある」と。そして、ギンズブルグはフレーザー流の比較民族史が用いた「アナロジーに基づいた仮説」によって推理を進めていく。歴史的なコンテクストの無視の危険を犯しながら、その発見術的な働きによって、記録作業のいくつかの欠陥を埋める可能性を求めるのである。それは、クロノロジカルな継起関係と地理的隣接性とを導きの糸にして進められる通常の歴史的な探求の方法を採ろうにも採れないときには、唯一可能な方法であり、フォークロア的な要素の解読をも可能にする「シンボル的コンテクスト」を見出す手段でもある。彼はその史料の微視的解読によって、構造史から除かれてしまう個々人によって具体的に生きられたものや変則的な事例、一度しか記録されていないものを掬い出し、巨視的な規模の上に立った場合には多分観察されないで終わってしまう新しい現象を描き出そうとする。そのようにして求めるのは、「個々人の態度の大いなる多様性」を強調し、「代表的な、平凡な一個人のうちにも、それがさながら一個のミクロコスモスであるかのようにして、ある特定の歴史的時代におけるひとつの社会層全体の特徴を探り出すことができることを証明」することなのである。
さらにギンズブルグは、ジークフリート・クラカウアーの理論によってミクロヒストリアの限界を意識し、表象史学へとそれを展開する。クラカウアーは「歴史的現実のすべてが顕微鏡的要素に分解されうるわけではないのだ。(…中略…)そして、もしも歴史家がそれら(一般性のより高いレベルにある歴史)の中にある欠落部分を〈自分自身の機知と推測で〉埋め合わせようと思わないならば、小さな事件の世界をも探査しなくてはならない。マクロの歴史は、ミクロの歴史を包含しない限り、理想的な意味においての歴史になることはできないのだ」と説く★二。そして、理想的な歴史家とは「マクロとミクロの間を絶えず往来しながら歴史の総体的ヴィジョンを、例外と見えるものや短期的意義を持った原因を通じて不断の検討にふす」歴史家であると主張する。すなわち上村忠男の言うところによれば、歴史叙述的行為の本質に関する認識論的反省を行なう歴史家である。そのような認識論的反省のもとに立った解釈枠組みに立つという意味で、ギンズブルグのミクロヒストリアは、「表象されることによって意味を付与されている事柄の、その意味を説こうとする歴史学、つまりは読解の歴史学である」〈表象の歴史学〉でもあるのである★三。
「異端者」今和次郎
一九二四年、今和次郎は『建築雑誌』四四五号の論説「朝鮮の民家1」で、考古学的視点に立つ建築史・理論を「明確で、一歩の疑ひをも起こさしめないまでに正確で整頓しているであらう」が、それが「考古学的であったり、或いは技術者的心でなされ」た欠陥として「伝統の流れの表面ばかりにとらはれ、或いは技術者としての立場ばかりにとらはれ」て、具体的な事実から考えずに「すべてを建築から、人生までをも考へやうとしている」と批判する★四。それに対して、自らの民家論以来の研究は「土俗学的立場」に立つものであると述べる。そして、この「土俗学的立場」の研究を「人間を地理学的に且つ、叙述的に考察し」、「現在各地に見らるる習慣、風俗其の他から、その起源に就いて考察を進めて、知られざる過去の時代を推測し考究して行く学術」であると定義する。つまり、今は明確に自らの研究を、当時の建築史・建築理論の枠組みに対する批判に基づき、それに欠けている視点を補うものとして位置付けている。だが、一方で今は、そのような学術は建築学からは「異端的立場で(…中略…)欠点がある、空想が混じる」と評価されるだろうと予測するのである。
そして、まさにこの予測どおりに、一九六六年から六七年にかけて雑誌『信濃』に連載された「戦後における民家史研究の発展」において、太田博太郎は今の民家研究を「大雑把で」あり、戦前は民家の「歴史的な研究は行われていなかった」と述べる★五。さらに『建築史の先達たち』(一九八三)では、今たちの白茅会による民家研究は「民俗学的な興味によったもので、趣味的な調査にとどまっていて、(…中略…)歴史などはとても述べられないとする考えから(…中略…)各人が見てきた民家の平面・構造・意匠を記述したものに過ぎなかった」と説く★六。そして、地域的な特色の強い民家を広く集めただけでは一貫した研究にならないだけでなく、民俗学によって進められた民家史は「絶対年代については触れることができないばかりでなく、(…中略…)間取りや構造の発達についても、ごく大雑把な概観しか与えてくれない」と批判する★七。そして、「歴史学の一環としての民家史なら、当然その方法は文献史料・遺構・伝承という、三種の史料の収集と批判から始めなければならない」と主張する★八。太田は『図説日本住宅史』(一九四八)では住宅空間の機能分化に着目して平面の歴史的変化の分析を行ない、また前述の「戦後における民家史研究の発展」(一九六六─六七)では、地域を限定した復元調査によって、特徴的細部の変形の影響関係を比較して、民家の平面の形式分類と併せて民家の歴史的系列と年代を判定しようとするのである。つまり太田の民家史研究は、絶対年代の確定を第一目的として、様式や平面形態の機能変化を類型化して客観的に判断しようとする、実証主義に基づくものだった。
今が一九二四年に表明した建築史・理論への批判の意図は太田には理解されず、建築史と民俗学の分野の差、学術的研究の方法論の問題として解釈されている。だが一方太田は、『建築史の先達たち』において、民家研究では文献史料も、遺構として確定できる建物もほとんど存在せず、地域的条件の影響が大きいために形態や機能の意味付けや比較も客観的に行なうことは不可能であることを認め、史料中心の研究法を変更している。さらに、同書のなかで「建築史の目的が建築を通じて、昔の〈人〉を知ることにある以上」民俗学的研究が将来的に必要だと認めてもいる★九。つまり太田が指摘した今の研究の限界は、実は民家史自体の問題だったのである。言い換えれば、「三種の史料」が入手できない領域、地域性に深く根付いた領域、そして人間の生活に重点を置いた領域では、建築史のあり方は完全に実証主義的ではありえないのであって、今の民家史研究に表現された歴史研究の方法の有効性を認めざるをえないのである。
戦後、太田の論文「建築それ自体に限定するものであり、建物の変化から住生活の変化を知る」★一〇、また史料や遺構を重視する研究は、建築史の方法として定着した。そして、一九二〇年代からそのような日本の近代建築史学の流れに逆行して、「人生の変化から」建築の変化を知ることを目指し、叙述的な学術方法をとった今の研究は、考現学から生活学へと展開し、建築研究の学術的領域から疎外されていった。しかしながら、上記のように、実証主義によって建築史・理論の方法論が形成されるなかで隠蔽された今の問題意識は、一体どのような意味を持つものであり、どのような建築史・理論を目指すものだったのだろうか。それが隠蔽されることで、われわれの建築観から何が抜け落ちてしまったのだろうか。ここでは、そのような視点に立って、今の民家論から考現学、後期民家論に至る研究を再検証し、それらが実は学問的領域や主題の次元ではなく、建築史学・理論の方法論自体が持つ認識論的な次元での試みだったこと、そして今の提示した建築史・理論観が、建築学の知的枠組みの根源に遡るものであり、それを積極的に再構築しようとするものであったことを論考する。
今の土俗学的建築研究における歴史観
『建築史の先達たち』で太田博太郎は、明治から大正にかけて、関野貞、天沼俊一によって古社寺の調査・修理・復元が行なわれ、そのために必要とされた建築様式史研究が日本建築史研究の主流になり、厳密な史料・文献考証を基盤として後の歴史研究の方法が形成されたことを説く。そして「学問の進歩が(…中略…)こうした実際の、実用上の必要によって推し進められることは(…中略…)当たり前のことであるといえよう。しかし、そのために、内容が学問本来の筋道から言えば、一方に偏ることになるのも、しばしば起きる問題であった」。しかし、建築史が建築に関する学問である限り遺構を中心とせざるをえなかったし、それがまた進むべき道でもあった、と述べている★一一。このように、遺構補修のための年代確定という手段が、歴史研究の目的そのものと化した当時の建築史学研究の傾向を、今は「考古学的視点」に立つものとして問題視したが、そのような意識は、早稲田大学建築学科での先輩教授であった佐藤功一から継承したと思われる。
佐藤功一は「建築の進化」という論考を、「在来の建築史の多くは余りに考古学的であった、名目と範疇とが重要視せられて之が年代の順序に記述せられたものである」という考古学的歴史研究の批判から書き起こ
す★一二。そして、民俗学的な建築論を展開したW・R・レサビーと社会心理学者ギュスターブ・ル・ボンを参照し、住居の原点は自己保存の本能により作られた避難所であると規定して、それが現代の未開発地域の生活から帰納的に考察できると説く。そして「建築歴史の研究」で、W・M・ヴントの科学の三分類を用いて、建築学は現象論的視点に立つ建築美学、発生論的建築史、組織論的建築構造学と分類され、建築史は発生学的なものでなければ史学たりえないと断定する★一三。次に、ドイツの史学者エルンスト・ベルンハイムによる報告体歴史・教訓体歴史・発達体歴史という史学史論を参照して、西洋建築史の展開をヴィトルヴィウスから説明した後、現代の建築学に必要なのは様式史ではなく、機能と環境の建築形成への影響に基盤を置いた建築史だと主張する。佐藤はこれらの論考執筆後「動物の家」(一九一九)、またヴィオレ=ル=デュクの建築始源論的物語の翻訳、さらにはゴットフリート・ゼンパーの民俗学的視点に立つ始源論を応用した「原始時代の建築構造」(一九二三)、「住宅の本質的及び人文史的考察と耐火建築」(一九二一)等、多くの建築始源論・建築論を発表するのである。佐藤はランケらによるドイツ史学理論の上に立って、西洋の諸建築始源論がもつ建築の存在論的意味の基盤としての役割を、建築史学の最も重要な側面として把握していたのである。
「都市改造の根本義」から神奈川県内郷村調査へ
一九一七年の「都市改造の根本義」で、今は、日本の建築家は西洋の近代建築の形と知識を模倣するだけで、深い理論的理解をもっておらず、特に建築の精神的側面を無視していることが問題だと述べる★一四。そこには、パトリック・ゲデスがアリストテレスの〈synoptic(総合的)〉の概念に基づいて唱えた、人間生活における環境・歴史・社会的コンテクストの有機的関係を理解するためには、研究者は人々の日常生活の細部に注目して、共感しつつ現象を総合的に研究し、帰納的に推論するべきだという主張が反映されている★一五。また、今はクロポトキンの相互扶助思想を提唱したが、その思想は当時大杉栄等によって、民俗学的・歴史的研究と自然科学の知識・方法が融合することで形成された社会科学の基礎として、「人間の本能や感情や意志や憧憬を蔑視する、また社会の階級的分離を無視する、いわゆる主知主理派の科学的方法」に対抗する「実生活の上の観察と実験とによって幾多の事実を帰納しつつ、また人間を全人的に取り扱いつつ、社会的真実を求めんとした純正な科学」として紹介されていた★一六。
今は、白茅会・郷土会による農村の生活実態を総合的に研究し、その記録を残すことを目的とする一九一八年の農村・農家調査に加わった。郷土会の代表新渡戸稲造は、その『農業本論』において伝統的な〈自然村〉の〈生活〉を顕微鏡的に実地調査・研究することで、近代日本の資本主義の問題が明らかになり、国家の進むべき道が見出されると説いた。また、石黒忠篤はドイツ地理学の影響を受けていたが、それは歴史と地理を融合して捉え、自然や地域の条件にもとづく産業形態と、人間の身体的・精神的特徴の関係がその社会機構・文化基盤を形成しているという視点から、一般庶民の具体的な生活を歴史的・実在論的に把握することでそれが見出されると考える立場だった。また、今はこの調査で小田内通敏を通じてジャン・ルイ・ブリュンヌの人文地理学を学ぶ。そこでは、環境・労働・住居・歴史・社会規範等は相互に関連しあったものであり、人間活動全体の働きが、その地理や歴史との関係を仲介としてその社会の変化を導くものだと説かれている。一方では大正期になって、国民自身の歴史の再構築を目指して、津田左右吉などによる「国民生活史」研究が盛んになっていた。このように、白茅会・郷土会の農村調査・研究は、この「国民生活史」研究の流れを受け、〈地方学〉と〈農政学〉・〈人文地理学〉の視点から農民生活の現実の細部を具体的に調査し、内在的に理解して、その歴史的な考察を行ない、将来の農村生活改善の方針を探求するものだった★一七。
『日本の民家』──ラスキン、柳田民俗学と今の建築学
一九二二年(大正一一年)、今は『日本の民家』を出版する。今はその論考の視点として、ラスキンの『Poetry of Architecture』の一説を引用する。「いつも心にとめておくべきは、我々の仕事は建築のデータを集めることではなく、tasteを創り出すことだということだ」と★一八。『日本の民家』には、明確に枠どられ、周囲の環境と調和した美しい家のスケッチが描かれ、農家を取り巻く調和的なミクロコスモスとしての美しいひとつの全体が表現されている[図1]。ラスキンは、〈good taste〉を単なる形態表現の問題としてではなく、建築の形態・環境・心理的効果がひとつの全体として統一され調和している状態として論じているが、それは彼の絵画論の視点から民家の美を説いたものだった。そこには彼が『ヴェニスの石』などで展開した、微細な部分の変化に注目してその背後に隠れた自然の調和的構造や、歴史の重層性を読み取る視点がドローイングの理念として表現されている。つまり『日本の民家』には、前述した郷土会の諸理念とラスキンの芸術論が、民家史研究の方法として展開されているのだ。
1──武蔵北足立郡の農家
出典=今和次郎『日本の民家』、岩波文庫、1989
川田稔は『柳田國男の思想史的研究』において、柳田民俗学の方法が機能主義的人類学者マリノフスキーによる〈心意伝承〉の概念、すなわち原住民の生活のあらゆる細部を経験し記述することで、彼らの価値観やものの見方を把握してその世界観を理解しようとする、その研究方法から影響を受けたと述べている★一九。柳田はフレーザーによるアナロジカルな比較史的研究法と、このマリノフスキーの方法とを応用して、目と言葉と心という三手段による調査で事象を収集・比較し、その背後にある一貫した傾向の抽出を目指す研究方法を「重出立証法」として提示した。したがって柳田の民俗学は、比較分類によって日本文化の一貫性を求める意図と、具体的体験と日常的な細部から帰納法の論理で推論する視点とのアポリアの上に成り立つ、叙述的な学であり、〈生活〉に表われる文化の基盤を読み解く表象の歴史学なのである。
今は白茅会調査以来深く関わった柳田の民俗学から、このような現実と始源の対比のなかで人間の本質を探求する研究方法と、人々の無意識的な日常活動に隠れた論理やそれが各地域の文化に現われる仕組みを読み解く解釈の方法とを学んだのである。柳田に比べて、今はブリュンヌやラスキンの影響により、人間と世界の弁証法的相互関係が住居の具体的な形態の変化に現われる仕組みに関心をもっていた。また建築家として、人々の日常生活活動に人間の主体的な創造行為を見出していた。それらの背景に基づいて、間取りを人間と社会・自然との関係のtopographicalな表現だと考え、その歴史的変遷を生活の仕方から総合的に論考する視点を得たのである。
『日本の民家』で今が最も力を入れたのは、農家の間取り論である。まず、開墾者の家の平面と出雲大社の平面の類似性を説いた後、出雲神社から現代の農家に至るまでの間取りの歴史的変遷を、人間の心理と生活様式を中心にした機能主義の視点から進化論的に、さらに地理学の理念を取り入れて考察する。今は、農家を建造するプロセス、素材の使い方、自然と調和しかつそれに導かれた形に、人間が諸条件に適応して生存の道具として建築を創造する行為の「原点」が表現されていると考えたのである。このような、現実相に人間生活の原点を見出して機能の意味を総合的に捉える視点、そして建築空間に織り込まれた多様な意味の関係を民俗学と人文地理学の方法を用いて分析し、建築の社会的・歴史的基盤が具体的造形に表現される仕組みを明らかにした方法は、非常に先駆的なものだった。今は、佐藤の唱えた機能主義的な発生学としての建築史・理論の構築を民家に対して行なったのである。
『アダムの家』のなかでジョセフ・リクワートは、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけての建築の始源論には三つの立場があったと述べている★二〇。すなわち実証主義的機能主義、古生物学的進化論、そして象徴的自然主義の三つである。リクワートはこの三つの考え方は、建築の始源に関する観念が単に歴史的な問題としてだけではなく、建築の論理や価値観、存在論的意味全体に影響を与えるものであったこと、そしてこの三つの考え方が欧米の近代建築の諸理念の基盤を形成し、さらに近代以前の時代や他の文化圏の建築でもこの始源という理念が創造行為の原点に存在したことを詳述している。その農家研究で今は、建築の始源の意味、考え方、現在との関係を考察することで、建築概念の重要な諸問題を再考察し、それらを社会的要因の建築への表象として考える次元にまで発展させた。
考現学
『日本の民家』を読んで、柳田國男は今に「君の描いた住居には生活がない」と言ったそうである。今が、いかにして〈生活〉という現象を把握し、それを表現するかという問題に真に向き合ったのは、この柳田國男の言葉がきっかけでもあったのではないだろうか。考現学の独特な点は、そのドローイングを用いた調査の方法と、観察・記録した〈生活現象〉とはなにか、それを〈認識する〉、〈記述・表現する〉ことはいかにして可能なのかというような、〈客観的事実〉を疑問視して表象の問題へと展開していく今の論理、そしてその論考を建築的問題に適応した結果導き出される、空間と時間の概念である。
「考現学とは何か」で今は、考現学は「方法の学であり、そして対象とされるものは、現在われわれが眼前に見るものであり、そうして極めたいと思ふものは人類の現在である」と説明する★二一。そして、調査の対象を服装・住居・行動と定め、生活事象の採集・比較・分類を行なう。また、「重出立証法」を用いて、文化の伝播のメカニズムを明らかにしようとする。その目的・方法は、第一に、特定の場所や時間と結びついた事象を個々に研究すること。第二に、それは変化する事象を研究して、その背後にある目に見えない文脈を見出すこと。第三に、それは人間の存在のしかたを物との関係において共感的な視点から研究することだった。そうして考現学は、社会学・心理学・能率学・地理学などの資料を提供する役割を果たすと同時に、それらが見落としたものや手に負えないものに特に注意を向けたのである。
一九二七(昭和二)年の考現学の理念に関する論考のなかで、今はこう書いている。「すべての風俗は分析され比較されてはじめてそれぞれの意義がはっきりするものである」と★二二。この定義が意味していることは、今が〈現象・現実〉という概念の解釈学的性格を認識していたということである。考現学で今が行なった採集・分類・分析・記録・比較の試みとは、人間と物とがどのような相互関係を結ぶのかという問題意識から発して、自らの意識や認識の仕方を自省的に探求する現象学的な研究だったのである。現象学〈ph始om始ologie〉とはギリシア語の〈phainomemon (現われ)〉と〈logos(論理、学)〉とからなる言葉であり、存在が意識に現われるとおりに記述していく学問を意味している。フッサールは、直接的に知覚される現象の本質構造を探求する学問として現象学を構想し、形相的還元と現象的還元が必要だと主張する。そして「生活世界」がすべての科学の基盤であり、それを生きる主体の基盤として身体性や歴史性、相互主体性といった概念を提示した★二三。したがって、現象学の方法とは、自己の体験に則して「事象そのもの」の意味を明証性によって確認するために、自己の超克を行ない続けることであり、身体性・歴史性・相互主体性といった概念によって、自己の意識や認識の仕方の本質を批判的に探求することだと言えよう。
今のフィールドワーク・ドローイングとイマジネーション
今は考現学で、数多くの生き生きとしたドローイングとそれに関する興味深い記述を行なう。たとえば「統計圖索引」[図2]は東京銀座の男女の服や持ち物、あるいは化粧に関するものであり、「市民社会の現象の比較研究の基礎を作り、現代の生活状況を明らかにするために記述する」ことを意図して、目に見える事象を形・色・パターンによって分類した。また、明治の「博物画」と同様な方法で描かれた「本所深川の商店に見らるゝ品物及値段」[図3]という題のドローイングでは、物の形がもつ力が際立っている。また、今は人々の無意識の行動や選択、そして習慣的な体の動きを身体論的に研究し心理学を用いて考察した。「ヒル寝風俗画」[図4]という題のドローイングでは、身体・服・行動形式が、人々の社会的・精神的な状況やそれが置かれた時間と場所にいかに影響されているかが示されている。また、「丸ビルモダンガール散歩コース」[図5]において若い女性たちの消費行動を調べ、その動線とともに、職業や年齢、そして性格がいかに彼女らの外観に表われており、それがその場での時間と金の使い方や行動にいかに反映しているかを分析する。「カフェに出入りする人」[図6]のドローイングでは、人々の動きのリズムや軌跡がカフェの家具の配置などに空間的に表現されていることを、今は描き出している。また、それはその空間に残されたわずかな軌跡から過去の出来事を読み取ることができるという歴史性と、これから起こるであろう出来事の予感といった未来性の両方を表わす作品になっている。このように行動に関する考現学のフィールドワークは、特定の場所、時間という条件のもとで、人々の行動と精神の関係、その表現の仕方を分析した多様な事象を集めた特異な研究となった。そして、そこから時間や空間の意味、そのなかにおける人間の自己表現としての身振りやリズムの意味など、建築の新たな理解を可能にする多くの視点を今は提起しているのである。
それは、新しい視点による生活情景の描写だった。言い換えれば、彼は〈現象〉を構成している多様で可変的な、しかも断片的事実を〈推論〉によって論理づけ、選択し統合してゆくことで、新たな意味を作り出して見せたのである。一方、そのような生の〈現象〉をなす諸部分の採集と分類は、完全に客観的であることは不可能であって、結局、調査者自身の共感とある意味で〈病理学〉的なイメージでその全体の構造を理解することによって可能になった。つまり対象の細部や断片を集めて隠れた構造を見通すように、日常の出来事の背後に存在する歴史的・社会的文脈を探求することは、現実を理解する重要な「手がかり」になったのである。また、ドローイングとして対象化することで、現象は自分にも他の者にも理解できる形相を持つものになったが、そこに描かれた〈現象〉のもつ時間と空間、共感によって把握した意味を他者と共有できる共通の理解の基準として用いられたのが、演劇的なイマジネーションだった。したがって、今の考現学のドローイングによるフィールドワークは、病理学的・演劇的イマジネーションに基づく推論的パラダイムによって成り立っているのである。そのイマジネーションとはどういうものだろうか。
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6-a
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6-d
6──カフェに出入りする人のドローイング
a)カフェに出入りする人の連れだっていく様子
b)カフェに出入りする人の身分別統計
c)喫茶店内部
d)出ていった後に残された飲み物のスケッチ
2─6 出典=今和次郎+吉田謙吉『モデルノロヂオ(考現学)』
ドローイングによる病理学
今は自らを、目に見える事象の陰の論理を探す探偵・動物学者・あるいは植物学者に譬えている。「現代文化人の生活ぶり、その集団の表面に現れた世相風俗、現在のそれを分析考察するには、その主体と客体との間に、すなわち研究者と被研究者との間に、あたかも未開人に対する文明人のそれのように、患者に対する医者のそれのように、あるいは犯罪者に対する裁判官のそれのように、我々(調査者)が一般人のもつ慣習的な生活を離れて、常に客観的な立場で生活しているのであるという自覚がなかったならば、余りに寂しいことのような気がする。(…中略…)現代人の生活ぶりを動物の行動や習性を注意する観点と同じ立場から見る。動物学者や植物学者が動物や植物に対して持つ態度と、我々が我々の対象たる文化人に向けるのとは代わりがないのである」★二四。
このように視覚的イメージを通して生活スタイルや習慣を探求することは、一見無関係な断片をつなぎ合わせて観察者の類推〈アナロジカルな思考〉によって別の文脈を作り出すことだとも言える。アナロジカルな思考に基づく探求は、目に見える形態の内部の目に見えない文脈を探すことを意味する。それは規範的な形態理論では割り切れない、あるいは無視される不規則な細部にも同等の価値を置き、むしろ全体的な印象のようなものに基づいて、背後に隠れた文脈を感じ取ろうとすることである。その結果、歴史や事象の通常とは異なる解釈が見出されてくる。
『ヴェニスの石』のなかでラスキンは、トーマス・リックマンの〈membrological〉★二五な方法でモールディングの細かなドローイングを集めたが、それは個々の建築の部分(キャピタルやコラムといったはっきりした形態)を見て、それが時間の経過のなかでどう変わってきたのかを判断し、建築様式の発展についての結論を導き出そうとするためだった。学生時代から今はラスキンの書物を数多く読み、その影響を受けていた。だから、彼がラスキンの編み出したこの方法(ドローイングを用いて具体的細部に注目することで、相似性や差異を摘出し、そこから比較によって帰納的に全体を措定し構造を推察する)を学んだことは、まず間違いない。また、初期の農家研究では、今もラスキン同様に建造物と自然との形の一致を探しだし、建築物にいかに歴史や環境が積層しているか、それがどう細部の形から推察されるかを研究した。考現学で今は、この方法をさらに推し進めて、なにか普遍的論理や秩序を求めるのではなく、むしろ個々の人の習慣や行動の細部の特徴や相違、その変形等に重点を置いて、その変化の過程を分析するのに応用した。今は、建築の形態の断片のなかに、その形成過程における外来文化の影響とそれを模倣した部分を発見するという次元から、日常生活の人々の習慣形成の断片的事象のなかに身体性や社会性・歴史性を見出すという次元へ、そして建築をそれを取り巻く人間社会の側から研究する視点へと発展させたのである。
推論的パラダイム
『Clues, Myths, and the Historical Method』のなかでカルロ・ギンズブルグは、モレリやコナン・ドイル、ジークムント・フロイトらが用いた〈membrological〉な方法は、「散逸した情報や周辺情報に基づく一種の解釈の方法であり、いわゆる症候的なものを考察する。この方法によって、通常は重視されない細部が、いかに〈小さい〉物であっても、人間精神のより高次な問題について考察する要となると考える方法だ」と述べている★二六。ギンズブルグはさらに、この方法は、医学の記号学と動物の足跡を〈判読する〉狩の伝統とに基づく方法である、と説明する。両者ともが分析・比較・分類等一連の知的操作に基づく探求のプロセスを示しているからである。
ギンズブルグの考えでは、この〈推論的な知〉に基づく諸学は、プラトンやガリレオの理念に基づく科学という範疇とはまったく無関係である。それらは数量的でなくむしろ〈質的な学問〉なのであり、個々の状況や資料を研究の対象とする。ギンズブルグは、人間生活に関連する諸学、特に個々の人間の特性や状況を重視する学問では推論的パラダイムが必要なのであって、人々は従来の〈正確さ〉の概念を見直すべきだと主張する。
「しかしここに問題がある。日常の経験(あるいはもっとはっきり言えば、関連する人々にとってそのデータが個別で不可欠なものであることが明確であるようなすべての状況)に最も関連した知の形として、このようなタイプのパラダイムに正確さを望み得るか? (…中略…)そのような状況においては、推論的パラダイムの柔軟な厳密性が不可欠であるように思われる」★二七。
今が考現学で探求したのは、前述したように、結局数量的統計よりも個々の状況における人間生活の質の問題だった。彼は〈membrological〉な方法によって、ふだん見過ごしていた事象の細部を採集し、そこから個別に人間の心理を考察し、それを人間と建築や都市空間の関係の本質として位置づけようとした。つまり彼の考現学は、このギンズブルグの主張するような推論的パラダイムと同質の基盤をもつものだったと言えよう。
考現学のリアリズム
──演劇的イマジネーション(情景、物と人、物そのもの、身体的感受性)
考現学におけるドローイングのなかで、彼は物理的な物体、あるいは人体を通して事象の特徴を表現している。つまり、彼は物自身に物語らせたのである。この今の〈物〉をよりどころにした解釈学には、もうひとつの背景があった。それは当時の日本のリアリズム文学と絵画、そして演劇である。つまり、文学や絵画におけるリアリズムの理念に基づいて、人間の主体性を具体的な物との関係において認識し、それをいかに表象するかという問題に固執しつづけたのである。したがって考現学には、彼が元来抱いていたリアリズムの理念を現象学的研究に適応した手法が数多く現われている。例えば「造形感情について」で引用したスタンダールの『赤と黒』の一シーンに見るように、彼は考現学で事象を舞台の情景になぞらえて、その一シーンだけで人や物のすべての背景や特徴をイメージのなかに捉えようとする手法を用いた★二八。フローベールがフランス・リアリズムをさらに展開した手法もまた、今の物を中心にした考現学の手法に反映されている。フローベールは、日常生活のなかの些細な出来事や物を、その表層の次元で捉えるだけでなく、断片による推論がそこから出現するための一種のきっかけとして、感受性を通して個々の記憶のなかに深く入り込む手がかりとして用いた。つまり、その物と人間との関係を、その人の現実だけでなく過去も未来も思い描かせる手がかりとして扱ったのである。今はこう言う。「もしわれわれが物や出来事だけを示したら、人々はそれをどう解釈するだろうか? それだけでは置かれた断片や物にはどんな意味があるのだろうか?」。ここにはリアリズムを超えて、表現というものには常に、表現者と読み手の解釈のずれが存在するという問題意識が明確に現われている。今にとってドローイングは、時間や空間の枠を超えて、起きつつある、あるいはかつて起きた「出来事」の場として、空間を描く手段だった。ドローイングは、彼が他者を理解する方法として、彼自身と他者・物との間の弁証法的コミュニケーションを作り出した。このようにして考現学では、ドローイングにより現象から病理学・演劇的イマジネーションによって人間の本質へと遡る現象学的解釈学の立場を開拓した。そうすることで、彼の思考は、形の背後にある構造を求めること、そして他との違いや進行中の変化を反映する表層を見つめること、この二つの視点のあいだを往復したのだった。
考現学的民家研究
考現学の調査の傍ら、今が行なった『民家採集』や、民家史研究である『民家論』(一九二七)、『日本の民家』に一九五四年になって挿入された「儀礼と民家の間取り」には、明らかに人々の生活の儀礼・身体的条件・階層的序列・宗教・生産活動といった複層的な諸要因が、いかに建築的要素や空間に現われ、その機能的意味を歴史的に形成してきたかという視点が展開されている。そして、個々の民家の細かな現象から、その地域・時代の住居のありようが、独特な意味を持つものとして叙述されているのである。例えば、この時期に描かれたある農家のささやかな工作品・道具・食器等を描いたドローイング「埼玉県秩父郡浦山村」★二九[図7]では、それがどう使われ、その機能・形・数・素材が周囲の自然環境・産業・儀礼や季節ごとの行事・その家の村のなかでの立場等にどう関わっているかを説明する。住人の職業や住んでいる共同社会のしきたりや地域的な特徴などをうかがわせるだけでなく、それらの物は、人々が周囲の環境や社会状況に応じて意識せずにどのような生活様式をもっているか、そしてどのように機能的で美しい形を作り出したかを示している。
7──埼玉県秩父郡浦山村
出典=今和次郎+吉田謙吉『モデルノロヂオ(考現学)』
8──農家の土間の研究図
出典=今和次郎+吉田謙吉『モデルノロヂオ(考現学)』
また、室内の物やその配置に注目することで、こうして彼は建築空間を、歴史を重ね、人間の社会的・個人的生活のあらゆる側面を表象する出来事の〈舞台〉、あるいは〈場〉として考えるようになった。同時に、物の収集の様子に基づいて空間の理念を再考し、物の配置が人間の肉体の動きやスケール感を表現することを明らかにした。「農家の土間の研究図」[図8]で今はこう述べる。
建築の研究において、単に間取りや、主なる家具の配置や、プランの研究は、ただ人間と言ふものを概念だけで取り扱っていて、総ての人間には夫々色々な癖(大きい意味の)があると言ふことを切り捨てている事なのである。かかる建築外の建築(人間がそのいる場所に無意識のうちにつけている色々な跡、即ち色々なものを取りちらかしている有様そのまま)に、厳密な態度で注意を突き進めると、人間の動作の源泉の心理を考へることになり、舞台芸術家が研究せねばならぬところと合致してくるのである。即ち劇的興味で人間の動作を追及しなければならなくなるのである★三〇。
今は平面図や断面図などによって空間が把握できると思うのはあまりに抽象的な態度であり、実は人間はそこに置かれた物の表層に対して、身体的あるいは心理的印象を持つことで初めて空間が認識できるのだと説いている。つまり、従来の建築空間の理念をア・プリオリに与えられたものと考える立場から、それらは不定形で流動的な、日常生活の〈行動の場〉として出現してくるもので、人が世界との間で営む感覚的な相互作用によって意味づけられるものだという考えを展開しているのである。
ここには、明らかに、考現学の成果を民家論に適応することで、民家論で彼が論じていた人間と建築、自然の相互関係の理念から帰結される「人間が建築を作ると同時に建築によって人間が作られる」という建築の実在論的意味が、具体的に表現されているのだ。このようにして今は、〈時間〉を人が生活のなかで形成するリズムとして、また〈空間〉を人間の動きが物との関係で形成する軌跡あるいは領域として理解するようになる。そして時間と空間とは、カントの言うように規定の超越的基準ではなく、個々人の状況・仕事・社会的立場等に応じて異なった意味と性質をもつものだという視点を見出した。
元来、農家研究において、今は目に見える現象のなかに多層化した過去の生活の蓄積があることに、また、住居の形成に社会的・環境的・個人的な要因の相互作用が存在することに気づいていた。ドローイングによる〈membrological〉な方法による推論の方法は、このように相互的な視点で人間と世界を把握し、帰納的に全体を推察していく論理の延長上にある。見方を変えれば、今が考現学で到達した研究の方法と理念は、彼が農家研究以来採用して来た方法と視点を発展させたものだったのである。それは彼が、客観的事実に基づく実証的論理、科学的知のあり方の問題に気づき、〈現実・現象〉の直接的、体験的理解による解決を目指して、クロポトキンやデューイのプラグマティズム哲学やフッサールなどによる現象学の理念を応用することで、〈現実〉とは既に存在する事象ではなく、各人のそれを知ろうとする意識によって立ち現われてくるものだということを、そしてそれとともに歴史叙述の認識論的問題を自覚する過程だった、とも言える。今の考現学的民家論はこうして〈真実〉のもうひとつの様相を示すことになった。感覚的印象や想像力や現象の流動性といったものに基づく〈真実〉である。すなわち、科学的研究における理念的・普遍的・ア・プリオリに合理的な原則に基づく〈真実〉の概念を前提とした立場と、これはまさしく正面から対立している、解釈学的思考に基づく知の枠組みなのである。
近代合理主義のなかで、視覚的な知はあいまいで科学の対象としては不適切なものとみなされて、空間を感覚的に捉えるという観念は社会科学の世界では捨てられた。それとともに想像力と推測とによって現在の生活から始源へと遡る発生学的歴史観は、実証史学によって拒絶された。しかし、今は逆にそれを異なる次元から解釈し、建築研究のなかへ解釈学のひとつの拠りどころとして用いたのである。それによって社会科学のなかに表象という理念を復権させ、建築の知識に生き生きとした質をもたらした。また、今は人と物の間の複層的な関係を明らかにすることで、物の表層とその下に感じ取られる身体的な感覚や記憶を呼び起こし、現象を人間の本質と関連づけて推論する思考の枠組みを提示した。この〈表象〉の二つの側面を総合することによって、今は建築学を人間存在に根ざした学問、生活の質に関する学問として再生させようとしたのだった。その意味で、今の民家論から考現学へと至る道のりとそのなかで展開された歴史的論考や時間の概念には、ギンズブルグが再構築しようとする建築史・理論のもうひとつの伝統が、今独自の歩みによって実現されているのである。
本論考は筆者がアメリカ・ペンシルヴァニア大学に提出した論文「Kon Wajiro: A Quest for the Architecture as a Container of Everyday Life」をもとにしている。特に今回の論考では、八束はじめ氏に触発された部分が多かったことを感謝したい。なお、論文は日本語で二〇〇〇年七月にドメス出版から出版される予定。
註
★一──上村忠男『歴史家と母たち──カルロ・ギンズブルグ論』(未来社、一九九四)。以下のギンズブルグ論は本書による。
★二──同書、一四八頁。ジークフリード・クラカウアー『History: The Last Things before the Last』よりの引用。
★三──同書、一七五頁。ロジャー・シャルティエ「La Sensibilité dan l'histoire」からの引用。
★四──今和次郎「朝鮮の民家1」(『建築雑誌』四四五号、一九二四、二七三─三二〇頁)。
★五──太田博太郎『日本住宅史の研究』(岩波書店、一九八四)三一二頁。
★六──太田博太郎『建築史の先達たち』(彰国社、一九八三)一二五─一二八頁。
★七──同書。
★八──同書。
★九──同書、一七二頁。
★一〇──同書、同頁。
★一一──同書、七一頁。
★一二──佐藤功一「建築の進化」(『佐藤功一全集』第三巻、土木建築工業新聞社、一九四二)六〇頁。
★一三──佐藤功一「建築歴史の研究」(同)六三頁。
★一四──今和次郎「都市改造の根本義」(『建築雑誌』三六七号、一九一七年、五四五─五五五頁)。
★一五──Patric Geddes, Cities in Evolution: An Introduction to the Town Planning Movement and to the Study of Civics, New York: Howard Fertig, 1968.
★一六──大杉栄『クロポトキン研究』(アルス、一九二〇)。
★一七──柳田國男の『郷土会記録』に、一九一三年の郷土会で「過去を研究すると同時に現在を研究し、併せて将来の社会政策の確立に、材料を提供することもできるやうにしたら、よほど面白からう」と発言したことが書かれている。柳田國男編『郷土会記録』(大岡山書店、一九二五)三三頁。
★一八──今和次郎「日本の民家」(全集第二巻収録、ドメス出版、一九七一)一二六頁。
★一九──川田稔『柳田國男の思想史的研究』(未来社、一九八五)二七四─二八五頁。
★二〇──ジョゼフ・リクワート『アダムの家』(拙訳、鹿島出版会、一九九五)一四─一六頁。
★二一──今和次郎「考現学とは何か」(全集第一巻収録、ドメス出版、一九七一)一四頁。
★二二──同論文、一六頁。
★二三──エドモンド・フッサール『現象学の理念』(立松弘孝訳、みすず書房、一九六五)。および、エドモンド・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫+木田元訳、中央公論社、一九七四)。
★二四──今和次郎「考現学とは何か」、一七頁。
★二五──この語はリックマンの造語で、建築の個々の、特に特徴のある部分の経年を見ることで、様式がいかに変化したかを推定する方法。
★二六──Carlo Ginzburg, Clues, Myth, and the Historical Method, tr. by John and Anne C. Tedschi, Baltimore and London: The Johns Hopkins University Press, pp. 96-125.
★二七──Ibid.
★二八──今和次郎「造形感情について」(全集第九巻収録、ドメス出版、一九七一、一五頁)。
★二九──今和次郎「埼玉県秩父郡浦山村」(全集第二巻収録、ドメス出版、一九七一、二二四頁)。
★三〇──川添登「考現学の誕生」(今和次郎+吉田謙吉『モデルノロヂオ(考現学)』、学陽書房、一九八六、三七二頁)。