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未来の化石──J=G・バラードと都市のアクシデント | 田中純
Fossils of the Future: J. G. Ballard and Urban Accidents | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.05 (住居の現在形, 1996年05月10日発行) pp.16-27

1 都市から非都市へ

すでに百年以上にわたって、〈社会〉に関する学は〈都市〉に憑かれてきた。いやむしろ、それは都市の分析を通じてこそ、おのれの固有の問題領域である社会を発見したのだった。そして、そのような社会とはあくまで近代の社会である。社会学にとって都市とは、近代という時代の本質が露呈される場だった。マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメル、ヴェルナー・ゾンバルトといった社会学者たちは、大都市の分析をとおして近代社会を自らの学の対象として構成したのである。『都市の類型学』においてさまざまな時代、さまざまな土地の都市の差異を探査しながら、都市的なるものの本質のまわりを旋回し続けるウェーバーの身ぶりが示しているように、都市とは社会学が呪縛されてやまない、しかし決定的な接近は不可能であるとともに禁じられているかのような、執拗な欲望の対象である。そして、『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』のフェルディナント・テンニースなどを含めたドイツ社会学者たちの言説が、二〇世紀初頭のモダニズム建築・都市計画イデオロギーの形成にあたってどれほど強力なフレーム・ワークとして機能したかは、マンフレッド・タフーリをはじめとする、都市・建築理論におけるヴェネツィア派の歴史分析によって周知の通りだ。
〈合理化〉の支配する空間とも、あらゆる価値が平準化される場とも呼ばれる〈都市〉とは近代社会のメタファーである。それは社会という、人間身体・資本・物資・情報・記号の諸関係に関わる空間的な表象をなしている。そしてそのことによって、〈脱場所化〉の進行する近代的大都市では、中心と周縁といった空間秩序は解体されて、無限に延長可能な均質な場が広がり、唯一無二であるはずの個物は諸関係が織りなすネットワークの網目の一項へと還元される、といった物語がこの空間表象の支配のもとで語られることになる。大都市は閉鎖的な共同体の規範を無化する外部性の場であることにより、自らは空間としての外縁を失い、限りなく不定形に、さらには不可視なものと化していくように見えはじめる。都市論の興隆も、その限界の意識も、都市という表象を通じて近代という時代やそこにおける社会のあり方を把握しようとする欲望とその困難の表われだろう。結果として、都市というメタファーばかりが濫費されていく。
西洋における都市をめぐる思考の境界画定をおこなう過程でマッシモ・カッチャーリは、エミール・バンヴェニストの指摘に基づいて、古代ギリシアにおいてポリス(polis:都市)とポリテス(polites:市民)の関係がもっていた共示的意味コノテーシヨンが、古代ローマにおけるキヴィタス(civitas:都市)とキヴィス(civis:市民)では転倒している点に注目している。両者はむしろまったく対立しているといったほうがよい。
「古代ギリシアではポリスが基礎概念であり、ポリテスは〈抽象概念〉、派生したものであるのに対して、古代ローマではキヴィスが基礎概念であり、キヴィタスはキヴィスの現実生活に由来するものだった」★一。
前者ではポリスが先行して与えられているがゆえに、ポリテスが存在する。したがって、ポリスをポリテスが企  図プロジエクトすることはありえない。だからこそ、ポリスの起源はポリテスの経験的な時間を越えて、神話的にのみ物語られる。ところが後者ではキヴィタスとはキヴィスという自由な主体の意図的な企  図プロジエクトの産物、ひとつの作品なのである。ゴート人によるローマ略奪の年を語るなかでアウグスティヌスは、「ローマとは、それがローマ人でなかったとしたら、いったい何であろうか」と書いているという。「重要なのは石や木、高く幅広い壁ではない。それらはいつの日にか破壊されるためにこそ築かれたのだ」★二。 そしてカッチャーリは、キヴィス的な主体が自らの規定を止揚して、現実的で生きた全体であるポリスを創造するというヘーゲル的なヴァージョンを一例として、さまざまに異なる形をとりながらも、ヨーロッパ文化は間断なくこの両極の間を揺れ動いてきたのだと述べる。モダニズム建築の都市イデオロギーとユートピアもまた、その狭間に位置していたであろうことはたやすく見て取れる。
カッチャーリはポリスとポリテスを結びつけているものと同じ関係が古代ギリシア思想において、エルゴン(ergon:作品=作用)とデミウルゴス(demiurgos:製作者=造物主)の間にも認められるという。ポリスが先験的であり、ポリテスに対して先行し支配的であるのと同様に、エルゴンもまた、デミウルゴスという創造者に対して先験的である。「ギリシアの芸術家はエルゴンを〈模造〉する。彼は製作するのでも産出するのでもない。彼は見て、その見ているものを模造するのだ。プラトンの言葉によれば、デミウルゴスはエルゴンのイデアをとらえるための目を持っている」★三。
ところで、『ティマイオス』においてプラトンが展開している宇宙論では、宇宙の永遠のイデアを黙視したデミウルゴスがそのイデアの似姿を模造した場所が〈コーラ(chôra)〉と呼ばれている。イデアの模像はコーラのなかに書き込まれる。このコーラとは生成するすべてのものにその座を提供する受容器であり、それ自体は不可視で形を持たず、感覚によっても理性によってもとらえがたく、あらゆる固有性を欠いている。
「そのものは、いつでも、ありとあらゆるものを受け入れながら、また、そこへ入ってくるどんなものに似た姿をも、どのようにしてもけっして帯びていることはないからです。というのは、そのものは元来、すべてのものの印影の刻まれる地の台をなし、入ってくるものによって、動かされたり、さまざまの形を取ったりしているものなのでして、このようにして入ってくるもののために、時によっていろいろと違った外観を呈しているというわけだからです」(50B-C)★四。
さまざまな異なる形を受け入れつつ、つまりさまざまな情報(information)の地となりながら、自らは不定形のままにとどまる受容器であるコーラは、可視的な形態の生成を可能にする不可視の場である。そこは存在者で充満したアリストテレス的な場所トポスでも、原子論者の想定した空虚ケノンでもない。コーラは「固有なものを何ひとつもっておらず、単なる開口、単なる間隙、単なるエスパスマンであって、その固有性において名指すことができず、コーラの前では言葉が尺度を失ってしまう」(ジャック・デリダ)★五。ポリスがひとつのエルゴンであるならば(プラトンにとって『ティマイオス』の宇宙論とは本来、『国家』における議論を受けて、〈現実に動く理想的な国家《ポリス》〉を語るための前提だった)、コーラはポリス─ポリテスという二者の関係を生成させる場であると同時に、それを絶え間なく動揺させ続ける第三の要素である。そしておそらく、ポリス─ポリテス、キヴィタス─キヴィスの両極を分け隔てながら、ヨーロッパ文化の展開を周囲に引き寄せてきた亀裂は、エルゴンとデミウルゴスの関係に介在し、それを不安定化させるこのコーラ的な空間なのであり、それこそがポリスでもキヴィタスでもない、根源的に非都市的な場ではないだろうか。
都市を諸関係の配列と流通のシステムというひとつの全体として(ひとつの空間表象として)考察する社会学的想像力が、原理的に見落としてしまうものがあるとすれば、それはこのコーラ的な〈非都市〉にほかならない。〈非都市〉とはもとより、都市に先行して、あるいは都市の外部に広がっている自然や田園ではなく、都市の内部に抱え込まれた異物であり、都市を横断している亀裂である。それは都市的ネットワークに組み込まれない残滓であり、情報の交通に抵抗して不活性なままとどまり続ける何かにほかならない。
非都市は都市の無意識をなす。〈非〉は抑圧の記号である。このような〈異物〉は〈遺物〉ではなく、ここにノスタルジーはない。非都市は都市が必然的に生み出す分身であって、それを都市は避けられない。非都市を捕捉するためには、現実の都市に対するアナモルフォーズ的な視線、あるいは都市の死相を読み取る観相学が必要とされる。都市というメタファーが過飽和してしまい、都市が見えなくなったといわれる状況のなかで、にもかかわらず執拗に残留し続ける対象こそが可視化されなければならない。都市が〈時代の夢(Zeit-traum)〉(ヴァルター・ベンヤミンパサージュ論』)であるとするならば、非都市とは、都市のもっとも内密な場所でありながら、その外部へと通じている、フロイトが言う〈夢の臍〉のような特異点であるだろう。
デリダによればコーラはアナクロニック(anachronique[ana-chronos:時間[クロノス]の錯乱した])であり、〈回顧的投射(projection rétospective)〉の構造をもつ★六。 コーラに接近することは時間的な〈前方(pro-)〉への運動と〈後方(rétro-)〉への運動とが重なり合い、〈以前〉と〈以後〉が交錯するこの構造のなかに囚われることにほかならず、コーラを語ろうとするプラトンのテクスト自体がそうした混乱を呈している★七。
コーラはこの回顧的投射の構造的法にしたがって、存在をアナクロニー化する。それは存在のアナクロニーそのものである。コーラは単線的に進行する均質的な時間(クロノス的時間)を狂わせる。あるいはそれはクロノス的時間の狂気としての、時空の空虚な〈〉なのである。
コーラのこのアナクロニックな法に注目するとき、コーラ的非都市は偶然的アクシデンタルなものとして現われる、といえるかもしれない。その存在論的な地位はいわば事故のそれに等しい。ポール・ヴィリリオは、アクシデントという語の哲学的意味に立ち返り、それが絶対的で必然な〈実  体シユプタンス〉と対をなす、相対的で偶然的なものを指すことを指摘している。アクシデントはある〈実体〉としてのシステムに突然に発生する機能停止や破壊を意味する。ヴィリリオはここでパースペクティヴを逆転し、〈根源的アクシデント〉なるものを想定する。
「何らかの〈実  体シユプタンス〉の産出が、即座に典型的なアクシデントの産出でもあるとすれば、機能停止あるいは故障は産出の統御不全というより、特定の故障そのものの産出つまり部分的ないし全体的な破壊の産出になるだろう。(…中略…)このようにして探究の方向を根底から変えれば、アクシデントの未来学なるものを構想することもできよう。実際、このような未来学はその対象が科学的ないしは技術的に発見される瞬間に創始されてしまうから、未だ発明が公にならぬ機械や生産物の有する名高き〈実体〉の本質が決定されるのを待たずして直接にそのアクシデントの方を発明してしまうという逆のことがひょっとしたら行えるかもしれない」★八。
ヴィリリオによれば、この転倒した、アナクロニックなパースペクティヴこそ、実は〈戦争の弁証法の展望〉、武器と甲冑の展望である。そのような展望が生まれたのは、古代ギリシアの〈城塞都市〉の周辺において、戦略的な目的から〈戦争機械〉が出現したのと同時であった。これと並行して、アテネの政治学は城塞都市の攻撃と防御に関する新しい学問である〈都市攻略術(poliorcetique)〉を創始し、それは戦争術の起源となった。戦争という絶対的アクシデントはまさにその始まりから、都市の破壊へと向けられていたのである。
テクノロジーがもたらすアクシデントの魅惑について、J=G・バラードが『残虐行為展覧会』『クラッシュ』『コンクリートの島』『ハイライズ』といった一連の作品で、ヴィリリオの認識と通底する作品世界を作り上げてきたことは知られている。ヴィリリオの『トーチカの考古学』を読んだバラードは映画製作への協力を依頼してきたという★九。 
さらに時間と都市もまたバラードにとって一貫して重要な主題だった。そして、バラードがいう〈テクノロジカル・ランドスケープ〉の呪縛とこれらの主題とは密接に関係していた。われわれはバラードの作品世界のなかに、非都市的なものを〈都市のアクシデント〉として見出すことができる。

1──コンクリートの司令塔要塞《バルバラ》。女性化した戦争機械の奇妙な擬人体主義(ポール・ヴィリリオ『トーチカの考古学』より)

1──コンクリートの司令塔要塞《バルバラ》。女性化した戦争機械の奇妙な擬人体主義(ポール・ヴィリリオ『トーチカの考古学』より)

2 J=G・バラードと都市のアクシデント

ジョナサン・クレーリーは六〇年代末から七〇年代におけるバラードの小説が、読解可能性をほとんど喪失した同時代の西欧の都市の変容に対応していた点を指摘している★一〇。先にあげた作品群においてバラードは、「固定された諸点の外延的布置として都市を理解する可能性を断念し、そのかわりに、不連続で中心を欠いた領域を横断しつつ様々な事件の新しい規則性と分布を描いていくことを選びとる」。例えば『クラッシュ』では、かつて都市であったものは遺棄されて、諸々の事件の主要な舞台とはもはやならない。すべては空港との距離的関係においてのみ空間的に規定される場所で進行する。
「バラードは、われわれを空港そのものの中に連れて行くことはなく、その縁の周りをきりもなく移動する。空港周辺道路、空港のショッピング・モール、駐車場、バス、空港で女を引っかけるバーといったものからなる境界のない世界を。それは、絶えず中間にいること、通過旅客トランジツトの状態にいることであって、空の旅のスピードと軸線をもった都市の消失とを結び合わせている」。
都市が中心を失い、不定形なものになるとともに、都市の周辺に位置しつつ、人間や物資、情報のネットワークへの入り口である空港が、あらたな焦点となってテクストを編成する。「バラードの遺棄されたアモルフな都市は、多国籍企業体が、転位し続ける可動的アレンジメントへと地球的規模で四散していくことと軌を一にして」いる。同時代の都市論アーバニズムが都市空間に、凝集性のある、理解の容易な構造・形態を与えようとしていたのに対して、バラードのテクストは資本の〈反属領性〉を正しく捕捉し、速度と流通の最大化へと向かう資本主義の論理の究極的な表現になった、とクレーリーは見る。交通事故をはじめとする惨事によってテクノロジカル・ランドスケープと人間身体が合体をとげるバラードのイメージは確かに、同じイギリスの建築家グループ、アーキグラムの都市イメージをはるかに凌駕して、ダダやシュルレアリスムの伝統に連なる、資本主義的大都市の鮮烈で痙攣的な表象であったかもしれない。その作品世界では、これらアヴァンギャルドのフォトモンタージュ、コラージュが人間身体そのものによって演じられたかのように、「傷口や穴を通して身体の物理的統一性に穿孔がうがたれ、そのなかで永続的な開放と受容の状態が明るみに出される」。
クレーリーは、バラードが描き出す脱属領化は、すべてがすべてと連接可能であるような極限的次元にまで昂進しているため、それはシュルレアリスム的な隣接と驚異の美学を破壊してしまうと述べる。そこにはモダニズムのショック体験はない。バラードは「出来事や軌跡やその再生産が同じ等方的な表面の上で無差別に循環するさまを図式化する」。ここにあるのは恒常的なインターフェースの状態であり、主体はこの表面上で解体と散乱、再配置を繰り返している。「都市は、このような散乱する形態、無限の断面とひとつになり、そのなかでは、偶然的アクシデンタルなものはもはや不可能になる」。
クレーリーの分析はなるほどバラードの小説世界の都市論的読解として優れたものではある。しかし、ただこれだけであればバラードは、都市とテクノロジーをめぐる歴史的アヴァンギャルドのイデオロギーを反復しているだけであることになろう。クレーリーが都市の消失と呼ぶ光景は、近代社会のメタファーとしての大都市の表象の完成ではあっても、それを越えたもの、あるいはそれに抵抗する何かではない。〈等方的表面〉という、差異の飽和点にある無差異=無関心インデイフアレンスの世界、ショックの消失した世界とは、すでにジンメルが二〇世紀初頭に、大都市人の精神生活の分析を通じて予見していたものだった(「大都市と精神生活」一九〇三年)。クレーリーによるバラード的都市のヴィジョンは社会学的想像力の枠を出るものではない。
バラードのこれらの作品で真に問題なのは交通や速度ではなく交通の障害、つまり事 故アクシデントであり、執拗に繰り返し描き出されるその逆説的な探求の過程である。バラードにとって決定的なのは、クレーリーの言う〈数限りない連接様式〉が展開する〈等方的表面〉としての都市ではなく、その循環= 流通の過程における障害とずれとしての事故= 偶然アクシデントなのだ。妻や子の自動車事故死、アポロ宇宙船の事故、自分の乗った爆撃機の墜落といった外傷的経験に遭遇した主人公たちは、反復強迫的に事故を再現しようとする。そのとき彼らが行動する空間は絶対的に閉ざされていて、そこから外部への移動はありえない。例えば、『残虐行為展覧会』や『クラッシュ』において空港は、実際には世界規模のネットワークへ向けて開かれた場所などではない。クレーリーも指摘している通り、自動車は空港に行き着くことなく、その周りを移動するだけであり、飛び立ったヘリコプターもまた、都市やハイウェイの上空を旋回するばかりである。廃棄された飛行場の滑走路には古びた爆撃機の機体が放置され、巨大な鳥類のように轟音をあげて登場人物たちに襲いかかるヘリコプターは次々と墜落し炎上してしまう。
バラードにとってあらゆる事故の中心に位置するのはいうまでもなく自動車衝突である。自動車事故は単に破壊的な出来事ではなく、むしろきわめて強烈な性エネルギーの解放と見なされる。「それは、他のかたちでは不可能な強烈さをもって死んだ人々 ── ジェイムス・ディーンとミス・マンスフィールド、カミュと故[ケネディ]大統領の性意識を伝えているというわけだ」★一一。
『残虐行為展覧会』で、最適の自動車事故を案出するように求められた被験者たちは、自動車衝突の犠牲者たちを倒錯的性行為や宗教儀式における生贄の体位 ──例えば磔刑のような ── に似た姿勢にする。バラードはアルフレッド・ジャリの『斜面の自転車競争としてのキリストの受難』にならって、キリストの磔刑を最初の自動車事故ととらえる。J・F・ケネディの暗殺は概 念 的コンセプチユアルな自動車事故として解釈され(『下り坂自動車レースと見なしたJ・F・ケネディの暗殺』)、あるいはまた、ケネディの概 念 的コンセプチユアルな暗殺が一種のサイコドラマとして構想される。その暗殺凶器は太陽の単色光写真、アルバート・アインシュタインの脳波図、一九四五年八月七日正午に撮影されたコッターロ低地の砂漠地域の写真といった、一見して無関係なオブジェからなっている。「これは大統領の〈偽り〉の死をもたらそうとする試みなんだ ──偽りというのは、共時存在ないしは、〈もうひとつの〉という意味で用いているんだけれどね。ある出来事が起きたという事実は、その出来事の発生が確実であるということの何の保証にもならないのさ」★一二。外傷的ショックの反復強迫的再演はこの概 念 的コンセプチユアルな次元で行なわれる。概念化という想像力の冒険は、起こったか否かが確実でないままにショックだけを残した出来事の原光景を抽象化して再構成する営みにほかならない。

3 未来の化石

現代都市においてセックスおよび死へと向かう人間身体の根源的な衝動はテクノロジカル・ランドスケープと相互浸透している。セックスや死はそこでもはや個人的な出来事ではなく、自動車の型やマスコミュニケーションといったものを含みこんだ〈社会全体が抱く心的複合物コンプレツクスにおけるひとつのベクトル〉★一三に化している。この無差異= 無関心インデイフアレンスの世界は、人間に〈情緒の死滅〉をもたらしている。事故や戦争という破局的惨事はそこに強烈な外傷的ショックとなって働きかけ、それに対する防衛機制として概念化が誘発されるが、逆に概念化はそれが吸収する性エネルギーの源泉として同じ破局を必要とする。性的享楽はこの致命的な事故= 偶然アクシデントのなかにしか存在しない。ベンヤミンが『パサージュ論』でボードレールの詩のなかに分析した大都市のショック体験は、六〇年代の社会的激変の産物である『残虐行為展覧会』では、廃墟化した都市周辺部で展開される、交通事故をはじめとする惨劇のイメージへの偏執症的な執着という狂気にまで昂進し日常化する。ショックの概念化をクレーリーのようにショック体験の消失と理解することはできない。バラードの主 題サブジエクトは、出来事および主体が解体と散乱を繰り返し、無差別に循環する等方的な表面(交換価値の表面)ではなく、むしろこの表面を引き裂く事 故アクシデントである。そして、その亀裂にほかならない偶然的アクシデントなものの場こそがバラード的主 体サブジエクトなのである。この精神病的主体はテクノロジカル・ランドスケープの秩序と整合性を信じない。彼らはその風景の亀裂としての事故にこそ同一化する。そこにのみ彼の性的享楽は存在しうるのだ。徹底して意味を欠いた出来事としての事故を彼らは、ただ単に秩序の進行のちょっとした障害、その束の間の空白としてではなく、無意味そのものの暴力的な侵入、異質で無気味な、ある〈実体〉との遭遇として受け取る。この〈偶然的〉な〈実体〉という矛盾した何ものかとの出会いは致命的であり、したがって、破局の偶然性を意識的に反復しようとする登場人物たちの試みは逆説的であるばかりでなく、自滅的なものとなる。にもかかわらず、彼らがそうした試行を絶望的に続けざるをえないのは、予測不能な事故 = 偶然アクシデントにおいてしか、彼らの主体は整合性を保ちえないからだ。事故= 偶然アクシデントへの同一化を通じて彼らははじめて、完全な自閉状態に陥ることを回避しているのである。あるインタビューでバラードは恐るべき未来のイメージとして、〈デュッセルドルフの郊外〉をあげていた。
「未来はデュッセルドルフの郊外のようになるだろう。どこの車回しにもBMWとボートがあり、中間管理層の理想の家と庭がつづく。超モダンな郊外地域。清浄純白な街路──煙草の吸い殻一本落ちていない街路。清浄純白なモダンな学校にショッピング・センター。一枚の木の葉すら、そのあるべき位置からはずれていない、消費財のパラダイス──舞い散る落ち葉でさえ自由に過ぎるかのごとくに見える。このうえなくよそよそしく、寒気を感じさせる光景──表面的には、世界中で誰もがかくあれかしと切望しているもの。現在のナイロビや京都や、おそらくバンコクもそうだろう、それらの都市の郊外地域」★一四。
このような〈魂の郊外地域〉において自由は、激烈な逸脱や反社会的行為、倒錯といった狂気にしか見出すことができない。ドイツ赤軍、バーダー=マインホフ・グループのテロをめぐって、バラードはドイツ都市のこの清浄純白な郊外こそが彼らの不条理な暴力行為を生んだのだと述べている。〈郊外〉とは果てしない退屈さと倦怠のイメージである。倦怠は資本主義的近代を支配する時間感覚であり、近代人は倦怠から逃れるためにこそ、目新しいもの、新奇なものを求めて、未来へとさまざまな企てを投 射プロジエクトしてきた。だが、未来それ自体が倦怠にほかならないものとなるとき、このような企ての時間性は崩壊せざるをえない。そこには何ものをも企てることのない、意味と目的を喪失した破壊が反復して突発的に生じるだけだろう。──これがバラードの描き出す〈郊外としての未来〉の日常風景である。
『残虐行為展覧会』で都市郊外のモダンなテクノロジカル・ランドスケープは、きわめて倒錯的な方法で汎エロス化される。いわば概念化が暴走し、人間身体に向けられるまなざしと郊外の風景に注がれる視線とが概 念 的コンセプチユアルな水準において溶け合ってしまうのである。女の肉体はひとつの風景と等しく、あるいは逆に、都市風景はエロティックな肉体となる。女性身体はバラードの作品中でさまざまな解剖学的部位に分解され、科学的に記述されている(科学とは〈究極的なポルノグラフィ〉★一五なのだ)。それはひとりの女性を構成する〈セックス用キット〉、〈死のキット〉だ。この概 念 的コンセプチユアルな次元では、肉体そのものではなく、肉体がとる姿勢の形成する幾何学的風景が性的刺激となる。他方において、建築物の風景、例えば建物の壁と天井が交わる角度が激しい性的魅惑を発散する。階段のなす奇妙な角度やコンクリートの高架道路が、その幾何学性において強烈なエロティシズムを喚起する。
「そのあとのふたりの性交はアパートメントの角度がなす諸次元の性急な聖餐となった。ふたりのとる体位のなかに、大腿と胸の輪郭のなかに、トラヴィスは寝室の──のちにはフェスティヴァル・ホールの曲線的ドームの、ロンドンのヒルトンホテルの張り出したバルコニーの、そして最後には閉鎖された武器射爆場の──幾何学性と時間容積を探った。トラヴィスの心のなかで、円形の標的区域が放射能炎症を負った若い女のむきだしの乳房と同じものになる」★一六。
この作品には、エリザベス・テイラーやブリジット・バルドーといったスターたちの肉体イメージが、極度に拡大されて風景に投影される場面が存在している。あるいはまた、「巨大なアメリカのヌード」に登場する『ミノタウロス』という映画のセットの迷宮は、アリアドネを演じる映画女優の肉体に似通っており、その肉体のすべての彎曲部と開口部を正確に形式化したものになっている。女性化した建築の奇妙な擬人体主義。自動車事故や爆破を通じたこの風景への暴力的で自滅的な介入は、主人公の男性たちにとって、自らの死によって達成される神秘的な性的合一なのである。
テクノロジカル・ランドスケープという外部風景は想像力の内部風景を浸蝕する。概念化のエロティシズムはこの両者が交錯するところに生まれる。バラードが描き出す終末のヴィジョンとは、あらゆる秩序が風景として外部化されてしまったときに、人間の想像力が展開する汎エロス化の自己破壊的運動である。それは黙示録的(apocalyptic)なヴィジョンだが、それが黙示録的であるのは、そこで問題となっているのがクロノス的な歴史的時間の死であるからにほかならない。
バラードは一貫して終末の作家である。『燃える世界』『沈んだ世界』から宇宙の時間が結晶化する『結晶世界』にいたるまで、ある最終状態へと向けて進行する物語を彼は書き続けていた。そのバラードが六〇年代になって『残虐行為展覧会』に代表される現代社会の描写に向かうようになったきっかけを、彼自身は〈未来の死〉という経験に求めている★一七。
一九五〇年代後半に、そしてケネディ暗殺を決定的な契機として、全世界が未来やそこに向けた進歩に対する関心を失い、継続する現在のなかで生きるようになった、と彼は述べる。初期の著作がいまだ、さまざまな形而上的・心理学的ゴールを〈時間〉のなかで目指すという、未来の感覚に支配されたものであったのに対し、この時期以降、彼は時間の観念を放棄しなければならないと考えたという。この移行のただなかに書かれた作品「終着の浜辺」は、原水爆実験地エニウェトック島を舞台として、そのテクノロジカル・ランドスケープにおける現実感覚の変容を主題としている。
エニウェトック島のあらゆる風景は人工のものから造り上げられ、その武器テスト用コンクリート壕、コンクリートの塔や宿舎などはコンクリート製の自動車道路で網の目のように結ばれている。廃棄されたこの島は〈いまだに死んではいない人々の大量虐殺の墳墓〉であり、先取りされた未来の風景、〈未来という時間の化石〉である。この島にひとり残った男トレーブンは廃墟になったこの墳墓をさまよい、〈時間のない地帯〉と呼ばれる爆発地点の窪地に、砂丘から林立する無数のコンクリート製ブロックの大群を発見する。それは皆同一の正確な立方体をした地下壕であり、均等な間隔で配置され、お互いに傾斜しあって爆心地の方向を向いていた。そこに住み着いたトレーブンにとって、この巨石の列は時間と空間の論理的な秩序感覚を維持し続ける心の働きを代替するものになっていく。
「ブロック群なしには、彼の現実感覚は、彼の足元の数平方インチの砂ほどに収縮してしまいかねないところだった」★一八。
トレーブンはこの迷宮のなかに囚われてしまう。あらゆる時間感覚は消滅し、ひとつの瞬間から次のそれへの移行は、原子のエネルギー準位の量子化された飛躍のように相互に絶対的に断絶したものになっていく。連続性は失われ、すべては偶然である。量子化した時間とともに、空間も歪み始める。それは事故= 偶然アクシデントへの同一化の究極的な帰結といえるかもしれない。
「〈さよなら、エニウェトック〉彼はつぶやいた。
どこかで何かがちかりと光った──ソロバン玉を一つ動かしたように、ブロックの一つがつまみとられたような感じだ。
〈さよなら、ロス・アラモス〉ふたたび一つのブロックが姿を消したようだった。彼を取り巻く通路には別に変化はない──だがどこかで、彼の心の背景に重なり合うように、小さな中立の空間がカードのパンチのように抜け落ちた──彼は確信していた。
さよなら、ヒロシマ
さよなら、アラマゴロド
さよなら、モスクワ、ロンドン、パリ、ニューヨーク……」★一九。
コンクリートのブロック群は宇宙の表象であり、ひとつひとつのブロックは都市である。妻と息子を自動車事故で失ったトレーブンにとって、この〈未来の化石〉の風景は、数え切れぬほどの人々が毎日事故死に見舞われる、都市周辺の狂ったハイウェイへと直接通じている。概 念 的コンセプチユアルな水準において、自動車事故は世界大戦のシミュレーションであり、エニウェトック島は現代都市のアレゴリーなのだ。あるいは、エニウェトック島こそが都市の〈郊外〉そのものなのだ。時間がリニアな連続性を失って量子化し、未来が化石化したこのアナクロニックな場所の風景は、文字どおり黙示録的な、歴史のクロノス的時間の死のヴィジョンである。
バラードはヴィリリオの『トーチカの考古学』のなかにまさに同じ黙示録的な風景を見た。大西洋岸の砂地に放置されたナチスドイツ建造によるコンクリート製のトーチカ群は、いわば未来の考古学的遺物である。戦争で破壊された町並みが以前と同様に再建されつつあった港湾都市でトーチカを家の庭先などに発見したヴィリリオは、地下文明が突如としてそこに出現したかのようであったと回想している。「都市的住環境と地下壕との、ありきたりの家屋とトーチカとのこの直接的な比較は、際だった対比をなし、二つの異なった現実のコラージュを見せていた。防空壕は人間の不安を物語り、ありきたりの方法にしたがって建てられた家屋は絶え間なく町を、町々を、都市的なものを再構築していた」★二〇。
未来的な過去の遺物としてのトーチカ、戦争機械のこの残骸は、〈都市的なもの〉に対する脅威、非都市的な残留物にほかならない。このトーチカが代表するような非都市的なもの、一種の〈未来の化石〉に対する偏執を、ハンス・ホラインや磯崎新といった、ヴィリリオやバラードと同世代の建築家たちにも認めることができるのは興味深く、徴候的である。第二次世界大戦という〈絶対的アクシデント〉を経験した建築家たちの想像力には、アナクロニックな風景が消し去りがたい原光景として残されているように見えるのだ。
ヴィリリオを含めて、建築家たちにとってこの光景は、彼らが建築家として生まれ出るための障害であったと同時に、彼ら固有の建築の起源をなすものだった。例えば、ホラインの初期のドローイングやフォトモンタージュには、未来的であると同時に古代的でもある建築物のイメージが繰り返し出現している。そこでは航空母艦や鉱石用車両が巨大な神殿のように田園、荒野などの風景にモンタージュされ、あるいは逆に現代ウィーンの都市風景に凹凸の激しい巨石の構築物がモンタージュされる。それらはいずれも生者のための建築物ではなく、神のための、あるいは死者たちのためのモニュメントであるかのように見える。
墓とは何か。それをアドルフ・ロースは建築が芸術でありうる数少ない例外のうちに数えた。墓とは人間にとっての究極の未来、つまり死について語る建築物である。〈ここがそこだ、ここがやがてお前のくる場所だ〉とそれは語る。ホラインにとって死は根深いオブセッションの対象であり、一九七〇年の〈死〉展をはじめとして、彼はこの主題を執拗に追求している。ホラインは〈すべては建築である〉と宣言することによってメディア・アーキテクチャーへと建築概念を拡張させたが、それが彼に可能となったのは、未来と過去が交錯するアナクロニックな死の建築を、この〈すべて〉の領域に対する例外として確保することを通じてであったにちがいない。死は情報環境に回収されない。死は意味を欠いたあの無気味な〈実体〉の偶然的な一撃であり、死そのものは形を欠いて、決して伝達できないからだ。
一九六〇年代前半にすでに〈見えない都市〉を唱えて都市の消失を感じとった磯崎新もまた、〈未来都市は廃墟である〉というアナクロニックな宣言から建築家としてのキャリアを開始している。そこには磯崎が〈心理的傷痕〉と呼ぶ、敗戦直後の焼け跡の経験があった。「未来が過去の廃墟の光景と二重うつしになる。二方向の時間軸が重なり合う。非合理な連結作用が、この二重化のなかから生み出される」★二一。 
この〈回顧的投射〉によって未来は過去の廃墟のようになる。その廃墟に対して未来に生まれるべき構造体が接合され、ひとつのモンタージュがそこに生み出された。「時間が反転する。あるいは撹乱される。(…中略…)部分的に未来であり、部分的に過去である。現在は何も示されないが、それは不在として、この両者の間に介在する」。現在は存在しない。というよりも、現在はあらゆる偶然に向かって開かれているというべきかもしれない。未来と過去から構成されたこの廃墟において現在とは、ベンヤミンが『歴史の概念について』でいう〈今の時(Jetztzeit)〉のように、均質なクロノス的時間を垂直に断ち切る破局の時間にほかならないだろう。そのような現在とは事故= 偶然アクシデントに等しい。
廃墟としての未来都市が示した非合理な接合に通じるものを、磯崎はアンドレアス・ファイニンガーの写真集『ニューヨーク』に収められた一枚の写真に見出している。それはマンハッタンをクイーンズの墓地から遠望したものだった。そこでは超望遠レンズによって、マンハッタンの超高層ビルと墓地の墓石群が無媒介に連接していた。
「そのあげく、マンハッタンの超高層群は、あたかも墓石のように、墓地全体にわたって立ち並んでいる。墓石という死者を記念するために不変の石材によって組み立てられたものと、超高層という、実用的で、当然ながらオフィス活動のいままさに継続しているものとが、ここで一挙に連続して示されてしまった。墓石が超高層のモデルであり、逆に超高層は墓石に過ぎない、という関係がアイロニカルに出現している」★二二。
この時、大都市の生と死が、超望遠レンズというテクノロジーを駆使して、一枚の写真のなかに写し取られた。だが、われわれはここでむしろ、こう述べたくなる誘惑を抑えることができない。この光景は写真家の意図の産物などではありえず、普段は決して見ることのできない大都市の死相がそこでたまさか偶然に、カメラに捕らえられてしまったのだ、と。このアナクロニックな風景は任意に可能な連接の結果ではなく、誰にもはかり知れない事故= 偶然アクシデントだったのだ、と。
都市をめぐる記号の戯れにではなく、〈大都市という墓地〉を写したこの一枚の写真のようにテクノロジカル・ランドスケープの不活性な物質性のただなかに、アクシデントとその倒錯的な概念化を通じて、大都市のエロティックな恍惚と死の表情が読み取られなければならない。都市にとっての〈未来の化石〉、都市をアナクロニー化する場所が、都市そのものの地層のなかに発掘されなければならない。ここでこれから試みようとするのは、そんな都市時間の考古学、アナクロニズムの実践である。
(たなか  じゅん/ドイツ研究・表象文化論)

2──磯崎新《孵化過程》1962

2──磯崎新《孵化過程》1962

3──ハンス・ホライン《変換─鉱石用車両》1963

3──ハンス・ホライン《変換─鉱石用車両》1963

4──ハンス・ホライン《ウィーンの上部拡張》1960

4──ハンス・ホライン《ウィーンの上部拡張》1960


★一──Massimo Cacciari, Aut civitas aut polis? In : ders. : Großstadt. Baukunst. Nihilismus. Klagenfurt 1995, S. 35.
★二──次を参照。Massimo Cacciari: Gewalt und Harmonie. München 1995, S. 178. Anm. 21.
★三──Cacciari, Aut civitas aut polis? S. 35.
★四──プラトン『ティマイオス』からの引用は、種山恭子訳「ティマイオス ── 自然について」、『プラトン全集12』(岩波書店、一九七五年)による。
★五──ジャック・デリダ・磯崎新・浅田彰「ジャック・デリダ氏を囲んで──ディコンストラクションとは何か  〈ポスト・シティ・エイジ〉において」(『批評空間』第I期第8号、福武書店、一九九三年)一二四頁。
★六──Jacques  Derrida: Khôra. Éditions  Galilée, Paris 1993, pp. 24-25.
★七──ティマイオスは宇宙の生成を語る途中でコーラについて述べ始めるのに先立ち、こう告げている。「だから、次のようにして、もう一度逆戻りしなければならないのです。そして、まさにこの話題に恰好な、もう一つ別の出発点を、ここにまた改めて取り上げ、前の話の場合と同様、いまのこの話題についてもう一度、はじめから出直さなければなりません」(48B)。これに先立って彼はまた、「順序が後まわしになってしまって、われわれはようやくいまその話をしようとしているのですが」(34B)、あるいは「むしろ、われわれには、偶然的で出まかせなところが多分にあるので、話の仕方もやはり何かそういう調子ですが」(34C)といった言い回しを繰り返している。
★八──ポール・ヴィリリオ「根源的アクシデント」(『GS・たのしい知識』第4号、UPU、一九八六年)一五六─一五七頁。
★九──浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(小学館、一九九四年)一五五頁参照。
★一〇──ジョナサン・クレーリー「J=G・バラード ── 散乱する形態」、浅田彰・市田良彦訳(『GS・たのしい知識』第4号、UPU、一九八六年)五〇九─五一七頁。以下、この論文からの引用については出典の指示を省略する。なお、次の英語原文も参照した。Jonathan Crary: J. G. Ballard and the Promiscuity  of Forms. In: Zone  1/2, 1986, pp. 159-165.
★一一──J=G・バラード『残虐行為展覧会』、法水金太郎訳、(工作舎、一九八〇年)、三九頁。
★一二──同、六八頁。
★一三──同、二一〇頁。
★一四──「真実を見出すこと、あるいは精神の戦場 J=G・バラード・インタビュー」、(『GS・たのしい知識』山田和子訳、第4号、UPU、一九八六年)五〇〇頁。
★一五──バラード、前掲書、七一頁。
★一六──同、一二頁。
★一七──次のインタビューを参照。J=G・バラード+国領昭彦「テクノロジイの精神病理学」(『コンクリートの島』、大和田始・国領昭彦訳、NW- SF社、一九八一年)二二一─二二二頁。
★一八──J=G・バラード「終着の浜辺」(『時間の墓標』、伊藤哲訳、創元推理文庫、一九七〇年)二七九頁。
★一九──同、二八七─二八八頁。
★二〇──Paul Virilio: Bunker-Archäologie. München 1992, S.13.
★二一──磯崎新「廃墟論」、(『見立ての手法 日本的空間の読解』、鹿島出版会、一九九〇年)、三一三頁。
★二二──同、三一五頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.05

特集=住居の現在形

>マンフレッド・タフーリ

1935年 - 1994年
建築批評家、歴史家。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。