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砂漠のなかの砂漠──マンハッタン/カンダハル 殺される大官たちの都市 | 田中純
A Desert within a Desert: Manhattan/Kandahar Cities of Mandarin Killed | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.26 (都市集住スタディ, 2002年01月発行) pp.2-9

1 テロリストたちの夢と遠隔科学技術テレ=テクノロジー

対米同時多発テロの首謀者とされたウサマ・ビンラディンとその組織「アルカイダ」、および彼らをかくまっているタリバンを標的として始まった、アメリカ合衆国軍と反タリバン勢力の攻撃は、二〇〇一年一二月一六日現在、アルカイダをアフガニスタン南東部の山岳地帯に封じ込め、最終局面を迎えつつあるように見える。圧倒的な軍事力の差を背景として容赦のない空爆をつづけ、反タリバン勢力を強力に後押ししたアメリカの、なりふりかまわぬ破壊と殲滅は、イスラエル・シャロン政権によるパレスチナ自治区への強硬な軍事侵攻とほとんど同期するかのようにして展開された。自爆テロの連鎖がイスラエル軍による報復爆撃を生むという悪循環は、アメリカ軍の「報復」攻撃をなぞるように過激化している。反テロを名目にしたイスラエルの軍事侵略を合衆国が今は黙認するしかない状況を、シャロン政権が巧みに利用していることは言うまでもない。その一方で、合衆国ブッシュ政権のアフガニスタンをめぐる対応は、あたかも鏡像のように、いわばイスラエル化している。
合衆国国防総省は、同時多発テロへのビンラディンの関与を示す重要証拠として、ビデオテープを公開している。この映像の信憑性についてはなお疑義があるものの、ここではその点は問わない。注目したいのはこのビデオに記録された会話が繰り返し「夢」に触れていることだ。ビンラディンはそこでこう語っている。

ハッサン[アブ・アル・ハッサン(アル・マスリ)]氏は一年前、私に「米国人チームとサッカーをプレーしている夢を見た。我々のチームがフィールドに出た時、我々の選手はみんなパイロットだった」と話していた。そこでハッサン氏は「これはサッカーなのか、パイロットゲームなのか。我々の選手はパイロットだった」と話していた。(ハッサン氏は)ラジオでニュースを聞くまで、(テロ)作戦について何も知らなかった。彼は、試合が行われ、我々が彼ら(米国人)に勝ったと言っていた。それは我々にとって、良い兆しだった★一。


同じビデオでは同席者スレイマンが、テレビで見た、エジプトの家族が居間でテロの成功に喜んでいるという「ビッグ・イベント」の映像について、「サッカーの試合でひいきチームが勝ったときと同じ表情だ」と述べている★二。何千人もの死者を生んだテロが無造作にスポーツの試合に譬えられてしまう。その伏線は夢のヴィジョンとして与えられていた。アルカイダのメンバーの無意識から、そのイメージは浮上してきている。ビンラディンはこんなエピソードも語っている。

我々は、(アフガニスタン南部)カンダハルの同志が持つキャンプにいた。彼は(アル・カーイダと見られる)グループの多数派に所属していた。彼は私に近づいて、「米国の高い建物と、ムフタル(不明)が空手を教えている夢を見た」と言った。だから、私は、みんなが同じ夢を見れば、(テロ作戦の)秘密が暴露されるのではないかと恐れていた。だから、話題を変え、彼に別の夢を見ても、夢のことはだれにも言わないように頼んだ★三。


一九九三年にすでにビンラディン一派が関係したものと思われる世界貿易センター爆破事件が起こっているのだから、「米国の高い建物」が彼らの夢に現われることは不思議ではないかもしれない。いずれにしても、問題なのはこうした夢が事実であったかどうかよりも、大規模テロが回想的に物語られるとき、殊更に夢のヴィジョンが言及されているという説話の形式である。
たとえば、夢が神からのお告げであるといった信仰はありふれたものだし、ハディース(預言者についての伝承)には夢の解釈が数多く含まれている。そうした宗教的・文化的伝統が背景にあることはたしかだろう。他方、合衆国の高層ビルが攻撃され崩壊するといったイメージであれば、ハリウッド映画をはじめとするこの国の大衆文化がみずから大量に生産・消費してきたものだった。それはあまりに身近すぎるイメージであり、あまりに陳腐なので、ビンラディンが心配したような、「秘密」を暴露する無意識からの予告とは見なされなかった。
ハリウッド映画の消費者であるわれわれとビンラディンの間に違いがあるとすれば、それは「みんなが同じ夢を見るかもしれない」という予感や夢を「恐れる」という感覚(それは単なる戦術的な秘密主義の産物ではない)においてであろう。われわれは映画やさまざまな虚構のイメージを通じてすでに「同じ夢」を繰り返し見ているがゆえに、それを現実化するなどという可能性が信じられず、この夢を恐れることができなかった。
しかし、このビデオの同席者スレイマンが、テレビ報道を見て思わずサッカーの観戦者を思いだしてしまったように、あるいは、まさにここで取り上げているビンラディンの発言そのものが複製された映像から取られていることが示しているように、彼らテロリストたちの「夢」もまた、ハリウッド映画の媒体である遠隔科学技術テレ=テクノロジーを前提としている。ジャック・デリダは一九九四年におこなわれた講演で、遠隔科学技術と(単数定冠詞つきの)宗教(religio)なるものとの錯綜した関係に触れていた。デリダはそこで、「神の死の経験としてのキリスト教と、遠隔科学技術的資本主義のあの奇妙な結合」としての「世界ラテン化(mondialatinisation)」★四が、機械的に、いわゆる「原理主義」のエスカレーションを引き起こす機構を分析している。現在のところ、このreligioは言語・文化的なヘゲモニーを握る英米文化によって遺産相続され、再活性化されている、とデリダは言う。

宗教(religion)が世界に流通している。こう言えるだろうが、いわばローマに立ち寄り、合衆国を迂回した英語の単語として。厳密に資本主義的ないし政治・軍事的な比喩形象フイギユールをはるかに越えて、超帝国主義的我有化が、数世紀以来進行している★五。


すべての宗教、文化、国家、国民ないし民族は、こうした「超帝国主義的我有化」によって張り巡らされた遠距離コミュニケーションや遠隔科学技術の世界的ネットワークにからめとられてゆく──この世界市場の生産者、消費者、あるいは搾取者ないし犠牲者として。(単数定冠詞つきの)宗教(「信」)は遠隔科学技術的理性(「知」)に先行し、影のようにこの理性を監視する。両者を分かちがたいものにするこのような運動は、避けがたくその運動自体に反応する。それによってそこには、いわば免疫系の攻撃が自己自身に向かう「自己免疫能力」が分泌されることになる。デリダによれば、信と知を結びつけるのはこの自己免疫性の論理である。

今日、宗教は遠隔科学技術と同盟を結ぶとともに、全力でそれに反応(反動)している。一方で、宗教は世界ラテン化であり、遠隔メディア化の資本と知を産みだし、受け入れ、活用する。さもなければ、法王の旅行とその世界的スペクタクル化も、「ラシュディ事件」の異国家間の規模も、世界規模のテロリズムも、このリズムでは不可能だろう──そしてわれわれは、このような指標を無限に増やせるだろう。しかし、他方で、宗教は、宗教固有のあらゆる場所から、実際には場所そのものから、自らの真理の[=場所をもつこと]から宗教を追い立てる場合にのみ、この新たな力を与えてくれるものに対して、すぐさま同時に反応を示し、戦争を宣言する。宗教は、免疫性と自己免疫性というあの矛盾する二重構造にしたがって、自らを脅す場合にのみ守ってくれるものに、恐るべき戦争をしかけるのである。ところで、この二つの動きないし二つの源泉のあいだの関係は、避けがたく、したがって自動的かつ機械的である★六。


合衆国のヘゲモニーのもとで展開されている世界ラテン化と、それに一体化した遠隔科学技術は、両者に対する原理主義的な反動を生む。宗教なるものがあくまでreligioとして、ヨーロッパ文化の(つまり世界ラテン化の)内部から脱構築的に、単数定冠詞つきで思考されるかぎり、こうした運動は「免疫性と自己免疫性というあの矛盾する二重構造」の機械的な産物と見なされざるをえない。おそらくその運動のただなかに、デリダが「コーラ」の名で呼ぶとともに「砂漠のなかの砂漠」★七とも名づける場、記憶を欠いた場があるのだとしても。
アフガニスタンをめぐる現在の事態が「戦争」と呼ばれるべきでないことはしばしば指摘されているが、それを警察的暴 力ゲヴアルトに委ねる方途が具体的にあるわけではない。また、そのような警察的暴 力ゲヴアルトがおこなう戦闘に与えられるべき名も、まだ存在していない。一方、アルカイダとタリバンがそれぞれ性格を異にする集団であることに加え、テロリストの活動を「イスラム」という宗教と関係づけることが妥当かどうかにも議論はある。「文明の衝突」といったイデオロギーの疑わしさは言うまでもない。
しかし、ビンラディンらの組織がソ連侵攻後のアフガニスタン情勢をめぐる合衆国の思惑から生まれた鬼子であることはたしかだとしても、そうした経緯を政治的、経済的な要因にのみ還元することは、やはり、できない。このような事態であるからこそ、「イスラム教はイスラム主義でないにもかかわらず、イスラム主義はイスラム教の名で行われている」★八というデリダの指摘は耳を傾けるべきものだろう。さらに、この「名」のもとにおこなわれている原理主義的な異議申し立ては、宗教的なものを倫理的なもの、法的なもの、あるいは政治的なものや経済的なものの概念から切り離しうると考える「われわれ」の企てそれ自体に対する執拗な抵抗であるにちがいない。カール・シュミットを批判的に参照しつつデリダが述べるように、「われわれがしばしば政治的なものを分離したり分離すると主張したりすることを可能にしている根本的概念は、依然として宗教的あるいはいずれにしても政治神学的である」のだから。

これらの前提が受け入れられさえすれば、現在の宗教戦争の前代未聞の諸形態は、政治的なものの境界画定というわれわれの企てに対するラディカルな異議申し立てになるかもしれない。その場合、この異議申し立ては、われわれの民主主義観念が、例えば主権国家、市民主体、公共空間、私的空間といった法的、倫理的、政治的に関連するすべての概念とともに、実際に一定の宗教的系統を受け継ぐことによって、今でも宗教的なものを含んでいるということに対する一つの応答になるかもしれない★九。


こうした留保を幾重にもつけたうえでならば、現在の事態は、とりあえず、「宗教戦争」と呼ばれうるだろう。デリダが免疫と自己免疫の二重構造と呼ぶ、世界ラテン化のもとにおける宗教の機械的な反復的回帰ゆえに、この宗教戦争はウロボロスめいた、自分で自分を喰らいつくそうとする相貌を帯びている。そこでは、テロリストたちの夢もまた、彼らが異議申し立てをおこなっている対象であるはずの遠隔科学技術によって媒介されたイメージに、おのずと寄生してしまっているのである。

1──アメリカ合衆国国防総省が公開したオサマ・ビンラディンの映像 URL=http://dailynews.yahoo.com/h/p/nm/20011215/pl/mdf100113.html

1──アメリカ合衆国国防総省が公開したオサマ・ビンラディンの映像
URL=http://dailynews.yahoo.com/h/p/nm/20011215/pl/mdf100113.html

2──ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世、2001年12月12日 URL=http://dailynews.yahoo.com/h/p/nm/20011213/wl/mdf99460.html

2──ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世、2001年12月12日
URL=http://dailynews.yahoo.com/h/p/nm/20011213/wl/mdf99460.html

2 代理の死の上演

一九一五年にフロイトが書いた「戦争と死に関する、時に即した事柄」という論文が、その八〇年後にいかに「時に即した」ものとなっているかを精緻に解読した、一九九五年の講演に基づくサミュエル・ウェーバーの論考「戦時(Wartime)」★一〇は、それ自体がいまや、戦争と死をめぐる「時に即した」分析になっているように思われる。フロイトが用いている「時に即した事柄(Zeitgemäßes)」という単語にウェーバーは、ニーチェの『反時代的考察(Unzeitgemäße Betrachtungen)』への示唆を読み取る。フロイトは論文の冒頭で「この戦時(Kriegszeit)の渦に襲われて」★一一、われわれは出来事の意味を信じられなくなっていると述べている。「戦争」それ自体ではなく、「戦時」という時間の様態こそがこの混乱の源である。その「戦時」の「時」に即したものが何であるかをフロイトは考察しようとするのだ。
ウェーバーはこの「戦時」の時間性は、フロイトにとって、アンビヴァレントな衝動の「関節が外れた」時間、継起する出来事が共時化してしまう無意識の時間性にほかならない、と言う。それは排除と包摂、変容と持続、運動と静止といった対立する二極の同時共存を特徴とする。このようなアンビヴァレンツの根源に位置するのが、フロイトが論文の後半で取り上げる、死と人間の関係をめぐる問題である。
フロイトによれば、人間は極力、生から死を排除しようとする。そもそも自分の死は表象不可能である。そのような表象をどんなに試みてみても、「相変わらずそこでも実際には自分が観客にとどまっていることに気づかされる」★一二。こうした意味で、ひとは自分の死を信じてはいない。言い換えれば、無意識においては誰もが自分の不死を確信している。
だからこそ、虚構の上演=表象を通じて、たとえば虚構の主人公である死んでゆく英雄に同一化することで、自分の死を代理=表象させることが目論まれる。この表象=代理=上演の虚構的メカニズムに依拠することによってはじめて、ひとはいくつもの生命をあらたに得て、次々と別の英雄に同一化し、代理の死を繰り返すことが可能になる。死んでゆく他者への同一化によるこうした擬似的な死の経験は、自分自身の死に直面することを避けるためのひとつの方法である。
第一次世界大戦が人々に強いたのは、こうした自分の死の排除がもはや不可能になり、その存在を信じるしかないという状況だった。「戦時」がもたらしている精神的な混乱は、フロイトによれば、死に対するいままでの関係をもはや維持することができず、他方で新しい関係をまだ見いだすにはいたっていないという宙吊り状態に由来する。
「トーテムとタブー」の議論を参照しながらフロイトが言及しているように、ひとは自分の死を信じることはできず、見知らぬ他者や敵に対しては殺人の欲望をもち、家族や愛する者の死についてはとりわけアンビヴァレントな感情を抱く。愛する者は自分の一部にも似た存在でありながら、同時にその死を無意識に望んでいる他者でもあるからだ。

[愛する者の死に際して]ひとはもはや死を自分から遠ざけておくことはできなかった。なぜなら彼はすでに亡くなった者をめぐる悼みのなかでそれを味わっていたから。けれど彼はそれを認めることも望まなかった。なぜなら彼は自分が死んでいるとは表象できなかったから。そこで彼は妥協をするにいたり、死をみずからにも認める一方で、死に対して生の消滅という意味を与えることを拒んだ。敵の死においてはこうした否認のモチーフはまったく欠如していたのだが★一三。


ウェーバーはフロイトの議論を敷衍し、戦争は敵の死を通じて、みずからの死を、表象=上演されるスペクタクルに変えるのだ、と言う。死をこのような「見せ物のスポーツ」★一四と化してしまう点で、芸術的な虚構と戦争の間には深い共犯関係がある。さらに、テレビをはじめとする電子メディアは、この「スポーツ」に新しい要素を加えた。フロイトは、愛する者の死がもたらすアンビヴァレントな感情に罪責感の起源を見いだすとともに、この感情に発し、肉体とは別に存在して死後も残りつづける魂の想定にいたる心理的プロセスを再構成している。ウェーバーによれば、魂というこの幽霊じみた生命こそ、電子メディアが死をめぐる「見せ物のスポーツ」に付け加えた要素である。テレビは視聴覚的な知覚の領域を一挙に拡大し、眼と耳を遍在させるにいたった。視覚と聴覚は、それが束縛されていた個々人の肉体からは解き放たれたかのように見える。しかし、その一方で、視聴者の身体はかつてないほど個別に隔離されて傷つきやすい状態に置かれ、彼らはすでに、死の否認が致命的な暴力の表象と密接に絡み合いながら同時進行する空間に入り込んでしまっている。コンテクストを欠いて脈絡を失った、際限のない暴力の表象(代理の死の表象)は、それらを統一的に理解する手がかりを与えることなく、視聴者のこうした隔離状態を強めるばかりだ。
 

おそらくここに、とくに見せ物のスポーツとしての戦争のひとつの機能がある。というのも、「戦争」はスポーツのように、人々を動員する見かけを作り出すからである。一致団結した共同体の見かけ、「奴ら」に対する「われわれ」の見かけ、「侵入者」でもある「ヴィジター」に対する「ホームチーム」の見かけを。テレビの画面を通してフィルターがかかった戦争のスペクタクルは、個々人や一般市民の暴力が行使される場面では許されることのない種類の集団的な同一化を可能にするのである。こうした集団的同一化を通して、罪は克服されないにしても、少なくとも他者に転嫁され、「われわれ」からは──生まれによって、人種によって、あるいは信念によって──分離されるのである★一五。


世界貿易センターの破壊をサッカーの試合に譬えたビンラディンの側近たちは、死を「見せ物のスポーツ」に変えてしまう戦争の機能に忠実に、テレビ画面を通した代理の死を通じて、集団的同一化をおこなっていたのだと言えるだろうか。ウェーバーは、戦争のスペクタクルはますますテロリズムのそれによって補完されるようになっていると診断し、今日の事態を見越したかのように、「テロリズムの孤立化された行為[芝居(act)]はそれに対する戦争の口実になる」と書いていた★一六。
ウェーバーが取り上げている論文中でフロイトは、バルザックの『ゴリオ爺さん』から、ルソーの著作のものであるという、読者への問いかけを引用している。それは、パリを離れることなく、もとより見つかる恐れもなく、北京にいる老大官マンダリンを自分の意志の働きだけで殺すことができ、しかもそれによって多大な利益を得ることができるとすれば、あなたはどうしますか、というものだ。フロイトはもちろん、この老大官の命は安泰ではありえないと考えている。「『彼の大官を殺すこと(Tuer son Mandarin)』は、今日の人間にも潜む、こうした秘かな心の用意について、諺にも似たものとなった」★一七。
この話の出典は実際にはルソーではないらしい。カルロ・ギンズブルグは距離の道徳的意味をめぐる論考のなかで、「中国」という土地と関連した、これに類似した一種の道徳的実験をディドロの著作のなかに見いだしている★一八。ディドロのこのテクストを受けて、シャトーブリアンは『ゴリオ爺さん』の話のもとになる議論を展開した。これらはいずれも、空間的な距離は道徳的な感情を弱めるかどうかを問題にした内容だった。
複数の著者たちをへてたどり着いたフロイトのテクストのなかで、このストーリーはひとつの諺になる。ウェーバーはこの諺が、それ以前の語られ方とは微妙に異なる形式をとっていることに注目する。シャトーブリアンやバルザックのテクストでは、「大官」はひとりの異人、外国人であり、定冠詞のleが付けられている。一方、この話が諺と化したフロイトのテクストでは、leが「彼の」を表わすsonに変わっているのだ。中国の大官は、いわば「彼」という個人の幻想をそれぞれ個別に支える存在として、その個人の所有の対象になる。ウェーバーによれば、この幻想が担う意味とは「死を他者、つまり、別の集団・国民・文化・世界に割り当てることにより、死との間に距離を保とうとする欲望」である。

かくして、この幻想が呼び起こすのはある対象についての欲望ではなく、力についての欲望である。すなわち、死の表象をコントロールすることにより、死を遠隔化する力である。この幻想の射程はグローバルだ。というのも、すべてを包摂する表象能力についての幻想を通してのみ、死の単独性はコントロール下にもたらされうるからだ。その幻想の内部では、意志があらゆる距離とあらゆる障害を乗り越えて世界に勝利する。それは肉体に対する精神の勝利であり、むしろたぶんよりいっそう、物質に対するメディアの勝利である。このようにしてのみ、死は、自分の利益のために他者たちに課すことのできる何かとして現われることが可能になる★一九。


虚構の、あるいは現実に起こった惨劇のイメージを通して、合衆国の住民やわれわれ、そしてビンラディンのようなテロリストたちもまた、それぞれ個別な「彼の」大官を殺している。それによってわれわれは自分たちから死を遠ざけようとしている。戦争の遠隔科学技術的な映像とは、「われわれ」の大官を殺し、死の表象をコントロールするための、強力なメディアにほかならない。この点に関しては、ビンラディンたちもまた、遠隔科学技術的な知と無縁ではない。ただし、このテロリストたちにおいては、死の表象のコントロールが同志の自爆テロという剥き出しの死の露呈と直結してしまっているのだが。
固有名によって名指されることなく、つねに無名なままにとどまる大官にあたる存在は、しかし、この遠隔科学技術的資本主義の時代にあってはもちろん単なる幻想ではなく、実在している。たとえばそれはアフガニスタンの住民たちである。まさしく彼らが実在するからこそ、その現実のイメージはスペクタクル化されるどころか、逆に無化されてしまう。映画『カンダハル』を撮影したイランの監督モフセン・マフマルバフは「アフガニスタンは、さまざまな理由から、映像イメージがない国である」と言う★二〇。それはタリバン支配下で女性が顔を見せられなかったとか、テレビや映画産業がなかったという理由によるばかりではない。アフガニスタンについての映像もまたきわめて限られていた。「まるで、アフガニスタンは映像イメージのない国のままでいてかまわないという世界的な合意でもなされているかのようだ」★二一。
イメージをもたない、というよりも、イメージを奪われつづけてきた国アフガニスタンは、あの物語のなかの中国にも似た空間である。たしかにその住民たちの死は経済的な利益をもたらすわけではないかもしれないが、それに代わるはるかに根強い欲望を充足させる。言うまでもなく、死の表象をコントロールし、死を他者に転嫁して距離を保つという欲望である。その住民たちにイメージを取り戻させることは、しかし、この欲望の対象となった状態から彼らを解放することではない。アフガニスタンで数百万の人々が飢えと死の恐怖にさらされている事実を言葉や映像によって伝えることは必要であり、なされるべきことだが、マフマルバフも承知しているであろうように、そこで伝達される内容はメディアの内部でさまざまに変形され、直接的な効果に結びつくとはかぎらない。イメージが回復されたとしても、やはりわれわれの大官として殺される者は残る。欲望の経済にとって問題なのはそこに投影される幻想であって、現実の映像ではないからだ。その意味では、「映像イメージのない国」アフガニスタンが、オマル師という「イメージのない統治者」★二二を生んだことは、同じ幻想の論理に従っていたと言えなくもない。
タリバンによるバーミヤン石仏の破壊をめぐって、全世界から仏像を守ろうとする運動が起こる一方、アフガニスタンで百万の人々に差し迫っていた死については、悲しみの声がごくわずかしかわき起こらなかったことをとらえて、マフマルバフは「現代の世界では、人間よりも像のほうが大事にされるというのか」と嘆く★二三。だが、まさにそうなのであり、遠隔科学技術的なメディアによって身近にもたらされるのはあくまで像としての現実でしかない。その像が本来位置していたコンテクストから、映像の視聴者は隔離されてしまっている。仏像破壊の意味をマフマルバフが次のように読み替えるとき、それはみずからの死の否認(他者への転嫁)が暴力の表象と手に手を携えてエスカレートしてゆく遠隔映像の世界に対する、激しい異議申し立てになっている。

ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ★二四。


タリバンは「像」を破壊する映像によって、イメージを欠いた場所アフガニスタンにひとつのイメージを与えた。映像イメージを奪われた民がイメージの崩壊というイメージによって表象される。マフマルバフの指摘は、こうしたイメージに象徴的な意味の負荷が与えられてゆくネットワークを組みかえようとする。しかし、彼自身が述べているように、実際には「誰も、崩れ落ちた仏像が指さしていた、死に瀕している国民をみなかった」★二五。映像を奪われた民はまたしても、相互に分離され隔離された視聴者たちの想像力から抜け落ちてしまったのである。
九月一一日の事件に始まる「戦時」の時間はこうした状況をいくばくかは変えたのだろうか。湾岸戦争とは異なり、アフガニスタンの戦闘は、とくに合衆国側から見るとき、「映像イメージのない戦争」である。テロリストたちの夢のなかではともかく、映像としては、「見せ物のスポーツ」であることを、それは必ずしも必要とされてはいない。だからこそ、多大な代価をはらってようやく安定した政権作りが始まったアフガニスタンが、再び「映像イメージのない国」になり、世界の無関心を味わう可能性もまた高いだろう。
合衆国の国民にとって、集団的な同一化を可能にする決定的な「スペクタクル」は九月一一日にすでに起こってしまった。あとに残された者に執拗につきまとうアンビヴァレントな罪責感は他者に転嫁され、「奴ら」の殲滅が実行されている。なるほどそれはまったく根拠を欠いた攻撃ではない。しかし、それもまた所詮は、他者に死を背負わせることにより、自分自身の死の可能性と直面することを避ける身ぶりにほかならないのではないだろうか。
マンハッタンに開いてしまった巨大なブラックホールは、フロイトが「戦時の渦」と呼んだものに似た混乱開始の、凄まじい痕跡であるように思われる。この関節が外れた時間のもとではもはや、死に対する従来の関係を維持することはできない。一方、おのれの死に対する新しい関係を、われわれはまだ見いだしているわけでもない。遠隔科学技術によって増幅された、代理の死者(死の表象)への同一化によるカタルシスの循環構造から抜け出して、免疫性と自己免疫性が共存する「源泉の二重性」のただなかに、「砂漠のなかの砂漠」を求めることは可能だろうか。その場所には「出口も確実な道もなく、進路も到達点もなく、また予測可能な地図や計算可能なプログラムを持つ外部もない」★二六。この「最も無秩序アナルシックで保存不可能な場所」は、「他者を可能にし、開き、掘り下げ、無限化する砂漠」である★二七。死の単独性を表象によってコントロールするのではなく、同一化によって他者の死を簒奪するのでもなく、単独な死を死んでゆく他者との距離を尊重すること──今現在の戦いがひとつの「宗教戦争」なのだとしたら、こうした「砂漠のなかの砂漠」の経験と一致するような「宗教」は果たして存在するのだろうか。しかし、何よりもわれわれは、たとえばマンハッタン、カンダハル、そしてエルサレムの地で、自分たちがいったい誰を「われわれの大官」として殺してきたのかを、あるいは殺しつづけているのかを、まず知ることから始めなければならないだろう。「砂漠のなかの砂漠」が存在するとすれば、それはわれわれ自身の身代わりになって死んでいった「別の集団・国民・文化・世界」の側にであり、これら殺された大官たちの都市においてであろうから。

3──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より URL=http://www.makhmalbaf.com/img/bgallery/momovkndpi009b.jpg

3──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より
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4──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より URL=http://www.makhmalbaf.com/img/bgallery/momovkndpi027b.jpg

4──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より
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5──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より URL=http://www.makhmalbaf.com/img/bgallery/momovkndpi026b.jpg

5──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より
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6──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より URL=http://www.makhmalbaf.com/img/bgallery/momovkndpi029b.jpg

6──モフセン・マフマルバフ監督『カンダハル』より
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7──バーミヤンの石仏 URL=http://www.unesco.org/opi/eng/unescopress/photos/afghan-heritage/ close_upbu dda.jpg

7──バーミヤンの石仏
URL=http://www.unesco.org/opi/eng/unescopress/photos/afghan-heritage/
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8──タリバンによる石仏の破壊、2001年3月13日 URL=http://asia.cnn.com/2001/WORLD/asiapcf/central/03/12/ afghan.buddha.02/enlar ged.after.statue.jpg

8──タリバンによる石仏の破壊、2001年3月13日
URL=http://asia.cnn.com/2001/WORLD/asiapcf/central/03/12/
afghan.buddha.02/enlar ged.after.statue.jpg


9──人工衛星から撮影された世界貿易センターの跡地、 マンハッタン、2001年9月15日 URL=http://data2.artifice.com/gbc/images/cid_wtc0915_1280-clo.jpg

9──人工衛星から撮影された世界貿易センターの跡地、
マンハッタン、2001年9月15日
URL=http://data2.artifice.com/gbc/images/cid_wtc0915_1280-clo.jpg


★一──読売新聞二〇〇一年一二月一四日付け夕刊「ビンラーディン・ビデオ要旨」より。
★二──同。
★三──同。
★四──ジャック・デリダ「信仰と知──たんなる理性の限界内における『宗教』の二源泉」(松葉祥一+榊原達哉訳、『批評空間』II期一一号、太田出版、一九九六所収)九七頁。
★五──同二(『批評空間』II期一二号、太田出版、一九九七所収)一三五頁。
★六──同三(『批評空間』II期一三号、太田出版、一九九七所収)一七〇頁。
★七──デリダ「信仰と知」一〇三頁。
★八──同、九二頁。
★九──同二、一三二─一三三頁。
★一〇──Samuel Weber: Wartime. In: Hent de Vries, and Samuel Weber: Violence, Identity, and Self-determination. Stanford, Calif.: Stanford University Press, 1997, pp.80-105.
★一一──Sigmund Freud: Zeitgemäßes über Krieg und Tod. In: ders. : Gesammelte Werke. X. Werke aus den Jahren 1913-1917. Frankfurt am Main: Fischer, 1999, S. 324.
★一二──Ibid., S.341.
★一三──Ibid., S.347.
★一四──Weber, op.cit., p.99.
★一五──Ibid., p.102.
★一六──Ibid.
★一七──Freud, op.cit., S.352.
★一八──カルロ・ギンズブルグ「中国人官吏を殺すこと──距離の道徳的意味」、『ピノッキオの眼──距離についての九つの省察』(竹山博英訳、せりか書房、二〇〇一)三一七─三四四頁。
★一九──Weber, op.cit., pp.104-105.
★二〇──モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(武井みゆき+渡部良子訳、現代企画室、二〇〇一)二八頁。
★二一──同、三二頁。
★二二──同、一二〇頁。
★二三──同、一五頁。
★二四──同、二七頁。
★二五──同、一〇七頁。
★二六──デリダ「信仰と知」九三頁。
★二七──同、一〇〇頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『死者たちの都市へ』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.26

特集=都市集住スタディ

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...