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空間論的転回
都市をめぐる社会科学的な議論のなかで、今日しばしば、社会理論や都市の社会学における「空間論的転回」と呼ばれる事態が語られてい
る★一。アンリ・ルフェーヴルの都市論、マニュエル・カステルの新都市社会学、デヴィッド・ハーヴェイの社会地理学、アンソニー・ギデンスの構造化理論などに典型的に見出されるとされるこの「転回」は、現代の都市や社会の構造やそれを貫く論理を、空間をめぐる社会的な諸関係とそれを貫く論理として捉えようとする「空間論」的な問題意識をゆるやかに共有しており、また相互に影響を与え合ってもいる★二。それらの試みが「転回(turn)」と呼ばれるのは、とりわけ古典的なマルクス主義の社会理論の「時間論的偏向」ないし「没空間論的偏向」からの理論的転回としてこれらの理論が構想され、また理解されているからであ
る★三。そしてそれが都市の社会学の周辺でしばしば新しい動向として語られるのは、時に固有の対象の不在を指摘されてきた都市社会学に対し、新しい分析の対象として「空間」の存在を指し示しているようにも思われるからである。
都市をもっぱら「空間」という点から問題としてきた建築学などの隣接領域の都市論の側から見れば、「空間」を分析の俎上にあげることを取り立てて「転回」と呼ぶことに、何をいまさらという感がないわけでもないだろう。そうした遅ればせの「発見」に対する〈はにかみ〉のようなものがそこにあまり見られないということも、端から見るとすこし気恥ずかしくもあるのだが、無論、ここで言いたいのはそうしたことではない。ここでこの「転回」を取り上げたのは、それが「都市」と「社会」の関係をめぐる思考における一つの密かな断念と共にあるように思われるからである。その断念とは、都市を一つの全体的な「社会」として記述し、分析しようとすることの断念である。
マニュエル・カステルの新都市社会学に典型的に見られるように、こうした空間論の社会学的な都市論への導入において、都市と呼ばれる領域は、たとえばシカゴ学派の都市社会学が想定していたような一つの社会的世界の全体として捉えられるのではない。そこでは都市は、より大域的なシステムである国民国家システムや資本制経済によって規定された全体社会の内部で、部分的・局域的に生産される空間をめぐる問題の場として捉えられる。この時捉えられるのは、あるトータルなシステムや集合体としての「都市という社会」ではなく、「都市と呼ばれる領域」における社会的事実としての「空間」であり、それをめぐる社会的諸関係なのだ。たとえばそこでは、都市自治体もまたこうした「空間」の生産と消費をめぐる諸関係における行為者の一つであるに過ぎない。「都市と呼ばれる領域」は、国家、自治体、企業、住民などの諸行為者の、空間の生産と消費をめぐる全体的な諸関係の中で生産され、消費される、局域的な空間の発現の場として捉えられる。この時、「都市と呼ばれる領域」は、社会システムの局域的かつ空間的な発現の場であり、社会システムや社会体制を支える媒介変数として対象化されてはいるが、そこに「都市という社会」が見出されているわけではない。都市をめぐる社会理論の「空間論的転回」は、見出された対象としての空間のなかに「都市」を再発見するのではない。そうではなく、都市が一個の社会としてはもはや不在であるように見える場所に、それに代わる社会的事実として「空間」を発見するのである。
ここには、マックス・ウェーバーの『都市の類型学』や、それに対するドン・マーティンデールの論評にまで遡る、近代の都市を一つの「社会」として捉えることの困難が、より明示的な形で示されている★四。それは近代都市を、特定の地理的範域とそこに帰属する特定の成員の集団からなる社会として対象化することの困難である。古代や中世の都市ならともかく、近代の都市、とりわけ今世紀の大都市を「市域」という地理的範域と「市民」という人びとの集団からなるものとして捉えようとする時、人はそこに近代の都市がもつ実在感や現実性の、恣意的な還元や矮小化を見出すだろう。都市の社会学における空間論的転回はこうした困難に際して、都市を一つの社会として捉えることを断念し、それに代わる社会的事実である「空間」をめぐる社会的な諸関係のなかに、社会学的思考の新たな対象を求めるのである。ここには、中・近世までの形象的=想念的(figured)な都市から、近・現代の非形象的=非想念的(disfigured)な都市への移行をめぐる問題が、都市における空間と社会との関係の問題として現われている★五。都市を一つの「社会」として捉えることの困難と、「都市」に代わる社会学的形象としての「空間」の発見とは、近代都市の形が崩れ、形象として想像することが困難で、全体性の見出し難い領域になってしまったことに対する社会学的な知の反応なのだ。
かつて都市社会学者たちが「都市社会学の危機」と呼んだりもしていたこの困難は、けれども単に、「都市」を「社会」として捉えることの困難であるのではない。それはむしろ近代における「社会」を、具体的な人間の集団や土地空間上の特定の範域の全体として捉え、対象化することの困難の一つの現われであり、それゆえむしろ近代における社会学的な知に常に付きまとう困難の一つの現われである。
社会という存在は、具体的にはさまざまな集団生活や包括的な全体社会を意味するものであるとされる。なるほど、家族や企業のように成員が排他的に限定された集団に関しては、それを対象化することはさほど難しいことではないように見える★六。だが、たとえば「国民社会」を一つの全体であるという時、そこでの社会の「全体」を一義的に画定することは、「国民社会(national society)」と「国民国家(nation state)」をあえて取り違えることなしには困難である。「国民社会」と呼ばれる関係の場は、必ずしも「国民」と呼ばれる人びとの具体的な集合や、「国土」と呼ばれる土地空間上の広がりに還元することのできない大域的かつ重層的な関係の広がりなのであって、それを「国民」という人間の集合と「国土」と呼ばれる土地空間上の広がりに限定することは、恣意的な形象による社会の全体性の設定でしかない。そうした恣意的な設定が、「国民社会」に実定性を与えるものとして現実に機能しているのは事実だが、「国民社会」をそうした具体的な形象の水準に還元してしまう時、国民(nation)という「想像の共同体」の文字通り想像的な位相が雲散霧消してしまうというのもまた、もう一面の真実である★七。それは、近・現代における都市を「市民」と「市域」に限定することが、都市という存在の全体の恣意的な設定であり、それによって都市が私たちの社会でもっているリアリティを削ぎ落としてしまうこととパラレルである。この二つの還元に通底しているのは、近代における社会を
だが、現代の都市が非形象的で全体的な実体を欠いた領域であるということは、そこにもはや「都市という社会」という言葉に対応する何物も見出せないということなのだろうか。それが常に困難に付きまとわれていたとしても、「近代の自意識」としての社会学的な知は、そうした
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土地という形象=想念
空間論的転回を待つまでもなく、人間の歴史の中で、都市は、特定の土地空間上にあることを積極的な契機として存在する社会として存在してきた。都市は、その土地空間を広い意味で共有し、共用する人びとからなる社会であり、また、その土地空間自体が社会の不可欠な部分であり、土台として存在するような社会、すなわち「定住(settlement)」である。社会のこうした定住的なあり方は、都市に限らず、多くの部族社会や農耕社会に共通して見出される。
土地空間を共同性の形象としてもつこうした社会のあり方は、人が社会について思考する時の一つの「モデル」として機能している。私たちは近隣のコミュニティから村落、都市、地域、地方、国民社会、そして世界社会にいたるまでを、こうした「定住」的なモデルによって思考し、了解している。だが、近代における都市や社会の捉えがたさは、私たちの都市や社会がそうしたモデルからどこかずれてしまうあり方をしていることを暗示している。一見迂回するように見えるかもしれないが、そのことを理解するために、ここでは社会の定住的なあり方を再検討することから始めよう。
定住とは、土地空間を広い意味で共有ないし共用する人びとの集団からなる社会であると、右に述べた。共有や共用とは、土地空間を社会生活の媒体として共に所有し、あるいは使用するということだ。だが、多くの社会において土地空間は、社会生活の〈為に〉共に所有し、使用するというような、目的性の回路においてのみ共有され、あるいは共用されてきたのではない。むしろ多くの社会において土地空間は、人びとの集合体が「社会」として存在することそれ自体の条件として見出されてきたのである。
狭い意味での「定住」の例ではないが、たとえばオーストラリア中部の原住民にとって、自らが居住する周囲の自然環境は、単に「資源」でも美しい「景観」でもなく、彼らの神々や祖先の誰かがつくり出したものであり、その風景のなかに神々や祖先の功業が刻み込まれたもの[図1]として見出されている★九。このような例は、他の多くの「原始的」な諸部族や、農耕社会にも見出される。こうした社会では、土地空間は利用され、所有される「資源」であるだけでなく、人びとの集団に「社会」と呼びうる共同性が成立するための不可欠な媒介項として見出されている。人為的な区画や建造物によって作られる「定住」は、単に住むための必要を充足するための施設や装置ではなく、このような社会関係の媒体を人工的に製作する試みである。レヴィ=ストロースの分析によって広く知られるボロロ族の村落を始めとする、多くの社会の集落や村落の空間構造が示しているように、定住地の設営とは、土地空間上への建造物の配置や区画の設定を通じて、土地空間を社会関係の媒体として作り出し、そのようなものとして「運用」していくことなのである★一○。サレジオ会の宣教師によって、集落の伝統的な空間構造を奪われてしまった結果、その宗教や社会組織をも失ってしまったというボロロ族についてのやはりよく知られているエピソードは、彼らにとってはその定住空間が、共同体の特定のあり方を可能にするための不可欠な媒介項であったことを示している[図2]。
このような媒介項としての土地空間は、
私たちはここで、ベンヤミンの「アウラ」の概念を思い出してもよいかもしれない。ベンヤミンにとって、アウラとは次のようなものであった。
そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされる不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。夏の午後、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは憩っている者の上に影を投げかけている木の枝を、目で追うこと、これがこの山々のアウラを、この木のアウラを呼吸することである★一一。
右にあげたような事例において、土地空間を共有し、共用することはそのアウラを、人々の集合体の内部に一定の共同性を可能にするものとして呼吸することである。この時、呼吸される社会のアウラは、社会の「いま・ここ」に現われてはいるが、同時にまたそこに到達不可能な遙かな根源が望まれるようなものである。ここで「遙かな根源」とは、社会という存在の起源であり、歴史的な時間の内部には場を占めることのない神話的な時空である。土地空間や定住空間を、人びとの集合体を共同体へと変換する媒体とするのは、土地空間やその上の建築物の配置に表出し、表象されるが、決して土地空間や建造物の物質性それ自体のなかには場を占めることのない、この根源的な形象=想念である。人間の歴史の中で、多くの社会の都市や定住の
この根源的な形象=想念の位置づく位相を、J・ヒリス・ミラーにならって「場を占めぬもの(the atopical)」と呼ぶことができる。ミラーはそれを、次のように表現している。
それ(=「場を占めぬもの」[引用者註])は何処(everywhere)ででもあり、かつ何処でもない場所(nowhere)であり、今いる場所からは決して到達しえない場所である。遅かれ早かれ(…中略…)、地図を作ろうとする努力は、地図に出来ないものとの遭遇によって妨げられる。地形学(topography)と地名研究(toponymy)は、(…中略…)場所をもたない場所を隠してしまう。それは、ある特定可能な地点で現象として生じるという仕方で「場所を占め(took place)」たりなどせず、それゆえ知ることに対しても開かれてなどいなかった出来事の場所である。この場所を占めることなしに生じる(took place)奇妙な出来事は、それがユニークな遂行的な出来事(a unique performative event)であるがゆえに、認識の対象になりえない。この奇妙な場所は事物がそこに場を占める大地(the ground of things)の別名であり、大地に根源的に先立つ大地(the preoriginal ground of the ground)であり、いかなる地図作成の活動とも異なるものである★一二。
「場を占めぬもの」とは、物質的な土地空間の中に見出すことはできないが、それなしには土地空間が社会的な事実として現われることのないような、土地空間を社会的に有意味なものとして産出し、制作する遂行的な過程であり、そうした過程を通じて生み出された意味の世界である。ミラーが言うように、この過程は土地空間が社会的な実定性を与えられ、その上に社会的な諸関係が位置づけられる「大地」として現われることに先立っている。土地空間が社会としての定住の空間になるためには、土地空間は単に物質的なものに止まっていてはならず、社会的な実践や出来事の遂行を通じて、集合的な意味を表象する場へと変換されねばならない。この時、土地空間はそれ自体が直接に〈社会的なもの〉、人びとの集合体の共同性を支え、その拠り所となるようなものとして現われ、そこに生きる人びとの集合を、土地空間に定礎した共同体とする。そしてその時、土地空間上の特定の範域は、そこに定礎する共同体の全域性を表象し、またそれ自体が社会の外延を定義する全体として現われるのである。
1──オーストラリア原住民が大地を読み解くために用いるチューリンガ(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房より)
2──ボロロ族の村落(同『構造人類学』みすず書房より)
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町の紋章
アンリ・ピレンヌは『中世都市』の中で、ヨーロッパ中世における都市
[図3]について、次のように述べている。
その解放の起源が何であれ、中世の都市は単なる諸個人の集合体ではない。都市それ自体が個人である。但しこの個人は集団的個人であり、法人である★一三。
ピレンヌが述べているのは、ヨーロッパ中世において都市が存在するとは、単に人びとと彼らが居住する空間が存在するということではなく、それらの人びとが一つの団体──universitas(ウニヴェルシタース)、communitas(コムーニタース)、communio(コムーニオー)──を形成し、それが一個の法人として集団的人格をもつことであるということである。この時、城壁に囲まれ、集会のための広場を中心にもつ建造物としての都市空間は、物的な施設であると同時に、この集団が定住社会として在りつづけるための「身体」であり、その集団から抽象された「法人」としての都市の「身体」である。物理的な建造物としての都市空間を法人としての都市の身体へと変換し、その空間を一個の社会の全体たらしめるのは、それを一個の法人として名指し、思考し、制度化する言説的実践と、それが生み出す「法人」という共同性の想像的な形象である。都市は、この物理的な空間には場を占めることのない思考や遂行、制度や言説と共にあることによって、一個の定住として形象化され、了解される。
このようなあり方において、都市は、2で述べたような社会の定住としてのあり方を、律儀になぞっているように見える。実際、多くの論者たちがそのコスモロジーやシンボリズムを分析してきたことからも分かるように、都市は古来から形象的=想念的な場として形成されてき
た★一四。だが、都市の社会学の「空間論的転回」や、近代において都市を対象化しようとする言説のアレゴリー化が示していたのは、定住空間が直接に社会的であるような都市のこのようなあり方が、近代の都市においてはすでに失われているということであった筈だ★一五。重要なことは、この変容を単なる「不在」や「喪失」の物語として捉えるのではなく、都市とそれをめぐる社会的な想像力のある構造的な変容、「都市という社会」のあり方の構造変容として捉えることである。
「町の紋章」と題された、バベルの塔[図4]の建設をめぐる異聞の体裁をとったフランツ・カフカの掌編に、私たちはそうした思考のための補助線を見出すことができる★一六・一七。
それによれば、バベルの塔の建造は初めはかなり順調に進められ、建設事業のための道路標識、通訳官、職工の宿舎、連絡網などが整然と整えられた。だが、塔の建設そのものは何百年にわたる仕事であるという理由から、きわめて慎重に進められた。天までとどく塔を建てるという思想は、ひとたび抱かれれば消えることはないように思われたし、人類の知識と建築技術は進歩し続けるだろうと考えられた。そうであるならば、今現在のなけなしの能力を総動員するよりも、知識と技術の進歩した未来に建設を先送りした方が効率的である。また、後続する世代は自分たちが進歩した分だけ先行者の仕事が気に入らず、それを取り壊して新たに始めないとも限らない。そう考えると意欲も萎えた。人びとは塔の建造よりも、塔の建造に従事する者たちの町造りにかかりきりになり、そうして作られた町に多くの人びとが移り住んだ。人びとは美しい地域への居住権をめぐってしばしばいざこざや騒動を起こし、その結果、塔の建設事業はさらに先へと延期された。やがて世代が下るにつれて、天までとどく塔を建てることが無意味であることが知れ渡り、塔を建てるという当初の計画は放棄される。とはいえ、塔を建設するために作られた町に暮らす人びとの間にはすでに親密な関係が出来上がってしまっていたので、いまさら町を出てゆくわけにもいかない。かくして「この町に生まれた伝説や唄はどれといわず、予言に語られている日を待ちこがれている。巨大な拳が現われて町を五たび打ち、こっぱみじんに砕いてしまうという予言であり、だからしてこの町の紋章には一つの握り拳が描かれている」★一八。
バベルの塔は、かつて町に住む人びとにその存在の根拠を与え、彼らの集合体に共同性を与えた社会的な形象=想念である。それは、「天まで届く」というその試みの不可能性においても、そもそもその不在の塔が町の建設の「起源」であり、その存在の「根拠」であるという意味でも、町という「場所としての社会」=「定住」の存在を支える「場を占めぬもの」だ。だが、人びとが塔を建設するための町に住みはじめると、そこに住むことの意味が変化し始める。塔を建てることよりも、美しい地域に住むことが目的となり、また、人びとの間に親密な関係が生まれると、それがそこに住みつづけることの理由となる。それでも「塔」という理想が信じられている限りは、人びとはそれを自分たちの存在を意味付ける遙かな根源と見なし続けることができる。だが、その理念も放棄されてしまうと、町の存在を意味づけるものは、そこに人びとが以前から住んでおり、今も住み、将来も住むであろうという「住むことの事実性」に取って替わられる。しかしながら人びとは、社会学者であれば「世俗化」と呼ぶであろうこの変化に心理的に、文字通り「安住」することができない。町に生まれた伝説や唄に予言された破壊の日は、町の人びとを捉えるこの共通の不安を表象している。それが町の紋章にも描かれているということは、今やこの「住むことの不安」こそが、町に住まう人びとの集合体を捉える唯一の共通の想念であるということだ。
この不安は、社会や個人の同一性を不安に曝すような領域として都市を捉えてきた、近代の様々な都市論に通底する意識を寓話的に示しているように見える★一九。定住空間の全体を一個の社会として意味づける起源や根拠を欠いた近代の都市では、時にこうした不安の意識のみが、都市という領域を社会的に意味づける共通の想念であるようにも思われよう。だがそれは、都市の社会的なアイデンティティであるというよりも、近代の都市が非形象的=非想念的なものになってしまったことに対する、社会意識のレヴェルでの反応であり、近代の都市が人びとの集合体の上に生み出す社会的な効果であると言う方が正確だろう。近代の都市の存立を支える「場を占めぬもの」は、そうした反応や効果とは別の場所、そのような反応や効果を社会的な事実として生み出す別の位相に求められねばならない。
〈the atopical〉という言葉には、「場を占めぬもの」の他に「語りえぬもの」という意味もある。先のミラーの言葉に従えば、それは近代的な地形学や地名学において土地空間上の特定の場所を与えられ、名を与えられるものとは異なる位相にあるということだ。バベルの塔のような神話的な形象=想念や、「未開」社会の村落や古代都市に見出されるコスモロジーや意味論的な構造は、それが言説として語られ、表象として描かれるという意味では無論「語られるもの」である。だが、それらが日常的な言説や行為に先立つ、いわば「大地に先立つ大地」という位相にあって常には語られぬ、定住社会の根源に位置するという意味では「語りえぬもの」という言い方は必ずしも不適切ではない。たとえば、古代のローマには「ローマ」という名の他に、口に出すことを禁じられた秘密の名前が存在しており、それこそが都市の神話的な構造や起源と照応していたという事実を想起する時、それを「語りえぬもの」と呼ぶことはむしろ適切なものであると言えるだろう★二○。
だが実は、都市はこうした神話的な象徴や構造とはまた別の位相にある「場を占めぬもの」、「語りえぬもの」によって、古来から支えられてきた。その場を占めず、語りえぬものは、土地空間に表象され、人びとの集合体に共同性を与える規範的な意味によって、しばしば覆い隠されてきたが、それこそが都市を村落とは異なる社会として可能にするようなものである。近代の都市が、住むことの事実性とそれに対する不安の領域として現われるのも、形象的=想念的な都市がその形象と想念によって押さえ込んできたこの別の位相が、そうした形象と想念の消失を通じてあらわになっていったからなのである。都市という存在にとって「大地に根源的に先立つ大地」であり、かつまた、都市を「自然」としての大地とは異なる大地へと定礎させ、村落的な定住とは異なる位相に存在させてきた、この場を占めず、語りえぬもの。さしあたり〈貨幣〉という表象に要約的に示される、この場を占めぬものと都市との関係について、私たちはさらに思考を巡らせねばならない。
(この項続く)
3──ヨーロッパ中世の都市(『都市と共同体』上、比較都市研究会編より)
4──ブリューゲル《バベルの塔》
註
★一──たとえば、吉原直樹『都市空間の社会理論──ニュー・アーバンソシオロジーの挑戦』(東京大学出版会、一九九四年)。吉原(編)『都市空間の構想力』(勁草書房、一九九六年)など。ただし、『都市空間の社会理論』では吉原は「空間論的転回」という言葉ではなく「空間論ルネサンス」という表現を用いている。また、Gregory, D. & Urry, J. (eds), Social Relations and Spatial Structure, Macmillan, 1985等も参照。
★二──以下の文献等を参照。Lefebvre, H. La droit a la ville, Editions Anthropos, 1968. =森本和夫訳『都市への権利』(筑摩叢書、一九六九年)。同、La revolution urbaine, Editions Gallimard, 1970.=今井成美訳『都市革命』(晶文社、一九七四年)。Castells, M. La question urbaine, Francois Maspero, 1977.=山田操訳『都市問題──科学的理論と分析』(恒星社厚生閣、一九八四年)。Harvey, D. The Condition of Postmodernity, Blackwell, 1990. Giddens, A. The Constitution of Society, Polity Press, 1984.
★三──もっとも、マルクス自身は必ずしも「空間」の問題を完全に無視していたわけではない。たとえば『経済学批判要綱』では、生産物が商品に変わるのは、生産地から市場への移動という場所的要素によっていると論じている。
★四──Weber, M. Wirtschaft und Gesellschaft, Grundriss der verstehenden Soziologie, 1956. =世良晃志郎訳『都市の類型学』(創文社、一九六四年)。Martindale, D. "Prefatory Remarks: The Theory of the City", Weber, M. (Martindale, D. & Neuwirth G. (trs) & (eds)) The City, The Free Press, 1966.
★五──「
★六──もちろん、それは単にそう「見える」だけなのであって、「家族」や「企業」に関してもまた、これから述べるような理念的な位相と物質的な位相の二重性やズレが存在している。
★七──Anderson, B. Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983.=白石隆・白石さや訳『想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(リブロポート、一九九二年)。
★八──田中純が指摘しているように、「すでに百年以上にわたって、〈社会〉に関する学は〈都市〉に憑かれてきた」(田中純「未来の化石」『10+1』No. 5、一九九六年、一六頁)。私も別の場所で論じたことがあるように、近代における社会をめぐる知において、「都市」という場所に「すぐれて近代的なもの」が見出されてきた一方で、そうした「都市」を固有の「社会的事実」として見出すことの困難もまた、繰り返し指摘されてきた。田中が指摘し、また本文でも述べたように、「都市を諸関係の配列の流通のシステムという一つの全体として(ひとつの空間表象として)考察」(同論文、一八頁)しようとする時、社会学的な知は近代の「都市」をうまく捕まえることができない。だが、〈社会学者〉としての私はここで、にもかかわらず都市を一個の〈社会〉として思考することを、あえて試みる。ただしその試みは、次節以降で示されるように、〈社会〉という概念のある転回をも伴うものである。
★九──Levi-Strauss, C. La Pené sauvage, Plon, 1962.=大橋保夫訳『野生の思考』(みすず書房、一九七六年)、二九二頁。
★一○──別の場所でも論じたように、人間にとって「住むこと」とは、社会関係の媒体としての土地空間や建築空間の中に住み込むことなのである。この点については、若林幹夫「住居──社会的媒体としての」(『10+1』No. 5、INAX出版、一九九六年)、五六─五九頁を参照。
★一一──Benjamin, W. "Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit", 1936.=浅井健二郎編訳、久保哲司訳「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫、一九九五年)、五七○頁。
★一二──Miller, J. H. Topographies, Stanford University Press, 1995, p.7.
★一三──Pirenne, H. Les ville du moyen: Essai d'historie economique et sociale, Bruxelles, 1927.=佐々木克巳訳『中世都市』(創文社、一九七○年)、一五四頁。
★一四──このことについては、若林幹夫「都市空間と社会形態──熱い空間と冷たい空間」見田他編『時間と空間の社会学』(岩波書店、一九九六年)、同「地図、統計、写真──大都市の相貌」(前掲★五を参照)。
★一五──都市論のアレゴリー化については、若林「地図、統計、写真──大都市の相貌」(前掲★五を参照)。
★一六──Kafka, F. "Das Stadtweigen der Sirenen", 1918.=池内紀訳「町の紋章」池内編訳『カフカ短篇集』(岩波文庫、一九八七年)、二二一─二二三頁。
★一七──旧約聖書におけるバベルの塔の物語それ自体も、都市という存在に対する本質的な洞察として読むことができる。このことについては、若林幹夫『熱い都市 冷たい都市』(弘文堂、一九九二年)、第二章三節を参照。
★一八──カフカ前掲訳書、二二三頁。
★一九──内田隆三「都市の現在」大澤真幸編『社会学のすすめ』(筑摩書房、一九九六年)、一二二─一二五頁。
★二○──Rykwert, J. The Idea of a Town: The Anthropology of Urban Form in Rome, Italy and the Ancient World, Faber and Faber, 1976.=前川道郎・小野育雄訳『〈まち〉のイデア──ローマと古代世界と都市の形の人間学』(みすず書房、一九九一年)、一○一─一○二頁。