RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.08>ARTICLE

>
記憶の終着駅型──オルセー美術館の廃墟の記憶 | 松浦寿輝
The Last Stop of Memory: Memories of the Ruins of the Musee d'Orsay | Matuura Hisaki
掲載『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて , 1997年03月01日発行) pp.2-15

炎に包まれるオルセー

パリを燃やしてしまえ。日に日に「現代化」しつつある一八八〇年代末のフランスの首都に、「現在」への屈折した憎悪を抱えこみつつ暮らしていた奇矯な作家が、文化状況を論じた時評的なエッセーの一節に、ふとこんな呪詛を書きつける。「証券取引所も、マドレーヌ寺院も、戦争省も、サン=グザヴィエ教会も、オペラ座も、オデオン座も、つまりは汚辱の芸術の中でも最上の選り抜きばかりを並べて、ことごとく燃やしてしまうことはできないものか」。この町の醜悪さは、もはや創造や改良によって救えるといった程度をはるかに越えている。希望があるとすればそれは焼尽と破壊による消極的な美化だけだろう。「〈火〉こそわれらの時代の本質的な芸術家なのだ」★一。
J=K・ユイスマンスが彼一流のアイロニーを籠めて吐き捨てたこの都市建築批評に関しては、われわれはすでに別の場所で、この時点からほど遠からぬ未来に建設が予告されていたエッフェル塔との関連でかなり詳細な考察を行なっている★二。だが、そこで十分には触れえなかった点の一つに、視線を未来にではなく過去に遡行させてみた場合、当時のパリ市民にとって、燃え上がる都市建築というこのヴィジョンは、必ずしも根も葉もない夢物語というわけではなかったという事実がある。なるほどもはや二〇年近く昔の話になってはいるが、権力を代表する幾つかの壮大な建築物に暴徒が火を放ち、その炎が夜空を赤々と染め上げて、何かしら終末論的なイメージを喚起するという出来事が一八七一年に起きていたのであり、一八四八年生まれのパリっ子であるユイスマンスもまた、第二帝政期の見せかけの繁栄という虚構に止めを刺したこの戦火を、間近から目撃していたはずなのだ。
もうそこかしこでバリケードも破られ、最終段階に入ったパリ・コミューンが今にも崩壊しようとしていた一八七一年五月二三日、市の中心部から火の手が上がり、翌二四日にかけてパリは大火災に包まれる。その結果、建築としての美醜はともかくとして、テュイルリー宮、パリ市庁舎、大蔵省、レジオン・ドヌール勲位局の置かれていたサルム=キルクブルグ館などが灰燼に帰すことになったのだ。革命、反革命、クー・デタなどが相次いだ近代フランスであるが、その首都にこれほどにまで潰滅的なカタストロフの光景が現出したことは未だかつてなかった。ユイスマンスの〈火〉のファンタスムは、必ずしも幻想作家の脳に揺らめく放恣な空想だったわけではない。放言は放言としても、そこに彼は、自身の身体の深層に沈殿するきわめてなまなましい私的な記憶を投影しつつ語っていたのである。
ところで、このとき「火という芸術家」が手を下した記念碑建築の一つに、オルセー宮がある★三。ナポレオン皇帝の発議で着工し、一八三八年に完成したこのオルセー河岸の宮殿には、会計検査院と国事院が置かれていたのだが、この建物もまた五月二四日に石油とタールをかけられて放火され、ほぼ全焼してしまったのだ。もっともこの宮殿は重苦しい外観と利用しづらい内部空間がむしろ不評だったので、その焼失を深く惜しむ声はあまり多くはなかった。だが、ここでの不思議は、セーヌを挟んでテュイルリー宮の真向かいに位置するというパリ中心部の一角なのに、石の外壁だけがあちこち剥落した痛々しい姿で立ちつくすこのオルセー宮跡の廃墟が、そうした荒廃状態のままその後何と三〇年近くも放置されることになったという点である。一八九七年にオルレアン鉄道会社がこの敷地を政府から買い入れ、コンペの末に建築家ヴィクトール・ラルー(一八五〇─一九三七)に設計を委託してそこに鉄道駅を建設する一九〇〇年まで、人々はこのセーヌ河畔の一等地に朝な夕な廃墟の光景を眺めつづけることになったのだ。サルム館は一八七八年に再建されたし、市庁舎の再建も七四年には企てられ、八二年に完成する。ところが、オルセー宮の跡地だけはなぜか放置され、無秩序に生い茂る草や樹木を崩れかけた壁が取り囲むという「詩的」な光景が、近代化=都市化のヴェクトルに傲然と逆らいつつ、パリの中心部に図々しく居座りつづけたのである。様々な計画が提起されたもののそのどれもが実現には至らず、万国博覧会の開催を契機として廃墟が駅に変貌するのは、結局、一九世紀の最後の年まで持ち越されることになる。
実際、エドモン・フランクの描写によれば、この場所は一八九七年に至ってもなお次のような状態であったらしい──

こうした諸々の「断乎たる優柔不断」のおかげで、パリは、一八七一年以来今日に至るまで、もっとも敬うべきものにして絵画美に満ちたピトレスク、歴史的かつ現代的な廃墟を所有するという、稀な幸運に恵まれたのである。……でたらめに生長した小灌木、旺盛に繁って絡み合う藪、しつこくはびこるイラクサの茂み、厚い苔の上を蛇のように這うもつれた茨、密生した草むら──こうしたものが、風から守られ、墓を思わせる囲いの内部の生暖かく湿った空気の中で繁栄している廃墟の植生だ。そしてこの空間のぐるり周囲には、暗いアーケード、隙間から陽光の射しこんでくる回廊、錆で腐食したバルコニーなどがそそり立っているのである★四。


オルセー駅建設の背景には、鉄道の終着駅を中心部に近寄せたいという都市論的な要請があった。他のターミナル駅と比べて地の利の悪いオーステルリッツ駅をそれまで終着駅としていたオルレアン鉄道は、万国博覧会を機会に線路をセーヌに沿ってオルセー河岸まで延長し、そこに表玄関を開設することで、なおいっそうの利用客の増大を図ろうとしたのである。一八七八年のローマ賞の受賞者でボ・ザールの教授だったヴィクトール・ラルーの設計は、折衷様式の石のファサードが工業的な鉄骨構造を覆い隠しているというもので、この点は、やはり同様に一九〇〇年パリ万博に際して建てられたグラン・パレやプティ・パレと共通している。伝統美のカノンと産業資本主義の効率性との妥協点を探る試みとしてはそこそこの成功を収めているものの、建築史的・文化史的に言うならこれはボ・ザール的なアカデミズムの最後のあがきとでも呼ぶべきものにすぎず、さしたる興味を惹く対象ではない。金属アーチによるガラス屋根を頂いた列車の発着ホールは、高さ三二メートル、幅四〇メートル、奥行き一三八メートルという巨大ドームであり、それなりに壮麗な印象を喚起する屋内空間ではあったが、アカデミックな美学の観点に立つならばもちろんこうした「無粋」な空間は外からあからさまに見えてはならず、その内部は、ベルシャッス通りとリール通りの角に附設した三七〇の客室を持つホテルの、石のファサードによって隠されなければならなかった。
ともあれ、一九〇〇年の革命記念日すなわち七月一四日にオルセー駅は落成式を迎え、以後、国内的また国際的な交通の装置として機能しはじめることになる。だが、交通装置としてのオルセー駅の寿命は以外に早く尽きることになった。電化された列車の時代に入るや、オルセー駅のプラットフォームは短すぎて使い物にならなくなり、一九三九年以降、実質上、廃駅と化してゆくことになるのだ。
ふたたび廃墟の時代が始まる。駅の用をなさなくなったラルーの建物は様々な催しや活動に供されるようになり、たとえば一九四五年には捕虜受付センターに使われたりしているが、そもそもそのために設計された当初の目的を奪われたこの駅舎が単にだだっ広いだけの間の抜けた空間に頽落してゆく運命は免れがたい。一九七三年、併設のホテルの閉業とともに、郊外電車の停車場としての機能も停止し、オルセー駅は完全に宙に迷うことになる。ただし、中央市場レ・アルが郊外のルンジスへ移転するのに伴って取り壊されてしまったあのバルタール設計の鉄骨ガラス建築のホールとは運命を異にして、オルセー駅は保存建築の指定を受け、七一年には歴史記念碑の補遺目録に載せられていた。七七年、この駅舎を一九世紀後半の美術に捧げられた美術館として再生させるという決定が採択されて以後の事態の進行は、人の知る通りである。八〇年以降、ラルーの建築の骨格を尊重するという原則の下、イタリア人建築家ガエ・アウレンティが内装に腕を振るい、八六年一二月、オルセー美術館が開館するのだ。

1──オルセー宮(1838年完成)

1──オルセー宮(1838年完成)

2──1871年に焼亡したオルセー宮跡の廃墟

2──1871年に焼亡したオルセー宮跡の廃墟

3──同上

3──同上

4──建設工事中のオルセー駅(1990年5月12日撮影)

4──建設工事中のオルセー駅(1990年5月12日撮影)

5──オルセー駅の列車発着ホール

5──オルセー駅の列車発着ホール

6──オルセー美術館(1986年開館)

6──オルセー美術館(1986年開館)

廃墟=空虚

それにしてもこれは、控えめに言ってもまことに数奇な成り行きではあるまいか。オルセー河岸のこの敷地が一九世紀半ば以降に辿った運命には、都市機能の現代的整備といった単線的な物語をほとんど虚構と化してしまうかのごとき倒錯的なヴェクトルが漲っている。そこには、都市の現代化という線状のプロセスからは大幅にはみ出した途方もない紆余曲折が現出しているのだ。
何よりもまず、一八七一年から一九〇〇年までの二九年間、一九三九年から八六年までの四七年、合わせて七六年にもわたる空白期間をどう考えるべきかという点がある。ここは、何と四分の三世紀もの間、まともに活用されないまま放っておかれた虚ろな空間なのだ。呪われた場所、といった感想が浮かばないでもない。しかしまた、翻って考え直してみるならば、「のままではかくも哀れを誘う今世紀の建築も、焼き尽くされたときになって初めて、壮麗な、ほとんど崇高と言ってもいいようなものになる」★五 というユイスマンスの嘲笑的な提言は、オルセー宮に関するかぎり、これ以上は望みようのない理想的なかたちで実現されたのであり、そのことの意義をむしろ肯定的に捉えることも可能ではないだろうか。
オルセー宮は、古めかしい石の宮殿のまま存続し、時代とのあからさまなずれを耐えつづけたわけではない。が、かと言ってまた、たとえば一八七八年のとき建てられた仰々しいトロカデロ宮殿がそうなったように、「近代」との齟齬に耐えきれず綺麗さっぱり地上から取り払われてしまったわけでもなかった。それは、「火という芸術家」の手で加工が施された非常に特殊な種類の建築と化して、一九世紀の最後の三分の一を過ごしたのである。その建築に、ユイスマンスなら彼一流のアイロニカルな悪意を籠めて「焼亡建築(l'architecture cuite)」の名を与えるだろうが、われわれはそれをもっと単純に廃墟と呼んでしまってもよい。狭義の「近代」の始まりを画すると考えてよい一八八〇年代という決定的な一時期を、オルセーというこのトポスは、きわめて独創的な仕方でやり過ごすことを選んだ。「近代以前」にとどまるのでも「近代」にふさわしい姿に転生するのでもなく、廃墟という「何ものでもない状態」と化して、曖昧な煉獄状況をずるずると引き延ばしつつ新世紀の到来を待つという特異な途を選択したのである。
だがこれは、「前近代」から「近代」への「閾」とでも言うべきこの過渡的な一時期に、案外ぴたりと調和した選択であったかもしれない。模範的とも言うべき廃墟と化したオルセー宮跡に生い茂る植物を描写するエドモン・フランクの文章を先ほど引用したが、この描写は、ベンヤミンが国立図書館の閲覧室についてめぐらせたあの詩的瞑想を想起させはしまいか。「パリのパサージュを扱ったこの著作は、丸天井に広がる雲一つない青い空の下の戸外で始められた。だが何百万枚という木の葉に、何世紀もの埃に埋もれてしまった……」図書閲覧室が埃と枯れ葉に埋もれてゆくように、オルセー宮跡の廃墟もまた、旺盛に繁った藪や厚い苔の上を這う茨の茂みに埋もれてゆく。それは、命名され分類され管理された、すなわち文化的視線によって飼い馴らされた植物園の植生ではない。どこからともなく飛来した種子が、石の都市の皮膚の下に潜りこみ、そこに広がる土に根を下ろし、芽吹き、繁茂し、徐々に空間を覆い尽くしてゆく。テュイルリー宮の対岸というパリ中心部に、すなわち「文化」の内奥深くに、「野生」の植物相が侵入し、内部と外部との間の境界を曖昧化しながら、都市空間を浸食しそこに陥没点を穿ってゆく。一八八九年の万博でエッフェル塔がそそり立ったとき、この文明のチャンピオンと密かに拮抗するかのごとく、シャン・ド・マルスとほど遠からぬ一郭にはこうした「野生」の空間が潜んでいたのである。
しかも、この「廃墟化」の運動は、オルセー駅の開設によって終焉したわけではなかった。ジャック・イットルフ設計の北駅(一八六五年竣工)が今日なお往時のままの姿で用いられていることを思えば、オルセー駅の生命が尽きるのは異様に早かったという印象を受けざるをえない。一九三九年以降、今度は繁茂する草木の侵入を受けるということこそなかったものの、資本主義に奉仕する有用性を喪失した駅舎は、徐々に荒廃してゆく。取り壊されるわけでもなく、新たに建て直されるわけでもなく、単に放置されたまま立ち枯れていったのであり、この期間がこれもまた半世紀近くの長きにわたることになるのである。この場所には、最終的に美術館という「知」の集蔵=展示施設が設営され、現在に至っているわけであるが、この「知」の空間がその背後にこうした「廃墟化」の時間の記憶を隠し持っていることを知っているのは良いことだ。ベンヤミンにとっての国立図書館閲覧室がそうであるように、「知」の空間としてのオルセー美術館もまた、恐らく廃墟のイメージを重ね合わせることによって新たな輝きを放ちはじめるという側面があるに違いないからである。だが、その問題に触れる前に、なおいささかの回り道が必要だ。

プルーストのミュージアム論

先に辿り直した歴史的経緯によって明らかであるように、駅から美術館へという移行は、外的条件の絡み合いによって生じた偶発事にすぎず、そこには何もとりたてて本質的な理由があったわけではない。だが、ここで興味深いのは、オルセー駅が後年、美術館に変身することなど知るよしもなかった一人の作家が、一九一八年に刊行され翌年度のゴンクール賞を受賞したその長篇小説の中で、駅と美術館との間のやや唐突なアナロジーに言及しているという事実であろう。
そのアナロジーが現われるのは、マルセル・プルーストの大長篇の一部分をなす『花咲く乙女たちの蔭に』の、第二部「土地の名──土地」の冒頭近くである。これは『スワン家の方へ』の第三部「土地の名──」の後を享ける部分であり、ここで語り手の「私」は、地名の響きをきっかけにイメージ豊かな夢想を紡いでいた時期から訣別し、いよいよ現実の土地そのものに赴こうとする。具体的には彼は海辺の保養地バルベックへ向かって旅立とうとしているのであり、その地では運命の恋人アルベルティーヌとの出会いが準備されつつあるのだが、「土地の名──土地」の冒頭で語られるのは決定的な人生の転機を画するこの旅立ちにほかならない。だがここで「私」にとっての問題は、この旅をいかなる交通機関によって行なうかである。
「この旅行は、今日であれば、恐らく人は自動車にするであろう、その方がずっと快適だと思われるから」と、その「今日」なるものがいかなる時点であるのかを曖昧にしたまま「私」は語り出す★六。それに自動車で旅する方が、「土地の表面の様々な起伏を、いっそう身近に、いっそう緊密に辿ってゆくことになる」のだから、「いっそう真なる」旅だと言えなくもない。しかし、と「私」はそこで考え直す──旅行特有の愉しみとは、「途上で地面に下りたり疲れたときに止まったりできる、ということではなく、またそんなふうに出発と到着との間の差異をできるだけ感じられなくすることよりも、むしろその差異をできるだけ深く感じるようにすることにある」のではないか。肝心なのは「二つの場所の距離の差を、思考にあったときのままに、完全に、そっくりそのままで、もう一度感じ直すこと」であり、そのとき想像力の奇蹟的な飛躍が、「判然と異なる土地の二つの個性を一つに結びつけ」、いわば「われわれを一つの名から他の名のところへ連れていってくれる」。そして、駅という特別な場所で達成される「謎めいた作用」こそ、この飛躍を、簡明単純に表わしているのだ。
それに続く一節で、「私」はやや唐突に、いくぶん抽象的な次元への思考のシフトを行なう。「しかし、あらゆる領域において」と、「私」は話を一般論へと拡張しつつ、「われわれの時代は、事物を、現実世界においてそれを取り巻いているものによってしか示そうとせず、その結果、喫緊の重要事を見逃してしまう、すなわち、事物を現実世界から孤絶させた精神の働きを抹消してしまうという奇妙な嗜癖を持っている」と断定するのである。たとえば、或る絵を、それが描かれたのと同じ時代の家具や置物や壁掛けを配置した部屋にもっともらしく飾りつけ、夕食を取りながら眺めたとしても、いったい何になろう。そのとき、傑作は、「美術館の広間にあって初めて人がそれに求めるべき、あの恍惚とした悦び」をもたらしてはくれないだろう。作品の起源にある創造行為の輝きは、美術館という抽象空間の中に置かれてこそ再活性化され、見る者の瞳の前に明らかになるのだ。「美術館の広間こそ、芸術家が創作のために自己に没頭した内面の空間を、はるかによく象徴しているのだ──裸形であることによって、ありとあらゆる特殊性が剥奪されていることによって」。
かくして、駅と美術館とが結果的にはアナロジカルに並置されていることになるのだが、そのアナロジーが正確にはどのようなものなのかということになると、ここでのプルーストの思考はやや曖昧で明晰さを欠くと言わざるをえない。絵画をそれが属する時代風土の中に置いて飾りつけるといった、いわば地続きのコンテクストを提示するやりかたが一方にあり、それは「想像力の飛躍」とは無縁の自動車旅行に似ているということになろう。他方、絵画をコンテクストから切り離し、裸形の抽象空間の中で孤立させてしまう美術館の展示法があって、それは、まさにそうしたコンテクストの切断によってのみ創造活動を行ないえた芸術家の精神を剥き出しの姿で現出させているという点で、駅というトポスが喚起するあの「想像力の奇蹟的な飛躍」、つまり人を「一つの名から他の名のところへと」一挙に連れていってくれる、あの唐突な結合の力を思わせるところがあるというわけだ。駅と美術館は、何かしらの「距離」が還元不可能ななまなましさで露出しているという点で共通する、二つの場所ということになるわけだ。しかし、どう言葉を補おうともこれはやや苦しいアナロジーであり、それを結んでいる論理の糸が強靱さを欠くという憾みは残る。もちろんプルーストの思考を統べているものが合理主義に徹した整合性の論理ではなく、イメージの論理であり、無意識の論理であることは当然の前提としたうえでの話である。
だが、鉄道駅=美術館というパラレリズムがやや強引にすぎ、アナロジーの論理がややぎくしゃくとしているのは事実にせよ、ここでプルーストの直観が、都市に固有な二つの空間装置──一つは交通の、もう一つは〈美〉の収集と展示の──をいくぶん唐突に並置し、両者ともどものうちに差異と断絶と非連続性の空間を見たうえで、それを同化と連続性に対立させつつ顕彰していることの面白さは残る★七。

距離とその幻惑

出発にせよ、到着にせよ、ここあそことの間の「差異」が一挙に露出する現象であるという点では共通しており、その意味で、駅とは、身体的にはここ=パリにいる者を心理的にはあそこ=バルベックへと不意に連れ出してしまう想像力の装置だと言える。他方、美術館の壁から立ち上がってくるのもまた、「差異」としての裸形の創造行為である。作品がそれを取り巻く周囲の空間と過不足なく調和し合っているような場合には隠蔽されてしまうなまなましい「差異」の衝迫が、美術館という抽象空間に放り出された作品からは放射されているのであり、芸術のアマトゥールとしてのプルーストが享受したいと欲したのは、この「差異」の立ち上がりの力そのものだったのである。ひとたび失われたもの──ここでは創造行為の現在──が再発見されるという、プルーストに馴染み深い発想のパターンが、美術館という空間へのオマージュにも反復されているのは、きわめて興味深いことと言えるだろう。「事物を、それを取り巻く現実から切り離してみせた精神の働き」は、ひとたび忘れ去られた記憶となって作品の内部に畳みこまれている。それを甦らせるのは、その一点の絵、その一点の彫刻と深く親密な関係を結ぼうとする観衆のまなざしだ。芸術の愛する者の視線の下で、作品を成立させた創造の一撃の記憶が、干からびた紙の花が水に浸されると見る見るうちに脹らんで美しく咲き誇るように、不意にあでやかに蘇生する。こうした体験が可能となるのは、「差異」を際立たせる空間としての美術館においてこそのことだとプルーストは言うのである。
プルーストが提起した駅と美術館とのアナロジーは、はるか未来におけるオルセー駅の美術館化を予知した、不気味なまでに正確な託宣であるかに見えないでもない。だが、駅であったことの記憶が、オルセー美術館にとって、こうしたプルースト的な意味での富として、利点として働いているかどうかということになると、かなり疑わしいと言わざるをえない。ニュー・ヒストリシズムの代表的な理論家の一人であるスティーヴン・J・グリーンブラットは、ミュージアム空間を律する意味作用の両極を「反響(resonance)」と「驚異(wonder)」として定義した興味深い論文の末尾に、オルセー美術館への批判を書きつけている★八。
そもそも権力者や富者の所有になる、ヴンダーカマー、クンストカマーなどと呼ばれる珍品コレクションから出発したミュージアムという装置にとっては、「驚異」──見る者の瞳を魅了する幻惑力──こそその本来の基本的属性だったはずである。ところが、今日の美術館はこの側面へのアクセントが弱まり、そのかわり「反響」──見る者の記憶を励起し、その精神の地平に文化的コンテクストの倍音を響かせる力──の側面がより強調されるようになってきている。グリーンブラットは、現在のミュージュアム空間を構成する論理をそのように特徴づけたうえで、こうした事態への批判的な懐疑を表明する。そして、美術館=博物館のコンセプトの流れとして「驚異」の寺院から「反響」の殿堂へという一般的な傾向があるとして、それをもっとも先鋭に代表しているのがオルセー美術館の創設だというのが、グリーンブラットの意見なのだ。かつて印象派と後期印象派の傑作を集めていたジュー・ド・ポーム美術館には、人々を瞠目させる「驚異」の魅惑が漲っていた。ところが、ジュー・ド・ポームの閉鎖と引き換えに、それらが悉くオルセー美術館に移され、鈍重で退屈な官展派の大作と隣り合うことになったとき、それによって、なるほどたしかに一九世紀後半のフランス美術という文化的コンテクストは見易くなったかもしれないし、そのぶん意味作用の「反響」の振幅は大きくなったかもしれないが、その一方で、「驚異」の側面は大幅に犠牲にされざるをえなかったと言うべきではあるまいか。なるほどオルセーが大した文化の殿堂であることには疑う余地はないが、人を忘我の境地に誘いこむような「驚異」の効果には乏しい空間だというこの感想は、多くの人々の素朴な印象と合致するだろう。
今日多くの観光客を集めているオルセー美術館は、プルーストが駅と美術館とに見出していたあの「差異」の露出の迫力を、相対的にはむしろ欠落させた文化施設であるかに見える。それは、一九世紀フランス文化の重々しい威光によって見る者を平伏させる国威発揚の装置に近い何かなのであり、そこでは、同時代の文化的コンテクストからむしろみずからを切断することによって傑作を創造しえたはずの天才の精神の飛躍は、さほど際立ったかたちでは強調されていない。むしろ、「驚異的」な天才の輝きといった突出した出来事はすべて凡庸な灰色の地に溶けこませてしまうといった仕方で、ディスプレイの空間がデザインされているのである。オルセーは、傑作の美が、芸術を愛する者の瞳を、その唯一無二の出来事性によってどれほど深く魅了するかという問いよりも、傑作も凡作も取り混ぜた美術資料の堆積が、その即物的な現前を越えて、どれほど豊かな文化的共鳴作用を惹起しうるかという問いの方に重点を置くという仕方で構想され、設計され、運営されている美術館なのだ。しかしこれは、まさしくプルースト言うところの、「事物を、現実世界においてそれを取り巻いているものによって示」すやりかたではないのか。駅と美術館にプルーストが見ていた「驚異」を、駅から美術館に変身したオルセーはむしろ失ってしまったのである。
だが、オルセー美術館批判がここでのわれわれの趣旨ではない。実のところ、「驚異」の欠落は、この美術館のコレクションがそれに捧げられている一九世紀フランスの、美術というよりむしろ社会そのものに内在する特性にほかならず、この特性を模範的な強度で表象しているという点で、恐らくこれはこれなりに非常に成功した見事な美術館なのである。一九世紀後半のフランスは、実際上、「反響」が「驚異」に勝利した時代だったのであり、作品の選択においても、管理や展示の様態においても、空間の構成においても、そうした時代の過不足ない表象たらんとしたオルセーは、その慎ましい野心を間然するところなく実現した、きわめて良質な文化施設なのだ。良質たらんとする欲望しか抱いていないという点でこの美術館を批難するのは、無いものねだりと言うほかない。駅と美術館をめぐるプルーストの感慨を誘発したのは、ノルマンディー地方へ向かう列車の出るサン・ラザール駅であったが、オルセー美術館でわれわれがプルーストを想起するのは、この建物それ自体を通じてであるよりはむしろ、上階の印象派の部屋に展示されているクロード・モネ作《サン・ラザール駅》(一八七七年)という美しいタブローと出会う瞬間においてであるかもしれぬ。もちろんこのタブローもかつてはジュー・ド・ポームにあったものである。

7──ベルトニウス《珍品博物館》 分類する視線や歴史意識によって秩序づけられる以前のヴンダーカマーの一例

7──ベルトニウス《珍品博物館》
分類する視線や歴史意識によって秩序づけられる以前のヴンダーカマーの一例

8──クロード・モネ作《サン・ラザール駅》(1877年)

8──クロード・モネ作《サン・ラザール駅》(1877年)

記憶でしかないものの記憶

しかし、都市のトポスとして見た場合、廃墟と駅という二つの記憶がその内部に畳みこまれている美術館というものが、まさに一つの「驚異」と映るという事実は残る。オルセー美術館の美術館としての質や構造を論じることはここでの主題ではないし、問題をその水準に限ってみるならば、プルースト的アナロジーにもかかわらず、駅であったというその前身が、この展示空間を何かしら生産的な仕方で活気づけているようには思われない。なるほど、プラットフォームとそこに発着する列車を収容するために設計されたガラス屋根の大ホールが、或る壮麗さと記念碑性を演出し、国民的な大美術館たるにふさわしい威容を示しているということはある。また、鉄骨ガラス構造の巨大内部空間が表象しているこの記念碑性が、一九世紀建築史の美学に固有に帰属する種類のもので、そのことが、一九世紀後半の美術を収集・展示するというこのミュージアムのコンセプトと幸福に調和し合っているということもある。だが、こうした調和の幸福とは、プルーストの言うところで言えば、むしろ美術館の与える「あの恍惚とした悦び」とは逆のもの、タブローをそれと同時代の家具や置物や壁掛けと一緒に飾りつけ、夕食を取りながら眺めて悦に入るようないじましい小市民趣味の側にあるものなのである。だから、駅であったことの記憶が美術館としてのオルセーに照り映えているとしても、そのことの功罪は一概には断定しがたいと言わざるをえない。
オルセーの栄光は、むしろ廃墟であったことの記憶によって担われているのではないだろうか。駅という場所の「神秘的な作用」は二つの名の間の差異を一挙になまなましく露出させる力があるというのがプルーストの洞察だが、言うまでもなく、廃墟にもまた廃墟の神秘がある。それ自体としては、廃墟とは無のトポスでしかない。同じ無用性の空間でも、もしそれが人間の手が触れていない田園ならば、そこにはまだしも溢れ出す無垢の自然があり、また、いずれ未来においてその場所を占有することになるかもしれない文化や産業のための可能性が潜在してもいる。だが、廃墟となるとそこにあるのは単なる残骸でしかなく、肯定的なものは何も宿していない。それを取り払って更地にしてしまえば、未来へ向けてのまた新たな活用への可能性が開かれることにもなろうが、何の用もなさなくなった残骸がそこに居座りつづけているかぎり、それは代替しうる他の現実のための可能性すら胚胎しえぬ空間なのである。廃墟には過去しかない。
しかし翻って言うなら、だからこそ廃墟は、過去を純粋状態の強度で現前させる至高の美的装置たりうるのである。駅が、空間的に隔たった二つの名の間の差異を開示するとしたら、廃墟とは、時間的に隔たった二つのトポスの間の距離を誇示しつづけている特異な光景だと言える。記憶と現在との残酷な対象を、痕跡を通じて一挙に露出させるというのが、廃墟が行使する「神秘的な作用」にほかならない。焼けてしまった宮殿の場合にせよ、使われなくなった駅舎の場合にせよ、それらはすでに決定的に過去のものとなったトポスなのだが、にもかかわらず、現在ならざるものとして現前しつづけている。それはいわば崩壊の、消滅の、不在の現前なのであり、そうした純粋状態の「取り返しのつかなさ」の執拗な滞留のゆえに、ロマン派の画家や詩人を魅惑し、その霊感の源となりその想像力を刺激して、多くの絵や詩篇を産み出してきたのである。
廃屋となったオルセー駅は、結局一九八六年以降、豪奢な美術館として再生する。記憶の現前としてあった廃墟そのものが今や記憶の中にしかないということになってしまったわけだ。オルセー美術館の整備された美麗な展示空間には、もはやこうした廃墟の記憶を──記憶でしかなかったものの記憶を──喚起するものは何一つ残っていない。
だが、抑圧された廃墟の記憶を想像世界の中で立ち上がらせ、数多の部屋に一九世紀フランス文化の精華が「反響」し合っているこの巨大なミュージアムに、無のトポスとしての廃墟の光景を透視することは、われわれの自由に委ねられているはずではないか。クールベを、ドーミエを、コローを、マネを、モネを、ゴッホを、セザンヌを、ゴーガンを見ないためにオルセーに身を置くこと。豊かに「反響」する一九世紀後半の文化的記憶の壮麗なオーケストレーションにあえて耳を塞ぎ、むしろその同時代にオルセー宮跡が提示していた廃墟と、それを埋め尽くすようになっていた草木の繁茂に瞳を見開こうと努めること。出発と到着のためのトポスとしての駅がイメージの交通空間へ生まれ変わったという事実に、間然するところのない予定調和を見るよりはむしろ、美術館の広間の賑わいに、列車の発着が途絶えてしまった廃駅のホールの荒れ果てた風景を重ね合わせ、イメージの交通の失調と停止に思いを致すこと。そのときわれわれは、図像的な「知」の交通空間としてのミュージアムから「反響」を奪い、交錯する文化的な倍音を黙りこませ、そのかわりに、一九八六年以来「知」の届かぬ不可視の奥処に封じこめられてしまった「驚異」の衝撃を、改めて解き放つことができるのではないか。そのときクールベやマネやセザンヌは、それが属す時代の文化的コンテクストから軽やかに離脱し、キャンヴァスに筆が下ろされたその当の瞬間には彼ら自身にとってもまったく未知のものの開示としてあったはずの創造行為の衝撃を、今ひとたび生き直すことができるのではないか。美術館の展示空間は「文化」から「野生」へと移行し、みずみずしい「驚異」の力の一閃を新たに身にまとうことができるのではないか。
そして、こうした提言が決して内容空疎な空想に終わらないことの証拠として、われわれは、現在のオルセー美術館がその無意識の内部に抑圧しつつ隠し持っている廃墟の記憶が、現実に、なまなましいイメージのかたちで、今なお眼前で揺れているという事実を引用することができる。では、それはいかなるイメージか。

「控えの間」の待命状態

附設ホテルの閉鎖からは一〇年以上遡る一九六二年のこと、もはや駅ではなくまだ美術館とはなっていない、宙ぶらりんの空虚な時間を耐えつつあったオルセー駅は、或る奇妙な用途に供される。天才的な演出家でありながら母国であるアメリカ合衆国と折り合いが悪く、ハリウッドからはじき出されるようなかたちでヨーロッパを放浪しつづけなければならなかったあの「呪われた」映画作家オーソン・ウェルズの頭に、カフカの小説『審判』の映画化のために、ほとんど廃屋となり果てたこの巨大ドームを利用しようという奇怪な着想がよぎったのだ。その間の事情は、バーバラ・リーミングが面白おかしく綴っている★九。ウェルズ率いる撮影隊は、ユーゴスラヴィアのザグレブで屋外シーンの撮影を開始したのだが、資金繰りのつかなくなったプロデューサーがもうこの映画の製作は中止にするほかないと言いはじめ、一行はこの東欧の小都市で立ち往生する羽目に陥る。だが、ウェルズは、プロデューサーのマイケル・サルキンドに、撮影隊をパリに連れて行なってくれるなら只同然で映画を仕上げてやると自信満々で請け合ってみせる。「三〇分後に出る列車に乗って、この町からずらかろうじゃないか。君はホテル代だけを払う。あとはすべて踏み倒すんだ」。
その突出した才能ゆえにハリウッドに受け入れられず、欧州で不遇を託たなければならなかったウェルズは、しかしまた同時にその天才にふさわしい恩寵に恵まれてもいて、映画製作という複雑な集団作業にまつわる種々の困難が、呆気にとられるほどのたやすさでおのずと消滅してゆき、その頭脳に宿る奇矯なアイディアが見る見るうちに現実化してゆくといった例外的な幸運を招き寄せる名人でもあった。事実、パリに戻った一行は、オルセー駅を即席のスタジオに仕立て上げ、『審判』を完成させてしまうのだが、このフィルムが『市民ケーン』や『黒い罠』にもおさおさ劣らない傑作となっている事実は、今日誰もがその眼で確かめることができる。ヒッチコックの『サイコ』で倒錯的な殺人者を演じたアンソニー・パーキンスが、カフカの不屈の英雄ヨーゼフ・Kとなって、どことも知れぬ都市の迷路をさまよい、何の嫌疑によるものか定かではない訴訟に勝とうと奮闘しつづける。沈痛で抒情的なアルビノーニのアダージョが流れる中、光と影の劇的な交錯がバロック的な映画空間を造型してゆく。小説の主人公がナイフで「犬のように」刺し殺されるのに対し、映画のヨーゼフ・Kは爆弾で吹っ飛ばされ、空に立ち昇ってゆく黒煙が最後のショットを締め括ることとなろう。
オルセー駅の発着ホールは、自分が巻きこまれた事件の審理が行なわれるのを果てしなく待ちつづける老人たちが背中を丸め、列を作っている奇妙な待合所として登場する。法廷が開かれるのを待ちながらむざむざと年老いていった人々が力なくへたりこんでいる通路の彼方には、巨大なガラスの丸屋根が見えている。荒廃したオルセー駅の構内は、「地獄へと続く〈控えの間〉」とでもいった気配を漂わせたこの空間に、理想的なイメージを賦与していると言ってよい。ウェルズ=カフカの『審判』で描かれるのは、待機の場所である。それは結局のところ徒労に終るかもしれぬ虚構の待機であり、しかもそれはいつ果てるとも知れず続くのだ。ところで、一九六二年の時点でのオルセー駅は、まさにそれ自体、当てのない待命状態の中にあった。もはや駅でなくまだ美術館になっていなかったこの場所は、みずからの運命を決める「審判」を待ちながら、むなしく老朽化し崩落しつつある自分を耐えていたのである。表象するものと表象されるものとがこれほどぴたりと合致してしまった以上、極めつきの映像が産み出されたのも当然と言えば当然だろう。
オーソン・ウェルズの傑作は、オルセー美術館がその無意識の襞の内部に畳みこんでいる廃墟の記憶を、あからさまなイメージのかたちで今なお現勢化させつづけている。廃墟とは、即物的には「何でもないもの」だ。それは彼方にあり、かつ手前にある。もはや宮殿ではないが、まだ駅ではないもの。もはや駅ではないが、まだ美術館ではないもの。要するに、引き延ばされた待命状態を生きつづけるもの。それが廃墟であり、そのかぎりにおいてこの無のトポスは、「文化」の専制を免れたユートピアとしてわれわれの視線を魅了せずにはいない。今日パリへ行けば誰でも入ることのできる現実のオルセー美術館と、ウェルズがフィルムの上に刻印した廃墟空間の形象と、そのどちらが現実的であるかをひとことで言うことは難しい。スクリーン上に揺れる映画的イメージの痕跡が、そのなまなましい迫力によって、オルセー美術館の整序された収集システムと展示空間に亀裂を入れてしまうということがあるはずなのだ。ウェルズの手になる映画的イメージの強度を手がかりに、図像的な「知」の空間を唐突に「廃墟化」してしまう。そのとき、「反響」のネットワークへの広がりを絶たれ、統合的な「文化」の記憶の文脈による支えを失って、てんでんばらばらに散ってゆく作品たちに、改めて「驚異」の輝きが充填し直されるだろう。
川べりの野原から宮殿へ、宮殿から廃墟へ、廃墟から駅へ、駅から廃屋へ、廃屋から美術館へという変貌は、このオルセー河岸の一郭を、「近代」都市パリの内奥に穿たれたまことに奇怪な陥没点たらしめている。だがそこで何より重要なのは、なるほど駅として機能していた一時期はあったにせよ、その前後に、それを挿話的と思わせてしまうほどの長期間にわたって、廃墟としての圧倒的なプレゼンスが広がり出しているという点だろう。今われわれが生きつつある世紀末に、ユイスマンス的悪意が新たなヴァージョンとして反復され、「オルセー美術館を燃やしてしまえ!」といった呪詛が呟かれることも十分ありえよう。だが、オルセーはすでにひとたび火の洗礼を受けており、それ以来、「近代」のまるまる全体を廃墟の形象を身に帯びつつ生き延びたとさえ言ってもよい。とりあえず不可視の奥処に抑圧しおおせているが、廃墟の記憶──記憶の記憶──は、この「知」の間を今なお脅かしつづけている。実際に火を放つまでもなく、われわれのイマジネールの中でオルセーは容易に廃墟へと頽落しうるのであり、かくして、収集された財と富が「何百万枚という木の葉に、何世紀もの埃に埋もれ」てゆくとき、「知」の空間はむしろ誇らかな至高の耀かがよいを帯びることとなろう。

9──オーソン・ウェルズ監督『審判』(1962年)の1シーン 廃屋と化したオルセー駅へと続く煉獄の迷宮を、アンソニー・ パーキンスがさまよう

9──オーソン・ウェルズ監督『審判』(1962年)の1シーン
廃屋と化したオルセー駅へと続く煉獄の迷宮を、アンソニー・
パーキンスがさまよう


★一──J.-K. Huysmans, "Le Musée des Arts déoratif et l'architecture cuite", in Certain, Œuvres complètes de J.-K. Huysmans, Tome X, Slatkine Reprints, Genève, 1972, p.148.
★二──拙著『エッフェル塔試論』(筑摩書房、一九九五年)、序章「『無用性』の美学のために」参照。
★三──以下、オルセー河岸の宮殿が鉄道駅へ、さらに美術館へと変身を遂げてゆく過程に関しては、オルセー美術館のカタログのほか、主にJean Jenger, Orsay, de la gare au musée. Histoire d'un grand projet, Electa Moniteur, Milan-Paris, 1986. に依拠した。
★四──L'Illustration, 27 novembre 1897. 前註に挙げたイェンガーの書物の引用による(二四頁)。
★五──J.-K. Huysmans, ibid.
★六──Marcel Proust, A la recherche du temps perdu, Bibliothèque de la Pléade, Tome I, 1954, pp.644-645. 邦訳『プルースト全集2』(井上究一郎訳、筑摩書房、一九八五年)の二八六─二八七頁に当たるが、ここでの訳文は井上訳を踏襲していない。
★七──このプルーストの一節に夙に注目し、他方でヴァレリーのエッセー「美術館の問題」を取り上げて、第三共和制下のフランス文学を代表するこの二人の文人のミュージアム観を対比しつつ、芸術作品の享受の今日的な様態を考察しているテオドール・W・アドルノの有名な論考がある。「ヴァレリー プルースト 美術館」と題するものがそれであり、アドルノはそこで、美術館に作品の墓所を見るヴァレリーのペシミズムとプルーストが美術館に捧げたオマージュとを対立させ、ややプルーストに肩入れしながら、作品の「死後の生」のありかたを論じている(『プリズメン』渡辺祐邦・三原弟平訳、筑摩文庫所収)。なお、谷川渥「美術館という形象」(『表象の迷宮──マニエリスムからモダニズムへ』ありな書房、一九九二年所収)、及び、ダグラス・クリンプ「美術館の廃墟に」(ハル・フォスター編『反美学/ポストモダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳、勁草書房、一九八七年所収)も参照のこと。
★八──Stephen J. Greenblatt, "Resonance and Wonder", in Learning to Curse. Essays in Early Modern Culture, Routledge, New York, 1990, pp.180-181.
★九──バーバラ・リーミング『オーソン・ウェルズ 偽自伝』(宮本高晴訳、文藝春秋、一九九一年)四七〇─四七一頁。

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年生
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。

>『10+1』 No.08

特集=トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて

>エッフェル塔試論

1995年6月1日