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スペクタクルとしての動物──動物園というイデオロギー装置 | 松浦寿輝
Animal Spectacle: The Zoo as an Ideological Apparatus | Matuura Hisaki
掲載『10+1』 No.12 (東京新論, 1998年02月10日発行) pp.2-17

けだものが脱走する

一八五〇年三月二〇日の夜更け、パリ植物園附設の動物園(La Ménagerie)の檻から、一頭の巨大な狼が脱走する。鎖を引きちぎり庭園の暗がりの中に駆けこんだ獰猛な野獣を捕獲すべく、銃で武装した捜索隊がただちに編成される。だが、現在のように至るところ庭園灯で煌々と照明されているわけではない時代のことでもあり、真夜中のパリ植物園に潜む一頭の獣を松明をかざしながら捜し回るのはなかなか容易なことではない。こんもり茂った木立や池、深い排水渠、アトラクション用の迷路などがあちこちに配置されているこの庭園の変化に富んだ地形が捜索をいっそう困難にする。ようやく二時間後、四方八方から狩り立てられた哀れと言えば哀れな獣は、地質学研究所の壁の前に追いつめられる。鎖に繋ごうとして飛びかかった二人の警備員は逆上した狼の牙に噛まれ、一人は手首に、もう一人は掌に重傷を負う。「怪我がひどいのは掌を噛まれたテリエ氏の方だった」と、『イリュストラシオン』誌の報道は伝えている──「彼は数日中に野獣の捕獲のためアルジェリアに向かうことになっていた。最初の発表では片手を切断せざるをえないだろうということだったが、幸いなことにテリエ氏は危機を脱した」[図1]★一。これ以前にはこうした報道が三面記事としてジャーナリズムに大きく取り上げられた例は見当たらないので、パリ動物園の檻からの動物の脱走という出来事が関係者の間に或る緊張感を走らせる椿事として出来したのはこれが最初のことであったのだろう。
都市空間をその本来の生の棲み処とするわけではない動物をパリの町中に引き留めておくために必要となるものが檻や鎖であるが、それが破られたり引きちぎられたりするとき、「自然」を都市の内部に囲いこむことの「不自然」が一挙に露呈し、その猛々しい露呈を前にして人々は居心地の悪い思いへと誘われる。『イリュストラシオン』誌の報道は、つい気を弛めれば一人の市民の片手を失わせかねないような「自然」の暴力が、隅々まで文明化されたかに見える近代都市の真只中にさりげなく囲いこまれていることを人々に改めて意識させ、その無意識に潜在している不安や恐怖に微妙な揺さぶりをかけないわけにはいかなかったはずだ。もちろん逃走した動物は結局は捕らえられ、暴力は抑圧され「自然」は文明の側に回収されて、市民は安堵の吐息を洩らす。動物園の警備体制の不備をなじり管理者の責任を問う世論の声がひととき高まり、例によってなし崩し的にうやむやになってゆくといったことが起こりもしよう。だが、こうした不測の事態が実際に出来しうることをひとたび知ってしまうや、「動物」を前にするとき識閾下でかすかな身じろぎをする不安と恐怖はもはや見物客の心を決して去ることはない。鉄格子や柵の向こう側で寝そべったり悠然と歩を運んだりしているライオンや象の姿態に見とれながら、彼らは微弱な脅えを意識するともなく意識していくぶんかたじろぎ、そしてそのたじろぎのゆえにまたいっそう深くこのスペクタクルに魅了される。植物園のそれと異なる動物園の魅惑の核心が、この脅えとたじろぎに存していることは間違いない。
ここは人類による動物飼育の沿革を詳述すべき場ではないが、王や皇帝や貴族が楽しみのために珍しい動物を収集して飼育するということが文明の発生にまで遡りうる古い現象であることは言うまでもない。メソポタミア文明には鳩飼育の記録があり、古代インドでは象が飼い慣らされていたし、ナイル西岸のサッカラにある墓廟の壁画には紀元前二五〇〇年のエジプトで首輪をつけた羚羊レイヨウやヤギが飼われていたさまが描かれており、そうした例はもちろん中国の古代文明にも事欠かない。古代ギリシャのポリスにも一種の動物飼育所があってアリストテレスの自然誌的記述はそこでの観察に多くを負っており、その薫陶を受けたアレクサンドロス大王はその軍事遠征から多くの動物をギリシャに持ち帰っている。要するに、食用としてでも労働力としてでもない、すなわち直接的な有用性の原理を外れたところでの動物の飼育とは、生産力の向上がそうした「趣味」を可能ならしめる余剰を生み出すや否や、古今東西の共同体の権力者が例外なく耽った娯楽のひとつだったのである。
そうした私的コレクションが様々な制約を伴うにせよとにかく一応は一般に開放され、スペクタクルとしての動物が権力者のエゴの満足の道具から一般市民の娯楽のための公的施設へと移行したとき、そこに初めて「近代的」制度としての動物園が成立したと言えるだろう。そうした意味での「近代的」動物園の嚆矢をなすのは、一七六五年、オーストリアのウィーンで、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ二世が一般に公開したシェーンブルン宮殿の動物園だとするのが一応の通説になっている。これは先代のフランツ一世が皇后マリア・テレジアのために七年の歳月をかけて作った動物のコレクションであり、そのかぎりでは古代以来の権力者のありきたりの娯楽の一例でしかなかったものが、ヨーゼフ二世の決断によって市民に開放されたとき、そこに「近代的」動物園の祖型が初めてかたちづくられることになったのだ。続いて一七七五年にはマドリッドの王立公園に動物園が設けられ、さらにその一八年後にはパリ植物園にメナジュリーが置かれることになる。

1──1850年3月20日夜、植物園での狼狩の情景 『イリュストラシオン』

1──1850年3月20日夜、植物園での狼狩の情景
『イリュストラシオン』

王殺しとメナジュリー

ルイ一三世治下の一六二六年に発足したパリの王立植物園(Jardin royal des plantes)に関しては、この連載の第五回「怪物のエチカ」ですでにいささか触れてあるが、この植物園が国立自然史博物館(Muséum national d'histoire naturelle)として組織され直すのは、開園以来一世紀半以上を経た大革命後の一七九三年のことである。博物学全般を扱うミュージアムとして生まれ変わるというのなら動物を無視するわけにいかないのは当然であり、従って改組されたこの博物館に動物部門が正式に併設されたのはきわめて自然な成り行きだが、それと同時に敷地内の一角を占めるメナジュリーが動物飼育展示施設として一般観覧用に開放されることになったのだ。一七三九年以来八八年のその死に至るまで半世紀近く園長の職にあり、この植物園の発展に尽くしたビュフォンは、結局この改革には立ち会えなかったわけだが、一七四九年から一八〇四年にかけて刊行された全四四巻の彼の主著『博物誌』は、生物に関するかぎり植物よりははるかに動物に多くのページを割き、それ以外ではむしろ地質学や鉱物学に重点を置く著作であったわけで、彼がその知的基盤を準備したと言ってよいこの自然史博物館に動物部門が創設されるのは、長らく待たれてきたことだったとも言える。因みにこの創設に当たって、無脊椎動物部門の初代の責任者はラマルク、脊椎動物部門の責任者は、やがて高名な博物学者となる当時二一歳のエティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレールが務めることになった[図2]。
ウィーンのシェーンブルン宮殿のものやマドリッドの王立公園のものと比べて時期的には遅れるにもかかわらず、このパリ植物園のメナジュリーこそ世界最初の「近代的」動物園と呼ぶべきだとする説に或る程度まで根拠があるのは、この施設が文字通り「王殺し以後」の産物であるからだ。生きた動物の収集が王侯貴族が趣味として蓄積した私有財産であるにとどまらず一般市民の観覧に供され、都市的な娯楽の装置として制度化され、一定の料金さえ払えば誰でもそこに入場してひととき楽しむことのできる公の施設となる。こうした民主化の過程に「近代」の指標を見るならば、パリの自然史博物館の設立が、こうした意味での「近代化」の完璧な範型を提示しているかのごとき歴史的事件であることは明らかだろう。単に「近代化」の産物であるにとどまらず、「近代」という名の輝かしい象徴的紋章を誇示すべく発明された政治的装置こそがこの自然史博物館なのだと言うべきであるかもしれぬ。王殺し以後、というよりはむしろその直後に、王殺しという出来事それ自体を表象すべくきわめて政治的に構想され創出された出来事がパリ植物園におけるメナジュリーの設置とその一般公開なのである。そこには、もはや植物に関する知も動物に関する知も一部の特権階級の独占すべきものではなく、自由・平等・博愛の理念に基づいて広く天下に開かれるべきであるという思想が、誰もが参加できる視覚的スペクタクルのかたちで実体化している。たとえ一般公開されようとシェーンブルン宮殿の動物園があくまでヨーゼフ二世の私的な財であることには変わりなく、市民がそこに入って珍しい動物のコレクションに讃嘆できるのは、いわばその寛大な所有者が下々にゆるした特別な恩恵のおかげによるものであったのと比べれば、スペクタクルを「見る」行為そのものに孕まれたイデオロギー的意味に顕著な質的変容が生じていることは明らかだろう。
以後、王政復古や革命やクー・デタや対外戦争など、政治的動乱が相次ぐ一九世紀の全体を通じてメナジュリーは着実に拡大し、その施設を充実させてゆく★二。一八〇二年から一八一二年にかけて、平面図の形態にレジオン・ドヌール勲章の十字形を模したグランド・ロトンダが建造され、最初は肉食猛獣の、次いで大型草食動物の畜舎として用いられる[図3]。一八二五年にはハゲタカ用のケージが完成し[図4]、続いて二七年には、あたかもベンサムが刑務所建築の構造として提唱しフーコーが権力モデルの空間表象として鮮烈に定式化したあの「パノプティコン」を思わせるかのごとき円形のクジャク園が開設されている[図5]★三。さらに一八三七年には、これもやはり円形の巨大な猿用ケージが完成しており、〈猿パレス〉と命名される[図6]。もしクジャク園が監獄と同型であるとするなら、この猿用ケージはあの大英博物館の円形閲覧室と同型だと言ってもいいかもしれぬ。実際、残されているこの〈猿パレス〉の図像に描かれた、めいめい思い思いの姿勢で何事かに没頭している猿たちは、読書に耽っている巨大図書館の閲覧者たちの姿態を思わせないでもない(その逆と言った方がふさわしいかもしれないが)。かくしてパリのメナジュリーは、動物の属と種を明快に提示するシステマティックな分類学的空間の相貌を徐々に整えていったのである。
因みにイギリスでは、ロンドン動物学協会が一八二六年に創設され、その主導下で二年後の一八二八年、ロンドンのリージェント公園内に動物園が設置されている。またアメリカ合衆国の場合、一八六五年にニューヨークのセントラル・パーク内に小動物園が開かれたが、本格的な動物園としては七四年にフィラデルフィアに作られたものが最初だと言われる。いずれにせよ一九世紀中葉になると世界中に多くの動物園が続々と開設され、その大部分は施設を拡充・改良しつつ今日なお存続している。むろんパリのメナジュリーもウィーンのシェーンブルン宮殿の動物園も、市民にもっとも愛される休日の娯楽施設として現在でもきわめて良好に機能しつづけている。疑いもなくわれわれはみな、動物園というものが大好きなのであり、その愛は全世界的に共有されたものと言ってよい。実際、二〇世紀末の文明都市に住まっていて動物園体験の記憶を伴わない幼年時代を過ごした者がいるとしたら、それはよほどの不幸に彩られた例外的な個体と言うべきではないか。本章でのわれわれの意図は、幼児的リビドーと何らかの密接な絆で結ばれているかに見えるこの愛の実態とその表象を、一九世紀西欧文化の歴史的文脈に定位しようとするささやかな試みに尽きている。

2──メナジュリーへの入場券。 エティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレールの署名がある

2──メナジュリーへの入場券。
エティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレールの署名がある

3──1802年から1812年にかけて建造されたグランド・ロトンダ

3──1802年から1812年にかけて建造されたグランド・ロトンダ


4──ハゲタカ用の鳥小屋。1825年完成

4──ハゲタカ用の鳥小屋。1825年完成

5──クジャク園。1827年開設

5──クジャク園。1827年開設

6──1837年に完成した新しいサル園の内部

6──1837年に完成した新しいサル園の内部

動物園/サーカス

ところで、以上やや大雑把に辿ってきたような、富と権力が集中したお上の主導下で作られたコレクションの系譜以外に、動物園の起源としてもうひとつ別の種類のスペクタクルの流れを考えることができる。いちが立ち人々が集まる縁日フォワールの折りなどに、軽業や手品や火吹きの芸などと同列に並ぶ大衆的な見世物として催され人気を博してきた動物芸の歴史がそれである。中でもとくに一五世紀頃からヨーロッパ各地で見られるようになった「ベア・ピット」(熊の穴飼い)は、設定された場所で或る期間にわたって動物の生態を見せる恒常的な施設の様相を帯びているという点で、動物園の前身のひとつと呼ぶにふさわしい見世物だったと言える。元来、熊は、こうした路上の見世物としてとりわけ人気のある動物だった。動物使いによる大道芸としては、一方で猿や犬のような日常的な動物を用い、芸を演じさせて客を呼ぶ種類のものがあり、他方で象やサイのようなやや見た目に珍しいエキゾティックな動物を引き回し、芸をさせるというよりはむしろその存在自体をスペクタクルとして提示する種類のものがあるのだが、熊はちょうどその両者の中間に位置すると言ったらよいのか、大きさから言っても珍しさから言っても野生動物としての視覚的迫力が或る程度あるうえに、なおかつそこそこの芸を仕込むことも不可能ではなく、その動作挙措の一種の疑似人間的な子供っぽさが観客の笑いを誘うといった親しみやすい側面も併せ持つ恰好の動物だったのである。こうしたものはもちろん博物学的な知の普及とはまったく無縁の純粋娯楽として演じられてきた見世物であるが、その歴史的記憶の蓄積もまた「近代的」動物園に流れこみ、その重要な構成要素となっていったことは明らかだ。動物の「タクシノミア」に関する教育装置としての側面と、目を楽しませる無償の娯楽が演じられるアリーナとしての側面とが、相補的に互いを支え合っている合成体こそが動物園だからである。ただ、こちらの系譜に属する動物のスペクタクルは、動物園というよりはむしろサーカスの出し物へと発展してゆくものだと言った方がいいかもしれぬ。
記号学者ポール・ブーイサックによれば、人間文明は野生動物を都市生活の内部へ挿入するために二つの画然と異なった施設を発達させてきたのであり、それは動物園とサーカスだという★四。動物園は、一方では、属と種に基づくリンネ的な分類学の階梯──ダーウィン以後はそれと協力して進化論の概念装置が採用されるようになってゆくのだが──に基づいて動物相互間の差異を提示し、他方ではまた、その積分的な全体としての「動物性」の概念と「人間性」のそれとの間に存するイデオロギー的ないし形而上的な境界線を際立たせる。こうした二種類の差異、すなわち相対的=分類学的な差異のグラデーションと絶対的=神学的な差異の屹立とを、市民に(とくに子供に)「楽しく学習させる」べく構想され運営されている施設こそが動物園だというのである。それに対して、サーカスはと言えば、むしろこれら数多の差異がことごとく虚構化され、属と種の「タクシノミア」に混淆と混乱が引き起こされる場として機能する。角をつけて牡牛に扮した犬がコリーダの真似をしたり、翼をつけた馬が跳躍芸をしたりするような「扮装」とミメーシスによる出し物は、属や種相互の間の差異の一覧表に混乱が惹起される例であり、また熊のホッケー選手だの狐の看護婦だの、あるいは床屋の椅子に座った象の客と白衣をつけバリカンを持って登場するチンパンジーだの、その他ありとあらゆる順列組み合わせによって構想された「擬人化」の出し物は、動物/人間の境界線を無効化するパフォーマンスの試みということになる。ブーイサックが提起した今や古典的と言うべきこの動物園/サーカスの二元論は、きわめて肯綮に当たったものだとわれわれも考える。
とはいえ、動物園にもまた動物園なりのスペクタクル性が決して欠けていないという点もまた否定はできまい。閉じこめられているものがあくまで野生動物であり、人間の文化によっては馴致しがたい動的な「途方もなさ」を秘めた生命体であるがゆえに、そこを訪れる観客は、ブーイサックが「動物園」の理念型として取り出した模範的な「タクシノミア」の教育空間には収まりきらないような種類の何かなまなましい情動的エネルギーを、その肉体に受けとめざるをえないからである。たとえ「人間」とは一線を画する存在として金網の向こうに隔てられていようと、ひとたびその網が破られ鎖が引きちぎられてしまえばけだものは敵対的な獰猛さを剥き出しにして「人間」を襲うだろうし、その瞬間から「人間」は自分もまた「動物」の種のひとつでしかないことを思い知らされないわけにはいくまい。差異を際立たせる指標としての金網や鉄柵がことごとく無効化されてしまえば、動物相互間の差異を階梯化する人為的分類法も自動的に崩壊し、野生状態のカオスが現出することとなろう。なるほど近代都市でそうした出来事が大きな規模で実際に起こった記録はない。しかしそれは起こりうる出来事であり、たとえば戦時下の動物園で多くの動物が処分されたりするのもそうした事態の現出を気遣ってのことであり、また都市空間に解き放たれた猛獣たちという主題は現代的な作者の想像力を刺激し、小説や映画など多くの虚構の物語の中に見え隠れしており★五、さらにはやや希釈化された「脱走した獣」をめぐる恐怖と魅惑のファンタスムへと合流し大衆文化のイマジネールの中に溶けこんでいる。

7──1803年の植物園。敷地の4分の1を占める北東部分はまだ私有地だった。 この部分にやがて動物園(La Ménagerie)が設置されることになる

7──1803年の植物園。敷地の4分の1を占める北東部分はまだ私有地だった。
この部分にやがて動物園(La Ménagerie)が設置されることになる

8──1828年の植物園。動物園が開設され、その面積が拡大しつつある

8──1828年の植物園。動物園が開設され、その面積が拡大しつつある


9──1842年の植物園。今日見られる動物園の主要施設はすでに完成している

9──1842年の植物園。今日見られる動物園の主要施設はすでに完成している

10──1904年の植物園

10──1904年の植物園

震動する境界あるいはサスペンス

植物のように、ひとたびそれを空間内の一点に位置づけるや後は放っておけばそのままいつまでもじっとしていてくれるというものではない以上、動物を「タクシノミア」の標本として固定するためには或る力の行使が必要となる。加えられたその力に対しては当然反撥力が働くわけで、ねじ伏せようとする力とねじ伏せられまいとする力とのせめぎ合いによって空間は緊張しないわけにはいかない。結局人々はこの緊張を楽しむために動物園へ行くのである。サーカスの動物調教の場合も同じことだと言えないわけではないが、ただ、芸を仕込もうとする調教師と動物との間で極度に激しい度合いで体験されたに違いないこの緊張は、演目が繰り広げられる現場ではほぼ完全に抑圧されきっているので、ショーに立ち会う観客にしてみれば、完璧に統御され演劇的に構成された文化的なショーを見ているという弛緩した意識の中に閉じ籠もっていることができる。それがすでに調教された動物であるかぎりにおいて、虎の火の輪くぐりや熊のオートバイ乗りには「野生」はいささかも露出しないのだ。少なくとも「野生」が露出しないというのがサーカスの公の前提なのであり、そう高を括ってショーを見つづける観客にとって、もし「野生」に対する緊張感が介入したらサーカスの動物芸の透明な娯楽性は混濁せざるをえないこととなろう。人為の側に一〇〇パーセント回収されたサーカスの動物とは異なり、動物園の動物は調教とも演技とも無縁である。動物園は都市の中に囲いこまれた自然であり、人工的な都市空間を統べている「文化」の原理と真っ向から対立する獰猛な「野生」を展示した施設なのである。この文化/野生の際立ったコントラストそのものが、視線にとっての娯楽として機能するのだ。ただ、この「野生」は、その暴走を食い止めるべく或る程度までは馴致されたものとして提示されていなければならず、この或る程度の兼ね合いそのものに動物園の「ゲームの規則」が存していると言うべきだろう。「野生」が完全には失われない程度にほどほどに馴致された動物、言い換えれば「野獣」と「ペット」という両極の中間のどこかしらの地点に位置している動物が、そこでの理想的な見世物となる。馴致可能性とその不可能性との間の、こうしたきわどい釣り合いから動物園の魅惑が生まれることになる。
一八五〇年三月二〇日深夜にパリのメナジュリーで起きた狼の脱走は、この釣り合いをいきなり破る危機的な出来事だったわけだが、しかしこうした危機を記憶に刻みつけることで、動物園の魅惑はかえっていっそう増すとも言える。一方で属と種をめぐる区分を明示し、他方で「動物性」と「人間性」とを決定的に差異化するために、動物園が檻や金網を必要とするのであり、この点がカテゴリーの流動化と観客の心理的参加の上に成立するサーカスの動物芸から動物園を隔てているのは事実だ。野生動物(wildlife)と文明社会との間には両者を分け隔てる確固とした境界が不可欠なのだが、この境界をあくまで温存したまま、距離を隔てた安全な場所から、境界越しに視線を投げかけてみたいという市民の虫の良い欲望に応えるスペクタクルを提示するのが、動物園のまず第一の目的ということになる。ただし、この距離がいきなり廃棄される非現実的瞬間に向けて投射された戦慄的なファンタスムがここにはつねにたゆたっており、このかすかなファンタスムが、ライオンや象の姿態に目を見張る者がその光景から受け取る幼児的快楽の核心部分を、絶えず備給しつづけている。境界は絶えずかすかに震動しており、それをほとんど無意識的に触知して観客は戦慄しつづける。それもまたかすかな戦慄であるが、植物園が本質的にそうであるような静的なカテゴリー区分の一覧表には還元されがたい動物園特有のスペクタクル性とは、まさにこのかすかな戦慄に存しており、それなしでは動物園の身体体験は、二次元的な動物絵本を眺めることと本質的には違わないものとなってしまうことだろう。こうしたかすかな戦慄がさらにほんのわずか昂進し、このうずうずするような宙吊り状態に耐えきれなくなって、ひと思いにその向こう側へと出てしまいたいという欲望に人が身を委ねるとき、本当の惨劇が起きる。
パリ植物園のメナジュリーには一八〇五年に「熊の穴飼い」用のピットが掘られており、これは先の動物園前史との連続性を示す出来事であるが、一八二〇年九月八日のこと、このピットの中に面白半分で飛び降りた向こう見ずな男が熊に殺されるという事件が起きているのだ。文化/野生の安定した境界線をみずから撹乱し、生命の危険と戯れてみたい、そうすればこの快楽はいっそう増すのではないかという倒錯的な誘惑にふと駆られ、「動物性」とは異なる「人間性」を保持したつもりのままで、「野生」の領域に不注意に足を踏み入れてしまうとき、その「文化」の側の市民の傲慢な錯覚は罰せられないわけにはいかないのである。一九世紀前半に通俗科学とオカルティズムとの結婚の装いの下に一世を風靡し、文学者や芸術家の想像力さえ怪しく刺激したあの「動物磁気」の神話もまた、「野生」のスペクタクルが人々の裡に惹起してやまないこの倒錯的な誘惑を基盤として成立していたのではなかったか。ヴァレリーのテスト氏が、「形容詞」のタブローを無償の記号の戯れへと還元することによって、「タクシノミア」の一覧表としてある古典的な博物学空間を廃墟化してしまったさまを、われわれはすでに目撃している。小ざっぱりと整頓された花壇のラベルの群れを、彼の虚ろなまなざしがゆっくりと撫でてゆくにつれて、無秩序なフローラを連続的なタブローへと整序し固定するという有益な役割をつつがなく果たしていたはずの属名と種名のシステムは、不意に無意味な遊戯的シニフィアンと化し、あたりに浮游し散乱しはじめる。だが、動物園の場合には、こうした詩的な身振りを介するということがなくても、単に当の対象が動物であるということだけで、「タクシノミア」の空間は絶えずそこにいつ亀裂が走るかという脅えでおののきつづけているのだ。

「アクリマタシオン」というイデオロギー

一九世紀前半においてフランスの自然史博物館の動物部門の運営に決定的な方向づけを行なったのは、言うまでもなくエティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレール(一七七二─一八四四)であった。器官の形態と機能をめぐって一八三〇年にジョルジュ・キュヴィエとの間に交わされた比較解剖学論争で名高いジョフロワ・サン=ティレールであるが、奇しき因縁と言うべきか、自然史博物館でのメナジュリーの運営に関してはジョルジュの弟であるフレデリック・キュヴィエとの間に紆余曲折に満ちた覇権争いが続くことになる。だが、何と半世紀になんなんとする長きにわたってこのメナジュリーを支配しつづけたジョフロワ・サン=ティレールが、老齢によってついに一八四一年に隠退した後、その教授職のチェアの後を襲いメナジュリーの責任者の地位を引き継いだのは、結局、エティエンヌの実の息子であるイジドール・ジョフロワ・サン=ティレール(一八〇五─六一)であった。そしてこのイジドールもまた、六一年に五六歳で急逝するまで二〇年間にわたってメナジュリーの園長を務めることになるのだが、その間に彼が推進した事業のひとつに「新風土順化(acclimatation!!)」の試みがあった。彼は一八五四年に「帝国アクリマタシオン協会」を創設し、五八年にはブーローニュの森に「アクリマタシオン園(Jardin d'acclimatation)」を開設しており、この施設は六〇年に一般公開されている。
「アクリマタシオン」とは、気候風土クリマのまったく異なる遠い土地から運んできた動植物を新環境に順応させる試みを指すのだが、「アクリマタシオン園」公開の頃のパリの知的社会では、イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールが強力に鼓吹していたこの企図が人気を博し、「アクリマタシオン」はほとんど一種の流行語にさえなっていたという。ところで、外国の動植物を「移植」する企てとしての「アクリマタシオン」が、いわば他者から他者性を剥奪する身振りにほかならぬことは言うまでもないだろう。「アクリマタシオン園」では異国から連れて来られた羊、山羊、犬、豚、兎、鹿、ラマ、カンガルー、多種多様な鳥類、さらには蚕や芋虫などの昆虫類までが飼育され、交配によって品種改良が企てられつつ、パリの気候に順応した新品種を作り出す実験が行なわれ、そのさまが人々に公開されていた。非フランスを出自とする動物をフランスに土着化させること。これを、啓蒙主義時代以来の百科事典的な「知」の欲望の無邪気な一顕現態と取るか、または政治経済の領域での植民地主義が博物学の領域に投射されて出現したその一変異態と取るか、どちらの視点を選ぶことも可能であろうし、両者ともどもが真実であるに違いなかろうが、ことが外国との間の「交通」として生起せざるをえない出来事に関わっている以上、そこに或る種の政治性とイデオロギー的身振りを見ないことは難しかろう。「アクリマタシオン」を衝き動かしているものは、動物からエキゾティスムを剥ぎ取り、「フランスのもの」として所有し専有しようとする衝動であり、当然この試みは共同体から歓迎されないはずはない。差異を虚構化し、同化へと誘い、境界線の向こう側とこちら側との間に走る緊張を解消したいと願う欲望は、時には性愛への誘惑として、時には侵略戦争へと駆り立てる敵意として、時には「アクリマタシオン」を成功させようとする一見無邪気な知的探究心として発露するということだ。
エキゾティックな他者を前にした共同体の採るべき態度はつねに二重のものだ。ひとつは、差異性を価値として珍重し、面白がり、慣れ親しんでいる既定の認識の地平の外へと自分を否応なしに連れ出してくれる突飛なものの出現を、得がたいスペクタクルとして享楽する態度である。もうひとつは、差異性から発する緊張を和らげるために、逸脱と見えるものを修正し、突出と見えるものを磨耗させ、欠落と見えるものを補填し、要するに突飛さを平板化して、他者をみずからの内部へ取り込んでしまう態度である。この両者はだいたいの場合相補って働くもので、その働きかたの様態と、どちらの極に近い地点で共同体のコンセンサスが安定するかというその度合いとによって、その共同体の性格と対外的反応のパターンが決定されると言っていいかもしれぬ。虚構の東洋人の視点を借りるという「異化」の装置を通してフランスの社会や政治を風刺してみせたモンテスキュー『ペルシア人の手紙』から、モンパルナスに集まった外国人画家たちがフランス美術そのものの富と一体化した──することを強いられた──エコール・ド・パリの絵画まで、さもなければまた、当初は醜悪なアメリカ的モダニズムの産物として受け取られ最終的には愛すべきパリのシンボルと化したエッフェル塔から、ヴェトナムでの少女時代と中国人青年との交情を抒情を排した文体で綴ったマルグリット・デュラスの小説『愛人』まで、あるいはロラン・バルトがごく個人的なファンタスムを吐露した虚構の作品『記号の帝国』などを挙げてもよかろうが、近代フランスもまた、この両極を絶えず往還し、相互に補完させ合うようなかたちで、フランスにとっての他者たちと付き合ってきたのである。イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールの「アクリマタシオン」は、動物というスペクタクルを前にした共同体が、内部への取り込みという姿勢の極に徹して「知」を作動させたときに逢着することになった、もっとも自然な解決だったと言える。それは、エドワード・サイードが「オリエンタリズム」と呼んだものと正反対の、しかし「オリエンタリズム」と同じくらい高度にイデオロギー的な含意を持つ政治的身振りだったのだ。
もちろんその一方には、突拍子もないスペクタクルを得がたい娯楽として見物することに徹するという態度の極もあるわけで、ここでわれわれが論じている主題に関わってそれをもっとも劇的に示している例は、恐らく、史上最初のキリンのフランス上陸というあの有名な事件だろう。これは、当時の大衆を熱狂させたニュースであり、近代的ジャーナリズムの祖型が形成されようとしていた時期に、情報とイメージが国家的な規模でのいわゆる「センセーション」を巻き起こした出来事としてメディア史上特筆されるべき出来事なのだが、一九七二年に上野動物園が中国から二頭のジャイアント・パンダを贈られたときの「センセーション」を記憶に留めている日本人にしてみれば、当時のフランスの新聞雑誌の記事や後年に書かれた数多の回想記の類などを読んでみるとき、こうした出来事をめぐるメディア社会の反応は、国の違い、動物の違い、一世紀半の時間の隔たりにもかかわらず、まったく同種のものであることに改めて驚かされる。映画やテレビの発明は「異国からの珍奇な動物の到着」をめぐって沸騰するイマジネールな興奮の質をいささかも変えたりはしなかったかのようであり、こうした贈与行為に含意される戦略的なポリティックスにもまた大きな違いは生じていないと言うべきだろう。

キリンの上陸

改めて紹介するまでもないよく知られた逸話であるが★六、エジプトの太守ムハマッド・アリが当時のフランス国王シャルル一〇世に贈った若い牝のキリン一頭が、船でマルセイユ港に到着したのは一八二六年一〇月二三日のことだ。それまでフランスにとってまったく未知のものだったこの珍奇な獣は、もちろん最終的にはパリのメナジュリーに収容される予定になっていたのだが、最初の年をパリの寒さの中で越冬させることが危ぶまれたので、翌年の春までマルセイユに留め置かれることになった。ようやく暖かくなった翌二七年の四月初め、待ちきれなくなったエティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレールがみずからマルセイユに赴き、当のキリンの世話に当たり、国王宛ての親書で報告を書いたりしている。そしてついに五月二〇日、ゆったりと歩むキリンを中心に、衛兵、馬車、荷車等々の大人数の行列を組んでマルセイユを発った一行は、途中の街道や沿道の町々の広場で、そのつど好奇の瞳を見張る黒山のような群衆に囲まれながら、ひと月半近くかかって六月三〇日夕刻、ようやくパリに到着する。もちろんここでもまた、異様に首の長い巨大草食獣を一目見ようと待ちかまえていた民衆の歓迎ぶりは大変なもので、キリンの移動に伴って押すな押すなの人だかりができ、パリ全市がお祭りのような騒ぎになる。
担当者にメディア戦略があったわけではなく偶然の結果にすぎないのだが、マルセイユ到着以来の八カ月以上に及ぶタイム・ラグが、この熱狂を増幅させる効果を果たしたことは疑いを容れない。また、ようやくマルセイユを出発してから後も、エクスまで来た、アヴィニョンまで来た、ヴァランスまで来た、ようやくサン=ランベールまで来た、そしてついに見物人でびっしり埋まったリヨンのベルクール広場に到着した、等々、日を追って流されるニュースが、ひと月半という引き延ばされた時間の中でパリ市民の興奮とサスペンスを一日また一日と高めていったことも間違いない。キリンをめぐって旋回するイメージと言説は延々八カ月にわたってフランス国民を楽しませ、そのクライマックスには、南から北へのフランス縦断の大旅行と大群衆の歓呼の声に包まれながらのまるで凱旋行進のようなパリ入城という、よく出来た娯楽映画のごとき結末が用意されていたのである。このキリンは、サン=クルーのシャトーでシャルル一〇世と王室一同のお目通りを経た後、メナジュリーのグランド・ロトンダに収容される。キリンを見にメナジュリーに詰めかけた見物客はこの一八二七年の夏だけでも六〇万人にのぼったという。噂話の種になって頻繁に人々の口の端にのぼり、詩や俗謡の題材となり、新聞や雑誌に取り上げられ、版画によってその図像が流通し、服、玩具、皿、その他ありとあらゆるオブジェのデザインに題材を提供するといった具合に、このめずらかな動物をめぐって大量の言説とイメージが形成期のメディア空間を旋回したのである[図11]。果ては、パリ中の公共の場所にキリンの形を模したガス灯を設置しようという案が大真面目に議論されさえしたという。たった一頭のキリンをめぐってこれほどの祝祭空間が現出したという事実は、スペクタクルとしての動物がどれほど恐るべき視覚的インパクトを潜在させているかを如実に物語っているだろう。
だが、ひとたびグランド・ロトンダに収容されるや、サヴァンナ育ちの偶蹄類の草食獣は、今度は「アクリマタシオン」の対象へとシフトすることになる。もちろんメナジュリーの見物客に対してスペクタクルを提供しつづけることに変わりはないのだが、自然史博物館のスタッフにとっては、動物の「野生」を或る程度飼い慣らし、パリの気候風土に順化させ、繁殖させ、根付かせ、要するに動物が動物として持っている差異と他者性をいかにして低減させるかという問いこそが喫緊の実践的課題となってゆく。結局、国内的な共同体を越えて全世界から収集された標本の集積=展示場としての動物園には、エキゾティスムを前にしたものが取りうる前述の二つの態度をバランス良く併存させることが要求されるということなのだ。一方で、目を驚かせる差異のスペクタクルを効果的に演出しつつ、しかも他方、それを存続させるために地道な同化の試みを継続しなければならない。エティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレールがメナジュリーを統轄していた初期には前者への配慮がやや上回っていたが、高名な父に比べるとやや影が薄い息子のイジドールの時代に入るや、実務家肌の彼はやや後者への興味に傾き、その結果、メナジュリーのスペクタクル空間はそれとして維持しながら、「アクリマタシオン」をのみ追求する独自の施設をブーローニュの森に創設し、植物園のメナジュリーとブーローニュの「アクリマタシオン園」との相互補完的なバランスによって自然史博物館の動物部門を展開するというポリティックスが採用されることになったのである。因みに、一八二七年にメディアのスターとなったこのキリンは見事に新環境に順応アクリマテし、パリで一八年間生きて一八四五年一月一二日に死んでいる。
ただし、前述の通りブーローニュの「アクリマタシオン園」が一般公開された一八六〇年の翌年、六一年にイジドール・ジョフロワ・サン=ティレールは急逝してしまうわけで、メナジュリーの覇権が新園長アンリ=ミルヌ・エドワーズに移ったこの時点で、一世を風靡したこの「アクリマタシオン」のイデオロギーには早くも翳りが見えはじめていたという事実はここで注意を喚起しておくに値するだろう。やがてブーローニュの「アクリマタシオン園」は自然史博物館の管轄から離れてしまい、「アクリマタシオン」という実験的目的も忘れ去られてゆく。イデオロギーとしての「アクリマタシオン」は、いわば第二帝政前半期に啓蒙科学の世界を魅了した一過性の流行だったわけで、それは、われわれが本連載の第六回「共和国と『楽しい科学』」の章で扱った、「楽しい科学」ないし「面白い学習」といった理念を鼓吹するあの「通俗化」の言説の流行の初期過程と同時代的な現象であった。恐らくその両者は内在的な絆で結ばれていたに違いない。異国の動植物を自国に帰化させるという主題は、通俗科学の話題としてそこそこ興味深いものだったからこそ専門家集団を越えた種々の知的サロンに流通しえたのだろうし、他方また、高度に秘儀的な科学知識をわかり易く、かつ楽しく、大衆に啓蒙するという「通俗化」の身振りは、差異を解消し、突出を平坦化し、絶対的な他者と見えるものをみずからの内に取り込み消化してしまおうとする欲望に訴えかけているという点で、どこか「アクリマタシオン」の企てと似通っているところがある。「通俗化」の言説とはいわば、「知」の「アクリマタシオン」とでも呼ぶべき何かだったのかもしれぬ。

11──《2歳半のキリン》 A・プレヴォーのデッサンによるリトグラフ、1827年7月

11──《2歳半のキリン》
A・プレヴォーのデッサンによるリトグラフ、1827年7月

不在の動物、凝固した動物

ところで、一九世紀中葉の西欧におけるスペクタクルとしての動物の運命にいささかの光を投じてみようとしている今、そのいささか風変わりな変異態のひとつとして、動物園ともサーカスとも異なる系譜に属する第三のジャンルに触れずに本章を締め括ることはできない。ここまで論じてきたものが、動物が漲らせている強烈な生命力とその発散する生臭い精気に由来する特異なスペクタクル性であったのに対して、もうひとつ別の種類の動物、生命を奪われ、静止し、硬化し、凝固し、永遠に不動の現在の中に浸りこんでいる動物がいるからである。反=自然として人工環境に閉じこめられ、実物ならざるイメージとして、真正ならざるフェイクとして存在し、頑なに動きを止めた単調なオブジェであることの逆説的なスペクタクル性によって、かえって人々の視線を惹きつける魅惑を身にまとうことに成功している動物──「作り物の動物」がそれである。
一八五一年、後年になって第一回万国博覧会として回顧されることになる記念碑的な大博覧会がロンドンで開かれる。そのときハイド・パークに建てられてメインの会場になったのは、ジョゼフ・パクストン卿が設計した鉄骨ガラス張りの巨大建築だったのだが、博覧会の終了後、この建物は解体され、サイデンハムの郊外まで運ばれてそこに建て直され、芸術や科学をめぐる展示が行なわれる施設として蘇ることになった。クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれるものがそれであることはむろん言うまでもない。ほどなくロンドンっ子たちが郊外線の列車に乗って休日に足を伸ばす恰好の行楽地のひとつとなったこのクリスタル・パレス内に、やがて或る奇妙な展示室が設けられる。「絶滅動物の模型」室と名づけられたその部屋には、太古の地球で繁栄していながら人類の出現以前に絶滅してしまった動物たちの、実物大の立体モデルが展示されたのだ★七。これはただちに人々の人気を集め、『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』など当時の視覚メディアにも大きく取り上げられて、その記事に煽られた見物客がまたどっと押し寄せるという、われわれにも馴染み深いあの増幅現象が起きる[図12]。
なるほどそこには生きた動物が漲らせているあの「野生」の迫力はないし、見物人の背筋をちりちりとそそけ立たせるような脅えの感覚が惹起されるわけでもない。ただし、何しろ現在の世界には金輪際不在の生き物なのだから、このモンスターたちの見た目の珍しさたるやキリンなどの比ではないこともまた事実である。残された版画を見てみると、作り出された模型には大幅なイメージ的誇張が施され、怪物然としたキマイラたちが猛々しい牙と歯列を剥き出しにして蹲ったり立ちはだかったりしており、このスペクタクルを見に大衆が押し寄せたのもむべなるかなと思われる。実際それは虚構のスペクタクルと言うに近いものであり、この「動物」たちの姿形そのものに関するかぎり、今日の古生物学の常識に照らしてみればどう見ても嘘臭いと言うほかなく、単に遊園地の子供向きアトラクションのようなものとしか映らない。しかし、事業の趣旨としてはこれは、「科学の通俗化」の一環をなすべききわめて真面目な教育的企画にほかならなかった。模型の作者はロンドンの彫刻家で挿絵画家でもあるベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンス(一八〇七─八九)。これはクリスタル・パレス・カンパニーがホーキンスに委嘱し、「イギリスのキュヴィエ」と渾名された解剖学者リチャード・オーウェンの協力の下、当時草創期にあった古生物学の最先端の知識を綜合することによって作り上げられた科学的展示なのである。だが、「知」と「娯楽」とが不可分に相互浸透し合っている「楽しい科学」の領域では、科学的真理の口実はスペクタクルとしての魅惑を決して排除しない。ホーキンスによる芸術的誇張が随所に見られるこのモンスターたちは、謹厳な「タクシノミア」の窮屈な檻から逸脱してむしろルナ・パークで催されるいかがわしくも奔放な見世物芸のようなものに接近しており、見物人たちも半ば以上はそのようなエンターテインメントとしてこの動物的スペクタクルを消費していたはずなのだ。クリスタル・パレスの「絶滅動物の模型」室は、いわばこの時代の「ジュラシック・パーク」だったのである。
だが、なるほどそこには今日から見ればほとんど空想的なキマイラと言うほかないものが混じっているのは事実としても、この展示が、原初の地球の動物の生態系へと人々の想像力を駆り立てるイメージ装置として或る程度有効に機能したであろうこともまた疑いを容れない。動物園が、地上の全表面へと空間的に伸び広がってゆく水平的想像力を刺激するスペクタクル空間だったとすれば、この施設は、時間の軸を遡行して「人類以前」の過去へと向かう垂直的想像力を怪しくかき立てるイメージ装置にほかならなかった。ロンドン市民は家族連れで、或る休日にはリージェント・パークの動物園へ行き、生きた動物たちの姿態に目を楽しませ、それら珍しい獣たちが遊び戯れていたであろう遠い異国の風土と風景に思いを馳せたり、また別の週末には郊外電車に揺られてサイデンハムまで足を伸ばし、クリスタル・パレスの一室にジオラマとして展示されている「絶滅動物」の威容に息を呑み、それら異形のモンスターたちが悠々と闊歩したであろう太古の地球の光景への夢想にひととき身を委ねたりしていたわけだ。空間的な「タクシノミア」の整備は、その発生論的な起源へと遡る時間過程のヴィジョンをもまた深化させ、洗練させていったのである。一方で、生物分類学や比較解剖学の知識の蓄積が古生物学的想像力を刺激し涵養するということがあり、と同時に翻ってまた他方、キュヴィエやラマルクやアガシの業績による古生物学の近代的基礎づけが、器官の形態や機能の分化をパラメーターとする分類学的な「知」に縦の時間軸の次元を賦与し、そのいっそうの洗練と発展を推進する。そうした相互的な過程が手を携えて進行し、『種の起源』の登場を準備しつつあったわけだ。チャールズ・ダーウィンの決定的な著作が出版されるのは、ビーグル号航海からの帰国後二三年を経た一八五九年の出来事である。

12──ベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンスがクリスタル・パレス内に作った「絶滅動物の模型」室 『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』vol.23、 1853年12月31日号

12──ベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンスがクリスタル・パレス内に作った「絶滅動物の模型」室
『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』vol.23、
1853年12月31日号

進化という名のスペクタクル

実際、進化論を支持する者であろうと、キリスト教の教義に足をすくわれつつそれに反対する者であろうと、ダーウィンやその同時代の博物学と生物学の専門家にとっては、地球の生物相の時間的推移は少なくとも客観的な「知」の領野に属する議論の主題であったのだが、一般大衆に広く頒かち持たれていた図像的想像力の水準では、進化論の是非とは無関係に、先史時代の風景とそこに棲まう「絶滅動物」たちの生態が、何よりもまず視覚的なスペクタクルの娯楽として歓迎され、好んで消費されていたのである。マーティン・ラドウィックの著作のタイトルを借りるなら、「深い時間の彼方からの光景(Scenes from Deep Time)」が、人々の視線を魅了したのであり、「楽しい科学」としてのこのイメージの愉楽の、一九世紀全体を通しての繊細化と拡張と浸透が、最終的には進化論的な「知」の普及に大きな役割を果たしてゆくことになったのである。
クリスタル・パレスの巨大模型室は、こうした「深い時間の彼方からの光景」の物理的再現として極めつきのもののひとつだったと言ってよい。周知の通り、三次元模型によるこの手のジオラマ展示はその後多くの自然史博物館で採用され、より多くの科学的な正確さと厳密さを伴って踏襲されながら発達し、その花形としての恐竜の地位は揺るぎないものとなってゆく★八。その一方、二次元的な図像、すなわち太古の地球の想像図はどうかと言えば、これもまたむろん各国で花開いたジャンルにほかならず、大部数が印刷される出版メディアに乗って──すなわちその場に行かなければ見られない立体模型よりも多くの視線を集めつつ──無数のヴァリエーションが試みられている。有史以前の過去をめぐる空想的イメージというのは、実のところホーキンスの模型以前から数多く描かれ、イメージの歴史の大きな一ジャンルを形成しているもので(たとえば旧約聖書の挿絵なども或る意味ではその一部をなすとも言える)、一九世紀以後も正統的な美術史の余白で命脈を保ちながら、SF小説の挿絵のようなかたちで二〇世紀以降まで生き延び、人々から愛好されてゆくことになる。そこでは、アンモナイトが波間に揺らめき、三葉虫が海辺を這い、シダ植物の茂みの間で恐竜たちが血まみれの死闘を繰り広げ、氷河期の荒野をマストドンがのし歩き、小哺乳類が走り回るようになり、やがてアダムとイヴのごとき裸の人間の男女がつつましく登場する★九。
われわれの論じているこの時期に刊行された「楽しい科学」の成果としては、オーストリアの植物学者フランツ・グザフェル・ウンガー(一八〇〇─七〇)が一八五一年に上梓した『太古の世界──その形成の諸段階における』と、この著作のためにグラーツの有名な風景画家ジョゼフ・クヴァセーク(一七九九─一八五九)が描いた多くのイラストが特筆されるべきだろう。これにやや遅れて現われるのは、本連載の第六回ですでに触れたルイ・フィギエ(一八一九─九四)のベストセラー『大洪水以前の地球』(一八六三)であ
る[図13]。フィギエはウンガーの書物の成功がその挿絵に多くを負っていることを理解していて、パリの挿絵画家エドゥワール・リユー(一八三三─一九〇〇)を採用し、やはり数多のイラストを描かせ自分のテクストの彩りとした。前述のマーティン・ラドウィックによれば、リユーの絵は、先行するクヴァセークのヴィジョンにインスパイアされ、多くの場合芸術性において劣るその模倣でしかないというのだが(そして、ラドウィックの著書に掲げられている数多くの実例を見るとなるほどその判断にわれわれも或る程度同意せざるをえないのだが)、しかし通俗的であることをいささかも恐れず、「芸術」としての審美性よりもむしろ一見したときの視覚的インパクトへの配慮を重視した挿絵画家リユーの構図とタッチには、これもまた独自の魅力があることは否定できない。フィギエが反ダーウィン主義者であったことはすでに触れた通りだが、リユーの通俗的なイラストに支えられて広く読まれた『大洪水以前の地球』は、「楽しい科学」のイデオロギー的文脈に属する他の無数の出版物や展覧会や見世物と協力し合って、古生物学的想像力を組織しながら、最終的には進化論のヴィジョンの大衆レヴェルへの普及に貢献することになったのである。

13──四紀の地球の想像的光景(ヨーロッパ) ルイ・フィギエ『大洪水以前の地球』(1863)より

13──四紀の地球の想像的光景(ヨーロッパ)
ルイ・フィギエ『大洪水以前の地球』(1863)より


★一──L'Illustration, t.15, 1850, p.208. Yves Laissus et Jean-Jacques Petter, Les Animaux du Muséum 1793-1993, Muséum national d'Histoire naturelle / Imprimerie nationale Editions,1993, pp.137-138の記述による。
★二──パリ植物園のメナジュリーの沿革に関しては、前註に挙げた書物に収められているイーヴ・レシュースの論文(Yves Laissus, "Les Animaux du Jardin des plantes. Breve histoire de la ménagerie. 1793-1934")に主に依拠している。なお動物園一般をめぐる通史や概論の類は思いのほか少ないようだが、とりあえず、Great Zoos of the World: Their Origines and Significance, Ed. Lord Zuckerman, Weidenfeld & Nicholson, 1980.; Bob Mullan & Garry Marvin, Zoo Culture, Weidenfeld & Nicholson, 1987.; Catherine de Courcy, The Zoo Story, Penguin Books, 1995. などを参照した。
★三──これが必ずしも突飛な連想ではないことの証拠として、ルイ一四世がヴェルサイユ宮に設営したメナジュリーが、巨大な規模においてであるが全体としてはパノプティコンの原理に忠実な円形構造を持っていたという事実を挙げておいてもよい。監視を伴う「閉じこめ」の空間構造は、対象が人間であろうと動物であろうと基本的には変わらないのだ。
★四──Cf. Paul Bouissac, "Perspectives ethnozoologiques: le statut symbolique de l'animal au cirque et au zoo", Ethnologie française, II, 3-4, pp.253-266.
★五──J・G・バラードの『時の声』、ピーター・グリーナウェイの『ZOO』、最近の映画としては『ジュマンジ』などを参照せよ。
★六──この歴史的な「キリン上陸」に関しては多くの文献と視覚資料が残されているが、要領の良い展望としてはUne girafe pour le roi, Presses artistiques, 1984, catalogue de l'exposition présentee au Musée de l'Ile-de-France (château de Sceaux), d'avril à juillet 1984. が便利である。
★七──Cf. Martin J. S. Rudwick, Scenes from Deep Time: Early Pictorial Representations of the Prehistoric World, The University of Chicago Press, 1992, p.140 sq. ベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンスというこの異色のイメージ作家に関しては、「怪物たちを飼い慣らすこと」と題された同書第五章の全体を参照のこと。
★八──この種の動物相のジオラマは、パリやロンドンの自然史博物館にしてもワシントンのスミソニアン自然史博物館にしても、科学展示の目玉のひとつであるので力を入れており、わが国の上野の国立科学博物館もかなりいい線をいっているのだが、筆者の個人的体験から言えばこの種の視覚的スペクタクルに関して今日もっとも豊かで迫力に満ちた成果を誇っているのはやはりニューヨークのアメリカ自然史博物館なのではないだろうか。Cf. Stephen Jay Gould, "The Glory of Museums", in Dinosaur in a Haystack: Reflections in Natural History, Harmony Books, 1995, Part 5 , pp.221-281.
★九──先史時代の動物世界を描いた絵画表象の史的系譜に関しては、註★七に挙げたマーティン・ラドウィックの著書に詳しい。なお、Stephen Jay Gould, "Huxley's Chessboard", in Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin, Harmony Books, 1996, pp.7-16. も参照せよ。

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年生
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。

>『10+1』 No.12

特集=東京新論