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怪物のエチカ──「タクシノミア」の空間としての植物園 | 松浦寿輝
Monster Ethics: On the Spatial Taxonomy of the Botanical Garden | Matuura Hisaki
掲載『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ, 1997年05月10日発行) pp.2-13

テスト夫人の手紙

「この種の男の生存は現実界においてはせいぜい四、五〇分を越えることは不可能だろう」とヴァレリーの言うあの「神のない神秘家」テスト氏に、ここでもう一度登場してもらうことにしよう。われわれはすでに、この虚構の人物が耐えている極限的な孤独を、二重の様態の下に描写している。復習してみるなら、一方に、劇場の桟敷席に身を置き、匿名性の量塊マツスとしての群衆に溶けこみつつ、見る/見られるという視線の劇を演じつつある者の孤独がある。また他方、まるで幾何学図形のような任意の空間としての侘しいアパルトマンで、名前を失い、任意の頭脳(tête=teste)に還元されてしまった者の孤独があって、この二重の孤独が彼に或る特異な「主体」性を賦与しているわけだ。ところで、「テスト氏との一夜」が雑誌『サントール』の第二号に発表されたのは一八九六年九月のことなのだが、ヴァレリーは、それから三〇年近く経った一九二四年秋になって、あたかもこの特異な孤独を相対化しようと試みているかのごとき奇妙なテクストを発表する。『コメルス』誌の第二号に載った「エミリー・テスト夫人の手紙」がそれであるが、詩人はそこで、彼の「純粋自我」の英雄を、「オペラ座」「家具付きアパート」に続く第三の場所──「廃墟と化した植物園(ruine botanique)」に置いているのだ。では、この第三の空間装置は、ここまで書き継がれてきた文章がその周囲を旋回してきた問題群との関係において、いかなる意味作用の磁場を形成しうるだろうか。
「エミリー・テスト夫人の手紙」は、テスト氏の妻が第三者宛てに自分の夫のことを語るという構成になっている。女性的な、とでも一応は形容されようとりとめのないお喋りの中で、エミリー・テストは夫のポートレートを素描しつつ、この「不可能性の怪物」に対する、畏敬と恐怖と愛情とがないまぜになった自分の気持に言葉を与えてゆく。エミリーは言う、「彼は、ひどく無情になることがあるのです。かれほど苛酷になれる人間なんて一人もいないと思います。彼は人の精神をただのひとことで引き裂いてしまいます。私は、何だか自分が、陶工の手で屑物の中に放りこまれた、出来損ないの壺になったみたいな気持になります。彼は、天使みたいに無情なんです」。また、「彼は、彼だけが織ったり、断ち切ったり、繕ったりすることのできる網の目の中に、突然人を迷いこませてしまうのです」。また、「これはこの世の外に身を伸ばすことではないでしょうか。──注意を集中したその意志の極限で、彼が見出すものは生でしょうか、死でしょうか。──それは神なのでしょうか、それとも、思考の最深部で出会うのは、彼自身の惨めな物質の蒼白い輝きだけだという何かぞっとするような感覚なのでしょうか」。さらにまた、「でも、彼が、その深みから私のところへ戻って来てくれるときといったら!
私を見つけて、まるで新しい土地でも発見したような様子なんです。……彼は、私の中で目覚め、私の中で自分を取り戻すのです、何という幸福でしょう!」。
かくして、この特異な男と、彼が存在とかという名で呼びかけるという(「ときどきオアシスと呼んでくれるんですけど、これは私の好きな呼びかたです」)その女性的伴侶との間に営まれる結婚生活の抽象的なポートレートが描き上げられてゆく。エミリーは、それを愛と呼ぶにはためらわれる或る宿命的な絆で夫と強く結ばれていながら、彼の内面に立ち入ることはいっさい禁じられている。だがここで注目したいのは、夫の精神生活の外に弾き出されていると感じているこの女性が、しかし同時に、彼の内部に閉じこめられていると感得してもいるというこの奇妙な位相幾何学的パラドックスだろう。

……私がよく感じる印象を思いきってお話しするなら、こんなふうな譬喩で申し上げたらいいでしょうか。つまり、私は、卓越した精神が──ただそれが存在しているというだけで──私を閉じこめている檻の中で、生活したり動き回ったりしているような気がするのです★一。

私は、揺らぐことのないまなざしの作る世界の中を飛び回り、やっと命をつないでいる蠅のようなものなのです。見られていることもあり見られていないこともありますが、決して視界の外に飛び出すことはできません★二。


「エミリー・テスト夫人の手紙」は、孤独な「怪物」を外から客観的に観察する他者の視線を提出している文章であり、そのかぎりにおいて、この「怪物性」に一種の相対化を施す試みとも読める。だが、他方、語り手のエミリー自身の心理の水準では、この視線のトポロジーは内と外とが逆転しており、彼女はむしろテスト氏の内部に棲みついている存在でしかありえない。むしろ彼女自身の方がテスト氏の視線の網に絡み取られている犠牲者として意識されているのであり、だとすれば、「怪物性」の相対化の試みは結局見せかけだけのものであって、このややくだけた口調でお喋りをつづける家庭的な伴侶の存在にもかかわらず、「怪物」の孤独はいささかも解消されることなく屹立しつづけ、不可浸透性のままの状態にとどまることとなろう。エミリーは、テスト氏がみずからをそれで鎧っている強固な独我論の砦を、それこそ彼女がただ存在しているというだけで突き崩しうるような、真の他者ではありえないのだ。
エミリー・テスト夫人の「他者性」が見せかけだけのものではないかという疑念は、雑誌初出の際に添えられ、後の刊本からは削られることになった「編集部による註記」と題する文章の中では、もっと明確な輪郭を与えられている。恐らくヴァレリー自身の手になるものと見て間違いないこの「註記」は、テスト夫人などという人物が実在するのかどうかがそもそも疑わしいと言い、この「手紙」と称する代物は結局テスト氏本人がでっち上げた文章にすぎないのではないかという疑念を示唆しているのである。一見したところはテスト氏にとっての「他者」と見えなくもない人物を一人舞台に登場させ、とりとめのないお喋りを繰り広げさせたうえで、最後に、実はこの舞台それ自体がテスト氏の頭脳の内部にそっくりそのまま包摂されているのであり、テスト夫人とは結局、彼のこの想像界の劇場でマリオネット芝居を演じる操り人形でしかなかった、と種明かしして、読者に狎れ合いの目配せを送ってよこすという知的な遊戯が実践されていたということにでもなろうか。

1──白紙を前にしたポール・ヴァレリー(1935年) シャルル・レーランス撮影 「純粋自我の英雄」としてのテスト氏の肖像を思わせる

1──白紙を前にしたポール・ヴァレリー(1935年)
シャルル・レーランス撮影
「純粋自我の英雄」としてのテスト氏の肖像を思わせる

「怪物」の伴侶として

ところで、文体や主題や心理やその他あらゆる相違にもかかわらず、「怪物」の妻が「怪物」について語っているという一点において、このヴァレリーのテクストとまったく同一の設定と構造を持っているもう一つのテクストが、フランス近代文学の領野に存在する。『地獄の一季節』に収められた「錯乱I」と題する断章がそれである。
「狂気の処女おとめ──地獄の夫」という副題を持つこのランボーの断章は、ヴァレリーの「エミリー・テスト夫人の手紙」と比べればはるかに広く人口に膾炙しているテクストなので、その内容を改めて詳しく紹介する必要はあるまいが、「悪魔」「人間なんてもんじゃない」と決めつけられ、「愚かな処女おとめたちを破滅させた」「地獄の夫」と呼ばれる男との共同生活をめぐって、その伴侶たる「地獄の道連れ」が涙にかき暮れつつ縷々苦しみを訴えるという体裁で書かれた一人称の文章である。キリスト教の神のことだと言ってよかろう「主」に向かって行なう告解という形式をとっているが、この「主」は「聖なる夫」とも呼び直されているので、告発されているこの邪悪な「地獄の夫」が、神と真っ向から対立するアンチ・キリストとして主題化されていることがわかる。語り手は、自分の配偶者のこの反宗教的な不道徳を憎み、その放埒な所業に脅えながらも、彼の「不思議な繊細さ」に魅惑されないわけにはいかない。
ランボーがアイロニカルな筆遣いで描いた精神的な自画像としての「地獄の夫」が、ヴァレリーのテスト氏と似ていると言いたいわけではない。だが、人並み外れた「怪物」のイメージを描き出すのに、その伴侶を登場させ、凡庸な俗人であるその伴侶の目に映った夫の風貌や言動を伝えるという方法を採っているという点で、この二つのテクストは奇妙な類似を呈しているのだ。「眠っているあの人の愛しい身体のそばで、いったい幾晩、私は夜を徹して思案していたことでしょう、なぜこの人はこれほどにも現実から脱出しようとするのか、と。そんな願いを抱いた人間なんか、未だかつていなかったのに。私にはよくわかっていました──と言っても、彼のためを思って心配するわけではなく──、この人は社会の中で本当に危険な存在となりうるということが。──もしかしたらこの人は、生を変えるための秘密を手にしているのでしょうか。いやいや、彼はただそれを探しているだけなんだと、私は自分に言い聞かせました。要するにあの人の慈愛シヤリテには魔力が籠もっていて、私はその内部に囚われの身となっているのです」。charitéというランボー的語彙に籠められた固有のコノテーションをとりあえず脇に置けば、この二人の関係の心理的な綾は、テスト夫妻の間にあるそれとほぼ同型のものと言ってよい。そして、ここで興味深いのは、エミリー・テストの場合と同じ「私は夫の内部にいる」という種類の呟きを、ランボーの「狂気の処女おとめ」もまた洩らしているという点なのだ。

私は、空き家になった宮殿にでもいるように彼の魂の中にいました。おかげで、あなたみたいな卑賤な人とは会わずにすみました。ただそれだけのことなんです。ああ、私はあの人に頼りきりになっていたのです★三。


ランボーはアンチ・キリストの絶対者の堕落と救済の主題を不倖な乙女の嘆きの声に託し、ヴァレリーは彼自身の密かな「肉」の体験を純粋知性の権化にとっての異性のプレザンスの問題として寓話的に物語っているのだが、注目すべきは、この二人の「妻」がともに、自分の理解を越えた存在としての「夫」の内部に閉じこめられているように感じているという点である。しかし、この内部とはいったいいかなる空間なのか。
「狂気の処女おとめ」の「譫言デリール」にヴェルレーヌとの愛欲の葛藤が投影されているのは恐らく間違いないとしても、この「処女」がヴェルレーヌで「夫」がランボー自身なのだと機械的に当てはめることですべてが解釈し尽くされると考えるのは、テスト氏がヴァレリーでエミリーは彼の恋人だった誰某であると決めつけたり、テスト夫人にはそれよりむしろヴァレリーとの関係におけるジッドのイメージが反映しているのではないかと想像したりすることと同様に、安直な図式に基づく還元主義にすぎないだろう。実在の人物にモデルを探る試みは往々にして怠惰な反映論にしか帰着せず、そうした空しい還元主義は回避しておくに越したことはないが、今仮にモデル探しの水準に身を置いた場合でも、もし「狂気の処女」がヴェルレーヌであると言うならば、それはヴェルレーヌであると同じくらいランボー自身の分身でもあると言わなければ片手落ちというものではないか。「地獄の夫」の残虐と悪徳と慈愛シヤリテがランボーであるとすれば、彼に苦しめられ、苦しみを通じて快楽に酔い痴れつつ、また同時にその苦悩=快楽からの解脱を激しく希求してもいるこの弱い女もまた、ランボー自身の或る側面の擬人化なのであり、そうした事情は、すでに長篇詩『若きパルク』において一人称で語る女性の話者の官能的身体にみずからの自意識の目醒めを託しているヴァレリーにおいても、変わることはあるまい。「地獄の夫」の中に「狂気の処女」がおりテスト氏の中にエミリーがいるのは、詩人の──むろんランボーとヴァレリーの資質は千里の隔たりがありはするが──微妙なサド=マゾヒズムに染め上げられた一種の両性具有的感性に由来するのだと、一応は言っておくことができるだろう。
その意味で、この二つのテクストは、孤独な「怪物」にとっての「他者」のイメージを提起しているかに見えて、結局は独我論的な閉域に収斂してゆくナルシシックな作品であると言えなくもない。「エミリー・テスト夫人の手紙」の「編集部による註記」に籠められたアイロニーについてはすでに触れたが、一方、「錯乱I」の場合もまた、「奇妙な夫婦もあったものだ!」と冷たく言い棄てる言葉が締め括りの一行になっており、これは『地獄の一季節』全体を通じての話者の口から洩れた感想であるから、「地獄の夫」と「狂気の処女」の葛藤もこうして最終的にはモノローグ的な自意識の内部に摂り込まれて終るのだと見ることも可能である。ここでの語り手を「気の狂った」女と呼び、その語る言葉にあらかじめ「錯乱」のレッテルを貼っておく身振りそれ自体、あらかじめ安定した上位のエゴのアイロニーの圏域にすべてが回収されていることを物語るものだろう。それでは、「怪物」の孤独を脅かす真の「外部」といったものは、結局存在しえないのか。

2──ヴェルレーヌが描いたランボーのデッサン

2──ヴェルレーヌが描いたランボーのデッサン

「テクスト=現実」のトポロジー

だが、ここでの問題は、「夫」の中に「私」が囚われているなどというものの、一人称の「私」に同化しつつテクストの言葉の流れを辿ってゆく読者の意識の水準では、──すなわち読むことの直接的な現場においては、むしろ「内部に棲みついているイメージとして「地獄の夫」なりテスト氏なりの肖像が立ち現われてくることになるという点ではないだろうか。私は「夫」の内部にいるのです──そう「私」は言う。だが、その「私」の言葉に密着しつつ、その心象世界の体験として作品を読みつつある者の意識にとっては、むしろ「夫」の方が「私」の内部に見出されるものとして受け取る方が自然だろう。語られる内容としての登場人物の心理(私は「夫」の内部にいる)と、語りの現場で生成する作品体験としての心理(「夫」が私の内部にいる)との間に、ねじれが生じていると言ってもよい。すなわち、「夫」に包摂されていると感じている「妻」に語らせ、その語る言葉の内部に「夫」のイメージを立ち上がらせ、その「夫」の内部に「妻」の意識を還流させ──といった具合に、外が内へ、内が外へときりなく摂り込まれつづけてゆく無限反転の空間構造があるのであり、こうした構造それ自体が、全体として、いわば詩人にとっての「他者性」の装置として機能していると言えはしまいか。
自己と他者とを絶えず交換させつづけている巧緻なテクスト装置がここにはある。これは、単に「怪物」的な「夫」をめぐって「妻」が語っているというだけのテクストではなく、「夫」と「妻」とがクラインの壺のように絶えず互いの内/外へと循環しつづけているトポロジックなテクストなのであり、語義矛盾した言いかたながら、いわばナルシシックな他者性の装置なのであって、真に「怪物」的と言うべきはむしろこの装置の作動ぶりそれ自体のことなのだろう。ともあれ、ランボーとヴァレリーという二人の大詩人が、半世紀を隔てて、ともに「怪物」の伴侶を一人称の話者の位置に据え、説話的な心理空間のトポロジーにおいて同型的なねじれを孕む二つのテクストをそれぞれ書き遺しているのは興味深いことではないだろうか。ヴァレリーは、『イリュミナシオン』の衝撃に比べると『地獄の一季節』にはさして興味を惹かれなかったと回想しており、そもそもマラルメとランボーは互いに互いの「対蹠点」に立つ詩人だと定義していながらランボーを正面切って取り上げたエッセーは一篇も書いていないという事実それ自体に、彼の関心の稀薄さが知れようものだが、この二つのテクストの間に何らかの影響関係は想定しうるのだろうか。もし想定しうるとすれば、その影響関係の磁場は、ひょっとしたら小林秀雄の「おふえりや遺文」(一九三一年)にまで届いているかもしれぬ。
ところで、ここまで「怪物」と呼んできたものは、ヴァレリーとランボーとではもちろん同じ存在を指すわけではない。ランボーの場合はカトリック的モラルとの対決が大きな意味を持っているのに対して、知性の純化と徹底というヴァレリー的主題においては、ことさら無神論ないし汎神論といったかたちでの反キリスト教的側面が強調されているわけではないからである。だが、ランボー的「怪物」が、「無限」として立ち現われてくる「知」に直面し、一方では全能感に勝ち誇り、他方では無力感にうちのめされる二律背反的な「主体」と無関係かと言えば、決してそんなことはないはずだ。そのことの傍証の一つとして、ランボーもまたほかならぬあの大英博物館の円形閲覧室に身を置いたことがあるという事実を挙げることができる。
パリ・コミューンが始まり、ヴェルサイユに移った政府保守派とバリケードに立てこもった叛徒たちとの間に激しい抗争が続いていた頃、少年ランボーは、ベルギー国境近いアルデンヌ地方の小さな町シャルルヴィルから、滅びよ、もっと滅びよと念じつづけていた。一八七一年四月下旬には矢も楯もたまらず家出してパリまで徒歩で行き、市の城門の哨所で尋問され、そのままコミューン派の志願義勇兵の一団に紛れこみ、市内を興奮して歩き回ったりもしていたのである。故郷に戻って書いた名高い二通の「見者の手紙」は五月一三日と一五日の日付を持っており、一七歳の少年詩人の傲岸で破壊的な意志が、首都の未曾有の騒乱によってさらに激化し加速したことは間違いない。フランスの首都が大火災に包まれるのは前号(『10+1』No.8)の通り七一年五月二三日から二四日にかけての出来事であるが、「血の一週間」と呼ばれる惨劇を経て、五月二八日、コミューンは崩壊することになる。このとき、叛徒たちと想像的に同化していたランボー自身も深い挫折感を味わっている。
この年の九月中旬、ヴェルレーヌがランボーをパリに呼び寄せ、運命的な出会いが演じられる。事態の推移を詳述することは控えるが★四、結局、一八七二年九月、二人はロンドンに向けて出発し、以後、短期の中断を挟みながらではあるが、翌年七月までイギリスの首都で「同棲」し、フランス語の個人教授で生計を立てようと試みつつ、英語の勉強をしたり読書に耽ったりロンドンに亡命していたコミューンの残党と付き合ったりといった気ままなボヘミアン的生活を送ることになる。ランボーの詩には、周知の通り英語の単語が時折きわめて印象的な使われかたをしており、彼の詩的言語の「現代性」の指標の一つをかたちづくっているが、そうした言語態の形成に、このロンドンでの生活体験が色濃い影を投じていることは疑う余地がない。例の発砲事件によってヴェルレーヌとの関係が破綻して以降、ランボーはジェルマン・ヌーヴォーを伴ってふたたびロンドンに行って暮らすことになるわけで、『イリュミナシオン』における「都市」の主題の本質的な部分には、パリ以上にロンドンのイメージが流れこんでいると言ってよいだろう。しかし、ここで興味深いのは、七三年三月、大英博物館の閲覧者カードにランボーの住所氏名が記入されたものが発見されているという事実である。ランボーは少なくとも一度、ひょっとしたらかなり定期的に、大英博物館閲覧室を訪れ、そこで西欧的な「知」に触れていたのであり、彼はあるいはカール・マルクスの傍らに座っていたこともあったかもしれないのだ──もっとも、禁書棚に並べられたサド侯爵の著作の閲覧を請求し、断られたことがあるという逸話などは、やや眉に唾をつけたくならないでもないにせよ。
虚構化された詩的自伝としての『地獄の一季節』は、七三年四月から八月にかけて書かれたと推定されている。みずからの辿った詩的道程のこのあまりに早すぎる総括は、一〇月、ブリュッセルの小さな印刷所で、自費出版のかたちで五百部だけ印刷される。ただし著者用見本の数冊が友人に配られたほかは、大部分がポート印刷所の倉庫に眠ったままになる(埃をかぶったその本の山は、手つかずのまま一九〇二年に発見される)ので、厳密には出版されたとは言いがたいのだが、とにかく、この文学史上の一大事件が、一方で都市の炎上と廃墟化、他方で巨大な円形閲覧室での読書という二つの記憶をその内なる襞に畳みこんでいるという点は注目に値するだろう。「公教要理カテシスムを習いにゆく少女みたいな優しさを身に着けて、彼は出かけていったものでした」と「狂気の処女」は愛しそうに呟くが、ロンドン滞在中のランボー自身もそんな優しさを振りまきながら大英博物館へ出かけていったのだろうか。

何とかVulgareだの、何とかAsperだの……

以上の迂回を経たうえで、冒頭に予告しておいた「第三の場所」に、われわれは今ようやく辿り着くことができる。「手紙」の末尾でエミリーは言う──これから私は夫と連れ立って、「考えごとや心配ごとを抱えた人々、心の中でひとりごとを呟く人々が、みな夕べともなると水が川に流れこむように下りてゆき、否応なしに落ち合うことになるあの古めかしい公園」へ散歩にゆくのだと。

……テスト氏は、植物界の様々な種の見本がいくらかずつ栽培された、緑色の札の立った「花壇」の間を、ゆっくりと歩き回ります。彼は、このいかにも滑稽な秩序のさまに陶然とし、
Antirrhinum Siculum(金魚草)
Solanum Warscewiezii(なす科の植物)!!
などという風変わりなバロツク植物名の綴りを辿っては悦に入ります。
それに、あのSisymbriifolium(風花菜属)なんていうのも、まったくわけのわからない隠語ですわね!……それから、何とかVulgare だの、何とかAsper だの、何とかPalustris だの、何とかSinuata だの、何とかFlexuosum だの、何とか Proealtum だの!!
「形容詞の庭だ」と、あの人は先日、言いました──「辞書であり墓場でもある庭……」と。
そして、しばらく間を置いてから、ひとりごとのようにこう呟き
ました──「学識豊かに死んでゆく……分類シツツ逝キヌ(Transiit classificando)か」★五。


この「古めかしい公園」をどこか特定の現実の場所に重ね合わせる必要はないし、そうすることはむしろヴァレリーの抽象的寓話に対する裏切りと思われぬでもない。なるほどテスト氏の物語の舞台はどこであってもよい任意の空間ではあるのだが、ただし、四、五〇分以上は実在しえないと言われるテスト氏もまた、現実の都市空間を歩かせてみたときに発散しうるなまなましい存在感のゆえにわれわれを魅了しているのである以上、ここで言及されている「廃墟と化した植物園」が、たとえば現実の都市のいかなる場所と対応しうるかを、とりあえずのレフェランスとして思い浮かべてみるのは決して禁じられた振る舞いではありえまい。
その場合、「ごつごつした石畳みの曲がりくねった路地」が張りめぐらされている「この古い町」と言われているものを、あえてパリと見なす必然性はもちろんなく、たとえばヴァレリーが思春期を過ごした南仏のモンペリエの町には、一五九六年開園というからヨーロッパでもっとも古いものの一つであるモンペリエ大学植物園があり、恵まれた地中海の陽光のおかげで多くの植物が栽培され今日なお欧州有数の植物園として多くの人々に親しまれているが、中年になったヴァレリーの心にこの植物園の記憶が甦ってきたと考えることはもちろん可能である。
一方、仮に「この古い町」をパリと見なすなら、ここで語られているような「花壇」を配置した公園として想定できるのは、サン・ベルナール河岸に面した五区の植物園でなければ、ブーローニュの森の一角を占めるバガテルといったところになろうか。一七一六年にエストレ公爵夫人がブーローニュに構えた邸宅の庭園に淵源を持つバガテルは、一九〇五年にパリ市がヘンリー・マレイ・スコット卿から買い取って公園にしたもので、ヴァレリーも散策の機会があったはずである。ただしこの植物園はテスト夫人の手になる描写とやや食い違って基本的には薔薇園なので、やはりパリ大学ジュスィユー校脇にあるあのパリ植物園の方がここでのイメージにはふさわしいかもしれぬ。このジュスィユーの植物園は、モンペリエのものよりやや遅れて一六二六年に発足し、アカデミー・フランセーズの創立と同じ年である一六三五年に──人文科学と自然科学を等分に重視するという配慮からだろうか──王室薬用植物園として公式に設立されている。博物学者ビュフォン(一七〇七─八八)が園長を務めた一七三九年から八八年までの間に世界有数の植物園に発展し、現在は国立パリ自然史博物館の附属施設になっている★六。しかし、これらはそのいずれもが公的施設として整備されつづけてきた植物園であり、エミリーの描写の中にある「廃園」ふうの物侘しさに客観的な根拠を提供するものではもちろんない。それにしても、ヴァレリーはこの植物園になぜ「廃墟」のイメージを纏わせたのだろうか。
植物園とは、そこに身を置く者の視線にとって快楽を目的として構成された美的庭園ではなく、世界中から広く収集した植物標本を育成する博物学の空間である。そこを支配しているのは、芸術的な「美」の理想ではなく、分類学的な「知」の原理であり、その意味では「ピクチャレスク」な風景庭園の対極にあるものだとも言えるだろう。ところで、「廃墟」とはまさにその絵画美に満ちたピクチヤレスク風景庭園がしばしば内に摂り込もうとしてきた親和的イメージの一つなのだ。すでに引用したように、エドモン・フランクは、パリ・コミューンで焼亡したオルセー宮跡の廃墟を描写しつつ、「こうした諸々の「断乎たる優柔不断」のおかげで、パリは、一八七一年以来今日(一八九七年)に至るまで、もっとも敬うべきものにして画趣に溢れるピトレスク、歴史的かつ現代的な廃墟を所有するという、稀な幸運に恵まれたのである」と書いている。イタリア語のピットレスコ pittoresco に由来する「ピトレスク」という形容詞がここで用いられているのは、「廃墟」こそいわゆる「ピクチャレスク美学」の好個の画題の一つであったことを思えば、凡庸な決まり文句以外のものではない。歴史概念としての「ピクチャレスク」とは一八世紀の英国で一世を風靡した美的テイストであり、その理想は造園術の領域では「まるで絵のような」景色をそのまま人工的に再現する風景庭園(landscape garden)によって具現化されてきた★七。一九世紀後半の時点では、「画趣に溢れる廃墟」という特権的主題は当然ながらやや時代遅れの紋切型と化していたのであり、エドモン・フランクが皮肉を籠めて言及している行政当局の「断乎たる優柔不断」の恩恵を受けたオルセー宮跡の場合に限って、こうしたアナクロニックな「風景」が二〇世紀のとば口の時点まで奇蹟的に生き延びることになったというわけである。
ところで、バロック的表象思考のマエストロとも言うべきリトアニア出身の美術史家ユルギス・バルトルシャイティスは、種々様々なモチーフの引用の集積で成り立ったミクロコスモスとしての風景庭園を、ルネッサンス貴族たちが珍品をミニチュアで収集したヴンダーカマー(驚異博物館)に譬えている★八。「驚異」と「反響」を両極に据えたスティーヴン・J・グリーンブラットのミュージアム論を、今仮に庭園論へと横滑りさせてみた場合、「驚異」を体現するものが風景庭園だとするならば、その対極に位置する「反響」の原理を引き受ける庭園空間とはいったいいかなるものなのか。硬直した二元論への還元は避けねばなるまいが、視覚が捉えたものを文化的記憶の空間に反響させ共鳴させる展示の装置が仕掛けられた庭園として、まず第一に挙げられるのが、分類学的な「知」によって統べられた植物園であることは間違いあるまい。それは、バルトルシャイティスが愛好する「偏    畸アベラシオン」を抑圧し、すべてを等し並みで一律の分類体系の内部に押しこめようとする強圧的な権力空間でもあるだろう。

3──ビュフォンが園長をしていた頃のパリ王立植物園

3──ビュフォンが園長をしていた頃のパリ王立植物園

4──現在のパリ植物園 エドゥアール・ブーバ撮影

4──現在のパリ植物園 エドゥアール・ブーバ撮影

分類学の廃墟

ミシェル・フーコーは、一七世紀から一八世紀にかけてのいわゆる「古典主義時代」の西欧に出現した「知」の原理の一つとして、「タクシノミア」すなわち分類学の身振りを挙げている★九。分類とは、言い換えれば、可能なかぎりのあらゆる差異を通覧することができるような、整然とした連続的なタブローを作成することであり、そうした普遍的な表の上に生物の種を配置してゆくところに成立したのが、博物学(histoire naturelle)と呼ばれる今日では実質上死に絶えてしまった学問領域であった。
ここで差異とは、可視的な特徴カラクテールによって記述されうる指標のことである。博物学者はその一覧表を作ろうとして、対象の表面を細心なまなざしで撫でさすり、差異と同一性を体系と方法に基づいて記述してゆく。そのまなざしが、不可視の奥処に潜む生命の本質を掘り下げてゆくといった、深さへ、内部へと向かう垂直的な視線でないことに注意しよう。その点で、この時期、解剖学が、ルネッサンスにおいて持っていた、そしてキュヴィエ以後の一九世紀にふたたび持つことになる主導的な役割を失っていたという事実はきわめて示唆的である。生物をめぐるこの時代の「知」にとっての喫緊の関心事は、目に見える差異によって属と種を分類することであり、そこにおいては生物の内に潜む「生命」の機能といった問題は浮上してこないのである。「生命」が主題化されるのは、一九世紀以降の生物学においてのことであるにすぎない。博物学は生物学とは多くを共有しておらず、むしろ、記憶の中の諸表象を分析し、それらの間の差異と同一性を見定め、そこから出発して記号を設定し、最終的に名前を与えるという言語的な「知」の体系と密接な関係を取り結んでいた。「生気論」のキュヴィエ以降「生命」をめぐる学問領域として生成してゆく生物学ではなく、「共通の名」としての普通名詞を可能ならしめる整序された記号のタブローの作成をめざす一般文法が、「タクシノミア」の原理を介して博物学と結びつき、同時代の「知」の相貌を共有していたのである。
テスト夫妻が夕暮の植物園でゆっくりと経巡ってゆく「植物界の様々な種の見本がいくらかずつ栽培された、緑色の札の立った花壇」の空間を統べているのは、西欧の「知」が一七世紀から一八世紀にかけて精錬し上げたこの「タクシノミア」の原理にほかならない。その場合、二〇世紀初頭のテスト氏を陶然とさせているこの「いかにも滑稽な秩序のさま」に責任を取るべき主体が、生物名とりわけ植物名を整序した決定的な一覧表の作者としてあのカルル・フォン・リンネ(一七〇七─七八)であることは言うまでもない。Antirrhinum Siculum も Solanum Warscewiezii も、「何とか Vulgare だの、何とか Asper だの、何とか Palustris だの、何とか Sinuata だの、何とか Flexuosum だの、何とか Proealtum だの!!」も、ことごとくリンネによって創始された記号体系に属しているからだ。リンネがその著書『植物の種』(一七五三年)で提案したいわゆる二命名法、すなわち動植物を属名と種名の二つの名称で固定する方式は、古典主義的「タクシノミア」の最大の遺産として残ることになり、今日、全世界的な汎用化を見るに至っている。パリ植物園長の職にあって行政官としての辣腕を振るい、この施設を飛躍的に発展させたビュフォンは、自然はすべて一つの分類法に収まるというリンネの命題に反対し、そうしたリジッドな枠組みに収まるには自然はあまりにも多様で豊かだと主張したが、リンネによる学名の体系は結局、植物園空間の「タクシノミア」を制覇することになったのである。
その空間を「形容詞の庭」「辞書であり墓場でもある庭」と観じているテスト氏は、それらの植物群に「生命」の息吹をまったく感得していないという点で、「タクシノミア」の原理にいかにも忠実に振舞っていると一応は言える。だがここで重要なのは、彼がその「形容詞」のタブローを、整合的な「知」の体系と見なすどころか、ただひたすら官能的に享楽すべき無償の記号の戯れへと還元してしまっているという点だろう。詩的と呼んでもよかろうこの身も蓋もない身振りによって、テスト氏は「タクシノミア」の表としてある古典的な博物学空間を、まさに廃墟化してしまっているのである。テスト夫妻が散策するこの庭園が「廃墟」と呼ばれているのは、そこが物理的に荒廃しているということよりはむしろ、テスト氏の歩みにつれて、また彼の虚ろなまなざしが小綺麗に整頓された花壇のラベルを撫でてゆくにつれて、世界を連続的なに整序しようとする分類学の枠組みに徐々に亀裂が走ってゆくといった事態を意味しているのではないだろうか。
テスト氏の「知の怪物」たるゆえんは、リンネ的な分類学を、風変わりなバロツク記号群の無秩序な往来へと不意に変貌させてしまうこの直截な暴力性に存しているだろう。合理的な「知」の体系としての「学名」が、装われた無知によって一挙に表層的な記号の戯れに還元され、「まったくわけのわからない隠語」の地位へと滑り落ちてしまう。「知」が「知」の廃墟へと頽落するこの瞬間、もはや「共通の名」など滞りなく流通しえない畸形的なテクスト空間が開かれる。そのとき「知の主体」に可能なのは、科学的な整合性から逸脱した歪んだバロツク記号の戯れを、詩的衝撃として享楽することだけだ。その衝撃を通じて、なぜか風景が唐突に死の彩りを帯びはじめる。今や、単に「生命」の主題が不在であるといった消極的な事態を越えたことが起こっているのだ。「辞書」的な「タクシノミア」の空間としての植物園は、さらに進んで、その「辞書」を構成する語彙の数々が累々たる屍となって眠る「墓場」と化すところまで至り着く。「学識豊かに死んでゆく……分類シツツ逝キヌ(Transiit classificando )」とひとりごつテスト氏は、この「知」の空間に唐突に死の契機を喚び入れてしまうのである。いわば、博物学のネクロフィリア。

5──アンリ・ルソー《夢》。「税官吏」ルソーはパリ植物園に通いつめて熱帯植物をスケッチし、現実にはありえない組合わせをちりばめつつ彼の幻想の中の南国世界の表象を作り上げた。「タクシノミア」空間へと向けられた一種の「脱構築」作業とも言える。

5──アンリ・ルソー《夢》。「税官吏」ルソーはパリ植物園に通いつめて熱帯植物をスケッチし、現実にはありえない組合わせをちりばめつつ彼の幻想の中の南国世界の表象を作り上げた。「タクシノミア」空間へと向けられた一種の「脱構築」作業とも言える。

庭園=白紙=破局

ちょうどルネッサンスのヴンダーカマーが、そのもともとの「驚異」の力に加えて「反響」の要素への配慮をも兼ね備えることによって近代的なミュージアムへと脱皮していったように、庭園の場合も、バロック期の風景庭園が「美」の極を、分類された植物の種を示す標識が整然と立ち並ぶ植物園が「知」の極を代表し、この両極の間を揺れ動きつつわれわれにとっての庭園空間の近代がかたちづくられていったと言ってよいだろう。では、こうした庭園空間に対してヴァレリーはいかなる態度で当たることになるか。『若きパルク』の作者は、彼にしばしば賦与される「知性主義の詩人」という呼称にふさわしく、「美」と「知」という二極の結合と調和というかたちでの庭園論を展開しても良かったはずなのだ。ところがヴァレリーの創り出した「怪物」は、「美」をも「知」をも嘲笑し、リンネ的「タクシノミア」を一挙に虚構化してそれを「死者たちにこそふさわしい場所」へと変容させてしまう。そのとき、「タクシノミア」のタブローは、テクストの「ページ」という物質的な支持体として蘇生したのだと言ってもよい。テスト夫妻がさまよう黄昏の植物園は、いわば紙の上の「ページの庭」であり、彼らはそこで累々と重なり合う活字の屍の間を歩きながら、「精神の危機」としての西欧の終末を目撃していたのかもしれぬ。
ヴァレリーのテスト氏は、ランボーの「地獄の夫」と同様に、いわば現世の経験論的地平を超脱した「怪物」である。「タクシノミア」から逸脱せざるをえないもの、整序された分類空間に亀裂を走らせ、それを唐突に崩壊させてしまうものこそが「怪物」なのだと言い換えてもよい。そうした「怪物」的存在のイメージを提起するに当たって、二人の詩人はともにその性的なパートナーの声を仮構し、畸形的な「怪物」たちの「尋常でなさ」を強調するという方途を選んだわけだが、この無力な伴侶たちは、自分は夫の「怪物」性の内部に閉じこめられていると口を揃えて──ただし一人はむしろ楽しげに、もう一人は涙にかき暮れつつ──語るほかはない。「私たちが持っているいちばん私たちらしいもの、いちばん貴重なものは、私たち自身には謎に包まれていることはよくご承知でしょう。もし私が、自分をことごとく知り尽くしてしまったら、存在を失ってしまうだろうという気がします。ところが、私は或る人にとって透明なのです。あるがままに見られ、予見されているのです、神秘もなく、影もなく、私自身の未知性に、──私自身の自分に対する無知に、助けも求めることもできずに!」★一〇  何もかもを「見て」しまい「知り尽くし」てしまうこうした「怪物」性は、最終的には「知の廃墟」へ逢着するほかはない。「知」と「死」との、これもまた予見され尽くした相互浸透だ。「学識豊かに死んでゆく」……
「なぜテスト氏は不可能か?──この問いこそ彼の魂なのだ。この問いがあなたをテスト氏に変える。彼は可能性の魔そのものにほかならないからだ」★一一。一方では匿名の群衆に身を紛れこませ、他方では寒々とした「任意」の空間に棲まいつつ、この二重の孤独に脅かされ、かつまた同時にそこから慰藉を受けてもいるテスト氏は、劇場とアパルトマンとの間を往還しながら、その生をゆるやかに磨滅させてゆく。だが、「廃墟と化した植物園」というこの第三の空間装置において、この「怪物」は、無表情とゆるやかな身のこなしは変えないまま、古典的な「知」の表象に基づいて配置された記号を唐突に殺戮してしまうのであり、不意にり上がってくるこの凶暴な「死」の現前を通じて、テクストの実践者としてのみずからを誇示することになるのだ。「分類シツツ逝キヌ」というほとんど声として響くことのない呟きと一体化したそのテクスト体験が、否定と消滅と不在の星の下に営まれるほかないものであることは言うまでもあるまい。そのとき、彼がその「肉の伴侶」と一緒にゆるゆるとした足取りでさまようこの「廃墟と化した植物園」は、過去の記憶の集蔵体であるよりはむしろ、何も書かれていない白いページを脅かす未知なるものの予兆として、切迫した危機として、乾坤一擲の賭けとして立ち現われてくることとなろう。「知の怪物」にもし何らかの倫理が備わっているとしたら、それはこの予兆とこの危機とこの賭けを基盤とした、破局的なエチカであるに違いあるまい。


★一──Paul Valéry, "Lettre de Madame Emilie Teste", in Œuvres, Bibliothèque de la Pléiade, Tome II, p.31.
★二──Ibid., p.32.
★三──Arthur Rimbaud, "Délires I", in Œuvres, Classiques Garnier, p.225.
★四──ピエール・プチフィス『アルチュール・ランボー』(中安ちか子・湯浅博雄訳、筑摩書房、一九八六年、原著一九八二年)などを参照。
★五──P. Valéry, Op. cit., p.36.
★六──このあたりの事情はピエール・ガスカール『博物学者ビュフォン』(石木隆治訳、白水社、一九九一年、原著一九八三年)に詳しい。また、パリの庭園に関しては、Edouard Boubat, Bernard Noël, Jardins et squares, A. C. E. éditeur, 1982. のほか、例によって途方もなく有用な Guide bleu/Paris, Hachette, 1988. にも依拠した。
★七──ピクチャレスク美学、風景庭園、「廃墟」の主題などに関しては、高山宏『庭の綺想学──近代西欧とピクチャレスク美学』(ありな書房、一九九五年)、ワイリー・サイファー『ロココからキュビスムへ──一八─二〇世紀における文学・美術の変貌』(河村錠一郎訳、河出書房新社、一九八八年、原著一九六〇年)などを参照。
★八──Jurgis Baltrušaitis, Aberrations, 1957, Ed. Flammarion, 1983, p.122.
★九──ミシェル・フーコー『言葉と物』新潮社、渡辺一民・佐々木明訳、一九七四年(原著一九六六年)、第五章「分類すること」参照。なお、「古典主義時代」以前つまり一七世紀までの植物分類学に関しては、アグネス・アーバー『近代植物学の起源』(月川和雄訳、矢坂書房、一九九〇年)参照。
★一〇──P. Valéry, Op. cit., p.32.
★一一──Ibid., "Preface", p.14, souligné par Valéry.

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年生
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。

>『10+1』 No.09

特集=風景/ランドスケープ

>ミシェル・フーコー

1926年 - 1984年
フランスの哲学者。

>言葉と物

1974年