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自由への導火線──地中海都市、街路の祝祭性 | 織田竜也
A Spark towards Freedom: Mediterranean Cities and Festivity in the Street | Tatsuya Oda
掲載『10+1』 No.34 (街路, 2004年03月発行) pp.91-93

人は都市に何を求めるのだろう。賑やかで、華やかで、どこか空虚な、それでいて足を向ければけっして拒まない。そんな開かれた扉が都市の魅力だろうか。扉が開かれているといっても、その扉の向こうに何があるのだろう。われわれはそこから、どこへ向かおうというのか。
都市での経験とは一言で言って、自由への飛翔である。文化人類学の山口昌男はジョセフ・ライクワートの文章を引きながら、都市とは「人間がより大きな宇宙に繋がるための手段である」と述べている(山口昌男『祝祭都市——象徴人類学的アプローチ』[岩波書店、一九八四])。大きな宇宙へと繋がる回路はどこに仕掛けられているのか。ストリートは、都市と都市を接合するトランスシティの回路である。街路は直線的なストリートに対して、都市内部の錯綜した時空であり、自由へと連れ出す契機を提供する。生命の躍動。飛行機や車を降り、自らの身体感覚だけを頼りに歩く。都市の野生。街路にはそんな形容がふさわしい。
そのようなプロセスが自由として感知されるならば、われわれはときに人間であることから解放され、類まれな世界に触れることができる。この飛翔はいわば死を垣間見るサーキットであり、われわれの世界においてそんな瞬間は、祝祭の相のもとに立ち現われる。
日常の生を生きることで構築されるメカニズムを解き放つ。祝祭の時空はそんな契機で満ちている。異なるものとの出会い。われわれは驚き震える身体を他者へと投げ出して、混ざり合い、溶け合うことで新たな宇宙を経験する。
街路の喧騒、祝祭の混沌が懐かしくなったときには、もう一度街路を歩いてみればいい。街路には自由へと繋がるさまざまな仕掛け、光と闇のコントラストがふんだんに散っているはずだ。ここでは地中海沿岸の二つの都市、バルセローナとヴァレンシアの街路を散策してみよう。
地中海の都市には、乾いた空気が流れている。夏のまぶしい日差しの下でも、街にできあがる光と影のコントラストはどこか、硬い質感、といった印象を与える。スクエアな粒子。空気とぶつかりながら歩いていると、ふとそんなことを想像する。
日本では、スペインといえば情熱の国。だが闘牛やフラメンコといったスペインの典型は、地中海に面したバルセローナやヴァレンシアの人々にはあまり関係がない。スペイン・地中海都市の情熱。それは赤く燃え上がる炎に形容される種類のものではなく、むしろ静かに、ひっそりと青く灯される。
バルセローナは賑やかな港町。もしあなたが幸運にもバルセローナを訪れることができたならば、世界でも有数の楽しい道空間、ランブラ(La Rambla)を歩く経験を手に入れることができる。
日本語で「ランブラス通り」と称されるこの通りは、スペイン語ではラス・ランブラス(Las Ramblas)、カタルーニャ語ではラ・ランブラである。もともとの意味は並木道や遊歩道といったニュアンスだが水路の意味もある。そしてランブラといえばバルセローナのそれと、世界的に知られている通りである。
一見するとランブラは、街路というよりはストリートに分類されるかもしれない。だがストリートの直線的なイメージはランブラには似合わない。通りは直線であるにもかかわらず、そこを歩く人々はけっしてまっすぐに進むことはできないからだ。右に左にゆらゆらと、ときに立ち止まり、ふと駆け出したり。もしランブラをまっすぐ歩きたければ、目を閉じ、耳をふさぎ、鼻をつまんでと、そうなればやはり、まっすぐには歩けないのである。
ランブラの構造を分析してみよう。通りはざっと見て、中央の歩道を両側から四つの層が包み込み、全体で九つの層から構成されている。順に説明すれば、建物—歩道—車道—屋台—中央の歩道—屋台—歩道—車道—建物といった具合だ。ランブラを歩く場合には中央の歩道を歩いていても人混みですんなりとは進めないし、右の屋台を覗き込んだり、左の本屋の建物に吸い込まれたりと、縁日のような喧騒が人々を魅了する。
九つの層とは偶然だが、カタルーニャの旗は五本の黄色と四本の赤、合計九本の縞模様でデザインされている。バンデラ(旗)のランブラ。ストライプを横断しながら、行きつ戻りつ歩く楽しみは格別である。カタルーニャ広場を起点に歩けば、花売りや鳥屋、世界中からやってきた大道芸人たち、オープンテラスのカフェ、欧州でも有数の劇場リセウ、ガウディのレリーフ、屋根のついたマーケット、わき道に逸れればピカソ美術館やドゥメネクの作ったカタルーニャ音楽堂。こんな贅沢な通りは世界でもめったに見つけることはできないだろう。
そして最後に辿り着く場所は海。地上から五七メートルという、あきれるほどに高い塔の上に立つコロンブスの彫像は、アメリカ大陸ではなくて地中海を見据えている。だがここでは何の問題もない。コロンブスだってランブラでは、まっすぐに進む必要などないのだから。
ヴァレンシアは、ファーリャ(Faller)と呼ばれる「火祭り」で有名である。毎年三月一九日、ヴァレンシアの守護聖人サン・ジュセップの日に、ニノットと呼ばれる巨大な人形は火をつけられる。その日までの数週間、街路はニノットで彩られる。フォークロリックな雰囲気を漂わせたニノットたちは愛嬌たっぷりで、人々の視線を楽しむかのように街路を占拠する。
祭りの期間にヴァレンシアを歩いていれば、行く先々でニノットと遭遇する。交差点にそびえたつ巨大なニノットもいれば、ひっそりと佇む小さなニノットもいる。立ち止まって見つめていると時空は突如として、ニノットの醸しだすファンタジアへと変容する。ここはディズニーランドではない。日常の生活が、ごく普通の暮らしが、俗なる物々が配置された、当たり前の街路。そこに立つニノットは、不可思議な時空への入り口として、小さくはない衝撃を我々に与えてくれる。
ニノットは古くは風刺の対象として登場し、政治批判やエロティックなテーマを付与されたことから、当局の非難にあう。しかしながら一九世紀の後半からはできの良いニノットに賞が与えられることで、コンテストが行なわれるようになっていく。民俗の想像力。観光資源としての役割も果たすニノットたちはそれでも、どこかアンバランスで洗練されてはおらず、不思議な情感を掻き立てる。
だがニノットという過剰は、最後には火をつけられて、蕩尽される。笑ってしまうほどあっさりと、燃えていってしまうのである。空へと向かう炎の動きは儚なさを喚起させつつ、暗闇に光を灯す。壮大なる空の劇場。街路はここでも、新たなる宇宙へと繋がる契機を、提供している。
街路の自由。それは大きな宇宙への導火線だが、宇宙そのものはどこかぼんやりと、われわれには捕まえきれない何かとして、存在し続ければいい。地中海都市の宇宙。それは私の経験では、海であり、空である。人間存在にとっての無限。象徴的な次元において、ランブラの海と火祭りの空は、無限であり、われわれにとっての自由である。つまるところ街路とは、退屈しきった身体への刺激に満ちた、幻想的な自由への導火線。そうであればこそ人は、街路の時空を歩きはじめるのだ。

1——ランブラの屋台。ひやかすだけでも楽しい

1——ランブラの屋台。ひやかすだけでも楽しい

2——バルセローナの中心、カタルーニャ広場から続くランブラ

2——バルセローナの中心、カタルーニャ広場から続くランブラ

3——「われわれの起源(Mare Nostrum)」と題された巨大ニノット。製作費は約2000万円

3——「われわれの起源(Mare Nostrum)」と題された巨大ニノット。製作費は約2000万円

4——街路に突如出現したニノット。製作費は約500万円

4——街路に突如出現したニノット。製作費は約500万円

5——火祭りの夜はイルミネーションも雰囲気を盛り上げる

5——火祭りの夜はイルミネーションも雰囲気を盛り上げる

6——港に立つコロンブス像。地中海を見据える すべて筆者撮影

6——港に立つコロンブス像。地中海を見据える
すべて筆者撮影

>織田竜也(オダタツヤ)

1971年生
長野県短期大学。民俗学・文化人類学。

>『10+1』 No.34

特集=街路