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討議:中間的/総括的──現代建築思潮研究会二〇〇三─二〇〇五 | 今井公太郎+今村創平+日埜直彦+吉村靖孝
Medium-term Roundup: Contemporary Architectural Trend Studies, 2003-2005 | Imai Kotaro, Imamura Sohei, Hino Naohiko, Yoshimura Yasutaka
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅, 2005年12月発行) pp.24-28

議論の新しいスタイル?

10+1──「現代建築思潮研究会」はこれから三年目に入りますが、月例で研究会を行なってきたこの二年間を振り返ってどんなことを考えますか。
今村──この会の立ち上げに当たって、僕は「建築を巡る言葉の力を取り戻したい」というモチーフを持っていましたし、日埜さんは「批評の体力みたいなものを鍛えていきたい」とおっしゃっていました。ともに、ここ一〇年ほど建築家による言説が状況を動かす力を持ちえてこなかったこと、また、これから若い世代の建築家が有効な言葉を投げかけることの可能性を考えていたと思います。「批評の必要性」を強く感じていたのですね。そのことはもちろん今でもリアリティをもって考えていますし、新しいクライテリアはどのような姿で現われるべきか日々考えているわけです。一方、この研究会は雑誌と同期してほぼ毎月コンスタントに行なってきたこともあって、いろいろなトピックを軽やかに横断していくという方針に徐々にシフトしてきました。批評をきちんとやるためにはもう少し違うやり方があるのかもしれず、つづく三年目以降の課題として考えられますよね。
多くの建築家にもゲスト参加してもらいました。ヨコミゾマコトさん、藤本壮介さん(ともにNo.33)、横山太郎さん、ジン・ヨハネスさん(ともにNo.35)、佐々木一晋さん、田中陽輔さん(ともにNo.37)、田村順子さん(No.39)、南後由和さん、成実弘至さん(ともにNo.40)、掲載のタイミングに合いませんでしたが、吉良森子さん、松田達さんにも「建築情報の受容再考」というテーマに参加いただきま
した。
10+1──No.33で扱った現代建築における「部分的/離散的」、No.35での「フォールディング・アーキテクチャー」、No.39での「建築/統計/アーバン・デザイン」という問題など、それぞれのテーマへのアプローチの仕方はたしかに横断性を示していますね。日埜さんに翻訳紹介いただいたソフィア・ヴィゾヴィティ『フォールディング・アーキテクチャー──その実践の系譜』(Sophia Vizoviti, ”Folding Architecture, Concise Genealogy of the Practice,” Folding Architecture: Spatial, Structural and Organizational Diagram, BIS Publishers, 2003.)は、いま棚に並べている書店もありますが、そういった意味でも、琴線に触れる小さな情報をストレートに投げ込みつつ続けてきた研究会だという印象はあります。
日埜──自分の日常的な仕事とぴったり重なるわけでもないテーマを、いつもと違う距離感で考えられたのはよかったと思います。No.35でも述べましたが、抽象的な思考と具体的な実践を結びつける可能性、「フォールディング・アーキテクチャー」の場合でいえば、特定の形態が問題を解決するというような即物的なレヴェルではなく、空間の潜在的な可能性を考えるというごく基本的なことをあらためて意識させるものだったとおもいます。具体的な議論をしてみればさまざまな意見が出るだろうことは想像されましたが、幾人かのゲストの方に参加していただき実作を通して考えてみることで、雑誌のページをめくるレベルとはちょっと違った観点を持てたのではないかと思います。
今村──一方、今井さんが提示した「新しい物質、新しい素材」(No.38)という話や、吉村さんによる「法規から解読(デ・コード)する建築/都市」の話はこれまでお二人がすすんで扱ってきたテーマでしたから、二、三回話が継続することでさまざまな切り口から話が聞けたという印象が強いですね。
いわゆる建築雑誌だと、既存のトピックについて、読者が予想可能な範囲で繰り返し論じられる傾向がありますよね。つまり議論や情報の再生産としてのメディアという生産性の低い場所になってしまう。そういう閉じた議論がつづくかぎり、いくら内部では濃密な議論がなされていても、外部からしてみれば「なんかずっと不思議な議論をしてるよな」という決定的な距離感をもつでしょう。『10+1』も建築雑誌なのですが、閉じた議論を回避する姿勢はこの研究会でも持続したいと思っています。
今井──No.40掲載にあたって行なった「建築家の有名性の生産、流通および消費」という議論では、社会学を専攻している南後由和さんと成実弘至さんに参加いただいて、建築の外部の人たちが建築をどう捉えているのかを身近に感じることができるよい機会でした。日頃われわれが建築家として思考している領域との差異を認識しました。
今村──建築内部と外部の接近の機会は思う以上に少ないですよね。建築雑誌はある程度落としどころを見ながらつくっているということでしょうか。「フォールディング・アーキテクチャー」の回では、そう呼ばれる建築写真を一通り全部見ましたが、それらについて個々のメンバーがどう反応するかはまったく予想できませんでした。その、準備もしないなかで行なう議論というスタイルはなかなか刺激的でよかったですよね。
吉村──ここでの議論は建築や都市の今日的な断面になっているわけですが、思潮とか手法がどうだといった話題ではなく、たとえば、美術館はどうあるべきかとか高層ビルはどうあるべきかといったより具体的な話題になってくれば、僕たちの考え方の違いがはっきりでてきて面白いかもしれませんね。料理に喩えると、今は料理法について話しているわけですが、素材について話をすればおのずと料理法が浮かび上がってくるとおもいます。
今村──ここでやったことがネタになって、われわれが知らないところで暴走したりすると嬉しいんだけどなぁ。
良い悪いを別にして、シンシア・デイビッドソンが編集長をしている『Log』の最新号において、若い世代の理論家が「Any」の古い世代の理論家に対して対立しているという構造が顕在化したり、レム・コールハースがはじめた『ヴォリューム』もこれまでの建築を取り巻く状況を革新するという姿勢を前面に打ち出し、話題を提供しています。コールハースがこういう雑誌をつくったということも、内容よりも刊行それ自体を話題にして、なんかまた仕掛けてるらしいぜという状況をつくっているわけです。磯崎新さんも同じように『Any』で一〇年間仕掛けつづけていました。Any会議では世界の主要建築家が集まって最先端の議論をしているから、読者も自分がリアルタイムでその状況にいるように思えるのです。「この会議で建築は変わる」というようなことが普通に喧伝されていたんですからね。
今井──でもね、毎回三時間の議論を月例で二年間行なったとしても、七二時間。まる三日ですからね。議論しつくしたという感覚はまったくない(笑)。

メディアと読者/建築と社会の新しい関係?

日埜──『10+1』を少し離れて建築メディアの最近の状況を見渡すと、どこでも同じようなトピックをやっている。なんとも言えない煮詰まりを感じさせます。こんなにいっぱいいらないんじゃないか、というような話にももう食傷気味でしょう(笑)。
今村──それはお互いの企画を参照し合っているからですよ。情報の再生産というか、横に滑っているような感じです。僕がある雑誌の依頼を受けて、過去の書籍や雑誌を調べて原稿を書く。勉強になって面白いと思う反面、昔の『建築文化』を読んで書き直す、ということを延々と続けているような気がします。これが再生産に近いかもしれません(笑)。こうしたことをやるたびに、新しいジェネレーションがちゃんと読んで勉強をしてくれればそれなりに意味があるのではないかというのが一縷の望みです。
日埜──再生産というか、横滑りしているだけだからいつまでも決定版ができませんよね。毎度毎度が暫定的な感じ。
吉村──逆に建築家は仕掛けやすい状況なんだと認識すべきかもしれません。失礼な言い方になるかもしれないけれど、言論が枯渇して関心の対象にならないから、例えば藤本壮介さんの言葉がすっと染み渡っていくような状況ができているような気がします。学生と接していると藤本さんのスタンスやニュアンスを贔屓にしていることがはっきりとわかります。
今井──僕も藤本さんが「弱い建築」と言っていることに注目しています。それは僕には原広司さんの「部分から全体へ」という言葉と重なって、あるいは「部分から全体へ」という言葉で考えていたことに付随する新しい軸が生まれてきているように見えるんですね。隈研吾さんも『負ける建築』とおっしゃっているように、「弱い建築」という言葉自体は多くの建築家によって語られてきてはいますが、藤本さんのそれは、この流れの何周目かで現われてきたもののような気がします。
今村──最近藤本さんご本人にも伝えましたが、「弱い建築」と言い続けることで、最初はぼんやりしていた概念がだんだんと明快なかたちになってきているように感じます。その姿勢は偉くもあり、「批評の体力」の新しいあり方なのかもしれないと思っています。はじめて言葉にした時はうまく説明できないし、設計の場面でもなかなか実現できないけれど、何度も繰り返して自分のなかで状況をつくっていくわけですよね。最近、そういうことをやっている建築家は少ないんじゃないかな。
建築を志す最近の若い学生さんたちはどういう本に触れて言葉を生産しているんだろう。
今井──僕が見るかぎり、いわゆる建築雑誌も『10+1』もあまり読んでない(笑)。『月刊アスキー』とか『MacPeople』を読んでパソコンの整備してる(笑)。
今村──そうですか。でも北田暁大さんの本にありましたが、七〇年代くらいから若者の世間の事象に対する関心が薄れはじめ、友達との付き合いが苦手になっていくのですが、この三〇年間くらいでは、いまの若者世代は最も社会的関心が高いそうなんです。一方ではオタク、引きこもりが若年層で増加していると言われますが、もう一方で社会的関心が高まっているというデータが出ている。そう言われれば、たしかに自然災害があると彼らはすぐにボランティアをしに行きますよね。物事に接近しやすい、あるいは理解しやすい時代状況だということなのか、それとも小学校の時からボランティア活動教育を勧められてきて慣れているとかいうことなのか……。いずれにしてもそういう状況がある場所と書籍、雑誌を必要とする場所が離れているということですよね。
日埜──建築の過去現在に対する学生の興味が薄れているとすれば、彼らを購読者とする雑誌自体も変わってこざるをえないですよね。雑誌が読まれないのは編集者としては困るわけで、読まれるためにはどうしたらいいかという企画の性格がどうしても出てくる。サービス精神旺盛なのは良いですけど、入門編しかないのではねぇ。
今村──学生だけでなくわれわれの世代も、建築がどうやって社会と関わるのかというもっとも重要な経路が絶たれていく状況を感じています。いまの三〇代、四〇代の建築家がこの問題に対して作品をもって答えていないし、言葉も発していない状態だから、「建築と社会の関係」といったところで学生たちには見えないですよね。だから心身ともにリアリティを感じることができる身近な物事に対しては関心が高いけれども、雑誌上のことにはリアリティを感じることができないということなんだと思います。
今井──そう。だから自分で問題をつくって事を起こそうという気が湧いてこない。僕らが場を用意したり、声をかけたりすると乗っかってくることが多いけれど、何もないところで何かをやりたいと言い出す学生がいないんです。
今村──ただね、このあいだ僕を特別レクチャーに呼んでくれた明治大学の「MADS」という建築学生のグループは元気ですよ。自主企画でコンペをしたり、連続シンポジウムやレクチャーをしたり、本までつくっている。学生の場合学年ごとに意識の差があって、意欲のある学年が卒業すると熱が冷めてしまうようなことがよくあります。でもこのグループは上下がうまくつながっていて毎年新しい試みをしているようです。この「現代建築思潮研究会」にも意欲的な学生が集まってくれていますから、もっと積極的に一緒に状況をつくるといった方向にもっていければと思います。
日埜──建築にはいろんな水準があるから、具体的に体を動かすような参加のしかたを介して、リアリティを持てなかったものにある種のリアリティを感じてもらうことができるかもしれない。
今村──これまでのように月例で進めていくのであれば、もっとリアルタイムなトピックを取り上げたいですね。その意味では、僕が担当した「オランダ現代建築をめぐって」(No.32)も「フォールディング・アーキテクチャー」も、動向としてはすでに少し落ち着いた段階にあって、資料も散見されるようになった状況下での発表でした。即時性の追求は現実的には難しくもありますが、海外の建築家やジャーナリストが訪日するタイミングを見はからって発表してもらうとか、方法はいくつかあると思います。例えば現在も中国の建築シーンは大変なうねりを見せていますよね。それを建築雑誌各誌がやるような、きれいに整理してカタログ化するような手つきではない、生の状態をゴロっと報告してもらうとか、そういうことがこの研究会ではできると思います。
今井──かつて『SD』に「海外建築情報」というコーナーがあって、いま活躍している若い世代の建築家たちが大勢関係していました。面白かったのは、企画会議のような席に学生がいて、気になる情報を出し合っていくというスタイルでした。議論というかたちではありませんでしたが、活気に満ちた会議だったなぁ。
今村──そもそも僕ら四人はこの研究会があってはじめて顔をつきあわせている関係ですので、ある方向性がでてきたら、コアになる学生さんに情報収集なり、リサーチなりの部分を任せていってもいいと思うんです。彼らにも絶対に勉強になるし、そこで見つけたテーマを自分でワークショップにつなげたり、自由に展開していけばいいのです。
吉村──最終的には、会自体が学生中心にシフトしていくのが理想ですよね。
今村──そう考えていいですよね。そのための素地をつくっていると言ってもいい。そうすると、学生が単に学生ではなくなっていくんです。
今井──シフトしていくことは必要だけど、乗っ取られちゃうかもしれない。
一同──それはそれで面白い。
今村──「建築と社会の関係」について、ひとつ思い出しました。今回の特集では「実験住宅」を広く扱っていて僕も協力しているのですが、先日広瀬鎌二さんのお宅にインタヴューに行ってきたんですね。「『SHシリーズ』の初期である一九五〇年代中頃、建築と社会はどのような関係をもつべきだと考えていましたか」というような僕の質問に対して、広瀬さんは「三〇代前半だから設計するのに精一杯で、社会的な意識なんかが出てくるのはもっと歳をとってからだった」というようなことをおっしゃっていました。厳密に、誠実に考えるとたしかにそういうこともあると思います。歳をとって社会でもまれていくうちに社会の実相を考えるようになったり、子供ができたら家族のことや居住空間のことをもっとリアリティをもって考えるようになるわけです。われわれはこのくらいの歳になったから、社会との関わり方が以前と違ってきて、建築に対する態度も変更してきているわけですから、学生に社会性がないと嘆くのは意味のない気もしてきます。
今井──安藤忠雄さんみたいに、誰にも頼まれていないのに大阪の「中之島プロジェクト」を考えて、しかも巨大模型もつくってしまうというのはどうですか(笑)。
日埜──建築と社会の関係とかいうよりも、例えば当時「ゲリラ」なんて言い方にある種のリアリティーがあったわけですよね。そういう意味でまさにゲリラ的にここにこういう存在がいるぞという旗を掲げていたんじゃないでしょうか。「中之島プロジェクト」の模型はたしかに巨大で、そこに掛けられたエネルギーも途方もなくて、「旗」なんていう程度の話じゃないんですけど。予定されていた展覧会のことを考えれば完全に過剰なスケールだったはずで、しかしそれがついにはMoMAやポンピドゥーでの展示まで行なわれて、今から見ればあれも相応だったように見えてしまうんですが、しかし当時としても並大抵のことじゃなかったはずですね。
今井──おっしゃることはわかります。ただ、われわれにとっても展覧会はいいスタイルかなと思ったんですね。何かの出来事に乗っかるのではなく、自分で作ってしまうということです。学生が参加する契機にもなるでしょう。東大の安藤研究室でやった展覧会「住宅のル・コルビュジエ」(ギャラリー・間、二〇〇一)は、誰でも考えるけど誰もやらなかったという意味でとてもうまい展覧会でしたね。近年見たなかで、最小の努力で最大の効果を挙げた展覧会じゃないかな。同時に『ル・コルビュジエの全住宅』という本も出していました。というのも、原広司先生はつねに三〇年後、五〇年後を想定して話をしているんですね。二〇三〇年に自分がやってきたことがどのような意味をもっていたのか審判されると言っています。そのときに自分がやっていること、やってきたことの客観性を得ることができる、と。最終的には歴史が評価する。僕にはまだ三〇年後とか五〇年後という数字はリアリティがもてないので、一〇年後に判断が下されるようなテーマを共有しながら展覧会をやるのもいいかもしれません。アイディアはいろいろあるんですけれどね。

談合?

日埜──話は変わりますが、先日、荒川修作+マドリン・ギンズ《三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller》を見てきました。
今村──天命は変わりましたか?(笑)
日埜──意外というか、空間体験としてはわりとあっけないという印象が正直なところなんです。もちろんまぁおよそ見たことのないことをやっているわけで、それに対して身体的に反応する部分はもちろんあるんだけど、それが空間的な問題にタッチできているのかどうか。天才と呼ばれるアーティストの仕事ですから、いわゆる建築的空間の枠組みを前提としてそれを捉えることに無理があるのかもしれないけど、しかし要するにアーティストの仕事だなぁと思わざるを得ないんですね。ラディカルな問題に発して建築と身体の総合の回復云々と言うわけですが、その問題に対応したなにかがあるとは思わなかったわけです。反省的に考えてみれば彼が問うている問題に自分が敏感だったかと言うとそうではないかもしれないし、そういう意味で真摯に捉えたいとは思うけれども、でも具体的な物件としてのあれがどう扱われるかむしろ考えざるをえない。
あれの意味はいろいろ考えられると思うんですけど、ただ「常識を驚かす試み」というのはいろいろとこれまでもあったわけですね。そしてそういうものはメディアを一瞬賑わせて、しかしうやむやなままに結局フェードアウトしていく。そういう蓄積を欠いた真空的な状況ってのはなんとかならないものか。
今村──つまり安藤さんの「中之島プロジェクト」は、安藤さん自身のプロモーションには役立ったけれど、都市への提案としては特筆するようなものではなかった。自らのシンボル化を超えて、誰かになにか具体的に届くものでなければ、話題になったとしても消費のスプロールにのまれてしまうということですね。
吉村──同じ架空のプロジェクトと言えども、その点、メタボリズムは圧倒的に堆積しましたね。
今村──おそらく今日に至るまで、日本の建築ムーヴメントで唯一世界に影響を与えたものですから。話題になっただけではなく、内容が具体的に影響を与えた。
日埜──アイディアにポテンシャルがあって、形態としてもインパクトがあり、そしてアーキグラムみたいな同時代的なシンクロニシティもあった。言い換えれば、特定の社会状況の歴史的必然がそこに見えるということですよね。
今村──状況についていえば、当時は現在ほど社会構造が固定化されておらず、丹下建三さんを含めたメタボリストには社会構造の提案も含めて要求されていました。
社会構造の提案ということで思い出したことがあります。先日、荒川さんの《三鷹天命反転住宅》の設計を手がけた組織設計事務所の社長さんとお話した際に、談合というシステムについて伺ったんです。これまで談合は社会的に許されてきたけれども、いまは社会がダメだと認知している、だからすでに有効ではないシステムだという認識は正しいのですが、問題は、談合時代は建設技術に関してだけいえば非常に安定していた時代だったということなんです。その頃は建設省や日本全国の国立大学が技術情報を民間に流通させることで、日本全国で技術的にはきちんとした建物がつくられていた。だから今後談合システムがなくなると、これまで共有されてきた技術の所有バランスが壊れる可能性がある、とおっしゃるんですね。すると、東京と地方で勝ち組負け組の格差がはっきりと現われ、東京には超高層が立つ一方、地方には鉄骨にサイディングをそのまま貼るような、退廃した技術しかないという事態が起きかねない。これからさらに地方にも自由競争原理が行き渡りますから、市庁舎さえもボロボロになったりする。そうなった場合、政治家はいままでとは違う資金の流れを組み上げるのでしょうが、建設技術に関しては、技術者すなわち建築家がヴィジョンを提示する必要がある状況にあり、それはそれでいい事態だなと思いました。
つまり、そこには提案の余地があるんです。放っておけば、ゼネコンや大手設計事務所が、談合と違う、彼らが営業しやすいやり方を手広く全国に刷り込んでいくことになる。談合とも、ゼネコンや大手設計事務所とも異なるやり方で建築をつくることができるという現実的なモデルをわれわれは出さなければならない。われわれのなかでも否が応でも話題になっていますが、このところ市庁舎がコンペになるということは、その風潮を示しているといえるでしょう。後から振り返って、いまは歴史の大きな分岐点だと思います。
吉村──アンチ談合システムの展覧会(笑)。
今村──われながら生々しいけど(笑)、みなさん興味はあるでしょう。メタボリズムの話からとびましたが、五〇年代、六〇年代に社会的に要請されて社会構造を提案したあと、建築家は社会型の提案を離れてパーソナルな世界に行ったけれど、いまわれわれがリアリティをもって関心を寄せるのはきっとそういう視点だと思います。ただ、談合システムなどは変わっていくと思いますが、官庁のような社会システムとして構築されているところに絵を描いて提案を持って行くのは、当時と違ってかなり難しい。例えば明治大学が千代田区の街に関する興味深い提案をしているのを最近見たのですが、事情をうかがうと街に関わるとしがらみを払拭することにかなりのエネルギーを消耗してしまうので、なかなか本質的な議論までたどり着けないといった問題があるようです。

今井公太郎氏 吉村靖孝氏

今井公太郎氏 吉村靖孝氏

日埜直彦氏 今村創平氏

日埜直彦氏 今村創平氏

建築家が解くべき課題?

今井──話を戻しますが、リアルな対象について、あまり明るい話や面白い話がないという直感はありますよね。だから荒唐無稽な話や馬鹿馬鹿しい話のほうに惹かれてゆく傾向がもっと強くなってくるんじゃないか。そんな状況のなかで、建築という装置を使ってリアルな社会にコミットするのは難しいし、もう直感的に暗い気分になっちゃうのであれば、それもわかる気がするんです。ブログやゲームなど、もっと別の装置を使って対象にコミットしていくほうがリアルなんでしょうね。
10+1──三浦展さんの『下流社会──新たな階層集団の出現』(光文社新書、二〇〇五)では、パソコン、ページャー(携帯)、プレステの三つの「P」を下流社会の三種の神器と呼んでいますね。三つの「P」に依存する若者を「コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低い」とも。
今井──パソコンやページャーなどの装置にリアルを感じるのは、いま見えている風景がリアルではないからですよ。取り囲む風景がリアルだったら、そんなものに依存してしまうことはないはずなんです。リアリティを補うためには、リアルでない風景のなかで生きていく方法を確保する必要があるわけで、それが三つの「P」という装置なのでしょう。それによって手元にある雑誌や書籍、実際に見えている建築はそういう意識や意欲のなかではどんどんアン・リアルなものになっていく。もはや建築を建てることに社会を変える力が残っているとは考えていないのでしょう。
吉村──別に学生にかぎらず、目の前にあるのにリアルに感じられないという状況は頻繁にあるとおもいます。というか目の前に平然と建たれるとかえってアン・リアルに感じられる建築は実に多い。良い悪いの問題ではないですね。
今井──僕にとって職務としての建築はリアルな対象ですが、建築それ自体が社会にどうコミットしているかを考えると、いまもってアン・リアルです。設計条件を守ってつくった建築が、施主のさまざまな欲望を実現することにつながっているのかという疑念も簡単にはぬぐえません。加えて、いまや社会が要求していることと建築ができることのあいだには遠い距離がうまれているという印象をもっています。さらにその個人に十分な権限を与えていないという矛盾した状況がある。学生もそれはわかっているんじゃないか。ル・コルビュジエやメタボリズムと比べてみれば、それは明らかだと思います。こういうことを考えざるをえないのも、建築の威力がトータルに疑われている時代だからだと思いますよ。
吉村──建築はコミュニケーションの道具とみなされてさえいないという不安はありますね。
今井──コミュニケーションの末に出す答え、示す解答についてはつねにある仮説にもとづいて、すすめるしかないのですが、その仮説をサポートする因果関係が読めないことが多い。たとえば初歩的なことでいえば、広場を作ったからといって人が集まるわけではないし、しかし、閑散とした広場があって、そこで落ち着いて佇んでみるのもいいのではないかという気もする。つまり、どうなってなきゃいけないという価値観を決め付けてかかるのは、相対主義の現代においては非常に難しいわけで、自分のたてた仮説が上滑りしてるんじゃないかという危機感に対して、建築行為をどうやったらリアルにしていけるだろうかとかなり本質的に考えているんです。
日埜──いまだけじゃなくて、ずっとそうなんじゃないかな。住宅みたいに施主と居住者とオーナーが一体の場合でさえ、お互い完全に透明なコミュニケーションができるわけではないですよね。
今村──コミュニケートできないとしたら、建築家は何に向かって建築をしているかということですよね。
日埜──建築固有の問題というよりも、なんであれ専門分野というのはそういうものかもしれない。
今村──社会全体がとりあえず建築に要求してみて学習しているようなところもありますよね。過渡期だからしょうがないとも言える。建築家と医者を比較してみましょう。建築、特に住宅では、ユーザーが日常的に使うから、建築家は時として施主にやりこめられることがあります。「主婦だから、あなたよりキッチンのことをよく知っている」とかね。でも同じことを医者には言わない。いまはアカウンタビリティということが言われていますから医者も「これから手術です」だけではなく治療内容などを説明するようになっていますが、最先端の遺伝子治療について、患者にそのすべてを説明するなんてことはありえません。患者の方も「先生がそう言うのだからそうなんだろう」と思うでしょうし、そもそも高度な医療技術について理解できるとは思っていない。建築においては、施主の未整理なイメージを共有し、すべての可能性を開示してから設計条件を守りつつひとつの形にしていくわけですから、要求過多な構造になってしまっているわけですよね。
いろいろな状況が重なっていると思いますが、建築家への敷居が下がってきているというか、建築家と一般の距離が近くなるにつれ、建築家への無意識の期待が増大しているのは現代的な状況なのだと思います。
吉村──先日オスカー・ニーマイヤーのDVDを見ていたら、彼がブラジリアの建設を振り返りながら「首都には美しい曲線がなければならない」と熱弁をふるうシーンがでてきた。建築家は美のマエストロですから、その建築家が曲線しかないと言えばみんなが納得し、都市がひとつつくれたわけです。
そういった状況に比べるとたしかに今日建築家が解くべきとされる課題は格段に増えていますね。もちろんそれは建築家が自らすすんでテリトリーを拡張してきたことの結末だと思いますが。
日埜──たしかにさまざまな次元のからみあった要求を解決することが期待されるという意味で、僕らはかなり複雑な立場に置かれているのかもしれない。しかし単純な建築なんてモノがあるわけがなくて、程度の差こそあっても建築ってのはそういうもんですよね。そういうもんだと開き直ってでも、いろんな側面に首を突っ込んでいかなきゃ話は始まらない。ニーマイヤーほど開き直るのはどうかと思うけど(笑)、学生さんであれ、あるいはもう少し広げた輪の中であれ、オープンマインドでこの会を展開していけたらと思っています。
[二〇〇五年一〇月一七日]

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅

>ヨコミゾマコト

1962年 -
建築家。aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所主宰。東京藝術大学建築科准教授。

>藤本壮介(フジモト・ソウスケ)

1971年 -
建築家。京都大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師、昭和女子大学非常勤講師。

>横山太郎(ヨコヤマ・タロウ)

1966年 -
構造家。ロウファットストラクチュア主宰、京都造形芸術大学非常勤講師。

>ジン・ヨハネス

1968年 -
建築家。

>佐々木一晋(ササキ・イッシン)

1977年 -
建築意匠、環境情報科学。東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程。

>田中陽輔(タナカ・ヨウスケ)

1979年 -
建築・都市形態学。東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程所属。

>田村順子(タムラジュンコ)

1977年 -
建築・都市研究。ベルラーヘ・インスティテュート修了後、MVRDV勤務。東京大学大学院工学系研究科博士課程在籍。

>南後由和(ナンゴ・ヨシカズ)

1979年 -
東京大学大学院情報学環助教/社会学、都市・建築論。東京大学大学院。

>成実弘至(ナルミ・ヒロシ)

1964年 -
社会学、文化研究。京都造形芸術大学助教授。

>松田達(マツダ・タツ)

1975年 -
建築家。松田達建築設計事務所主宰、建築系ラジオ共同主宰。

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>ANY会議

ANY……をタイトルにした建築と哲学をめぐる国際会議。1991年に第1回が「An...

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年 -
建築家。東京大学教授。

>負ける建築

2004年

>北田暁大(キタダアキヒロ)

1971年 -
東京大学大学院情報学環准教授/社会学。

>広瀬鎌二(ヒロセケンジ)

1922年 -
建築家/武蔵工業大学名誉教授。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>荒川修作(アラカワ シュウサク)

1936年 -
美術家、建築家。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>三浦展(ミウラ・アツシ)

1958年 -
現代文化批評、マーケティング・アナリスト。カルチャースタディーズ研究所主宰。