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アジアのジェネリック・シティとレム・コールハース | 五十嵐太郎
Rem Koolhaas and Generic Cities in Asia | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界, 2001年10月発行) pp.177-187

香港──一九九一年

ちょうど一〇年前、初めて香港を訪れたときのことだ。過度な疲労のために、中国から陸路で行くことを断念し、上海から香港まで三泊四日の船の旅を選んだ。四日目の朝、目覚めると、香港サイドと九龍サイドに挟まれた海の真中に船は漂っていた。朝靄のなかから海に迫る高層ビル群と山が現われる。感動的な風景だった。もともと香港は世界各地の船舶が行き交う港町として栄えはじめた都市である。したがって、それを追体験するような香港との出会いだった。船では四人部屋の船室に泊まっていた。下船のとき、同じ船室のイギリス人のジャーナリストが、筆者にこう言ったのを鮮明に覚えている。
"welcome to my country !"
そう、当時の香港は、まだイギリスの統治下だった。かつて香港は数千人が住む島だったが、一九世紀半ばに植民地となって、六〇〇万人の都市に成長したのである。だが、一九九七年七月一日に香港は中国に返還された。その後、中国は一国二制度を実施し、香港を通して世界に向けて経済活動を開いている。返還の直前には多くの香港人が流出し、金融危機も経験したらしいが、少なくとも表面上には、今も都市の活気は衰えていない。
八〇年代に出現した最大の目玉は、《香港上海銀行》(一九八五)と《中国銀行》(一九八九)だった[図1]。前者はノーマン・フォスター、後者はI・M・ペイの設計であり、いずれも超有名建築家を銀行のプロジェクトに採用し、資本主義のカテドラルを建設した。これらの銀行は香港の紙幣のデザインに使われている。《香港上海銀行》は、膨大な費用をかけたが、間違いなくハイテクを駆使した傑作だろう。そのファサードには、ハンガーを思い出させる力強いブレスが並ぶ。アトリウムにぶらさがるガラスの床から地上の通路を見ると、海の底をのぞいているようだ。《中国銀行》は、《香港上海銀行》をはるかに凌駕する高さである。鋭角にカットされたクリスタルの塔。ただし、足元は古典主義風になり、豪華さをかもしだす。ハイテクと古典主義、ポストモダンの両極である。当時、二つの銀行のデザインをめぐって、まことしやかに風水戦争も叫ばれた。
残念ながら、九〇年代はこれらに匹敵する建築がない★一。《セントラルプラザ》(一九九二)の高さは、《香港上海銀行》と《中国銀行》を抜き、対岸のネイザン・ロードからの軸線を受け止めている[図2]。しかも海を越え、道路の奥にビルが建っているように見える。が、建築的なレヴェルは落ちている。とはいえ、九〇年代も有名建築家の参入は続く。例えば、シーザー・ペリのメタリックな《長江集団センター》や《国際金融センター》、SOMのゴキブリのような《香港会議展覧センター》、テリー・ファレルの《ピークタワー》(一九九七)[図3]、アルキテクトニカの《フェスティバル・ウォーク》などのプロジェクトが香港をにぎわせている。

1──香港上海銀行と中国銀行 筆者撮影

1──香港上海銀行と中国銀行
筆者撮影

2──ン・チュン・マン&アソシエイツ《セントラルプラザ》、1992 筆者撮影

2──ン・チュン・マン&アソシエイツ《セントラルプラザ》、1992
筆者撮影

3──テリー・ファレル《ピークタワー》、1997 筆者撮影

3──テリー・ファレル《ピークタワー》、1997
筆者撮影

空港都市

二〇〇一年、二度目の香港は空から入った。
《新空港》(一九九八)は、コンペに勝利したフォスターが設計したものである[図4]★二。変化の絶えない空港の性格に対応させたものだ。ここでは無料でインターネットが開放されている。世界的な港町として栄えた香港は、重要なハブ空港をもつことを目指しているが、建築もそれを裏切らないクオリティを誇る。こうした空港は現代都市を象徴するビルディング・タイプとして注目されている。
一九九〇年代にとっての空港はポストモダンにとっての美術館のような存在であると、建築評論家のハンス・イベリングスは指摘している★三。なるほど、八〇年代的な様式や情報のカタログ化は美術館と親和性をもっていた。が、九〇年代はグローバル化に伴い、空港に通じる流動性や利便性が時代のテーマになっている。そしてときには空港が都市そのものに匹敵するほど巨大化している。特にシカゴのオヘア国際空港(一九八八)が、中心街からビジネスを奪い、新しいエッジ・シティになっているという。つまり、周辺的な交通のターミナルそのものが中心的な都市機能を代替しつつあるのだ。世界中のどこにでもある同じような空間。場所の感覚が麻痺し、日常的な時間も消えていく。しかも、それ自体が都市化している。これはレム・コールハースが唱えたアイデンティティのない「ジェネリック・シティ」の概念と重なりあう★四。パリやロンドンの中心部のごとき明確な特徴がない。無性格で無機質な無印都市。彼は「ジェネリック・シティ」を論じながら、空港は超ローカルと超グローバルが凝縮された場であると語る。旅行客はショッピングに勤しみ、世界各地のブランド品が入手できると同時に、そこでしか存在しない土産も購入できるからだ。
多木浩二によれば、空港は徹底的に合理化されたプログラムを実現した機械のような施設である★五。そうした意味で、機械をイメージさせるハイテクのデザインがしばしば空港で採用されたのは正しいだろう。また空の旅は、都市と都市の関係を変え、国境を経験させない。パスポート・コントロールを通った後は、国家から解放されて自由でいるようでいて、実際は決められた場所でただ待つことしかできないがゆえに、権力に拘束されている。そして、これは誰のものでもないゼロの権力の空間だという。多木は、ホテルや会議場を備えた二四時間の空港が増え、小さな都市になりつつあると述べている。加えて、一般的に空港が都市から遠いことに注目するが、香港の場合は非常に近い。
香港の新空港に到着し、まっすぐ歩くと、そのままエアポート・エクスプレスに接続する。これは一九九八年に開通した新交通システムであり、約二〇分で市内に到着する。早いだけではない。おそらく、香港は世界でもっとも簡単に空港から市内にアクセスできる。感覚としては、駅の改札が空港の出口である。逆に市内の香港駅や九龍駅で、飛行機にチェックインできるシステムも充実している。空港に都市的な機能をもたせるのではなく、空港の機能を都市に拡散させること。フォスターは「都市としての空港」ではなく、「空港としての都市」をコンセプトに掲げた。空港における発着を強調せずに、人の流れの結節点としてとらえなおす。かくして、香港自体が空港都市になる。
香港住民の自動車の所有率は低い★六。高い税金がかけられているからだ。街で見かけるのは、タクシーばかりである。それ以外は富裕層の高級車だ。だが、公共の交通機関は発達し、大変に便利である。オクトパスというチップを内蔵したカードを使えば、バッグに入れたままでも改札を通れる。このカードがあれば、バス、地下鉄、鉄道、フェリーが使え、自動販売機の飲料も購入でき、エアポート・エクスプレスにも乗れる。日本の交通システムよりも、はるかに進んでおり、人の動きを活性化させるだろう。

4──ノーマン・フォスター《新空港》、1998 筆者撮影

4──ノーマン・フォスター《新空港》、1998
筆者撮影

メイド・イン・ホンコン

山の斜面から植物のようにはえる高層のマンション群[図5]。海と山が近接し、極端に敷地が足りないという自然の条件と、あふれるばかりの人が住む高密度の街という人工の条件が生み出した風景である。七二階に及ぶ超高層マンションも存在するが、平均的な開発では、約二ヘクタールの敷地に五〇階建てが八棟集まり、一万二千人が住む。この一ヘクタールあたり六千人の密度は、オースマン時代のパリの二四倍、シンガポールの一二倍にあたる★七。
だが、マンハッタンのように街区いっぱいに建物が広がり、デカイわけでもない。例えば、香港島の北角では、日本ならば、二階建ての個人商店になる程度の広さの建物が、そのまま垂直方向に引きのばされ、高層化する。プロポーションが異様に細長い。もやしのような日本のペンシルビルの比ではない。竹のように伸びている。映画『メイド・イン・ホンコン』の少年少女は、ビルの屋上からダイブする誘惑にかられていた。また工場さえも高層化しているのは、香港ならではと言える[図6]。街角には多くの二階建てバスが走っているが、バスも伸ばされたかのようだ。
香港では西洋近代のオルタナティヴが発見される。大野秀敏は「(ル・コルビュジエの)『三〇〇万人のための都市』に代わる、東アジアの巨大都市香港が喚起する大都市のためのダイナミックな空間モデルのイメージを探ること」を目的にして、一九九〇年と九一年に現地調査を行ない、以下の特徴を列挙した★八。

一、香港では都心居住は日常的な現象である。/二、香港の市街地は高密度である。/三、香港には我々が見慣れた意味での郊外がない。/四、香港ではすべてが超近接して置かれる。/五、香港の都市の建築の表層は襞に満ちている。/六、香港にはモニュメンタルな建物がほとんどない。/七、香港はスーパーモダニズムの都市である。


実際、香港にはランドマークとなる行政の施設が見当たらない。郊外のニュータウンでは、駅と集合住宅が近接し、駅上都市が生まれている。古いアパートのファサードは、スチール製のバルコニーでおおわれ、住民によってカスタマイズされている[図7]。一方、新しいアパートは、法規制によって、換気のための凹凸が多い。そしてクルマの頭上ぎりぎりに、広告と看板が都市の景観を埋めつくす。
大野によれば、スーパーモダニズムの都市は、超高層が基本的なビルディング・タイプであり、ペデストリアン・デッキなど近代の発明が見事に実施され、最少の規制で発展をめざした。セントラル・プラザやエアポート・エクスプレス香港駅のまわりは、ペデストリアン・デッキを水平方向に張りめぐらし、主要施設と駅をつなぐ。香港は人工地盤の街だ。セントラルとミッド・レヴェルをつなぐ全長八〇〇メートルの公共のエスカレーターは、通勤や生活のために一九九三年に導入された[図8]。途中、街の風景がうつり変わり、都市の垂直断面を切り取る。ウォン・カーウァイの映画『恋する惑星』において、部屋の窓から移動する人々が見えたシーンで有名になった都市のインフラストラクチャーだ。
スーパーモダニズムの都市は反歴史的である。それは自らのアイデンティティも否定するだろう。かつて観光名所だったキッチュなタイガーバームは大幅に縮小し、高層マンションの敷地になってしまった[図9]。今や観光ガイドでもほとんど紹介されない。そして悪名高い九龍城も、北京政府の圧力があって、一九九三年にとり壊された[図10]。跡地は、ポストモダンな中国公園に変貌している[図11]。この手の庭園としてはよく出来ているが、そこが九龍城だったという記憶はどこにもない。九龍城の上空すれすれに飛行機が行き交う風景も消えた。空港も移転している。が、こうした風景の喪失を嘆くのは、オリエンタリズムのまなざしを香港に向けるわれわれにほかならない。そして世界で五番目のディズニーランドが登場する予定だ。

5──山にはえる高層ビル 筆者撮影

5──山にはえる高層ビル
筆者撮影

6──高層化した工場 出典=DOMUS, Aug., 2001

6──高層化した工場
出典=DOMUS, Aug., 2001


7──バルコニー 筆者撮影

7──バルコニー
筆者撮影

8──都市のエスカレーター 筆者撮影

8──都市のエスカレーター
筆者撮影

9──タイガーバーム・ガーデン 筆者撮影

9──タイガーバーム・ガーデン
筆者撮影

10──九龍城、1991年撮影 筆者撮影

10──九龍城、1991年撮影
筆者撮影

11──九龍城跡地の公園 筆者撮影

11──九龍城跡地の公園
筆者撮影

香港のOMA

だが、コールハースにしてみれば、二〇世紀の歴史も破壊するダイナミズムこそがアジア都市の醍醐味ということになるだろう。ジェネリック・シティは、九龍城のノスタルジーを否定する。彼によれば、「シンガポールのほとんどは、三〇年以下の歴史しかもたない」★九。既存のコンテクストに邪魔されず、三〇年という時間のサイクルで、都市がまるごとつくられる。そしてシンガポールは中国のための実験室であるという。これはマンハッタンに対するコニーアイランドのような位置づけと言える。
こうした認識はコールハースの実感に基づく。彼は一九四四年にロッテルダムで生まれ、一九五二年から一九五六年まで父の仕事の関係で、インドネシアに住んでいた。そして八歳のとき、シンガポールの港に寄り、「上陸しなかったが、においは覚えている」という。だが、九〇年代に再び訪れたとき、甘さと腐った感じが同居する圧倒的なにおいは消えていた。彼は、すっかり変化したシンガポールに驚く。まったく新しい都市が出現していた。そしてシンガポールのモダニズムはロボトミー化されたという。
コールハースは、OMAという事務所を主宰しているが、その支部が香港に存在する。アジアにおける都市の調査と設計を行なう、OMAアジアである。これは彼が教鞭をとるハーヴァード大学の卒業生アーロン・タンの申し出によって、一九九四年に結成された★一〇。タンは九龍城を調査した中国系シンガポール人である。香港を拠点に選んだのは、金がすべてを決める資本主義の都市であり、あらゆるものが短期間にどんどん変化するからだ。OMA本部のあるヨーロッパよりも、コールハースにふさわしい街といえよう。当初は仕事のあてもなく、事務所を始めたらしいが、その後、いくつかのビルやプロジェクトを手がけた。これを紹介する前に香港における建築家の状況に触れておこう。
中国の建築家は少人数ながら短期間に大量の建設を行ない、地球に対して最も影響力のある建築家だと、かつてコールハースはアイロニカルに述べていた。香港も建設が早く、タンによれば、ヨーロッパが五年かけてビルを設計するのに対し、香港では五カ月で終わる。そして建設費が安いために、一〇年で三度ビルを建て替える例もあるという。デザインは一過的なものになる。施主がデザインに関心があったとしても、自分の気に入った欧米の建築家を手本にするよう、香港の建築家に指示するだけのことも多いらしい★一一。香港上海銀行のようなプロジェクトはきわめて異例なのだ。
ディヴェロッパーが内部をほとんど決定し、建築家がいじれるのは、カーテン・ウォールぐらいだ。しかも低コストで。これはネガティヴな条件である。だが、タンはそう考えなかった。スキンをコンセプトに掲げたからである。《AIAタワー》は、前後や上下の古典的な分節がない、連続したチューブとしてデザインされた[図12]。ストッキングのように。また夜間に青く光る小さなネオンがリズミカルに並び、建物を螺旋状にとりまく。これを契機に内部のデザインも一部任されたことを考えれば、デザインは成功したといえる。《クイーンズ・ロード・セントラル・ビル》では、極薄のスキンがうねりながら、建物を包む。そして《8874エレクトリック・ロード・ビル》のファサードは、垂直と水平のストライプが継ぎ合わされ、狭い敷地ながらも、視覚的なインパクトを生む。

12──OMAアジア《AIAタワー》 筆者撮影

12──OMAアジア《AIAタワー》
筆者撮影

上海──二〇〇一年

二〇〇一年、上海も一〇年ぶりに訪れた。
前回は、旧香港上海銀行(一九二三)や和平飯店(一九二九)など、壮麗な近代建築が並ぶ、黄浦江沿いのバンドの風景を見るためだった[図13]。一九二〇年代に一気に出現した、水に向かっての都市のファサード。これだけの近代建築が残っている水辺の街並みは、世界的にも珍しい。当時の上海は、イギリス、フランス、日本などの列強諸国が租界を形成し、インターナショナルな雰囲気をもっていた。外国人建築家の手によって、古典主義やアール・デコの様式に彩られた建築群は、そうした時代背景を正確に反映している。
一〇年前、バンドの対岸に何があったかをほとんど記憶していない。渡ってもいないはずだ。おそらく、バンドに比べ、あまりに貧弱な風景しかなかったからだろう。ここには造船関係の工場、倉庫、粗末な家屋が点在していたらしい。しかし、今回、上海の地に再び足を踏み入れたのは、バンドの対岸を見るためである。なぜか。わずか一〇年の間に、浦東は高層ビルが林立するハイパーモダンの都市に変貌したからだ[図14]。コールハースのシンガポール体験のように、そこはまったく違う場所になっていた。
バンドが誕生して七〇年後、上海は新しい都市の顔を獲得する。浦東地区には多国籍企業が一〇〇社以上進出し、二〇〇を超える高層ビルが建つ。現在も二〇〇近くが建設中である。世界初の実用リニアモーターカーの軌道建設も始まった。日本風のコンビニは市内に千店舗を越え、増殖中である★一二。上海の郊外には洋風住宅の並ぶ高級住宅地も開発されている。長江デルタ地域はハイテク生産基地になった。長い間、上海の時間は止まっていた。それが鄧小平の鶴の一声で開発が始まり、一九九〇年代以降に驚異的な発展を続けている。眠れる獅子が目を覚ました。
一九八〇年、鄧小平は、一人当たりの国内総生産を一九九〇年までに二倍、二〇〇〇年までに四倍に増やすことを発表した。しかし、実際は、これを超える速度で目標が達成されている。一九七九年から九九年までの二一年間、改革によって中国は世界最速の経済成長を遂げ、国内総生産は毎年平均九・五%という驚くべき伸びを示す。二〇〇〇年四月、浦東開発十周年の挨拶で、この地区の管理委員会主任は「浦東は発展途上国と新興工業国家が数十年かけてやることを、わずか十年間でやり遂げてしまった」と誇らしげに語った★一三。アジア経済危機の最中にも成長を続け、浦東地区の二〇〇〇年のGDPは、九〇年の一五倍になった。
沼尻勉によれば、浦東の建築現場では、まず破壊して廃材を全部取り除いてから建設するのではなく、破壊と建設が同時に進行している。出かせぎの農民が、廃材を片づける横で、新しい建設材料が搬入されているのだ。ゆえに、「中国式でいけば、片づけが終わったときには、それに代わる新しい〈施設〉も誕生している」という。こうした速度が短い期間における大量の建設を可能にしたに違いない。また、浦東では若い世代が開発のプロジェクトを主導している。一度は腐敗しかけた都市に若さがみなぎっている。

13──上海バンドの近代建築群 筆者撮影

13──上海バンドの近代建築群
筆者撮影

14──浦江西岸から浦東地区を見る 出典=Images of Shanghai

14──浦江西岸から浦東地区を見る
出典=Images of Shanghai

建築のエル・ドラド

二〇〇一年の上海を素描しよう。
浦東地区には雑多な超高層建築群がそびえる★一四。《東方明珠塔》(一九九五)は、世界三位の高さ四八六メートルのテレビ塔であり、シンボル的な存在だ[図15]。東洋に輝く真珠。展望室、レストラン、ホテルが入る球体が並ぶデザインは、ひときわ目を引く。最も上の展望室は宇宙船と命名されている。一番下の巨大な球体は直径五〇メートルに及ぶ。内部のエレベーターも、古いSFのようなデザインである。『鉄腕アトム』、あるいは博覧会やテーマパークに登場する懐かしい未来の構築物が、現実に壮大なスケールで建つ。
 《金茂大厦》(一九九八)は、SOMが担当した本格的なアメリカン・ポストモダンである[図16]。八八階建てで四二〇メートル。ビルとしては、中国一の高さを誇り、世界で三番目に高い。天気の悪い日には、霧や雲に隠れて、《東方明珠塔》と同様、途中から上は何も見えなくなる。内部のグランド・ハイアット・ホテルは、目眩をもよおすような吹抜けをもつ。メタリックな外観は、細かく分節され、仏教寺院の塔を連想させる。こうした手法は、シーザー・ペリが設計したクアラルンプールの世界一高い《ペトロナスタワー》(一九九七)と同じだ。
一方、対岸のバンドには五〇年以上も前の近代建築群。その背後には、新しい高層ビルや奇抜な建築が増えた。かといって、上海からスラム的な風景が消滅したわけではない。したがって、『ブレードランナー』的な未来も感じられる。すなわち、あれかこれかではなく、複数の未来が共存している。漫画的な未来も、ポストモダンの未来も、ダーティー・リアルな未来も、排除しあわない。それがハイパーモダンの都市だ。 九〇年代に建設された高架道路の夜景は、ブルーのライトに照らされ、上海の街を疾走すると、両側にメガ・ビルディングが展開し、超未来的な風景である[図17]。『惑星ソラリス』の未来都市に使われたように、東京の首都高速を西洋人がしばしば未来的だと感じる気持ちは、日本人には理解しがたいが、きっとこうした感じなのではないかと思う。ちなみに、高架道路は上海だけでなく、中国各地の都市で急いで建設されている。
一九八〇年代のバブル期に日本が海外の著名建築家を集めたように、一九九〇年代の中国は「建築のエル・ドラド(黄金郷)」になった★一五。中国のディヴェロッパーは、積極的に国際コンペを実施し、ビッグネームを参入させることで国際都市のイメージを増幅させている。むろん、停滞している中国の建築界に刺激をあたえるだろう。ともあれ、ベルリンや上海など、グローバルな都市では同じ顔ぶれの有名建築家が設計する状況が生まれている。その結果、どこも似たような風景が発生し、場所の感覚は失われてしまう。特に上海は激しい。有名建築家が参加する建物の規模では、バブル期の東京を超えている。
いくつかのプロジェクトを紹介しよう。KPFの《ワールド・フィナンシャル・センター》は、二〇〇一年に完成し、四六〇メートルの高さでペトロナスタワーの世界記録をすぐに抜くはずだった[図18]。その形態は合理的な直線と詩的な曲線を融合させたものだという。頂点には直径五〇メートルの「月の門」が空き、風圧を減らす。フォスターの高層ビルのプロジェクトは、中国の形態を参照しない、正統的なハイテクである。ヘルムート・ヤーンの《二一世紀タワー》は透明な構造と赤いブレースが印象的だ。ジョン・ポートマンの《ビジネス・センター》は鋭角的なガラスの塔である。アルキテクトニカの《上海インフォメーション・タウン》は直方体のビルからキューブがずれている。ジャン・マリー・シャルパンティエによる《グランド・シアター》のダイナミックな構造は国際コンペの勝利案である。他にも、ポール・アンドリューの上海国際空港、ヘルムート、オバタ+カサバウムの都市計画などが挙げられる。
浦東の都市計画も、一九九二年に有名建築家によるコンペが行なわれた。リチャード・ロジャースは七〇パーセントのエネルギーを節約できるサステイナブルな都市を提案した。公園を中心にして商業地区と居住地区を融合し、交通システムは歩行者と自転車、バスと電車、自動車の道路を同心円状に配する。逆にマッシミリアーノ・フクサスは中心に高密度に人が住むコアを計画した。ドミニク・ペローはガラスの高層ビル群をL字に沿って並べた案。伊東豊雄はフレキシブルなバーコード・システムを導入した[図19]。開発では緑化に力を入れているが、結局、どれも実現されていない。経済の動きのほうが速いからだ。
二〇世紀の始まりに摩天楼の都市に変身したのは、資本主義の都市マンハッタンだった。ここはコールハースが『錯乱のニューヨーク』の題材にした街である。そして二〇世紀の終わりに超重量級のビルを乱立させたのは、変容した社会主義の国家中国だった。当然ながら、彼は中国を含むアジアの動向に大きな関心を寄せている。通常の「建築」と「都市」の概念が破壊され、二一世紀の新しい状況を予感させるからだ。

15──東方明珠塔 筆者撮影

15──東方明珠塔
筆者撮影

16──《金茂大厦》のグランド・ハイアット・ホテル 筆者撮影

16──《金茂大厦》のグランド・ハイアット・ホテル
筆者撮影


17──青いネオンで光る、上海の高架道路 出典=Air France Magazine, Juillet, 2001

17──青いネオンで光る、上海の高架道路
出典=Air France Magazine, Juillet, 2001

18──PF《ワールド・フィナンシャル・センター》 出典=2G, No.10, 1999

18──PF《ワールド・フィナンシャル・センター》
出典=2G, No.10, 1999

19──伊東豊雄の浦東計画案 出典=2G, No.10, 1999

19──伊東豊雄の浦東計画案
出典=2G, No.10, 1999

深圳──世紀末の過剰飽和都市

香港に隣接する深圳は最も驚くべき都市である。一九七〇年代は、せいぜい三万人が住む漁村だった。それが一九七九年に経済特区に指定され、爆発的に発展し、現在、八〇万人の公式な住民と五〇万の非公式な住民をかかえている★一六。五年後には三〇〇万人になるという。人口が一〇〇倍になるのだ。一九九三年には四五〇のビルが建ち並んでいたが、すでに倍増し、九〇〇を越えている。この経済特区では税制優遇により、外国企業を誘致し、十数年でほとんど無の状態からグローバルな資本主義に活気づく巨大都市を生み出した。今や香港も超えようとする深圳の姿は、二〇年前には予測不能だった風景である。
高層ビル群は、あらゆるポストモダンのヴァリエーションを複製し、デザインは完全に相対化されている[図20]。香港や上海は凄まじい勢いで建築家のセレブレティを消費するが、深圳ではあまりオリジナルの建築家に依頼することなく、それらしいデザインの再生産に終始しているようだ★一七。例えば、ある高層ビルは明らかにフォスターの《センチュリー・タワー》を模倣している[図21]。が、そもそも《センチュリー・タワー》は、フォスター自身による《香港上海銀行》の縮小再生産だった。そう考えると興味深い。
かつてモダニズムは装飾のない均質な風景を生み出したことで批判された。しかし、深圳は、ポストモダンのビルを徹底的に反復することで、平坦な風景を生む。ポストモダンの戦略は、モダニズムのコンテクストがあってこそ有効な批判として機能した。だが、ここでは最初から、すべてが凡庸なポストモダンのデザインで埋め尽くされている。地盤のない差異のゲームが過剰飽和し、差異自体を無効化してしまう。批判的精神を欠いたポストモダンという均質が、究極のジェネリック・シティを現出させた。
コールハースは、こうした中国建築の現実を際限のないカーテン・ウォールの戦争、すなわち「カーテン・ウォー」と呼ぶ。そして「フォトショップ」の操作のように、都市が生産されていると指摘する。簡単にコラージュできるデジタル・イメージと現実の境界が消えていく。深圳の街には歴史がない。記憶のない都市。ヨーロッパ的な思考は無効だ。「アジアは一種の巨大なテーマパークになった。アジア人自体がアジアにおける観光客になった」というコールハースの認識は、とりわけ深圳にあてはまるだろう。
OMAアジアは、深圳のために「ミレニアム・シティ」というプロジェクトを提案し、居住、商業、テーマパークのプログラムをなめらかに織りまぜ、機能的なゾーニングを否定した[図22]。彼らが考えるアジアの現実が反映されている。実際、深圳には巨大なテーマパークがいくつも存在する。この都市とテーマパークの相同性を強調するかのように。特に興味深いのは、三つ並んだ《世界の窓》、《中国民俗文化村》(一九九一)、《錦繍中華》(一九八九)である。いずれも建築のコピーをテーマにしているからだ。
 《錦繍中華》は、三〇ヘクタールの敷地に中国各地の建築と景観をミニチュアで展示する[図23]。一八ヘクタールの《中国民俗文化村》は、少数民族の村をほぼ実寸で再現する。そして《世界の窓》は四八ヘクタールの広さであり、文字通り、世界各地の有名建築を集めたものだ。ミニチュアが中心だが、日本の桂離宮の一部は実物大に近い。もっとも、軒下には赤提灯が並び、強烈な異化作用を伴う[図24]。入場すると、円形の世界広場の向こうには、高さ一〇八メートルのエッフェル塔がそびえる[図25]。だが、もはや三分の一のエッフェル塔は模型ではなく、十分にモニュメンタルな塔といえるだろう。遠くからもこの塔は目立つ。模型=建築なのだ。松浦寿輝が、オリジナルのエッフェル自体が模型的な存在だったと論じていたのが想起される★一八。一九世紀末のエッフェルがイメージとしての存在ならば、二〇世紀末の深圳はアウラを蒸発させたフォトショップ都市である。純粋なオリジナルは存在しない。
ここにはすべてがある。だが、それゆえに、すべてがない。

20──深圳の高層ビル群 筆者撮影

20──深圳の高層ビル群
筆者撮影

21──フォスターもどきのビル 筆者撮影

21──フォスターもどきのビル
筆者撮影

22──OMAアジア〈ミレニアム・シティ〉 出典=2G, No.10, 1999

22──OMAアジア〈ミレニアム・シティ〉
出典=2G, No.10, 1999

23──《錦繍中華》の万里の長城 筆者撮影

23──《錦繍中華》の万里の長城
筆者撮影

24──《世界の窓》の桂離宮 筆者撮影

24──《世界の窓》の桂離宮
筆者撮影

25──《世界の窓》のエッフェル塔 筆者撮影

25──《世界の窓》のエッフェル塔
筆者撮影

変異する都市

中国は最後のフロンティアであり、一九世紀の世界におけるアメリカのような存在だ★一九。現在の急成長が続けば、二一世紀に中国は最強の国家になるかもしれない。深圳、香港、マカオなどの都市を含む、珠江デルタでは、高速道路や橋など、土木的なスケールの開発が行なわれ、やがてメガロポリスのネットワークを形成するだろう[図26]。コールハースは、ここが二一世紀に重要な地域になると予測している。一方、二〇世紀のアーバニズムの黙示録も、以下のように語られた。

今世紀は量の問題では負け戦である。アーバニズムはかつては期待もかけられ、しばしば勇ましいところを見せもしたが、終末論的様相を呈する人口統計が要求するスケールを前にすると新しいものを生み出すことも、実践したりすることもできなくなってしまった。この二〇年間でアフリカ・ラゴスの人口は二〇〇万、七〇〇万、一二〇〇万と増加して遂には一五〇〇万にまでになった。イスタンブールでは六〇〇万が倍増して一二〇〇万になった。中国ではさらに驚異的増加を見せ始めている★二〇。


続いてコールハースは、地球全体が都市化した結果、アーバニズムが雲散霧消するのではないかという逆説を指摘した。「今やわれわれはアーバニズムなき世界に取り残されている」。膨大な人口は都市を変異させるだろう。「われわれはかつては砂の城を築いていたのだ。だが、今や城を掃き清めた海を泳いでいる」。そこで新しいアーバニズムがあるとすれば、秩序と全能に基づくものではなく、不確定性を舞台にのせ、境界線を否定し、名前のつけられない混合体を発見することだという。
新しく刊行された『Mutations』も、冒頭から世界的な人口爆発のデータを掲載し、この問題意識を踏襲している。曰く、二〇一五年にメガロポリスは三三に増えると予測されるが、二七が発展途上国においてであり、一九がアジアに含まれるという。鍵はアジアにある。同書において、彼が古代ローマやショッピングに関心を抱いたのは当然の成りゆきだろう。ローマ帝国は、最初のグローバル・シティであり、植民都市で建築の大量生産を繰り返した。ショッピングは、資本主義の洗礼を受けた人々の重要な儀礼である。言うまでもなく、これはどん欲なコロニアリストの態度だ。暴力的な膨張を続けるアジアを肯定し、古臭いヒューマニズムにしがみつくモラリストをあざ笑う。そして資本主義のリアルを叩きつけ、ノスタルジックな都市論を粉砕する。コールハースは、過去を懐かしむ人達よりも徹底した他者の視線をもつ。
中国はビッグネスの国だ。世界第三の広さを誇る。フランスの一七倍の大きさだ。そして一二億五千万の人口を抱える。これはアメリカの五倍だ。追い風は止まらない。先日、IOC総会では、圧勝で二〇〇八年の北京オリンピックの開催が決定した。五輪景気も期待されるだろう。また上海の浦東は万博の開催地として名乗りをあげている。
だが、急速に発展するジェネリック・シティの背後で、問題がないわけではない★二一。ひとつは、一部の人間に富が集中し、貧富格差が急激に拡大したことだ。全体の五パーセント以下の人が、中国の全銀行預金残高の五〇パーセントを占めている。これは都市と農村の差が広がったことも意味するだろう。そしてもうひとつは、凄まじい環境破壊である。すでに中国の水土流出、深刻な砂漠化、森林や草原の減少、自然災害、大気汚染、水質汚染などが指摘されている。エコロジーは二一世紀の課題として欠かすことができない。しかしながら、もしも中国人が西洋と同じ割合で冷蔵庫を所有すれば、一夜にしてオゾン層は消滅するだろうと言われている★二二。巨大なジェネリック・シティは地球を食いつぶすのか?

26──珠江デルタのマカオ国際空港 出典=Rem Koolhaas, et al., Mutations

26──珠江デルタのマカオ国際空港
出典=Rem Koolhaas, et al., Mutations

註 
★一──香港の建築については、P. Moss, Skylines Hong Kong, Form Asia, 2000 や『キクカワ・プロフェッショナル・ガイド 香港』(一九九五)を参照。
★二──Architecture Asia, Sep, 1999.
★三──ハンス・イベリングス「スーパーモダニズム」(『10+1』No.19、INAX出版、二〇〇〇)。
★四──Rem Koolhaas, "The Generic City", S,M,L,XL, Taschen, 1997.
★五──多木浩二『都市の政治学』(岩波書店、一九九四)
★六──木下光「交通と運輸」(可児弘明編『もっと知りたい香港』、弘文堂、一九九九)
★七──Domus: Hong Kong The Extreme City, Aug, 2001.
★八──『SD』一九九二年三月号(鹿島出版会)。なお、『芸術新潮』一九九六年一二月号(特集=「香港大百景」)は、「デタラメ都市」と呼ぶ。
★九──Rem Koolhaas, "Singapore Songline", S,M,L,XL.  Hinge: The Culture of Koolhaas, Vol.68, Hinge Marketing Ltd., 2000. も参照されたい。
★一〇──2G, No.10, Editorial Gustavo Gili, 1999. 木下光「OMAアジア──コンセプトとしてのタブラ・ラサ」(『10+1』No.22、INAX出版、二〇〇〇)も参照されたい。
★一一──『SD』一九九七年七月号(鹿島出版会)。
★一二──『朝日新聞』二〇〇一年七月六日。
★一三──沼尻勉『上海・浦東──世界戦略基地の実像』(講談社、二〇〇一)。
★一四──Chinese Architecture 228-Key Buildings, China Architecture & Building Press, 1999.
★一五──2G, No.10, 1999.
★一六──Mutations, Actar, 2000.
★一七──ただし、磯崎新の文化センターや、エココリドールが全体を貫く黒川紀章の深圳市公共中心軸計画(一九九九)などがある。
★一八──松浦寿輝『エッフェル塔試論』(筑摩書房、一九九五)。
★一九──Mutations, Actar, 2000.
★二〇──レム・コールハース「アーバニズムに何が起きたのか?」、一九九五(ヴィットリオ・マニャーゴ・ランプニャーニ編『現代都市の建築』、YKKアーキテクチュラルプロダクツ、一九九九/原文はS,M,L,XL に収録)。
★二一──『世界』二〇〇一年三月号(岩波書店)。
★二二──M. Ruano, "Urban Impressions", 2G, No.10, 1999.

なお、本稿の参考として、WebSite 10+1「五十嵐太郎Photo Archives  香港」をご覧いただきたい。
URL=http://tenplusone.inax.co.jp/

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.25

特集=都市の境界/建築の境界

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>シーザー・ペリ

1926年 -
建築家。シーザー・ペリ&アソシエイツ主宰。

>ハンス・イベリングス

1963年 -
建築批評、建築史。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>多木浩二(タキ・コウジ)

1928年 -
美術評論家。

>大野秀敏(オオノ・ヒデトシ)

1949年 -
建築科。東京大学新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>リチャード・ロジャース

1933年 -
建築家。リチャード・ロジャース・パートーナーシップ主宰。

>サステイナブル

現在の環境を維持すると同時に、人や環境に対する負荷を押さえ、将来の環境や次世代の...

>ドミニク・ペロー

1953年 -
建築家。ドミニク・ペロー・アーキテクト代表。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>錯乱のニューヨーク

1995年10月1日

>松浦寿輝(マツウラ・ヒサキ)

1954年 -
フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。

>S,M,L,Xl

1998年

>木下光(キノシタ・ヒカル)

1968年 -
香港研究、都市計画。関西大学准教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>黒川紀章(クロカワ・キショウ)

1934年 - 2007年
建築家。黒川紀章建築都市設計事務所。

>エッフェル塔試論

1995年6月1日

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。