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クリケット群島──C. L. R. James, Trobrianders, and Sea Amateurs | 今福龍太
Cricket Archipelago | Imahuku Ryuta
掲載『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて , 1997年03月01日発行) pp.200-209

前史

グレートブリテン島 1300
エドワード一世の王室納戸部会計報告書のなかに、イギリスにおけるはじめてのクリケットにかんする言及が「クリーグ(Creag)」として現われるのが一三◯◯年のことである。行なわれた場所はケントのニューウェンデン。その後約二◯◯年間の史料では、この遊戯=運動にたいしてクリーグ、クロッサー、クリケット、ストボールといったさまざまな呼称が使われる。プレーの内実は、棍棒状の打撃具とボールとを使用するものすべてであり、そこではいまだクリケット、ホッケー、ゴルフ、ラウンダース(ベースボールのイギリス的原型)が融合していたと考えられる。ヴァナキュラーなゆらめく球技としての原─クリケット。
一六世紀末には、ロンドンで刊行された伊英辞典、仏英辞典に「クリケット」への言及が見え、このころまでには名称が定着し、プレーの内容において、他の類似したゲームとのあいだに明確な差異が生まれたと考えられる。このあたりからプレー中の殴打による死者についての記録が増えはじめ、一六四◯年には、メイドストーンの裁判所において日曜日にクリケットをプレーして混乱をまねいたかどで有罪判決を受けた者の記録もある。クリケットの誕生の歴史は(フットボールとおなじように)、はじめからそれが抑圧の対象として生まれたという逆説を胚胎している★一。

アイルランド 1656
この年、ダブリンをはじめ、アイルランドのすべての地域で、島中から発見されたあらゆる「棍棒」とボールが、公認絞首刑執行人によって燃やされた。クリケットの象徴的な死刑である。イギリス・アイルランドの内的(ネイティヴ)な社会環境から死刑宣告を受け、追放されたクリケットの、植民地主義と連動した「移民」と「国外亡命」がまもなくはじまることになる。
その一一年後、一六六七年にダブリンにてジョナサン・スウィフト生。戦慄的な風刺と呪詛に満ちた架空の群島めぐりのアンチ・ユートピア小説『ガリヴァー旅行記』が完成するのはさらにこの六◯年後である。

グレートブリテン島 1719
この年、ケントのチームがロンドンのチームを破った記録がある。すでにケンブリッジ大学でも試合が行なわれた形跡があり、無秩序な遊戯を蔑視する社会的弾圧のはざまで、スポーツとしての外形をもった「競技」が整序されていく動きがはじまったと考えられる。庶民のヴァナキュラーな娯楽が、いったん否定され脱文脈化されたあと、たちまち制度によって収奪され、伝統のなかに組み入れられて権威化されてゆく過程がここにある。それはまた、クリケットがイギリスの紳士的美学を象徴する形式となる契機でもあった。おなじ一七一九年は、ダニエル・デフォーによる『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』がロンドンで刊行された年でもある。

ボストン 1725
この年、アメリカ大陸における最初期のクリケット・プレーがニューイングランドのボストンにおいて行なわれている。おなじころ、インドのボンベイでも東インド会社の水夫たちがクリケットをはじめてプレーした。アメリカ東海岸、ジョージアのサヴァンナにおいてはクリスマスにクリケットが行なわれた記録もある。このころから一八世紀末にかけて、クリケットは北アメリカ大陸の海岸部からカリブ海地域、インド亜大陸、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドといった大英帝国の版図へと、船乗り、兵士、入植者、植民地行政官、聖職者、教師らの媒介によって広がっていった。

グレートブリテン島 1744
当時の英国皇太子フレデリック・ルイスが「会長」(プレジデント)を勤めていたロンドン・クリケット・クラブによって、はじめて「ルール」なるものが制定されたのが一七四四年である(ルイスは五一年にクリケットのボールに当たって事故死しており、英国王にはならず、息子のジョージ三世があとを継いだ)。これをもとにまもなく統一規則を得たクリケットはイングランド南東部を中心に急速に普及し、八七年には大競技会の開催をうけもつメリールボーン・クリケット・クラブ(MCC)が設立され、このクラブが全クリケット界のルール上の権威をにぎることになった。大英帝国の政治的中心としてのイングランド国王の地位は、クリケット・コロニアリズムにおいてはMCCが代替したというべきだろう。MCCは現在に至るまで、全世界のクリケット競技を二◯◯年にわたって統率しつづけている。

ボストン 1790
一七九◯年に開催されたボストンでの憲法制定議会において、アメリカ合衆国の最高指導者としての長を「大統領」(プレジデント)と呼ぶ議案にたいし、強い抵抗が示された。いうまでもなく、すでに各地のクリケット・クラブにおいて「プレジデント」という至高の役職名が機能していたためである。植民地の自立を画す決定的な政治的モメントに、クリケットの制度がこうしたかたちで抵触しているという事実は、クリケットとコロニアリズム、ポストコロニアリズムをめぐる文化政治学的な錯綜した関係をすでに暗示している。

セイロン島 1830
このころクリケットがセイロン(現スリランカ)のコロンボに伝播。おなじころ、クリケットがプレーされた最初期の記録、あるいはクリケット・クラブの設立が確認されている島ないし港町の主なものとして、ブエノスアイレス(一八三一)、シンガポール(一八三七)、ホンコン(一八四◯)、ジャマイカのキングストン(一八五◯)、サンドイッチ諸島(=ハワイ、一八五二)、ヴィクトリア(ヴァンクーヴァー島、一八六◯)、チリのバルパライソ(一八六三)などがあげられる。これらの島、あるいは沿岸部を、ほかのいかなるコードによって結ぶことができるだろうか? 想像すらしえない接続のトポグラフィーが浮上することになる、この包括的な島と港のネットワークこそが、これから本稿がデッサンを試みようとする「クリケット群島」の初期形態であると考えられる。

ボストン 1844
捕鯨船から脱走して南海を放浪していたメルヴィルが四年間の失踪から帰郷。処女作『タイピー』を書き、ホーソンらニューイングランド文学者たちと交わる。予言的寓意に満ちあふれた渾身の大作『白鯨』の刊行は一八五一年。おなじころ(一八四九年)、ソローがコンコードからニューイングランドの海岸へやってきて滞在し、この間の体験が『コッド岬』としてのちに刊行された(一八六五)。そこでソローはひたすら渚の砂を観察し、海岸の漂着物や難破にまつわる事象に関心を向け、鯨の棲息状況や捕鯨文化につき考察している。メルヴィルとの精神史的連関に注意。なおメルヴィルの帰還からわずか数年さかのぼる一八三八年、エドガー・アラン・ポウによって、コッド岬の南約四◯キロに浮かぶ捕鯨基地ナンタケット島出身の漂流者を主人公とする破天荒でパロディックな冒険譚『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』が書かれている。『白鯨』のエイハブ船長も、もちろんナンタケット出身。これらの事実関係の符合は、ニューイングランドというクリケット群島の一角に交錯するもう一つの意識の「汀線」のありかたとして注意が必要。

バルバドス島 1891
西インド諸島(カリブ諸島)におけるクリケット・クラブ間のはじめての交流試合がバルバドスの主都ブリッジタウンのワンダラーズ・グラウンドにおいて行なわれた。参加チームはバルバドス、トリニダード、ガイアナ。この三つの地域にジャマイカを加えた英領四島(ただし厳密にはガイアナは南米大陸部北岸)が、西インド諸島におけるクリケット伝播と普及の中心をかたちづくることになった。同時に、ジョージ・ラミング、エドワード・ブレイスウェイト(ともにバルバドス)、C・R・L・ジェイムズ、V・S・ナイポール(ともにトリニダード)、ウィルソン・ハリス(ガイアナ)、スチュアート・ホール(ジャマイカ)といった二◯世紀の最重要のカリブ海出身の思想家、作家、詩人の存在が、このクリケット群島の地図にそのまま重なってくることに注意したい。

クリケット、リンボー、中間航路

トリニダード島 1901
トリニダードの主都、ポート・オヴ・スペインから一二キロほど離れた人口三◯◯◯人の町トゥナプーナに、世紀が改まった直後の一九◯一年一月四日、まさに二◯世紀の植民地の歴史の変転そのものに思想的に介入し、その過程と結末を目撃しつつ思考することになる不世出の作家・批評家C・R・L・ジェイムズが生まれている。黒人性を焦点として織りなされる複雑な現代世界の社会理論の構築のためにヨーロッパの革命運動やマルクス主義のテクストを独自に消化したジェイムズは、そうした西欧的文脈での理論武装のかたわらで、クリケットをはじめからもう一つの特権的な思考の装置とみなしていた。三一歳でイギリスに渡ったのちのジェイムズの社会主義への接近とマルクス主義的思索が、まずクリケット評論というかたちで遂行されていったという事実はそのことを見事に示している。トゥナプーナの生家の目の前にクリケット・グラウンドが開け、それが彼の自己意識における始原の風景をかたちづくっていたことを、ジェイムズはのちに半自叙伝的クリケット論『境界を越えて』の冒頭でこう印象的に書き記している。

わたしたちの家のロケーションは絶好で、それはウィケット(三柱門)のまさに背後にあった。庭の隅にある大きな樹と、反対側にある別の家とがじゃまになって、グラウンドの眺めは限られていたが、寝室の窓からは審判がすぐそばに立っているようにさえ見えた。椅子の上に立ち上がって、六歳の少年は毎日午後になると行なわれる練習を眺め、土曜日には試合を楽しむことができた。……さらに椅子から窓枠によじ登った少年は、そこから手を伸ばして、箪笥の上に置かれた書物を探ることもできた。このようにして、はやくもわたしの人生の原型がかたちづくられたのだった★二。

クリケットの攻防の要として置かれたウィケットの背後の木陰から、まるで影のウィケットキーパーであるかのように自在に視線を移動させながら、少年ジェイムズはクリケットの試合を家にいながらにして観戦するという幸福をもった。しかもここに述べられているように、ゲームに熱中するその昂揚した身体の未分化な運動は、そのまま、教師であった父親や読書家であった母親の魅惑的な蔵書へと伸びてゆく手の動きとして、一つの知的な帰結をそこに見いだしたのである。この、クリケットがうながした身体と頭脳との連絡は、ひとりジェイムズにのみ起こった例外的な出来事ではおそらくなかった。まさにジェイムズのクリケット論が示したように、クリケットとはたんなるスポーツでも運動競技でもなく、あらゆるトリニダード人にとって、あるいは広くすべての西インド諸島人にとって、身体と知性とを結ぶ一個の人格の「全体性」そのものを意味していたからである。だから彼の生い立ちのなかにジェイムズ個人の僥倖があるとすれば、幼少時からのグラウンドと書物との往還のなかで、彼がクリケットの全体性をだれよりも自覚的に意識し、それを論理的に展開する言語的方法を自らのものとすることができたという点だけであろう。だがもちろん、それこそがジェイムズというカリブの思想家のまったく独創的な立場でもあったのである。
『境界を越えて』は、カリブ海のクリケットのなかに人間精神の統合のかたちを見いだすとともに、それを一つの集合的な文化形式として提示しようとする強い思想的意志によって貫かれている。それは、ジェイムズの幼少時におけるクリケットとの親しい接触によって直感され、まもなく少年期から始まる熱心なクリケット・プレーヤーとしての体験によって自覚された、クリケットのゲームとしての美学的構造への深い洞察に由来している。ボウラー(投手)とストライカー(打者)がピッチ(長方形をした競技の中心エリア)の両端に位置して対峙するという構図は野球に似てはいるが、クリケットの特徴は、まさに野球と対照的に、ボウラーとウィケットキーパー(捕手)を含む一一人の野手がウィケットを倒そうとする攻撃側にあり、バットを持つストライカーは、ウィケットを守ることを至上命令としながらあわよくばボールを遠くまで打ち返して得点しようという防御的な立場に立っているという点である。かたやウィケットをたえず責めつつ飛来するボールにたいして守備を固め、かたやボールを打撃しながらウィケットを守り抜くという対立は、単純な攻撃/守備の二分法をあっさりと解体する。こうしてウィケットを軸にしたこの攻撃と守備の混在する状況は、クリケッターの技術と戦略をひどく複雑なものにしていった。
各プレーヤーの理想と現実の乖離はゲームの構造においてすでに激しく、そうした克服困難なパラドックスのなかで最高のプレーが求められる。一試合の完了に五日間をも要するゲームのシークエンスは、まるで劇のように無数のプロットを具えた「場」の生成と展開と決着の連鎖として起こるが、それぞれのプロットの最終的な意味は、ゲームが終了するまでその効力や価値を判断することが不可能である。プレーごとの部分的意味づけと、ゲーム全体を貫く物語性のあいだに、整合的な関係は見いだせない。時間を有効に利用し、敵の過失を突き、チャンスは逃さないという瞬間的選択や決断はきわめて重要であるが、そうした蓄積主義的な努力も、ときにたった一球や一打の顛末によって、分裂症的に瓦解させられる危険をつねに抱えている。
こうしたクリケットのゲームとしての構造を精緻に分析しながら、ジェイムズはそこに、西インド諸島のコロニアルな社会構造を読解するための見事なトータル・イヴェントを見いだしてゆく。一と多、個人と社会、個別と普遍、指導者と後衛、部分と全体、階級性と同朋性といったあらゆる社会関係が、ゲームの美学的構造としてクリケットに刻印されていることの発見は、ジェイムズにクリケットを特権的な「社会劇」として見るような視点を与えてゆく。リアルな現象の背後に書き込まれた錯綜したアレゴリーと政治性の発見。フレデリック・ジェイムソンが第三世界文学のテクストを指して「ナショナル・アレゴリー」と呼んだような、いわば民族的な「寓意」の発現のメカニズムの解析こそが、ジェイムズをしてクリケットのあらゆる側面からの研究をうながした、もっとも根幹にある動機であった。ヨーロッパから植民地主義の力学によって拡散し、離散ののちに各地で定着、発展したクリケットの群島的な展開は、そうしたコロニアル/ポストコロニアルな社会関係を寓意的に映しだすゲームの構造のなかに受けとめられ、ジェイムズの思想におけるアーキペラゴ的感性をさらに研ぎすませてゆくことになったのである。

エリス島 1952
三◯年代をおもにロンドンで過ごし、ハイチ革命の壮大な歴史を描いた主著『ブラック・ジャコバン』を世に問い、社会主義理論の吸収につとめながらパン・アフリカン運動にアクティヴにかかわったジェイムズは、四◯年代の約一◯年間はアメリカでトロツキー主義運動のリーダーとして活動し、おもにニューヨークに住んで執筆をつづけた。アメリカではアメリカ黒人特有の抑圧的文化状況を目撃しながら抵抗運動を組織するとともに、ハリウッド映画、TVドラマ、探偵小説といったサブカルチュアの存在を発見し、それらの分析に夢中になった。すでにニューイングランドに伝播したクリケットの痕跡も消え、野球王国となっていた二◯世紀半ばの北米を前にして、クリケット評論への衝動は一時的には姿を消すことになった。そんななか、一九五二年、マッカーシー旋風の吹き荒れるなかで左翼狩りの手がジェイムズにもおよび、彼は一年ほどのあいだ、不法にもアメリカへの移民入国の玄関口であったエリス島の刑務所に収監されてしまう。しかしこの獄中で、一つの画期的な、彼のアメリカ滞在の成果が執筆されることになった。それが『水夫、背教者、難破者』である。『水夫、背教者、難破者』は、きわめて特異なメルヴィル論である。その特異性の根拠は、ひとことで言えば、メルヴィルを論ずる視点のなかに文学史的な配慮がまったく見当たらないという点に尽きるだろう。ジェイムズは『白鯨』を、まったく同時代の、危急の物語として読む。黒人奴隷の孫として生まれ、ポストコロニアリティの息子として育ち、やがて海を渡りながらディアスポラを生きることになった第一世代の西インド知識人である自らの境涯と、そこから得た世界像をたよりに、ジェイムズはじかにメルヴィルと、エイハブ船長と、そして有象無象の船員たちとに対峙する。ジェイムズはこの本の冒頭で、エイハブという圧倒的な人格がなぜ彼の特別の関心を惹起したかをただちに語りだす。手下の水夫たちを甲板に集め、この航海の本当の目的が、自らの足をもぎ取られるという屈辱を味わわされた「モビー・ディック」という名で知られる巨大な「白鯨」であることを告げたエイハブと、そのあまりに身勝手で不条理な言動に反論する航海士スターバックのこんなやり取りを、ジェイムズは特別に重要な部分として引用する。

「エイハブ船長。それが正当な仕事だというなら、ぼくはあいつの曲がり顎なんかこわくないです。死神の顎だってこわくないです。だがぼくは鯨捕りにやってきたんで、船長の仇討ちの手伝いに来たんではありません。あんたの仇討ちがうまくいったとしたらばいったい何樽儲かるんですか。国のナンタケットの市場じゃ大した儲けになりますまい」
「ナンタケットの市場だと! ふふん! ……もし銭が目安じゃとしてだな、勘定方がこの地球玉を大きな勘定台にして、インチを三つにも刻んで、ギニア金貨でぐるぐる巻きして積んできてもじゃ、わしはいうがな、わしの仇討ちはこの胸のなかでもっと高い値打ちがあるんじゃ」★三。

船長の個人的な仇討ちに水夫全員がつきあうわけにはいかないというスターバックの反論は、みごとにアメリカ資本主義の公的な論理と道徳にかなっている。いやこのスターバックのロジックこそが、一九世紀半ばのアメリカ文明そのものの疑うことなき礎だったのだ。そしてそのロジックは、現代においてもおそらくなにも変わらずに公的な領域において君臨している。ジェイムズはだからこそ、エイハブの「叛乱」に注目する。経済原理を不可解な私的情熱によって粉砕し、船主を裏切ってピークォド号の支配者を宣言するエイハブに、古きもの、因習的な権力を嘲笑し、新しい世界を創造しようとする巨大な人格を見いだそうとする。ちょうど資本主義というウィケットを倒そうとふりかぶる狂暴なボウラーとしてのエイハブの姿が、あるいはジェイムズを震撼させたのかも知れない。そしてもちろん、エイハブの狂気の影に、ジェイムズは同時代の狂気としてのナチズムやスターリニズムの錯綜した影を感じてもいた。メルヴィルを現代に接続することの意味は、すなわち、ある種の独裁者が政治的にいかなる結末をむかえるにせよ、そこには社会と歴史をめぐって戦われる創造的なプロセスの運動が示されているという点にあったからである。ジェイムズは書いている。

戦いの現場は、文明という監禁状態の外部にしつらえられる。古いものは確立し、何世紀もつづき、受け入れられる。だが新しいものが完全に否定されることもない。それは自分自身の新しさが何なのかを完全には知らないが、それが正しいということだけは確信している。こうして苛烈な闘争が避けえぬものとなる。ここにこそ、メルヴィルによって記述された創造的なプロセスが私たちに教えるものがあるのだ★四。

エリス島の監獄のなかで、まさにアメリカ文明の監禁の鎖を食いちぎるようにして書かれた『水夫、背教者、難破者』は、エイハブの闘争に対峙して思索された、ジェイムズ自身の外部における闘争の書でもあった。現実的にも国外追放の危機に瀕していたジェイムズは、まさにこのメルヴィル論を、アメリカ合衆国のドクトリンにむけた政治的な自己主張として綴ることによって、追放の暴力に抵抗しようとしたのである。だとすればこの書物は、ジェイムズにとって、一つの「論」であると同時に、一つの決定的な「行動」そのものでもあったことになる。

トリニダード 1963
トリニダード・トバゴ独立直後の、一九六三年は、ある意味で西インド諸島のクリケット文化史における一つの画期的な年であるということができる。ひとつには、すでに史上最高のクリケッターとしての名声を得ていたガーフィールド・ソーバースが、この年参加していたオーストラリア・シーズンにおいて一千得点をあげ、これによってすでに達成していた西インド諸島、インド、イングランドと合わせて合計四つの異なった地域のクリケット・シーズンまたはツアーにおいてそれぞれ年間一千得点以上をあげるという未曾有の離れ業をやってのけたからである。そしてもう一つの理由は、この年、すでに触れたジェイムズの半自叙伝にしてクリケット論『境界を越えて』がロンドンにおいて刊行され、クリケット評論がスポーツ・ジャーナリズムの文脈をはるかに越えたところで、深遠な文化批評として成立しうるという事実が示されたことである。
西インド諸島連邦の統一の夢が破綻し、ジェイムズがトリニダードを去った翌年にソーバースの大記録が達成されたのは皮肉な偶然だったかも知れない。ジェイムズは「ガーフィールド・ソーバース」と題されたエッセイのなかで、ソーバースのような英雄の存在の西インド諸島における意味について、明解にこう書き記している。

ガーフィールド・ソーバースは西インドのクリケッターである。これはたんに彼が西インド出身のクリケッターという意味ではない。彼は、想像しうるかぎりにおいてもっとも典型的な「西インドのクリケッター」なのである。すべての天才とは、彼らが属する文明のユニットの特徴を極限的なかたちでそなえ、その表現や行動において特別の機能をはたすことのできる者にすぎず、それ以上の者ではない。だからこそ、ソーバースを誤解することは、西インドそのものを誤解することになる★五。

『ザ・ガーディアン』紙に掲載されたあるジャーナリストによるソーバース評が、「なみはずれた運動能力、本能的肉体、豹の足、鷹の目、猛牛のスタミナ」といった華麗かつ印象批評的な言葉によって修飾されているのを徹底的に批判したジェイムズは、ソーバースが真に西インドの伝統から生まれた果実であると言い切る。ソーバースのあらゆるプレー、すべてのスコアと記録をマニアックなまでに言及しながらジェイムズが語るのは、投げ、打ち、守る彼の肉体の一挙手一投足に美学的過程として示された、「踏みにじられた数世紀にわたる歴史の具現化」である。スポーツ・ヒロイズムを、本能的・動物的身体性の低俗な換喩としてしか語ることのできないジャーナリズムの無理解に憤激しながら、ジェイムズのクリケット論は、広大な歴史のフィールドにおいて展開されることになったのである。ジェイムズのクリケットへのアプローチの本質的な意味について考える前に、カリビアン・ディアスポラを生きるもう一人のトリニダード知識人が描く別種のクリケットの風景にここで触れておくべきだろう。ソーバースがその選手としての頂点を極めつつあった一九六◯年、V・S・ナイポールがトリニダードを訪れ、このときの経験と思索を『中間航路』というトラヴェローグとしてまとめているのだ。インド系の移民の子孫として西インドに生まれるという屈折した出自を持つナイポールは、一八歳で島を離れてイギリスにわたり、作家として自立しかけた二八歳のとき、唾棄すべき非創造的な場として去ったはずの故郷に、不可思議な恐怖感にさいなまれながら、おそるおそる足を踏み入れる。
ナイポールのトリニダードへの恐怖感は彼自身にとっても説明のつかないものだった。青年期に国を離れて以来、この恐れの感情をみずからの内奥で測ることによって彼は小説の執筆を継続してきた。彼にとって、トリニダード島はまったく価値のない、皮相で不毛な土地として意識されていた。社会において専門家と言えるのは法律家と医者だけであり、成功者とは銀行家と貿易商と仲買人のことでしかなかった。才能のあったはずの人間は、みなどこかでひねくれ、卑しい俗物に成り下がった。それは英雄の登場を自ら抑圧し、否定する社会だったのである。ナイポールは自分の幼少期を回想しながら「それは、人々の物語がいつも成功の物語ではなく、失敗の物語としてしか語られないような土地だった。  優れた人、奨学金を得た者にかぎって早死にしたり、狂気の病にかかったり、酒びたりになったりするのだ」と自虐的ともみえる諦観を込めて書いている。
だからこそクリケットは特別だった。西インド社会を皮相な眼で、ペシミスティックに見る傾向がとりわけ強いナイポールにとっても、クリケットの特権性はあきらかだった。

トリニダードにおいて、クリケットはつねにゲーム以上のものだった。いかなる才能も求めず、長所を誉めることすらしない社会において、クリケットは一人の男を身の丈にまで成長させ、世界的な基準においてその人物を測ることを許す唯一の活動領域だった。……そこでは人種も、教育も、財産も関係ない。われわれには科学者もおらず、技師も、探検家も、兵士も、詩人もいなかった。クリケッターだけが、われわれの唯一のヒーローだったのである★六。

こうした記述のなかから立ち上がってくるナイポールのクリケット像とは、すぐれて社会心理学的な文脈に置かれている。クリケッターが唯一のナショナルなヒーローとなってゆく大衆の心情に共感しつつ、一方でその背後にある「植民地」「ポスト植民地」の公権力の横暴と文化的不毛を過剰に嘆くことは、結局クリケットの昂揚の意味を、圧政社会の住民の心理的自慰のような反応として過小評価してしまう傾向をかかえ込んでいる。無論ナイポールの内部にあるクリケット観は、そうした心理学的な枠組みによってのみ評価できるような限定されたものではなかっただろうが、『中間航路』にただようペシミズムと強烈なアイロニーが、クリケットが結びうる歴史的にシャープな像を曇らせてしまっていることは否めないのだ。ジェイムズの『境界を越えて』の独創性は、まさにこうした地点においてきわだってくる。ジェイムズは、クリケットを西インド人の抑圧的な現実における心理的支えという文脈に回収することなく、それを彼の歴史観を導きだす、思想的戦略へと変換しようとしたからである。
すでに引用したガーフィールド・ソーバースをめぐる評論で、彼はクリケットの英雄的プレーヤーを、一人の超越的な能力を持った個人としてではなく、一つの歴史の凝縮として、あるいは社会関係の集合的な表象としてみなす視点を確立していた。それは歴史そのものを、たんなる政治的事件の不毛な連鎖としてではなく、ある意味で神話的な回帰と円環の相のもとにとらえ直すことでもあった。西欧社会による征服と奴隷化と植民地主義の歴史のなかで隠蔽されてきた、伏流する物語の集積を探り当てる試みがそこに意図されていたのである。それはだから、イギリスに始まるクリケットの変転の軌跡そのものを、クリケットの本質として発見してゆく作業をジェイムズにうながすことになった。そして意外なことに、彼がそのための方法論をギリシャ古典から学び取ったことを、ジェイムズは『境界を越えて』で興味深く述懐している。

私はただクリケットをプレーしていたのではない。私はそれを研究した。打撃を分析し、プレーのかたちを研究し、クリケットの歴史を読み、その起源がどのようなものであり、時代とともにどのように変化したのかを調べた。オーストラリアや南アフリカにおけるクリケットの変容についても読んだ。調べ、統計を比較し、新聞を切り抜き、無数のクリケッターたちに話を聞いた。とりわけ私が取材したクリケッターは、植民地間を行き来していたインターコロニアルな選手であり、海外での試合経験の豊富なプレーヤーだった。……私は、西インド諸島のチームにたいして完勝したり、逆に完敗した選手たちについて調べた。ルールが書かれている語法についても研究し、その文体を吟味した。私は確信しているが、こうしたやり方こそ、ギリシャ人が世代を超えて口伝えによって、彼らのゲームの記録や伝統を教え込んできた方法だった。私はクリケットのアマチュアではあるが、私はこの方法をギリシャ文学から学びとった。だが、きみはまたきみのやり方を編み出さねばならない★七。

ここに描かれているのは、まさに離散の途上にあるクリケットの示す航跡をたんねんに海上にたどり、クリケットの群島を結び合わせてゆくことで、そこに「文化」そのものの凝縮した姿を探り当てようとするジェイムズの思想家としての厳密にして軽快なフットワークである。彼はインターコロニアルなかたちでつねに西インドの「現在」へと回帰するアクチュアルな原-物語(=神話)をそこに発見するために、クリケットの群島へと漂流していった。それがギリシャ神話や叙事詩に示された、古代地中海世界の口承伝統と連想法に近似していることは、その意味で偶然とはいえない。アーキペラゴを渡る言語と文化の交通の姿が、ジェイムズの無意識のなかで、この二つをむすびつけたにちがいないからである。

ミドル・パッセージ 1451-1990
クリケットの歴史は、ある意味で完全な断絶とともに西インドに移植されている。それは、植民地化の流れに乗った「伝播」というようなナイーヴなタームではおよそつかまえることのできない、「完全な変貌シー・チエインジ」を経過してカリブ海地域へと漂着した。まさに海の介在による大きな存在論的変容がそこでは起こった。受容と抵抗と変節と濫用の繰り返しのなかで、文化プロセスとしての「クリケット」がそこで新たに生成していったのである。
この大西洋という航路をはさむアトランティックな権力関係のなかにクリケットの漂流をおいてみたとき、「中間航路」というナイポールの本の題名は一つのヒントを私たちに与える。いうまでもなく、「中間航路ミドル・パツセージ」とはアフリカ西海岸とカリブ海とを結ぶ奴隷貿易に利用された航路を指しているが、まさにアフリカ黒人はこの中間航路をたどることによって、一つの文化の形式を、別の形式へと完全につくりかえてゆくことを余儀なくされたのだった。その意味で、中間航路とは一つのリンボー、すなわち地獄の辺土であり、文化的忘却が引き寄せられる底なしの淵であった。そしてクリケットというヨーロッパの制度も、大西洋の漂流のはてで、おなじ中間航路に巻き込まれたと考えることはできないだろうか。「リンボーへの出入口」と題されたガイアナの作家ウィルソン・ハリスのエッセイが、クリケットのたどったアトランティックな道筋に、別の光をあててくれるかもしれない。この刺激的なエッセイにおいてハリスが論じているのは、西インド諸島各地で行なわれている民俗ダンスとしての「リンボー・ダンス」の由来と意味についてである。どんどん低くなってゆくバーを前にしてからだを反らし、すり足で四肢をひろげて地面と棒のわずかな隙間を蜘蛛のようにすり抜けてゆくリンボーは、まさに中間航路の途上で奴隷たちによって生みだされたといわれている。船底にぎゅうぎゅうづめに押し込まれた黒人たちは、極小の空間を四肢をかがめて動きまわるうちに、自分たちの存在をそのまま蜘蛛へと読み替えていった。リンボーはいわば人間による蜘蛛への擬態の身振りとして生まれたのである。いうまでもなく、ここには西インド諸島の神話的トリックスターとして知られる蜘蛛=アナンシのフォークロアとの深い関連がある。機知とユーモアとグロテスクな異化作用によって世界を転覆してゆくアナンシの精神は、もともと西アフリカのエシュ=エレグバや野兎といったトリックスター的形象の新大陸への伝播としてさまざまに研究されてきた。だがハリスは、そうしたアフリカを起源とする文化的伝播関係を探るよりも、むしろリンボー=アナンシ連続体のなかに中間航路をへた文化的切断と再構築のプロセスを見ようとする。リンボーが中間航路上で生まれたといっても、もちろんそこにはさまざまなアフリカの部族的身体所作の痕跡を見いだすことができる。だが大西洋を逆にたどってアフリカの西岸にたどり着き、どこかの土地にリンボーの身体文化的起源を探ろうとしても、その試みはかならず破綻する。リンボーじたいが、まさに起源を異にする無数の部族集団の混合体として船出した奴隷船のなかで、アフリカ伝統文化とのあいだに結ばれた鎖を互いに引きちぎるかたちで創造されたものだからである。その意味で、リンボー・ダンサーの身体には、関節の転位、すなわちある種の脱臼(=異化作用)デイスロケーシヨンがすでに組み込まれている。黒人の身体性は、中間航路において存在論的な「 変  容 シー・チエインジ」を経験し、四肢の分節構造じたいを改変されたのである。そうだとすれば、西インド諸島において行なわれるリンボー・ダンスは、改変された四肢が、かつての部族的身体の幻をからだの芯のどこかに感じながら、新たな西インド的身体として自己の器官を再統合する、その文化闘争の現場であることになる。ハリスはlimboとlimbを懸けて、それを「幻肢」 phantomlimbの現われであるとスリリングに指摘する。切断されたあとでも、手足がまだあるように感じ、その先端に痛みを覚えるような感覚としての「ファントム・リム」。いまでもヴェトナムやエルサルバドルやボスニアの負傷兵がときに感じるであろう幻の四肢の痛みが、リンボーというフォークロアの真の意味だとすれば、蜘蛛のように腰をかがめ、四肢を広げてかすかな隙間をくぐり抜けるあの西インド人の身体は、まさに中間航路によって切断され、再接合されたハイブリッドな身体を生きる者として、あらたな文化表現を志向しうる者となる。ハリスは書いている。

それが始まるには何世代かの時が必要だった。それは今まさに始まろうとしている。リンボーにおいて、身体器官を寸断された奴隷と神の幻肢のなかにねむっていた無意識の資源を掘り起こし活性化させる作業が。この身体の活性化には、新たな詩学の創造へとつながる大いなる成果の種子が宿されている。なぜならリンボーはアフリカ的過去の完全な記憶回復などではないからだ。部族の独立に立ったアフリカ的過去は、中間航路の通過とそれにつづく世代交替によって改変され、深く傷ついたまま覆い隠された。リンボーはむしろまったく新しい感受性の身体の再生であり、それはアフリカや他の過去からの遺産を翻訳し、新たな土地になじませることで新たな文化の構築をめざすことができる★八。

中間航路をくぐり抜けた身体のリ・アセンブリー。ファントム・リムの感知をつうじて新たな文化的練り上げエラボレーシヨンが実践されるこの現場はまた、同時に、植民地主義と呼ばれてきた制服を着た仮面が通過せねばならない中 間 航 路ミドル・パツセージでもあり、帝国主義と呼ばれる停滞した記録官が追放される中間地帯リンボーでもあった。そうだとすれば、幻想の四肢に感知される痛みは、おなじ過程をへて、西インドのクリケッターの身体にも及んでいなかったはずはない。寸断された「部族」の記憶と、無化された歴史の淵から、もう一度カリブ的身体を統合しようと試みたクリケット群島の漂着者たちも、彼らのやり方で幻肢のありかを微細に察知しながら、もう一つのリンボー的アセンブリーに着手していた。ジェイムズの自伝『境  界 バウンダリーを越えて』は、いうまでもなく、ガーフィールド・ソーバースが、そして彼自身が、打球がバウンダリーを越えてノーバウンドでフィールドの彼方へと消えてゆくバッツマンの至高の瞬間に感知した、神話と歴史の紛争のはざまに現われる幻肢の表現だったのである。

後         奏ポストリユード

ナンタケット島 1851
ナンタケット! 地図を出してもみたまえ。世界のなんとまっとうな一角を占め、いかに岸遠く、エディストン灯台よりも淋しく立っているかを見たまえ。ほらあれだ、ほんの岩山、砂原、磯ばかりで、土地はほとんどない。吸い取り紙の代わりにしたら二◯年じゃ使いきれないほどの砂だ。……してみればこのナンタケットの住人たちが生活を求めて海に乗り出すのも無理はない。最初は砂のなかに蟹や蛤をほじくっていた。やや大胆になって、海に入って鯖網を打った。もう少し場数を踏むと短艇に乗って鱈を捕った。やがてとうとう巨船を海に突き進めて、波濤の世界の隅々を探り、この地球をひっきりなしにぐるぐる乗り回し、ベーリング海峡も覗き、あらゆる季節のあらゆる大洋に、もっとも魁偉な山岳のごときもの、大洪水に生きのびた生き物のなかのもっとも強大なるものと、永遠の戦いを挑むのだった。……かくして海の隠者なるナンタケットの住人らは……仲間うちで大西太平インドの三洋を分け合った。……この地球の三分の二はナンタケット人のものなのだ。そうだ、海は彼のものだ。皇帝が帝国を持つように、海を持っているのだ(メルヴィル)★九。

バルバドス グレートブリテン島 1993
われわれの生はカリブ海と大英帝国の歴史を包囲するように広がっているが、それらの歴史によってわれわれが消耗しているわけではなく、その歴史が要請するありえないアイデンティティの輪郭がわれわれを悩ましているわけでもない。……きみはベイジャン・ビーチの砂に踏まれた足跡をたどり、足の裏で砂粒が動くのを感じる必要がある。ポストコロニアルな彷徨者ノマドは砂の上に自らのアイデンティティの構造をつくる術を学ばねばならないのである(ポール・ギルロイ)★一◯。

イスラ・ネグラ、チリ 1972
わたしは海についてはアマチュアである。何年も前から、海や船の英知を収集してきたけれど、あまり役にはたたなかった。というのも、わたしは陸地の上をいつも航海しつづけてきたからである(パブロ・ネルーダ)★一一。


★一──クリケットの発生と展開の歴史については、おもにつぎの本を参照した。Rowland Bowen, Cricket: A history of its grouth and development throughout the world. London: Eyre & Spottiswoode, 1970.
★二──C.L.R.James, Beyond a Boundary. London: Serpant's Tail, 1983 [orig.1963], p.3.
★三──メルヴィル、阿部知二訳『白鯨(上)』(岩波文庫)二五四─二五五頁。
★四──C.L.R.James, Mariners, Renegades and Castaways: The Story of Herman Melville and the World We Live In. Detroit: Bewick/ED, 1978 [orig.1953], p.140.
★五──C.L.R.James, "GarfieldSobers", in Anna Grimshaw (ed.), The C.L.R.James Reader. Oxford: Blackwell, 1992, p.379.
★六──V.S.Naipaul, The Middle Passage. Penguin Books, 1969 [orig.1962], p.44.
★七──C.L.R.James, Beyond a Boundary, pp.32-3.
★八──Wilson Harris, "The Limbo Gateway", in Bill  Ashcroftet. al. (ed.), The Post-colonial Studies Reader. London: Routledge, 1995, p.380.
★九──メルヴィル、前掲書、一一五─一一六頁。
★一◯──Paul Gilroy, "On the beach: David A.Bailey " in Small Acts: Though ts on the Politics of Black Cultures. London: Serpant's Tail, 1993, pp.151-2.
★一一──Luis Poirot, Pablo Neruda: Absence and Presence. NewYork: W.W. Norton & Company, 1990, p.30.

[本稿は、クリケットをめぐる群島的接続の領域を走破することを意図した第一稿であり、続編が書きつがれていくことをここに付記しておく]。

>今福龍太(イマフク・リュウタ)

1955年生
東京外国語大学大学院教授。人類学。

>『10+1』 No.08

特集=トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて

>ポール・ギルロイ

ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ講師。