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視覚とは見慣れることのない、素晴らしい営みである。わたしは五〇年のあいだ、その難問の数々に頭を悩まされてきた★一。
ジェームズ・J・ギブソンの最後の著書『視知覚への生態学的アプローチ』(邦訳=『生態学的視覚論』)は、心を動かされるこの言葉で始まる。そして光の物理学、眼・神経・脳の解剖学・生理学では、視覚の不思議さを解き明かせないと続ける。それはなぜだろうか。
光の物理学は、われわれの身体の外部にある光を研究する。眼・神経・脳の解剖学・生理学は、われわれの身体の内部を研究する。それに対してギブソンは、われわれの身体の外部と内部とが組み合わさって作動する視覚系(visual system)そのものへと向かおうとしている。視覚系では、外部と内部の区別さえ最初からの前提とはならない。視覚系に含まれる身体は、眼・神経・脳に限られない。われわれは瞬き、首を動かし、肉体を移動させ、身体内外の多様なものと絶えず触れながら、この世界のなかで見ている。この視覚系においてこそ、視覚という見慣れることのない、素晴らしい営みが生じるのである。
さらに視覚系には、いわゆる自然環境──これも人工的に変化する──だけでなく、われわれが作りだす動画や静止画、人工照明や建築物など、歴史的に変動する文化的な視覚環境も組みこまれている。われわれの視覚系は、これら大量に作り出されてきた文化的な視覚環境によって姿を変えるのである。したがって、われわれの視覚系の生態は、物理学・解剖学・生理学を超えている。写真や映画を使って空軍の飛行士を訓練することからギブソンの視覚研究が本格的に始まったこと、そして彼の最後の著書の最後のパートが静止画と動画についての研究であったこと。その意味は、けっして小さくない。
この連載のタイトルにかかげた〈身体文化学〉も、われわれの身体と文化的な環境とが組み合わさって作動する身体文化系へと向かおうとする。文化研究のなかで、ただ身体に関わるテーマを扱えば身体文化学になるわけではない。そして〈視覚の身体文化学〉とは、そのような身体文化系の作動を視覚のフェーズにおいて思考していこうとする試みなのである。
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ジョナサン・クレーリーが『観察者の技法──一九世紀の視覚と近代』で試みたのも、見る者と文化的な環境(視覚をめぐる言説や、光学装置・絵画などの実践)とが組み合わさって作動する視覚文化系の変動を分析することだった★二。クレーリーの議論の要点は、一七─一八世紀の(光線の)幾何学的な視覚のアレンジメントから、一九世紀の生理学的な視覚のアレンジメントへの転換として整理することができる。しかし、その転換のなかでもっとも注目すべき点──そして、とても読みすごされやすいところ──は、一九世紀のはじめ、視覚文化系のなかに生理学的な身体という新しい要素が入ってくる前に、われわれの身体の内部と外部とがひとつの領域を形成するようになったということだろう。
それを典型的に見せてくれるのは、クレーリーによれば、ヨハネス・ミュラーの『人間生理学教本』である。ミュラーは色や光の知覚を作りだす要因として、物理的作用(震盪・殴打など)・電気・化学薬品・血液圧迫をあげていく(光の刺激はそのなかのひとつにすぎない)。もちろん、一八世紀までの古典的な視覚モデルでは中心を占めていた光が脱中心化されたことも見逃せない。クレーリーは論じていないが、二〇世紀半ばに書かれたオルダス・ハクスリー『知覚の扉』──「色彩の知覚がメスカリンによって異常に高まるという現象はどんなに意味深いことか!」──につながる道も見える★三。だが、ミュラーの理論においてさらに重要なのは、身体の内部に発する刺激も外部に発する刺激もまったく同じ資格で、色や光の知覚を生みだすことができると論じられていることだ。そのため、ミュラーは身体の内部と外部の区別を破棄して、「ひとつの内在面」を形成したとクレーリーは指摘するのである。
また、ゲーテの『色彩論』は生理的色彩・物理的色彩・化学的色彩を分割しつつも、それらが混合されていく現象を記している。クレーリーはゲーテによる生理的色彩の観察を強調するあまり見過ごしているが、ゲーテの『色彩論』も身体の内部と外部とがひとつの領域を形成していく兆候と考えられるのである。
しかしながらゲーテの『色彩論』は、身体の内部で作りだされる生理的色彩のみで色彩を説明できるというショーペンハウワーの『視覚と色彩について』によって生理学化されていく。また、ミュラー以後の視覚生理学──とりわけヘルムホルツの生理学が重視される──も、網膜・視神経・脳といった身体の内部を研究することに閉じられていく。つまり、この点をクレーリーは明確に分析していないのだが、一九世紀を経るにつれて、われわれの身体の外部と内部とが組み合わさって作動する知覚系は、すぐさま身体の内部へと回収されていったのである。
このような歴史的コンテクストのなかにギブソンを置いてみると、彼の視覚論とは一九世紀のはじめに開かれつつも閉じられていった知覚系へのアプローチを、二〇世紀の後半に再開する試みであることが見えてくる。
ただし、ギブソンは『視知覚への生態学的アプローチ』に先立つ『知覚系としての感覚』のなかでミュラーやヘルムホルツを批判しているように、網膜や視神経の解剖学・生理学と同じ道を辿ろうとはしない★四。ギブソンの主張によれば、網膜をとおして視神経に刺激がインプットされ脳で処理されて視知覚になるのではなく、われわれの身体とその外部(環境)とが組み合わさって作動する視覚系のなかから、視覚情報をピックアップすることが視知覚なのである。
ただ、ギブソンの理論のなかで気になることのひとつは、色の知覚について、かなり限られたスペースしか割いていないことだ。一九世紀のはじめ、われわれの身体の外部と内部とが組み合わさって作動する系の次元を開いたのがゲーテやミュラーであり、彼らにとって色の知覚というテーマが中心的だったことを考え合わせると、ギブソンによる色の知覚の周辺化は意味深い。佐々木正人氏の言葉を借りれば、「ギブソン理論は総天然色の知覚論というよりはモノクローム」のようにも目に映る★五。
しかし、ここでまず考えるべきことは、色の知覚に関してギブソンの困難がどこにあるのかという問題だろう。ギブソンが生きた時代の文化的な色環境からギブソンを批判的に読みなおす〈色の知覚の身体文化学〉は次回に譲るとして、今回はギブソンの延長線上に〈色の知覚の生態学〉を構想することができるのかどうか診てみよう。
3
ギブソンの理論のなかに色が占めるスペースは確かに小さい。しかし、彼は〈色の知覚の生態学〉を無視あるいは放棄していたのではない。むしろ、世界の表面はカラフルであり、それがわれわれの生きていくうえでの情報になると考えていた。果物が熟れているか熟れていないか、花はどれで葉はどれか、動物のからだの羽根や毛皮はどれで皮膚はどれか。そうした情報をわれわれは色によっても知ることができると、ギブソンは『視知覚への生態学的アプローチ』のなかで言う(ただし、例えば「タンジェリン色の木」、「黄色や緑色の花」★六のことは考えていないだろう)。だから、ギブソンのあげる「表面の生態学的法則」のリストから色が排除されることはない。九つの法則のうち、二つが色に関係している。
ひとつは、表面が「色素のテクスチャー」を持つこと。これは、その物質の構成(composi-tion)によって決まる。もうひとつは、表面に「色相」があること。これは、その物質(あるいは表面そのもの)の反射率──光の波長スペクトルのどの範囲をどれだけ反射させるか──の分布(distribution)によって決まる(そして「色素のテクスチャー」と「色相」は分かちがたく結びついているとギブソンは続ける)。つまり前者は化学的色彩、後者は物理的色彩であるが、なぜこれが視覚系のレヴェルの生態学的法則になるのだろうか。
「表面の生態学的法則」と異なるパートに記されているので見逃しやすいのだが、視覚系がピックアップする視覚情報(われわれを包囲する光の配列)を論じる章のなかで、ギブソンはこう論じている。色はそれぞれ個別に刺激としてではなく、アレンジメントとして一緒に見られる。つまり、われわれはそれぞれの表面の色を単独にその色として見ているのではなく、隣接する表面の色々との関係において、その色として見ている。したがって「表面の生態学的法則」のなかでギブソンが用いる構成・分布という言葉は、アレンジメントという意味で読まなければならない。ギブソンは化学や物理学の法則について述べているようで、じつは視覚系のレヴェルの法則を考えていることが分かる。
しかし、ギブソンはここから先に進むことができない。「不幸にして」と言いながら、彼は分からないことを二つ記す。ひとつは、表面の色のアレンジメントが光の配列とどのように関連しているのか分からない。そのため、どのようにして表面の色が──変化する色どころか持続する色も──特定されて知覚されるのか分からない。視覚情報の基礎を光の配列に見出したギブソンにとって、これは大きな困難である。
もうひとつは、ギブソンにとってさらに大きな困難である。表面の色は照明の明暗とは独立して知覚され(「色の恒常性」)、例えば白─黒をわれわれは(画像以外では)照明の明─暗と混同しないにもかかわらず、その理由が分からない。この問題を解決するためには、(色の系列と光─闇の系列の質的差異を基礎におくゲーテの『色彩論』を経由しつつ)ギブソンを超えて、視覚情報の基礎を光の配列とは異なるところにも求める必要がある。〈色の知覚の生態学〉を展開するためには、この二つの困難を乗り越えなければならない。
1──19世紀(ヘルムホルツ)の生理学的な視覚モデルと
18世紀の幾何学的な視覚モデルとの対比
出典=Crary, Suspensions of Perception: Attention,
Spectacle, and Modern Culture, MIT Press, 1999.
2──観察者の移動による包囲光配列の変化
出典=ギブソン『生態学的視覚論』
註
★一──James J. Gibson, The Ecological Approach to Visual Perception, Hillsdale, NJ: Lawrence Erlbaum Associates, 1986(first published 1979)邦訳=J・J・ギブソン『生態学的視覚論』(古崎敬ほか訳、サイエンス社、一九八五)。
★二──Jonathan Crary, Techniques of the Observer: On Vision and Modernity in the Nineteenth Century, Cambridge, Mass.: MIT Press, 1990. 邦訳=ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜──視覚空間の変容とモダニティ』(遠藤知巳訳、十月社、一九九七)。
★三──オルダス・ハクスリー『知覚の扉』(河村錠一郎訳、平凡社ライブラリー、一九九五)三〇頁。
★四──James J. Gibson, The Senses Consi-dered as Perceptual Systems, Boston: Houghton Mifflin, 1966. それに対して、神経生理学と同じ道を辿りながら、身体の外部と内部とが組み合わさって作動する視覚系の研究を開こうとしたのが、マトゥラーナによる一九六八年の色覚研究だろう(H・R・マトゥラーナ/F・J・ヴァレラ『オートポイエーシス──生命システムとはなにか』(河本英夫訳、国文社、一九九一)二〇─二二頁。
★五──佐々木正人『レイアウトの法則──アートとアフォーダンス』(春秋社、二〇〇三)一七六─七七頁。なお、これはグラフィック・デザイナーの鈴木一誌氏による問いかけ──「顔の捨象とモノクローム」がギブソン理論の印象──への応答である。
★六──The Beatles (John Lennon), "Lucy in the Sky with Diamonds", 1967.