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ルードルフ・オットー 『聖なるもの──神的なものの観念における非合理的なもの、 および合理的なものとそれとの関係について』 | 森田團
Rudolf Otto Das Heilige, Über das Irrationale in der Idec des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen | Dan Morita
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間, 2005年06月発行) pp.43-45

ルードルフ・オットー(一八六九─一九三七)の『聖なるもの』の新訳によって、この書物が孕むさまざまな可能性が再び新たに見出されることになるだろう。一九一七年の出版以来、『聖なるもの』は宗教学の分野を越えて大きな反響を呼び起こし、多くの読者を獲得することとなった。たとえばヘーゲル全集の編集者として著名な哲学者ヘルマン・グロックナーは、この書物が出版直後からその意義を認められた数少ない「哲学書」であると述べているし、『憑依』(一九二一)を著し、哲学者ながら宗教学にも造詣が深かったトラウゴット・コンスタンティン・エスターライヒは、一九一八年に書かれた書評においてすでに、この書物を宗教哲学にとって必要不可欠な書と評している。
『聖なるもの』は一九二七年には山谷省吾によってすでに訳出されており、周知のように、この訳業は一九六八年に岩波文庫に収められ、去年再版されたばかりである。今回の華園聰麿による新訳は丁寧な訳文と詳細な訳注によって、旧訳に比べて二〇世紀初頭のドイツの思想に馴染みがうすい読者にとっても近づきやすい工夫がなされおり、非常に読みやすくなっている。この相次ぐ旧訳の再版と新訳の出版にある徴候を読みとることもできるだろう。この書物に見出されるのは極めて現代的な問題へのアプローチであるからである。すなわち有限な存在者の限界において体験されるものの分析である。
そもそも宗教的なものの分析は、認識論ないし論理学、倫理学、美学の領域のうちでは成し遂げられず、それぞれの領域の限界に関わっている。ただ聖性が、概念的把握以前に、感情においてまず告げられるとするならば、宗教的なものについての学は、美学と隣接することに、あるいは重なることになるだろう。たとえば現代において「崇高」の概念のもとに再発見されている感性の限界への問い、表象不可能なものへの問いは、前世紀初頭においては、宗教的なものへの問いと関連していた。そして崇高の概念をそのような問いにおいて捉えたのはそもそもオットーであった。
オットーにとって宗教的なものの核心にあるのは、聖なるものの体験である。この体験は合理的なカテゴリーで把握不可能であるかぎりにおいて、非合理的なものである。このような非合理的なものとしての聖性をオットーは総じて「ヌミノーゼ(Das Numinose)」の概念のもとに包摂する。「ヌミノーゼ」は、「聖なるもの」という概念の使用においては抜きがたい倫理的・道徳的なニュアンスを分離し、聖なるものの本源的な次元をしるしづけるために、オットーがラテン語「ヌーメン(numen)」から導いた造語である。Das Numinoseは直訳すれば「ヌーメン的なもの」となる。
ヌーメンは神的なもの一般(神的な意志、神的な力、神的な支配など)を意味するラテン語である。ただ語源的には、ヌーメンはうなずきによる合図という意味を持つことを忘れてはならない。うなずきは、なによりも神の意志の顕現、いや神的なものの「しるし」なのである。
神的なもののしるしは、退くことによって自らをあらわにするような現象であるだろう。そうであることによって、神的なものの体験は神秘的なものの体験となる。オットーも指摘するように、「神秘(mysterium)」は隠されているという意義も持つからである。オットーが、神的なものの出現、そしてその体験に「畏るべき神秘(mysterium tremendum)」という語によって近づこうとするのはそのためである。
「畏るべき」という形容詞は、まずもってヌーメン的なものの出現によって引き起こされる感情を意味する。このような感情の基底に存するとされるのが、「不気味なもの(das Unheimliche)」であり、「途方もないもの(das Ungeheuere)」であり、「まったく他のもの(das ganz Andere)」の体験である。フロイトとハイデガーがそれぞれ独自の文脈で問題化し、「現代思想」においてもひとつの重要なトピックとなっている「不気味なもの」を、宗教的なものの基底に存する根源的感情として、その重要性を強調しながら捉えたのはオットーにほかならない。
ちなみにハイデガーは、オットーと同じように、ソフォクレスの『アンティゴネー』を引用しながらギリシア語deinon(通常ドイツ語には「おそろしい・不気味な(ungeheuer)」と訳されている)がいかにドイツ語に翻訳することが困難であるかという同じ指摘をもってこのテーマに取りかかっている。その際ハイデガーが、オットーではなく、ヘルダーリンのソフォクレス翻訳を参照するにしろ、『聖なるもの』を念頭においていたことも否定はできない。ハイデガーは『聖なるもの』の書評の準備のためのメモを残しており、この書物を読んだことは間違いないからである。
「途方もないもの」、「まったく他のもの」の体験の根底に存する「不気味な」感情を引き起こす、ヌミノーゼの体験を、「イメージ」の体験であると要約することは、行き過ぎた解釈となるかもしれない。しかし、ヌミノーゼは、オットーによれば、魅惑するという性格を併せ持っている。戦慄を覚えさせるものは、戦慄のうちに私たちを硬直させると同時に魅惑するのである。このような両極的な体験は、イメージの体験においてこそ生じる事態である。イメージの体験がヌーメン的なものの核を形づくっているととらえることによって、ヌーメン的なものの内実がよく理解されるように思われる。オットーは、ヌミノーゼの体験を説明するために、ゲーテの「デーモン的なもの」の描写を数多く引用しているが、同じゲーテの引用に基づいて、たとえばベンヤミンが、イメージ概念を構想していたことを指摘しておいてもよいだろう。ベンヤミンにとって「デーモン的なもの」の体験は、ヌーメン的なものである以前に、あるいはそれがヌーメン的なものであるがゆえに、イメージの体験であったのである。
ヌミノーゼが宗教的なものの基層に見出されるとするならば、その体験の最中において聖性をそれと知る原初的な能力が想定されねばならない。オットーによればそれこそが「直感(Divination)」である。予言する、予感するというラテン語であるdivinareに由来する「直感」は、それを通じて神的なものが告げられる媒体であり、神的なもののしるしを感得する能力である。たとえば「ここには何か出る(Es spukt hier)」という表現に、オットーは、場所の不気味さ、場所のヌミノーゼ的性格を見出しているが、このような場において生起する「予感」が、「直感」であると言えるだろう。
オットーが言うような直感が存在するとするならば、直感とは、まずはイメージを受容し、さらにその体験の最中に、イメージがなんらかのしるしとして生成してくることをとらえる能力であることになる(オットー自身は、このイメージからしるしへの変換をカントの「図式」の概念を援用して理解している。イメージをしるしに変換すること、あるいはイメージを「表意文字(Ideogramm)」にすることがオットーにとって肝要であった)。この直感の概念をオットーは、シュライアーマッハーやヤーコプ・フリードリヒ・フリースから借り受ける。オットーは当時ドイツ哲学界を席捲していた新カント派の哲学者たちから影響を受けたわけではなく、むしろゲッティンゲン大学を中心に形成された「新フリース学派」との関係を持っていた。フリースは、観念論の哲学者たちと同世代の哲学者でありながら、観念論哲学とはまったく異なるカント受容を行なったことで知られている。フリースは、カントにおいては二つの異なる領域のままであった「知」と「信」を「予感」の概念によって架橋しようとしたのである。
この意味で予感の概念はカントにおける判断力の再解釈でありうるし、実際オットーはそのことをシュライアーマッハーに依拠しながら指摘している。かりに直感ないし予感が、「知」と「信」を架橋するだけでなく、両者がそこから生い育つ根であるとしたらどうだろうか。予感こそがあらゆる能力の根源に見出される原能力ではないだろうか。オットーは『聖なるもの』において直感の概念が持つ可能性を十分には展開してはいないが、その可能性は追求する必要があるだろう。
ヴィルヘルム・シラジによれば、ハイデガーは、通常「知性」、「理性」そして「悟性」と訳される西洋形而上学の根幹語である「ヌース(nous)」を「予感(Ahnen)」と翻訳したと言う。オットーの「予感」の概念がここで踏まえられているとすれば、ハイデガーは思考の根源を、あるいは「思考に先立ち、思考不可能なもの(das Unvordenkliche)」を、「ヌース」の基層に見出すと同時に、思考がイメージの体験、聖なるものの体験と切り離せないことを指摘しているのである。
『聖なるもの』は、宗教的なものの根源を求めることによって、図らずして、思考の根源としてのイメージの体験をヌミノーゼの概念によって記述している。むしろ『聖なるもの』を読むことによって、思考の根源、あるいはヌースの基層には、聖性の体験が潜んでいることが明らかになると言うことができる。
ブルーメンベルクは、『聖なるもの』に一部基づいて神話論を展開した。最近では、アヴンベンが聖なるものを心理学的に扱うオットーの手法を厳しく批判している。しかし、もう一度オットーが切り開いた宗教哲学的視点を検討することは、「不気味なもの」を語るフロイト、ハイデガー、そしてデリダ、イメージを語るベンヤミン、カッシーラー、そしてクラーゲスらの思想を再読することにとって必要不可欠である。『聖なるもの』をいまこそ読み直さなければならない。
[了]

ルードルフ・オットー 『聖なるもの──神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について』 (華園聰麿訳、創元社、2005)

ルードルフ・オットー
『聖なるもの──神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について』
(華園聰麿訳、創元社、2005)

>森田團(モリタダン)

1967年生
東京大学大学院総合文化研究科博士課程。哲学・ドイツ思想史。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間