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〈光の皮膚〉の肌理(きめ)──都市写真という寓意(アレゴリー) | 田中純
The Texture of the Skin of Light: The Allegories of Urban Photography | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー, 1996年08月10日発行) pp.16-27

1 写真都市 ── 起こりえない事件の現場

ユジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、〈都市〉は写真というメディアの特権的な主題であり続けている。いや、むしろこういうべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、〈写真〉へと変容することを欲望し続けてきたのだ、と。飯沢耕太郎が編著『東京写真』において、「写真の中には、映像として定着された東京の物理的な姿だけではなく、他の表現手段ではどうしても実体化できない部分──東京の無意識とでもいえるものが写りこんでいるはずだ」★一と述べているのは、おそらく正しい。伊藤俊治が的確にいい切ったように「写真は都市の視覚的無意識を浮上させる」★二。まさしく都市は写真という分身のうちに二重化されるとともに分裂し、写真のなかにおいてはじめて、その欲望のかたちを可視化するのではないだろうか。
イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは、二〇世紀における写真を通じたメトロポリスの表象をめぐって、三つの異なる記号システムあるいは写真的感性の変遷を認めた。その三者とは、モダニズム建築の都市計画がプロパガンダを展開した一九二〇─三〇年代における都市表象としてのフォトモンタージュ、一九五五年の展覧会「ファミリー・オブ・マン」やマグナムの一連の写真に代表される五〇年代から六〇年代にかけての、無名の個人のイメージから生まれる都市物語への感受性、そして七〇年代以降の〈テラン・ヴァーグ(terrain vague)〉へのまなざしである。ソラ=モラレスが注目するこの〈テラン・ヴァーグ〉とは、何らかの出来事が起こったのちの、放棄された空虚な場所を意味するが、そこにはフランス語のvague が語源とするゲルマン語やラテン語との関係から、〈波〉、〈空虚〉、〈開放〉、〈曖昧〉といったいくつかのニュアンスが重層している。ジョン・デイヴィス、デヴィッド・プローデン、ヤネス・リンデルといった写真家たちのイメージに見出されるこの〈テラン・ヴァーグ〉は、都市の日常的利用にとっては外在的でありながら、都市そのものには内在的な何ものかである、とソラ=モラレスはいう[図1]。
「忘れ去られたかのようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優勢であるように見える。都市の活動から完全に離反してしまっているにもかかわらず、ここにはほんのわずかに残された価値だけが生き残っている。こうした奇妙な場所は都市の効率的な回路や生産構造の外部に存在する。経済的観点からすれば、この工業地帯、鉄道駅、港、危険な住宅地区、そして汚染された場所はもはや都市ではないのだ」★三。
都市活動やそのための管理を欠いた、都市内部の〈島〉である〈テラン・ヴァーグ〉は、都市システムに対して異質な、〈都市の物理的内部における、精神的に外部的な、都市の否定的=陰画的イメージ〉である。ジュリア・クリステヴァやオド・マルクヴァルトに依拠しながらソラ=モラレスはそこに〈他者性〉や〈未知性〉、あるいはフロイト的な〈無気味なもの〉といったテーマとの関連を指摘している。自己の内部の最奥の他者、未知なるものとしての無気味なこの〈テラン・ヴァーグ〉とはまさに都市の無意識であり、私たちの言葉でいいかえれば〈非都市〉にほかならない。
しかしながら、ソラ=モラレスはこの都市の無意識の発見という地点から、現実の都市の内部に実在する〈テラン・ヴァーグ〉が持つ可能性と、その保存について語ることへと無造作に移行してしまう。あたかもそこでは写真というメディアがそれ自体としては厚みを持たずに透明で、現実の忠実な再現=表象を提供しているかのように。だが、事実としての空き地とは所詮たかだか効率的に利用可能な空虚であって、〈テラン・ヴァーグ〉という都市の無意識ではありえないだろう。〈テラン・ヴァーグ〉の無気味さの根源は都市と都市写真との間のずれ、この両者の間にあってまなざしを屈折させる不透明な空間の物質性にこそ求められなければならない。
またこの〈テラン・ヴァーグ〉をことさらに新しい写真的発見とするにはおよばない。どこにも人影のない街路を撮影したアジェの写真がすでに、パリという都市全体を〈テラン・ヴァーグ〉と化していたのではなかったか[図2]。「どこも寂しい場所なのではない。気分というものが欠けているのである。これらの写真の上で都市は、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである」(ヴァルター・ベンヤミン)★四。この人影のなさこそ、アジェが〈街路を犯行現場のように撮影した〉といわれる所以であったのだ、とベンヤミンは書く。そして、都市のどんな一角もつねにすでに〈犯行現場〉なのであり、都市のなかの通行人はみな〈犯人〉なのだと。「写真家──鳥占い師や腸卜師の末裔──は、自らの撮った写真の上に罪を発見し、誰が犯罪者であるかを示す使命を持つのではないのか」★五。ベンヤミンによれば、だからこそ写真には、それを一定の意味で受け取らせるための標題が不可欠であるのだ。それ自体としてはコードを持たないメッセージである写真は、その外部に読み取りのための手がかりを要求する。なぜなら「自由気ままに観想をめぐらすことは、それらにはもはやふさわしくない。それらは見る者を不安にする」★六からだ。
しかし、この不安は写真というメディアそのものが喚起する根源的な効果であって、写真に対してつねに切り離しがたく結びついているものではないだろうか。標題という読み取りのコードはこの不安を完全に鎮めることはできない。そこにおいて名指されるものは決して写真のすべてではない。なぜなら写真家は〈鳥占い師や腸卜師〉同様そこであくまで、〈まったく書かれなかったもの〉を読もうとするのだから。内臓や星座から〈非感性的な類似〉を読み取るそのような読み方こそが、すべての言語に先立つ最古の読み方なのだ、とベンヤミンは述べている★七。写真はいわば近代人に、すでに失われて久しいこの古代的あるいは原始的な読み取りの能力、〈模倣ミメーシスの能力〉のほとんど不可能な回復を強いるメディアなのである。
この根源的な不安と相関して都市写真には犯罪の痕跡が浮かび上がる。それはアジェの写真における、見る者を突き刺し傷つける小さな裂け目としての〈プンクトゥム〉(ロラン・バルト)である。だがここで何よりもまず、アジェの写真が犯行現場に見えるのは、それが犯罪行為の痕跡をあからさまに数多く示しているからではもちろんないのだ。都市という犯行現場の写真に実は、犯罪の痕跡は皆無である。読み取るべき何ものもそこに書かれてはいない、存在してはいない。だが、この痕跡の不在あるいは空虚という痕跡こそが写真と見る者との関係をあの〈不安〉に満ちた関係、欲望の関係に変えているのである。ジョーン・コプチェクの言葉を借りれば、「この欠如は私たちに犯罪行為を疑わせるのではなく、むしろそれこそが犯罪行為の印象の源泉なのであり、いい方をかえれば、サスペンスの証拠ではなく、証拠の宙づり状態(suspention)こそがこれらの写真において私たちをとらえるのだ」★八。〈プンクトゥム〉とは意味の読み取りを中断しにやってくる〈偶然〉であるとバルトはいう。それは意味を欠いた細部、空虚な記号であり、その細部を通してひとはある写真を愛することを始める。プンクトゥムとの遭遇とはいわば言語的な秩序に対する侵犯の経験である。写真を見る者の根源的な不安、あるいはアジェの都市写真に感じられる定かでない犯罪の気配とは、写真というメディアそれ自体に内在したこの侵犯性の効果ではなかっただろうか。都市は感光紙の表面に囚われることによってこの侵犯の暴力に晒され、それを通じて執拗な愛と欲望の対象に変容するのである。
このように、なるほど都市の街路上における犯罪は、写真を見る者の不安のなかに確かにその存在を感知させているのだが、しかし、そこに感じとられた犯罪行為は、この効果の原因ではなく、むしろあの定かでない不安によって事後的に生み出された虚構にほかならない。空虚な痕跡が遡行的にこの欲望の原因=対象を構成する。法を逸脱する何かがそこ、その街路上で起こったにちがいない。しかし、その侵犯の出来事の痕跡は何も存在せず、逆にいえば、事件は不在という形でのみそこに現前している。〈きれいにからっぽ〉な都市、〈テラン・ヴァーグ〉としての都市とは、起こらなかった出来事の痕跡、起こりえない事件の名残りとして、写真のうちに写しとられてしまった何ものかである。しかし、そのような写真都市の存在論的次元とはどのようなものなのか。写真という記号の何がこれほどまでの不安を生むのか。
C・S・パースの記号論が示すように、写真はイコン(類似記号)でもシンボル(象徴記号)でもなく、インデックス(指標記号)である。それは対象との間の見かけ上の類似性に依拠して記号となるのではないし、文化的コードの媒介によって象徴的に対象と関係づけられているのでもない。あらゆる写真は光によって感光紙上に残された物理的痕跡であり、砂の上の足跡のように──あるいはトリノの聖骸布のように──、対象と写真の間に存在するのは物質的な接触関係のみであって、そこに文化的コードの入り込む余地はない。固有名をインデックスと関係づけたパースにならえば、写真とはいわば時間と場所を特定された出来事の瞬間に与えられた固有名なのであって、その固有名を確定記述に置き換えることはできない。対象との類似は、写真が物理的に対象との一致を強いられるという条件から生まれた副次的な性質でしかない。インデックスにあってはむしろ、あらゆる形象の消失こそが、その記号と指示対象との直接的接触や真正性を保証するものになりうる★九。写真とはこのように、イコンの仮面をかぶったインデックスとして、つねに二重性において存在する奇怪な記号にほかならない。
写真のこのインデックス的性格ゆえに、写真を見るという経験は視覚的というよりも、はるかに触覚的なものとなる。「撮影されたものの肉体と私の視線とは、へその緒のようなもので結ばれている。光は触知できないものであるが、写真の場合、光はまさしく肉体的媒質であり、一種の皮膚であって、私は撮影された男や女とそれを共有するのである」★一〇。写真とは対象となる現実世界から剥ぎとられた〈光の皮膚〉である。物質としての光が凝固して、世界の表層から剥落したそのかけらが写真という皮膚なのだ。
この触覚的な物質性において、写真は想像的模倣でもコード化による象徴的表象でもない、現実の直接的な〈描出〉なのである。スラヴォイ・ジジェクはミシェル・シオンの映画音楽理論に由来する〈描出されたもの(rendu)〉という概念を、後期ラカン理論におけるシニフィアンの次元に還元できない前言説的な〈文字〉としての〈記号〉の概念に対応させている★一一。そして、そのような〈文字〉は象徴化しえない〈現実的なもの〉との連続性を保っており、それゆえ、象徴秩序に回収されない狂った享楽にいまだ浸透されたままである。イメージの個々の内容ではなく、記号としての性格そのものにおいて、写真とは原理的に読みえない〈文字〉であり、その物質性は目覚めた意識の流れを〈中断〉し、無意識へと直結してしまう。
だからこそ、バルトをはじめとする写真論が指摘しているように、写真とは本質的に危険きわまりないメディアなのだ。写真はあまりに明白かつ直接に、対象の存在を物質的に実証している。しかし、そのイメージがイメージたりうるのは、〈イメージ〉の定義に従えば、対象の不在においてである。〈それは・かつて・あった〉、しかし、〈それはそこにはない〉──事物の過去の無媒介的な保証と事物の不在のこの二重性にこそ、写真の〈狂気〉があるのだとバルトはいう。その二重性とはインデックス/イコンの二重性に対応し、また、その狂気とはいわば時間の錯乱である。写真とはその存在性格からしてアナクロニックなイメージの場なのだ。〈それは・かつて・あった〉という過去の現前。写真を見る者は、過去を現在として、不在を現前として経験する。写真というメディアを通じて都市はアナクロニー化される。写真都市の街路上に残された、ありえなかった犯罪の痕跡はそんなアナクロニズムの産物である。
一九二〇─三〇年代に写真による都市表象を支配したフォトモンタージュとは、写真のこの根源的なアナクロニズムに対する抵抗であり、写真という狂気を回避する技法にほかならなかった。フォトモンタージュは個別のイメージを単語に似た要素として並置し、一定の統辞法によって支配する。現実の再現=表象は分断され、その間隔によって孤立している。この〈間隔化〉は写真のイメージが固有に持つ〈同時的現前性〉を破壊する、とロザリンド・クラウスはいう。「何故ならそれ[フォトモンタージュ]は物事を、相次いでにせよ、互いの外部となって──個別の細胞に収まって──にせよ、順次的に示すからだ。間隔化こそが(…中略…)われわれは、現実を見ているのではなく、解釈や意味作用の群がる世界、すなわち、記号の形式的前提条件である隙間あるいは余白によって膨張した現実を見ているのだということを、明確にするのである」★一二。つまり、フォトモンタージュとは徹底して意味を欠いた写真という記号に文化的コードを導入する技法にほかならない。ダダをはじめとするアヴァンギャルドたちのこの技法は、大都市を前提条件として生まれ、大都市のショック経験をイメージとして表現しようとしたが、それは同時に大都市を読み解くコードを提供するものでもあったのだ。それゆえに、フォトモンタージュによって喧伝された都市イデオロギーはやがて、モダニズム建築におけるユートピア的都市計画へと収斂していくのである。
シュルレアリストたちが都市に見ていたもの、都市を通じて表現しようとした対象は、それとはまったく異なっていた。彼らがフォトモンタージュを好まなかった点にもそのことは表われている。シュルレアリストたちが着目したのは、写真固有の記号的条件によってあらわにされた、都市そのものの欲望の次元である。近代の都市はもはや、ルネサンス的な遠近法による理想都市の描写やパノラマ画の三六〇度の眺望によって想像的模像としてその全体が把握される対象ではなく、前近代的都市のように中心と周縁の象徴的秩序に従って明確に分割された空間でもない。フォトモンタージュによって示されていたような未来志向的な都市の読解コードによる表現をも含めて、近代都市の深層はイコンによってもシンボルによっても表象されえないのだ。インデックスとしての写真が近代における都市表象の特権的なメディアとなる理由はここにある。
シュルレアリスムの写真はフォトモンタージュのように現実のイメージを断片化したうえで再構成し、意味づけるのではない。それは現実の断片を切り取るフレーミングという行為それ自体によって、現実の情景そのものを再現=表象、つまり記号として示す[図3]。「写真的切り取りは常に現実という切れ目のない組織における裂開として体験される。しかしシュルレアリスムの写真はこのフレームに莫大な圧力を加え、それ自体をひとつの記号として読み取らせる──確かにそれは空虚な記号だが、意味の微積分法における一個の整数、すなわち、意味作用のシニフィアンなのである」(ロザリンド・クラウス)★一三。〈再現=表象としての現実の体験〉がシュルレアリスムの美学の核心である点をクラウスは指摘しているが、それは写真というメディアのもたらす効果として一般化できるだろう。シュルレアリスムの超現実が〈一種のエクリチュールへと痙攣した自然〉であるとしたら、カメラこそは芸術家という主体抜きに作動して、この読み取り不可能な空虚なエクリチュール(それはシニフィアンというよりも解読不能な文字だ)を記録してしまう自動書記のメディアにほかならない。そして、カメラ・フレームの裂開によって生じたこの裂け目においてはじめて、近代都市は欲望に〈痙攣した〉分身の相貌を浮かび上がらせるのである。
〈痙攣した現実〉、つまり読みえないエクリチュールである写真都市との遭遇はこのようにして、不安と驚きにとらわれる〈中断〉と茫然の瞬間であるはずなのだ。かつて書かれたことのない事柄、起こりえなかった出来事を読み取ろうとする都市写真分析という行為はしたがって、逆説的で不可能な試みなのだが、私たちはこの分析において読み取られることを拒絶するもの、意味への回収に逆らう空虚、あるいはインデックス的記号の持つ物質性の摩擦と抵抗を通じて、ネガティヴな形で写真都市の存在性格を輪郭づけられるかもしれない。読み取りを妨げもするこれらの障害こそが、都市とその分身との狭間に位置するあの不透明な空間の所在を示す徴である。そして、都市を撮影する写真家という主体の位置に固有性が認められるとしたら、それは彼らがこの危険な空間に絶えず反復的に身体を晒しているという点にこそあるだろう。

1──デヴィッド・プローデン《フェリーボート・エリス・アイランド》(1971年以前)

1──デヴィッド・プローデン《フェリーボート・エリス・アイランド》(1971年以前)

2──ユジェーヌ・アジェ《セーヌ街の街角》(1924年頃)

2──ユジェーヌ・アジェ《セーヌ街の街角》(1924年頃)

3──マン・レイ、トリスタン・ツァラ『ある趣味のオートマティスムについて』のための挿図、『ミノトール』誌、1933年

3──マン・レイ、トリスタン・ツァラ『ある趣味のオートマティスムについて』のための挿図、『ミノトール』誌、1933年

2 『東京写真』── 都市・東京の〈死後の生〉

『東京写真』[図4]はとらえどころのない〈生きもの〉である東京という都市を、さまざまな写真家たちの写真によって表そうとした写真集である。飯沢耕太郎はそこに桑原甲子雄から長島有里枝にいたる一〇人の写真家たちを選び出している。すでに述べてきた私たちの関心からして、ホームレスの人々の仮設の住居を撮影した宮本隆司の《ダンボールの家》や、東京に住む若者の居室のインテリアを蒐集した都築響一の『Tokyo Style』といった、あまりにも豊かな読みを誘発する写真は、さしあたって写真都市の存在論とは無縁である。例えば飯沢が指摘するように、「宮本の写真は常に〈資料〉としての読みとりを見る者に強いるところがある」★一四。なるほど確かにその〈資料〉としての価値は認められるとしても、そしてそれが建築を廃墟や瓦礫、塵芥の側から照射する独特な視線に貫かれたものではあっても、宮本の《ダンボールの家》は、建築雑誌を埋め尽くす制度的にコード化された〈建築写真〉の範疇に実は、不具合なく収まってしまうものではないだろうか。文化的なコードによる読み取りを〈強いる〉点では、都築の写真集も同様であろう。
この『東京写真』そのものが、飯沢が東京論という文脈において個々の写真を読み取ろうとした書物であり、いずれの写真も多かれ少なかれそのための〈資料〉となってしまっている点は否定できない。むしろ注目すべきなのは、飯沢のその読解が滞り、停止してしまう場面だ。例えばそれは飯沢が倉田精二の『80's Family』[図5]の〈恐さ〉について語る瞬間である。飯沢はそれを写真という装置そのもの、写真の〈形式〉固有の〈恐さ〉であるという。
倉田のこの写真集で撮影されている対象はごくありふれた新宿や渋谷の真昼の街頭風景にすぎない。しかし、そこには見慣れた街の眺めや、何気なく行き過ぎる通行人が、不意に咀嚼できない異物と化してしまうような〈恐さ〉がある、と飯沢はいう。『80's Family』に収められた写真の多くは、容易に一定の〈意味〉には結びついていかないのである。
「『80's Family』では、画面は中心性を失って混乱しているように見える。視覚的な要素がほぼ等価に、フレームの中に散りばめられているのだ。(…中略…)倉田の写真に写っている人間たちは、皆やりかけの動作を中断したような曖昧な姿をしている。それはアンリ・カルティエ=ブレッソンの〈決定的瞬間〉のような、調和のとれたバランス感覚を決定的に欠いている。見る者の視線ははぐらかされ、散乱し、雑多な要素によって引き裂かれる。それは〈落ち着かせない〉写真である。〈意味〉に安住することを許さず、見る者の位置を常に不安定にし、宙吊りにしてしまう」★一五。
倉田のこれらの写真において、ピントは画面の隅々まできちんと合っており、見かけ上の曖昧さはそこにはまったくない。イメージがよく見えないのではなく、細部まであまりに明瞭に見えすぎるために風景が異物と化してしまうのである。この〈転倒〉を飯沢は写真という装置にまとわりつく〈最も根源的なアポリア〉と呼ぶ。そして、撮影対象と写真との間に存在する不可避的な〈裂け目〉、現実と写真イメージを分け隔てる微妙な〈薄膜〉こそが、その転倒の源泉であるという。見かけは現実の光景とまったく同じであるのに、〈変装が巧みな犯人のように〉、そのイメージの内実はすり替えられている。この〈ずれ〉は、すでに指摘した写真という記号の二重性、イコンに偽装したインデックスという性格に対応するものといってよいだろう。
飯沢は倉田を〈モダニストの系譜の極北に位置する写真家〉としている。フレームによる現実の切断と、そこに生まれる写真固有の〈驚異〉── シュルレアリストたちが魅せられたもの──を追求した二〇世紀初頭の近代写真の表現を継承しつつ、倉田はその〈驚異〉を剥き出しのまま投げ出している。倉田のこの〈暴力的〉な写真の無意味さ=反・意味性を正確に指摘しながら、しかし、飯沢は写真集タイトルの「Family」という言葉を手がかりに、八〇年代の東京における家族の虚構化(ファミリーレストランに集う擬似家族)を物語ることを結論として選択してしまう。だが、そこで飯沢が依拠している倉田の文章はまさに次のように述べていた。「自ら言葉を呼び寄せられない私の写真作業は、言うまでもなく疾走でも逃走でもない、むしろわけの分からない焦燥とノイズ付きスローモーションのライブでした」★一六。
失語状態で立ちつくしてしまっている倉田のこの身体は果たして、飯沢がいうような〈「写真システム」を熟知して使いこなしている〉表現者のそれだろうか。あるいはまた、写真の〈驚異〉を無造作に投げ出している倉田の身ぶりは、八〇年代の東京に関する正確な〈現実認識〉を写真作品に反映させている意識的な表現主体のそれだろうか。あくまで写真を写真家の〈表現〉ととらえる飯沢の前提や、その東京をめぐる言説が倉田の写真を十分に咀嚼できず、機能不全に陥り、滑らかに展開しなくなるこの点にこそ、写真都市の存在がネガティヴに刻印されている。倉田という写真家において際だっているのは、現実と写真との〈ずれ〉がもたらす衝撃に操作を加えてひとつの物語や写真の美学へと回収してしまうのではなく、写真のこの記号的特性を隅々まで曇りなく、可能な限り裸形で示そうとしている点だろう。何も隠されてはいない。しかし、私たちは何も、そのイメージの核心にあるものについてはほとんど何も語ることはできない。《御徒町 Tokyo 1985》《渋谷 Tokyo 1984》などと題された個々の写真は、それが撮影された場所や時代について多くを語る豊かな〈資料〉ではない。むしろそれは、〈ここがその場所だ、これを見よ〉という、現実と写真の裂け目にまなざしを強いて向けさせる、威圧的、暴力的な命令文なのである。一九九一年に発表されたこの写真集は、シンボル的記号をめぐる記号論が都市(東京)の読解を支配した日本の八〇年代を対象としつつ、写真というインデックス的記号との無媒介的な遭遇にあくまで固執している点において、きわめて反時代的なものだ。倉田に正確な〈現実認識〉があるとすれば、それは写真という記号をめぐる認識にほかならないだろう。
倉田が写真の記号論的な特性の純化へと向かったとするならば、その物質性に目を向けている者の一人が森山大道である。飯沢は〈網目の世界〉という概念を手がかりに森山の写真を分析している。〈網目の世界〉とは一九七七年に森山が開催した個展「東京・網目の世界」に由来し、〈網目〉は新聞・雑誌において写真図版に用いられる網目版ハーフトーン印刷をさす。網目版印刷によって可能になった写真イメージの大量増殖と、それによって形成された〈映像環境〉が、写真と現実の関係性をめぐる森山の認識を規定している、と飯沢は見る。森山の写真には、都市の表層を被う印刷物のイメージが現実そのものと等価な存在として登場する。さらに近作の『Daido hysteric no.4』[図6]では、同じパターンを繰り返すビルの外壁や窓の連なりといった現実の風景そのものが〈網目の世界〉めいた虚像として現われてくる。
しかし、このように〈網目の世界〉を〈映像環境〉といいかえることで逆に見えにくくなってしまうのは、森山の写真における自己言及的な構造である。映像と現実が入り交じり、シミュレーションとシミュラクルが都市体験を形成する、といった情報環境論もどきではなく、〈網目〉という写真イメージ存立のための物質的条件こそがここでの問題であるはずなのだ。「アレ、ブレ、ボケ」という森山の技法がすでに、イコン的類似という仮面ではなく、写真そのものの物質性へとまなざしを引きつけるための手段ではなかっただろうか。粒子が粗く、コントラストの強調された森山の写真は、光を凝固させた写真という物体表面に、ざらついた手触りの錯覚をもたらそうとする。そして、エロティックでさえあるこの触感は、「東京・網目の世界」という個展の名が示すように、東京という都市と密接な結びつきを持つように思われる。
森山の一九八二年の写真集『光と影』を論じたエッセイのなかで鈴木了二は、二次平面を基礎とする表現手段のうちで写真は、文字どおりのテクスチュア(肌触り)においてもっとも貧困な手段であることを指摘したうえで、この不可能性を逆転した独特なテクスチュアが森山のこの写真集には存在している、と述べた。鈴木がジャクソン・ポロックの絵画にたとえるそれらの写真においては、光の微粒子がオール・オーヴァーに画面を埋め尽くしている。そこでは圧倒的に過剰な光が影のなかへと逃げ込んでいるように見える、と鈴木は書く。そして、この〈光の避難所〉こそ、現代における都市のテクスチュアにほかならない。それは「〈ツルツルの新品文化〉によってまさに〈オール・オーヴァー〉に覆い尽くされようとしている都市の表面で、路頭に迷ったおびただしい光たちが立籠る最後の砦」なのである★一七。
それが殊更に〈現代〉のものであるのは、現代都市のテクスチュアとは〈「風化」によって生ずる表面欠損〉でしかありえないからだ。〈風化〉あるいは劣化以外にテクスチュアが発生する余地は現代の都市にはもはやほとんど残されていない。都市の風景を支配するにいたったパターン化された〈既製品〉は、つねに初めから完成品として都市に投げ込まれるのである以上、かつての都市におけるような創造と破壊と再生とがダイナミックに入り組んだ運動はそこにはなく、一方向的に進行する劣化の過程しかありえない。森山の写真のテクスチュアはこの都市の風化を写し出すとともに、先取りする。
「暗室の中の肉眼が都市の〈風化〉を先取りする。スカイライン、建物、街路、鉄道、機械、生活用品といった人工物はもとより、植物、動物、はては空や海にいたるまで、無差別に〈風化〉を見る。認識のためのもうひとつの時間が閉じ込められた暗室で、絶対的過去形としてのフィルムが、印画紙の上に未来形となって定着される。この未来は、われわれの前方にチラチラと提示される曖昧なイメージではない。鮮明な未来はいつも背後からやってくる」★一八。
このアナクロニズムの効果は写真一般に内在する可能性である。感光紙の上において都市はつねにすでに朽ち果てた廃墟と化している。写真というメディアはその誕生以来、衰退し凋落していくものへと多大な関心を寄せてきた。ヴォルフガング・ケンプはそれが一七世紀以降のピトレスク(ピクチャレスク)の伝統という、西洋絵画特有の感受性に連なるものである点を指摘している★一九。だが、アジェによる古木の樹皮の写真やブラッサイが撮影した陋屋の壁面[図7]、その他数限りない〈風化〉していく事物表面の接写写真は、カメラという装置そのものの根源的な欲望、物体としての写真には決定的に欠けているざらざらした粗い触感への執拗な欲望を告白しているように思われる。光の皮膚は文字どおりの肌理きめを求めている。アジェが都市写真にとどめようとしたものもまた、パリの街路の肌理ではなかっただろうか。表面でしかありえない写真が表面欠損を欲望する。あるいはそれが求めているのは、人間の皮膚に感触を与えない光という存在そのもののテクスチュアを無限に強化し、光の肌理との物理的な接触という不可能な出会いを組織することだろうか。いずれにしても写真はここで自らの物質的条件に自己言及しているのであり、九〇年代の森山の写真もまた、この自己言及性を通じてこそ、風化のただなかにある都市・東京のテクスチュアを記録していたのである。
『東京写真』の写真家たちのなかで、倉田や森山が写真への絶対的な忠誠とその記号的な特性の純化を通じて、写真都市・東京を現出させていたとすれば、写真イメージの背後に写真家の身体を浮かび上がらせることによって、その写真都市にアウラを与えているのが牛腸茂雄である。『東京写真』には牛腸の生前最後の写真集『見慣れた街の中で』から、いくつかの写真が収められている。倉田の写真の過激なまでの無意味さや、森山による写真の物質性への執拗な問いかけはここにはないが、牛腸のこれらの写真は、写真家自らが被写体となった荒木経惟や長島有里枝のものよりもはるかに、写真家その人の身体の存在を濃密に感じさせている。飯沢が指摘している、牛腸の肉体的ハンディからくるロー・アングルの構図ばかりがその理由なのではない。すでに形を失った牛腸の不在の身体が、その不在ゆえに存在感を強めているということだけでもない。牛腸の写真には世界を前にした絶対的な距離が写し込まれており、その距離が写真家の存在を逆に際だたせているのである。
写真の基本をなす構造とはいうまでもなく窃視である。世界の局外に位置して、誰からも見られることなく世界を見ること。現実に肉体を駆使して撮影をおこなう人間にそんな視線の実現は不可能であり、まして牛腸にとって困難は大きかっただろう。にもかかわらず、ここに撮影された七〇年代末から八〇年代にかけての東京・横浜の風景は、世界の果てに位置する写真家の身体と、写されたイメージとの間の絶対的な距離を感じさせている。絶対的に遠い視線──それは死者のそれでもあろうか。ごく日常的な路上風景を撮影した『見慣れた街の中で』のスナップショットのカラー写真には、この〈遠さ〉において〈アウラ〉がある。ベンヤミンによれば〈アウラ〉とは〈どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているもの〉である。奇妙なことだが、牛腸の写真に見出されるのは〈見慣れた街〉の〈日常〉のアウラなのである。牛腸はその序文で、「われわれ一人一人の足下からひたひたとはじまっている、この見慣れた街。逃れようにもまとわりついてくる日常という触手」と書く★二〇。日常は圧倒的な〈近さ〉のうちにあり、あるいはこの〈近さ〉こそが日常なのだ、といってもよい。牛腸の写真においては、この〈近さ〉が絶対的な〈遠さ〉の表情を帯びている。
なるほどベンヤミンは写真をはじめとする複製技術によるアウラの凋落について語った。しかし、ほかの場所で明らかにしたように★二一、アウラがこの凋落過程においてしか現われない、あらかじめ失われた対象である限り、それは執拗に復活・回帰する。そして、今村仁司が指摘する通り★二二、〈身近さのなかの遥かな遠さ〉というアウラの定義は、「もっとも身近なものがもっとも疎遠なものに感じられる」というフロイトによる〈無気味なもの〉の定義と等しく、存在論的概念としてとらえたとき、アウラとは〈倦怠としての憂鬱の情緒〉にほかならない。牛腸が次のように述べるとき、彼は日常のなかのそんな情緒について語っていたのではなかっただろうか。「そのような拡散された日常の表層の背後に、時として、人間存在の不可解な影のよぎりをひきずる。その〈かげり〉は、言葉の襞にからまり、漠とした拡がりの中空に堆積し、謎解きの解答保留のまま、この日常という不透明な渦の中で増殖しつづける生き物のようでもある」★二三。
牛腸の写真には不透明な日常のなかの倦怠/憂鬱がもつ〈かげり〉としてのアウラが立ち現われている。倉田のそれのように暴力的な衝撃を与えるものではなくとも、そこには意識の狭間をすり抜けて、情動の奥底に達する何ものかが潜んでいる。この写真家はそのとき、いつの間にか都市の死相を写し取ってしまっている。
写真とは連続的な現実から切断され、アナクロニックに現在時へと引用された硬直した静止状態の瞬間であり、写真家の身ぶりはそこで、ベンヤミンが述べるような寓意家のそれに似ている。「対象が憂鬱のまなざしのもとで寓意的なものと化し、憂鬱が対象の内部の生を排出させて、それが死物と化しながら、しかし永遠性を保証されたものとしてあとに残るとき、この対象は無条件に寓意家の手に引き渡されて、その目の前に横たわっている。ということは、つまり、対象はもはや、ひとつの意味、ひとつの意義を自分から発散することはまったくできないのである」★二四。
それ自体としては何も意味しない〈文字〉としての寓意──写真とは近代における寓意である。牛腸の写真の背後に感じられる写真家のまなざしは、うつろっていく都市の〈かげり〉に向けられた、〈哀しみ〉を伴った寓意家のそれである。カラー写真という雑然とした印象を与える媒体と不安定な構図を持つこれらの写真は、それが形式的完成からほど遠いからこそ、まさにその断片的で引き裂かれた印象ゆえに、都市の寓意となっている。〈見慣れた街〉の大気の色合いと影、子供たちの衣服や看板の鮮やかな赤、空の青、すべてはなぜこれほどまでに哀しいのか。見ることの快楽からはほど遠く、愚かなまでに繰り返し凝視を誘う〈哀しみ〉の磁力が、牛腸のこれらの写真にはある。
感光紙の上で都市は死物と化す。倉田や森山、牛腸の写真において私たちをとらえるのは、都市のそんな死の表情にほかならない。写真家たちは都市を撮影することによって、ある一瞬の光景に写真という固有名を与え、それによってその光景は単独な存在として固有の〈死後の生〉を生きることになるのだ。死物と化したこの都市、この〈テラン・ヴァーグ〉は無気味であり、狂気をはらんだ場所であるかもしれない。だが、私たちはもはやこの写真都市というアナクロニックなイメージの場から逃れることはできない。この寓意的文字を前にして私たちは、もう「都市を読む」ための余裕などまったく無くし、不安に満たされ、ただ茫然と硬直状態でたたずむしかない。愚かな凝視を続けるしかないのである。
(たなか  じゅん/ドイツ研究・表象文化論)

4──『東京写真』表紙

4──『東京写真』表紙

5──倉田精二『80's Family』(1991年)から《御徒町 TOKYO 1985》

5──倉田精二『80's Family』(1991年)から《御徒町 TOKYO 1985》

6──森山大道『Daido hysteric no.4』(1993年)から

6──森山大道『Daido hysteric no.4』(1993年)から

7──ブラッサイ、〈グラフィティ〉シリーズから《家屋の壁》(1932年以後)

7──ブラッサイ、〈グラフィティ〉シリーズから《家屋の壁》(1932年以後)

★一──飯沢耕太郎編『東京写真』(INAX出版、一九九五年)、一五頁。
★二──伊藤俊治『二〇世紀写真史』(ちくま学芸文庫、一九九二年)、八四頁。
★三──Ignasi de Sol・Morales Rubi・ "Terrain Vague". In: Cynthia C. Davidson (ed.): Anyplace. Anyone Corporation, New York 1995, p.120.[磯崎新+浅田彰監修『Anyplace』(NTT出版、一九九六年)、一三〇頁]。
★四──『写真小史』より。Walter Benjamin: Gesammelte Schriften, hrsg. von Rolf Tiedemann und Hermann Schweppenhäuser. Bd.II, Frankfurt a.M. 1972, S.379.
★五──ibid., S.385.
★六──『複製技術の時代の芸術作品』より。ibid., Bd.I, S.485.
★七──『模倣の能力について』より。ibid., Bd.II, S.213.
★八──Joan Copjec: Read My Desire. Lacan against the Historicists. The MIT Press, Cambridge, Mass. 1994,  p.101.
★九──次を参照。Georges Didi-Huberman "The Index of the Absent Wound (Monograph on a Stain)". In: Annette Michelson et al. (ed.): October. The First Decade. The MIT Press, Cambridge, Mass. 1988,  pp.43-44. ディディ=ユーベルマンはここでトリノの聖骸布をめぐり、インデックス的記号の真正性について考察している。
★一〇──ロラン・バルト、花輪光訳『明るい部屋──写真についての覚書』(みすず書房、一九八五年)、一〇〇頁。
★一一──スラヴォイ・ジジェク、鈴木晶訳『斜めから見る──大衆文化を通してラカン理論へ』(青土社、一九九五年)、八二─八三頁。
★一二──ロザリンド・クラウス、小西信之訳『オリジナリティと反復』(リブロポート、一九九四年)、八七頁。
★一三──同、九三頁。
★一四──飯沢、前掲書、一八八頁。
★一五──同、一四〇頁。
★一六──同、一四二頁の飯沢による引用から。
★一七──鈴木了二『非建築的考察』(筑摩書房、一九八八年)、四七─四八頁。
★一八──同、四九頁。
★一九──Wolfgang Kemp: "Bilder der Verfalls: Die Fotografie in der Tradition des Pittoresken". In: ders.: Foto-Essays zur Geschichte und Theorie der Fotografie. München 1978, S.102-143.
★二〇──飯沢、前掲書、九三頁の引用から。
★二一──拙著『残像のなかの建築 モダニズムの〈終わり〉に』(未來社、一九九五年)、二九─三五頁。
★二二──今村仁司『ベンヤミンの〈問い〉──「目覚め」の歴史哲学』(講談社選書メチエ、一九九五年)、二九頁。
★二三──註二〇を参照。
★二四──『ドイツ哀悼劇の根源』より。Benjamin, op.cit., Bd.I, S.359.o

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.06

特集=サイバーアーキテクチャー

>伊藤俊治(イトウ・トシハル)

1953年 -
美術史。多摩美術大学教授。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>都築響一(ツヅキ・キョウイチ)

1956年 -
写真家、編集者。

>TOKYO STYLE

2003年

>鈴木了二(スズキ・リョウジ)

1944年 -
建築家。早稲田大学教授(芸術学校校長)。鈴木了二建築計画事務所主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。