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記号を解読しないということ──藤沢周『境界』の都市像 | 陣野俊史
A Non-Critique of Iconology: The Image of a City in Fujisawa Syu's Kyokai | Toshifumi Jinno
掲載『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築, 1998年08月10日発行) pp.35-36

小説家は都市をどのように知覚しているだろうか。とりあえずいま、現代日本で書かれつつある小説を念頭に置くとき、小説家の知覚が都市を把握する方向を意識しているとはとても思えない。ひとつには彼らが描写することを忌避しているようにも見えるからである。小説は、描写を旨として書かれていない。たしかに強度を備えた若い小説家はいる。
例えば町田康、例えば阿部和重。
だが町田の「人間の屑」の面白さは徹底して語りに宿っているのであり、阿部の『インディヴィジュアル・プロジェクション』や「トライアングルズ」の卓越は、仕掛けの重層性に存している。
あるいは角田光代、あるいは赤坂真理。
角田の変態的な主題展開は、いわゆる電波系の応答可能性の具体的な実践だし、赤坂の『蝶の皮膚の下』はドラッグとボクシングによって言語中枢の能力が欠損していくプロセスを、理知によって語った特別な小説である。
たしかに各小説家には強度がある。
だが強度は各人にひとつしかない。
これは逆に言えば、一点突破のかたちで小説家たちが小説を書いているということを意味する。あるいはこうも言えるだろう。会話や描写や物語構築に必要とされる個人的な能力が、撒種され複数の人間の裡にバラバラに点在しているのだ、と。古典的とも言える小説を書く能力はそれらをトータルに実現する能力だったはずなのだが、それが細分化し、一つひとつの美点を伸張するかたちで、小説家は小説を書いているのだ。
これはこれで仕方のない事態かもしれない。別に文句を言うつもりもない。
だが片肺飛行のような小説の書法は、それでもやはり貧弱だと昂然と言い放つような小説があってもいいし、なければならないとも思う。そして唐突に、次のように私は思うのだが、藤沢周の近作『境界』はそんな高飛車な小説である。そこには小説が本来有していた諸要素が、過不足なく書き込まれている。もちろん描写も十二分に実践されている。いったい藤沢周という小説家は、いまどき珍しい描写の小説家としてスタートしたと私は考えている。彼は描写を軸に据えていろいろな小説のファクターを肉付けしながら、小説家としての幅を身につけてきたのだったが、とりあえずここではそうした経緯は措いておこう。
ことは描写、である。そして藤沢の『境界』に描写された都市の風景は、現代文学と都市の関係性を特徴的に(それこそ)描き出している。
『境界』の冒頭は、とりわけ印象的だ。主人公の保険会社員は、山手線に乗っている。内回りと呼ばれる電車で、新宿から渋谷、品川方面へ向けて走る。だがのっけから精神病の兆候が表われているのは、「同じ車両の中に知っている人間が五人居合わせて」いる、と主人公に見えるからだ。

同じ車両の中に知っている人間が五人居合わせるというのはどういうことだろう。私は工事現場の鉄板の壁が消えた車窓の向こうを眺めながら思ってみる。乾ききった土の上に雨が降った時のような、淫らな匂いがする。台形のマンションの後ろに運輸会社の倉庫、その横には大きなホテルが控え、さらにその向こうのビルの間を首都高速が低く見える。山手線はゆっくり左にカーブして、線路沿いに並べられた汚れた看板を車窓によぎらせた。


ただここで精神分裂の兆候のように見える、同一車両に五人の知り合いがいるという認識を云々しても、おそらくは藤沢の特質に届かないだろう。彼の特徴はあくまでも描写に柱がある。しかし「工事現場の鉄板の壁」「台形のマンション」「運輸会社の倉庫」「大きなホテル」「首都高速」といった景物は特筆すべきものでも何でもない。見えるものが単に並べて書いてあるだけだ。いかにも無造作である。だが、この無造作さ加減はじつはとても藤沢にとって特徴的なことである。
主人公は五人もの知り合いが自分が乗った車両にいるのはなぜかと「車窓の向こうを眺めながら思ってみる」、と途端に、ある「淫らな匂い」がしてくる。この匂いはどこから漂ってきたのか。車両の中なのか、外の景色から誘発されたものなのか。単純化していえば、内なのか外なのか、それともそんな一切の問いを無効にする、そう、この匂い自体が妄想なのだろうか……だがそうした内と外という二分法を破産させるために、この匂いはある。つまりこの「淫らな匂い」によって車両内と車両外の区分、もっと言えば、主人公の内面と外部といった理解しやすい図式性が廃棄されたのである。だから藤沢の描く景物の描写には、作者や主人公の内面の匂い、がしない。景物はそこにただ放置されているだけであり、けっして内面をリフレクトしたりしていない。この描写の無作為性は、藤沢の小説を特徴づけているのだ。
そう考えるとき、同じ『境界』の中の次のような描写は、藤沢周にしては珍しく(?)景物と主人公の応答を切り取っているかに見える。

私は一度深呼吸してから車窓に流れる恵比寿の風景を眺める。黒いビルに巨大な赤い球がめり込んだ建物を見て、お疲れさんと胸の中で呟いた。バブルの頃の設計デザインが窒息するくらいに滑稽に感じる。


ここで恵比寿の車窓に流れている「黒いビルに巨大な赤い球がめり込んだ建物」はフィクションではない。駅ビルに吸い込まれるように恵比寿駅に入線した電車は、解き放たれるように明るみの中に出ていくのだが、唐突に右手側にそれは現われる。目黒と恵比寿のちょうど真ん中あたり。日の丸自動車教習所といういかめしい名さえ持っている実在の建物だ。『境界』の主人公ならずとも、巨大な赤い球がグロテスクにビルから産まれている様子には、ある感情を覚えずにはいられない。たとえそれが驚愕であれ諦念であれ。だがここで注意しておきたいのは、『境界』の主人公が、黒いビルに巨大な赤い球がめり込んでいると判断し、その滑稽さの根源をバブルに求めていることだ。
キッチュでグロテスクな赤い球と黒いビルの接合する風景の原因をバブルの狂騒に求めることは、ある意味でとても凡庸なのだが、とりあえずいまは関係ない(そして藤沢の小説のある部分はそうした凡庸さと紙一重のところで勝負している)。ここで私が驚くのは、藤沢の小説に見られる、記号的解読のなさ、である。つまり日の丸という固有名がある以上、それが落日を意味するわけはなく巨大な赤い球は黒いビルから産まれ出ようとしている、と読むのが通例であるのに、藤沢はあろうことか「めり込んだ」と見ているのであり、このことは単に視点が逆であるという以上に、藤沢周という小説家の都市に対する感覚を正確に特徴づけている。
すなわち、藤沢は都市を読もうとしていない。景色や景物についてまわる記号的表現をいっさい解読しない。そしてこのことは画期的なことだ。なぜこんな名前がついているのか、なぜそんな建築様式になっているのか、藤沢は考えない。考えず、見えるものを呈示するだけなのだ。ダイエットコークやフェラガモの靴やナイキのTシャツは、都市の景観と相似して、小説の中に堂々と、だが名前としてのみ書き込まれている。そのことが何かを意図的に演出したり、記号として所有者を表象したりすることはない。そうしたコード化がズレて壊され、関係に狂いが生じたとき、解読されざる記号の氾濫を泳ぐように、藤沢周の小説は書かれているのである。

>陣野俊史(ジンノトシフミ)

1961年生
明治大学・東京工業大学非常勤講師。フランス文学・思想/現代文化論。

>『10+1』 No.14

特集=現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築