1 ゲルハルト・リヒター《アトラス》
ゲルハルト・リヒターの《アトラス》は、現在五千枚を越す写真や図版を収めた六〇〇を越えるパネルからなる作品である。その制作は一九六〇年代初頭から延々と続けられており、規模を拡大するとともに、展示形態も変容している。旧東独に生まれたリヒターは、一九六一年、西独のデュッセルドルフに移住した。フォトペインティングの素材として蒐集した写真をパネルに配列する作業が開始されたのは一九六四年頃からと思われる。その八年後の一九七二年にユトレヒト現代美術館で三四三枚のパネルからなる展覧会が開催された。こののち七〇年代に数回の展示がなされているが、《アトラス》の展示が相次ぐのは一九九〇年代を迎えてからのことである。展覧会ごとに展示パネルの差し替えがおこなわれた時期を経て、一九九七年のドクメンタXでついにすべてのパネルが展示された。そのモティーフは多岐に渡り、著名人のポートレイトや強制収容所、アドルフ・ヒトラー、あるいはテロリスト集団バーダー=マインホフ・グループのシリーズが含まれる一方で、風景写真や家族のスナップショットをはじめとする自作の写真もあり、メディアも必ずしも写真だけには限定されていない。このようにモティーフは雑多であるものの、それぞれの主題のもと、ひとつのパネル内部では写真・図版がきわめて整然と配置され、内容的・形式的な統一がはかられている。しかし、《アトラス》という作品を全体として見たときに、「
それはたしかにひとつのアーカイヴではあっても、例えば水道塔をはじめとする特定のモティーフを追って写真に記録するベルント/ヒラ・ベッヒャー夫妻のアプローチとは異なり、主題となる対象の徹底した考古学的探査を思わせるものではない。毛沢東など、著名人の写真の複製を用いた七〇年代のパネルから、自分で撮影した一連の風景写真を中心とする方向へと、明らかに主題の変化が認められる。ただし、パネル展示はこの時系列的な変化を読み取らせることを意図したと思われるほどに厳密なものでもない。その結果として、個々の写真・図版、それらを配置した一枚のパネル、さらに複数のパネルが展示会場の空間との関係から形成するシークエンスといった異なるレベルにおける解釈が、一定の意味の読みとりには収斂してゆかないのである。「
ブクローは《アトラス》初期の写真が与える印象をめぐって、それらは「あたかも、永久にあとに残して去ってゆく過去の記念とするため、東独からのリヒターの移住直前に家族のアルバムから剥ぎ取られたものであるかのように」、「あるいはあたかも、愛する人々と別れた若い芸術家を慰めるために、東側の親戚から彼のもとに送り届けられたものであるかのように」見える★二、と述べている。リヒターがデュッセルドルフに移ったのが、ベルリンの壁が築かれた年であり、これ以後、東西ドイツ間の行き来がきわめて困難になったこと、さらにそれがリヒターがプロの画家として活動を始めた時期にもあたっていたことを考えれば、《アトラス》制作の動機に「記憶の外傷的喪失を回避しようとする欲望」★三を見るブクローの解釈は或る程度の妥当性をもつように思われる。
《アトラス》が背景とする「記憶の危機」は、東独からの移住者というリヒターの個人史だけではなく、ブクローも指摘するように、戦後ドイツの文化ないし近代の文化そのものが内在化させている、過去との連続性の絶え間ない解体に基づくものと言えるかもしれぬ。ブクローは「アトラス」という名を手がかりに、美術史家アビ・ヴァールブルクが一九二〇年代後半に構想したヨーロッパ文化の図像記憶のアトラス《ムネモシュネ》における写真の使用方法、あるいはヴァルター・ベンヤミンの写真論などを参照しながら、リヒターの《アトラス》が写真に対する二〇年代の或る種の「メディア・オプティミズム」とは異質なモデルに則っていることを明らかにしようとしている。ヴァールブルクやベンヤミンの「メディア・オプティミズム」を語るその議論は拙速な粗雑さを免れていないように見えるが、その当否を云々することはここでの本題ではない。リヒターの《アトラス》がダダやロシア構成主義といった二〇年代アヴァンギャルドのフォトモンタージュの手法を採用していないことはブクローが述べる通りであろう。そして、この《アトラス》における写真の機能とはなるほど、次のように指摘されるものであると言ってよいのだろう。
一九二〇年代の政治的に決定づけられたメディアとは対照的に、基礎的写真技能の獲得はいまや、アイデンティティの代用物を提供する付属的な市場の基盤を提供した。アマチュアとフォトジャーナリストによる写真からなるリヒターの無秩序なアーカイヴにおける選択と構成は、写真制作のこうした粗雑さ、そして、手作業の伝統と写真のあらゆる約束事をめぐるすべての判断基準に対する無関心に正確に照応している★四。
《アトラス》は無秩序であるにもかかわらず統一されているのではなく、既存のあらゆる写真美学の判断基準を無視した写真生産のモードに忠実に従うことによってはじめて、「アイデンティティの代用物」として機能している、と言うべきなのだ。作品の統一性はリヒターという作者の唯一性に送り返されるのではなく、逆にリヒターという一個人に自己同一性の「代用物」を与えるイメージの集積が《アトラス》と名づけられているのである。この作品はそうしたイメージ生産のモードを提示することを通じて、「代用物」によって完全には埋められることのない喪われた対象の所在を指し示しているのだと言うこともできる。そこで喪われているのは自己の自己たる同一性なのだから、それが何であるかをあらかじめ知ることはできない。すなわち、何かが喪われているのはたしかであっても、何が喪われているのかはわからない。フロイトによれば、このような対象喪失のもたらすものこそメランコリーにほかならない★五。ブクローはベッヒャー夫妻の写真における執拗なモティーフの反復に、戦後ドイツ文化が抱えた「喪の失敗」の反映を認めている★六。正常な喪の失敗ないし「喪の不能性」(ミッチャーリッヒ)★七が戦後ドイツの精神構造を深く規定していたのだとすれば、その文化を支配するものは解消しがたいメランコリーである。もとより、《アトラス》が示す「代用物」生産のメカニズムは戦後ドイツに限ったものではない。逆にそれは、このようなメカニズムのもとに置かれた社会すべてを覆うメランコリー、そしてその「喪の不能性」を浮かび上がらせているのだと述べるべきだろう。ブクローはこうしたパースペクティヴのもとに、リヒターの写真と絵画における「対象喪失」をジャン・ボードリヤールが『象徴交換と死』で展開する、現実という境位の消失をめぐる議論に結びつけることになる★八。
1──ゲルハルト・リヒター《アトラス》
1995年米国における展示より
出典=http://www.diacenter.org/exhibs/
richter/richter.html
2──ゲルハルト・リヒター《アトラス》
1995年米国における展示より
出典=http://www.diacenter.org/exhibs/
richter/richter.html
3──ゲルハルト・リヒター《アトラス》
1995年米国における展示より
出典=http://www.diacenter.org/exhibs/
richter/richter.html
4──ゲルハルト・リヒター《アトラス》
1995年米国における展示より
出典=http://www.diacenter.org/exhibs/
richter/richter.html
5──ベルント/ヒラ・ベッヒャー
《ガスタンク》1992
出典=http://www.arts.monash.edu.au/
visarts/globe/issue6/dp03.jpg
2 網膜的地図制作 終焉ののちに
ところで、リヒターのこの作品は、ではなぜ《アトラス》と名づけられたのだろうか。ドイツ語でアトラスには地図書、図解書といった意味がある。その名の起源は、オランダの地図制作者ゲルハルドゥス・メルカトル編纂による世界地図帳が息子の手によって完成され、『アトラス』という標題で一五九五年に出版されたという史実にある。近代にいたって、地図にとどまらず、さまざまな図版を用いた科学的な図解書がこの名で呼ばれることになるとはいえ、神に逆らった罰として天を支えている巨人ないし初めて地球儀を作成したとされるリビア王の名である「アトラス」は、何よりもまずあくまで「地図」を指す言葉だった。
スヴェトラーナ・アルパースが明らかにしたように、一七世紀のオランダにおいて、地理学的記述(世界をひとつの平面に刻みつける
《アトラス》はこの表層性と柔軟な加算性において地図なのだとは言えないだろうか。もとより、そこで平面上に投影されるのは明確な輪郭をもった大地の形状ではなく、現実とその複製されたイメージが混然一体となった曖昧模糊とした世界である。リヒターが蒐集するのはそんな世界の皮膚であり、彼はこの世界を作り上げている素材にわれわれの視線を向けさせるのだが、だからといってこの表層の下に何かを探し求めるようにし向けているわけではない。未知の大地の探検と測量に似て、リヒターという地図制作者はこの表層しかない世界の平面の上を彷徨いながら、局所的な情報を採集・蓄積し、パネル展示という方法で
では、「視覚はまた絵のごとく」というケプラーの言葉が象徴する、徹底して網膜的な一七世紀オランダの視覚文化における絵画制作/
……その帝国では、地図作製の技術が極度の完成に達していたので、一州だけの地図が一市全体の大きさを占め、帝国の地図が一州全体をおおった。時と共に、この法外な地図ですら満足のゆくものではなくなったから、地図学院は帝国の地図を新たに作り上げた。これは帝国と同じ寸法で、一点一点、実物に照応するものであった。時代が下るにつれて、人びとは地図学研究に対する興味を失い、このだだっ広い地図を無用の長物と考えるようになった。そこで人びとは失敬にもそれを打ち捨て、無情な日や雨にさらした。西部の砂漠に、今は野獣や乞食の仮住居と化しているこの地図の断片がまだ見かけられる。地理学の学統の遺物は、今全国にこれ以外には残っていないのである。
スワレス・ミランダ『賢者の旅』(一六五八)第四巻一四章★一〇
ボードリヤールはこのテクストを大きく読みかえ、縮尺一分の一の地図という帝国のシミュラークルの崩壊が現実の帝国の崩壊をもたらすという、オリジナルに対して先行するコピーの寓意をそこに作り上げている。つまり、帝国の領土が地図に先行するのではなく、地図が領土に先行し、地図こそが領土を生み出す転倒がそこには起きるというわけだ。従って、地図が綻びるときに、帝国も同時に滅びてゆく★一一。
ボルヘスのテクストから外れたところに話の重心が移されていることは明らかだろう。ボードリヤールが強調するのは、縮尺一分の一の地図を極限とする厳密な表象への欲望なのだが、ボルヘスのテクストが記述しているのは逆に、そのような欲望を代表する「地図学」の衰退であり、表象の崩壊である。帝国が写し取られた地図という表象の残骸は廃墟として残されるのみなのだ。
ボードリヤールの寓話それ自体はわかりやすい譬え話である。なるほど、オリジナルとコピーの関係は転倒されている。しかし、二項の写像関係そのものは向きを変えても安定して保たれたままだ(それゆえに彼は「このおとぎ話はわれわれには過去のものだ」と言う)。縮尺一分の一の地図という表象が孕むパラドクスを究極まで展開するとき、このような安定した関係そのものが破綻することになろう。ボルヘスのテクストのパロディとして、ウンベルト・エーコは縮尺一分の一の地図を作製するために必要なさまざまな技術的条件を厳密に考察した挙げ句に、「〈標準地図〉のパラドクス」に行き着いている。すなわち、地図もまた領土の一部をなす以上、帝国全体と完全に一致した地図を構想することは、自己言及のパラドクス(ラッセルのパラドクス)に陥らざるをえないのである。ここから派生する命題としてエーコはテクストの末尾にこう書く。「実寸大のあらゆる帝国地図はそれ自体帝国の終焉を裏付けるものであり、したがって、どこか帝国ではない領土の地図なのである」★一二。これは帝国と地図の間に存在した表象=写像関係そのものの消失を意味することになろう。
縮尺一分の一の地図を実現する可能性の探求が辿り着いたこの結論は、一見したところ、現実の消失とオリジナルなきシミュレーションの支配(シミュレーションの一元論)を語る、ポストモダンなメディア論の紋切り型であるボードリヤールの主張に一致するかのように見える。エーコのパロディは、実物大の地図という完全な表象への欲望の帰結を徹底して追うことによって、ボードリヤールの理論がその一例であるような、メディアによって媒介された表象に投影される社会的幻想の典型を誇張して示すことになったのだと言ってよいかもしれぬ。完全な表象の構成によって現実を消去することがこの欲望の夢なのだ。ただし、それはつねにすでに失われているものを失おうとする身ぶりによる対象喪失の隠蔽にほかならず、その意味でこうした現実消去の欲望は「喪の不能性」ゆえのメランコリーを逃れられない。
ボードリヤールとは異なる視点からボルヘスのテクストを読んでみるとどうなるか。無用の長物と化した実物大の地図はそこで断片になってしまっていた。「地理学の学統の遺物」はそうした断片以外には残っていないと言われているからには、この帝国からは地図そのものがまったくなくなってしまったのだろうか。そしてそもそも地図学が衰退し、地図が必要とされなくなった理由はどこにあるのか。
その答えと思われるものを与えてくれているのはルイス・キャロルである。『シルヴィとブルーノ完結編』に登場する、その名からドイツ人を思わせる「マイン・ヘル(Mein Herr)」はこう語っている。
「そいつは君たちの国からわれわれが学んだもうひとつのことだ」とマイン・ヘルは言った。「地図作りだよ。けれど、われわれは君たちよりももっと先まで進んでいった。実際に役に立つ最も大きな地図ってどのくらいだと思うかい?」
「およそ一マイルにつき六インチ[約一万分の一]といったところでしょうか。」「たった六インチだって!」とマイン・ヘルは叫んだ。「われわれはすぐに一マイルにつき六ヤード[約三百分の一]に達した。そして、一マイルにつき百ヤード[約一八分の一]を試してみた。それから、もっとも偉大なアイディアに辿り着いたんだ! われわれは国土の地図を、一マイルにつき一マイルの縮尺で作ったのだよ!」
「それをよくお使いになりましたか?」と私は尋ねた。
「そいつはまだ拡げられておらん」とマイン・ヘルは言った。「農民たちが反対したんだ。そいつが国土全体を覆い、日光を遮ってしまうだろうとね! それでわれわれは今では国土そのものをそれ自体の地図として使っている。保証するが、結構それで間に合うよ(…後略…)」★一三。
実物大の地図は拡げられることすらなく、無用のものと化してしまっている。しかし、だからといって地図なるものがすべて消滅してしまったわけではない。土地がそれ自体の地図となり、そのことによって、現実と表象がぴったりと重ね合わされたのである。大地はそのとき同時に一枚の実物大の地図となったのだ。それゆえに現実とその表象である地図との間を結びつける写像の技術としての地図学はもはや不要となるのである。ボルヘスのテクストにおいてもまた、西部の砂漠に散在する廃墟のみが縮尺一対一の地図の遺物なのではなく、この地図は現実と密着し、帝国全域の表面そのものになってしまったのではないだろうか。このように地図が全域化することによってはじめて、地図学は消滅してゆくのである。
高橋康也が示唆するように、キャロルのこの挿話はルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における論理の写像形式をめぐる議論の、先取りされたパロディとして読めなくもない★一四。さらに言えば、それ自体の地図としての大地とは、「もの」とその「もの」の像とを一致させようとした、マルセル・デュシャンによるレディ・メイドのパロディでもあるのではないだろうか。デュシャンのレディ・メイドとは、そのもの自体であると同時にその縮尺一分の一の地図(表象)である。大地との限りない一致を求める正確さの追求は決して開かれることのない地図という形で挫折したかに見えて、その最後の段階で、大地そのものがすでに地図でもあるという極限的な重ね合わせを実現するのである。大地はそのときレディ・メイドの地図として再発見されるのだ。
レディ・メイドの地図は網膜的な
「いったいなにになる、メルカトール法の北極とか赤道とか、
やれ回帰線とかなんとか地帯とか子午線とか」
ベルマンがそう叫ぶと、乗組員は答えた。
「それはただそう定まった印じゃないか!
ほかの海図にはこんな形が書いてある、島とか岬とか! でもありがたや、おれたちの勇敢な船長は」(そう乗組員らは断言する)「一番いいのを買ってくれた──
完全無欠のまったくの真白!」★一五。
『スナーク狩り』の初版本にヘンリー・ホリデイが描いた挿し絵では、長方形に枠取られた空白の外側に、北、東、西の文字のみ比較的大きく、それぞれ上、右、左の三辺中央に配置され、そのほかの赤道、北極、南極、緯度、経度、子午線、昼夜平分点、天頂、天底、熱帯といった文字は各辺に沿ってとくに規則性もなく並べられている。画面左下の縮尺を表わす「Scale of Miles」という言葉の上には、一〇個の点が意味ありげにそれぞれの間隔を微妙に変えながら並んでいる。
かろうじて北、東、西の方位だけは
従ってそれは
「完全無欠のまったくの真白」である海図はレディ・メイドの地図としての大地という観念と対をなすような、海そのものとしての海図、現実としての表象にほかなるまい。言葉を換えれば、この空白の表面は現実としての海とその表象のインターフェイスそれ自体だということである。そこを覗き込んだ者が眼にすることになるのは水面という界面に映し出された自分自身の姿ではなかろうか。空白の海図はそのときナルシスを誘い込む罠となるのである。
6──アビ・ヴァールブルク《図像アトラス ムネモシュネ》79番
出典=Charlotte Schoell-Glass, Aby Warburg und der Antisemitismus: Kulturwissenschaft als Geistespolitik,
Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch, 1998.
7──ヤン・フェルメール《絵画芸術の寓意》1464−66?
出典=http://www.kfki.hu/~arthp/art/v/vermeer/03c/25artpa.jpg
8──ヘンリー・ホリデイによるルイス・キャロル『スナーク狩り』(1876)の挿し絵から、海図
出典=Paolo Bianchi und Sabine Folie (Hg.), Atlas Mappinng, Wien: Turia + Kant, 1997.
9──中世の世界地図 Hereford Mappa Mundi(1289頃)、部分
出典=Paolo Bianchi und Sabine Folie (Hg.), Atlas Mappinng, Wien: Turia + Kant, 1997.
3 地図を見るナルシス
言葉を外部へと排除して海図を「鏡」に仕立て上げることは、ナルシシズムへの一種の退行に違いあるまい。
リヒターの《アトラス》において、写真というメディアはこの海図に似たインターフェイスとして機能しているのではないだろうか。そこにナルシシズムがあるとしたら、それは作者であるリヒターのものではなく、カメラが向けられた世界の側のナルシシズムであることになろう。そうだとすれば、
《アトラス》を構成するイメージとは、鏡を覗き込んだ世界というナルシスの肖像なのだと言ってもよかろう。「代用品」でしかないリヒターのアイデンティティが問題なのではない。地図制作者としての作者の痕跡などむしろ消去して、鏡としての地図に世界を映し出すところに、《アトラス》という作品が単なる「
ここで言う世界が「都市的なもの」によって隈無く浸透されてしまった存在であることを仮定すれば、世界のナルシシズムをめぐるこの問いかけは、次のようなユベール・ダミッシュの問いと重なるに違いない。
そこから次のような問いが導かれる。すなわち、無意識にとって、獲物を追って野山を駆けめぐることと都市のうねりや迷宮に捕らわれるままになることとの違いは何かということだ。さらに、都市の表象のみならず、主体の位置に関するあらゆる省察の前置きとなるもう一つの問いがある。都市の中にナルキッソスの物語を構想できるだろうかという問いだ。野山、森、泉の中のナルキッソスと異なる、都会のナルキッソスとは如何なるものなのだろうか。都市住民は、どの様な形態あるいは様態のナルシシズム──それは都市住民が抱く都市像へと影響を及ぼさずにはいないであろう──へと還元されるのであろうか。逆に、都市という環境、その住民、利用者に特有の、本質的にナルシシズム的な構造とは如何なるものか。都市が許容する眼差しとはどの様なものか。より的確な言い方をするなら、都市が導く眼差し、都市が情報を与え、プログラムし、組織する眼差しとはどの様なものなのだろうか。主体が自らに対して向け得る眼差しに留まらず、都市=機械が「主体」を仲介することで自らに向ける眼差しとは★一七。
リヒターの地図にわれわれが読み取った世界のナルシシズムとは、ダミッシュが言う「都市=機械が『主体』を仲介することで自らに向ける眼差し」にほかならない。都市のナルシスを探すことは、都市においてナルシスの姿を映し出す泉は何かと問うことでもあろう。都市の、世界の眼差しをそれ自身へと反射し送り返す仕掛けとしてわれわれは
ただし、そこで考察されたのは技術としての
その
それゆえに、「
註
★一──Benjamin H.D. Buchloh, "Gerhard Richters Atlas: Das Archiv der Anomie", Gerhard Richter, Bd.2. Ostfildern: Cantz, 1993, S.7-17.
★二──Benjamin H.D. Buchloh, "Atlas/Archive", The Optic of Walter Benjamin: de-, dis-, ex-, Volume 3, Alex Coles (ed.), London: Black Dog, 1999, p.14.
★三──Ibid.
★四──Benjamin H.D. Buchloh, "Warburg's Paragon?: The End of Collage and Photomontage in Postwar Europe", Deep Storage: Collecting, Storing, and Archiving in Art, Ingrid Schaffner and Matthias Winzen (eds.), Munich; New York: Prestel, 1998, p.56.
★五──ジークムント・フロイト「悲哀とメランコリー」(『フロイト著作集六』、井村恒郎ほか訳、人文書院、一九七〇)一三九頁参照。
★六──Buchloh, "Warburg's Paragon?", p.57. 参照。
★七──A&M・ミッチャーリッヒ『喪われた悲哀──ファシズムの精神構造』(林峻一郎+馬場謙一訳、河出書房新社、一九八四)参照。
★八──Buchloh, "Atlas/Archive", p.33. 参照。
★九──スヴェトラーナ・アルパース『描写の芸術──一七世紀のオランダ絵画』(幸福輝訳、ありな書房、一九九五)二二六─二二七頁。
★一〇──ホルヘ・ルイス・ボルヘス「汚辱の世界史」(『伝奇集 ラテンアメリカの文学1』篠田一士訳、集英社、一九八四)
三二一頁。
★一一──ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(竹原あき子訳、法政大学出版局、一九八四)一─二頁参照。
★一二──ウンベルト・エーコ「帝国の地図(縮尺一/一)」(『ウンベルト・エーコの文体練習』和田忠彦訳、新潮文庫、二〇〇〇)一九一頁。
★一三──Lewis Carroll, Sylvie and Bruno Concluded (1893), Ch.11.
★一四──高橋康也『ノンセンス大全』(晶文社、一九七七)
三一九頁参照。
★一五──ルイス・キャロル「スナーク狩り」(沢崎順之助訳、『ルイス・キャロル詩集──不思議の国の言葉たち』高橋康也+沢崎順之助訳、筑摩書房、一九七七)二七九─二八〇頁。
★一六──高橋『ノンセンス大全』、一一六頁参照。
★一七──ユベール・ダミッシュ『スカイライン──舞台としての都市』(松岡新一郎訳、青土社、一九九八)四五頁。
★一八──同、四四頁。