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コピー+α | 北川卓+松本淳
Copy Plus | Taku Kitagawa, Jun Matsumoto
掲載『10+1』 No.36 (万博の遠近法, 2004年09月25日発行) pp.30-31

はじめに

今回から連載というかたちでモノやマチ、社会が置かれている現在の状況を通して、プロダクトや建築・都市の今後、デザイナーのあり方を探ってみたい。

ジェネレーションY

昨今、各種企業のマーケティング戦略の中で、ジェネレーションY(Generation Y)への注目が集まってきている。ジェネレーションYというのは、大まかに一九七七年から九七年までに生まれた世代をさし、その前の世代であるジェネレーションX(残念ながら筆者であるわれわれはこの世代に含まれる)やベビーブーマーとは、明らかに異なる思考回路や行動パターンを取ると言われている。その原動力となっているのが、幼少期から慣れ親しんでいるコンピュータ(PC)であり、エンターテインメントの重要な道具としてPCを使用し、それは従来の世代とは比較にならないほど密接に彼らの生活と関わってきている。ジェネレーションYの特徴といえる点を五つ挙げるとすれば、(1)EメールよりはIM(インスタント・メッセージ)、チャットなどを多用し、物事の選択・プロダクトの購入時に不特定多数の口コミ情報を頼りとする世代、(2)直接彼らの意見がプロダクト自体に採り入れられることを好む世代、(3)購入前にプロダクトの価格やスペックの比較を緻密に行なうことのできるオンライン・ショッパー世代、(4)少子化の進行を背景に、ひとりの子どもが父母(二名)と祖父母(四名)の経済的な支援を独占できるようになったいわゆるシックス・ポケット世代、(5)よく言えば流行に敏感、悪く言えば刹那的で移り気な世代であることである。この世代の特徴を頭の片隅に置きながら徒然に話を始めたい。

コピー+α

中国・北京の町中にあるおしゃれなバーの、奥にあるVIPルームには内外の著名人が訪れるらしい。われわれはその部屋を眺めながら手前の席に座って東京と同じ味のするお酒を飲みながら、中国人の友人たちと話をしていた。店に入って少しすると、われわれの背後に何か気配がする。何かと思い振り向いてみるとそこには、お店の雰囲気とは似つかわしくない、黒いタンクトップ姿の中年の男性が立っている。その手には溢れんばかりのCDとDVDをこれでもかと携えていた。おもしろ半分に手にとって眺めながら、それをネタに音楽映画談義に花を咲かせて、一束を見終わった。すると再びわしづかみにされたCDとDVDの束がまた現われた。このやりとりは十数回続いた。価格は一枚一〇元ほど。およそ日本円にして二〇〇円もしないすべてが海賊版である。
これは数カ月前に北京を訪れた際の出来事。一九九八年に訪れて以来だったのでおよそ、六年ぶりということになる。まずはじめにマチの様変わりぶりに驚愕した。いままで新しいものと古いものが場所場所で混在していた北京をずっと心のなかにしまっていたわれわれにとっては、歴史や伝統をまったく感じさせない新しいものに占拠されつつある現実をどう受け止めたらよいのか困惑した。マチを歩けば、どこにも似たような高層ビルが建ち並び、少し郊外に出向けばこれまた同じような集合住宅が建ち並ぶ。衣料品を取り扱う市場に出向けば、そこには同じ形のTシャツが大量にディスプレイされていて、よく見ると胸のエンブレムだけが違っている。アディダス、ナイキ、プーマ……。靴だってバッグだって大量に各種ブランドを取りそろえている。昨晩のバーでの出来事と数年前とはまったく様変わりしたマチの風景、そして市場に並ぶこの偽ブランドの品々……。この北京でのあからさまなコピーの繁茂を目の当たりにして、日本で暮らしているとついつい忘れてしまいがちなのだが、日本人こそ、コピーをすることが得意な民族だと揶揄されることを思い出した。一九九六年に行なわれた「made in Japan 1950─1994」展のカタログにも「日本人は、その地理的条件や天性として備わっている性質に起因して、過去から受け継いできた伝統や信念を犠牲にすることなく、外界からさまざまな物事を学び受容することにかけては歴史的に捉えても非凡な才能を発揮している」と多少皮肉混じりに書かれていた。
ところで、そもそも量産化されること自体、コピー技術の産物であるのだが、+α、つまり既製のプロダクトに何らかのアレンジをユーザーが加えることを助長するようなツール・アプリケーション(携帯電話でいえばストラップであったり、着信メロディであったり、最近ではデジタルカメラの解像度にまで近づいた小型カメラなど)がプロダクトのなかに組み込まれることが日本では驚くほど多い。既製品のラインナップを海外のものと比較してみると一目瞭然だが、既製品そのもののヴァリエーションだけではなく、このユーザーに委ねられたアレンジのヴァリエーションの豊富さこそが注目すべき状況と言える。われわれは短い周期で世に送り出される既製品に対して、トッピング(付加)したりノイズ(ゆがみ)を加えたり、サンプリング(選択)したり、エディット(編集)したりと、何らかの+αをすることによって、個性や自分らしさを表現することにすでに慣れてしまっている。こうした状況はあたかもDJによる音楽のミキシングのようである。コピーにおけるアイデンティティやオリジナリティの危機などはもはや問われることすらなく、ハイブリッド(雑種)の価値を認め、さまざまな要素が絡み合って新しいものが生まれている状況を自然に受け入れている(東京のマチと似た状況)と言えるのである。

住宅情報誌・住宅情報webサイト

書店では安価な住宅情報誌が何冊も毎週のように並び、web上では最寄り駅や価格帯、さまざまな条件を入れると検索できる無料の住宅情報サイトがいくつもある。面白そうな物件はないものかと探してみると、じつに少ないことに気付く。どのプランも似たり寄ったりで、これだけの住宅ストックが都内には溢れながら、なぜこんなに画一化したプランしかないのだろうかと思い、失望してしまう。日本では賃貸物件となると敷金・礼金制度があり、その箱(内部空間を規定している床・壁・天井)自体にアレンジを加えることが難しいが、購買物件となると多少状況が異なっており、街中に多少素人っぽさの残る、デザイナーの介在しない改修物件のカフェが増えてきたのも社会の状況と照らし合わせると頷けてしまう。このように賃貸物件よりも購買物件に可能性が見出せなくもないが、多種多様なプロダクトが短い周期で世に送り出されて、ユーザーが思い思いに何らかのアレンジを加えその状況を楽しんでいる(デザイナーの介在しない)状況、最近のプロダクトが、ユーザーの意見を製品開発の初期段階に取り入れ始めている状況を考え合わせると、住居プランのさまざまなヴァリエーションのストック、あるいは最後まで仕上げないで引き渡し、ユーザーに最後のアレンジを委ねた「スケルトン渡し」が望まれてくるのではないだろうか。都築響一の写真集『Tokyo Style』(一九九七)を、いま改めて見てみると皆同じようなプランのワンルームに住みながら、中では驚くほど多様で、個人的な世界が構築されているのだが、箱そのものには手を付けず、その内部に個人の生活スタイルを投影している姿もじつはもはや一世代前での出来事、時代の断片と言えるのかもしれない。

まとめ

ジェネレーションYは、最大公約数的なアプローチを好まず、独立した個人を尊重し求めつつ、価値観を共有できるコミュニティを大切にしている。この世代はシックス・ポケットという経済的後ろ盾のもと、住居設計あるいは購買の新しい顧客(クライアント)となる日が間近に迫ってきている。彼らのように情報を自由にアウトソーシングできる世代から、建築家を抜きにしたひとり工務店感覚を持った住居のオンライン・ショッパーが出現しても何らおかしくない。そんな彼らは不特定多数のユーザーの口コミ情報を頼りとしながら、価格を見定めて、建材や機器をネットで注文し、自らの趣味・趣向を反映させた空間を創りだしていくことに抵抗がないはずである。このことはわれわれ専門家の職能が脅かされつつあるということであり、デザイナーの早急な意識改革が、いま、問われている気がしてならない。

>北川卓(キタガワタク)

1971年生
フレームデザイン株式会社。建築家。

>松本淳(マツモトジュン)

1974年生
キタガワ+マツモト スタジオ[km2]共同主宰。慶應義塾大学院政策・メディア研究科助手。建築家。

>『10+1』 No.36

特集=万博の遠近法

>都築響一(ツヅキ・キョウイチ)

1956年 -
写真家、編集者。

>TOKYO STYLE

2003年