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アハスウェルスの顔──都市の生命記憶へ | 田中純
Face of Ahasverus: Toward City's Life Memory | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス, 2005年09月発行) pp.2-12

1 無意識都市のダイビング

ジョージ・キューブラーは著書『時のかたち』で、通常では単体と見なされる事物の各構成要素がそれぞれ異なる年代に属している場合がありうることに注意をうながしている。長い年月にわたって建造された建築物などがそれにあたる。キューブラーは、あらゆる事物は異なる「系統年代(systematic age)」にある複数の特性のグループをもつ複合体である、と指摘する★一。ここで言う「系統年代」とは、時間軸の一点として特定される「絶対年代(absolute age)」とは対照的に、かたちの連鎖からなる各シークエンスの持続における相対的な位置として規定される。このようなシークエンスは、芸術作品をはじめとする諸々の事物のかたちが影響関係などによって互いに関連づけられたところに生まれる。

たとえば、一五六〇年に建造された大階段はその[かたちの]集合ではとても新しい形態であろう。というのも、大階段がスペインで、遅れてイタリアで建造され始めたのは、一六世紀初頭よりも早くはないからである。ジョン・ウェッブ(一六一一─七四)による古い家屋に一七六〇年に施された非対称的なゴシック風の改造も同様に、ピクチャレスクな建築的効果の形態集合(form-class)ではとても新しかったが、ウェッブによる中心部分はそれが属するイタリア風形態の集合においては後期のものであった★二。


これは事物を複数のシークエンスの複合体ととらえることである。個々の事物がある時代において個別の系統年代をもっているばかりではなく、その事物それ自体の要素もまた異なる系統年代の束に分解されることがありうるということだ。それが建築物を例として説明されている点にはのちほど立ち返ろう。
キューブラーにとって、歴史家固有の責務とは「時間の多種多様なかたちの発見」である★三。ジークフリート・クラカウアーは、単線的に過去から未来へと流れる「年代記的時間」を前提とした歴史的プロセスの連続性という観念に対する強力な批判として、芸術作品の歴史をめぐるこうしたキューブラー(および彼の師であるアンリ・フォション)の考察を高く評価している。キューブラーの観点からすれば、「同時的な事件はたいてい、本来非同時 的」であることになる★四、とクラカウアーは巧みな言い方をする。これに対して、等質な流れとしての歴史のプロセスというイメージは、諸事件のシークエンスが具体化されるさまざまな複数の時間を包み隠してしまう。
しかし、その一方でクラカウアーは、ヤーコプ・ブルクハルトによるイタリア・ルネサンス研究を吟味したうえで、年代記の意義をあらたに位置づけ直す方向へと向かう。そしてそこで、「諸領域の連鎖の融合の可能性を、ほとんど閉め出している点では、決定的に的をはずれている」とキューブラーを批判する★五。ある「時期」というものは、キューブラーが述べるように、偶然に時間的に一緒にされた個々の部分のモザイクなどではなく、あくまでそれ自身の「容貌」(アーウィン・パノフスキーの言葉)をもつはずである、とクラカウアーは指摘するのである。
等質な年代記的時間を単純に復活させるのでなければ、ここで生じるジレンマにどのような解決を与えることが可能だろうか。ここで再発見された比較的一様な性質を有する時期は、二つの相いれない時間のイメージを体現する、二律背反的なものにならざるをえない。そんな両極性を孕んで二重化した時間のイメージとして、クラカウアーはアハスウェルス、永遠のユダヤ人の容貌を譬えにあげる。

確認するのが非常に難しいこうした事柄についての、唯一の信頼できる証人は、伝説の人物──永遠のユダヤ人、アハスウェルス──であるということが、わたしの心に浮かんだ。事実かれは、さまざまな発展や推移について直接知っているであろう。というのは、かれだけがあらゆる歴史について、生成と消滅のプロセスそれ自体を体験する機会を、求めずして持っていたからである(何とかれは、間違いなく、筆舌に尽し難いほど恐ろしい姿に見えることか! もちろんかれの顔は、年を取ることに苦しめられたはずはない。しかしわたしは、その顔は多くの顔でできていると想像する。そしてそれらの顔の一つ一つが、かれが通り抜けた各時期の一つを反映し、それらの顔のすべてが結合して、つねに新しい型を作り出す。その間かれは、休むことなく、そして無益に、遍歴の途上で、かれを形作ったさまざまな時間のなかから、かれが体現する運命にある一つの時間を、再構成しようと試みる)★六。


しかし、アハスウェルスが、諸々の時期を経めぐった自分の遍歴を振り返って見ることができるのは、自分自身が消え失せる「時間の終わり」直前の仮想的な瞬間でしかなく、時間の中核にある二律背反は解きがたい、とクラカウアーは書く。そんな「終わり」を予示する芸術作品としてマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』があるものの、それは芸術という領域だからこそ成し遂げられたプルーストの個人的な解決であり、さらにまた、現実には歴史に終わりは存在しない★七。
だが、あらゆる歴史を知悉する者ではないにしても、永遠のユダヤ人に似た顔をもつ実在をわたしたちは知っているのではないか。キューブラーが建築物を例として、複数の系統年代のシークエンスを内包させた事物について語ったことを展開すれば、都市こそはアハスウェルスのように、多くの顔をもちながら、それをひとつの容貌に結合させることをやめない複数的な時間の場ではないだろうか。なぜならそれは、通時的な出来事の無数の連鎖を、巨大な規模で物理的に、共時的な空間構造として記録してゆくメディアだからだ。それゆえ都市は、異なるシークエンスをもつ時間のかたちを重ね合わせながら、クラカウアーが最後にいささか過度に神学化してしまったようにも見える時間の二元性を、しごく具体的、感性的に表わしてはいないだろうか。
中沢新一の著書『アースダイバー』は、東京というアハスウェルスに宿る隠されたひとつの顔貌を鮮やかに浮かび上がらせた東京論である。東京の地形は、とくに現在の都心部で、約二〇〇万─一万年前に堆積した洪積層と一万年前─現在に形成された沖積層とが複雑に入り組んでいる。世界的な温暖期で海面水位が上昇した約五〇〇〇年前の縄文海進期に、洪積台地の奥深くまで海水による浸食が起こったためだ。これら二つの地層の分布を通して、縄文時代にこの都市がどんな輪郭をしていたのかが見えてくる。
中沢はそうした発想から作られた地図(「縄文地図」)に縄文時代から弥生時代にかけての集落跡、古い神社の位置、古墳と寺院の場所をマッピングし、現在の市街と照らし合わせながら東京を歩いたという。すると、東京のなかでも開発や進歩といった時間の侵蝕を受けにくい、異なる時間の流れる「無の場所」が★八、縄文時代には海に突き出た岬や半島の突端部であったことが確認できる。そしてそうした場所からは、つねに死の香りが漂ってくる。

東京はけっして均質な空間として、できあがってなどはいない。それはじつに複雑な多様体の構造をしているが、その多様体が奇妙なねじれを見せたり、異様なほどの密度の高さをしめしている地点は、不思議なことに判で押したように、縄文地図においても洪積層と沖積層がせめぎあいを見せる、特異な場所であったことがわかる★九。


岬とは異界に向かって身を乗り出していく場所であり、東京にはそんな場所として、とくに重要な岬が二つあった、と中沢は言う。それが上野と芝の岬である★一〇。とりわけ芝の半島には、縄文時代以来、死者の埋葬にかかわる重要な聖地がつくられてきた。増上寺そばにある前方後円墳を中心とした芝丸山古墳群もその表われである。中沢は、この近くに建造された東京タワーもまた、死霊の王国に向けて立てられた異界へのアンテナであり、橋なのだと書く★一一。
海上から陸地を眺める漁民の目から見れば、それは上田篤が言うところの「海辺聖標」であろう★一二。上田によれば、湿気の多い日本では天文観測もままならず、海図や羅針盤などもたない古代日本人にとって、危険な潮流や暗礁を避けて自分の位置と進むべき方向を知るには、陸上の「ヤマ」をもとにした地文航法によるしかなかった。地文航法とは、陸のうえのランドマークになるものを重ね合わせながら、少しずつ船を進めてゆく航法である。「ヤマ」は、だから、ランドマークになりうるものであれば、岩であれ、樹木であれ、山であれ、何でもよい。現代でも漁師たちは、日ごろ世話になっているこうしたヤマにお参りをして、酒や魚を供える。そこは彼らにとって命綱のような場所であり、聖なる空間だからだ。「海辺聖標」というランドマークは、陸から異界である海へと身を乗り出すための場として死と近い聖地であったばかりではなく、危険な領域である海上から生の世界へ帰還するための目印でもあった。芝丸山古墳群(推定四世紀後半─五世紀初頭建造)はこうした海辺聖標の性格をもつ海岸古墳群(多くは四世紀後半から五世紀後半にかけて建造)に属するものだろう★一三。
中沢の書物に戻ろう。『アースダイバー』という書名は、まだ世界に陸地がなかったころ、動物たちが水中に潜って陸地を造る材料を探すという、アメリカ先住民の創世神話に由来する。その神話では、最後にカイツブリが水底からつかんできた一握りの泥を材料として、陸地がかたちづくられることになる。中沢は「人間の心」という陸地をつくるおおもとの泥を「無意識」と呼ぶ★一四。日本列島の人間たちは、「無意識」という泥をこねあげるようにして、どこか得体の知れないところをもつ社会を作り上げてきた。つまり、それはアースダイバー型の特徴をもっている。自分をカイツブリになぞらえて、もう一度水の底から泥をつかんでこようとする中沢は、東京という都市では、大昔に水中から引き上げられた泥の堆積がそこここに散らばっていることを見出す。この都市はアースダイバー型の「無意識都市」なのだ。

目覚めている意識に「無意識」が侵入してくると、人は夢を見る。アースダイバー型の社会では、夢と現実が自由に行き来できるような回路が、いたるところにつくってあった。時間の系列を無視して、遠い過去と現代が同じ空間に放置されている。スマートさの極限をいくような場所のすぐ裏手に、とてつもなく古い時代に心の底から引き上げられた泥の堆積が残してある。この不徹底でぶかっこうなところが、私たちの暮らすこの社会の魅力なのだ★一五。


最新のモードをそろえた店が立ち並ぶ代官山の裏手に猿楽町の古代遺跡がうずくまっているように、東京に生きる人々の心もまた、さまざまな時間を同時に生きている。
ここで例えばローマでも事情は同じではないか、といった疑問が頭をもたげるかもしれない。ジークムント・フロイト(「文化のなかの不満」)のように、無意識の構造をローマの都市空間になぞらえることもできる─ただし、そこではあらゆる過去の建造物がそのままのかたちで同じ場所を共有しなければならないのだが★一六。しかし、国家成立以前の縄文集落と帝国の「永遠の首都」という大きな違いのほかに、東京という都市の無意識が多くの場合、地形そのものの大規模な変容を示す岬や半島、海岸線といった水陸の境界を通して発見されている点を重視すべきだろう。帝国の記憶を伝える記念碑的な建築物が堆積した都市がローマだとすれば、東京において問題なのは、異界への見えない通路を開く場所をしるしづけている、かすかな痕跡なのである。それはローマ帝国の遺跡群のように堅固な地層をなして積み重なっているのではなく、水陸の境に点在する「泥の堆積」が切れ切れに浮かび上がらせる、波打ち際のか細いラインに過ぎない。その痕跡をたどるときに呼び覚まされるのは、地層を掘り進む考古学者の感覚と言うよりも、陸上と水中、生と死、現実と夢のあいだを行き来する、文字通り「ダイバー」の身体性かもしれない。
中沢はルイ・アラゴンの『パリの農夫』が、東京という都市そのものを主人公とした詩的な作品を紡ぎたいという欲望のきっかけであったことを告白している★一七。ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』が同じ『パリの農夫』から大きく触発されていることは、中沢もそこで言及している通りである。アラゴンの「農夫の目」が発見したパリの魔術的魅惑に満ちた容貌に対して、『アースダイバー』は縄文的な「狩猟採集民の目」によって、不可視的な東京の構造を見抜こうとする。そのとき都市における不可視化されてしまった境界に注目する視点は『パサージュ論』にも通じる。しかし、中沢の作品は、「縄文地図」が示す東京のトポグラフィに基づくことによって、「局所的な地形の変化が発する意味作用の層」を巧みにつなぎ合わせ、東京の「大域的な都市空間の構造」をよりいっそう具体的に浮き彫りにしていると言ってよい★一八。
言うまでもなく、それは『パリの農夫』と同じく「詩的な作品」であって、厳密に実証的なものであることなど意図していない。中沢の「縄文地理学」だけによって、現代の新宿や渋谷、あるいは銀座の様相が例外なく読み解けるわけもない。数千年の歴史を越えて、縄文地図と現在の市街図を重ね合わせるモンタージュこそがその方法であってみれば、その間の江戸幕府による政治・軍事的意図に基づく都市建設や明治期以降の都市計画が言及されないことなど当然である。それらはあくまで都市の「意識」でしかないのだから。
問題なのはこのモンタージュによって、東京のどんな容貌が(再)発見されるかであろう。太古の東京を一挙に再現する地図と細部における現代との照応を紡ぐテクストによって、見慣れた街並みが異化される。それは東京を神話的な空間に変貌させるのだ、と言ってもよい。中沢はそのなかを自転車や徒歩でさまよう、夢見る遊歩者である。そこに期待すべきは、醒めた歴史認識ではなく、ベンヤミンがシュルレアリスムについて語ったような、「世俗的啓示」だろう★一九。それは都市に残された痕跡を通じて、集団の無意識に潜り込むことにほかならない。
陶酔を通じた革命、文学による政治─シュルレアリスムと同じく、『アースダイバー』が向かうのもそこである。東京という都市の太古的な面差しにそんな革命的エネルギーを見出した点で、この書物は「古びたもの」に潜む力を爆発させようとしたシュルレアリスムに確かに近い。ただし、シュルレアリスムがあくまで、近代都市パリがまたたく間に古代の相貌を帯びるという近代性の逆説における「古びたもの」を啓示の契機としたのに対して、アースダイバー中沢新一は文字通りに太古の縄文時代を参照しているという大きな相違がそこにはある。ベンヤミンは『パリの農夫』について、「アラゴンの場合には、印象主義的な要素─それは「神話」と言われる─が残されている」と批判している。

彼の著作[『パリの農夫』]には、明確な形姿を持たない哲学的思考要素がさまざまあるが、それはこの印象主義によるものである。これに対して私の仕事[『パサージュ論』]では、「神話」を歴史空間の中へと解体しきることが問題なのである。それは、過去についての未だ意識化されていない知を呼び覚ますことによってのみ可能となる★二〇。


同じ印象主義は『アースダイバー』についても言えるだろう。中沢の作品は、アラゴンよりもさらにいっそう神話に近い位置にある。そこで強調される古代性が、パリなどと比較した東京という都市そのものの特徴でありうることは確かだろう。しかし、地形変化というトポグラフィックに明確な事実に立脚し、洪積層と沖積層の差異に基づく二項対立によって二元的な図式をあまりに明快に「大域的な都市空間の構造」として打ち出しているために、「縄文都市東京」の神話化がはなはだしいものになっている点は認めなければならない。それは結果的に、現在にまでいたる縄文的心性(ひいては特殊日本的な心性)のきわめて強固な歴史的連続性を主張することになってしまう。
キューブラーによれば、ある事物連鎖は、いったん後継を失い中断されたのち、時間的には遠く隔たった出来事によって引き継がれてゆくことがある★二一。クラカウアーもまた「本質的な影響は、暗黒のなかに沈んで、戻って行くように予定されているらしい」と言う★二二。そしてそのとき、あらたな継承者の出現によって、過去もまた刷新される。「東京の縄文人」中沢新一は、縄文時代の貝塚や埋葬地が開始し、古墳群が継承したシークエンスを、のちには増上寺、現代では東京タワーが機能的に受け継いでいることを見出した。それらをひとつのシークエンスととらえたときには、東京タワーが一挙に異界へのアンテナに変貌すると同時に、縄文時代における岬の埋葬地がもつ意味も変容するに違いない。
おそらく、われわれ読者に求められるのは、この作品が孕む潜勢力を十分感じとったうえで、その「神話」を最終的には「歴史空間のなかへと解体」することなのである。ただし、それが歴史に関する年代記的な知によってなされうるものでないことは、ベンヤミンからの引用の最後の一節が示す通りである。それゆえ、『アースダイバー』はなるほど詩的なテクストではあるものの、それを「ファンタジー、あるいはポエジーでしかない」などと言うべきではない。問題となるのは、まさにこのファンタスティックで詩的な神話のただなかで働いている「野生の思考」に潜む、「未だ意識化されていない知」なのだから。それを神話の次元にとどまらせるのではなく、過去を刷新するシークエンスを発見するための、あらたな歴史的思考の手がかりとしなければならない。

1──中沢新一『アースダイバー』より 「TOKYO EARTH DIVING MAP」(部分) 引用出典=『アースダイバー』(講談社、2005)

1──中沢新一『アースダイバー』より
「TOKYO EARTH DIVING MAP」(部分)
引用出典=『アースダイバー』(講談社、2005)

2──同、東京タワー周辺の詳細図(部分)。 白い部分が洪積層 引用出典=『アースダイバー』(講談社、2005)

2──同、東京タワー周辺の詳細図(部分)。
白い部分が洪積層
引用出典=『アースダイバー』(講談社、2005)

2 ヒルコ、クエビコ、タニグクたちの夢

中沢が大胆に行なったような、神話と歴史のエッジを探る冒険的な思考を試みるために、ここでは東京に残された局所的な事例の細部から出発して、神話的論理の系譜をたどっておきたい。その思考形態のシークエンスは特異な「時のかたち」の思想にいたることになるだろう。そのための手がかりとして取り上げるのは、蛙である。
一九八〇年代に荒俣宏の『帝都物語』によって広く知られることになった東京の史跡に平将門の首塚がある。所在は千代田区大手町一丁目。このあたりはかつて芝崎(柴崎)村と呼ばれ、一遍上人を開祖とする時宗の第二代真教上人が徳治二年(一三〇七)に将門の霊を回向した塚があった。真教上人は延慶二年(一三〇九)に旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたうえ、近くの日輪寺を「神田山日輪寺」と改名、両社ともに将門の霊を祀るところとしたという(江戸時代初期に神田明神は神田駿河台、日輪寺は西浅草の現在地へ移転)。寛文年間(一六六一─七二)には酒井雅楽頭忠清の上屋敷中庭であり、伊達騒動で知られる原田甲斐が殺害された場所であった。明治時代に入って大蔵省の敷地となり、関東大震災による庁舎焼失ののち、塚を壊して仮庁舎を建造しようとしたところ、関係者に死者や怪我人が続出してとりやめになったなどという、将門の「祟り」をめぐる伝説は人口に膾炙している。
現在の首塚を訪れると、石碑や石灯籠の周りに真新しい石造や焼き物の蛙や蝦蟇がいくつも配置されていることに気づく。ここに蛙の像が寄進されている理由としては、参拝した者が無事に「帰る」などといった語呂合わせ以外に、将門の娘である滝夜叉姫が蝦蟇の妖術を使うという説話にちなんだものとされている★二三。例えば、天保七年(一八三六)初演の歌舞伎舞踊劇「忍 夜 恋 曲 者しのびよるこいはくせもの」(通称「将門」)では、滝夜叉姫が島原の傾 城 如 月けいせいきさらぎに姿を変えて現われ、将門の余類詮議のために忍び込んだ大宅太郎光圀おおやのたろうみつくにを色仕掛けで味方に引き入れようとするものの、光圀に見破られ、妖術を使って大立回りになる。屋台崩しの大仕掛けののち、滝夜叉姫が大蝦蟇にまたがり、御所の屋根のうえに現われて、光圀を睨みつけ、幕切れとなる。
「忍夜恋曲者」はもともと山東京伝の読本『善知鳥安方うとうやすかた忠義伝』を脚色した『世善鳥相馬旧殿よにうとうそうまのふるごしょ』の大詰の部だけが残ったものである。山東京伝は蝦蟇の妖術を好んで趣向のひとつとして取り入れており、この作品もそこに連なる。「児雷也」をはじめとして、歌舞伎に蝦蟇の妖術が現われることも珍しくはない。
だが、たとえ蛙の置物が置かれたそもそものきっかけが何であれ、将門首塚あるいは将門伝説と蛙の結びつきは別の背景を想像させる。首塚の位置する場所の来歴がそれを示唆する。中沢にならってここの地形を過去へと遡行してみれば、江戸開府後の慶長一二年(一六〇七)頃に日比谷入り江が埋め立てられるまで、この首塚のあたりは入り江の最も奥まった場所に位置していたことが確認できる。そこは水陸のきわだったのである。そうした消息は「芝崎村」というかつての地名からもうかがえる。そもそも京から首が飛んできたなどという将門伝説に根拠など求める由もない以上、この地が塚の所在に選ばれた次第は、そこが古くから何らかのかたちで有徴化された場所だったことを暗示する。
とまれ、首塚もまた江戸初期までは一種の海辺の聖地だったに違いない。水陸が接するこの界隈の記憶は、水中と陸上を行き来する蛙や蝦蟇のイメージに結びつく。将門のような畏るべき荒ぶる英雄の旧跡に蛙が関連づけられることによって、この地に湿地帯のイメージが喚起される。ほとんどキッチュに戯画化されたものばかりの蛙の置物がかすかに喚起するのは、怨霊という名の生きつづける死者をめぐる想像力による連想作用である。
誤解のないように述べるが、ここでは蛙の置物たちの事実としての由来を探ろうとしているわけではない(そもそもそれらはごく新しいものに過ぎない)。そうではなく、意識された意図がどんなものであれ、この都市の守護霊にして怨霊とも観念された魂が眠る聖地に、ほかの何ものでもない蛙という生物が結びつけられていることの、「無意識」における意味を問おうとしているのである。この蛙たちに中沢の言う「泥の堆積」のような過去の名残り(そのアナクロニックな再出現)を見ているのだ。
それゆえここでは、蛙のイメージからどのような神話的想像力の世界が展開されうるかを確認しておきたい。それはわれわれの想像力の深層で蛙がいかなる観念群の連想ネットワークのなかに置かれているかをたどることである。そのとき問題になるのは「無意識」なのだから、蛙が『古今集』の序から松尾芭蕉の句にいたるまで、日本の文学でことさらに好まれた動物であったことなどをめぐる歴史的な回顧はあえて省略し、一挙に『万葉集』や『古事記』の時代へ、そしてそれ以前へと遡行しよう。
『万葉集』には、ヒキガエル(ガマガエル)を意味する「たにぐく(谷蟆)」という言葉が二度登場している。そのうちのひとつは、神亀五年(七二八)に山上憶良が歌った歌のなかに見える次のような一節である。

この照らす 日月ひつきしたは、天雲あまくもの、向伏むかぶきはみ たにぐくの さ渡る極み 聞こしす 国のまほらぞ……(巻五─八〇〇)

[地上を照らしている日と月との下は、空の雲が棚引く果てまで、またヒキガエルが這って行く地の果てまで、天子様の治め給う秀れた国であるぞ……]★二四


もうひとつは、天平四(七三二)年、高橋連虫麻呂が作った次のようなはなむけの歌の一節である。

山彦の 応へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国状くにかたを したまひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね……(巻六─九七一)

[山彦の答える限りの地、ヒキガエルが這って行く限りの地までも、国の有様を御覧になって、(冬ごもり)春になったら、飛ぶ鳥のように早くお帰り下さい……]


ここで問題になるのは「たにぐくのさ渡る極み」だが、これは「祈年としごひの祭」の祝詞や『高橋氏文』に出てくる慣用句である。祝詞は次のように言上される。

皇神すめがみの敷きます島の八十島やそしまは 谷蟆のさ渡る極み 鹽床しほなわの留まる限り き國は博く さがしき國は平らけく 島の八十島堕つる事なく……★二五

[皇神が支配する多数の島々は、ヒキガエルが渡って行く果てまで、海水の泡のとどまる果てまで、狭い国は広く、けわしい国は平らかに、多数の島々が残らず……]


「たにぐくのさ渡る極み」はここで天皇の支配する国土の限界を意味している。だが、なぜヒキガエルの這っていった果てが地の果てと同義になるのか。中西進はこの疑問に答えるために、『古事記』に登場する「たにぐく」に目を転じる★二六。それは大国主神のもとをガガイモの船に乗った小さな神が訪れるくだりである。大国主神はその神に名を尋ねるが答えない。ほかの神々に問うても、みな知らないと言う。

爾に多邇具久白言た に ぐ く ま をしつらく、「ぞ必ず知りつらむ。」とまをしつれば、即ち久延毘古を召して問はす時に、「此は神産巣日かむむすひの神の御子、少名毘古那すくなびこなの神ぞ。」と答え白しき★二七

[そのときヒキガエルが申すには、「これはクエビコがきっと知っているでしょう」と申したので、すぐさまクエビコを呼んでお尋ねになると、「この神はカムムスヒノ神の子供で、スクナビコナノ神ですよ」とお答え申し上げた]


スクナビコナノ神はあまりに小さいので、カムムスヒノ神の指の間から漏れて落ちてしまった子であった。カムムスヒノ神は我が子に、大国主神と兄弟になって、その国を作り固めよと命じる。そこでスクナビコナノとオホナムヂ(スクナビコナと対をなす神)の二柱の神々が協力して国を作り固めた。そののち、スクナビコナノ神は海の彼方の常世国へと渡っていった。
『古事記』によれば、「クエビコ」とは今「山田の曾富騰そほど」といい、「此の神は、足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」という★二八。「そほど」は、のちの平安時代には「そほづ」と称し、案山子を指すものとされる。
ただし、中西は案山子はあくまで、山にまで田を耕作する時代になってからのクエビコのひとつのかたちに過ぎず、本来それはもっと別のものだったろうと言う。「クエ」とは足の「くえ」たることを意味し、クエビコとは不具の足をもった彦(日子)という、座せる知恵者である。その仲間が地の果てまで這ってゆくヒキガエルなのである。中西はここからこう推論する。

この組合せとは、少しややこしいが、次のような具合ではなかったろうか。クエ彦とは、ヒキガエルを支配している知の働きに、かりに形を与えたもの。だからクエ彦に固有の形はなくて、ヒキガエルを通して観相されるような存在だったのではないか。したがって、ヒキガエルそのものも、ある意味では足クエの者であった。ついに地上から立ち上がれないもの、しばしば蛇などが認められるのと同じような認められ方をヒキガエルもされていたのではないか。あの姿は、足クエの姿であった。しかしヒキガエルはなまじ地上から立ち上がれないばっかりに、大地を永却にはいずり廻るがゆえに、大地とはたち切りがたく密着している。およそ地上に関する限り、彼は到らぬ隈なく、すべてを知悉していると考えられた。この働きの方にだけ名を与えて、別存在の形を称すると、これがクエ彦であった★二九。


足クエの神の神話は古事記の初めにもある。イザナギ、イザナミの二神が最初に産んだ子は「水蛭子ひるこ」、つまり、手足の萎えた不具の子であった。次に生まれた淡島とともに子の数に入れてもらえないこの子は、葦船に乗せて、海上に流され棄てられてしまう。『日本書紀』では「蛭児ひるこ」は「年三歳みとせりぬれども、脚なおし立たず」とある★三〇。
ヒルコと対になると思われるヒルメという女神が、「日女」、すなわち太陽の女神であるところから、ヒルコは「日子」であるという見解もある。中西は、古代人は言葉の多義性のなかに生きていたのだから、ヒルコは日子でもあり蛭子でもありうるのであって、さらに、足の立たない蛭のような子が、その異形ゆえに神として畏れられたのだと推測する。そして、往々にして、異形の者は畏れられる存在だからこそ、疎まれて追放される。そうだとすれば、クエビコあるいは足クエのヒキガエルにも同様の性格が想定される。

谷蟆がその足クエのゆえに地上の極みまではいずり廻り、渡りつづけなければならないのは、どうやら異形者の、はてることのない流離・漂泊を示しているらしい。そして、流される蛭子が同時に日子であるように、さ渡りつづける谷蟆は同時にクエ彦という、天下のことをことごとく知っている神であった★三一。


さて一方、縄文中期の土器群には、蛙や半人半蛙の図像がおびただしく登場する★三二。時期的に対応する中国新石器文化の図像にも同様のモチーフが確認できる。その流れを引くと思われるのが、兎とともに月のなかにいると考えられた、蟾蜍せんじょと呼ばれるヒキガエルをめぐる中国の神話である。それによれば、蟾蜍は月の陰気を、兎は陽気を示すという。
山梨県須玉町出土の縄文土器には、蛙の背中がぱっくりと割れて、そこから人面が出現しているように見えるものがある。これは新生児誕生の光景と考えられる。蛙の胴にあたる部分が女陰を表わす例はほかにも多い。こうした図像は古代の日本や中国に限られたものではない。マリヤ・ギンブタスによれば、南東ヨーロッパの古ヨーロッパ文明で生命や再生の女神はしばしばヒキガエルの姿で表わされた。クレタ宮殿から出土したアンフォラには、子宮のシンボルとともにヒキガエルの描かれたものがある。オーストリア低地地方の墓からは、紀元前一一〇〇年頃の「ヒキガエルの貴婦人」と呼ばれるテラコッタ像が発見されている。この像は人面と女の胸をもっているが、ほぼ写実的なヒキガエルの姿をしており、下半身では女性の陰部を露わにしている★三三。
ヒキガエル像を聖母マリアへの捧げ物として教会に奉納する風習は今日でも残されており、そうした像には人間の頭部をもつものや陰門の刻印が見えるものなどがあるという。恐らく、これらのヒキガエル像はもともと安産祈願のものだったと思われる。分娩をうながすために妊婦がヒキガエルの肉を食べるという風習もあり、あるいはまた、ヒキガエルの血は媚薬であった★三四。
バーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』によれば、カエルはエジプトの女神ヘケト(ヘキト、ヘカト)のトーテムであり、胎児のシンボルだったという。ヘケトは毎朝、太陽神を産む「天界の産婆」だった。ギリシア神話における、天界・地上・冥界を支配する三相一体の女神ヘカテの名はこのヘケトに由来すると言われる。ヨーロッパ中世初期にヘカテは「霊界の女王」または「魔女たちの女王」とされたが、この女神が庇護するのも産婆たちだった。そして、ヘカテに捧げられた動物はやはりカエルだった。また、古代ローマでカエルはヴィーナスに捧げられていたが、ヘカテとはヴ ィーナスの一面でもあったという。さらに、ヴィーナスの三部からなる女陰は三匹のカエルからなる三枚の花弁の百合によって示されることがあったとされている★三五。
ギンブタスが述べているところによると、いまだにヨーロッパの農村には、子宮が女性の身体のなかを動き回るという俗信が生きている。これと似た信仰はギリシア・ローマ時代にもあり、ヒポクラテスやプラトン、アリストテレスも、子宮を女性の下半身を動き回る動物に譬えているという。その動物は女体のなかで居心地が悪くなると、上の方に昇って息を止めようとしたり、急に驚かしたりと、いろいろな悪戯をすると考えられた。こうした信仰はエジプトにも存在した★三六。
女性の身体内部を動き回るこの動物はヒキガエルと考えられていたらしい。また、子宮に忍び込む胎児もまたヒキガエルと見なされていた。ギンブタスはここで大胆な想像を行なっている。

新石器時代、いや後期旧石器時代でも、人は受胎後二、三か月の胎児がどのような姿をしたものであるか知っていたに違いない。背丈は三・五センチぐらい。大きな頭、黒い斑点のような眼、まだ鼻になりきらない二つの孔、耳になるための二つの窪み、口になる細長い裂け目、そして短い手足。このような格好をした生き物といえば、すぐにヒキガエルが連想されよう!  これと同じ発想はおそらく一万年前の人々にもあった。そしてその信仰は現代に至っても完全に消滅することなく生き残っている★三七。


胎児としてのヒキガエル、あるいは、ヒキガエルと見なされた胎児─それはあのヒルコを連想させる。ヒルコはまさしく失敗した交接・出産によって生まれた子だった。ヒキガエルやヒルコのイメージに託されていたのは、まだヒトとしてのかたちをなさないヒトの姿だったのだろうか。ヒルコ、クエビコ、タニグクとは、月満ちる以前に母のからだを離れてしまった胎児の、さまざまな段階の呼び名であるのかもしれない。
流産児にヒキガエルのかたちを見た新石器時代人のこのまなざしは、解剖学者三木成夫のそれを思わせる。三木によれば、ヒトの胎児は受胎一カ月後の数日間に、古生代に起こった魚類から両棲類、爬虫類、そして哺乳類にいたる海から陸への「上陸誌」を、ひとつの「象徴劇」として自ら演じて見せているという★三八。受胎三二日目の胎児の顔には古代魚類の、三四日には両棲類の、三六日には原始爬虫類の、三八日には原始哺乳類の「おもかげ」が宿り始める★三九。三木は胎児に宿るこうしたさまざまな類の「おもかげ」を「古代形象」と呼ぶ。
胎児が演じる象徴劇の真髄は顔の正面像に秘められている、と三木は言う★四〇。しかし、胸に顔面を埋めた勾玉のような姿勢ではそれが見えない。胎児の顔を真正面から見るためには標本の首を切り落とさなければならない。ここで三木を突き動かしているのは科学的実証の精神であり、胎児の姿をあたう限り正確に観察したいという欲望である。首を切断することへの拒否反応と逡巡のなかでの自問自答が続く。

そんなある朝、深い木立におおわれた窓辺で、ふと手をのばして、三二日の標本瓶を静かに光にかざしたのである。嵐のような蝉しぐれが耳を打つ。半透明の珠玉のからだが液体のなかで小さく揺れる。蓋をとって、きれいに洗ったシャーレのフォルマリン溶液のなかに、そっと中身を移す。切断は、いともやすやすとおこなわれた。
グラッと傾き、やがて液のなかをゆらゆらと落ちていく、そのゴマ粒の頭部……。わたくしは、しかしその一瞬、顔面が僅かにこちらに向いたのを見逃すはずはなかった。フカだ!  思わず息をのむ。やっぱりフカだ……★四一。


そこに狂気に近いものがあったことを三木自身が認めている、けれど、「ほとんど狂気に近い実証の精神が妖しい光を放っているその奥深くで『生命記憶』の太古の世界を目ざす〝遡行本能〟が滔々と渦を巻く」★四二。「実証の刃が一閃した」のは、この「本能」の命によるのであろう、と三木は書く。
神秘のヴェールで覆われた人類永遠の謎であるべきだったかもしれない羊水内の胎児の世界─それを「遡行本能」に命ぜられるがままに目にしてしまった三木は、ほとんど想像を絶するほどの歳月が塗り込められた胎児の顔に魅せられて、地球誌的な生命記憶の神話とも呼ぶべき思想をかたちづくってゆくことになる。「象徴劇」とはその神話性をおのずから語る言葉だ。それはヒキガエルという生物のイメージのまわりに胎児、生(そして死、なぜなら誕生以前と死後の世界は連続するから)、再生、畸形★四三といった観念を張りめぐらせた、古代人の神話的思考からけっして遠くはない。
個体発生において反復される系統発生を、三木は胎児の劇として、とりわけその顔貌の変容として描きだす。例えば受胎四〇日後、胎児の顔貌には爬虫類と哺乳類に人類のおもかげが加わり、それらが互いに奇妙なバランスをとりながら、ぎりぎりのかたちで同居している★四四。その何億年もの進化史を圧縮した顔つきは、自分が通り抜けた時期のひとつひとつを反映する多くの顔のすべてが結合して成り立っているというアハスウェルスのそれを思わせないか。このさまよいびとに似て胎児は一人ひとりみな、おのれをかたちづくるさまざまな時間から、自分が体現する運命にあるたったひとつの時間を構成しようと懸命に試みているのである。
そんな胎児の顔に読み取られたものは生命史的な「時のかたち」であると言ってよかろう。三木の言う「おもかげ」あるいは「古代形象」とはゲーテ自然学における「原型」である。パノフスキーやクラカウアーがある時期(例えばイタリア・ルネサンス時代)の「容貌」と呼んだものも、さまざまな変異・変容の可能性を潜在させながら、ひとつのまとまりを見せる時代の原型的な「おもかげ」であるに違いない。羊水のなかの胎児というアハスウェルスは、誕生というひとつの時間(歴史)の終わり、夢(夢野久作『ドグラ・マグラ』の「胎児の夢」)の終わりをもつからこそ、その顔貌に多種多様な原型を同居させることを許されているのであろう。
ここで行なおうとしてきたのは、細部からたぐり寄せられるイメージと観念の追跡によって、東京をいったん無意識的な夢の層の深みに沈めることだった。そのとき、都心のビルの狭間には古代湿原がよみがえり、ヒルコ、クエビコ、タニグクといった古代神話における足クエの眷属たちが蝟集してくる。そして、彼らの姿を通して、羊水のなかで胎児の見る夢とその生命記憶のかたちが浮かび上がる。われわれが最後に目にすることになったのは、地上で最も年老いたヒトにほかならない夢見る胎児の顔であった。
この夢の都市からもう一度歴史へと目覚めること、神話を「歴史空間のなかへと解体」することが必要なのは言うまでもない。しかし、そのように目覚めるためにも、まずは深く夢見なければならない。そしてそのとき、個体発生と系統発生に二重化された生命の「時のかたち」を探究した三木成夫の生命形態学は、ベンヤミンの言う「過去についての未だ意識化されていない知」のモデルになりうるかもしれない★四五。都市というアハスウ ェルスの変容してやまない顔に宿る無数の「おもかげ」を読み取る術もまた究極的には、「生命記憶」の太古の世界を目ざした、渦を巻く「遡行本能」に根ざしているに違いないのだから。

3──平将門の首塚 2004年、筆者撮影

3──平将門の首塚
2004年、筆者撮影


4──子宮のシンボルとヒキガエルを描いたアンフォラ。 クレタ島南部。ファイストスの第1宮殿出土。中期ミノアI期 引用出典=マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(言叢社、1989)

4──子宮のシンボルとヒキガエルを描いたアンフォラ。
クレタ島南部。ファイストスの第1宮殿出土。中期ミノアI期
引用出典=マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(言叢社、1989)

5──「ヒキガエルの貴婦人」。 オーストリア低地地方、青銅器時代の墓所より出土 引用出典=マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(言叢社、1989)

5──「ヒキガエルの貴婦人」。
オーストリア低地地方、青銅器時代の墓所より出土
引用出典=マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(言叢社、1989)


6──受胎36日の胎児 引用出典=三木成夫『胎児の世界──人類の生命記憶』(中公新書、1983)

6──受胎36日の胎児
引用出典=三木成夫『胎児の世界──人類の生命記憶』(中公新書、1983)

7──受胎40日の胎児の顔(郷津晴彦画) 引用出典=三木成夫『胎児の世界──人類の生命記憶』(中公新書、1983)

7──受胎40日の胎児の顔(郷津晴彦画)
引用出典=三木成夫『胎児の世界──人類の生命記憶』(中公新書、1983)

 

★一──George Kubler: The Shape of Time. Remarks on the History of Things. New Haven and London: Yale University Press, 1962, pp.98-99. 参照。
★二──Ibid.
★三──Ibid., p.12.
★四──ジークフリート・クラカウアー『歴史──永遠のユダヤ人の鏡像』(平井正訳、せりか書房、一九七七)一九九頁。
★五──同、二〇三頁。
★六──同、二〇八─二〇九頁。
★七──同、二一五─二一六頁参照。
★八──中沢新一『アースダイバー』(講談社、二〇〇五)一四頁。
★九──同、一五頁。
★一〇──同、二〇五頁参照。
★一一──同、八三─九九頁参照。
★一二──上田篤『日本の都市は海からつくられた──海辺聖標の考察』(中公新書、一九九六)二─三六頁参照。
★一三──同、八二─八七頁参照。
★一四──中沢、前掲書、一一─一三頁参照。
★一五──同、一二─一三頁。
★一六──拙著『都市表象分析I』(INAX出版、二〇〇〇)二七 九─二八〇頁参照。
★一七──中沢、前掲書、二四一頁参照。
★一八──同、二四三頁参照。
★一九──ヴァルター・ベンヤミン「シュルレアリスム」(『ベンヤミン・コレクション1  近代の意味』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九五、四九七頁)。
★二〇──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論  第三巻』(今村仁司+三島憲一ほか訳、岩波現代文庫、二〇〇三)一七四頁、断片番号[N1,9]。
★二一──Kubler, op.cit., p.35; pp.106-109. 参照。
★二二──クラカウアー、前掲書、二〇八頁。
★二三──そのほか、平将門の所領があり、討たれた土地でもある茨城県の観光宣伝のために、筑波山の蝦蟇(ニホンヒキガエル)を置き物にしたという説や、蛇に見立てられた将門を封じるため、いわゆる「三すくみ」をなすよう、蛙とナメクジ(梵字の幟によって表わされるという)を配したなどという説まである。ちなみに三すくみの無力な動物たちはいずれも足がないか(蛇とナメクジ)、のちほど見るように古代には足萎えの眷属と見なされており(蛙)、地上をはいずり回るしかない生き物ばかりである。
★二四──以下、万葉集の口語訳は佐竹昭広ほか校注『新日本古典文学大系  萬葉集 一』(岩波書店、一九九九年)および同『萬葉集  二』(岩波書店、二〇〇〇)による。
★二五──倉野憲司・武田祐吉校注『日本古典文学大系  古事記  祝詞』(岩波書店、一九八四)三九一頁。なお、以下の『祝詞』、『古事記』、『日本書紀』の口語訳はいずれも拙訳である。
★二六──中西進『谷蟆考──古代人と自然』(小沢書店、一九八二)一一頁参照。
★二七──『日本古典文学大系  古事記  祝詞』一〇七頁および一〇 九頁。
★二八──同、一〇九頁。
★二九──中西、前掲書、一二頁。
★三〇──坂本太郎ほか校注『日本古典文学大系  日本書紀  上』(岩波書店、一九八四)八八頁。
★三一──中西、前掲書、一六頁。
★三二──これらの土器群をめぐっては、拙論「心の考古学へ向けて──都市的無意識のトポロジー」(『10+1』No.35、INAX出版、二〇〇四、七─一〇頁)でやや詳しく取り上げた。
★三三──マリヤ・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』(鶴岡真弓訳、言叢社、一九九八)一七二─一七五頁参照。
★三四──同、一七六─一七七頁参照。
★三五──バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典──失われた女神たちの復権』(山下主一郎ほか訳、大修館書店、一九八八)二六一頁、「Frog カエル」の項目参照。
★三六──ギンブタス、前掲書、一七七頁参照。
★三七──同、一七七頁および一七九頁。
★三八──「象徴劇」という言葉を三木はしばしば用いるが、例え
ば、三木成夫『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院、一九九二)一〇一頁参照。
★三九──三木成夫『胎児の世界──人類の生命記憶』(中公新書、一九八三)一〇七─一一四頁参照。
★四〇──同、一〇四頁参照。
★四一──同、一〇六頁。
★四二──同、二二三頁。
★四三──三木によれば、畸形の子たちは個体発生過程における「上陸誌」に逆らっているのだと言う。「これに対し奇型児の多くは、そのからだの一部をはって、上陸ならぬ降海の見果てぬ夢をなぞりながら、その奇なる発生をとげ終えたかのごとくである。」(『海・呼吸・古代形象』一〇一頁)畸形とはからだの構造に表われた、海へと回帰する最中の古代形象にほかならない。こうした指摘を受けて種村季弘は、海とのつながりを断ち切りがたいと感じる胎児の「海への郷愁」あるいは「生命的遡行本能」の呼びかけが畸形を生むと言い換える。
「そういえばヘパイストスをはじめとして畸形者はいつも海の傍にいた。そして陸生のわたしたちにそれまでの日常に知られていなかった「奇なるもの」という発明や新しい美を贈与してくれた。畸形は進化のさまざまの可能性のうちの実現されないまま余白にとどまっていた形象であって、三木のような観点に立ってみれば、忌むべきものであるどころか、太古の海からの、また海への、呼びかけにほかならないのだ」(種村季弘『畸形の神──あるいは魔術的跛者』青土社、二〇〇四、二六三頁)。
★四四──三木『胎児の世界』一一七頁参照。
★四五──三木とゲーテ形態学との関係については拙稿「ヒトの「おもかげ」──ヘッケル『人類の発生』と《泰治君の夢》」(『UP』二〇〇五年九月号、東京大学出版会、二〇〇五所収予定)で短くまとめている。なお、拙論「「時のかたち」の形態学──進化生物学と美術史の対話へ向けて」(『d/SIGN』一一号、太田出版、二〇〇五所収予定)では、キューブラーの『時のかたち』が美術史からの生物学的隠喩の排除を唱えながら、実は生物学的隠喩を多く用いている点を検討したうえで、人工物が形成する「時のかたち」とその変容を記述・分析するモデルを進化生物学の形態学的方法に求める可能性を示唆した。

本論の一部が拙稿「中沢新一『アースダイバー』書評」(『文學界』一〇月号、文藝春秋、二〇〇五所収予定)と部分的に重複していることをお断わりしておく。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

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特集=神経系都市論 身体・都市・クライシス

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ドイツの文芸評論家。思想家。

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1976年3月1日